第63回 株式会社インフォマート 村上勝照

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第63回
株式会社インフォマート 代表取締役社長
村上勝照 Katsuteru Murakami

1965年、山口県生まれ。小学校から野球を始め、甲子園を目指し、宇部商業高等学校へ進学。高校3年夏季大会では甲子園ベスト8まで勝ち残る。ポジショ ンはセカンド。高校卒業後、山口県信用農業協同組合連合会に就職。3年後に転職し、数社の営業職として働く。仲間数人とアパレル事業を立ち上げるも、1回 の仕入れで頓挫し、約10年間建築・不動産業界にて営業職に従事。知り合いから大手百貨店の役員を紹介されたことがきっかけとなり、食品の売り手と買い手 をマッチングさせる事業アイデアを発案。1998年2月、株式会社インフォマートを設立し、フード業界の企業間電子取引プラットフォーム「FOODS Info Mart(フーズインフォマート)」の運営を開始した。2005年度、ニュービジネス大賞特別賞を受賞。2006年8月、東証マザーズ市場への上場を果たした。

ライフスタイル

好きな食べ物

焼き肉。
焼き肉でしょう、焼き鳥でしょう、あとラーメン。子どもっぽいも食べ物が好きなんですよ。お酒は好きか、と? いいえと言いたいのですがそれはウソになるので、実によく飲みますと言っておきます(笑)。

趣味

ないんですよね。 
すみません。本当に無趣味なんですよ。「こだわりがないのが、俺のこだわりだ」と言っているくらいですから(笑)。どうしても挙げろというなら、う~ん……。社員と飲みに行くことですかね。居酒屋でも焼き鳥屋でも、どこでもOKです。

休日の過ごし方

ぼ~っとひとり
日曜はできるだけ休むようにしてます。ひとりになる時間をつくって、自宅でぼ~っと考えたり、昼寝したり。で、20時からTBSのドラマ「ROOKIES」を見て泣いて、21時からはNHKの「監査法人」を見て正義を身につける(笑)。そんな感じでいいですか?

生まれ変わったら?

コブクロになりたい(笑)。 
もしも生まれ変わったら? 自分でつくった歌を歌って、感動を与える職業っていいですよね。また男として生まれたらコブクロになりたい(笑)。大きいほうでも小さいほうでもどっちでもいい。女だったら絢香(笑)。ステージで思い切り歌ってみたいですね(笑)。

「食」のB to B電子取引プラットフォームがつなぐ、
買い手と売り手のWin to Winコラボレーション!

 甲子園球児となった18歳の少年は、地元のお堅い金融機関へ就職。その後、いくつもの「職」を転々とし、最後にたどり着いたのが「食」を扱う事業の起業 だった。雇われ仕事、下請け仕事を続けながら、金に追われる生活に疲れた32歳、元・甲子園球児の村上勝照氏にそのチャンスは訪れた。「誰も手がけていない、世の人々が喜ぶ仕事がしたい」。そんな村上氏の利他の精神に、ビジネスの神様が手を差し伸べたのだ。「この男ならきっと、志を達成してくれるだろう」と。そのとおり、彼が立ち上げた「フーズインフォマート」は、紆余曲折を経ながらも、売り手、買い手が支えるフード業界から受け入れられ、現在も成長を続けている。しかし、村上氏はさらりと言う。「まだまだ志の道半ばもきていませんよ」。今回は、そんな村上氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<村上勝照をつくったルーツ1>
小学校時代から野球に熱中。中学の野球部はクビと復帰の繰り返し

 山口県の宇部市で生まれ育ちました。父は中学校の理科の教師だったんですが、僕が小学4年の時、1年間の闘病生活の末、死んでしまいましてね。それから母が2年間かけて、看護師の資格を取って働きに出るように。私も、4つ上の姉も、父の死で生活が激変したとは感じなかったです。母がそうとう頑張ってくれたんですよね。話は変わりますが、小学校3年から野球を始めています。なぜだかわからないけど、父は少年野球への加入を許してくれなかったので、自分で小学校の仲間を募り、チームをいくつかつくって。ほら、三角ベースってあるでしょう。まずはそんな草野球からスタートです。でも、父が他界してから、地元の少年野球に入団するんですけどね。

 それからは毎日が野球漬けの日々。勉強ですか? かなりできましたよ。ウソですけど(笑)。本当は、まあまあですかね。中学でも野球部に入部します。地 元の公立中学ですから、野球部の先輩たちもほとんど少年野球で顔見知りだった人たちなんですよ。少年野球チームでは学年に関係なく仲良しだったんですが、中学の野球部では上下関係というものが生まれるわけです。たとえば、部室で歌を歌わせられるとか。理由なき嫌がらせをする。それでよく先輩とは衝突しましたよ。気分が向かないと練習に出ないでそのまま帰ったり。すると、同級生部員が僕に着いてくる。誘ってもいないのに。当然、首謀者扱いされますよね。そんなこんながあって、実は中学の3年間で8回も退部させられてます(笑)。

 でも、野球部の先生が父の知り合いだった関係で、気にかけてくれてたんですね。それで、クビになってもそのつど謝って、何とか3年間野球部員を続けることができました。当時のポジションはピッチャーです。2年になってからはほぼレギュラーで、中国大会で優勝したんです。でも、全国大会に行く前に、8回退部したうちの1回をやってしまって……。中国大会もギリギリで勝ち上がりましたから、全国じゃ難しいだろうと思ってたんです。ところがふたを開けたら、僕なしで戦って、なんと全国大会、準優勝しちゃったんですよね。歴史に「もし」はないといいますが、僕が出てれば優勝してたと思います。やっぱ悔しいですから、そう言ってみたいじゃないですか(笑)。

<村上勝照をつくったルーツ2>
本気で甲子園出場を目指し、宇部商業へ。3年夏の甲子園ではベスト8まで勝ち残る

 大学進学も考慮して普通高校へ行くか、甲子園を目指すか。少しだけ考えましたが、やっぱり甲子園だと。それで、宇部商業に進学するんです。今では野球の名門といわれていますが、当時はまだ甲子園には春夏1回ずつくらいしか出ていなかったと思います。でも、レギュラー獲って、甲子園という狙いで。で、合格した後に、体験入部というのに参加しました。練習を見学し終わって帰ろうとしたんですが、「どうせなら練習後の説教も見ていけ」と。いや~、かなりびびりました。やはり高校1年と、3年ではかなり成長の開きがある。すごく大人に見えるんですよね。「こりゃ、怖いから真面目に部活動しないといかん」って思いましたよ。

 同級生のピッチャーで秋村というのがいましてね。ガタイもいいし、球も速いんです。「こりゃ勝てんな」と。入部最初、コーチから「お前もピッチャーだよな」って聞かれて、「いや、僕は内野手希望です」と即答……。思えばあれが人生で最初の挫折かもしれない(苦笑)。いずれにせよ、甲子園を目指して僕の高校生活が幕を開けました。が、1年の時は先輩の道具磨いたり、用具整理したり、丁稚同然の扱いです。でも、2年になってからたまに試合に出してもらえるようになりまして。夏の予選前の練習試合で監督から「村上、代打。これで打てたらレギュラーな」と言われ、バッターボックスに立ったんです。そりゃあ打つ気満々ですよ。そしたらボールが頭目がけて飛んできて、必死で避けたらバットに当たり、ピッチャーゴロ……。これがついてない話その1です(笑)。

 ついてない話その2は、セカンドのレギュラーに定着した2年の秋季大会でのこと。守備をしていた時に、二塁に滑り込んできたランナーに足を蹴り上げられたんです。最初は「ちょっと痛いな」程度だったんですが、だんだん痛みが増してきた。で、思い切って屈伸してみたら、「バキバキッ」とすごい音が。その瞬間に膝下の骨を骨折したんですね……。我慢せず、退場して病院に行ってたら、ヒビで済んだかもしれない。おかげで、春季大会までは棒に振ったも同然になってしまった、と……。でも、春には何とか復帰して、甲子園に出場! 春は1回戦で負けましたが、高校最後の夏の甲子園ではベスト8まで残ることができました。あの18歳の夏が、僕の人生のピークだったかもしれない(爆笑)

<山口県信用農業協同組合連合会へ>
甲子園球児が選んだ就職先は、地元金融機関の窓口出納係

  今、振り返って思えば、もっと自分の思いどおりにプレーしておけば良かった。野球部OBや先輩の言うことを聞きすぎて、小さくまとまっちゃっていた気がしています。甲子園のライバルたちを見て、プロへの道もあきらめてしまったし……。できることなら、もう一度、甲子園球児に戻りたいと思いますよ。いや、本気で。結局、大学のスカウトもあったんですが、変な意味で燃え尽きてしまって、高校出たら地元の会社で働くことを決めました。親のことも考えましたしね。でも、地方の街で甲子園に出たっていうと、かなりちやほやされるんですよ。それでいい気になっていたというのもあります。実際の話、「サインして」って言われたり。授業中に、必死でサインの練習していましたから、僕(笑)。

 先生の紹介で、山口県信用農業協同組合連合会(県信連)に就職することになりました。農協系金融機関の本部です。1年目は研修所に入って、寮生活なんですよ。朝6時起きでラジオ体操して、ランニングして、朝食食べて、掃除して、9時から夕方5時まで勉強があって、風呂掃除して、夕食食べて、夜10時に就寝という毎日……。水曜日の夜だけ外出できたんですが、いつも仲間6人と飲みに行っていました。夜9時の門限までにできるだけ酔って帰ろうと、ビヤホールに行く時はストロー持って行って、ストローでちゅうちゅう飲む。酸欠状態になってすぐに酔えるんです(笑)。ホルモン屋に行く時は、安いホルモンをひたすら食べて、焼酎をちびちび。その間に、外に出て50mダッシュするんですよ。早く酔うために(爆笑)。最後にカルビを1人前だけ頼んで、争奪戦をして寮に帰ると。お金はまったくなかったけど、それはそれで楽しかったですね。

 2年目からは、本部の窓口で現金を出し入れする出納係として働き始めました。合ってなさそう? いえいえ、僕は几帳面なA型なんで。伝票が上がってきてから、現金を出し入れするスピードも、正確さも他の追随を許しませんでした。県信連の歴代出納係としては、ナンバーワンだったんじゃないですか(笑)。余裕がある時は、金庫に行って自ら損貨の整理も。硬貨の山をチェックして、日銀に戻す前に、痛んだ硬貨と、流通できる硬貨に仕分けするんですよ。で、痛んだ硬貨を選り分けて、5000枚くらいの硬貨が入るドンゴロスという袋に入れ直すわけです。これも得意で、短期間で200袋を整理したこともある。県信連では「ドンゴロスの村ちゃん」と呼ばれてました(笑)。

<最初の起業は大失敗!>
勢いで立ち上げたアパレルビジネスは、仕入れ1回で頓挫。借金を抱え込む

 県信連には都合3年お世話になりました。ほかの世界を見たくなったんですよ。保険とか自動車のセールスを受けていると、なんだかその雰囲気がかっこよく思えてきて。で、転職して営業をやってみたんですが、どれも長続きしませんでした。その頃実は仲間4人と会社をつくってるんです。1980年代後半、デザイナーズブランド(DC)ブームがあったでしょう。ニコルとかビギとか。知り合いが、「1年落ちのDCブランドを、定価の5~25%で卸せるので買わないか」と。いろいろ調べてみると、東京では週末だけDCブランドを売る、今でいうアウトレット的な店が儲かっている。これ、やってみようと。

 でも、4人ともお金はない(笑)。それで、地元の中古車屋さんとか商売をやっている経営者10人ほどに、「こんな商売をやります。ついては会員制のポイントカードをつくって、お互いに集客し合いましょう」と提携話を持ちかけたんですよ。そしたら1口200万円の出資が10口で、2000万円が集まった。さらに、知り合いの協力もあって、銀行から2000万円の融資に成功。商店街に店を確保して、1000万円分の商品を仕入れたんです。で、届いた荷物を開けたら、DCブランドなんて1箱に1枚か2枚。ほかの服は、ノーブランドのものばかり。で、業者に文句を言ったんですが、契約もしてないし、のらりくらりと逃げられてばかり……。

 結局、店を開いて、お客さんもたくさん来てくれたんですが、当然、売れるのは数少ないDCブランドだけ。これを続けたら大変なことになると判断し、結局、1回の仕入れでその商売をあきらめることに……。出資者にお金を戻して、店をたたんで、残ったのは1600万円の借金のみ。4人で折半して、ひとり頭400万円……。で、僕は、この借金を肩代わりしてくれた建築会社の社長の下で働くことになるんです。身売りというか、人質みたいなものですね(苦笑)。それから10年間くらいは、宇部や下関で建築・不動産関連の仕事に従事。しっかり仕事して、借金もきちんと返済して、その後、ビルの外壁洗浄の仕事をすることになるんですよ。それも福岡県で。インフォマートのビジネスで起業するのは、もう少し先のことです。

日本中の食と食、企業と企業を結びつけ
フード業界全体の発展に貢献したい!

<雇われ、下請け仕事からの脱却>
誰も手がけてない新しいビジネス、世の中の人が喜ぶ仕事へのチャレンジ

 ビルの外壁洗浄の仕事はかなり順調に進みました。ひとつきれいにしたら、その実績で次のビル、次のビルと紹介されて。ほら、僕はA型なんで、目地まできれいにするわけです。でも、バイトを雇ってやらせても、結局は自分でやり直さないと気が済まない。これじゃあ、いつまでたっても拡大していきませんよね。それで、一緒にこの事業を始めた共同経営者に会社を譲って、今度はビルやホテルなどの水道コストを削減する節水コマの販売代理店を始めるんですよ。この頃は営業も得意になっていましたから、かなり売れましたよ。でも、だんだんと、下請けや代理店というスタンスの仕事が嫌になってきた。

 20代、30代の本格起業前、苦しかったですが、日経新聞、日経産業新聞、当時の日経流通新聞の3誌を購読して、新規事業、代理店、フランチャイズビジネスの記事をスクラップし続けていました。で、だんだん、誰も手がけてない新しいビジネス、世の中の人が喜ぶ仕事にチャレンジしたいと思う気持ちが強くなっていったんですよ。そんな時、知り合いから大手百貨店の役員の方を紹介され、会いに行ったんです。「世の中にない仕事? そんなの教えられないよ」と言われたのですが、「ブランド品、化粧品、食品。この3つは景気に左右されない商材だ」という話をしてくれました。なるほど、この3つの中で自分にやれるのは食品しかないなと考え、市場を調べてみることにしたんです。

 地元・山口の先輩で、物産展などの催事販売事業をやっていまして、その人にも聞いてみました。「もちろん売り込みたいけど、高い出張費を考えると、なかなか東京まで営業に行けない」と。一方、百貨店の役員の方に紹介してもらった店舗の食品部長さんに聞くと、「産直の特産品は人気なので売りたい。もちろん売り込みも山ほどあるけど、欲しいタイミングでその情報が届かない」と。その後、スーパーや外食産業の知人にもヒアリングしていくと、やはり産直や地方の特産品に注目しているということがわかった。だったら、あらゆる食材の買い手と、あらゆる食材の売り手をマッチングさせる市場をつくればいい。これならまだ誰もやっていないし、みんなが喜んでくれるんじゃないかと。

<フーズインフォマート誕生>
失敗したら死んでお詫びする覚悟で、パソコンの知識ゼロでネットビジネス参入!

 このアイデアを思いついた当初、カタログや展示会、総合卸も考えました。でも、それらはすでに存在してるんですよね。他人と同じことはやりたくない。時は1997年、ちょうどインターネットが身近になり始めた頃です。ネットならそれほど資金もかかりませんし、今後必ずネットをみんなが使う時代がくるだろうと。また、当時は、宅配料金がまだ高かったので、単価の低い食品の個人売りは難しいだろうと考え、いわゆる“BtoB”、業者間取引に絞ることにしました。もう二度と、雇われの身や、代理店営業の仕事には戻りたくない。これを自分の最後のビジネスにしよう。もしも借金抱えて失敗したら、保険金を使って死んで返せばいいじゃないか。そんな純粋な気持ちになっていました。

 1997年の10月から仲間4人で企画を開始し、翌年の2月に株式会社インフォマートを設立。仲間内にネットに詳しい人間がいなかったので、サイトの構築は詳しい人を紹介してもらってシステム構築から依頼しました。自分で初めてパソコンを買ったのも、「フーズインフォマート」のサイトが出来上がった後でしたからね(爆笑)。その後、当時出始めていたファクスDMを使って、ユーザーへのPRを開始。食材関連業者の名簿を買いとって、5000通近く送ったら、200件以上の反応があった。びっくりしましたよ。予想を超える反応に。ファクス用紙がなくなって、慌てて買いに走ったり(笑)。結果、予定を2カ月遅らせましたが、1998年6月に、売り手と買い手100件ずつで、「フーズインフォマート」のオープンにこぎつけたのです。

 オープン当初から、予想以上の取引をしてもらえました。それから徐々に評判が広がり、ユーザーも取引数も増えていきましたが、2003年の6月に初めて短月黒字になるまでは、本当にしんどかったですよ。2000年に最初の第三者割当増資をしたので、なんとかしのげた。ある外資系のベンチャーキャピタル(VC)が出資をする前提に、大々的な宣伝費をかけろというので実施したんです。でも、なかなか出資契約をクローズしないことが原因で、資金不足に陥りかけたことも。その時は、山口時代の先輩ふたりが奥さんの定期をくずして、お金を用意してくれて事なきを得たんですよね。いや、涙が出るくらいありがたかったです。もちろん、その後VCの日本本社に乗り込んで、約束どおりの投資をしていただいたのは言うまでもありません(笑)。

<未来へ~インフォマートが目指すもの>
日本の飲食関連事業者数は125万。全社のなくてはならない標準ツールに!

 外資系のVCから出資を受けた後、三菱商事、三井物産からも出資を受け、資本体制も堅固に。出資者も出席する経営者会議ではいろいろ意見も言います。お客さんもどんどん紹介してほしいって(笑)。2006年8月、東証マザーズに上場を果たしましたが、まだまだこれから。現在、当社の柱は大きく3つあります。ひとつは創業時から続けている、売りたし、買いたしをマッチングする「ASP商談システム」。2003年から始めた、会員の日常受発注業務をサポートする「ASP受発注システム」。そして、2005年から始めた、食材の安全・安心にかかわる情報を一括管理できる「ASP規格書システム」。また、2006年からは、Web上で「食材甲子園」という企画をスタート。これは、県単位で自慢の食材をバイヤーにPRする企画で、現在までに32都道府県に参加いただいてます。

 このビジネスを立ち上げ今日まで継続してきた結果、「うちみたいな小さな飲食店が、あんなに有名な卸業者のマグロを仕入れられるとは思ってもみなかった」「経営苦に悩んでいた田舎の小さな和菓子屋の当店が、藁をもつかむ思いで使ったのがインフォマート。そのおかげで、全国から取引をいただけるようになり、息を吹き返した」などなど、たくさんの感謝の声をいただくことができました。誰も手がけてなかったビジネスで、世の中の役に立つ仕事をする。起業前に自分で立てたこの志は、もちろんまだ道半ばにも到達していませんが、少しずつ近づいているのかな、と思っています。

 現在、インフォマートの取引社数は約1万7000社。個人事業者を含め、日本の食産業に従事する事業者数は、125万あるといわれてます。これを言うと「冗談だろ」と返されますが、すべての事業者に当社の仕組みを標準ツールとして使ってもらうことが夢なんですよ。ちなみに、帝国データバンクに登録されている事業者数は12万2000社だそうです。当面はこの数値が目標ですかね。あと、やはり日本の食材は安全で、しかも美味しいでしょう。中国など海外に目を向けて、国内より高く取引される市場に進出している生産者の方々もいるんですよ。ある意味日本の食材には高い付加価値が備わっているので、今後、 当社も生産者の方々が海外展開で成功するためのサポートもしていきたいと考えています。でも、125万社を達成する頃まで、自分が生きているかどう か……。これが一番難易度高いかもしれない(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
誰も手がけてないことを見つけ、どうすれば世の中が喜ぶか考え抜くこと

 自分自身で経験してきたことからしかアドバイスできませんが、やはり起業するなら、人がやってないことを見つけることが最初のステップだと思います。もちろん、まったく存在しないもの、ではなくて、似て異なるものならありですよ。あとは、そこに世の中に役立つ、喜ばれるという基準をおいて考える。もしも両方を兼ね備えたビジネスと出合えたなら、ぜひ、始めてみてほしい。お金儲けありきの起業も否定はしません。ですが、お金儲けをしようと思って始めて、実際にお金持ちになれるっ人て、そうとう希少。しかも、そうとう器用じゃないと無理ですよ。僕なんて、不器用ですし、実家も普通でしたし、学歴もないですし、コツコツやるしかなかったんで(笑)。お金持ちになるという考えは、インフォマートを立ち上げた時に捨て去りました。

 起業することや、社長という肩書きを得ることを、単純にかっこいいと思っている人って多いんじゃないですか? いい車乗ったり、いい家に住めたり、とか。でも、自分でビジネスを立ち上げて、売り上げがなければ当然ですが、給料はなし。かなりかっこ悪いことになることも覚悟してないといけません。当社もスタートから3年間は本当に苦しくて、僕と専務の給料は、毎月ずっと額面20万円でしたからね。確かに財布はからっぽで、生活は楽じゃなかったけど、つらいと思ったことは一度もないんです。それはやはり、世の中に必要とされていることをやっているという自信があったから。起業を自分ごとで考えすぎてしまうと、世の中は大きく育ててくれないのではないでしょうか。

 もしも挑戦の途中で壁に出遭ったとしても、正しいことをやろうとしているなら、どこかに助けてくれる人がいるはずです。そんな誰かを探して、この人だと思ったら、謙虚な聞く姿勢をもって、どんどん話を聞けばいい。その際に、自分自身を包み隠すことなく、正直に話をすることが大切ですよ。僕自身もそうやって、一歩一歩進んできたんですからね。そうそう、ちなみに僕は、“ひっ込み思案”、“ひと見知り”、“ひきこもり”の3H男なんですよ(笑)。そうは見えないとよく言われますが、これは本当に。そんな僕でもここまでやってこられたわけです。みなさんも自信をもっていいんじゃないですか(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

起業、経営ノウハウが詰まったツールのすべてが、
ここにあります。

無料で始める