第50回 株式会社イデアインターナショナル 橋本雅治

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第50回
株式会社イデアインターナショナル 代表取締役社長
橋本雅治 Masaharu Hashimoto

1961年、大分県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。大学時代はパワーリフティング部に所属し、全日本学生チャンピオンとなる。卒業後、キヤノン販売に就 職。独自で編み出したデータベース営業で、何度もトップ営業の座を獲得。入社4年後、家業のホテルの経営再建を任されることになり、キヤノン販売を退職。 大分に戻り、4年間、休みなく働く。最終的に、債権整理のための和議申請を行い、経営を新たなスポンサーに引き継いだ。1992年、カリスマ経営者、片山 豊氏率いる株式会社マルマンに幹部候補生として中途入社。リストラ計画の責任者、取締役時計事業部などを歴任。1995年に起こった社内クーデターによ り、片山社長が退任。新社長の下で働く道を拒否し、引き止められるも退職。同年12月、マルマン時代の部下2名とともに、株式会社イデアインターナショナ ルを設立し、代表取締役に就任。ライフスタイルデザイン・マーケットの拡大に取り組み続けている。

ライフスタイル

好きな食べ物

嫌いな食べ物が思い浮かびません。
好き嫌いはまったくといっていいほどないです。好きなのはステーキ、寿司など、いくらでも思い浮かぶのですが。何でも美味しくいただいています。最近、仕事の会食が多いのですが、できるだけヘルシーな和食を選ぶようにしています。いい年になったもので(笑)。

趣味

トライアスロンとマラソン。 
2007年は、ホノルルマラソンとロタ島のトライアスロンレースに参加しました。ちなみに、私、それまで まったく泳げなかったんですよ。でも、トライアスロンレースに申し込んじゃった(笑)。起業家って、できるできないじゃなくて、まずやることを決める人が 多いですよ。私も同じ。無理そうなことでもやると決めれば、そのためにすべきことがわかるでしょう。で、それができたら楽しいじゃないですか。結果、完走 することができました。

休日

いろいろ運動しています。
日曜は必ず休むようにしています。ゴルフ、ジムで走ったり泳いだり、バーベル上げたり。だいたい何かの運動をしていますね。あとは、家族サービスかな。

行ってみたい場所

プーケットです。
プーケットのラグーナエリアは、自分が解放される場所。ここが大好きなんですよ。5つのホテルがあって、船 とバスで自由に行き来でき、ゴルフコースまで部屋から歩いて10分。食べ物は特にシーフードが充実していまして、美味しくて、格安。ぜひ、機会があれば 行ってみてください。最高ですから。

つくる側、使う側、すべての人が幸せを感じる
ライフスタイルプロダクトの開発が私達の使命です

 商品企画力、マーケティング力、ファブレスメーカーとしての工場ネットワーク、そして六本木ミッドタウンなど人気の商業施設に入居するショップという販売 拠点……。プロダクトデザイナーが待ち望んでいたプラットフォームを有する会社がある。それがイデアインターナショナル。同社を牽引する経営者、橋本雅治 氏は言う。「ものづくりをとおして、ひとりでも多くの人を幸せにしたい」。それが、同社の掲げる経営理念「人間至上主義経営」という言葉にも表れている。 人々が幸せを感じるさまざまなライフスタイルデザイン・プロダクトを次々に創出する一方、豊かでないイタリアのハーブ農家、発展途上国を支援するフェアトレー ドを手がける組織などなど、デザインという概念を武器にさまざまな社会貢献活動に参画。同社が展開しているすべての事業の根本に、「人助け」というやさしさが 隠されているのだ。今回は、そんな橋本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<橋本雅治をつくったルーツ1>
悪ガキたちとの対立に孤軍奮闘。宿題を絶対にやらない優等生?

  私の父は独立心が旺盛な人で、若い頃に熊本の実家を家出同然で飛び出して、ひとり大分県にやってきたんです。杵築市という国東半島の根っこ辺りにあ る町で、バス運転手から始めて、スーパーマーケットを開業したんですよ。そして、ある程度は多店舗化に成功したのですが、熊本の大手スーパーがこの町に進 出してきましてね。そのあおりを受けてスーパー事業を廃業し、ホテル、レストラン、結婚式場などの新規事業を展開していくことに。家族構成は、両親と祖 母、姉と妹に挟まれた私の6人家族。小学生高学年まではとても裕福な暮らしで、大きな2階建ての家に住み、ほしい物は何でも買ってもらっていた記憶があり ます。でも、杵(くだん)の大手スーパーの進出で、家業の業績が少しずつ下がっていって、当時の大きな家は手放すことになるのですが。

 小学校は町中にあったので、生徒はみんな町の子ばかり。でも中学に上がると、漁師や農家の子どもたちと一緒になるんですよ。で、漁村の子どもたち が半端じゃない悪ガキぞろい。おまけに腕っぷしも強い。当時、私が通っていた中学は、新聞沙汰になるほど荒れていましてね。町の子と農家の子は、みんな使 い走り扱いですよ。でも、私は絶対に彼らに屈しませんでした。1対1のケンカなら絶対に負けませんでしたし、多勢に囲まれたら俊足を生かして逃げました (笑)。悪ガキとぶつかってばかりいましたから、正直、中学時代はかなりしんどかった。負けず嫌いの根性は、この時に養われたのだと思っています。

 中学ではバスケットボール部に入部。最後は主将を務めましたが、県大会止まりでしたね。ちなみに宿題はいっさいしませんでした。これは高校卒業ま でずっとです。だって、勉強は学校でするもので、なぜ家に帰ってまで勉強しなければならないのかと。それよりも、読書や映画を観ることのほうが自分にとっ ては大事ですから。先生からは当初叱られるんですが、テストでしっかり結果を出すので、最終的には何も言われなくなりました。試験前、クラスで一番字の上 手な女の子に、ノートをコピーさせてもらってはいましたけど(笑)。昔から、合理的かつ間違っていないと自分で信じたことは、曲げることはありませんでした。

<橋本雅治をつくったルーツ2>
大学2年から始めたパワーリフティングで、4年の春の全国大会優勝を成し遂げる

  高校は、地元の県立高校へ。荒っぽい漁師の子どもたちがいなくなったので、やっと安心して学生生活を送れるようになりましたね。何となくやりたい運 動部もなかったので、いわゆる帰宅部に入部です。ロックバンドを組んでベースを弾いて、たまに学校をさぼって大分市まで遠征して映画を観たり。この頃はす ごく女の子にもてましたね。バレンタインデーなんて、抱えきれないほどのチョコレートをもらっていました。その日を姉たちが手ぐすねひいて待ってるんです よ。たくさん食べられるから(笑)。でも、結局きちんとした恋には発展しませんでした。今は違うかもしれませんが、当時は「九州男児たるもの女と手なんか つないでいられるか」と。私たちの高校時代はそんな風潮でしたから。自分自身が、奥手だったというのもありますし(笑)。

 実は、高校を出たらすぐに働こうと思ってたんです。でも、父に大学は出ておくべきだと説得されて。進学担当の先生に相談したら、「お前は浪人した ら絶対に勉強しないから、現役で合格するしかない」と。それは確かにそうだと納得(笑)。それで、立命館、同志社、慶応の3大学3学部を受験するんです よ。なぜかといいますと、私は文系だったのですが、数学が大得意でした。これらの大学の学部は、文系の受験科目でありながら、数学が必須だったのです。こ の戦略が見事に的中し、3大学とも合格。そして、私は慶應義塾大学法学部へ進学することになるのです。

 大学1年次は、普通にテニスサークルに入ってふわふわ遊んでいました。でも、だんだん飽きてしまって。2年からパワーリフティング部に入部するん ですよ。新入生と間違われ、強引に勧誘されたというのが直接のきっかけなんですが(笑)。で、筑波大学との合同夏合宿に参加。5日間くらいだったと思いま すが、あれほどの肉体的しごきを受けたのは生まれて初めて。筋肉がぼろぼろに破壊され、最後は普通に歩くのも大変なくらい。合宿後、30名いた新入部員は 私を含めたったの3名になりました。その後2週間くらいかけて体を治して、練習を再開してみたんです。すると無理だと思っていた重さのバーベルが軽々と上 げられるようになっている。筋肉の超回復により、筋力が大幅にアップしていたんですね。これでパワーリフティングが一気に面白くなって、私はこのスポーツ にのめりこんでいきます。4年の春の全国大会では、フェザー級で優勝という結果も残すことができました。

<キヤノン販売へ就職>
データベース営業とクレーム処理で、顧客、社員からの人望を集める

  大学時代、就職のことはあまり真剣に考えていませんでした。実家のホテルのお客さんにキヤノン関係の方がいらして、母が私のことを紹介したんです よ。その縁で、キヤノン販売の方とお会いすることになり、そのまま同社への就職を決めました。まずはしっかりした会社で社会人としてのスキルを身につけ て、それから将来のことを考えればいいと。最初に配属されたのは池袋営業所。上司は、「朝礼が終わったらすぐに外に出て1軒でも営業して回ってこい」と言 う。最初はそんなもんかと、コピー機やファクスの資料を持ってやってみたのですが、いくら飛び込み営業を繰り返しても成果が上がらない。そこで、私は自ら 戦略を考え、データベース営業を始めることに。

 コピー機やファクスのリース契約期限と、毎月のコピー使用枚数を、訪問した会社のおばさん 社員に聞くんですよ。「教えてくれればすぐに帰ります」と言えば、だいたい教えてくれますから(笑)。情報をどんどん溜めていって、まずはデータベースを 作成。その情報を元に、契約更新前のタイミングで、機種変更のメリットを完璧にまとめた資料を持参するという戦略です。でも、当時の営業所長は、「そんな ことやってる暇があったら外へ出て営業してこい」と。私から言わせればそれはナンセンスなわけで。結果、その所長のいうことを聞かず、新人では珍しいので すが、たった3カ月で別の営業所に飛ばされてしまった。それがちょうど結果が出始めるタイミングと重なって、異動した瞬間に大型受注を連発です。異動先の 営業所長はもうウハウハですよね。ちなみに、現在、この営業所長は当社の監査役になっていただいています。

 その後も私はデータベース営業 を続け、結果、十数回トップ営業を獲得。当時、キヤノン販売には相撲番付を真似た表彰制度があり、名人横綱の名誉もいただくことができました。そんな営業 スタイルですから、外に出るよりも会社の中で仕事することのほうが多いわけです。営業会社の事務職の女子社員って、お客さまからのクレーム対応仕事が多い んですね。私は率先してそれを助けてあげていました。「俺に任せとけ」と。クレーム対応の鉄則は、絶対に逃げず、正面から対応すること。まずは、お客さま がつかれるくらいまで思い切り怒らせてあげる。その間はいっさい言い訳をせず、怒りが静まった後で、こちらにできること、できないことをはっきりお伝えす るのです。そうやってご納得いただけたお客さまは、もう他社には浮気しません。堅固な信頼関係をつくるためには、クレームから逃げないこと。これも、仕事 をとおして学んだ貴重な価値となりました。

<さようなら、キヤノン販売>
家業の経営再建に終止符を打ち、カリスマ経営者の下、幹部候補生に      

  ある日、父から電話があり「ハンコを持って次の日曜日に帰ってきてほしい」と。父は付き合いのあったある人の保証人になって、大きな負債を背負って しまったんですよ。銀行から融資を受けなければ、会社は潰れてしまう。融資の条件は、私が会社の社長になって再建するというものでした。もう、やるしかな いですよね。結局、キヤノン販売は、約4年勤務して退職しました。そして私は大分に戻り、家業のホテル、レストラン、割烹、結婚式場の経営再建を手がけ始 めることになるのです。

 父は資金繰りに奔走し、私は人件費を節約するために、社長業のほかに、経理、仕出しの配達、マイクロバスでの顧客 送迎など、できることは何でもやりました。母親も寝る間を惜しんで、ホテルの女将業をこなす日々。1年365日の内、休みは2日しかなかったですよ。この 生活がその後、約4年間続くのです。しかし、やはりこれ以上は無理だという限界が訪れ、私は債務整理のため和議申請の道を選択します。多くの債権者の方々 にご迷惑をおかけすることになりましたが、逃げない姿勢で真剣に対応させていただき、なんとか上手に次のスポンサーに権限委譲することができました。

  晴れて自由の身にはなりましたが、やはりお金には窮していまして。できるだけ給料の高い会社で働こうと。当時、ゴルフ用品、ライター、時計メーカーとし て、気炎を上げていたマルマンが、カリスマ創業者である片山豊社長の肝いりで幹部候補生を募集していましてね。それが年収1000万円だったんです。「こ れだ!」と。すぐにその募集に応募して、採用されたのです。本社勤務の辞令だったのですが、私は最初の1年間は現場で働かせてほしいと直訴して、横浜支店 で営業を担当することに。しっかり実績を挙げ1年後、片山社長の勅命により本社に呼び戻され、私はリストラ担当を命ぜられます。

 それが 15年くらい前。まだインターネットの普及前ですよ。そんな頃に片山社長は、「すぐにeコマースの時代が必ず来る。営業の人員を削減せよ」と。当時、 180人いた営業をなんとか104人まで削減するプランをつくって、罵倒されながら全国の営業所に説明して回りました。なんとか納得してもらったと思って いたら、片山社長が「もっと削減できる」と。私は「これ以上は絶対に無理です。それは間違っています」と。衝突して、大ゲンカですよ。結果、私は閑職に追 いやられ、その後3カ月間、まるでマンガで描かれているような窓際族生活を強いられるのです。

リスクをすべて自分たちで背負ってでも、ものづくりに関わる人々の手助けをしたい

<イデアインターナショナル誕生>
2000個限定、赤色LEDのデジタル時計があっと言う間に完売。快進撃の始まり

 その後、再び片山社長の鶴の一声で、いきなり私は時計事業部の部長に抜擢されます。最後は取締役時計事業部長を担当していました。そんな時、社内 クーデターが起こり、片山社長が解任されるのです。私自身、マルマンに残るという道もあったのですが、次期社長と話し合った結果、退任の道を選択します。 正直、尊敬できる人ではなかったんですね。まあ、どこにいってもトップ営業は張れるだろうという自信はありましたから、自分の力を必要としてくれる会社に 転職しようと思ってたんですよ。でも、かわいがっていた部下も退職したいというわけです。私は時計という商材にはもっと可能性があると考えていましたし、 家業での社長経験もある。だったら一緒にやってみようじゃないかと。1995年11月に、株式会社イデアインターナショナル(以下:イデア)を設立し、 ずっとつくりたいと考えていたある時計の販売を始めたのです。

 起業した頃は、バブルが崩壊して景気が低迷していました。よく「そんな時期に船出して大変だったでしょう」と言われます。逆に私は、厳しい時代こ そチャンスだと考えていました。怖いからどのメーカーも現状維持で何も変えようとしない。でも、ショップ側は物が売れないから、新しい何かを欲している。 そこに必ず、私たちのようなニューカマーの勝機が隠れている。もともと日本ではLED時計が少ない上に、日本のデジタル時計に使われていたLEDはすべて 緑だったんですよ。でも、私は昔から赤のLEDを使えばもっときれいなのにと考えていました。しかし、量販店のバイヤーは、過去の常識にとらわれて「デジ タル表示は緑に決まっている。そんなもの売れませんよ」とまったく取り合ってくれません。ならばと、私は売場のターゲットを変え、インテリアショップや雑 貨店への営業を開始。そんな活動の中に、当社の転機ともいえる、ある人物との出会いが待っていました。

 原宿や代官山で人気のアパレルショップ「DEPT STORE」の永井誠治社長から、「これ、面白いね」と声をかけてもらったんです。その縁で、DJ兼音楽プロデューサーの藤原ヒロシ氏と音楽アーティスト 兼グラフィックデザイナーの立花ハジメ氏をご紹介いただき、彼らとのコラボレーションによる2000個限定の赤色LED時計を販売することに。それがあっ と言う間に完売し、雑誌の取材依頼や、全国のショップからの問い合わせが殺到。機能と価格だけでなく、デザインと感性を求めているマーケットは確実に存在 している。この出来事をきっかけとし、イデアはライフスタイルデザイン・マーケットの深耕に突き進んでいくことになります。

<2004年、「TAKUMI」始動>
イデアとは、多彩な才能や能力をつなげるためのプラットフォーム

 時計からスタートし、その後取り扱いアイテムは、インテリア雑貨、ステーショナリー、キッチンウエア、家電、コスメなどへと広がっていきます。当社 は、単なるプロダクトメーカーでもショップブランドでもなく、自社でプロダクトの企画・デザインを行い、製造は専門の工場に委託するファブレスメーカーと いう立場を取りました。何よりも柔軟さを大切にしたかったのです。大手メーカーは、工場に大量生産用のラインを設置して製造しますから、いってみれば工場 を効率的に動かすための商品企画を強いられますよね。しかし、柔軟な立場にある私たちは、商品企画、デザイン、製造、販売まで、すべて自由かつ柔軟に展開 できますから、スピードを持って良いものづくりが続けられるわけです。だからイデアは、多彩な才能や能力をつなげるためのプラットフォームであるともいえ ますね。

 さらに、その柔軟さの発展系であるプロジェクト「TAKUMI」を2004年からスタートしています。当社の最初のブランド、 「IDEA LABEL」は社内デザイナーが手がけてきましたが、「TAKUMI」は国内外で活躍するフリーデザイナーとのコラボレーションから生まれる プロダクトブランドです。イタリアなど海外のデザイン展を視察に行くと、けっこう日本人デザイナーが出展しているんですよ。なぜ多額の費用をかけてまで海 外進出を計画しているのか聞いてみたんです。彼・彼女たちは、日本のデザインコンペティションの現状に辟易しているんですね。商品化されない応募作品で も、企業が自社の権利として帰属させてしまうとか、仮に商品化されたとしてもマージン設定がとても低いとか。日本では本当につくりたいものがつくれないと 言うのです。せっかくの才能がそれじゃあもったいないじゃないですか。そしてここに、新しい私たちの意義を見つけたのです。

 人気の商業店舗を数多く手がけている形見一郎氏にも参加いただくなど、これまでに18名のデザイナーとコラボレーションが実現し、すでに30種類 を超える商品をリリースしてきました。もちろん、すべてのプロダクトが売れるわけではないですが、ヒット作も多く生まれてきています。今でも多くのデザイ ナーから売込みがありまして、イデアは自分たちのデザインを大切に扱ってくれる会社だという認知につながっています。2006年2月、表参道ヒルズへ 「Idea Frames」を出店後、10店を超えるショップを出店してきましたが、形見氏がその空間設計に協力してくれるなど、思わぬ副産物も生まれているんですよ (笑)。

<未来へ~イデアインターナショナルが目指すもの>
「TAKUMI」プロジェクトで、世界展開をより強化していく

 ショップをつくろうと思ったのは、こんな理由からです。本来、ものづくりの先にあるものって、製品を手にしたコンシューマーのサプライズにあるはず ですよね。ですが、イデアの製品はあまりにも革新的すぎて(笑)、バイヤーから敬遠されることも多い。だったら、自分たちでショップを持ってしまおうと。 そうすることで、つくったものがすぐに店頭に並べることができますし、マーケティングも兼ねることができます。現在、プロダクトを販売するショップは 「Idea Frames」「Idea Seventh Sense」「Idea Digital Code」「Idea Outlet」の10店舗(2008年7月現在)。また、イタリアのアグロナチュラアソシーエーションと共同開発した、オーガニックハーブ・コスメシリー ズを販売する「Agronatura」が6店舗です。

 イデアに関わるすべての人々を幸せにすることが、企業としての存在価値であると思っています。「人間至上主義経営」が当社の経営理念。イタリアの アグロナチュラアソシーエーションとの提携を決めたのも、せっかく素晴らしいハーブをつくっているのに、豊かでないイタリアの農家の方々を助けたかったか ら。「TAKUMI」でデザイナーとコラボレーションするのも同じ理由からです。私たちがすべてのリスクをとって、さまざまな才能を持つ方々と、自由かつ柔軟 にものづくりを継続していく。常にリスクテーカーのポジションを忘れないこと。そして、意義のある活動を継続していけば、いつか必ず花開くと信じていま す。

 すでにニューヨーク近代美術館のMOMA Shopで、当社のプロダクトが販売されていますが、2008年は、世界展開をより強化していきます。その一環として「TAKUMI」プロジェクトをイン ターネット上で公開し、世界中のデザイナーが参加できるコンペティションを開催する計画です。デザイナーにチャンスを提供する機会でもありますが、さきほどお 話したような日本のデザインコンペティションの悪癖を打破したいという思いもあります。みんなおかしいと感じているのに誰もやろうとしないから、リスクを とってでもイデアが挑戦しようと。このプロジェクトから、ひとりでも多く幸せな思いを得る人を創出したい。我こそはという方は、ぜひご参加ください。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自己破産することも当然あり得る。起業を甘く見てはいけない

 まず、起業はそう簡単ではないという事実を知っておくべきです。国内すべての会社の中で上場できる確率はごくわずかですし、黒字経営ができている会 社も赤字会社より圧倒的に少ない。社長になるということは、社業のすべてのリスクを背負うということ。明確にやりたいことが決まっていたとしても、自己破 産で一文無しになることもある。そんな覚悟ができて、腹がくくれないくらいのレベルなら、やめておくべきです。

 私は、どんな成功よりも、他者から「ありがとう」と言ってもらえた瞬間が最高に嬉しいんです。振り返ってみると、デザイナーを助けたい、イタリア のハーブ農家の方々を助けたい、誰かのためになることばかりをイデアは手がけているんですね。2007年に「Idea Root」というフェアトレードブランドを立ち上げ、パキスタンでフットサル用のボールを製造し輸入販売している株式会社イミオとのコラボレーションを実 現させています。イデアがデザイン協力したそのボールは、あっと言う間に完売。そして、新しい「ありがとう」が生まれたわけです。

 自分ができる社会貢献とは何か? それをいつも考えているんですよ。頼み事をされたら、できることはやり、できないことは誰かを紹介したり。結 局、人を幸せにするという存在意義を持っている会社にしか、人は集まらないのだと思います。だから、おばあさんに席を譲ったり、体が不自由な人の世話をし たり、簡単なことでかまいません。日頃から人を助けようと思う気持ちを持っているといい。そんな中から、素晴らしいアイデアが見つかるかもしれない。先 程、イデアの経営理念は「人間至上主義経営」とお話しましたが、人のことを考えながら仕事をしていくことが一番大切なのです。

 ちなみに現在、正社員が約90名、アルバイトやパートを含めると約200名のスタッフで、イデアは回っています。みんな「人間至上主義経営」を しっかり理解してくれていますから、自然体で仕事していますね。人間はやはり自然体が一番美しい。あと、当社の新卒入社の離職率はゼロ。これがちょっと自慢なんですよね(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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