第12回 株式会社ネクシィーズ 代表取締役社長 近藤太香巳

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第12回
株式会社ネクシィーズ 代表取締役社長
近藤太香巳氏 Takami Kondo

1967年、大阪府生まれ。2度の高校中退を経て、いわゆるフリーター生活に突入。18歳で一念発起し、プッシュホン販売会社に入社。根性でトップセールスの座をつかむ。19歳、父の勧めで個人事業として日本電機通信をスタート。その後、高松に拠点を移し事業に成功。(株)日本テレックス(2000年にネクシィーズに社名変更)を設立。電話加入権をクレジットで分割購入できる「テルミーシステム」を考案。大ブレイクし、会社は急成長を遂げる。94年、東京に進出。携帯電話版の「テルミーシステム」が大ヒット。若者に携帯を持たせた仕掛け人として、一躍“時の人”となる。98年に始めた、ノーリスクハイリピート集客システムで、マーケティング事業に本格進出。「新しいタイプの広告代理店」と呼ばれるように。事業の乗っ取り、上場の延期など、幾度も挫折を味わうが、そのたびに復活。02年3月、34歳でヘラクレス市場に上場。04年、東証一部、大証一部に上場。大学や起業支援機関からの講演依頼は後を絶たない。近著に『日本で一番の情熱会社をつくる』(ダイヤモンド社)など著書も多数。

ライフスタイル

好きな食べ物

鍋物ですね。 
鍋物ですね。独立したての頃は、あまりにも時間がなくて、夕飯も深夜。そうなると疲れてるし、あまり食事も喉を通らないんだけど、鍋物は大丈夫だったとい うか流し込んでた(笑)。それに社員たちと鍋を囲みながら、いろんな話もできるしね。もちろんそれだけでなく、会食が多いのでいろんなものを食べますよ。 最近お気に入りの店は青山の「カシータ」。あそこのサービスは本当に徹底しているよね。最初に行った時に驚いたのが、スタッフが僕の著書を持ってきて、 「サインしてください」って言ってきたこと。中身は読んでないだろ~?って思ったら、「この言葉に感銘を受けたんです」って、ちゃんと読んでた(笑)。そ のほかのサービスもすごいんだけど、あそこまで徹底したら嫌味に感じない。それからは、ちょくちょく行くようになりました。

平均的な一日

センチュリーで牛丼食べに行く。 
僕は代表取り締まられ役(苦笑)。すべて秘書のコントロールのもと、毎日動いています。もちろん朝早く動き出すこともあれば、前日が深夜遅くだと昼頃から 動き出すことも。最近は、本当に会食が多いので、ジャンクフードが無性に食べたくなるんですよ。たまになぜだかコロッケも食べたくなる。社用車のセンチュ リーで牛丼食べに行くこともあったりね(笑)。あとは、就職の説明会が続いているので全国の支社を回ってます。そうすると、社員との飲み会が続くんだよ ね。当然、二次会で、カラオケにも行きます。

趣味

船舶の免許を取ったんですよ。
つい1週間前に、船舶の免許を取ったんですよ。だからこれからは、船をやります。「Nexyz.BB」が成功したら、クルーザーを買っちゃおうと思って る。事業を引っ張ってくれた社員たちを乗せてあげたいからね。あとはバンドかな。年に1、2回ライブもやっています。あ、もちろんボーカルです(笑)。

休日

娘と一緒に遊んでますね。
週に1回は休むようにしています。だいたいは、長女と次女と一緒に遊んでますね。ふたりともフィギュアスケートをやっていて、この間神宮のスケートリンク で練習していたら荒川静香が来たんだって。で、ゴールドメダリストと一緒に写真を撮ったらしい。僕も行きたかった、マジで(笑)。

もしも一週間休みがとれたら

3日以上の休みはいらん!
3日以上の休みはいらん! と思っています。正月休みなんか、ずっと早く仕事したいって焦ってますもん(苦笑)。でも、休んで旅行にでも行けと言われたら……。海外ならプーケット、国内なら沖縄のブセナテラスかな?

日本で一番の情熱会社ネクシィーズのトップとして、常にヒーローであり続けたい!

 19歳、始まりはプッシュホンの販売代理店……。創業者社長として、事業家として、20年間常に経営のトップを張り続けてきた近藤太香巳氏。「テルミーシ ステム」による電話加入権・携帯電話販売への参入、フェラーリ・イデア社とライセンス契約を締結し、オフィシャル携帯電話を販売、懸賞キャンペーンを活用 した新マーケティングサービス事業の立ち上げ、WOWOW社、ソフトバンクBB社、スカイパーフェクトコミュニケーションズ社などとの一次代理店契約の締 結……。常に自ら新たなビジネスフィールドを開拓することで、幾度のピンチをチャンスに変えてきた。そして、東証一部上場、社員数約700名、グループ企 業8社という一大企業に成長した現在も、ネクシィーズの進化は止まらない。「常に社員にとってのヒーローであり続けたい」、そんなちょっとベタなセリフも 彼の口から出ると様になる。そんな近藤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<近藤太香巳をつくったルーツ1>
喫茶店での笑顔の挨拶と、ポール・アンカとの出会い

 実家はビルの1階で喫茶店を経営していて、住居はその2階。学校から帰ってくると、必ず喫茶店を通らないと部屋に行けない。両親からは、「お客さん には必ず笑顔で挨拶」そう厳しく言われてました。「いらっしゃいませ」というたった8文字の言葉でも、適当に言うのと、元気よく言うのとで全く違うものに なるってわかってた。僕のサービス精神っていうのは、この頃に培われたんじゃないかな。

  あと小学校の頃の強烈な思い出。それは、母に連れられて行ったポール・アンカのコンサートでの出来事。コンサートの途中でなぜか僕にスポットライトが当 たって、ポールからステージに上がって来いって誘われたんです。で、彼がピアノで歌う横に座らされた。それも自分の席では靴を脱いで観てたから、靴下のま まで(笑)。ここで会場は大爆笑。結局、2曲歌ってくれたのかな。最後は「マイ・ウエィ」でした。僕が「ありがとう」ってお礼すると、ポールも返して「ア リガトウ」なんてね。そのコンサートの帰り道、「あの子やで~。ステージに上がってた子」ってお客さんたちに注目された。途中で寄ったお好み焼き屋でも、 「あの子やで~」って。この時に、注目されるってすごく気持ちいい! そう強く思った。僕が目立ちたがり屋になったのは、この経験があったからだと思って る。

 勉強はまったくの苦手。偏差値で競争させられるのが嫌で、中学のテストもほとんど受けなかったね。最初から通知表はオール1。さすがにやばいと 思って、数字の1を自分で4に変えて両親に見せた。で、夏休みが終わる前に、修正ペンでまた1に戻して先生に返す。ばれなかった。でも、友だちの細川だっ たかな、このやり方を教えてあげたら、奴が失敗しちゃって。結局、先生にばれちゃった(笑)。でも振り返って思えば、子どもの頃って企画力やアイデアの宝 庫ですよね。

  まあ、いずれにせよ、勉強は大きらいで、中学3年の修学旅行もフェリーの甲板でひとり海を見ながら「来年は社会人か~」なんて、考えてた。でも両親は「せ めて高校は出ておいてくれ」という。仕方ないので、受験したら受かっちゃった。学校に報告に行ったら先生から、「つらいこともあるけど、辞めるなよ」だ と。こっちは、うれしいのに、後ろ向きなこと言うなっちゅうねん! それでも一応、高校へは入学しました。

<近藤太香巳をつくったルーツ2>
ある求人広告のキャッチフレーズが自分の人生を本当に変えた!

 高校はね、辞めました。それも2回退学になってます(笑)。最初の高校では、先生とのケンカが原因で退学。2度目の退学の理由は……。僕は、当時バ イクに命かけてて、ゼロヨンレースにはまってた。群れるのは嫌いだったから、暴走族はやんない。連勝してたゼロヨンレースで初めて負けた日の翌日、悔しい 思いを胸に授業料を持って学校へ通学していたら、バイク屋にあるポスター広告が目に飛び込んできたんです。「このマフラーを装着すれば、ゼロヨンレースに 負けることなどありえない!」。持っていた授業料で、即、買っちゃった(苦笑)。それで、学校に行きづらくなって、結局、退学……。両親には本当に申し訳 ないことしたな~。

  それからは、今で言うフリーター生活に突入。親の勧めもあって劇団に入ったりもした。劇団は自由な雰囲気で、友だちも増えたし、彼女もできた。でも、結 局、劇団は辞めた。18歳でクルマの免許を取って、すぐにトラック運転手の仕事を始めるんです。一番の理由は、クルマがほしかったから。で、コルサのス ポーツパッケージというクルマを220万円のローンを組んで購入しましたよ。ピカピカの新車が購入され、六甲山へいざドライブというか峠攻めに行った初日 に、なんといきなり事故っちゃった……。クルマは全損でスクラップ。幸いにも、僕と同乗者の友人はかすり傷で済んだけどね。でも、納車からたったの17時 間後にクルマは廃車、ローンだけが残ったわけです。それからは何もやる気が起こらず、ふさぎこむ日々。「あのクルマ、いったい1時間でいくらの計算やね ん……」って、部屋で電卓を叩きながら(苦笑)。

 転機はその数カ月後にやってきます。偶然通ったJR大阪駅前で、当時付き合ってたバスガイドの彼女が働いているシーンに遭遇。なんか、バスを誘導 している彼女がすごく生き生きして見えたんですよ。俺はいったい何をやってんだ! と、我にかえり、何でもいい、心機一転働き出そう! そう思った。そし て求人情報誌を買って家に帰り、パラパラとページをめくる中で目に留まったのが、このキャッチフレーズ。「誰にでもできる簡単な仕事。NTT関連。人生を 変える価値ある仕事。平均月収40万円以上!」。今の僕にぴったりだ! そしてすぐに面接に出かけました。

 最初は担当者から、「若すぎるから無理だ」と断られかけたけど、途中でふらりと出てきた男性から「君の尊敬する人は?」と質問され、とっさに僕が 「トム・ソーヤーです!」と返したら、「面白いやっちゃなー、じゃあ明日から来い」となった。後でわかったんだけど、そのふらりとやって来た男性がこの会 社の社長だったんです。

<営業という仕事との出会い>
鏡とほしいクルマの写真をポケットに、気合で営業に駆けずり回る日々

  仕事の内容は、当時一般家庭で使われていた黒電話をプッシュホンに変えませんかという営業です。いわゆる訪問販売であり、どぶ板をはがすような泥臭 いスタイルの営業。それも1台のプッシュホンが20万円もする。朝から深夜まで働いて、給料は固定給ゼロの完全歩合制。当然きついので、みんなボロボロ辞 めていく。僕自身もかなり迷ったけど、今日はダメでも明日は絶対に契約が取れる……、そうやって自分を叱咤しながら、可能性にかけることに決めた。自分は もう決して逃げないし、新しいクルマがやっぱりほしいと(笑)。いつもポケットに鏡とほしいクルマの写真を持って、鏡はお客様に嫌われないよう笑顔を確認 して、クルマの写真は「買うぞ!」って気合入れるため(笑)。結局、半年後に僕はトップセールスになっちゃったんです。ちなみに、同期入社50人のうち数 週間に残っていたのは僕とあとひとりだけでした。

  その後、僕の名前は関西の通信業界でも知られるところとなり、先輩に誘われさらに高給が得られる同業会社に転職。そこでも成績優秀者で、販売代理店として の契約を結ぶことになります。ちょうどその頃、父親から、「それほどやれるなら自分でやればどうか」とアドバイスされ、日本電機通信という屋号で事業を始 めたのが19歳の時。10万円で購入した中古車で、浜田省吾の「マネー」を大音量でかけながら毎日営業してました(笑)。そして、徐々に社員を増やして いったのです。

 社員のうちのひとりが、四国出身で、「四国はまだまだ売れる」としきりに勧める。遠征して調べてみると、確かに可能性は大きそうだとわかった。そ れをきっかけに本拠地を四国・高松に移転したんです。現地で採用した社員は、最初はどうしようもないほどイケてないヤンキー上がりばっかりだったけど、と にかく自分がこれまで学んだ営業ノウハウを徹底的に指導して教育した結果、業界初の東芝ホームテレフォンの代理店にも選ばれ、1年後には業界ランキング全 国トップテンに入るほどの会社になったんです。

 会社がそんな風に急拡大し始めると、このまま営業力だけでビジネスを続けていっていいのか? 僕たちは世の中のニーズに本当に応えているのか?  そんな疑問がわいてくるわけです。そんな時、お世話になった東芝の取締役から、「戦争とビジネスの違いを述べよ。陸軍と海軍の違いは?」という謎かけの質 問ファクスが届いた。悩んだ挙句自分で導き出した答えは、「より多くの人のためになることをする、ひとりの力よりも組織の力で事業を運営していく」こと。 そして、僕と会社の方向転換のきっかけになったのが、1枚のレンタル電話の営業チラシでした。

<テルミーシステムの誕生>
不満を満足に変えたアイデアが、若者たちから大絶賛!

 当時、約7万円というNTTの電話加入権は学生や若者にとって高額で、電話がつけられない人も多くいたんです。そこでレンタル電話というサービスが 登場。月2900円払えば電話回線が引けることが人気でした。でも、2年間支払うと加入権自体が買える金額になるのに、レンタルゆえ加入権は自分のものに ならないわけです。レンタル電話の営業チラシを見た瞬間にひらめいた僕のアイデアは、月2000円の積立金だけで電話が使えて、満額になれば加入権が自分 のものになる。途中で不要になれば6万円で当社が買い取るというシステム。これを「テルミーシステム」と名づけて、売り出すことにしたんです。

  このシステムはクレジットが前提ですから、まず信販会社に協力を持ちかけました。最初、信販会社からは、当時の常識ですが「電話が自宅にない人にクレジッ トは組めない」と断られます。でも、僕としては、実は営業用パンフレットを同時進行で印刷してましたから、後には引けないわけです(笑)。何度も担当者を 説得し、本気度と成功の可能性を納得してもらい、OKを引き出しました。結果、予想以上の反響で、四国の学生の間で大ブレイク! 仕掛け人である僕がまだ 20歳前半という点も珍しかったのか、テレビ取材が来て、さらなる大反響を呼んだんですよ。これまでの訪問営業では考えられないほどの売れ方に驚いたと同 時に、世の中のニーズに対するマーケティング、顧客を呼び寄せる仕組みの重要性を学びました。

  四国でこれだけやれるんだから、今度はもっとでかいマーケットで。そう考えていた頃、昔の知り合いが東京で一緒にやらないかという話を持ちかけてきます。 当然、自信があったのでその話に乗り、東京の原宿に事務所を構えることに。その時に目をつけたのが携帯電話です。当時は携帯電話の保証金が20万円、基本 料金が月1万円という高嶺の花で、セレブたちのステータスシンボルでした。これを若者たちに持たせたい! 絶対にはやる! そう確信して、月2000円で 携帯電話が持てる「テルミーシステム」の携帯版を企画しました。そして宣伝のため、当時人気だった「たけしのスーパージョッキー」の熱湯コマーシャルに出 演します。そしたら、オンエア中から事務所の電話が鳴り始めて、あっという間に17回線がパンク。その後も、約1ヶ月間は事務所の前の竹下通りに100m もお客様が列をつくるほどの大人気です。東京のマーケットのすごさを実感しましたよ。

 でも、いいことばかりは続かない。僕を東京に誘ったあの知り合いに裏切られるのです。「もうノウハウはわかった。事務所を明け渡して田舎に帰れ」 ということらしい。いわゆる事業の乗っ取りです。弁護士とその人間がやってきて、いきなり乗っ取りを宣告された時は頭が真っ白になりました。で、翌日社員 が事務所に荷物や僕の書いた企画書を取りに行ったら、不法侵入で逮捕されてしまった。それで彼を釈放する代わりに、完全に手を引くという書類にハンコをつ いたというわけです。僕は当時23歳の若造で、契約ってなに? そんな状態でしたから。それから3カ月間は、何もする気になれない状態が続きます。でも、 絶対にこのままでは終わらない。東京で必ずリベンジを果たす。短い雌伏の期間の中で、僕の心に灯った小さな火は、少しずつ大きな炎に変わっていきました。

モノだけではない、価値が求められる時代の到来!ネクシィーズの本領発揮はまだまだこれからです

<東京でのリベンジ>
テルミーシステムのさらなる進化が、新たなキャンペーン事業を呼び寄せた

 どうやって、僕のリベンジがスタートしたかというと。テルミーシステムの仕組みとノウハウを詰め込んだ「テルミープラザ」というフランチャイズ ショップの展開です。それもこれまではどこも手がけていなかった、すべてのキャリアの携帯電話を取り扱うというおまけもつけました。これが当たった。92 年のことでした。そして、僕が予想したとおり携帯電話は爆発的なスピードで普及していきます。そして、新たな企画を思いつきます。携帯電話を無料で配っ て、各キャリアがユーザーからの通話料で利益を回収するというスキームです。これまた大反響を呼んで、その後事業は順調に拡大していきました。

 事業は順調に推移しながらも、僕は常に新しい企画を探し求めることを止めません。PHSが登場した時は、いち早く代理店として参加したいと手を上 げ、上場企業以外では初となるNTTグループとの代理店契約に。また、「X JAPAN」「西武ライオンズ」などのプレミアムPHSの企画販売を実施……。などなど、販売力の強化を進めながらも、企画力でも勝負できる会社に育てて いったんです。

  その後、さらなる飛躍の転機となったのが、98年からスタートした「無料タイアップキャンペーン」。これは、様々な企業のキャンペーンの商品として、無料 でもらえる携帯電話を提供し、応募ハガキの印刷代、データベース作成費用などのコストをすべて当社が負担するいわば懸賞キャンペーン代行業です。企業に とってはコストをかけずにキャンペーンを行うことができ、ユーザーは無料の携帯電話がもらえる、そして当社は携帯電話の契約料金から収益を得られるわけで す。携帯電話以外にも、CSやBSの放送受信機など様々なデジタルツールも商品に加わり、当社の大きな収益の柱として育っていきました。当社が「新しいス タイルの広告代理店」と呼ばれる所以です。

 ちなみに、1997年に僕は会社概要にこんな言葉を残しています。「西暦2002年。その会社は、成長してビッグカンパニーとなった。なぜなら ば、その小さな会社には、若い力と行動力、そしてなによりも『テレコミュニケーション』があったから」。そのとおり、2002年にネクシィーズはナスダッ ク・ジャパン(現・ヘラクレス)に上場したわけだけど、当時にあったのは「こんだけ頑張ってんだから5年後は絶対にデカクなってんだろ!」という根拠なき 自信だけでした(笑)。

<ネクシィーズ進化の裏側にあったもの>
突然の上場中止。失意の中、会社のために、巻き返しの一発逆転を狙う!

 僕は、ピンチの後には必ず大きなチャンスが巡ってくると信じてる。2002年に上場する数年前にも大きなピンチを乗り越えなければなりませんでし た。本当は2000年に東証マザーズに上場する予定で、上場実現まであと2週間となった日に主幹事証券会社から1本の電話が。ITバブル崩壊による市場環 境の悪化が想像以上にひどいため、上場をあきらめてほしいと……。銀行もみんな手を引いてしまって、僕の貯金を使っても、キャッシュがまわりそうもない。 そんなピンチの時に、オフィスの片隅である社員たちの会話を耳にしたんです。「一番つらいのは社長だろ! 俺たちも頑張ろうぜ!」と。うれし泣きしそうで したよ。「よっしゃ、絶対に盛り返したる!」。もう一度奮起することができました。

  これだけ営業力のある当社を、あの会社なら絶対に必要と考えてくれるはず。それはソフトバンク社。そう読んで、資金援助を打診するために同社の門をたたき ました。そして15分間だけ時間をもらったソフトバンクインベストメント(現・SBI)の北尾氏にプレゼンテーションしたところ、「30億円の第三者割り 当てを引き受けましょう」となった。一発逆転! この時は、久々に「俺はやっぱり社員たちのヒーローだ」と思いましたよ。ただ上場中止からこの間は、マジ で1秒たりとも気が抜ける時間はありませんでした。

  僕は上場前に、会社名を変えました。それが現社名である“Nexyz”です。「XYZ」のさらなる、究極の「NEXT=先」へ。そんな思いと志を込めてつ けた社名です。上場後、ソフトバンク社の孫正義氏からの要請を受け、ソフトバンクBB社と一次代理店契約を締結します。そして、「らくらくYahoo! BBサービス」の販売をスタート。孫氏の「日本のブロードバンド業界に革命を起こしたい」という思いに共感し、この斬り込み隊長役を買って出たんです。

  当社は2005年11月より、ソフトバンクBB社が提供する ADSLのアクセスラインを利用した個人向けインターネット サービス プロバイダ「Nexyz.BB」を開始しました。ユーザーにインターネットをより快適に、楽しくご利用いただける独自の様々な会員サービスを提供していま す。このサービスが、これからのネクシィーズグループのビジネスフィールドを広げる基盤となるビジネスになるでしょう。

<未来へ~ネクシィーズが目指すもの>
「Nexyz.BB」の拡大で、インターネットユーザーにうれしい、楽しい、面白いを、どんどん提供!

  これからのネクシィーズがどうなっていくか? 青汁つくって売ってるようなシンプルな会社ではないから、一言では言えないな~。でも大きく3つの柱 がある。1つ目は、大手広告代理店ではできない仕組みの販売促進といえるプロモーションマーケティング。2つ目は、従来にない説明型のテレマーケティン グ。3つ目が、モノを売るためのディストリビューション。この3つの柱がコラボレーションすることによって、今後もネクシィーズは成長していくと思ってい ます。その証拠に当社は、衛星放送やブロードバンド提供各社の国内ナンバーワン・ディストリビューターになってきたし、デジタルツール以外にも食品会社・ 化粧品会社・通販会社など提携会社がすでに120社ほどあるんですよ。

  世の中はモノの時代から、やっと価値の時代になってきた。どんなにハイテクノロジーが発展しても、今は自分にとってそれが、どううれしいのか、楽しいの か、面白いのか、その価値がわからないと手にとってはくれません。デジタルという便利な道具を使って、リアルな誘導でユーザーと価値を結びつけていけるの がネクシィーズの最大の強み。これは今後もずっと変わらず、ナンバーワンのポジショニングを維持していきます。

  そして先ほども述べましたが、ISP「Nexyz.BB」の拡大です。過去3年間、Yahoo!BBの販売を行ってきましたが、当社はユーザーが支払う月 額基本料金の数パーセントを売上げ計上できる収益構造となっています。今後は、ISP料金の全てが当社に売上げ計上できるようになりました。今さらISP かと思う人も多いでしょう。しかし、日本のインターネットユーザーの30数%は未だにダイアルアップ接続なんですよ。この事業には初期設備投資もそれほど かからず、1ユーザー当たり月間1290円の使用料がすべて当社の継続収入となるわけです。そして、ここにユーザーが望むであろう様々なセキュリティ、動 画、証券取引などのサービスを付加価値として提供していく。当然、冒頭に説明した当社の強みである3つの柱をフル稼働してね。現在、ユーザーの平均使用料 が月1500円ほどですが、数年後には2000円くらいになると予測しています。

 そして、グループ戦略も着々と進行中です。今年の4月にネクシィーズは持株会社に移行しています。そして8社あるグループ会社をひとつずつIPO させていく。社員が活躍する場所も増えますしね。当然、社長に据える人材は、きちんと株を持ってもらい経営者として頑張ることができる仕組みです。僕が ヒーローであり続けたいように、社員にもどんどんヒーローになってほしいんです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
考えすぎるとどんどん動けなくなる。ワクワクする夢が見つかったら行動しよう!

 まず、社長だけが経営者ではないということを言っておきたい。例えば、ものすごい成長企業で100人の部下を持つ部長と、社員数5人の社長と、どち らのステージが高いか? おそらく前者でしょう。結局、その部長は100人の部下を守ることができると認められたから部長になったわけです。それはまさに 経営者の感覚と同じ。責任感が大きいから、給料も高い。会社員でも経営者感覚を持って仕事をすることはできる。そういうこと。今あなたが普通の社員とし て、それがわかったうえで社長に本当になりたいのか、そう考える感覚を持ってほしい。

 僕のところに起業相談に来る人は多いけど、これで俺は生きていくという覚悟や決断ができていないケースが多いね。「やるかやるまいか、迷ってるんですけどどう思いますか?」って言われても僕にはどう言っていいか(苦笑)。

 今思うに、最近の若い人はいろいろ考えすぎなんじゃないかと思う。考えれば考えるほど、人間は動けなくなっちゃう。若いうちは、「これだ!」って いうワクワクする直感が浮かんだら、すぐに行動に移すべきだと思うよね。できるだけ若いうちに、小さな失敗をどんどんしておくほうがいいんだし、痛いこと は早めに知っておいたほうがいい。もちろん、起業したら経営者はきつい。最初はきっとほぼ24時間営業だし、時給に換算したらもうあり得ない収入だったり することは覚悟しとかないとダメだよね。でも、ロマンだけはあるぞ!(笑)

 僕はピンチになったら社員に正直にピンチを伝えているけど、その裏側には絶対にこいつらを守ってやりたいという強い気持ちを持ってる。たとえば、 僕が独立した時、独立前は60万円くらい毎月稼いでいたけど、最初の社員は何もできないから、自分の稼ぎを分け与えなければならないでしょう。これをもっ たいないと思うようじゃダメだよね。だから常に未来の大きなドリームを信じて、分け与えるホスピタリティが必要だと思う。これは会社が大きくなってからも 変わらない僕のポリシーです。今年の新入社員にも、「これから大変だぞ!」と言いながら、100株のストックオプションをあげたからね。そんな太っ腹な会 社って、あまりないよね(笑)。

 あと、成功したい、勝ち残りたいってことばかり考えている人があまりにも多いよね。でも、起業は継続させること、生き残ることが一番大事なんです。そのことを忘れずに頑張ってください!

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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