第57回 株式会社フォーバル 大久保秀夫

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第57回
株式会社フォーバル 代表取締役会長兼社長
大久保秀夫 Hideo Ohkubo

1954年、東京都生まれ。国学院大学法学部卒業。大学在学中より司法試験合格を目指すが、学生結婚した妻の父との挑戦は2年間だけという約束を守り、ア パレル関連企業に就職し人事部に配属となる。日本的な年功序列体質に我慢できず、3年で退社。フルコミッションの外資系教材販売会社のセールスパーソンと なる。営業力を発揮し、驚異的な成績を挙げるも、今度は人を使い捨てにする経営方針に納得できず退社。その後、起業すべく商材を探していた時、ビジネス フォンマーケットと出合う。将来可能性を確信し、1980年、25歳で新日本工販株式会社(現・株式会社フォーバル)を設立。代表取締役に就任した。 1988年、日本最短記録(当時)で店頭登録銘柄(現・ジャスダック)として株式を公開。同年、社団法人ニュービジネス協議会から「第1回アントレプレ ナー大賞」を受賞している。その後も、情報通信業界で数々の挑戦を続け、現在、従業員数約1100名、法人クライアント数15万社、上場会社2社を含むグ ループ企業23社を抱える巨大ベンチャーグループに成長させた。近著に、『やり抜けば仕事は必ず面白くなる!』(かんき出版)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

和食、特に寿司です。
だいたい7割は和食です。寿司が好きですかね。でも、5年前から朝と昼は食べないようにしてるんです。だから、毎日夜の1食のみ。あと、お酒はよく飲みま すが、週に1日は休肝日を設けています。最初はビールで、その後ずっとワインでいくか、日本酒・焼酎にいくかこの2パターンに分かれます。

趣味

ジムでトレーニング。 
最低でも週2回はジムで体を鍛えています。1回行けば4時間くらいはやっていますね。だから今でも体脂肪率は19%台をキープできてるんです。あと大事な 会議や商談など、勝負前に行くといいですよ。頭がすっきりして集中できますから。平日ジムに行くと若手経営者とよく会いますが、彼らもビジネスの勝負前に 運動することが多いんですって。

休日

本をよく読んでいます。
最近印象に残っているのは、ジェームズ・C. コリンズの『ビジョナリーカンパニー2~飛躍の法則』と、アル・ライズの『フォーカス!利益を出しつづける会社にする究極の方法 』です。この2冊はお勧めですよ。実は私は乱読家で積読家なんですよ。どんどん読みたい本を買ってしまって、書斎に積まれた未読の本を見つけた時は、 ちょっとしたストレスを感じちゃうんです(苦笑)。

最近うれしかったこと

孫の誕生でしょうか。
昨年、私の娘が女の子を出産しましてね。出産日の朝に娘が陣痛でヒーヒー言っていて、その日の夕方病院に行ったら孫が生まれていた。数時間前に存在しな かった命が、いきなり目の前に現れたわけです。生命の神秘を感じざるを得ませんでした。今では週末孫の顔見たさに食事に行くのが一番の楽しみ。孫を前にす ると、無条件で自分が笑顔になってしまうんですよね。ちなみに携帯の待ち受けも孫の写真です(笑)。

通信の自由化・価格破壊に尽力してこれから、
さらなる「新しいあたりまえ」創造に挑戦していく

 旧NTTが独占してきた電話機販売を自由化し、長距離通話から始め様々な電話料金を引き下げ、高品質かつ番号そのままのIP電話を開発するなど、主に中小 企業にとって「待ってました!」のサービスを開拓、提供し続けてきた株式会社フォーバル。創業当時の社名は新日本工販。この会社を28年前に立ち上げ、今日まで成長させ続けてきた男。それがベンチャー業界のカリスマ、大久保秀夫氏である。日夜クライアントのために今何ができるのかを考え、学び、旧態依然とした規制や常識をものともせず、常に「新しいあたりまえ」創造のために走り続けてきた。少し照れながら自身を「いつまでも満足できない欲深い人間」と称するが、彼のこの思いこそがフォーバル成長の原動力となっているのは間違いない。今回は、そんな大久保氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<大久保秀夫をつくったルーツ1>
大事故で車椅子生活を宣告されるが、不屈の根性で普通歩行ができるように

  出生地は、寅さんで有名な葛飾・柴又。普通の会社員の父と、普通の主婦だった母の間に生まれたひとりっ子です。私は5歳の時、死に直面する大事故に遭っています。幼稚園の送迎バスから降りて道を渡ろうとした瞬間、大きなワゴン車に轢かれてしまったんですよ。そのまま数十メートル引きずられ、車の下敷きに……。周囲は血の海だったそうです。母がその時受けた電話では、即死と言われたんですって。すぐに病院に担ぎ込まれましたが、医者も「もって数時間でしょう……」と。でも2日経ち、3日経っても私の心臓は止まらなかった。それで転院して大手術を受けることになったのです。危機的状況のため一気にすべての手術はできませんから、順番に少しずつ。そしてこの長い手術に耐えた私は、奇蹟的に死の淵から生還することができたのです。この復活劇は新聞の記事として取り上げられるほど。思えばあれが私のマスコミデビューでした(笑)。

 意識が戻り少し元気になった頃、母に病院の近くにあった上野動物園へ連れて行ってもらいました。「あなたは1回死んじゃったの。でも神様がもう1回命をくれたの。だから思い切り生きなさい。もう歩くことはできないけど……」。もう、歩けない!? そりゃあ大変なショックですよね。しかし、母からそう言われた直後、「僕は絶対に歩けるようになる!」と言い返していたんです。今でもあの時のシーンを鮮明に思い出すことができます。

 医者からも一生車椅子と宣告されていましたが、自分でギプスを外し、車椅子を降り、一歩ずつ自分の足で歩く訓練を始めたんです。毎日が激痛との闘いですよ。それでももう一歩、もう一歩……。小学校に上がってからも、通常7、8分で歩ける通学路を毎日1時間くらいかけて歩き続けました。そして小学6年生になった頃には、なんと普通の子どもと同じくらいに歩けるようになっていたのです。今でもそうですが、私は医療を超えた人間の生命力というものを信じています。

 だから小学生時代の思い出は?と聞かれても、痛みに耐えながら歩き続けたことしか思い出せないんですよ。そして中学に進むと、私は無謀にも陸上部へ入部します。でも、監督からはマネジャーになれと言われ、結局すぐに退部。でも、どうしても走りたいわけです。すると友人が「俺が走らせてやるよ」と、毎日5kmのランニングに付き合ってくれたのです。マッサージもしてくれてね。本当に感謝しています。でも、夜は足が痛くて眠れなくなる。だから毎晩コカコーラのビンで自分の足をこすりながらなんとかその痛みをごまかしていました。母は泣いて「もう止めて」と。医者も「あまりに無謀だ」と。それでも私は走ることを止めませんでした。

<大久保秀夫をつくったルーツ2>
司法試験挑戦と彼女との関係を維持するため、学生結婚を決意し彼女の父に直談判

 中学2年の時、学内のマラソン大会がありました。私はこの大会に出ることにしたのですが、陸上部の同級生から「おまえに負けたら大きな恥だ」と挑発されたのです。そいつにだけは絶対負けたくなくて、本番ではもう必死で走った、と記憶しています。気づいた時、私は病院のベッドの上。あまりの痛みと苦しさに失神してしまったんですね。でも、友人に結果を聞いたら「大久保はあいつに勝ったよ」と。いや、本当に嬉しかったです。その後、陸上部への復帰が認められ、それからはずっと長距離の練習に明け暮れる毎日を続けました。3年の秋には、ある陸上の強豪高校から特待生としてスカウトしたいという話が私の元へ。そのくらい速く走れるようになっていたのです。

 仲良しの同級生ふたりと、地域のトップレベルの都立高校へ進む約束をしていたので、そのスカウト話はお断りしました。ですが、ずっと走ってばかりでしたから内申点が最悪なんですよね。結局、私ひとりだけ落ちてしまって、二次試験を受けて私立国学院久我山高校へ進学することになるのです。陸上は高校2年の半ばまで続けました。あとは柔道です。今はどうかわかりませんが、当時の国学院久我山の男子生徒は講道館柔道で黒帯を取らないと卒業させてくれなかったんです。だからある意味強制的に(笑)。

 勉強はですね、進学クラスの1番か2番でしたし、模試の成績も良かった。都立に進んだふたりが一橋大学を受けるというので、私もそのつもりだったんです。ですが、高校受験で失敗しているでしょう。あれが私の中ではものすごいトラウマになっていて、受験日が近づくにつれ恐怖が高まっていく……。「そもそも国学院久我山に来たのだから、上の大学に行けばいいじゃないか」と、受験しないための言い訳ばかりを考えるように。結局、私は受験から逃げてしまった。人生で最大の後悔といえば、そのことじゃないですか。

 そして成績優秀の特待生枠を使い学費免除で国学院大学の法学部へ。当時は大学からの給付制度があって、家庭教師のバイトもしていましたからかなり裕福な大学生でした。で、大学3年から司法試験ゼミに入り、検察官を目指すんです。ご存知のとおり司法試験は生半可な勉強で受かるようなものじゃありません。でも、16歳から付き合っていた彼女がいましたから楽しいデートもしたい。そこで出した結論が、「いつも一緒にいられるように学生結婚すればいい」。そう決めて、彼女の実家に挨拶に行きました。娘さんを私にくださいと。

<司法試験をあきらめ就職>
日本の老舗企業と外資系企業で働くも、自分の居場所ではないと自主退職

 まあ当然ですが、彼女の父親にはいきなり猛反対されました。でも、もう20歳を過ぎていましたから、「なぜだめなんですか?」と反論。すると「学生がどうやって生活していくんだ」と。「給付金もあるし、バイトもしている。生活費の心配はない」と再度反論。そうやってもろもろすべての反論を論破して、何とか許可を得たのですが、「2年間で合格しなかったら就職すること。一筆書け」という条件をつけられた。合格までに5年はかかると思っていたのでそれは無理と思いましたが、検察官になれなければ警察官になろうと思っていたので承諾したのです。そしたら、「ただし、もうひとつ条件がある。おまえのような竹を割った性格の男は警察官になったらすぐに死んでしまう。警察官もだめだと」……。読まれていました(苦笑)。

 結婚することには成功しましたが、予想どおり(笑)、2年後私は就職することになるんです。就職後も勉強を続けようと思っていましたから比較的楽な事務系の仕事を探し、老舗アパレルメーカーの人事担当として採用されました。ここには3年間お世話になりましたが、気に食わない上司と顔を合わせないようデスク配置換えを実行したり、社員の甘い出社時間をいさめるため労働組合とぶつかったり、いろいろ暴れました。最終的にこの会社を辞めようと考えたきっかけは、多くの社員が残業手当目的でだらだら仕事をしていたこと、先輩に20年我慢したら部長になれると言われたこと。手を抜いて仕事して給料を増やし、我慢して部長を目指す……。たった一度の人生、そんなあほらしいことやってられないと。それで、完全歩合制の外資系教材販売会社に転職したのです。

 売れなければいっさい給料はなし。1日最低3000円の活動費がかかりますから、成果がないと10日で3万円もの赤字となる。人がどんどん入っては次々に辞めていく、入れ替わりの激しい会社でした。しかし実力主義の営業の世界が私には合っていたようです。前の会社でストレスが溜まっていたこともあり、フルパワーで働きましたよ。結果、売りまくり、月給はなんと200万円ほどに。前職の年収が200万円弱でしたから、ものすごい稼ぎなわけです。そして半年でマネジャーに昇進し、リーダー総会の会場で初めてこの会社の社長に会った時、壇上から聞かれたんですよ。「人を定着させる方法はないか?」と。そこで手を挙げた私は、「5万円でもいいから固定給を出せば変わります」と提案しました。そしたら「そんなことできるか!バカモノ!」と。頭にきてこっちも言っちゃったんですよね、「あなたはそこに“大”がつく、大バカモノだ!」って(苦笑)。人を使い捨てにする社長のやり方が許せなかったんです。周囲からは留意されましたが、私はその会場を後にしました。

<妻からの罵倒で奮起!>
起業を決意するも商材は見つからず。 アルバイトでビジネスフォン市場と出合う

 辞めると決めた時、後悔はいっさいありませんでした。しかし翌年、住民税の徴収表が届いた時には大後悔。あれは1年遅れできますし、私は日本の会社もダメ、外資系もダメと落ち込み、腑抜けの無職状態でほとんど収入がありませんでしたから。妻にもあきれられ、離婚したいと迫られました。その時の会話を今も覚えています。「理想の会社がないんだ」「なぜ我慢できないの。理想なんてない。夫婦も我慢よ。だったらあなたが理想の会社をつくんなさいよ」。そんな感じでした。その夜は悔しくて眠れません。でも、朝になりハッと気づいた。「そうだった、自分で会社をつくればいいんだ」と。翌朝、妻の枕元に行き、冗談ではなく「俺は目が覚めた」と伝えたんですよ(笑)。

 親族に集まってもらって、「離婚を止める、自分で会社をつくる」と宣言しましたが、何をやるかは決まっていないわけです。みんなから「おまえは何を考えてんだ!?」と責められましたよ(苦笑)。そんな時、NECの関連会社で働いていた先輩から「暇にしているなら仕事を手伝ってほしい」と誘われた。行ってみたら電話機を売っているという。その頃は、日本電信電話公社(電電公社・現・NTT)しか電話機を売れないとみんな思っていたのですが、実際は法律で1台だけ電電公社の電話をレンタルすれば残りはほかの電話を使ってもいいことになっていたんですね。その話を聞いた瞬間、日本中の会社がターゲットにできる、そしてこれはものすごく大きなマーケットになると確信しました。

 で、実際にアルバイトとして営業させてもらったんです。例えばですが、1台1100円かかっていた電話機が1000円でレンタルできます。さらに高機能の電話になります。そのトークで100社に営業をかければ、7、8件は話を聞いてもらうことができ、内2件は受注することができました。そんなシンプルな営業で、私はどんどん受注を挙げていきました。平均で1カ月に20件くらい。これは当時のその会社のひとり当たり平均受注件数の4倍くらいだったと記憶しています。結局、その会社で約3カ月間お世話になって、1980年9月、情報通信機器を中心に販売し、設置工事、保守管理までを事業目的とする新日本工販株式会社(現・フォーバル)を設立。私は25歳で、起業家としての道を歩き始めることになるのです。

クライアントから絶対的な信頼を寄せられる、
情報通信コンサルタント会社企業として成長を続ける

<ガリバー・旧電電公社との戦い>
“出る杭”を増やす戦略を貫き、情報通信業界という新市場を確立

 1980年当時、ビジネスフォン市場のシェア9割を電電公社が握っており、残りの1割に多くの民間企業がひしめき合っていたんですよ。しかし、当社は創業1年にして業界内で最も利益を挙げる企業になっていました。同業他社は電話機を1年保証していましたが、当社は電話機メーカーと提携して、リース方式で10年間の無料保証。このサービスが人気となって、どんどんクライアントを獲得していったのです。しかしある日、民間の調査会社から「業界トップ」を知らせる内容の手紙が届いた。嬉しい反面、これはちょっとまずいと直感。当社はまだ吹けば飛ぶような小さな会社でしたから、電電公社に目を付けられたら一気に潰されるのではないかと。

 そこで私は“出る杭”を増やすことで業界自体を拡大させていく戦略を考案し、推進していくことを決意します。巨大企業にも止めることができない大きな流れをつくればいいんだと。そして民間メーカーの電話機を販売するためのセミナーを開催し、当社が培ってきたノウハウを惜しげもなく参入を希望する会社に提供していきました。これはある意味、ライバルを増やすことになりますから、既存の同業他社や社員たちからは反対の声も聞こえていました。しかしこの方針を貫くことが、必ず通信業界の活性化につながることを私は信じて疑いませんでした。そして1985年、電電公社は日本電信電話(NTT)として民営化され、ついに日本に通信の自由化が実現することになるのです。その頃には、民間企業が占めるビジネスフォン市場のシェアは5割に届くまでに成長していました。

 次に取り組んだのが、ソフトバンクの孫正義社長と一緒に開発した「NCC-BOX」の提供です。割安の遠距離通話を提供するDDI(現・KDDI)や日本テレコムなどの通信事業者は存在していましたが、ユーザーが利用するごとに最も安い通信会社を調べなければならなかったり、局番の前に「0088」や「0077」などの番号をダイヤルしなければならなかったり、非常に手間がかかるものだったのです。「NCC-BOX」はそれらの手間をすべて自動的に解決してくれるもの。これを無料で全国の中小企業に配布していきました。無料で最も安い電話回線を探し電話がかけられる「NCC-BOX」は大人気となり、年間100万個もの配布を実現。ちなみにフィーの仕組みは、利用企業が使った通話料に応じて、私たちが通信事業者からロイヤリティを得るというビジネスモデルでした。

<設立8年目に株式上場>
上場後も常に「新しいあたりまえ」を 模索しながら、いくつものハードルに挑戦

 「NCC-BOX」の開発と提供は、単にユーザーに経費削減、簡単便利を享受しただけではなく、通信事業者が利用者から選ばれるための価格競争を激化させ、通話料の価格破壊を巻き起こす起爆剤の役目も果たしてくれました。その後、長距離通話料金は8割以上も低下しましたからね。この新たな挑戦により当社の売り上げは年商100億円を突破し、1988年に当時の最短記録である設立8年目に店頭市場(現・ジャスダック)へ株式公開を果たしたのです。実は創業当初から7年目の上場を計画していたのですが、前年にリクルート事件が起こってしまい、1年間新規上場がストップさせられてしまった。あの事件がなければ予定どおり7年で上場できてたんですけどね。

 またこの年、社団法人ニュービジネス協議会から「第1回アントレプレナー大賞」を受賞しています。副賞としていただいた腕時計は今でも使っているんですよ。あまり物欲がないもので(笑)。その後も全国に拠点を展開しながら、常に情報通信業界における「新しいあたりまえ」の創造を念頭に置き、様々な挑戦を続けてきました。1995年には第三電電構想を実現するため、株式会社フォーバルテレコムを設立。国際電話サービス事業に進出し、海外通話料金の価格破壊を実現しました。2002年にはブロードバンド社会の到来を見据え、ソフトバンクグループと合弁会社を設立。ADSLやIP電話を普及させる事業に注力してきました。

 そして2006年には、前ニューヨーク市長のルドルフ・W・ジュリアーニ氏がCEOを務めるセキュリティーコンサルティング会社GIULIANIPARTNERSとの合弁会社、株式会社ジュリアーニ・セキュリティ&セーフティ・アジアを設立。ニューヨーク市を実際に立て直したスタッフたちと連携し、IT、物理、組織セキュリティを統合したOne Stop Full-CircleSecurityのBCP(事業継続プラン)策定などを国内の企業や組織に向けて提供していきます。面白い取り組みをいろいろ水面下で進めておりまして、近々発表できるかも、しれません(笑)。この仕事はとてもナーバスで、ある意味黒子に徹する必要があるものですから。

<未来へ~フォーバルが目指すもの>
“もの”から“こと”、そして“信頼”の営業へ。情報通信コンサルタント企業を目指し成長を継続

 フォーバルがこれまで主に扱ってきた電話機や各種OA機器、ブロードバンド社会に向けたインフラの提供も、ある程度はその普及に貢献できたという実感があります。今やネットで検索すれば最安値の商品を探して購入できるサイトはいくらでもありますし、そうなった時にただものを売るだけの企業は淘汰の運命をたどるしかありません。そして近い将来、人と人の“信頼”でしかつながることのできない関係づくりが必要とされるビジネス社会になると思っています。そこで生き残るためにどうすべきか、3年くらい前からある取り組みを始めています。“もの”ではなく“こと”を売ることができる人材を育てるということです。

 インフラと機器は揃った。でもブロードバンド社会がどんどん発展すると、どうやって使えばいいか? 様々なセキュリティにどう対応すればいいのか? 余裕のない中小企業はこれらの問題をいったい誰に相談すればいいのでしょう。そうなった時に、迷わずフォーバルを選んでいただけるよう、当社ではスタッフにITに関する資格取得を推奨しているのです。NTTコミュニケーションズが行っているインターネット検定「.comMaster」は約75%、個人情報保護法に関するエキスパートであることを認定する「個人情報保護士」は約35%の社員が取得しています。当初は営業力の高い人間ほど、資格取得を嫌がりましたし、正直、“もの”ではなく“こと”を売るに注力しましたから、会社としての売り上げも相対的に見ると芳しくはありません。ただ2年ほどかなり我慢してきましたからね(笑)、そろそろ結果が出始めますよ。

 信頼でしか選ばれない時代になった時、セキュリティ分野での先行性と、人づくりの我慢が、必ずどこにも負けない筋力となっているでしょう。ここを抜けると強いですよ。例えやり方を真似されたとしても、私たちはすでにその先を目指すことができるわけですから。もはやアスリートと同じような気持ちですね。100戦したらすべて勝つ。もしもクライアントから他社に浮気されても、悪いのはすべて自分。それを阻止するためにはどうすればいいか、どこまでもクライアントを知り、本音で語り合えるよう考え抜けと伝えています。そういった意味で、私はこれまで自分でつくってきた業界を壊そうとしているのかもしれません。しかし「新しいあたりまえ」を創造する時、壊すものが大きければ大きなほど、手にするものも大きいはずです。誰からも信頼される情報通信コンサルタント企業を目指し、これからもフォーバルは成長し続けるでしょう。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
始めれば、道は自然と開いていく。満足しなければ、継続し続けられる

 やりたければやればいい。思いついたことはやってみればいい。単純にそう思いますね。人生はたった一度きりですから、やりたいことをやらないともったいないでしょう。でも、起業という道に一歩踏み出すなら、中途半端ではいけない。命がけでやれと言いたい。私も起業してからは赤字、黒字の連続で四苦八苦したこともあります。確かに、適性利潤をしっかり確保するというテクニックとなると話は別ですが、自分が生きていくための会社経営であれば、退路を断つ覚悟さえできればウルトラCなど必要ないと思います。人生は何でも一所懸命やれば何とかなるものですよ。

 あと、始める以上は継続が大切です。継続するためには、常に好奇心を持って、満足しないことが大切です。私は「成功した理由を教えて」とか聞かれると、心底頭にくるんです。まだまだ成功だなんて思っていないですからね。成功したと思ったなら、引退してどこかのリゾートでヨットにでも乗って優雅に暮らしていますって。実は妻からは「そろそろゆっくりしたら」なんて言われるんですけど、私は相当欲深い人間なんでしょうね。少しでも成長を実感できると嬉しいですし、悔しいことがあれば成長の機会が来たと思ってしまう。そういった意味で、欲深いことも起業家に必須の特徴なのかもしれませんね。

 起業に高い志は確かに必要ですが、最初からは難しいですよ。ビル・ゲイツみたいに「世界中のデスクにパソコンを」なんて考えた人もいますけど。ただこの仕事が好きだからという理由でもいいんです。やっていく上で、人が増えて、組織になれば会社に魂みたいなものが生まれます。そこから欲深き人間ならば、中小零細で終わらせず、どうやればやりたいことを拡大できるか考えますから。そしてどんどん勉強せざるを得なくなり、哲学や信念がついてくる。いずれにせよ、まずは一歩を踏み出すことができれば、道は自然と開けていくはずです。ただし、世の中はものすごいスピードで変化していますから、世の中の常識とかルールに沿ったやり方にこだわりすぎないこと。それらをいつでも捨てて、新しいやり方に挑戦できる勇気を持っておくことです。あとは、「満足なんて冗談じゃねぇ!」という気概で欲深く生きられれば大丈夫じゃないでしょうか。私みたいにね(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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