第49回 株式会社オウケイウェイヴ 兼元謙任

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第49回
株式会社オウケイウェイヴ 代表取締役社長
兼元 謙任 Kaneto Kanemoto

1966年、愛知県生まれ。在日韓国人3世という理由で、小学生時代から壮絶ないじめを受け続ける。そのストレスから、自律神経失調症、ギラン・バレー症 候群にかかり、中学卒業まで入退院を繰り返す生活。高校卒業後、愛知県立芸術大学へ進学。ユニバーサルデザインの創作活動にのめり込む。卒業後、デザイン 会社GK京都に入社。会社員とユニバーサルデザイン活動を掛け持ちし、忙しい日々を送る。他人を省みず突き進んだ結果、仲間から裏切られ、妻からは三行半 を告げられた。復活を胸に、東京へおもむくが、気力が失せホームレス生活を送るように。その後、一念発起し、デザイン活動を再開。インターネットの掲示板 でのやり取りに不満を感じ、現在のQ&Aサイトサービスのアイデアを思いつく。1999年7月、有限会社オーケーウェブを起業。2000年1月、 Q&Aサイト「OKWebコミュニティ」(現・OKWave)の正式運用開始。同年2月、株式会社に改組。その後、幾多の試練を潜り抜けながら成 長を遂げ、2006年1月、株式会社オウケイウェイヴに社名変更。同年6月、名証セントレックスに上場を果たした。社員数約61人、連結売上高約10億円 の企業を築き上げた。

ライフスタイル

好きな食べ物

何でも美味しくいただきます。
ほら、ホームレス時代、賞味期限切れのものばかり食べていたでしょう。ゴミ箱から漁ったハンバーガーを食べ たらタバコがつまっていたことがあった。店員の嫌がらせです。あの時は、悲しさと情けなさに、おいおい号泣しました。ですから、今は何でも美味しくいただ きます。中でも一番好きなのは、ほかほかの白いゴハンです。お酒は、普段あまり飲まないようにしています。結婚式など、楽しく酔える時はたくさん飲みます けど。

趣味

将棋です。 
父に教えられ、小学生の頃から、将棋を打っていました。詰め将棋も好きです。あと、羽生名人の本を読むと、 将棋って本当に奥が深いな~と。彼の棋譜をたどっていくと、なぜここでこの一手を選ぶのか、その一手一手に次のBESTとBADが想定されていて、20手 先にこの一手が効いてくることがやっとわかるんですね。その思考は、リスクを想定しながら前へ進んでいく、起業家の生き方と似ているとも思います。私の実 力ですか? 将棋は弱いんですよ(笑)。

休日

日曜日は必ず。
家族サービスしますね。家族は妻に、高1の長男、中2の長女、で、5歳の次女です。自宅の裏にある公園で、一緒に遊ぶのが今の一番の楽しみですね。もちろん、一番の下の子とです(笑)。上のふたりはもう一緒に遊んでくれませんから。

行ってみたい場所

世界遺産です。
京都のデザイン会社で働いていた時は、よくお寺や日本庭園を見に行っていました。日本が世界に誇る建造物で すしね。もしも長い休みが取れたら、世界遺産めぐりをしてみたい。インドのタージマハールやエジプトのピラミッドとか。諸外国が自国を誇るものって、やっ ぱり見ておきたいじゃないですか。

ホームレス生活を脱却し、上場企業を立ち上げ。
ありがとうの連鎖が、世界中から求められている!

 インターネットが我々の生活を格段に便利にしてくれたことは間違いない。しかし、ネットの世界には数え切れないほど、多種多様なホームページが存在してい る。その中からユーザーに選ばれること自体、ものすごい確率の偶然といえる。今回、お話をお聞きした兼元謙任氏が立ち上げたQ&Aサイト 「OKWave」は、現在会員数約100万人、月間ユニークユーザー数約1000万人、そして1日当たり2万件のQ&Aがやり取りされているとい う。「当社の取り組みによって、ありがとうの連鎖が広がれば、世界からきっと戦争なんてなくなります」と笑う兼元氏だが、ここまでたどり着くまでの道のり は、まさに筆舌に尽くしがたい苦難の連続だった。少年時代の壮絶ないじめによる入院生活、仲間からの裏切り、妻との離婚危機……、そして2年にわたるホー ムレス生活……。しかし、数多くの弱者としての経験が、兼元氏にこの事業アイデアをもたらしてくれたのだ。今回は、そんな兼元氏に、青春時代からこれまで に至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<兼元謙任をつくったルーツ1>
在日韓国人3世であることを理由に、 いじめを受け、自律神経失調症となる

 名古屋市で生まれた私は、会社員の父と母、6歳上の兄という4人家族の中で育ちました。真ん中に姉もいたのですが、亡くなってしまって。小学校の低学年までは、スポーツが好きでものおじしない男の子だったんです。が、小学5年生の時、役所である場面を友人たちに見られたしまった。私は在日韓国人3世なのですが、家族で役所におもむき書類に指紋を押そうとしている現場を。それから、昨日まで普通に仲良く遊んでいた友人たちからひどいいじめを受けるようになるんですよ。子どもって残酷でしょう。どんどんそれがエスカレートしていって、私は心身ともにまいってしまった。頭では学校に行かなければと考えるのですが、体が拒否するのです。それで自律神経失調症になり、入院生活を余儀なくされました。

 ギラン・バレー症候群という難病にもかかり、まっすぐ歩けない。この頃は、車椅子を使って移動していました。当時は帰化するために無理やりに指紋を押させようとする両親にも反発し、おまけに兄がかなりのやんちゃで。日本人に敵対心むき出しの兄の言動で私へのいじめはどんどんひどくなる。もう家族みんなが憎いんです。そうすると、自分の悩みを誰にも相談できなくなって、さらにひとりぼっちの状態に。中学に入ってからもずっと入退院を繰り返していましたから、高校生になるくらいまでは、楽しい思い出がまったくないんですよ。すいません、暗い話で(苦笑)。でも、敵意ある多勢に囲まれた時のひとりの弱さ。人 間ひとりぼっちの無力さというものを徹底的に刷り込まれたのは、今思えばいい経験になっています。

 入院していた病院では、こんな出会いもありました。産婦人科に通院されていたあるご婦人が、毎日のように泣き暮らしていた私を不憫に思ったのでしょうか。こんなことを言ってくれたのです。「前世のあなたはとても悪い人だったから、今、その償いを受けているの。でも、この試練は人生の半分で終わっ て、後半の人生は人々のために生きることになる。だから、それまでは絶対に自ら命を絶つようなことをしてはいけません」と。今日まで私が命をつないでこられたのは、あのご婦人の一言のおかげだと思います。この後の人生も、多くの人から助けられることになるのですが(笑)。

 入退院を繰り返しますから、出席日数が足りなくなる。なんとか踏ん張って、1年間の3分の1は学校へ行くようにしていました。それでも時には学校の近くまでせっかくたどり着いたのに、気力が萎えて公園で時間を潰したり、喫茶店に逃げ込んだり……。でも、いいことがふたつありました。ひとつは、テス トのヤマかけがうまくなったこと。もうひとつは、病院のベッドでプラモデルやペーパークラフトをつくり続けたこと。要領の良さと、手先の器用さは、この苦難の時代に養われたのだと思っています。

<兼元謙任をつくったルーツ2>
多分野にわたるネットワークを構築し、ユニバーサルデザイン活動にのめり込む

 国籍の問題で、第一志望の高校へは行くことができませんでした。高校では日本人の彼女ができたんです。でも、同じく国籍の問題で、彼女の親から交際 を大反対された。この恋愛を続けるために、転校するか、しないかくらいまで本気で悩んだのですが、結局ふたりの仲は引き裂かれてしまいます。まあ、その彼女とお別れしたことで今の妻と一緒になれたのだから、結果としては良かったんですけど(笑)。ここでもいろいろと考えさせられましたよね。国籍ってなんなんだろうって。

 これまでの散々ともいえる体験から、私は自然と弱者のために生きていきたいと考えるように。それで、医師を目指そうと思ったんです。でも、学費の問題と、医師免許資格までの長い道のりにふと疑問を覚え、高校3年の後半で一転、芸術大学志望に転向するんですよ。もともとものづくりは好きでしたし、一 応、美術部にも在籍していましたから。しかし、入学試験は3カ月後。そこで、愛知県立美術大学に進学した高校のOBを尋ねていき、合格のためのノウハウを 伝授してもらったんです。入試ではみんなデッサンを提出するのですが、白い画用紙に鉛筆ですから、見た感じ、あまり代わり映えしませんよね。そのOBは 「紙をやぶくと目立つぞ」と。そのとおりにやってみたら、合格しちゃったんですよ。本当の話(笑)。

 芸術大学に進学できたのはいいのですが、その後は苦労しましたね。私の場合、正真正銘の付け焼刃ですから、色の話や専門用語がまったくわからないんです。周りはみんな、かなりしっかり美術の勉強をしてきた人たちばかりでしたから。ただ、大学時代は楽しかったですよ。大学の同窓である妻と出会ったのも、学食でしたしね(笑)。ちなみに彼女は、音楽部でバイオリンを学んでいました。

 医師になりたいという夢があったじゃないですか。それもあってか、幼稚園の遊具や、車椅子など、大学時代はユニバーサルデザインの活動にのめりこ んでいくんです。名著『生きのびるためのデザイン』で有名なヴィクター・パパネックさんや、日本のインダストリアルデザインのパイオニアといわれる榮久庵 憲司(えくあんけんじ)さんに影響を受けました。できるだけ弱者にやさしくて、できるだけ長く使えるデザイン創作を続けていこうと。そして総合芸術大学と いう強みを生かして、デザイン学部だけではなく、私の妻のような音楽部の学生や、建築部の学生など異分野の知識を集めてひとつの課題に取り組む、ユニバー サルデザイン活動を開始しました。

<悪いことは重なるものだ……>
仲間からの裏切り、妻からの三行半。失意の中、深夜バスで東京へ向かう

  大学4年次、車が好きだった私は、三菱自動車の内定をもらっていたんです。が、単位が足らず留年。結局、三菱自動車には入社を断られてしまった。そ の翌年、私は休みを利用して初めて祖先の国、韓国を訪れます。そこで、ある韓国人のおばあさんに出会いました。とても日本語のお上手な方で、私が「日本語 がお上手ですね」とほめると、「戦争の時、お前たちが韓国語を使うなと言ったから、こうなったんじゃないか!」と怒られてしまったんですね。曖昧だった自 分のアイデンティティを探すためにやってきたこの旅の、この瞬間に、これから私は韓国人の痛みがわかる日本人として生きていこうと決意。そして翌年、私は 京都にある榮久庵憲司さんのデザイン会社、GK京都に入社します。私は京都が、一番日本らしい場所であると思っていましたから。

 ちなみに、大学時代に開始したユニバーサルデザインの活動は、就職後も仲間たちと一緒に継続していました。そして数々のコンペティションに参加 し、賞もいただきました。しかし、商品化の道のりは遠く、お金が続かないわけです。私は26歳で大学時代に出会った彼女と結婚し、すでに子どももいました が、家庭そっちのけで給料をつぎ込み、この活動に走り回っていました。全身全霊をかけて取り組んでいた、つもりだったのです。

 そんな時、ある会社経営者が「アメリカで製品化できるチャンスを用意しよう」と。その製品は、私たちが考案した身障者に使い勝手のいい壁掛け型のパソコ ンで、アメリカからの評価も高いと。しかし、さあいよいよというところで、いきなりそのはしごが外されます。「死んでも続けていきましょう!」と言ってく れていたメンバーが、突然「もうやめる」と……。そして、彼らは自分たちの会社を立ち上げて、私の前から去っていきました。当時は「よくも裏切りやがっ て」と恨みましたが、今考えればそれも当然で、「世のためにいいことをしているんだから、俺と一緒に我慢するのが当然」という私のスタンス自体が間違い だったのです。それは、ただ単に自分の驕り……。彼らにも当然、生活があるわけですから。そして、さらなる仕打ちが私を待ち受けていました。

 打ちひしがれて久しぶりに帰った自宅のアパートは電気も点いておらず真っ暗。そして、机の上には、妻から「もう疲れました。実家に帰ります」とい う内容の置き手紙と、離婚届が……。すぐに私は妻の実家に走りました。そして、離婚だけは待ってほしい、東京でチャンスが待っているからと約束をして。 1997年10月の夜、知り合いの経営者に仕事の無心をして復活するという決意を胸に、私はノートパソコン1台を持ち、名古屋駅のバスターミナルに立って いました。東京行きの切符を買うと、手持ちの現金は千円札が数枚だけになっていました。

<ホームレス生活のスタート>
ある中国人女性からのアドバイスを受け、どん底からの復活を決意する       

  東京にやってきたものの、そううまく話は進みませんでした。件の経営者からはけんもほろろ……。「仕事はない」と。それから茫然自失で知人の家を泊 まり歩くのですが、だんだん迷惑がられる始末。自然と私は、公園や駅を根城とする、いわゆるホームレス生活を送るようになっていきます。食料はコンビニや ファストフード店で、賞味期限切れの商品を漁りながら食いつなぎました。「生きてはいける。もう、これでいいか……」、本気でそう思ったこともありまし た。そんなある日、公園の水道で髪を洗っていると、日雇い労働者が私に声をかけてきた。仲間と思ったんでしょうね。

 彼に自分の生い立ちを話したんです。そしたら、中国人の面白い女性がいるので話を聞いてみろと。彼女はエネルギーの塊のような人で、密入国してい るのに、バイトをしながらなぜか日本の大学に通っている。そんな彼女から「私は生涯賃金が日本円で2万円くらいの中国の寒村農家で生まれた。水と草の根っ こだけで暮らしていたこともある。それに比べれば、浮浪者が糖尿病になるような日本はぬるま湯。いつか、私が格差をなくすために勉強して力をつけて、日本 に勝ちたい。いくらでもチャンスがあるのに、あなたのような人間は生きているだけで罪だ!」と、叱責のようなアドバイスを受けるのです。もっとひどいこと を言われたんですけど(笑)。でも、この彼女との出会いで、私はこの底辺から這い上がる決意を固めることができました。感謝しています。

 それから何度も、知り合いの経営者に仕事をくださいとお願いに行きました。便所掃除でも何でもいいので置いてほしいと。その熱意にほだされたの か、「じゃあ、名刺デザインの仕事があるから1000円のギャラでいいならやってみろ」と。それでも大感謝ですよ。私は大切に持っていたノートパソコンを 使って、名刺だけではなく、その会社のパンフレットまでデザインし、納品しました。するとデザインのセンスと熱意を買ってくれたその会社が、次の仕事を紹 介してくれました。今度は1万円の仕事です。

 その繰り返しで、少しずつではありますがまとまった仕事が増えていきます。気づいた時には、毎月の売り上げが30万円になり、40万円になり。で も、1万円の生活費だけを手元に残して、残りはすべて妻に送金していましたから、やっぱりホームレス状態でしたけど(笑)。ちなみに、パソコンの充電は、 公園のトイレやファストフード店のコンセントを使わせてもらっていました。すいません……(苦笑)。

経験知をビジネスに、助け合いの連鎖を世界に!
世界平和を理念とし、新たな挑戦を探し続けます

<さようなら、ホームレス生活>
ホームページデザインのノウハウ質問で、掲示板サイトから退去命令をくらう

 90年代後半、日本国内にインターネットが普及し始め、ホームページ(以下HP)制作の仕事が一気に増加します。私の元へもHPデザインの仕事が舞 い込み始めました。HTMLを独学で覚えながらデザインするのですが、どうしてもわからないことってあるでしょう。それでネット上の掲示板やフォーラムで 初歩的な質問をしたところ、「マナーがなってない」、「そんなこともわからないのか」、「過去の質問を見てみろ」。教えてもらえるどころか指摘されるばか り。おまけに最後にはアドバイスももらえず、「もう出て行ってくれ」ですよ。なんなんだこれは……。ここで私はハッとします。これまで置かれてきた、弱者である自分の立場と同じじゃないか……。

 わからないことや、悩みを書き込むと、その内容に詳しい人や興味ある人が知識や経験知をもってやさしく答えてくれる。そして回答が役に立ったら、 感謝の気持ちを表現したり、今度はほかの質問者の質問に答えてあげたり、そんな助け合いの循環ができあがっていく。もちろん、利用は無料。もしもこんな サービスがあったら……。ひとりぼっちで悩んでいた小学校の自分、仲間に裏切られた自分、妻から三行半を突きつけられた自分、きっと救ってあげられたはず。そう思ったんです。そうだ! このサービスを立ち上げよう。それから私の起業への挑戦が始まりました

 仲良しの経営者に、「このQ&Aサイトを一緒にやりませんか?」と相談したところ、「うまくいかないよ。そもそも、リスクを背負って自分 でやらなきゃ」と一蹴されてしまった。「でも資金がないんです」。「俺の知り合いの映画監督は、したっぱのADと結婚することにして、公園で披露宴をす るって案内状を書いて送ったんだ。で、集まってくれた列席者からのご祝儀で映画を撮ったんだぞ。金なんて集めようと思えば方法はいくらでもあるんだ」と。 それでまず、クレジットカードをつくって、お金を借りまくろうとしたんです。そして、妻にこんなビジネスを立ち上げると伝えたところ、なんと、彼女は2年 間の仕送りを全部貯蓄していてくれた。総額416万円。これが最初の事業資金となり、1999年7月、東京の町田にある格安のテラスハウスを借りて、資本 金300万円で有限会社オーケーウェブ(現社名は株式会社オウケイウェイヴ)を設立。やっと住む場所ができ、ホームレス生活から解放されました(笑)。

<設立7年目にして上場>
誰からも失敗すると言われ続けた事業を、弱者を世の中から失くしたい一心で継続

 ちなみに、社名につけたOKは「O」が「教えて」、「K」が「答える」の意味を持たせています。この事業に賛同してくれたプログラマーが無償で協力 してくれ、2000年1月、現在のサービスの原点となる「OKWeb コミュニティ」がカットオーバー。当時、ビットバレーが宣伝されていたこともあり、私も渋谷へ行こうと。渋谷区にある家賃11万円のアパート事務所に引っ 越しました。この頃、帝国データバンクさんがこのボロボロの事務所に調査にいらしたんです。今でもその調査結果を覚えていますが、「資産なし・判定結果は Eで最低・社長は元気」でした(笑)。まあ、そのとおりだったんですけど。

 当然ですがどんどん資金は減っていきます。しかし、ここで救いの神が。サイバーエージェントさんが、「面白いサービスですね」と、出資を名乗り出 てくれまして、創業時の資金不足危機を乗り切ることができました。それでもやりたいことがたくさんあるので、まだまだ資金は足りません。なんとか継続の道 はつながったものの、個人向けのQ&Aサービスは当然、無料ですから、収益ほぼゼロ。正直、このままだと潰れる……、と本気で焦り始めた2000 年6月、今度は当サービスを利用していたユーザーの方から、自分の会社にこのシステムを利用させてほしいという申し出が。そこから、ASP事業がスタート します。また、それと同じ頃に楽天さんからも出資いただき、当サービスはどんどんブラッシュアップしていくのです。

 起業前、誰もが「絶対にうまくいかない」と口をそろえたこの事業ではありましたが、カットオーバー後、多くのユーザーにご利用いただき、また、多くの方々からの支援を背に現在も元気に成長を続けています。起業後は奇蹟ともいうべき出来事の連続でした。中でも私が一番うれしかったこと。それは、ユー ザーの方から届いた「こんな場所を待っていました。本当にありがとう!」というたくさんのメッセージです。オウケイウェイヴを始めて良かった。心から私はそう思っています。

 そして、2006年6月、オウケイウェイヴは名証セントレックスに上場することができました。なぜ名古屋を選んだのか。当社の取締役からは、「な ぜ東証マザーズやヘラクレスではないのか」と言われましたが。正直それは、自分の原点が名古屋だったから。どうしてもここから、始めたい。それから東京 へ、そして世界へ羽ばたいていければいいじゃないかと考えたのです。

<未来へ~オウケイウェイヴが目指すもの>
当社の助け合いソリューションビジネスを、2010年までに10言語、100カ国に広げていく

 現在、当社のサービスは大きく分けて2つ。ひとつはポータル事業。一般のインターネットユーザーがお互いの知識や経験知をもって助け合う Q&Aサイト「OKWave」の運営です。おかげさまで会員数はもうすぐ100万人、月間のユニークユーザーは1000万人、1日2万件の Q&Aが取り交わされています。そうそう、今年の1月、フジテレビ系列全国ネットで、「今週、妻が浮気します」が放送されました。これは 「OKWave」のQ&Aが元になっているんですよ。また、今後は広告事業にも本格的に参入します。買い物をする際、どれにしようか迷うことがあ りますよね。そのタイミングで「OKWave」を活用されているユーザーが意外に多いのです。保険業界などからも興味をいただいています。

 そして、もうひとつがソリューション事業。当社の仕組みをお貸しして、自社のFAQ生成や、社内のナレッジマネジメントなどにご活用いただいてい ます。JR東日本さん、松下電器産業さん、NTT関連企業さんなど、大手企業とのお取引も多く、現在、クライアント数は200社を超えています。また、 HDI(Help Desk Institute=ヘルプデスク協会)と共同で、FAQの世界標準づくりに参加し、国内でFAQの商標も取得。「No1.FAQ Company」を掲げ、今後もマーケットトップのポジションを維持し続けていきます。

 世界中の人と人を信頼と満足でつないでいくため、2010年までに、10言語、100カ国に広げていくことを目標としています。そのために、中国 とアメリカへの進出を決定。さらに、アメリカでは部分的ではありますが、経験知の有料化にチャレンジします。ある経営コンサルタントの方からは、「海外進 出は無謀だ。課金化も絶対に失敗する」と言われていますが、難しいことを実現することに意義があるんです。そうでなければ最初から私はこの事業を始めてい ませんよ(笑)。誰からもうまくいくはずがないと言われ続けたオウケイウェイヴは、7年で上場企業とまでなったでしょう。うまくいきそうか、そうでないか ではなくて、やるんです。大きな志があって、やり遂げるまで本気で頑張り続ければ、必ず人間は実現させることができる。私はそれだけを信じて、ここまで来 たのですから。多くの人たちに助けられながら。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
誰も手がけていない社会貢献が見つかればGO!成功の可能性がゼロなんてことは絶対にない

 まず、この地球における世界人の中の日本人であるあなたが、世界のために、日本のために貢献できることはなんですか? それをまず考えてみてくださ い。もしも世の中の会社を探してみて、その貢献を手がけている会社がないなら、ぜひ始めるべきだと思います。誰がなんと言おうが、成功の可能性がゼロなん てことは絶対にないですから。その昔、エジソンは言いました。「私は実験において失敗など一度たりともしていない。竹のフィラメントが見つかるまで、電球 は光らないという発見を2万回してきただけ。人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしま う。いよいよこれからだというのに」と。

 ちょっと逆説的な話をします。800兆円といわれる借金を抱え、少子高齢化社会へまっしぐらの日本の将来は本当に危ういです。そんな状況にもかか わらず、日本人は国家に対する思いやりが乏しいと思っています。中国や韓国の人たちは、どうやって国を発展させるか必死ですよ。このままでは、アジアのイ ニシアチブは確実にもっていかれてしまいます。そこで、もしも本当に日本に貢献したいと思うなら、大手企業に入社して、その会社を押し上げるためにパワー を使ってもいいのではないでしょうか。もちろん、さきほど言ったようなチャレンジが見つからないのであればですが。

 オウケイウェイヴは言ってみれば、株式会社日本のITサポート部。私はその部署の部長ですね。ほかの事業部と競い合いながら、日本をよりよい国に するため、助け合いソリューションビジネスを武器に頑張っているわけです。だから、国内だけに目を向けるのではなく、世界というフィールドを視野に、助け 合いソリューションビジネスの輪を拡大するためのチャレンジを続けています。私たちのビジネスが世界に行き渡ることで、世界中の人と人が信頼と満足でつな がっていく。それが実現すれば、きっと戦争もなくなるのではないでしょうか。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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