第91回 株式会社ティア 冨安徳久

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第91回
株式会社ティア 代表取締役社長 
冨安徳久 Norihisa Tomiyasu

1960年、愛知県生まれ。高校卒業後、現役で大学に合格するも、入学式直前、偶然紹介されたアルバイトで運命の仕事に出会い、大学進学を辞退。18歳で、葬儀社の正社員となる。ある先輩の指導のもと、この仕事が自分の天職と思えるように。2年半の勤務後、実家の愛知県にUターン。別の葬儀社に転職し、 25歳で名古屋支店の店長に抜擢される。病院営業のエキスパートとなるが、会社の経営方針に納得できず、自ら起業することを決意。その後、病院専門営業の契約社員として3年間働きながら、起業準備を進めた。葬儀ビジネスの社会性を高める事業計画に共感したエンジェル数名から出資を獲得。1997年7月7 日、株式会社ティアを設立し、代表取締役に就任した。翌年1月、1号会館「ティア中川」をオープン。適正料金を完全開示するという業界革命を起こす。 2006年、上場計画を1年前倒し、名証セントレックスに上場(現在は、名証2部に指定替え)。中部地方初の葬祭上場企業となる。2009年8月現在、直営店、フランチャイズ合わせて34会館を運営。生涯スローガンである「日本で一番“ありがとう”と言われる葬儀社」を目指している。著書に『ぼくが葬儀屋さんになった理由』(講談社2009.9.17再発刊)など多数。

ライフスタイル

好きな食べ物

堂島ロールです。
僕は甘いものが好きでして。大阪にあるパティスリー・モンシュシュさんの「堂島ロール」が大好きです。並ばないと買えない人気商品なのですが、先日、モンシュシュの専務さんとお会いする機会があって、並ばずに購入できる秘策を教えてもらいました(笑)。

趣味

無趣味のすすめに賛成です。
村上龍さんの『無趣味のすすめ』を読みました。とことんまで理由を持って語れるのが趣味であり、それ以外は趣味にあらずと。そういう意味でも、私の趣味は仕事であると断言できます。読書や映画鑑賞は、大好きな趣味のための息抜きといったところでしょうか。

行ってみたい場所

高知の桂浜です。
起業前、そしてIPOした時、20会館目を出店した時、節目節目のタイミングで、高知は桂浜の坂本竜馬像を訪れています。起業して10回くらいは行っていて、ここ3年間は毎年ですね。竜馬像の前で手を合わせるたびに、竜馬さんからエールを送られた気持になれるんです。

最近感動したこと

カンブリア宮殿に出演したこと。
5月初旬、ドキュメンタリー番組『カンブリア宮殿』から出演依頼があり、取材を受けました。結論は2週間後と言われましたが、2日後にGOの返事が。6月中旬、収録スタジオの控室で出待ちしていたら、村上龍さんと小池栄子さんが挨拶に来られた。そりゃあ誰だって、感動しますよね(笑)。

業界を騒然とさせた適正価格・完全提示の葬儀社誕生!
仕事の社会性を高めたいという信念が消費者を動かした

 『価格は、遺族の家の門構えと自家用車を見て、職業を聞いてから決める』『生活保護者の葬儀は受け付けない』18歳で天職と思える葬儀社の正社員となり、 その後、18年間を雇われの身ですごした青年・冨安徳久氏は、許せない業界の不文律をいくつも目の当たりにしてきた。37歳、業界の反発を知りつつも、料金を完全開示し、葬儀業界の社会性を高めるという信念をもって起業を果たす。愚直な資金調達、激しいバッシングとの闘い、様々な試練を潜り抜けながら、中部地方初の葬祭上場企業に育て上げた。「葬儀業界のナンセンスな部分を残らず切り取って、業界自体を変えなければいけなかった。透明でわかりやすい適正価格で、ご遺族の悲しみに寄り添った葬儀をご提供する。この当たり前の世界をつくるために、起業という選択肢を選ばざるを得なかったんです」と語ってくれた冨安氏。今回は、そんな冨安氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<冨安徳久をつくったルーツ1>
“静かなるしつけ”を染み入るように受けた少年時代。
明るく元気で、素直な男の子として成長する

 生まれ故郷は愛知県宝飯郡一宮町。現在は、豊川市になっています。両親と祖母で果樹農園を営んでいて、梨、柿にみかん、いちごにキウイフルーツまでつくっていました。きょうだいは、5つ上の姉と、年子の弟。僕の性格は明るく、元気で、素直。勝手に“静かなるしつけ”と名付けているんですが、生まれてこの方、両親からうるさく何かを言われたことがいっさいないんです。その代わり、祖母も両親も常に率先垂範。たとえば、玄関がいつもきれいに整頓されている。僕が小学校から帰って、靴を脱ぎ飛ばして、通学カバンを部屋に置き、外に遊びに行こうとすると、もう靴がきちんと揃えられているわけです。そうすると、自然に玄関はきれいなのが当然と思うんですね。友だちの家に行っても、きちんと靴を揃えて脱ぐ。みんなの靴も揃えてあげる。そんな子どもでした。

 両親は365日畑仕事に追われて忙しく、僕はおばあちゃん子として育っています。実家は神道で、小さな神殿が家の中にあって、毎日、朝、昼、晩、祖母と両親が拝んでいる。ある時、祖母に聞いてみました。「何でいつも拝んでいるの?」「命をつないでくれたご先祖さまに感謝しているのよ」と。物心ついてから、僕も祖母と一緒に拝むようになると、「のりくん、鏡の中に神様がいるよ」。確かに、神殿の真ん中に丸い鏡が置いてあります。「え~、どこどこ?」ってその鏡を見るじゃないですか。すると自分が映っている。「神様はね、自分の中にいるんだよ。最後にあなたを助けてくれるのは自分なんだよ」。あと、「どんな時も笑顔でいなさい」「世のため人のために生きなさい」「何かを選ぶ時は、しんどいほうを選びなさい。そしたら誰かが喜んでくれるから」。そんな話を毎日、毎日、繰り返し聞かされるわけです。今思えば僕は祖母から、人が幸せに生きていくための摂理や道理、いわゆる“理(ことわり)”を、何度も何度も刷り込まれながら育ったんですね。成功した経営者や著名な先生方の本を読むと、同じような内容がよく書かれてあって、明治生まれの祖母のすごさに驚かされます。

 両親から、「勉強しろ」と言われたこともありません。逆に「友だちはみんな勉強しろって親から言われているけど、どうして言わないの?」と聞いてみました。そしたら、「勉強、好きなの? 嫌いでしょ。好きじゃないことやりたい? 自分でやらなきゃと思ったらやりなさい」。とことんまでの、自分責任論教育。でも、来るんですね。しなきゃいけないと思う時が。高校受験です。僕は100mを11秒台で走るくらい足が速くて、部活動の陸上ばかりやっていました。成績なんてまったく気にしたことがなかったのですが、中3になってから中1の教科書を引っ張り出して受験勉強を開始。姉にいろいろ教えてもらいながら一所懸命勉強して、自宅から1時間半もかかる豊橋市にある県立の進学校に無事入学することができました。ちなみに、僕は奨学金を使って高校に行っています。実家がお金に困っていたわけではないですが、祖母の「早く自立しなさい」という口癖に感化されたんですね。

<冨安徳久をつくったルーツ2>
維新の志士たちに憧れて、「西の京」と呼ばれる山口へ。
入学前に始めたバイトが冨安徳久の運命を変える

 中3の時、大好きな先生からもらった、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』全巻を読破し、日本を変えようと命がけで奔走した明治維新の主役たちが、10代、20代の若者だったことに感動。坂本竜馬の「この世に生を得たるは事を為すにあり」という言葉に出合い、「僕にも天命と呼ぶべき何か為すべきことがあるはずだ」と考えるようになりました。そして高1の夏休み、どうしても竜馬像を見たくなり、バイトしてお金を貯めて、高知県の桂浜へ。立て替わる前の小さな竜馬像に向かって、「竜馬さん、僕も絶対に何かやるべきことを見つけます!」と両手を合わせました。その後、長州藩だった山口県の萩、津和野を回って、愛知県に帰ってきたと。僕はちょっと変わった、熱い青年だったんですね(笑)。あと、詩を書くことが好きでして。祖母に買ってもらったギターでオリジナル曲をつくっては、ぼんやりと、「もしかしたら作詞作曲が自分の天命かも」なんて思っていました(笑)。

 高校では陸上部と軽音楽部をかけもち。この頃、デモテープをつくってコンテストやマスコミに送っていたんです。高2の1学期、ラジオの岐阜放送局から連絡が入り、「テープを聞きました。一度、遊びにきませんか?」と。それをきっかけに、僕の曲が毎週10分間の番組で流されることに。そして半年間、毎週土曜日に収録のため、授業を終えて豊橋から岐阜まで名鉄線に乗って通い始めたんです。収録1回のギャラが当時で5000円。岐阜の喫茶店でのバイトも開始し、ギャラとバイト料で、数十万円もするオベーションというギターを購入しました。ちなみに、ラジオの影響もあって、岐阜市では高校生シンガー・ソングライターとしてけっこうな人気者になっていましてね。高校卒業時には、500人の会場が満杯となった、「さよならコンサート」を開催しています。初めてサインを書くという経験もさせてもらいました(笑)。

 大学の4年間は歌をやるために活用しようと考えていた僕は、高1の夏、熱い想いに駆り立てられた地、山口を目指します。松下村塾発祥の地であり、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞の生まれ故郷。「西の京」と言われる山口県で暮らしてみたかったのです。また、岐阜放送局のプロデューサーが、山口放送局の知り合いを紹介してくれるという話もあったので。高校最後の春休みに山口におもむき、一の坂川の近くにある、家賃1万8000円の一軒家を借りることを決めました。「ここが、音楽活動の拠点になる」と、その時は思っていたんです。家の近くにあった喫茶店に出入りするようになり、そこのマスターに「入学式まで、短期でできるバイトないですか?」と聞いてみました。すると、「あるある。時給1000円。世のため人のためになる仕事だ」と。当時の時給1000円は破格です。仕事内容は教えてくれませんでしたが、“世のために人のためになる仕事”と聞いて、すぐに承諾。そして、このバイトでの経験が、僕の人生を180度変えることになるんです。

<18歳の青年の決断>
バイト先で出会った素晴らしき先輩の仕事に感動!
これこそが天職と決断し、大学へ行かず葬儀社社員に

 指示された場所に行ってみると、何やら倉庫のようです。周りを見ると、棺桶が立てかけられてあり、霊柩車が止まっていました。「ああ、ここは葬儀社なんだな」。事務所のほうに歩いて行きますと、「テント積んだか」「田中家の用意は」など、大きな声で朝の準備が行われています。葬儀社は静かなものと思っていた僕は、活気あふれる会社の様子に面食らいました。事務員の方に、喫茶店のマスターからの紹介でバイトしにきた旨を伝えると、「仕事内容は、社員に同行して葬儀を行う場所に行き、祭壇など葬祭に必要な什器を運んだり、組み立てたりする肉体労働。お寺には坂道や階段があるのでけっこう大変だよ」。「体力には自信があるので大丈夫です」と、その日から働かせてもらうことになりました。

 そして、ある先輩社員のアシスタントのような立場でバイトを開始。葬儀を終えた遺族のもとに集金にお伺いする先輩について行った時のことでした。葬儀費用の説明をしながら、百万円を超える料金をその場でいただくのですが、お金を受け取る先輩のほうがお客様である遺族の方々から「ありがとう」「ありがとう」と感謝されているわけです。「何なんだこれは? 何でお金をもらう側がこんなに感謝されるんだろう?」。集金を終えた帰り道、僕は先輩にその疑問をぶつけてみました。「突然、大切な人を亡くして、戸惑われている遺族の方々に、どうすれば良いのか一つひとつていねいに教えて差し上げる。悲しみと途方にくれている中、遺族の悲しみや故人への思いをしっかり感じながら葬儀を行い、大切な人をきちんと送ることができたという安堵感に浸れた時、僕らは感謝される立場になれるんだ」。そして最後にぽつりとつぶやくように付け加えました。「たぶん、一生忘れないと思うよ。あの遺族の方々は、俺のことを」って。「え~!? こんなに感謝される仕事が世の中にあったのか!」と、しびれるくらいに感動してしまった。

 人から感謝される葬儀の仕事は、昔、祖母が話してくれた理にそって生きる道に通じている。そのことに気づいてしまったんです。瞬間的にこの仕事を極めたいと決断した僕は、帰社後、すぐに店長に直談判。「あの先輩みたいになりたいんです。ここで働かせてください」「大学はどうすんだ?」「何かやるべきことを見つけるための時間だと思っていました。それが見つかったのだからいいんです」「親がきっと反対するぞ。まずは親の許可を取ってこい」。その後すぐ、「いい仕事が見つかったからもう仕送りはいらない」と両親に電話で伝えました。自ら退路を断ったわけです。そして、愛知県の実家に帰ったフリをするため、2日間仕事を休んだ後、会社に行って「両親は許してくれました」と店長に伝えたのです。シンガー・ソングライターの道ですか? 自分より歌がうまいやつはたくさんいます。それよりも、葬儀の世界でナンバーワンになりたいと心から思ってしまったのです(笑)。

<人の死を差別するのか?>
大切な仕事と知りつつも社会性の低さに打ちのめされる。
勤務先の決定に激しい“公憤”を覚え、起業を志すように

 アルバイトとして働き始めた18歳の僕は、頑張りが認められ、ほどなくして社員となりました。遺族の悲しみに寄り添いながら、心をこめて大切な人を送る儀式を執り行う日々。葬儀の仕事は、自分にとってまさに天職と思えるものでした。でも、そんな日々を送る中で、この仕事の社会性の低さにショックを受ける場面に何度も遭遇しています。遺族には確かに感謝してもらえます。でも、業界外の人からは「死体に触っているのか」「縁起が悪い」「人の死で儲けているんだよな」「何か憑いてんじゃないか」などなど、心ない言葉を投げかけられるのです。それでも僕は、世のため人のためになる仕事であると信じ、この仕事にまい進していきました。ただ、21歳で、高校時代から付き合っていた彼女に結婚を申し込みに行った時の悔しさは忘れられません。ご両親は、「そんな仕事をしているやつに娘はやれない。あきらめてくれ。どうしても結婚したいなら仕事を変えてくれ」と……。結局、その彼女とは別れることになりました。

 こんなこともありました。ある日、独居老人のご遺体を引き取りに行ったのです。死後数カ月が経過しており、かなり腐敗が進んでいます。そのご遺体を前に、躊躇し、ある意味びびってしまった……。自分からは何もできず、何とか僕は先輩の仕事をサポートするだけ。その後、棺を乗せた搬送者に乗った僕に、先輩はこんなことを言いました。「きれいごとだけで心から感謝されると思っているのか。俺はいつも自分の目でなく、遺族の目で故人を見ている。自分にとって最愛の人が亡くなったと思えば、どんな遺体も嫌とは思えない。この仕事をやっていくと決めたんだろう」と。この言葉は、重いボディブローのように僕の心に刻み込まれました。そして、この経験の後に不思議と得体の知れない死への恐怖が払しょくされ、早く先輩に追いつき追い越さねばという思いが強くなっていったのです。

 この会社には約2年半お世話になりました。その後、父の健康上の都合で実家に戻ることになり、以降、別の葬儀社2社に勤務していますが、入社する順番が違っていたら今の僕はなかったでしょう。最初の会社で出会った先輩から、「ご遺族のために最大限尽くす。どんなご遺体も最愛の人として接する」という、この仕事の尊さを刷り込むように教えてもらえたこと。そのおかげで、今日まで頑張り続けることができているのだと思っています。ちなみに2社目の会社は、東海地方で大手と呼ばれる互助会でした。25歳で名古屋支店の店長に抜擢され、計12年勤務しています。葬儀をかなりビジネスライクに捉えていた会社で、僕が30歳の頃、生活保護者の葬儀を受けないという決定を下した。もちろん「人の死を差別することは許されない」と反対したのですが、同族会社の決定は覆りません。この頃からです。激しい“公憤”を感じ、僕が真剣に起業を考え始めたのは。

すべてのご遺体を最愛の人と思いながら、
ご遺族の悲しみに寄り添える葬儀社であり続ける

<ナンセンスをなくしたい>
起業の猛勉強を始め、異業種交流会で出資を募る。
誰もが無理だと決め付けた計画に、エンジェルが登場

 生活保護者の葬儀を行わないという、考えられない差別。それ以外にも、僕が考える葬儀業界のナンセンスは、当時からいくつも存在していました。葬儀費用の料金表はなく、遺族の実家の門構え、車の車種、職業を聞いてから価格を決めるのが一般的。病院に口座をつくるために、貢物をする葬儀社、その慣習を利用して袖の下を要求する病院。暴露話でも何でもなく、それが普通にまかりとおっていたのです。当社は昨今、様々なマスメディアに取り上げていただく中で、「価格破壊」とか「激安」という枕詞をつけられますが、僕自身にはいっさいそのような認識はないんです。ただ単純に、自分がほれ込んだ仕事の社会性を高めたかっただけ。そのために、業界のナンセンスな部分を残らず切り取って、業界自体を変えなければいけなかった。透明でわかりやすい適正価格で、ご遺族の悲しみに寄り添った葬儀をご提供する。この当たり前の世界をつくるために、起業という選択肢を選ばざるを得なかったんですね。

 起業準備をするための時間が必要で、店長という広範囲の業務が足かせになっていたんです。それもあって店長を任されていた2社目の会社を退職し、ヘッドハントで、ある老舗葬儀社の病院専門営業の契約社員に転身。当時、病院営業のエキスパートとして僕の名はけっこう売れていましたから。結果、僕が入社する前、6つだった提携病院の数を、3年後に57病院まで増やすことに成功しています。その間、会社設立や経営の本を乱読しながら勉強し、異業種交流会に積極的に参加。地域密着型の小規模葬儀会館で展開することは決めていましたが、それでも最初に必要な起業資金は最低でも5000万から1億円は必要です。異業種交流会への参加も、出資を募ることが第一目的でした。私の事業計画は、10年後にIPO、20会館を運営し、年間3600件の葬儀を取り扱うというもの。融資依頼した銀行8行からはほぼ門前払い、異業種交流会で出会った人々からも「賭けてもいい。絶対に失敗する」と言われていました。今思えば、彼らと賭けてれば良かった(笑)。

 それでも、あきらめる気などまったくありませんでした。窮すれば通ずというのは本当なのですね。ある日、信頼できる知り合いからプロトコーポレーションの創始者である、横山博一さんを紹介いただきました。横山さんから「どんな葬儀ビジネスをやりたい?」と聞かれた僕は、「価格の不透明さをなくし、社会性の高い業界に変えたい。そのためにIPOを目指します」。ほか、自分の思いをすべてお話しました。横山さんは、「わかった。応援するから本気でやろう」。僕の貯蓄1000万円に加え、異業種交流会で出会った3人の中小企業経営者、そして横山さんからの出資を得ることに成功し、1997年7月7日に株式会社ティアを設立。ひとしずくの涙の尊さを心から感じ、ご遺族の悲しみを少しでも和らげてあげたいという思いを込め、社名を決定。「日本で一番“ありがとう”と言われる葬儀社を目指して」。そんな会社の生涯スローガンを掲げ、ティアは名古屋で活動をスタートしたのです。

<中部地方初の葬祭上場企業に>
同業他社からの嫌がらせ、過酷な訪問営業の継続……。
幾多の試練を乗り越えて、設定目標をクリアし続ける

 名古屋16区の様々な人口統計データを解析し、中川区を最初の挑戦の場として選びました。地主を訪ねて回るのですが、なかなか葬儀社に土地を貸してもらえるオーナーは現れません。そんな中、元・火葬場の駐車場を保有しているオーナーを紹介され、「ここに葬儀会館ができれば、毎日供養することができます」とお話してみました。実は、その方のお父様のお名前がなんと「冨久」。僕の名前は冨安徳久。縁を感じてくれたそのオーナーは、土地を貸してくれるどころか、会館建設費用も捻出してくれ、私たちはテナントとして月家賃で会館を借り受けるという最高のかたちで、第1号店となる「ティア中川」の営業を開始することができたのです。そして、地域密着・消費者のための葬儀社として、自ら1日4万歩、雨の日も風の日も、チラシを抱えて会館から半径1.5キロメートルの範囲にある家々を訪ね歩きました。その頃からですね、嫌がらせが頻出し始めたのは。

 当時、中部地方の葬儀価格の平均が300万円。一方、ティアの価格は150万円以下。葬儀の透明性を高めたい一心で作成したチラシを出した翌日から、深夜、24時間受付をしている会社の事務所に嫌がらせ電話が入りだしました。その後、自宅にまで電話がかかってくるようになり、電話に出た息子が「夜道に気をつけろ。ぶっ殺してやる」とすごまれたことも。また、喪家までの案内看板の矢印をすべて反対にされたり、捨てられたり。どう考えても、同業他社の仕業です。ただし、社員のみんなには「そんなやつらに怒るエネルギーを使うのはもったいない。それよりも、私たちはお客様を見よう。同業他社が嫌がらせしてくるということは、自分たちのやっていることは正しいという証明だから」。そうやって創業期のティアの結束力は高まっていったんです。今となっては、嫌がらせしてきた方々に「ありがとう」と言いたいくらいですよ(笑)。

 自転車で通える距離にある小規模葬儀会館という地域密着型サービスと、最大限の満足を感じていただける適正価格のサービス。この両輪がうまく受け入れられ、ドミナント戦略を用いながらティアは成長を続けています。設立前に立てた10年後目標も、8年11カ月で上場、9年目に21会館、10年目に4194件の葬儀を施行と、すべて計画を上回る結果を残すことができました。もちろん紆余曲折もたくさん経験しています。2001年にいっきに6会館を出店した時、兼務をする社員が増え、規模に人がついてきていないという大失敗を犯したことも。それからは、“ティアカデミー”というオリジナル教育メソッドを開発し、経営者である僕自身がティアの精神を繰り返し、繰り返し、語りかける場を用意しています。人、モノ、金、情報が、経営に必要な四大要素と言われますが、一番大切なのはやっぱり人。結局、僕が命がけで挑戦している葬儀ビジネスも、別の視点から見れば“人育て”。しつこいと思われようが、何度も聞いたと言われようが、大切なことを語り続けていく。思い返せば子どもの頃、祖母がしてくれたことを、今、僕は社員たちにしているんですね(笑)。

<未来へ~ティアが目指すもの>
日本一ありがとうを集める葬儀社を目指し、
仕事に長け、悲しみに慣れない社員を育てる

 「目指せ! 日本で一番“ありがとう”と言われる葬儀社!」。これがティアの生涯スローガンです。僕は売り上げや、利益で日本一になりたいなんて一度たりとも言ったことはありません。あくまでも、日本一「ありがとう」を集められる会社を目指し、そこで楽しく働く人をつくりたいということです。では、それを実現するためにビジネスとしてどのような展開をしていくか。ちなみに今、年間で117万人の方々が亡くなられていますが、その1%である1万1700人の葬儀を執り行っている会社は存在しません。その理由は葬儀社の99%が一族郎党の同族経営だから。このマーケットで、全国同一価格、同じ高満足度のサービスを提供する、セレモニーブランドを確立することが、そのための早道だと考えています。

 たとえば、ティア会員は入会金1万円のみで、互助会のような積立金はいっさいなし。もしもの時、葬儀費用が50万円値引かれます。しかも、ご本人だけでなく、ご家族、ご友人の葬儀にも使用可能。類積数で12万人を超える方々に入会いただいており、現在も順調に会員は増加中です。現在、ティアのサービスは、愛知エリア、岐阜エリア、近畿エリアという3カ所での展開で、今期年商予測65億円、経常利益4億6000万円の増収増益を見込んでいます。そして今後は、これまでに培ってきた戦略を踏襲しながら、全国の政令指定都市に直営店を出店し、その周辺エリアに異業種から参入を求めるフランチャイズ店(FC)を多店舗展開していく計画です。まっしろな状態で始めてほしいので、既存葬儀社の加入は認めません。だから、教育に関しては、自社の社員と同じものを、FCにも提供していきます。

 先ほどもお話しましたが、当社の強みは人なんです。今、「ティアの葬儀価格は安い」と言われていますが、他社も価格を安くしようと本気で思えばすぐにできるはず。もしも価格競争になった時、何が一番の競合優位性になるかと言えば、「大切な人の最後の儀式を、きちんと執り行ってくれる人」がティアにどれだけいるか。だから、僕の一番大切な仕事は、“人育て”なんですね。最近、“サーバント・リーダーシップ”というマネジメント手法が気になっています。経営者は社員に奉仕せよという考え方なのですが、これからは“サーバント・リーダーシップ”が、世のため人のためになる事業をかたちづくっていくためには必要不可欠になると思うんです。社員が本気でお客様に尽くすためには、経営者が社員に尽くして幸せを提供しなければならない。そのためにもまず、すべての社員が「ティアに入社して良かった」「ここで働けて良かった」と思える会社にしていかないといけません。今後、僕の力の半分は社員のため、半分は世の中のために使っていきます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
まずはその仕事が本当に好きなことかどうか。
自分の心がすぐにYESというなら間違いない

 昨年は、大学やセミナ―会場などで、100本ほどの講演をこなしています。終了後の名刺交換会や懇親会で、「冨安社長、僕もいつか起業します」という人はけっこういます。「いいね。絶対にやりたいことってある?」「今はまだわかりません」と……。「じゃあ、なぜ起業したいの?」と聞いてみると、「雇われない生き方をしてみたいんです」とか、「今の社長には納得がいかないんです」とか。たったひとりの社長を説得できないくらいなら、まだ起業なんてしないほうがいい。なぜなら、起業したらすべて自己責任の世界。お客様は星の数。お客様一人ひとりの機嫌を取るほうが、絶対に大変なんですから。あと、「いいアイデアだと思うんです」「これ、絶対に儲かると思うんです」という理由もダメ。やはり、「それって本当に好きなこと?」と自問してみて、間髪入れずに心が「好き」と答えるかどうか。その物差しで、進むべきか、留まるべきかを判断してほしいと思います。

 僕はまだ12年の経営者経験しかありませんが、周りの成功している起業家には大きく3つの共通点があるようです。1つ目は、「今、この仕事をしている自分が大好きと心から感じている」。2つ目は、「大変なことや嫌なことがあっても、それを苦労と思っていない」。3つ目は、「その仕事を好きでい続けるための努力をしている」ということ。会社や自分の状態が、未来永劫このまま変わらないと思っている人って意外に多いんです。起業理念は堅固に保ち続けるべきですが、ビジネスの継続は消費者があってのもの。消費者の変化をないがしろにして怠けていると、すぐにマーケットから弾き出されてしまいます。変化こそ進化です。そして経営者は、その変化や進化の状況を部下や社員に伝え続けていく役目を背負っています。

 経営者の仕事は人を育てること。経営者のみならず、役職をもった人 先輩と呼ばれる人など、上に立つ者にとっても大切な仕事なのですけれど。人を育てるために大切なことは、自分自身が仕事を本気になって楽しんでいるかどうか。そうでなければ話になりません。“人育て”がうまい人の言動を観察してみると、部下の評価は長所から話し始める。仕事を下に任せ、結果が出るまで口を出さない我慢強さがある。プライドをもって、自分の仕事を熱く語る。会社の理念やビジョンを熟知している。その昔、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」と山本五十六元帥は言いました。まさに、この言葉と同じ。人を動かし、育てるためのセオリーといえますね。起業するなら、心から好きだと思える仕事を見つけ、我慢強く人を育てる覚悟を持つこと。そして、常に変化と進化を続けること。人生はご存じのとおり有限です。頑張ってください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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