第144回 株式会社ファインドスター 代表取締役社長 内藤真一郎

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執筆者: ドリームゲート事務局

第144回 株式会社ファインドスター 代表取締役社長
内藤真一郎 Shinichiro Naito

1967年、鹿児島県生まれ。6歳からは東京で育つ。1991年、日本大学農獣医学部(現生物資源学部)拓植学科卒業後、リクルート人材センター(現リクルートエージェント)入社。1年目に営業職として、MVPに選ばれる。約4年勤務後、友人が設立した建設関連のベンチャー企業に転職。産業廃棄物処理、カフェの内装など、未経験の分野の仕事に奮闘するが、入社2年目に倒産。1996年、インターネット接続アダプター「ラインチェンジャー」を開発し、アレスト(現ファインドスター)を創業。同製品の広告チラシをインターネットプロバイダの会員誌に出稿し、在庫を完売。驚きの効果を実感する。2002年、ニッチメディアの広告代理業をスタート。同業界のパイオニアとして、請求書などの同封、同梱広告、フリーペーパー、会員誌、サンプリングなどのニッチメディア情報を集めたサイトを次々に立ち上げる。現在、同社を含めたグループ企業4社で、通販企業に特化した売上支援サービスやマーケティング情報のポータルサイトなどを運営。著書に『コストをおさえてリピート客を増やす!! 効率3倍アップのニッチメディア広告術』(ダイヤモンド社)がある。

- 目次 -

ライフスタイル

趣味

読書です。
昔から、ジャンルを問わず、本を読むことが趣味です。あとは、投資でしょうか。勝率は、あんまりよくないですけど(笑)。

好きな食べ物

寿司です。
一つ挙げろと言われたら、寿司ですかね。お酒はけっこう行ける口ですよ。ビールに、最近はワイン、焼酎。この3つでしょうか。

行ってみたい場所

北欧です。
北欧に、まだ言ったことがないんです。ノルウェーやフィンランドなどの世界観が好きです。1カ月ほどかけて、北欧諸国を旅してみたいです。

お勧めの本

『成功者の告白 5年間の起業ノウハウを3時間で学べる物語』(講談社)
著者 神田昌典

売れるタイミング、事業の成長と失敗のきっかけ、持ち上がる数々の難題……。すべては見えざる法則がある。全国1万人を超える経営者に成功法則を伝授してきたカリスマコンサルタントが、そのエッセンスを1冊に凝縮しています。読了後、なぜ自分のことを知っているのかと驚きました。周りの経営者もみんな同じように思ったそうです。これから起業を目指す人にとって、どんな世界が待ち受けているのか。楽しさも恐さも疑似体験できる、良書だと思います。

ニッチメディア広告の新たなマーケットを創出し、
今、 “売上支援”でさらなる高みを目指す!

リピート通販業界に特化した、売上支援サービスで、新しいかたちの広告ビジネスを構築。ファインドスターグループの、ニッチメディアを含めた最適な媒体選定、顧客の心をつかむクリエイティブとCRM(リピート支援)の提供が、多くの企業から感謝の声を集めている。この会社をけん引し、さらなる高みを目指しているアントレプレナーが、内藤真一郎氏である。「今、従来の広告代理店が展開してきた、“広く告げる”というビジネスモデルはすでに終わっていると感じています。突き詰めて我々のビジネスを考えてみると、顧客の課題を解決し、売上を高め、利益を残す、売上支援事業だと思うのです。そのために一番必要なものは何か。答えは、効率よく、リピーターとなりえる新規顧客を獲得し続けることができる仕組み、であるはずです」。今回はそんな内藤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<内藤真一郎をつくったルーツ1>
勉強はそこそこに、読書と漫画に明け暮れた少年時代。
夢は『週刊少年ジャンプ』の編集長になることだった

 父はプロテスタントの牧師をしていました。私が生まれた当時は、鹿児島県で活動しており、ラサール中学の教師もしていました。母は父を支える専業主婦。兄弟は弟二人、妹一人。私は四人きょうだいの長男です。6歳まで、鹿児島ですごしたのですが、その頃の記憶はほとんどないですね。幼稚園の年長からは、父が新宿区の大久保に赴任することになり、それからはずっと東京で暮らしています。クリスチャン家庭だから、穏やかな感じかと思われるかもしれませんが、父は厳しかったですよ。いたずらをして蹴りを入れられたことを覚えています(笑)。小学生になった私ですが、スポーツは苦手、勉強はそこそこ、漫画と読書が大好きな少年でした。リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』とか、世界各国のいろんな児童文学を読みあさっていましたね。

 勉強はですね、算数と国語が得意でした。算数はもともと好きで、国語は読書が趣味だったからでしょうか。ただ、ほかの教科はまったくダメなんですよね。父が教師もやっていたでしょう。一所懸命、勉強を教えてくれるのですが、親って自分の子供には感情的になるんですよね。「何でできないんだ!」と怒られているうちに、だんだん勉強することが嫌いになっていきました。特に暗記が必要な教科が大嫌いで、机に向かうことがいやでいやでたまらなかった。家に卓球台があったからという理由で入部した卓球部は1年で退部。読書部に所属して、やっぱり本を乱読していました。漫画も相変わらず大好きで、中高の6年間で、1500冊くらいのコレクションができました。この頃の夢は、『週刊少年ジャンプ』の編集長になることでしたね。

 高校は、私立大学の付属校に行きたかったんですよ。数学と国語は偏差値70。ただし、英語は35……。やっぱりそれじゃあ、難しいんですよね。結果的には、行きたかった高校には行けず、進学したのは、埼玉県の川越市にある私立城北埼玉高校です。男子校で、入学してみたら、1学年、1クラス50人、14クラスもあって、びっくりしました。進学校ですから、頭のいい順にクラス分けされるんです。理系選抜、文系選抜とそれらのクラス分けが、バッジの色でわかるんですよ。数学と国語はできた方なので、1、2年は普通クラスですが、その中ではわりとできたほうだと思います。でも、物理の“モル”で、つまずいてしまった……。先生の教え方が下手だったんですよ、きっと(笑)。結局、そこから文系に転向して、どんどん成績が落ち始め、私立文系普通クラスでほぼ一番下。高3でディスコ遊びに少しはまったりしましたが、それ以外は、帰宅部で、漫画ばかり読んでいる、超落ちこぼれの高校生でした。

<内藤真一郎をつくったルーツ2>
友人のアドバイスもあり、一浪で穴場の大学に進学。
いろんな価値観に出合い、漠然と起業を目指すように

 親からは、「いい大学へ行け」と言われ続けていましたが、そんな体たらくでしたからね。現役で受けた大学は、日東駒専、大東亜帝国クラスの中から7、8学部。ことごとく、ダメでした。だったら、専門学校へということも考えましたが、1年間だけの約束で、浪人をさせてもらうことに。そこから必死で巻き返しを図ったかというと、そうでもなくて、そこそこ(笑)。昼間は予備校に通って、図書館が終わる時間まで勉強して、夜は図書館で借りてきた本を読む。そこそこだから、偏差値もそれほど上がらず……。そんな時、高校時代の同級生に会った。彼は、私と同じ私立文系クラスで、同じくらいの落ちこぼれだったのですが、大学に現役合格していたんです。「何で、おまえが?」「内藤、実は、穴場があったんだよ」と。それが、日本大学農獣医学部拓植学科(現生物資源科学部)でした。

 ここは、言ってみれば農業経済学を学ぶ学科で、彼は必至で受験する大学を調べて、この学科の偏差値が低いことを突き止めていたんです。「これはいい!」と、私もこの日本大学農獣医学部拓植学科を受験し、翌年に合格。一浪はしましたが、何とか大学生になることができたというわけです。大学に通い始めて愕然としたのは、歴然とした貧富の差があること。ベンツなどの高級車に乗っている学生が、ごろごろいた。バブル絶頂期ということが大きいとは思いますが。いろいろ聞いてみると、彼らはサラリーマン家庭ではなく、だいたいが自営業を行っている家庭の子息だったんですよ。また、最初にアルバイトを始めたレンタルビデオ店のオーナーに言われました。彼は、BMWに乗っているかっこいい大人で、「内藤、社会人には二とおりある。雇われる側になるか、雇う側になるか。おまえもお金持ちになりたければ、後者を目指せ」と教えてくれました。

 実家は収入の面では普通の家庭でしたので、いつか雇う側になれれば、裕福な世界に行くことができると思っていました。振り返れば、高校受験もいまひとつ、大学受験も失敗。漠然と起業に憧れるようになりましたが、卒業後、いい会社に就職できなければ俺の人生は終わりだなと思っていました。そのために、大学の単位をどんどん取って時間をつくり、人よりも早く会社で働く経験をしようと決めました。あとは、やっぱりモテたいですから、夜中のガードマンの仕事とか、いろんなバイトをして新車のシルビアを購入。自分がモテないのは、車がないからだと思い込んでいましたけど、それでモテるようになったかどうかは、微妙です(笑)。バイト以外の思い出としては、予備校時代に出会った友人と、イベントサークルをつくって活動したことでしょうか。当時はディスコ・クラブブームで、けっこうパーティが盛り上がっていたんですよ。最盛期には、六本木をメインに10箱ほどを借り切って、1000人くらいが参加するイベントを運営するなどしていました。

<会社員時代>
必死のリベンジ営業で、1年目に全社MVPを獲得。
描いたキャリアどおりに昇進していくはずが……

 大学3年になって、リクルート社で営業のバイトを始めました。当時、リクルート事件がマスコミを騒がせていたんですよ。新聞の一面では、リクルートが糾弾されていましたが、中面で紹介されていたリクルートの社風に興味をそそられた。それでアルバイト情報誌を見て、週4日の営業採用に応募したんです。結果、筆記試験の結果がよかったようで、即採用され、大手企業の新卒採用を担当する部署に配属されました。もちろん学生ですから与えられた仕事は、中小企業をターゲットとした電話営業。中途採用の広告は何本か受注できたのですが、いつまでたってもメインの新卒採用広告が売れません。それがすごく申し訳なくて……。でも、4カ月後の営業最終日に、必死で追いかけていた原宿のアパレル会社から、50万円の新卒採用広告を受注できたんです。申込書を最終日の夕方に会社に持ち帰ったら、社員の皆さんがすごく喜んでくれた。小さな受注ではありましたが、やっと一矢報いることができた、それがとてもうれしかったですね。

 その後、学生バイトは私も含め全員、営業から原稿担当に職種替え。社員が受注した広告内容に間違いがないかどうか、大手企業の人事部の担当者に確認を取ることが主な仕事でした。これを大学4年の秋くらいまで続けていました。その仕事を続けるうちに、薄々気づいてはいましたが、超が付く大手企業は、一流大学の学生しか採用しない現実を目の当たりに。日本大学の自分は、一流企業を受けても時間の無駄。それがわかっただけでも儲けものでしたね。効率的な就職活動ができますから。いつか起業を目指すわけですから、でき上がった大企業ではなく、これから成長する企業で働こうと。人材マーケットがこれから伸びていくことを実感していましたので、人材サービス会社はけっこう受けました。その中の一社、リクルートのグループ会社のリクルート人材センター(現リクルートエージェント)から内定をいただき、お世話になることを決めたのです。入社初日にお伝えしました、「売れなかったらすぐに辞めますから、長くご迷惑はおかけしません」と(笑)。

 私にとっては、リクルートでのバイト時代、まったく売上貢献できなかった自分へのリベンジでもありました。そもそも人に迷惑をかけたり、借りをつくることが嫌でした。そして希望どおり営業職となり、不退転の覚悟で臨んだ1年目、必死で営業に取り組んだ結果、MVPを獲得することができました。これはものすごく嬉しかったですし、自信にもなりました。営業活動をとおして、実に多くの業種の会社を見られる中途採用マーケットも、自分の起業準備としてはよかったです。入社して5年目に課長になってマネジメントを2年やり、その間に起業する業種を定め、転職して30歳で起業する、それが自分で描いたキャリアプランでした。でも3年目で係長になって、じゃあ次は課長だという時、組織が縮小したこと、業績が悪いことを理由に、「内藤の同期は当面課長はない」と言われ、本気で転職を考えるようになりました。

<どん底時代>
営業から一転、産業廃棄物の処理仕事に従事する。
しかも会社が倒産し、ブローカー仕事で食いつなぐ

 ちょうどその頃、知り合いが建設会社を立ち上げたんです。起業して経営者となった同年代の彼から、「事業を手伝ってほしい」と声をかけられました。会社のスタートアップ期を経験できることは貴重な経験と思い、二つ返事で快諾。リクルート人材センターを退職し、その会社で働き始めました。しかし、人材業界の営業と建設業界の営業は当然ですが、やり方がまったく違うわけです。結果が出せず、社長の方針にも何度も衝突。結局、新規事業の産業廃棄物処理の現場仕事に異動することに。作業服を着て建設現場に出向き、解体作業をし、最後にそこで出された資材を袋詰めにしてトラックで処理施設まで運ぶ毎日。これが約4カ月続きました。つらい肉体労働でしたが、絶対に自分からは辞めないと決め、働きました。もう、意地だけしかなかったですね。友人からは、「リクルート時代は楽しそうだったのに、すごくつらそうな顔をしている」と言われたことを覚えています。

 その後、この現状を打破すべく再び建設営業で、一人震災後の神戸に出向くことになりました。社長がトップ営業で取ってきた、某大手企業のカフェ建設の仕事です。出入りの業者からのスイッチだったので、担当窓口の方も私のことをよく思ってくれるはずはありません。初めての土地で初めての仕事。担当窓口の方からは毎日罵倒され、いじめられ、あの4カ月は精神的にかなりきつかった。でも、最終的にはカフェは無事オープン。この仕事を終えた時、自分はどんなつらい仕事もやっていけるという自信が持てました(笑)。ただし、その建設会社がもろもろの赤字工事で資金ショートし、設立3年目にしてあえなく倒産……。自分たちは給与未払いのまま、いきなり放り出されてしまった。後学のためにと、債権者として債権者会議にも出席しました。いずれにせよ、職を失ったわけです。もう転職する気はなかったので、この会社で一緒に働いていた、大学時代からの友人と、その彼の実家である九段下のお肉屋さんの2階で、何でも屋的な仕事を始めることになるんです。その時、私は28歳になっていました。

 それから1年くらいは、広告代理業を中心としたブローカー仕事で何とか食いつないでいました。そんな時、前職の建設会社で一緒にやっていた社員から、「倒産した会社の友人のエンジニアがパートナーを探している」という話が私に届きます。彼は、企業やホテルの交換機経由でインターネットに接続できるアダプター「ラインチェンジャー」を開発しており、その製品を見た瞬間に「これは売れる!」と直感。そして1996年にアレスト(現ファインドスター)を設立し、販売を開始しました。最初は苦労しましたが、知り合いの紹介でインターネットプロバイダの会員誌にチラシを同封する機会に恵まれました。5万枚を配布させてもらったところ、1万円のアダプターがまたたく間に500台売れた。その効果に驚きました。その後も、携帯用、テレビ会議用、海外用と、顧客の声を聞きながら新シリーズを開発し、販売を継続。起業から数年間は、アダプターの開発・販売が当社の主なビジネスだったのです。

●次回、「売り上げ支援業を標榜し、新たな広告代理店のかたちをつくる!」の後編へ続く→

100社のベンチャー企業で、1000人の雇用を創出!
世の中に影響力を持つグループ企業をつくるのが夢

<売れる仕組みを発見>
広告媒体としてのニッチメディアの可能性を信じ、
「同封同梱ドットコム」をカットオーバー!

 ちなみに、「楽天市場」スタート時のテナント数は、13店舗。当社もそのうちの1店舗だったんですよ。ユーザーの声を聞きながら、製品をバージョンアップさせ、販売を続けていく中で、何通もユーザーからの感謝の手紙が届いたり、中にはわざわざオフィスまでお礼を言いに来てくれた方も。誰もやってないことを仕事にし、「困った」を解消するとものすごく感謝される。ビジネスの本質を、ラインチェンジャーという商品を通じて、教えてもらった気がしています。その後、ITバブルの幕開けと共にホームページの制作にも参入。従業員数も増え、2000年くらいまでは、順調に推移していました。しかし、ITバブルが崩壊し、制作会社の競合でコンペが増え、受注価格も下落。さらに、一番の大口クライアントを担当していたトップ営業マンが、クライアントを抱えたまま退職してしまうんです。

 この時ホームページ制作の参入障壁が低いことを、いやというほど思い知らされました。会社の決算も赤字に転落。早急に、誰もやっていない、競合が真似できないビジネスモデルを考えなければ……。そうは言っても簡単には見つかりません。クライアントを回って、「何か仕事はありませんか」と営業を続けました。すると、結婚情報サービスの役員から、「最近、マスメディアでの広告の反響が落ちてきている。うちで反響がいいのはカードの請求書の同封なんだよね。そういった媒体ないの?」との相談が。その3日後、偶然にも広告代理店の知り合いから、石油会社が発行しているカード会員の請求書に同封する広告を探す仕事を持ちかけられたんですよ。ラインチェンジャーも、プロバイダの会員誌の同封チラシで売れたことを思い出しました。すぐにその話を持ちかけたところ、「やってみよう」となった。

 結果、配布を開始した数日後、結婚情報サービスの役員から、「ものすごい反響が返ってきた。年間契約したい」と連絡が来たのです。この成功で、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌の4マス媒体以外のニッチメディアの広告としての可能性に気づいたわけです。ニッチな広告媒体を専門に扱っている会社はほとんど存在していません。今から始めれば、この市場でトップを取れると思いました。2003年、キーワード広告の代理店をしていた先輩経営者からのアドバイスで、ニッチメディア媒体を集めたサイト「同封・同梱ドットコム」をカットオーバー。ニーズがあったとしても、伝える手段が脆弱では、マーケットは広がっていきません。そういった意味で、先輩の助言は非常にありがたかったです。

<三方よし>
リーマンショックの前後に幹部社員が大量離職。
理念経営へのシフトで会社を生まれ変わらせる

 「同封同梱ドットコム」をリリースし、ふたを開けてみれば、新たな広告媒体を探していた広告代理店や企業から多くの問い合わせが殺到しました。WOWOWさん、シティバンクさんなど、大手企業からの問い合わせも数多くありました。仕事もどんどん決まり、富裕層、シニア、子どもを持つ女性など、ターゲット層に適したニッチメディアを集めたサイトを20ほど立ち上げ、業績は右肩上がりで伸びていくことになります。当社の仕入れ先である媒体側は新たな収入源を確保でき、広告会社や企業にとっては費用対効果のよい新たな媒体が探せる、そのうえで当社も売上が上がる、三方よしのビジネスモデルがかたちになったのです。

 仕組みができ、従業員も増加し、売上も順調に推移していた2008年、ご存じリーマンショックが勃発します。その前後に、幹部社員が大量離職してしまいました。事業拡大に合わせて人をいっきに増やしましたが、組織マネジメントにはいっさい気を配っていなかった。新卒3年目の女性に営業マネジャーを任せたりと、まさに、いけいけどんどん。もうひとつは、価値観の相違です。設立当社、ファインドスターはベンチャー企業だったはずが、いつの間にか安定志向の人材が増え、会社全体のベンチャーマインドが薄まっていきました。そこに違和感を持った古参社員も会社を去っていきました。バスがどこに行くのか(ビジョン)よりも、バスに誰を乗せるのか(価値観重視)が大事。コリンズの『ビジョナリーカンパニー2』の教えを思い出しました。

 その反省をもとに、自分たちが大切にするべき、価値観を明文化することにしました。ビジネスで一番大事なのは信頼です。信頼はその人の人格からしか生まれません。そして、人格を高めるために理念経営を取り入れることを決断したのです。稲盛和夫さんの「盛和塾」で学んだ影響もありました。今後は、優秀な人よりも、人格を大切して人材を選ぼう。さらには、経営陣で当社の企業理念となる「新しい価値を創造し、ファインドスターグループにかかわるすべての人が幸せになる」を創出。そのうえで、クレドカードをつくって全スタッフに配布し、朝礼での唱和も始めました。最初はかなり抵抗されましたが(笑)、今では日常の風景です。

<未来へ~ファインドスターが目指すもの>
当社の売上支援事業で、もっともっと
世の中の多くの企業を元気にしたいく

  理念経営にシフトした結果、スタッフの定着率は格段に向上しました。現在、当社を含めたファインドスターグループは、4社。連結のスタッフ数は100名強。ニッチメディア広告事業に参入して以降、売上も2008年に一度ダウンしましたが、あとは右肩上がりで増加しています。そして、前期の連結年商が40億円、今期は55億円の計画です。今、従来の広告代理店が展開してきた、「広く告げる」というビジネスモデルはすでに終わっていると感じています。突き詰めて我々のビジネスを考えてみると、顧客の課題を解決し、売上を上げ、利益を残す、事業支援だと思うのです。そのために一番必要なものは何か。効率よく、リピーターとなる新規顧客を獲得し続けることができる仕組み、であるはずです。

 そのためにも、個々の取引から得られる利益の最大化を目指すのではなく、常に顧客のロイヤルティを高めることで提供できる、「LTV(顧客生涯価値)」を大切にとらえ、事業に取り組んでいます。今、当社の目指す取り組みに親和性の高い、健康食品、化粧品など、リピート通販を展開している企業との取引が増加しています。1年前までは、4マス媒体以外のニッチメディアに特化していましたが、最適な支援を顧客に提供するため、テレビの通販番組など、インフォマーシャルも扱うようになりました。ファインドスターグループ一丸となって、顧客の課題を解決する最適なメディアを選定し、そのメディアに適したクリエイティブを制作し、さらにコールセンターを使ったテレマーケティングなど、CRMの部分までバックアップする。そんなワンストップの事業支援で、これからも勝負を続けていきます。

 21世紀に入り、すべての業界で消費者とのダイレクトコミュニケーションの重要性が高まっています。たとえば、大手家電メーカーが凋落したのは、量販店に顧客との接点である販売を任せきりにしてきたつけだと思うのです。当社の強みは、常に顧客の声を直接お聞きし、ニーズを把握しているところにあります。当社は昨年12月に、以前の2.5倍の広さとなる300坪のオフィスに転居しました。今の消費者は、その製品がつくられた場所のことまでも気にします。そんなお客さまの声をしっかり聞くために、60席のコールセンターを創る予定です。1年前にマンションの1室でスタートした健康食品販売会社の顧客が、今では毎月1000万円以上の取引をいただき、4フロアの事務所を構えました。大手食品会社の通販事業の担当者が、当社の仕組みを活用して売り上げアップを実現したことで、社長賞を受賞し、課が部に格上げしました。そんな感謝の声がたくさん届く、当社の事業支援で、もっともっと世の中の多くの企業を元気にしたい。ただ、失敗した時の怒りはとっても深いですよ(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
プロダクトアウトの発想は捨てるべき。
誰かが困っていることを探すことから始めよう

 もうひとつ、当社はインタービジネスも手がけていて、100社、1000人構想というものを掲げています。今はまだうちを入れて4社ですけど、100社ベンチャー企業をつくりたい。ベンチャーの定義は、新しい市場を創造することです。そして、たくさんの雇用を生むこと。その社会的意義は大きいでしょう。あと、社長というポジションは人を成長させます。当社グループの社長3人は、目覚ましい成長を遂げたと思っています。グループ経営にも、たくさんいいところがあります。企業の生存率は、10年で6%という説があります。ベンチャーはもっと低いでしょう。継続できない大きな要因に、メンターの不在がある。うちはグループ企業ですから、顧客を紹介し合えますし、それぞれが先輩経営者としてメンターになれる。継続できるベンチャー企業がたくさん生まれる仕組みを構築し、グループ一丸となって生存率を高めていきたいという思いもあります。

 これから起業を目指す皆さんにも、継続できるやり方をしっかり考えてほしいです。そのためにも、プロダクトアウト(商品・サービスありき)の発想はではなく、どんなビジネスであっても顧客の課題ありきで考えてほしい。あとは、差別化ですよね。自分が苦労したのも、Web制作という参入障壁の低い分野へ参入したことでした。結局、つぶれてしまう会社の多くには、オリジナリティがない。だから、顧客の課題が解決できるビジネスで、参入障壁と差別化を構築し、あとは商品・サービスをどう顧客に届けるかという売れる仕組み。この3つの軸をしっかり勉強することが、つぶれない会社をつくるために必要だと思います。

 起業したいがアイデアがない。そんな人も多いと聞きますが、そこがすでにプロダクトアウトの発想です。困っていることを解決するためのアイデアなら、わかりますけどね。まずは、誰かが困っていることを探せばいいんです。「ラインチェンジャー」がなぜ売れたかというと、自分自らサポートの電話を受け、顧客の細かな要望を聞きながらやっていたから、どんどん新しいラインナップが生まれ、新しい顧客が生まれ、売れ続けていった。世の中のニーズを集めればいいんです。私は、ビジネス=負の解消だと思っています。周りの人に、ストレートに聞くのがいいんじゃないですか。「何か困っていることないですか?」って(笑)。もしも、負の解消ができるビジネスの種を見つけたら、その次の行動は、どこまでも深く想定顧客に特化すること。新しいマーケットの深い場所にある潜在ニーズを理解することが、あなたにとって一番大事な参入障壁になるはずですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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