第24回 株式会社ワークスアプリケーションズ 牧野正幸

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

目次

第24回
株式会社ワークスアプリケーションズ 代表取締役 CEO
牧野正幸 Masayuki Makino

1963年、兵庫県生まれ。幼少のころから自分の納得のいかないことには絶対に従わない性格。だだし試験などの成績は抜群で、高校は地元でも難関の公立校へ進学。アルバイトとバイクレースに明け暮れるが、成績は常にトップクラスを堅持していた。卒業後は、大手建設会社に就職。ここで、ソフトウエア開発の仕事に出合う。入社から1年半後、先輩が起業したシステム開発会社に転職。大手外資系コンピュータメーカーに出向し、システムコンサルタントとして数々の大規模プロジェクトを手がけた。その仕事を通じて、日本の大手企業向けERP(基幹業務パッケージソフト)の必要性を痛感。1994年、有志による開発プロジェクトを発足した。1996年7月、ワークスアプリケーションズ設立。起業前に立てた事業計画どおり、5年後にJASDAQ市場に上場を果たした。同社の中核製品であるERP「COMPANY」は人事・給与システムの分野でトップシェアを獲得。現在も、極めて順調な成長を続けている。

ライフスタイル

好きな食べ物

自分流グルメにやってます 
食べる物にはこだわっていますね。まずいものを食べると苦痛を感じますから。別にB級でもC級でもいい、寿司ならここ、肉ならここ、ラーメンならここと、 その店以外行かないと決めているジャンルもあります。すでに3分の1くらいのジャンルは埋まったのですが、あと3分の2はまだ(笑)。だから「あの店を越 える味はないか」と、未だ探し続けていますね。

趣味

トライアスロンですね 
「頑張る」と「我慢」は同じような意味なんですが、ネガティブに、人にやらされるのが「我慢」。ポジティブに、やらされる前に自分でやってやるというのが 「頑張る」。私の中のキーワードのひとつにも「頑張る」という言葉があって、肉体的限界を追い求めるスポーツが好き。だから今はトライアスロンにはまって いますね。

ほっとする時間

シガーでスローライフ気分を
これだけ時間に追われる生活をしていると、どうしてもスローライフを生活の中に取り入れたくなるのです。昔はタバコを吸っていたのですが、タバコは3秒で 吸えるじゃないですか。でもシガーはゆっくりと時間をかけて楽しむもの。私の場合、スローになりたいときはシガーです。お気に入りの銘柄は 「COHIBA」です。

1週間休みがとれたら

赤道直下の暑い場所へ
今は正直、要らないです。取ろうと思えばいつでも取れますから。ただし、どうしても行けと言うなら(笑)、暖かい場所かな。それも昼も夜も暑いくらいの、タイとかシンガポールとか、赤道直下の国がいいですね。

優秀な人材が活躍するフィールドを構築し、日本企業の情報投資効率を世界レベルへ!

 世の中が必要としているにも関わらず、誰も手がけようとしないことがある。なぜか? それは、目の前に立ちはだかる高いハードルを恐れるあまり、多くの人 たちは普通「できるか、できないか」という思考に陥ってしまうからだ。しかし、私たち人類の過去の歴史を振り返ってみてほしい。これまでいくつもの驚くべ き発明、生活を便利にする制度や仕組みが生まれているではないか。そしていつもそこには、「できるか、できないか」という後ろ向きな思考ではなく、「やる か、やらないか」という前向きな思考を持った、ドン・キホーテのような挑戦心あふれるひとりの人間がいた。今回紹介する、牧野正幸氏もまさにそのひとりで あると言えよう。彼は、誰もが「100%失敗する」と断言した、日本版ERPをゼロから開発・販売し、約5年で国内シェアナンバーワンの製品に育て上げ た。「私がやらなかったら、誰もやろうとしなかった。それでは、日本の大手企業の国際競争力がなくなってしまうと考えたのです」。そう言って笑う牧野氏 に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<牧野正幸をつくったルーツ.1>
納得できないことはやらない。小中では宿題を一度もしなかった

 私が生まれ育ったのは兵庫県神戸市。父は塾を経営していたのですが、「勉強しろ」と言われた記憶はないですね。逆に「好きに生きろ」と。それもあってか、小学校の6年間は一度も宿題をしませんでした。授業の内容は理解していたし、テストでもしっかり点が取れているのに、なぜ宿題をしなければならないのかわからない。やる意味が全く理解できなかった。自分が納得できないことは、誰の言うことであれ絶対に聞きませんでしたから、常に先生とは衝突していましたよ。よく怒られていました。それでも絶対に聞かない(笑)。

 そのくせ、授業中は落ち着きなく騒いでる。関西はやはりお笑いの本場ですからね。いつも人を笑わせることばかり考えているわけです。宿題もしない、授業態度も悪い。そんな生徒でしたから、 先生にとっては、本当にやりづらい存在だったと思います。だから通知表の成績はいつも2と3ばっかり。世の中には4とか5という評価は存在しないんじゃないかと思ってました(笑)。あ、体育は4だったか。

 宿題はいっさいしませんでしたが、本が好きでた くさん読んでいましたね。小説とかいろいろです。自分にわからないことができたら、すぐにそれを解決してくれる本を探してた。そういった意味で、小学生時 代の僕の先生は本だったと言えるかもしれません。頭の中で自分で考えた物語を空想することも、私の大好きな時間でした。

 中学に上がっても、宿題と名がつくものは全くしませんでしたね。でも、小学生のころとは違って、中学に入るとテストの点が重視されますよね。私の 場合、テストで良い点を取ることができましたから、それに合わせて成績はぐんぐん上昇して行ったのです。先生との確執もだんだんなくなりました。内申もす ごく良くなったと思います。そうやって楽しい学校生活を送りながらも、私の心の奥底には、何か重たいものがずっと横たわっていました。それは、周囲と同じ ことをしている自分に対する嫌悪感のようなものだったと思います。

 

<牧野正幸をつくったルーツ.1>
難易度の高い公立校へ。卒業後は大手建設会社に就職

 内申点も良くなり、勉強もできた。だから、公立の普通科であればどこでも行ける感じでした。さらに難しい私立を受験するという選択もあったのです が、残念ながら家はそれほど裕福ではなかったので、無理して行くのもどうかと。そして、公立の中で当時最も競争率や難易度が高かった学校を選んだのです。

  高校時代も、自分が世の中の大勢に溶け込んでいくことへの不安を感じ続けていました。しかし、まだこの悶々とした気持ちを炸裂させてはいけない。この不安 を克服するには、まだ自分は力不足だ。そうやって自分を押さえ込んでいましたね。「お前はやればできる」といつも私を応援していてくれた両親に恩返しをし たい、喜んでもらいたいという思いもあったのでしょう。

 常に成績は1番を目指し、バイクのレースに 夢中になり、アルバイトもたくさん経験しました。アルバイトではまたいろいろありました。周囲と自分の時給の差に、納得がいかないわけです。「どうやった ら自分の時給が上がるのか?」と上司に詰め寄ったりね。今思えばそんなことでいちいち逆らってても仕方がないんだけど、上司から無茶なオーダーを引き出し て、それをクリアすることで時給を上げてもらったり……。やはり納得できないことがあるのが、許せないんですよ。自分の無力さを感じていながらも。

  そうやってもがきながらも、卒業のシーズンはやって来ます。就職に関しては、学校推薦でどこでも好きな企業に入れる状況でした。化学を学んでいたので、 メーカーに行こうかとも思ったのですが、目に留まったのが建設会社からの求人。建設会社が化学出身者を求める意外性に面白さを感じました。親の期待に応え たかったので、できるだけ大きくて有名な企業に入社したいと思っていました。それで東証一部に上場している建設会社に入社することにしたのです。入社後の 新入社員研修での成績はトップ。そして大阪支社へ本配属となりました。

<人生で一度だけの挫折体験>
自分の無力さを痛感し、会社を退職。知人が起業したベンチャー企業へ転職

  自信満々で仕事に就いたのですが、製図が全然できない。建設系の学部を出ている同期と比べて下手なのは当然としても、半年くらい勉強して頑張っても 全くうまくならない。どんなに努力してもできないものに初めて出合い、このときはさすがに落ち込みました。しかしその後、コンピュータ関連の部署に空きが 出まして、異動の辞令が。これはラッキーでしたね。そして、あるソフトウエアの開発に携わることになったのです。コンピュータに触れるのは初めてでした が、ソフトウエアの面白さに私はぐんぐん引き込まれていきました。

 ソフトウエア開発の仕事は面白 かった。すごく集中できましたし。でも、だんだん会社員としての自分のモチベーションが下がっていくのです。私自身、いろいろな会社の問題点に気づいて、 それを解決したいと思うのですが、「そこまでお前が考えなくてもいい」「目新しいことに目を向けるな」という雰囲気。もちろん周囲に頑張っている人はいる のですが、頑張らない人の方が出世していくという矛盾が会社にはありました。そうすると誰も頑張ろうと思えないですし、本当にできる人のやる気はどんどん そがれてしまいます。

 問題点に気づきながらも、見ぬふりをして、組織の色に染められていく……。これからの人生、ずっとこの会社で我慢しながら生きていくことに耐えら れなくなった。事前に父にも相談してみました。「それもいいんじゃないか。でも二度同じことをしたら絶縁だ」との返事。自分はこの会社を変えたいと思って いるのに、変える事ができない。自分がやりたいことができない、そして頑張れないなら、会社を辞めるしかない……。そして、入社1年半後に会社を退職する 道を選択しました。これが私の人生で1回だけの挫折経験です。

 ちょうどその頃、大手家電メーカーでトップSEだった先輩が、独立して会社を立ち上げるという情報が。私自身、ソフトウエアの仕事を極めてみたい と思っていましたので、その会社に移ることにしました。優秀な人材が5、6人集った、小さいながらも高い技術力を武器とするベンチャー企業でした。

<東京へ~24時間戦う仕事人間>
システムコンサルの仕事をとおして、この業界の矛盾点が見えてきた

 入社後の数カ月かけてプログラム開発をほとんど把握し、次にSEを始めました。そうやって1年くらい開発仕事を続けていたのですが、結果さえ出せば 何をやっても許される自由な社風の会社です。そこで、ほとんど営業をしていなかったこともあり、私は顧客にシステムを提案販売する仕事を勝手に始めてみた のです。それもほとんど飛び込み営業(笑)。しかもこれがけっこう売れました。そうこうしているうちに会社から、大手外資系コンピュータメーカーがシステ ムコンサルタントを募っているので、出向のかたちで行ってみないかという打診が。当時はシステムコンサルタントの仕事内容自体よく理解していなかったと思 うのですが、何となく面白そうだと直感。引き受けることにして、私は東京にやって来たのです。

 ここでも難しいシステ ム開発案件や、トラブル案件など、一般社員が避けて通るような仕事を片っ端から引き受けていました。社員の3倍、4倍以上の仕事量だったと思います。その 頑張りの源泉は何だったかというと、昔から考えていた「問題解決」という自分の理念。無限に自分で問題解決できる仕事が目の前に広がっているわけですか ら、猛烈に忙しかったですが本当に楽しかったですよ。世のためになる仕事をしているという実感もありましたし。この会社での7年間は、寝るのも忘れて仕事 に没頭していた時代です。まさに高度経済成長時代の企業戦士なみ。当時「趣味は何ですか?」と質問されていたら、間違いなく「24時間、仕事することで す」と答えていたでしょうね(笑)。

 そんなある日、後輩からこう言われたのです。「牧野さんの仕事振りは尊敬できるけど、牧野さんのようにはなりたくない」と。プライベートに手抜き をしている自分のライフバランスのまずさに気づいてしまった。それからというもの、失われた7年を取り戻すために死ぬほど遊びまくりました。移動時間が もったいないので、六本木の小さなマンションに引越しまでして(笑)。それでもやっぱり仕事は楽しいし手は抜きませんから、睡眠時間はどんどんなくなって いくんですけどね……。

 システムコンサルタントの仕事をしているうちに、日本のソフトウエア業界が抱えていたある問題点が見えてきました。日本企業、特に大手企業のシス テム開発には費用がかかりすぎているということ。確かにクライアントの業務を楽にしたかもしれないけれど、システムの開発や維持には莫大な費用がかかって いて、経営的に見るとマイナスになっていることが多い。確かに、SAPやオラクルのような基幹業務向けパッケージソフトは存在していましたが、これをその まま日本に持ち込んでカスタマイズしていくと、ゼロからシステムを開発する金額と変わらなかったりする。つまり、日本の大企業にぴったりの業務用パッケー ジソフトが存在しないという、とても大きな問題点です。

世の中が必要としているのに誰もやらない。それを実現することが起業の本質

<有志で開発プロジェクトを発足>
日本の大手企業を救済する!それを本業と肝に銘じて

 1994年10月、7年半在籍したシステム開発会社を退職し、個人のシステムコンサルタントとして活動を始めた私は、知り合いのエンジニアたちに声 をかけてパッケージソフト開発プロジェクトの研究会を発足させました。もちろん「日本の大手企業向けERPが存在しない」という、この大きな矛盾とも言う べき問題を解決するためです。もうひとつ、私はコンサルタントの仕事をとおして社会貢献ができていると考えてはいましたが、そこは悲しいかな1人力。やは りパッケージソフトをつくって世に広めるメーカー機能を構築する方が、社会貢献度は大きいじゃないですか。これはどうしても成し遂げるべき事業であると考 えるようになったのです。

 このパッケージソフトの開発には、日本の大企業の幅広い業務知識を有した人材、多 数の優秀なエンジニア、そして莫大な投資が必要となります。とても私ひとりの手に負えるものではありません。そこで、研究会でつくったパッケージソフトの 雛形を持って、大手システム開発企業に「この事業をやりませんか」と事業モデル自体を提案しました。しかし、彼らは彼らでオーダーメイドのシステム開発の 仕事を受託しているわけですから、多額の費用と長い時間をかけてまで、その受託額を減らすようなパッケージソフトをつくりたがらないわけです。これではい つまでたっても、本来は経営の効率化を図るためのIT化戦略が、大企業にとってはずっと大きなコストのまま。正直、彼らに対して憤りすら覚えましたね。

  そんなとき、研究会に参加していたトップエンジニアである石川芳郎が、「こうなったら自分たちで立ち上げよう」と言ってくれた。しかし、私と石川以外に最 低もうひとり、マーケティングとマネジメントに長けた人材の必要性を感じていました。そこで思い当たったのが、私がこれまでの人生の中で一番優秀な人材と 思っていた阿部孝司です。しかしこのとき、あるコンサルティングファームに在籍していた阿部には、ヘッドハンティングがかかっていて、一部上場企業の副社 長というポストに就くことがほぼ決まっていた。そこを、「これは日本企業の競争力を高める社会貢献事業なんだ!」と一所懸命に口説きまして、彼を引きずり 込むことに成功します。そして1996年7月、ワークスアプリケーションズを設立。私と石川と阿部の3人が共同代表という、パートナーシップ経営の始まりです。

<100%失敗すると断言された起業>
計画どおり、起業5年後にJASDAQ上場。中核製品も国内トップシェアを獲得

 資金集めには相当苦労しました。ベンチャーキャピタル(VC)を100社以上回りましたが、ほぼ全滅。1996年当時は今とは相当状況が違ってい て、バブル経済が崩壊した後でもあり、VCは上場が見えている企業にしか投資しないという風潮でしたしね。誰もが私たちの考えるパッケージソフトの必要性 をある程度認めはするのです。でもSAPもオラクルなど世界でトップシェアを誇る製品も日本に上陸しているし、中堅や中小企業向けの製品もある。だから牧 野の考えていることは100%うまくいかないというわけです。そこだけは全員一致でした(笑)。でも、それはただのあきらめであって、そんなあきらめで本 当にいいのかと。必要性があって誰もやらないからこそやるべきじゃないですか。

 日本企業はグローバ ルで戦っています。欧米企業はITでコスト削減に成功しているのに、ITがコストのままである日本企業の国際競争力はそがれてしまいます。だからVCやア ナリストからのネガティブファクターをほじくり返すような質問にも、しっかりとした正当性が語れるアカウンタビリティを完璧に用意していました。そんな 中、私たちの考えに共感してくれたのがグロービスの堀義人代表でした。3000万円の投資を約束してくれたのです。

  投資価値を高めるために1年目から黒字化させること、5年後に上場していること。設立当初に立てた事業計画は、ひとつひとつ狂わせることなく達成してきま した。これは私たちが優等生であるからではなく、研究開発費を獲得するために毎年出資を受けなければならなかったからという背に腹を代えられない、やむを 得ぬ事情があったからなのです。

 1年目の黒字もクリアでき、その後も毎年倍々の勢いで売上高も増 進。当社の中核製品であるERP「CAMPANY」シリーズは年々強化され、人事・給与関連分野では50%を超えるトップシェアを獲得します。ITバブル の崩壊、9.11の同時多発テロの勃発という最悪の市況の中ではありましたが、計画通り売上高約20億円、利益約4億円の数字で、2001年12月、 JASDAQ市場に上場しました。

<未来へ~ワークスアプリケーションズが目指すもの>
これまでの延長はしないと決めた。11年目からの再起業を決意!

 私は、毎年大晦日の年またぎの時間を使って次の1年間を考えることにしているんですが、今年の個人的な目標がトライアスロンに燃えることでしたの で、11時55分から自宅を出て、近所を走りながら考えました(笑)。設立から今年7月で丸10年。今年は11年目に入りました。これまでの10年間で爆 発的な成長をしてきたけれど、11年目もこの延長でいいのかと。

 思い返せばこの会社を設立した当時 は、当然ですがゼロからのスタートでした。しかし、今はとても優秀な人材がグループに1000人もいる。シェアナンバーワンの製品もある。上場企業約 500社の顧客をダイレクトに持っている。もちろん上場もしたので資金も潤沢にある。もしも、起業時に優秀な人材があと20人いて、製品ができていて、 10社のクライアントがあって、資金が1億円でもあったら、それはもう一気に成長できました。でも、それらがなかったから苦労しながら、ひとつずつ大切に つくりながら、ここまでやってきたわけです。そうだ、ここでいったん区切りをつけよう。そしてここから再度、起業することに決めたのです。

  どんどん新しい製品をつくって、優秀な人材をより多く採用していこう。昨年までがワークス1.0としたら、今年は一気にワークス2.0に引き上げて、どん どん挑戦しよう。投資家の方々にも、あるラインの売り上げと利益はコミットしますが、それ以外はすべて投資に向けることを宣言しました。もうすでに新製品 のプロジェクトがいくつか走っています。来年以降の興奮するフィールドはとてつもないものとなると確信しています。

  ワークスアプリケーションズができる社会貢献とは何か? 私たちは、日本企業の情報投資効率を世界レベルへ高めること、優秀な人間が働きたくなるシリコン バレーのようなフィールドを提供すること。この2つを会社の理念として掲げてきました。どちらもある程度は実現できていると考えています。もし、私たちが 引退するときには、会社を30分割くらいにして、ベンチャー企業に戻そうと思っています。当社に集まった優秀な人材には、ゼロベースから会社を立ち上げて いく快感を与えてあげたいですし。会社とは、人を育てるという社会貢献をすべき場所であると考えていますから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
本気で起業を目指したいなら、問題解決能力を磨いておこう!

 ドリームゲート読者の方々に限らず、まず言っておきたいのは、起業すること自体を夢見るなということ。起業なんて誰でもできる。それよりも重要なことは、 世の中に欠けているものは何か、その上で誰もがやろうとしないことって何だろうと考えてみることです。その何かを見つけて、「誰もやらないなら仕方ない、 俺がそれをやってやろう」。そうすれば、あなたは唯一の存在になれるし、何ともかっこいいじゃないですか。起業の本質とはそこにあると私は考えています。

  もしも、その何かが見つからないなら、当社のようなベンチャー企業に入って、自分の力を蓄える期間を設けるといい。その力とは問題解決をする力です。ベン チャー企業では、次から次へと問題解決しなくてはいけない仕事が発生します。問題解決能力を備えることができれば、世の中の矛盾や問題点が見つかったとき に、すぐに起業することができますから。ちなみに当社には中途採用の制度として、「社会人インターンシップ」「MBAプログラム」「テクノロジスト養成特 待生」という3つのプログラムを用意しています。各プログラムとも数ヶ月間かけて行う選抜型のスタイルです。我こそはと思われる方は、ぜひチャレンジして みてください。

 最後に学生の方々に一言。いい会社は世の中にたくさん存在します。ここでいういい会 社とは、誰が入ってもそれなりの成果が出せる会社であると考えてください。もしも自分が考える人生設計の中に、絶対に起業はないという方は、そのような大 企業に行かれると良いでしょう。簡単ではないですが、頑張ればある程度の成果を手にするこことができると思います。ただし、自分の能力を根底から伸ばし て、いつか起業したいと思っているなら、大企業では無理です。やはりベンチャー企業に入って、問題解決能力を高めるべきだと。そしてベンチャー企業で成果 を出すことができて初めて、自分が起業したときにも成果が出せるのではないでしょうか。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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