第95回 ザ・レジェンド・ホテルズ&トラスト株式会社 鶴岡秀子

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第95回
ザ・レジェンド・ホテルズ&トラスト株式会社 代表取締役 CEO 
鶴岡秀子 Hideko Tsuruoka

1968年、東京都生まれ。10歳の頃から、起業家になりたいと考えていた。日本大学経済学部卒業後、アパレル会社・株式会社ロベリアに入社。1年目にして、ひとりで20人分の売り上げを挙げる、超売れっ子販売員に。2年目、経営企画室に異動し、約9年間勤務。その後、アパレルとは真逆の業界・会社で勝負するため、朝日アーサーアンダーセンに転職。シニアコンサルタントを務める。2000年、自身と2人の仲間3人で、インターネットマーケティング会社・株式会社サイバーブレインズを起業。約4年で、従業員数100名、年商14億円、利益2億円の会社に育て上げる(現・楽天リサーチ)。すべての制約を取り払った中で、自分がワクワクできる夢。“伝説のホテル”をつくることを決意。2006年、ザ・レジェンド・ホテルズ&トラスト株式会社を設立し、代表取締役 CEOに就任。2011年のグランドオープンを目標に、現在もワクワクの毎日をすごしている。著書に『天国体質になる! ~仕事を楽しむ52の秘訣~』(講談社)、『人生を変える! 夢の設計図の描き方』(フォレスト出版)などがある。

ライフスタイル

好きな食べ物

口に入るものは全部(笑)。
基本的に好き嫌いはありません。口に入るものなら何でも食べます(笑)。お酒は、晩酌をする習慣はないのですが、人と一緒なら何でも普通に飲めます。それもかなりの量、イケます。飲んでも飲んでも酔わない体質のようで、友人から「もったいないから、つるちゃんはドブロクでも飲んでなよ」とからかわれたことがあります(苦笑)。

趣味

しゃべること、かな。
しゃべることと、食べることでしょうか(笑)。あとは、家族との時間を大切にしています。幸い、うちは夫が専業主夫をしてくれていますので、安心して仕事に臨めます。6歳の息子がいますが、家族の時間は私の仕事柄、早朝が多いです。みんなで日の出と一緒に起床して、私が仕事に出かけるまで、楽しい時間を過ごしています。

行ってみたい場所

近い将来では、マカオでしょうか。
これまで、ウィーンや香港、台湾、深セン(センは土偏に川)で、経営者の方々向けの講演をさせてもらっています。深センでは、現地の日本人経営者の内、7 人にひとりは参加していただいたとのこと。その情報が伝わったのか、今度マカオに招かれて講演をすることになりました。初めて訪れるマカオ。楽しみにしています。

最近感動したこと

伝説のビーチクリーン。
ホテル建設予定地目の前に広がる九十九里海岸で、当社の支援者有志が音頭をとって、“伝説のホテル”プロジェクトを盛り上げるため、“伝説のビーチクリーン”を開催してくれました。開催日当日の9月19日、全国から500人以上の人々が、4000円もの参加費を払って集まってくれたんです。その日、掲げられた旗には「伝説はここから始まる」と書かれていました。その光景を見た瞬間、鳥肌が立つくらい感動しました。

視察後の機中で頭の中におりてきたひとつの夢。
泊まれば世界のためになる、“伝説のホテル”!

 伝説によって運営され、泊まることで世界のためになるホテル。それが“伝説のホテル”。そのビッグコンセプトが生まれたのは今から約5年前、あるホテル視 察から東京に戻る飛行機の中だった。ザ・レジェンド・ホテルズ&トラスト株式会社の代表を努めるのが、“つるちゃん”こと、鶴岡秀子氏。10歳の頃から、起業家になることを決めていたという、不幸に鈍感な“天国体質”を持つ、笑顔の素敵な女性起業家である。そんな彼女の夢を応援する、本気の支援者が続々と増加中だ。「応援してくれるみんなが言うんです。『つるちゃんなら、絶対にあきらめずにやりきってくれる』って。その期待に応えるためにも頑張らなきゃ。最短で年内、もしくは年明けには工事着工できる予定です。そして今、2011年の春か夏のグランドオープンを目指しています」と語ってくれた鶴岡氏。今回は、そんな鶴岡氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<鶴岡秀子をつくったルーツ1>
事業家である父とのコミュニケーションが、10歳で起業家になるという夢を明確に

 小学生の女の子としては、ちょっと変わった子だったと思います(笑)。事業家である父に、5歳くらいから会社経営に関する質問をよくしていました。ちなみに、父は高度経済成長の波に乗り、建築資材などを運搬する大型トレーラーを数十台保有し、自ら起業した運送会社を成功させていたんですね。そんな父は当時、「お前が大人になった頃にはこんな大がかりな事業ははやらない。きっと、紙と鉛筆だけで仕事ができる時代になっている」。そんなことを言っていました。私は社会人になって、コンサルティング会社でも働きましたが、父の予感はずばり的中。ただ、「秀子も経営者を目指せ」なんて言われたことはありません。ひとりっ子でしたし、「女子校に行って、幸せなお嫁さんになってくれればいい」くらいに思っていたんじゃないでしょうか。

 父の仕事にも、よくくっついて行きました。銀行に一緒に行った時、こんな質問をされたんです。「秀子は銀行ってどんなところだと思う?」「お金を預けに行くところ」「それもある。でも、お金を借りるところでもある。ただし、お金がない時に借りてはいけない。お金がある時に借りて、大きく増やすんだ。そして、約束どおり利子を含めて返すことで、信用が生まれて、もっと大きなお金を借りることができる」。父は銀行へ行くと、必ず奥の部屋に通されて接客されていました。でも、お金を預けたり、何かしらの支払いをする人は、みんなカウンターの前に列をなして、立ったまま並んでいるんですね。そんなシーンを目の当たりにし、「ああ、銀行に利子を支払う経営者って偉いんだなあ」って思ったことを覚えています。

 人生ゲームってあるでしょう。一番お金を集めた人が勝ちという、ある意味えげつないあのゲームです(笑)。私はお金に対するマイナスのイメージがまったくありませんでしたから、人生ゲーム、大好きでした。そもそも売り上げって、世の中に役立った感謝の気持ちとして投票されるものじゃないですか。私は、10歳の頃から「いつか、自分らしい仕組みを提供して、たくさんの投票をもらう、リアルな人生ゲームに参加したい。起業したい」と考えるようになっていました。もうひとつ、父からの印象深い質問です。「あの交差点で、焼き肉屋と蕎麦屋が並んで営業してるね。秀子はどう思う?」「油っこいものに飽きたらさっぱりしたものを食べたくなる。だから、あのお蕎麦屋さんは目のつけ所がいいと思う」「実はあの2店舗は同じオーナーが経営しているんだぞ」。愕然としました。1店舗だと売り上げは頑張っても10%とか20%アップですが、2店舗を経営すれば倍以上になる可能性がある。「店長と経営者は違うんだ。やっぱり経営って面白い」。私は絶対に経営者になりたいと、その時も強く思ったんです。

<鶴岡秀子をつくったルーツ2>
自分のため、教師に反旗を翻した母の姿に感動。それをきっかけに勉強に身を入れ、大学に進学

 小学校と中学校は、東京・板橋区の公立に通っていました。両親から「勉強しろ」と言われた記憶もありません。私も学校の勉強が苦手でした。でも、10歳で起業することを決めていましたから、経済学部がある大学の付属高校に行こうと。単純にエスカレーター式だから勉強しなくても、大学に進学できるというのが最大の理由なんですけど(笑)。女子校で経済学部がある付属を探したら、日本大学だけ。それで受験して日本大学の付属女子高校に進学したというわけです。そんなですから、高校に入ったらますます勉強しなくなった。授業中は寝ているか、おしゃべりしているか。マークシート形式のテストでチューリップのかたちを記入していたら、先生から「1問に2つの答えを記入したら採点機械が止まる。それだけは勘弁してくれ」ってたしなめられたり。そんな体たらく……。

 大学進学のための三者面談が行われました。先生は、母に向かって、私がいかにダメな生徒なのか、いかに勉強ができない生徒なのか、何度も何度も繰り返し説明します。「このままでは、いかに付属高校とはいえ、大学進学は無理です」。その発言に母はキレました。「デコちゃん(秀子)は、発言力やリーダーシップもあって、弱い子を守るいい子だと、小中の担任からずっとほめられてきました。勉強だけがすべてではないでしょう。大学に行けないのなら、うちが大学をつくります」と……。「えっ――」。先生も私も目が点ですよ。私なんて、「もしかして、その大学の生徒って私ひとりだけ」なんて考えたりして(笑)。でも、すごく嬉しかった。先生よりも私を信じてくれたわけですから。やっぱり勉強しなきゃとその後は頑張って、なんとか希望どおり日本大学の経済学部へ進学することができました。

 大学時代はどんなふうに過ごしたか? あんまり行ってなかった(笑)。勉強はそこそこに、経営者である父の知り合いや、友人のそのまた友人とか、自分で会いたいと思う人にたくさん会いに行っていましたね。そうこうしているうちに、あっという間に就職活動の時期がやってきました。卒業後すぐに起業という選択肢もあったのですが、まずは一度就職しておこうと。父は学校を出てすぐに事業を始めた人。常に給料を支払う側で、給料をもらった経験がないので、従業員の気持ちがわからないんですね。そんな父を見ていると、なんだかもどかしくて……。そんなこともあり、将来、経営者になるなら給料をもらう立場を経験しておいたほうがいいと判断。そして大学卒業後、中堅のアパレル会社に就職することになるんです。

<会社を面接しての就職>
感謝の投票を集める経営者になることが最大の目的。
1年目、ひとりで20人分の売り上げを挙げる販売員に

 アパレル会社を選んだのは、モノを仕入れて売るという、極めてシンプルな商売で、お客様に直接接する仕事を経験しておきたかったら。また、遅くとも10年後には起業したいと思っていました。なので、できるだけ早く業界や会社の仕組みを知るため、大企業ではなく、中堅企業に行くことを決めていました。あとは、人事担当者や会社と自分の相性です。採用面接ではこちらから積極的に質問を投げかけて、ある意味、私が会社を面接してしまおうと(笑)。「何年目で店長になれますか?」という質問に、「まずは10年間の下働きをしてからだ」とか、「頑張れば年齢に関係なく抜擢する」など、さまざまな社風の会社がありますからね。まずは業界と規模をしっかり定め、面接をとおして社風をしっかり見極めながら、自分で働くべき就職先を決めたんですよ。

 1年目は全員が売場(店舗)に配属される決まりでした。そして私はすぐに、ひとりで20人分の売り上げを挙げる売れっ子販売員に。なぜそこまで売れたのか? ひとつは、「接する技術」。お客様に好かれる販売員を目指すのではなく、常にお客様を好きになろうと考えていたことですね。中学2年の頃、私はある発見をしています。「真ん中も、右から見れば左」。何でも見方や考え方を少し変えるだけで、違ったものになるわけです。だから、すべてのお客様に興味を持つようにしていました。誰だって興味を示してくれる相手には、心を開いてくれるでしょう。もうひとつは、「本番共有力」。洋服を買いに来られるお客様の本番(目的)は、店を出た後にやってくるわけです。「接する技術」で、お客様の本番の所在を聞き出して、お互いで共有することができれば、商品は勝手に売れていったんです。

 そんなに難しいものではないんです。お見合い、結婚記念日の食事会、子どもの入学式などなど、洋服を活用する本番が何かを聞きだして、お客様と私でそのシーンをイメージしながら洋服を探し出す。だから私は、今年オススメの色やデザインの話は、いっさい語りませんでした。だって、店に並んでいるものすべてが今のトレンドなんですから。その店は全国で3本の指に入る、成績優秀店。その店をさらに売れる店にしたので、当時の店長から「鶴岡さんに店長の座を譲りたい」と言ってもらえました。嬉しかったですね。そして1年目の売場研修を終えた私は、経営企画室へ。入社前の希望は、いろんなメーカーとの人脈ができるバイヤー希望でしたが、そもそも私の夢は、起業家になること。社長のそばで働ける経営企画室への異動を受け入れ、新しい職場で働き始めます。経営者になるための方法は色々あります。山の登り方は100万とおりありますから!

<シリアルアントレプレナーの始まり>
集まるべくして集まった2人のパートナーと共に、
未来の夢を実現するため、一度目の起業を果たす

 経営企画室では上司にも恵まれ、とても楽しく、やりがいをもって仕事をすることができました。会社の仕組みを知るために、商品部、管理部など、ほぼすべての会議にオブザーバーとして参加させてもらったり。ただひとつだけ、役員会への同席はさすがに許可してもらえませんでしたけど(笑)。結局、私は約9年この会社で働いて、大手外資系コンサルティング会社へ転職します。社長からは「なぜ辞める? 役員を目指すんじゃなかったのか?」と怒られました。でも、「10歳から起業することを決めていたのです」と正直に話したら、最後は納得してくれました。この会社で自分はいい仕事をさせてもらったと思いましたが、成功できたのはたまたまで、実は井の中の蛙なのでは? そんな疑心暗鬼に襲われたんです。それで、アパレル業界とは体質が真逆のコンサルティング会社で勝負してみようと。当時、アパレル会社からコンサルティング会社への転職はほぼ皆無だったと思います。周りを見ても、公認会計士や税理士、MBAホルダーばかり。入社説明会で英語のみのVTRを見せられて、やばい、わからない、さらに眠いって(笑)。ただ、入社3日目からあるクライアントを担当しました。本当は2週間の研修を受けないとダメだったようですが(笑)。もちろん、仕事内容はガラリと変わりましたが、ここでやったことは、やっぱり接する技術と、本番共有力の実践です。私の提案はクライアントに快く受け入れられ、1年ちょっとで6社のクライアントを担当することができました。ある時など、パートナー(上司)とクライアント先に出向いた際に、「御社も奥が深いんですね」って言われました(笑)。また、パートナーの代わりに、シンガポールで開催された全社会議に出席したことも。英語はあまり上達していませんでしたが、しっかり役目を果たすことができたと思っています。その頃の仲間が言ってくれました。「語学力ではない。語るべき何かを持っているかどうかが重要だ」と。

 そして私は2000年に、コンサルティング会社で知り合った仲間3人で、一度目の起業を果たします。実はその頃すでに、ホテル経営者になりたいと思っていました。仲間のひとりは投資会社を立ち上げたいと思っていて、3人目の仲間であるマーケッターが、「だったら3人でインターネットマーケティング会社を立ち上げて、成功させよう。そうすれば、ふたりの事業に必要な資金や経営ノウハウが得られる」と。最初のアパレル会社に就職してから、雇用される立場は経験してきましたが、自分で起業する前に、経営陣としての経験をしておくのも悪くない。そう考えて、この話に乗ることにしたのです。結果を話しますと、そのネットマーケティング会社は、時代の要請もあり、4年で従業員数100名、年商14億円、利益2億円の会社に成長。そして2005年にこの会社の役員を退任し、私はホテル経営者になるための準備を開始するのです。

1000年後の世の中を、より素晴らしきものに!
世界中に“伝説のホテル”をつくることが夢

<自らの心への問いかけ>
非効率で不便かもしれないけれど、人との接点がたくさん用意されたホテルがいい!

 ホテルに泊まることが大好きでした。でも、ホテルで働いた経験は皆無ですから、いろんなホテルを視察に行っていたんです。ちょうどその頃、高知市にある“セブンデイズホテル”が数多くの雑誌や新聞に紹介されていて、「いろいろ教えてください」とオーナーに電話をしたら快くお受けくださったんですね。ここは館内が素敵なアートで飾られた評判のビジネスホテルで、高知で一番おいしいコーヒーとパンが朝食に供されます。リーズナブルさと雰囲気が宿泊客に受け、なんと90%を超える稼働率を誇っていました。選択と集中の考え方、人手を極力減らしてサービスを保つ方法など、まさに経営の裏側までオーナーはていねいに教えてくれました。東京に戻る飛行機の中で、考えたんです。私は利益を生み出す効率的なホテルをやりたいんだっけ? 心の答えはNO。非効率で不便かもしれないけれど、人との接点がたくさん用意されたホテルをつくりたい――。

 泊まることで世界のためになるホテル……。“伝説のホテル”という言葉が頭の中に浮かびました。それはどんなホテル? ペンと手帳を取り出して、思いつくまま機内で書き写した言葉があります。それは、私がこれまで生きてきた中で、ずっと考えてきたことなのでしょう。これが、今も当社の基本的な行動指針である“7つの教え”です。①自然に感謝し、その偉大さを受け入れること。②常にエネルギーを充電し続け、いつでも分かち合うこと。③出会うこと起こることをすべてに意味を見出し、発展させる努力をすること。④世界が変わるのを待つのではなく、自分が変わることで世界を変えようとすること。⑤違いを尊重し、人との対話の中から新しい発見をすること。⑥人を心から信頼し、信頼される自分になること。⑦どんな時も、すぐに気持ちで恩返しをすること。ホテル経営に関わる自分自身も含め、この“7つの教え”に賛同してくれる従業員、お客様、株主、お取引先が集まれば、絶対に“伝説のホテル”は実現する、と思いついてしまったんです。

 その後すぐに、“伝説によって運営されるホテル”、そして基本的な行動指針である“7つの教え”を携えて、いろんな人たちに説明して回りました。言葉にして伝えると、それはどんどん広がっていくんです。いくつかのホテル用の候補地を見学したあと、千葉県の九十九里にある3000坪の敷地を有するオーナーにお会いすることになりました。すでにコンペで保養所などいくつかの提案を受けられていたのですが、私が語る“伝説のホテル”のストーリーを聞かれたオーナーは、“7つの教え”を手帳にすべて書き写され、「わかりました。鶴岡さんの伝説のホテルづくりに協力しましょう。早く会社を設立してください」と。そう、この時ホテル運営の会社も存在せず、当然ですが名刺さえも持っていなかった(苦笑)。それにもかかわらず、ほぼ即決していただいたのです。そして2006年、ザ・レジェンド・ホテルズ&トラスト株式会社を設立し、“伝説のホテル”づくりはいっきに加速し始めます。

<暗中模索の挑戦>
すべてが未経験のチャレンジに支援者現る!「夢の片棒、担ぎます」というメッセージと共に

 まず、興味を持っていただいたのが、オリエンタルランドの関連会社・東京妙案開発研究所の相羽高徳さん。「僕も夢の片棒を担ぎますよ」という素敵なメッセージと共に、イメージデザインの作成を引き受けていただきました。そのデザイン画を持って、今度は建設会社を訪問。それも超大手のスーパーゼネコンばかり(笑)。でも、どこに行っても、「概算は出せるが見積もりは出せない」という回答……。業界の常識など何も知りませんから、そんなものなのかなと。ただ、捨てる神あれば拾う神あり。開発施工担当として、東証一部上場の青木あすなろ建設さんが名乗りをあげてくれました。そして設計監理担当は、六本木ミッドタウンの設計もされた坂倉建築研究所。錚々たるパートナーに恵まれ、20mの高台に広がる3000坪の敷地、10戸のヴィラ24室を有する“伝説のホテル”建設プロジェクトが本格的に動きだしました。

 “伝説のホテル”の10戸のヴィラは、オーナーに別荘として購入いただき、それを当社が別荘オーナーから365日お借りします。このヴィラを当社がホテルとして運営することで、オーナーは建物賃貸のリターンとして、「現金」と「現物」を受け取ることができます。「現金」は、ホテルの年間宿泊稼働率に応じて変動し、「現物」は、ホテル無料利用ポイントとして、決まった数を毎年受け取ることができるという仕組みです。また、ホテルオーナーが経済性のあるリターンとして受け取る「現金」のうち、一部分を 「オーナーハーフ募金」としてオーナー自身が希望するチャリティーに使っていただきます。オーナーは、その年のリターン金額に応じて、世界の問題を解決するための “100個の壺”(内容は後述)の中からお好きな壺を自由に選ぶだけ。すべての管理・手続きは、当社が設立を予定している財団法人が責任を持って行います。

 ちなみに、ホテルの総工費は約30億円。設計図はなんと3000枚強、見積書も1200枚を超えました。照明設計や1本1本の木々などを決めるランドスケープデザイン、建物の設計が変われば、開発(土壌)設計も変化していきます。卵が先か、鶏が先か……。完璧を目指して、その繰り返し。毎週4時間の設計ミーティングを重ねながら、パース模型も設計図も変更していかねばなりません。大変でしたけど、夢に向かって進んでいくためには絶対に必要な作業でしょう。私は不幸に鈍感な根っからの“天国体質”なので、ただただ楽しくて、つらいと思ったことは一度もないです。そもそもこのくらいの苦労は当たり前。どんな事業をやろうが、経営者であればみんな同じようなものですからね。もちろんパートナー探しや建設に関する作業と同時並行して、資金調達も進めています。2009年2月には、グリーンシート市場に株式を公開。伝説を一緒につくっていただける株主数も1000名を超え、当社の資本金は準備金を合わせると4億円強となりました。

<未来へ~ザ・レジェンド・ホテルズ&トラストが目指すもの>
世界中に“伝説のホテル”を広げることで、世の中をより素晴らしいものにしていきたい

 “伝説のホテル”には、長い回廊があって、そこには先ほどお話した“100個の壺”が置かれています。ひとつひとつの壺には札がかけられていて、たとえば「地元にお花を植えるための壺」「難病子どもたちを救うための壺」などなど、明確な用途を把握したうえでチャリティー募金ができるようになっています。また、ホテルのショップでは、「W」のマークが入った商品が販売されます。これは「W購入」という仕組みで、1冊100円のノートを購入すると、200円を支払うのですが、購入者は1冊を受け取り、もう1冊は世界の貧困国の学校に届けられるのです。こうやって宿泊者は泊まることで世界の役に立つ“伝説のホテル”をつくる一員となり、そして世界につながっている気持ちになれるというわけです。

 こんな未来のシーンを思い描いています。ある国の少年が、W購入のチャリティーで「W」のマークが印刷されたノートを手にしました。そのノートには、“伝説のホテル”のオーナーがヴィラのプレートに書き記した「すべては自分を信じることから始まる」という言葉と、“7つの教え”が印刷されています。彼はその言葉たちを心の励みとし、一生懸命勉強し、20年後、事業家として成功。ある日、日本にやって来た彼は“伝説のホテル”を訪れ、ヴィラオーナーと対面し、ノートが送られてきた理由を知ることに。ホテルまでの道には花々が咲き乱れ、ホテルの回廊には“100個の壺”が。そしてW購入という仕組みが、自分の未来をつくってくれたことを目の当たりにするのです。帰国後、彼は“伝説のホテル”の話を仲間たちと共有し、77番目の“伝説のホテル”がその国に誕生しました。

 アントレプレナーセンターの福島正伸さんからいただいた言葉、「夢しか実現しない」。私はこの言葉が大好きです。すべての成約を取り払った中で、私がどうしてもやり遂げたかった夢。自分の心に静かに問いかけて返ってきた回答。それが“伝説のホテル”の実現でした。今はまだ道半ばではありますが、私の夢に賛同してくれるたくさんの仲間が増え、夢の実現が確かに近づいていることを日々実感しています。先日も、支援者メンバーと一緒に9月19日、ホテル建設予定地目の前に広がる九十九里海岸で、500人以上が参加した“伝説のビーチクリーン”を開催しました。応援してくれるみんなが言うんです。「つるちゃんなら、絶対にあきらめずにやりきってくれる」って。その期待に応えるためにも頑張らなきゃ。2009年の8月、やっとホテルの開発許可が千葉県からおりました。最短で年内、もしくは年明けには工事着工できる予定です。そして今、2011年の春か夏のグランドオープンを目指しています。あなたも私たちと一緒に、“伝説のホテル”づくりに参加しませんか?

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
ビッグカンパニーをつくるなら3つのステップ!
夢をつくるなら、すべての制約を取り払うこと

 その昔、友人がこんなことを教えてくれたんです。その話を聞いた瞬間に、ストンと腑に落ちました。「ビッグカンパニーをつくりたいなら、3つのステップが必要である」。最初のステップは「ビッグコンセプト」をつくること。確かに、これが何よりも大切です。当社でいえば、泊まることで世界のためになる“伝説のホテル”や、“7つの教え”ですね。ビッグコンセプトがあれば、ビッグピープルが集まる。「そんな素晴らしい夢があるなら私が人肌脱ごうじゃないか」と、すごい人たちが協力してくれる。東京妙案開発研究所の相場さんが「夢の片棒担ぎます」と言ってくれたのもこのことですね。これが2つ目のステップ。そうすると、「そんなすごいメンバーが協力してくれるなら、必ずこのプロジェクトは成功するだろう」と、ビッグマネーが集まる。これが3つ目のステップです。

 ビッグコンセプトという夢に共感してもらうためには、事業プランも大切ですが、その伝え方にもセオリーがあります。いきなり「私は射撃大会に出て金メダルを取ります」と宣言しても、誰も信じてくれませんよね。共感を得たいなら、夢を語った後に、思いついた日のことを語り、次に思いついた日から今日まで夢を実現するために何をしてきたのかを語ります。そこをしっかり伝えることを忘れてはいけません。さらにその夢をカラーでイメージすることも有効です。私は10分間で“伝説のホテル”のコンセプトをお伝えするためのオリジナル映像をつくって、ノートPCや携帯動画でみんなに見てもらったり、当社のホームページでも公開したりしています。プロゴルファーの石川遼君に会った時、携帯で動画を見てもらったんです。見終わった瞬間、遼君は「僕と同じですね」と一言。彼も試合の前に必ず、全ホールの映像を見てから勝負に臨むそうです。

 年齢や性別、学歴や資金力などすべての制約を取り払って、自分が心からワクワクできること。ぜひ、それを明確にして、あなたが実現すべき夢をつくってほしいと思います。制約があると、できない言い訳として使ってしまうことが多いですから。そして事業を成功させたいなら、絶対にあきらめずにやり遂げる覚悟が必要でしょう。儲けるためでもなく、人に自慢したいためでもなく、自分がその事業をしたい目的。そこが明確に見えない限り、誰も応援なんてしてくれないですよ。そうそう、著名な脳科学者・苫米地英人さんと対談をした時に彼が言っていました。「鶴岡さんのやり方は間違っていないよ。時間は過去からではなく、未来から流れてくる。夢が明確であれば、その人の過去には関係なく成功できる。Howは必ず後からついてくるから」と。カーネギーメロン大学博士が認めてくれたのですから大丈夫(笑)。ぜひ、制約を取り払って、あなたオリジナルの大きな夢を探してみてください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:中田信夫

現役社長 経営ゼミナール

●ザ・レジェンド・ホテルズ&トラスト株式会社 鶴岡社長に質問

Q.もし鶴岡社長が政治家だったら、この世界のために、まず何から始めますか? (神奈川県 会社員)

A.
まず始めに、優先順位を決めることからスタートします。事業もそうですが、限られたリソース(資源)の中で最大の効果をあげられるように。ただし、事業より も政治は、より長期的な視野に立つことが大切だと考えています。
短期的には不利益でも、長期的に見て良い方を選ぶことも必要です。評価は自分が亡くなった後になったとしても。

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