第70回 株式会社ウェザーニューズ 石橋博良

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第70回
株式会社ウェザーニューズ 代表取締役会長
石橋博良 Hiroyoshi Ishibashi

1947年、千葉県生まれ。北九州大学外国語学部英米学科卒業後、当時、10大商社の1社に数えられていた安宅産業株式会社に入社(1977年10月、伊 藤忠商事に吸収合併)。安宅の本流事業である木材建材本部米材部に配属となる。3年後退社し、1973年、アメリカ・シリコンバレーに本社を持つ海洋気象 情報会社「オーシャンルーツ」に転職する。1976年、29歳でオーシャンルーツ日本支社代表取締役社長に就任。1980年から約1年半、日本支社社長と 兼務でアメリカ本社国際マーケティングおよび商品開発担当副社長を務める。1986年、オーシャンルーツから陸上、航空部門を買い取り、MBOのかたちで 独立。ウェザーニューズを設立し、代表取締役社長に就任。1993年、かつての親会社のオーシャンルーツを買収。同年、ニュービジネス大賞受賞。2000 年、ナスダック・ジャパン(現・ヘラクレス)上場。現在は東証一部に指定替え。(財)気象業務支援センター理事、米国気象学会会員、在日米国商工会議所会 員、日本経済団体連合会会員、千葉大学客員教授。2008年「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」日本代表。

ライフスタイル

好きな食べ物

アンズなんですよ。
フレッシュでもドライでも、あの酸っぱくて甘い味が大好きなんです。大学を卒業して入社した会社のアンケートで、嗜好品という記入欄があったんですが、そこにも「アンズ」と書きました。後から聞いたら、それはタバコを吸うかどうかをチェックするための項目だったんですって(笑)。

趣味

人生そのものです。
生きて人生を送ることが最大の趣味であり、ロマン、喜びだと思っています。ただ、やはり経営者として常に新しい世界観を考えておく必要がありますから、散歩しながら空想する時間を大切にしています。歩いていると何だかいいアイデアが浮かんでくる。机にじっと座って考えたっていい考えなんて浮かびませんよね。

行ってみたい場所

北極海です。
北極海に行って、白熊くんと会話してみたいですね。「おいおい、温暖化って本当のところどうなんだい?」と(笑)。専門家が言うに、白熊は70kmしか泳げないらしいんですよ。だったら、ウェザーニューズが70kmごと海上に観測用のプラットフォームをつくるから、温暖化の観測をして欲しいですね。白熊くんに(笑)。

最近、感動したこと

サポーターの協力です。
当社のモバイルサポーターの方々の協力、情報提供にはいつも感動しています。今、160万人くらいのネットワークとなっていますが、毎春の桜開花状況、先日の台風やゲリラ豪雨などなど、さまざまな情報を自主的に提供してくれています。みんなの力を集めて貴重な気象情報を共有しようという、この素晴らしい動きをどんどん広めていきたいんです。

世界最高品質の気象コンテンツサービスを、
企業、個人、公的機関に提供し続けています

 1970年、入社2年目、23歳の石橋博良氏が下した決断が、結果として15名の船乗りの命を奪うことに。この事件を契機に、大手総合商社の社長を目指していた石橋氏は、船乗りの命を守るため、米国の海洋気象会社オーシャンルーツ社に転職。1986年、同社の陸上、航空部門をMBOし、独立。ウェザーニューズを設立。その後、気象庁との衝突など、さまざまなハードルを乗り越えながら現在、同社は世界最大の気象情報会社として、世界最高品質の気象コンテンツサービスを提供し続けている。奥様手づくりのネクタイをキリリと締めた石橋氏は言う。「ここまで来られたのも、他者のために役立てる仕事に出会えたこと。素晴らしい仲間に巡り会えたこと。これに尽きると思います」。今回は、そんな石橋氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<石橋博良をつくったルーツ.1>
伝書鳩を飼うために始めた新聞配達で学んだたくさんの大切なこと

 私は千葉で生まれなんですが、5歳で東京に引っ越してるんです。だから基本的には都会っ子(笑)。うち、母子家庭でね。兄弟は兄貴がひとり、姉貴がふたりで、私は末っ子。4人の子どもをひとりで育てたんだから母は大したもんだと思います。末っ子の私は、豊かではないけど楽しく温かな家庭で、いろんなものを母や兄弟からもらいながら育ったんですよ。勉強はからきしだったけど、マラソンが得意だった。短距離よりも長距離。体が小さいほうだから血液循環の効率がいいんでしょう(笑)。あとは昔からあきらめるのが大嫌い。いつもどうやったらできるか考えている子どもでしたね。

 小学6年の頃、伝書鳩をどうしても飼いたくてね。でも、母には申し訳なくて買ってくれって言えない。そしたら友だちが「新聞配達やって自分で稼げばいい」と教えてくれた。なるほど、と。マラソンも得意だったし、やってみようと。当時は1カ月やって500円くらいのバイト料だったかな。でも、新聞配達からはいろんなことを学んだよね。業界用語で「不達」っていうのがある。たとえば自分の受け持ちが150軒だとすると、配達前に150部の新聞を束ねて出かける。ちゃんと全軒配ったつもりなのに、配達し終わったら1部とか2部とかたまに余ってる。これが「不着」、いわゆる配り忘れ。で、戻って1軒1軒また回るんだけど、どこに入れ忘れたのかまったくわかんない。結局、後で入れ忘れた家から配達所に連絡があって、販売所の別の人が届けてくれるんです。すごくそれが申し訳なくて。この時、仕事に対する責任感を強く感じましたね。

 こんなこともありました。正月の新聞って重いでしょう。ある家の新聞受けに「新聞配達さんへ」ってお年玉袋が張り付けられてた。帰って中身を見たら100円も入ってる。そのことを母に話したら「100円もらった喜びより、100円をあげる側の喜びのほうが大きい。あなたはあげられる人になりなさい」と。今だに思えてるけど、これまたいいことを教えてもらった(笑)。だから新聞配達のアルバイトにはすごく感謝してます。伝書鳩は飼えたのかって? 飼えたんだけど、一羽の鳩が別の鳩をナンパして帰ってきちゃう。だからえさ代がかさんでかさんで。その後は鳩のえさ代のために新聞配達してたようなもんです(笑)。

<石橋博良をつくったルーツ.2>
兄の一言をきっかけに本気で勉強スタート。1学期の50番台が、夏休み明けには1番に!

 中学でも勉強は大の苦手。だから高校はどうしようと思ったんですが、まあ一応行っておこうと。担任の先生に相談したら、「石橋の成績では普通科は無理だけど、機械科なら可能性はありそうだ」と。それで私立本郷高校の機械科の推薦入試を受けることにしたんです。水泳の北島康介の母校ですよね。今は普通科しかありませんけど。で、あろうことか推薦試験の日に遅刻しちゃうんですよ、私。オー!ミステイク!だと(苦笑)。それでも一般入試の試験日に受験したら運良く受かっちゃった。ちなみに高校も大学も奨学金を使わせてもらって通っています。

 兄貴にね、「博良、おまえも1回くらい勉強に身を入れてみたらどうだ」と言われたんです。確かに、奨学金もらっていて勉強を何もしないのは良くない。じゃあちょっとやってみっかと、勉強したらいきなりクラスで3番に。あれれ~、ですよ。あんまり頭いいやつがいないこともあったんでしょうが。でも、上にまだふたりいる。勝てなかった理由は明確。英語の点が悪すぎた。当然だけど、中学でまったく英語勉強しなかったから、単語自体がわからない。それで夏休みに中学時代の教科書を読みまくったんですよ。そしたら1年の2学期に1番になった。俺ってもしかして頭いいの?(笑)。で、編入試験を受けて、2年からは普通科に通うことになったと。

 本当は食いっぱぐれもないし、おでん屋にでもなろうかと思ってたんだけど、大学も行けそうだとなった。親戚に商社勤めの人がいて、彼の話を聞くうちに将来は世界を相手にした仕事をしてみたいなあと。それには語学を学ぶのがいいだろうと考えたんです。予備校なんかは肌に合わないし嫌いだから、独学でカリカリ受験勉強を始めて、国立の東京外国語大学と滑り止めに公立の北九州大学の外国語学部を受験。そしたら東京外語にはふられちゃった。それで北九州大学に入学することになったんですが、周りの同級生たちが何だか受験勉強で疲弊しちゃったのか、すごく疲れているように見えた。でも、私はそんなに必死で勉強してなかったから疲れてなかったんでしょうね。自分のやりたいことをどんどんやろう。今からもっとたくさん勉強しようと思ってた。エネルギーがみなぎってたんですよ。

<母を安心させるため大手企業に就職>
入社2年目の用船担当者が下した決断が、15人の船乗りの命を奪う惨事につながる

  語学の勉強はもちろん、教養というのかリベラルアーツというのか、自分が知らなかったことを知ることに、果てしないロマンを感じていたんだと思う。いろんな本を読めば読むほど、自分の中に力が溜め込まれていく気がしてた。いつもワクワクして、毎日がものすごく楽しかったしね。良書といわれるものにはいろんなセクシーな言葉が隠れている。たとえば、ピーター・ドラッカーの本で出合った言葉としては、うろ覚えだけど「知識や教育は人をコントロールするものではない。人を助けたり、サポートしたりするために使うべき」とか。そんなセクシーな言葉に出合うたびに、いちいち感動してた(笑)。東大教授の河合栄治郎が書いた『学生に与う』は大学卒業前に読んだけど、これもズシンときたね。

 大学時代にいつか起業しようなんて思ったことはなかったですよ。そして1968年、大学の4年間で少しお利口にもなったし、母を安心させたかったから、当時、大手総合商社の一翼を握っていた安宅産業に就職することに。ちなみに入社日の4日前に、同じ年の妻と結婚しています。で、私の配属は安宅産業の本流事業といわれていた、木材建材本部米材部。どんな仕事かというと、まず、安宅産業がアメリカで山を入札して買う。その山から木を切り出し、港まで持ってきて、船をチャーターする。それが用船。船会社から用船したこの船で木を日本まで運び、売るという。それをできるだけ効率良く、安く運ぶためには用船のさまざまなテクニックが必要なんです。そして、その用船の担当が私だったと。

 船会社や港の人たちからかわいがられ、たくさんの情報を得、社内でもいい仕事をしていると認められるようになった2年目。大きな事故に遭遇するんですよ。忘れもしない1970年1月31日、大阪港に寄港する予定で5000本もの丸太を積んだ1万5000トンの船を用船していたんですが、荷おろしまでに10日待たなければならないと。それでは2000万円近くの追加チャーター料が発生してしまう。そこで、港を福島県の小名浜港に変更。担当としては当然の指示だったと思います。ところが、変更した港を急に発達した冬台風(東シナ低気圧)に襲われ、何と船は沈没。丸太はすべて流され、15人の乗組員が亡くなってしまった……。その船の船長が1日前に陸に上がったまま船内に不在で、人災という側面が確かにあったけど、やはり港の変更を指示したのは自分。俺の責任は重い。この悲劇の海難事故が、私を気象ビジネスの道に誘うことになるんですよ。

<海の気象台へ>
船乗りの命を守るミッションを抱き、米国のベンチャー企業に転職する

 15人の命が失われたのは自分の責任なのではないか。この自責の念と戦いながら、その後も仕事を続けましたが、このままでいいのだろうか、俺のやるべきことは船乗りの命を守ることなのではないか……。そんな迷いが、会社での出世を目指すことよりもどんどん大きくなっていった。1967年に設立されたアメリカのベンチャー企業、「海の気象台」と呼ばれていたオーシャンルーツ社という会社が存在しいて、日本に進出してきたことを知っていたんです。「最適気象航路情報サービス」を提供しているこの会社が、自分を呼んでいるんじゃないか。そんな妄想がやがて自分の中で確信に変わり、自らオーシャンルーツ社の門を叩くことになるわけです。

 アメリカから来日していたオーシャンルーツ社の社長に会った瞬間、お互い意気投合。まさに運命的な出会いだったと思います。そこで私が彼に出した入社のための条件は3つだけ。一つ目は、日本では俺のやり方のほうが絶対にうまくいく。それを証明するから自由にやらせて欲しい。二つ目は、もしもそれが証明できなかったら、俺はあなたのやり方に従う。三つ目は、何らかの理由であなたのいうとおりにやりたくなったら俺は辞める。彼の返事は、「NoProblem」。この時の条件に、給料の話はなし。ただし、俺はマーケットを倍にする自信がある。そうなったら給料も倍にしてくれるか。その答えも、「Yes」でした。そして1972年の暮れに、私は安宅産業を退職し、オーシャンルーツ社に入社することになるんです。

 それから1年間、私は安宅産業時代に培った人脈と、商社マン的直感と、海の男たち命を守るというミッションを胸に、マーケット拡大に向けて打ち込むのです。毎日、日本中の船会社を訪問し、「このウェザールーティングという最適気象航路情報サービスを使えば安全と経済的効率を手に入れられます」と説明して回りながら。もちろん、洋上で困難にさらされている船長へのアドバイスやオペレーションも。商社時代には味わえなかった充実感、仕事というレベルを超えたストイックで献身的な喜びを感じていました。そして2年目に私はマーケットを倍にし、約束どおり給料も倍になったと(笑)。それから数年が過ぎた1976年、私は29歳でオーシャンルーツ日本支社の代表取締役に就任するんです。

社員一人ひとりが強いイニシアティブを持つ会社。
ウェザーニューズは“大堅企業”を目指しています

<思いがけない福音>
仕出し弁当会社からの相談をきっかけに、新たなマーケットへの進出を開始!

 当時最高のコンピュータ技術を駆使した「最適気象航路情報サービス」のマーケットは倍々ゲームで急拡大。10年も経たずに日本をほぼ制覇し、オーシャンルーツ社全体のマーケットの50%以上を手がけるまでに。そうやって「海の気象台」「海の防災センター」一筋にやってきましたが、ある日、仕出し弁当会社が「明日の天気を教えて欲しい」と駆け込んできた。運動会など大きなイベントがあると、仕出し弁当会社は当然儲かる。しかし、翌日が雨だった場合、つくった弁当がムダになることもあるのだというんです。その当時、弁当会社が参考にしていた気象庁の予測、「東京地方、明日の空模様は曇り、ところにより小雨。午前中の降水確率は20%、午後は60%」。これではなかなか決断できないのだと。

 東京地方と一口に言っても広いでしょう。北区では雨でも、品川区は曇りということもある。気象庁の天気予報はスケールが大きすぎるんですよ。しかし私たちには、イベントが行なわれる地域だけを限定した予報を出すことができた。仕出し弁当会社が弁当をつくるかどうかを決断するたとえば深夜1時に、指定された場所の明日の天気予報を。それによって、仕出し弁当会社も助かる、当社も潤う。その後も、プロスポーツの興行元、航空会社、海だけではなく、陸上や空のサービスも徐々に手がけるようになっていくんです。

 考えてみると、海や空はもちろん、陸上にも台風や雪崩、土石流など、気象の変化によって起こる事故があります。それで、陸・海・空すべての防災気象をやりたいと考えたんですが、社長が代替わりした親会社のオーシャンルーツ社は当時、「私たちは一番儲かる海の専門家でいいのだ」と。確かに私が手がけ始めた海以外の分野は赤字部門ではありました。でも、そこで使命感がまた頭をもたげ始めるんですよ。「未来の強大なマーケットを開拓してみたい」という。詳細は長くなるので省きますが、結局、私はオーシャンルーツを退職し、ある銀行の協力を取り付けて、海以外の事業部門を1億8000万円でMBOというかたち買い取って独立。そして1986年に、株式会社ウェザーニューズ社を設立します。ここから私たちの本当の挑戦が始まるのです。その時私は38歳になっていました。

<世界最大の民間気象情報会社に>
ユーザーが本当に求めているサービスを求め、気象庁と衝突しながらも、前進を続ける

 もちろん大きなリスクを背負った挑戦ですよ。ただ、私たちのサービスを必要としているマーケットは、建設、農業、流通、イベント、航空、エネルギーなどなど、無限に広がっているという確信はありました。そして考え出したのが、あらゆる業界に対して365日24時間体制で気象に関するリスクコミュニケーションサービスを提供する「あなたの気象台」構想です。万人向けの大まかな気象情報を提供する気象庁が「みんなの気象台」なら、ウェザーニューズは個々のお客様に向けてカスタマイズされた、必要にして十分な気象情報を提供していこうと。そのために、さまざまな業界のエキスパートをスカウトし、当該業界に対応すべく専門化されたリスクコミュニケータと呼ぶ予報技術者として育成することで、全方位型フルタイムサービスの実現を目指したのです。

 少しずつ、業界へのサービスが浸透し始め、ある時、テレビ局が当社に興味を示し始めます。それまでの「東京地方、曇りのち雨」だけではなく、視聴者が本当に知りたいのは、いつ降り出すのか、傘の必要はあるのか、そんな具体的な情報でしょう。そこから今ではお馴染みとなった「洗濯指数」「ビール指数」「鍋物指数」などが誕生していったんですよ。当社にはその予報ができますからね。ただ、気象庁からのクレームはあった。要するに、「天気予報は気象庁が決める。民間企業はそれを解説するだけにしておけ」ということです。その頃からこれまで、もう何度も気象庁との衝突がありましたよ。しかし私は、ユーザーが必要なものを提供するこの事業は正しいと信じ続けています。研究部門は官がやるとして、気象サービス自体、いつか必ず民営化されるべきだと考えています。

 そして1993年10月、親会社であるオーシャンルーツ社を私たちウェザーニューズが買収し、世界最大の民間気象情報会社が誕生。その後もワールドワイドな拠点展開を進め、地球上で唯一、全世界にネットワークを有する民間気象情報会社となることができました。また、これも民間気象情報会社としては世界で初めてですが、2000年10月に株式を公開。現在は東証一部上場企業となっています。

<未来へ~ウェザーニューズが目指すもの>
StrongでSolidな“大堅企業”を目指し、ナンバーワン企業として育てていきたい

 会社はどんどん成長し、今ではアジア、ヨーロッパ、北米、南米地域の主要都市で事業を展開し、600人を超えるスタッフが365日24時間、世界中の気象を毎日、観測、解析、分析、予測できるまでの事業体になりました。そして、一瞬も止まることなく刻々と変化を続ける気象状況をしっかりとらえ、海運、航空、道路、鉄道、流通など企業に向けて、また、個人に向けては携帯電話、インターネット、BS、CATV、放送局を通して、さらには公的機関に向けて、まさに全方位型「あなたの気象台」として、世界最高品質の気象コンテンツサービスを提供し続けています。

 もう私は40年近く、気象業界にいるんですよね。安宅産業時代の同期からは、「石橋は先見の明があったんだな」と言われますが、そんなものまったくないですよ。ちなみに安宅産業はその後、伊藤忠商事に吸収され消滅していますから、「難破する船を察知して真っ先に逃げ出すネズミみたいだ」とか(笑)。誰かの役に立ちたい、このマーケットを何とか確立したいと、暗中模索を繰り返し、続けてきただけ。だから今だって明確なゴールはないんです。ただ、交通情報、健康情報、気象情報という当社の三種の神器をもっともっと充実させていきたいとは思ってますが。そうやって、挑戦し続ける状態がずっと続いていけばいいなと。で、さらにその同期が言うんですよ、「儲かってるみたいだけど、これから株価、どうなるんだ?」って。それってめちゃくちゃインサイダーでしょ。言えるわけないのにね(苦笑)。

 頑張って手にした利益を使ってさらにサービスの精度を高めるために、自社で衛星を打ち上げたいとか。そんな思いもありますが、それよりもウェザーニューズを“大堅企業”、Strong(ストロング)でSolid(ソリッド)な企業として育てていきたい。中堅企業はありだけど、大企業とか、中小企業とか、もう必要ない時代なんですよ。それらの企業と甘え合い、持たれ合いをしている官庁はもっと要らない。ムダでしかない! 私たち経営陣にとっても社員にとっても、クライアントにとってもユーザーにとっても、みんなが相互に信頼し合える透明性、誠実さを強め、常に革新的な企業であり続けたいということです。そもそも起業とかビジネスは“How much”ではなく、“How Wonderful”を目指してチャレンジすべきものなんですから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自己実現の先にあるのは他者実現。起業して目指すべきは大堅企業

 もうアメリカ型の成功を目指す、拝金的なベンチャー企業という概念は捨て去ったほうがいい。起業とかアントレプレナーの意味も、もう一度再構築すべき。自己実現という言葉も、どうも勘違いしている人が多い気がしています。それは、ただの自己達成じゃないのって。そもそも起業はひとりではできないんですよ。でも、つくる人、売る人、数える人の3人がいればやっていけます。そのためにすべてを自分でやろうと思わず、強みと弱みを見極めておくことです。起業してお金儲けに執着する事業家になるのではなく、起こした事業を継続的・計画的に展開し、仲間とともに“他者実現”目指す本来の経営者になって欲しい。

  私の場合は、気象情報会社という、他者のために役立てる事業と巡り会えたことは大きかったですが、起業してみてわかったのは、自分ひとりでは何もできないということ。そういった意味で、いつも“金”儲け、ではなく、“人”儲けを心がけてきました。それと誠実さと透明性です。私自身、いつも必要以上に誰に対しても手の内を見せています。たとえば、悩んでいる時は「う~ん……」とあからさまに苦悩してローリングしてますし(笑)、自分の給料は新入社員の初任給の7倍と決め公表しています。そうそう、この間、台風が近づいて忙しくなるから、社員のためにユンケル買って配ったんですよ。そしたら後日、経理の女の子がやって来て「社長、この領収書の使途は何でしょう?」だって(笑)。人一倍お金について気を使っている経営者を自負している自分としては、やみくもに「この領収書の使途は?」と聞かれるのはちょっとつらい。形式知じゃなくて、経営者のもっている暗黙知をもうちょっと理解して欲しいとは思うけど、まあこれもガラス張りの経営ですよね。

 あと、当社の実力主義は、高貢献、高収益、高配分。これがルール。挑戦のチャンスは平等にあるけど、結果は不平等になるかもしれないということ。これからの経営に多数決のデモクラシーなんか要らない。メリットクラシー=一番大事なことを優先して行なうスピードあるマネジメントじゃないと。たとえば、以前うちが銀行の貸し渋りにあった時、社員全員から5万円ずつ借りて乗り切ったんですよ。会社という一緒の船に乗って戦う仲間に対して、私が最適だと思える提案をしたら、みんな二つ返事で協力してくれた。これがメリットクラシーですよ(笑)。いろいろ話しましたが、自己実現の先にあるのは他者実現。起業して目指すべきは大堅企業。そこに自分を含め、つくる人、売る人、数える人の3人をそろえて、挑戦することです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:中田信夫

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