第13回 株式会社サイバード 堀 主知ロバート

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第13回
株式会社サイバード 代表取締役会長 兼 社長
堀 主知ロバート Kazutomo Robert Hori

1965年、米国ワシントンDCに生まれる。4歳で日本に帰国。89年、関西学院大学法学部卒業。同年、英国ロンドンに留学し、マーケティングと福祉ビジネスを学ぶ。その後、いくつかのプロジェクトを立ち上げるなどして、94年、(株)パラダイスウェブを設立。インターネット会員制ポータルサイトの運営をスタート。その後、98年、(株)サイバードを設立し、モバイルインターネットビジネスに参入。携帯電話の爆発的な普及を背景に、豊富なコンテンツ供給で急激に成長を遂げ、2000年12月、ジャスダック市場に上場。現在、コンテンツ供給だけにとどまらず、数多くのソリューションサービスを開発し、モバイルインターネット業界の旗手として各界から注目されている。02年、米国『TIME』誌において「世界のビジネスに影響を与えた15人」に、『Business Week』誌アジア版では「The Star Of Asia25」に選ばれた。また、05年には世界経済フォーラムより「若き国際的指導者」に選出された。

ライフスタイル

好きな食べ物

白いご飯。お米です。 
白いご飯。お米です。あと梅干。自分が死ぬ前に、「一番何を食べたい?」って聞かれたら、迷わずこう答えるでしょうね。お酒を飲むのも好きなのですが、最近の夜は仕事関係者との会食が多いので、友だちと飲みに行く機会が減ったのが少し寂しいかな。

ファミリー

土日は子供を連れて荒川へ 
妻と4歳の男の子。土日はできるだけ休むようにしていまして、やっぱり子どもを連れて荒川へ(笑)。子どもも広い川原で自転車乗ったり、スケボーやった り、喜んでます。その後のバーベキューも楽しいんですよ。ただ、妻からは「また荒川~」ってよく愚痴られていますが……(苦笑)。

趣味

一番はウェイクボード。
一番はウェイクボード。10年ちょっと前から初めて、今でも週末は荒川でやっています。年に2、3回は競技にも参加しますしね。経営者の仕事ってかなりス トレスフルですから、例えば家でボーっとしてるくらいじゃそのストレスは解消できないんです。だからガンガン体を使って、リスクも隣り合わせのこのハード なスポーツが大好なんです。あとはクラッシックカーレース。20代ではまって、30代は封印してたんですが、40歳になったのを機に再開しました。こちら も年に何回かレース参戦しています。

もしも一週間休みがとれたら

南極とか北極とか行ってみたいですね。
南極とか北極とか行ってみたいですね。そうそう、最近商用でユーラシア大陸上空を飛行機で飛んでいる時、なぜか超低空飛行でアムール川に接近したんです。 あの雄大な川を見て、いつかここに行ってみたいと思うようになりました。あと学生時代に一度だけ訪れたスロベニア。ここは食べ物も美味いし、景色はきれい だし、人懐っこい人たちばかり。スロベニアにも、もう一度行きたいですね。

モバイルインターネットで21世紀の産業革命を。産業にプラスモバイルで、この国の笑顔を増やしたい!

 携帯電話の国内普及台数はすでに9000万台を超え、電話、メール、インターネット、ナビゲーション、スケジュール、ID、チケット、クーポン、財布、リモ コン……と、我々にとって、生活になくてはならないツールとなった。携帯電話はすでに社会のインフラとなったと言えるだろう。1998年、このモバイル マーケットにいち早く参入し、常に業界のトップランナーとして君臨し続けているサイバード。そして、今やグループ連結売上高150億円超、従業員数500 名超の一大企業に成長した同社を率いるのが堀 主知ロバート氏だ。リアルとモバイルの融合による「+(プラス)モバイルでスマイル」をコーポレートスローガンに、「1人でも多くの人から、ひとつでも多 くのありがとうを」。この想いを胸に、常にユーザーオリエンテッドの姿勢を守りながら、サイバードは今日も進化を続けている。「僕は根っからの商人(あき んど)なんです」と、自らが言い切る堀氏らしい理念といえよう。そんな堀氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベー トまで大いに語っていただいた。

<堀 主知ロバートをつくったルーツ1>
祖父と大家族の中で育まれた、商人の心構えと、強い精神力

 僕はアメリカで生まれ、4歳の時に日本に帰ってきました。帰国後は、関西で老舗旅館や料理店などを経営していた祖父の家で暮らし始めます。ちなみに 祖父は、赤ん坊の時にお寺の境内に捨てられていたところを住職に拾われ、そのお寺で育てられたという人。彼は若き日に還俗して、いろいろな商売を手がけ始 めたようです。そして文字どおり、「一代でゼロから」事業を立ち上げ、企業に育てた立身出世の起業家。そんな祖父の持論は「人が寄る家は栄える」というも ので、実際、多い時で親戚たちも含め20人以上がひとつ屋根の下で一緒に生活していました。嘘か本当か定かではないですが、泥棒が座ってお茶を飲んでいて もわからなかったとか(笑)。でも、それくらい人が大勢集まるにぎやかな生活で、僕自身もとても楽しかった。

 夕方はほとんど全員が集まって夕ごはんを食べるのですが、その場で、祖父は旅館や料理店から報告された日報を手に、電話で指示をするんですよ。そ れで僕にも祖父から「おまえならどうする?」とか質問が飛んでくる。小学生だから、わかるわけがないじゃないですか(苦笑)。それでも一所懸命考えたり ね。また、庭掃除の仕方から学ぶべきことは多いと、毎日庭掃除をさせられていました。風が吹いている時は風に逆らわず掃き掃除をする、とか、ただ葉っぱを 掃いて集めるだけではなく、秋なら掃き掃除の終わった後に紅葉などの葉を2、3枚置いてみると庭全体がきれいに見えるとか。「人間万物これみな師なり」。 どんな人からも、事柄からも、学べることはたくさんある。そのスタンスをいつも忘れるなということを教えたかったのでしょうね。

 祖父はよくこんなことも言っていました。「傍(ハタ)を楽(ラク)にするから、働く(ハタラク)というんだ」とか。いわゆる商人としての心構えで すね。当時はよくわかっていませんでしたが、今になって“なるほど!”と思うことがたくさんある。やはり子どもの頃のこの家庭環境が、僕が経営者の道を選 ぶことになった原点であると思っています。

<堀 主知ロバートをつくったルーツ2>
大学時代にいくつもの事業を経験。商売人伝説の幕開け

 両親も厳しかった。高校になるまでは門限はなんと16時。何か僕にやりたいことができて懇願しても、絶対にやらせてくれません。何を言っても 「ノー」なのです。例えば小学校の頃、僕は水泳競技で西日本の記録を持っていたので、中学では水泳部に入りたいと言っても「ノー」。スポーツや部活それす らもダメなわけです。大人になってから、あれは何だったのか?と尋ねたところ、両親にとっても初めての子育てだから「世の中はかくもままならん」というこ とだけは教えようと思ったと言っていました。

 このように、何事においても「ノー」と言われ続けるのですが、僕が育った家庭では、親に歯向かうことなどありえない。でも、祖父や両親の厳しい教 えがあったからこそ一本筋が通ったというか、信念を曲げない自分ができあがったのは間違いありません。本当に感謝しています。まあ、その反動なんでしょ う、外ではかなり元気だったと思います(笑)。そんなでしたから、反発心や反骨精神はどんどんふくらんでいく。僕はすぐにでも学校や親から自立したかっ た。あらゆる呪縛から解放されたかったんです。高校生の頃には、早く自分も商売人となって自立したいと考えていました。

 大学に入った瞬間から、僕は商売を開始します。入学式って、同じタイミングに同じ生活をスタートさせる同年代の人間がたくさん集まる場所ですよ ね。そこで、企業から広告を募ったフリーペーパーを配ったんです。これが自分で立ち上げた初めての商売ですね。それからの僕の大学生活は、商売一筋。今で いう人材派遣のようなことから、マーケティング調査など、思いついたビジネスはどんどん仲間たちと実践していきました。

 ちなみに今では普通に見られますが、海の家にタバコや飲料メーカーのタイアップ企画を取ってきたのは僕たちが最初ではないかと思っています。あ と、興味深かったのは某大手飲料メーカーとの仕事です。大学生向けに低甘味飲料水のマーケティング調査をしたいと依頼され、ご協力しました。自動販売機で の購買動機調査や、試飲テストなどをしました。世界的な大手企業のお手伝いを、大学生である自分が担当するわけです。確かに小さな仕事ではありましたが、 大会社の機能のひとつとして自分が動いていることを実感できて、なんだか感動したことを覚えています。

<学生生活を終え、商売人として社会へ>
23億円の資金集めに奔走。「会社四季報」で経営者に直電!

  大学卒業後は、マーケティングと福祉ビジネスを学ぶため、ロンドンに留学しました。でも1年ほどで帰国することになるんです。ちょうど海外で任天堂 のファミコンがブレイクし始めていまして、これは絶対にチャンスだと。ゲームソフトをつくろうと思ったのです。すぐに企画書を書いて日本の仲間とやり取り していたのですが、当時はメールなんてないし、国際電話もバカ高い。意志の疎通がなかなか図れないんです。商売人の血が騒ぎ出し、自分でも抑えきれなく なって、それで帰国して本腰を入れようと。計画も今から考えれば子どもみたいな発想なんです(笑)。100万本売れるヒット作をつくろう。ファミコンのカ セット1本分の製造に約2300円かかる。それ以外にパッケージやゲームの制作原価などを換算していくと、約23億円が必要だと。じゃあ、集めなきゃいけ ない。どうしよう。そこで考えたのが「会社四季報」作戦です。

 それは「会社四季報」の頭からページをめくりながら「関西の堀ですが、社長はいらっしゃいますか?」って社長宛に電話をかけ協力を要請するという もの。恥ずかしいから、実家の一番奥まった部屋に電話を持っていってこっそりと電話をしていました。当然、門前払いされるケースが多かったですが、中には 実際に会っていただけた経営者の方もいましたし、「応援してやろう」という方も数人ですが出てきたのです。そしてある大手企業から全面バックアップいただ ける話を取り付けたのですが、仲間に言わせると、その会社のイメージがよろしくないという。でも僕は「お金にきれいも汚いもあるか!」と、仲間に説明を続 けたのですが、結局みんなを説得し切れなかった。それで最終的にはこのプロジェクトは解散に追い込まれます。この時はさすがにやりきれなかったですね。

 その後は、親族が経営するホテルに入社。世界中から一流の職人を集めた新ホテルの建築プロジェクトへの参画から始まって、さまざまな業務を経験し ました。そして1992年、ホテルの海外事業部を独立させるかたちで株式会社三祐インターナショナルを設立。これらの業務を通して、料理や建築の世界で最 高峰と称される職人の方々、そして政財界のVIPと呼ばれる方々とお会いすることも多く、その後の僕の人脈形成にとって、とても重要な時期となりました。

<サイバードの夜明け前>
あまりにも早すぎたネット事業。そして、モバイルインターネットとの出合い

 1994年、友人にインターネットの存在を知らされて、衝撃を受けました。パソコンをインターネット回線につなげるだけで、世界中の情報が集められる。そ して自分の情報も世界中に発信できる。「これは世の中を変える仕組みだ!」と。ここでまた商売人の血が騒ぎ出し(笑)、株式会社パラダイスウェブを設立。 会員制ポータルサイトの構築に向けて動き始めたのです。当時、インターネットはオープンなインフラであると誰もが言っていましたが、あえて僕たちは会員制 というクローズなコミュニティにこだわりました。

  会員登録すれば自分だけのマイサイトが持てて、コミュニティに参加でき、商品やサービスのリコメンドコーナーがあり、メールアドレスも持つことがで きる。これらがすべて無料で使えるというもの。今のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)とほぼ同じ機能といえばわかりやすいかもしれませ ん。そんなパラダイスウェブは、話題となり、『インターネットマガジン』調査の人気サイトランキングで上位に入るサイトと同じくらいのアクセスがありまし た。会員数10万人くらいまで伸ばしたのですが、収益の道がなかなか見えてこない。やっぱりビジネスモデルが当時のインターネットにはなかった。今考えれ ば、かなり早すぎました(笑)。

 それから収益化に向けての研究に真剣に取り組む中で、僕は当時急激な勢いで普及しはじめていた携帯電話に着目します。近い将来、携帯電話でもイン ターネットサービスが使えるようになる時代が必ずやってくる。電話料金は普通に請求書が送られてきて、みんな当たり前に料金を支払っている。ここにユー ザー課金の可能性を見いだしたのです。

 それから、さまざまな可能性、方向性を検討し、企画書を書きまくります。3年半の間に書いた企画書は3000枚を超えていました。それらを持参して、 移動体通信事業会社、端末メーカーに相談を持ちかけ、同時に資本参加していただける会社にもお願いに回りました。そして1998年8月、オムロンさんから 出資協力いただけることが決定し、翌9月、モバイルインターネットサービスに特化する事業会社、株式会社サイバードが誕生したのです。東京・港区の小さな 会議室くらいの事務所、社員5人でのスタートでした。

僕たちの力で100年後の便利な未来をつくりたい。22世紀の世界史教科書にサイバードの社名を刻む!

<サイバードの船出>
近代版ゴールドラッシュのスタート。一気にマーケットのイニシアチブを獲得!

 サイバード設立時、まだ「i-mode」は世に登場していませんでした。我々も食っていかなくてはいけないのですが、まだユーザーに喜んでもらえる ようなコンテンツを仕入れられるお金がない。そこで、知り合いの面白いんだけど売れてないシナリオライターに手伝ってもらって「今日の小ネタ」というコン テンツを自作します。これは1日1回、いわゆる一発ギャグが携帯のショートメールサービスで配信されるというものです。まあ、開業祝ということなのでしょ うが、あるキャリアさんが採用してくれまして、これがサイバードの最初の商売となりました。蓋を開けてみると意外や意外、けっこうな人気でして(笑)、月 間50万円くらいの売り上げになったんです。

 1999年2月、「i-mode」が本格スタート。サイバードは、コンテンツをどんどん仕入れて各キャリアに提供していきます。その頃、話題に なったのはサーフィンの波情報を配信する「なみある?」ですね。これは今でも大人気のコンテンツなんですよ。ここぞゴールドラッシュとばかりに、いけそう なコンテンツをスタッフ全員一丸となって探し、企画し、つくり続けました。朝出社するとオフィスの床には、徹夜明けのスタッフがゴロゴロ転がって寝てまし たからね(笑)。着うた、待受画面、ゲーム、占い、ショッピング、スポーツなどなど、100を越える自社IPの公式サイトを抱えています。それら以外に当 社の名前が出ていないコンテンツとして、さまざまな企業の携帯サイトの企画・運営も手がけています。

 

<サイバード成長への経緯>
「+(プラス)モバイルでスマイル」、世の中の仕組みを便利に変えていく!

 スタートのイメージが強かったせいか、「サイバードさんってモバイルコンテンツ屋ですか?」とよく聞かれるんです。でも僕たちは、一度もそうやって サイバードの事業内容を限定して説明したことはありません。創業当時から僕たちは、モバイルインターネットサービス全体の技術研究からマーケティングま で、携帯電話を使って何かビジネスをしたいならなんでも当社に相談してくださいというスタンスで事業を推進してきました。ですから、あるマーケットでの競 合企業は当然存在しますが、ここまでピュアモバイルな活動をしている会社はどこにも存在しない。サイバードだけであると自負しています。

 設立から2年3カ月後の2000年12月、サイバードはジャスダック市場に上場します。これまで以上に事業の拡大スピードを速めるための転機とな りました。そして現在の当社の事業ドメインは、モバイルコンテンツ事業、マーケティングソリューション事業、Eコマース事業、広告事業、海外事業の大きく 5つに分かれています。そして、それらの事業ドメインすべての根幹に、「+(プラス)モバイルでスマイル」という戦略がつらぬかれており、我々の事業活動 によって、「1人でも多くの人から、ひとつでも多くのありがとうを」いただけるようなろうと考えているのです。

 携帯電話は、国内で現在9000万台以上が普及した、誰もが手にするもはやインフラであり、我々の生活シーンにおいてもなくてはならないツールと なりました。サイバードは、創業当初からモバイルインターネットの未来を見据えながら、モバイルにフォーカスした便利で楽しい世の中づくりを目指してきま した。そうやってきてやっと、「モバイルビジネスのことならサイバードに聞いてみるか」というポジションを獲得したのです。そうして、現在もさまざまな企 業から、モバイルビジネスのパートナーとして選んでいただき、それらの企業の特徴に合ったサービスやソリューションを提供しています。

<未来へ~サイバードが目指すもの>
モバイルインターネットを資源とし、どんどん新たな用途開発を実現!

  サイバードはこれからも携帯電話の新たな用途開発を探し続けます。僕はよく石油産業を例えに出してお話しするのですが、石油は最初、燃料として人々 が使いましたよね。石油を人間が使い始めた頃、きっとこの資源がプラスチックやビニール、ガラスになるということは誰も考えられなかったと思います。石油 という資源の新たな用途開発によって、人間はどんどん便利な生活を手に入れることができたわけです。

 携帯電話もこれと同じです。すべての企業は情報のネットワーク化により、それぞれのユーザーに便利を届けようとしています。ほぼすべての国民が手 にするようになった携帯電話は、全産業を支える資源であるわけです。そしてサイバードは、家電量販店にプラスモバイルを提供したらどうなるだろう、出版社 にプラスモバイルを提供したらどうなるだろうと、世の中の人々がより便利に楽しく生活できるための用途開発を演出しています。人々が考えている面倒くさい ことを、プラスモバイル戦略によって、ひとつずつなくしていくというイメージですね。

 しかし、企業はある意味エゴイスティックな存在です。当然、儲けたいですし、自分たちの都合を優先したい。例えば、地図情報サービスを例に挙げて 説明しますと、自分が今いる位置がわかるのはいい。その近くに今この友だちがいることがいつでも分かる。でも、俺をほっといてくれって時もあるでしょう (笑)。その他にも、さまざまな立場の人たちが関わることによって、権利問題などでややこしくなってしまうことも多くあります。そんな中でサイバードは、 企業の思惑とユーザーの間に存在する、こんがらがった糸をほどいてほどいて、みんながハッピーになるための方法を導き出していく。そんな仕事をする会社で いたいと思います。

 例えば今、携帯電話が家のどこにあるか分からなくなったとしましょう。多くの人は、置き電話から携帯に電話を掛けて、その着信音で見つけようとす るでしょう。でも将来、置き電話がなくなったとしたら、どうやって探すのでしょう。「おーい、俺の携帯はどこや?」と声をかければ、「ここにおるで!」っ て返事してくれる機能がつくといいですよね(笑)。「必要は発明の母」とよく言われます。結局、携帯電話は、無線である指示を飛ばすための道具なのです。 この機能と国民一人ひとりが手にするようになったインフラを使って、人々にどんなハッピーが提供できるか。その仕組みを世の中にどんどんつくっていきたい ですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
人がまた会いたくなるような魅力的に人間に。自分の引き出しをもっともっと増やそう!

 あなたが何かの集まりに参加したとして、参加者の誰かがあなたにまた会いたいと思ってくれるかどうか。これが大切。例えば六本木で飲んでいたとしま しょう。ひとりは「六本木の飲み屋のことならなんでも聞いて」と言う。もうひとりは「先週エチオピアに行ってきたので、その話を聞いて」。僕なら当然、後 者とまた会いたいと思います。なぜならその人は僕の知らないことを知っているから。

 ある小説家の言葉に、「人は知っている言葉の数だけ精神的に豊かな生活が手に入れられる」というものがあります。外国語が話せるというのもいいで すね。どんどん頭の中に引き出しをつくって、そこに物事を詰め込む作業をするといいと思います。よく事業計画のプレゼンを受けますが、「おいおい、それは マーケットを知らなさ過ぎ。もうやってるよ!」という人って意外に多いのです。冒頭でお話した「人間万物これみな師なり」という受身の姿勢も大切ですが、 引き出しづくりのために南極へ行こうとかね(笑)。他人にない引き出しを能動的につくることは、強烈な差別化になりますから。人から会いたいと思ってもら える自分を形成することが、魅力的な人間づくりを後押しし、ひいては人生を豊かに生きていくベースとなるでしょう。

 起業するということは、あなた自身が最後の砦となるわけです。そのためには絶対に継続するという信念が最低限必要です。世の中に経営者はたくさん いますが、当然いつも順調であるはずがなく、事業はちょっとした経済要因の浮き沈みに翻弄されています。人間はそもそも心の持ちようで、アウトプットが変 わる動物なのです。大好きな恋人がいて、この人のためなら死ねると思っていたとしても、ある日、その恋人が自分以外の人と腕を組んで街を歩いているシーン を見たらどう思うでしょうか。そんな状況下に置かれても、この恋人を好きでい続けると言い切れるかどうか。そんな強い信念があるといいですね。起業で言え ば、ついてきてくれたスタッフを絶対に守りぬく! そんな気概を持ってトライしてほしいと思います。そんな人を関西弁でどう表現するかというと、「ケツわ らん奴」ですわ(笑)。
 
  最後に、祖父から教えてもらった、僕が大切にしている言葉を紹介します。起業に関わらず物事を成功させたいなら、「百里の道は九十九里をもって半ばとせよ」。どんなことでもツメが大事。最後まで気を抜かず、決して諦めてはいけない。そいうことです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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