第67回 株式会社クリーク・アンド・リバー社 井川幸広

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第67回
株式会社クリーク・アンド・リバー社 代表取締役社長
井川幸広 Yukihiro Ikawa

1960年、佐賀県生まれ。少年時代は山が遊び場。中学からはサッカーに明け暮れた。県立佐賀東高等学校卒業後の1979年に上京。予備校と専門学校に籍 を置くそのかたわら、アルバイトと遊びに熱中する日々を送った。その頃、松竹大船撮影所にアルバイトに訪れ、制作現場の空気に魅かれ映画の世界を志す。毎 日映画社に就職し、映像作品づくりのいろはを学ぶ。23歳でフリーランスとして独立。テレビを中心に、ルポルタージュ作品を数多く手がける。また、事業企 画、コンサルタントとしての活動も。数々の貴重な実体験にもとづき、日本のクリエイターを取り巻く環境を整備すべく、クリーク・アンド・リバー社を設立し たのが29歳の時。数年間は資金繰りに苦しむが、2000年6月、ナスダック・ジャパン市場(現・ヘラクレス)に株式上場。現在では4万人を超える登録ク リエイターを抱えるまでに。また、サポート領域はクリエイティブ界にとどまらず、医療界、法曹界へと広がっている。2005年からは、個人的な活動として プロサッカーチーム(J2)「サガン鳥栖」の経営にも携わっている。

ライフスタイル

好きな食べ物

卵焼きと納豆です。
昼はそばなどで軽く済ませ、夜は会食の機会が多いでしょう。夜の会食がいくら豪華でも、やっぱり飽きてくるんです。で、考えてみると、一番飽きない大好きな食べ物って、休日に自宅で食べる卵焼きと納豆だって気づいたんです。

趣味

ゴルフ、釣り、カメラです。
これは今もそうでうすし、今後もずっと変わらないと思うのですが。ゴルフ、釣り、カメラの3つです。ゴルフですが、多い時は年間60回くらいコースに出ていました。今は月に1回くらいですかね。釣りは漁船で行く海釣りです。釣れないと嫌なので(笑)。

行ってみたい場所

東アフリカ(エチオピア、タンザニア)、ラオス、モンゴルです。
東アフリカにある太古の昔にできた巨大な大地の裂け目、「グレート・リフトバレー(大地溝帯)」は何度見ても感動します。あとは、世界の経済の中心として、次代の中国になる可能性がある国という意味で、ラオス、モンゴルに行ってみたいですね。

最近、感動したこと

サガン鳥栖、敵地での勝利です。
地元・佐賀県のJリーグチーム、サガン鳥栖の経営にも携わっています。10年間ずっと敵地で勝てなかったチームに勝利した瞬間、選手も、観客も、私も大泣きしていました。やっぱり、筋書きのないドラマって感動を呼びますね。

クリエイターがクリエイティブワークに専念できる環境を
整備することが、大きな社会貢献につながると信じている

 世界的に人材の流動化のスピードは速まっている。それにともなって、日本でもフリーランサーとして活躍する人は増えているが、彼・彼女たちの労働環境、生活環境はまだまだ未整備であり、いまだ不安定なものといわざるを得ない。そんなフリーランサーたちの弱い立場を守ることを目的に、仕事の発注元となるクラ イアント企業とフリーランサーの中間に立って、エージェンシー活動を展開しているのがクリーク・アンド・リバー社。29歳で同社を立ち上げたのが、映像メディアを中心とした元フリーディレクターだった井川幸広氏だ。自らフリーランサーとしての経験を有し、活動経験の中で培ってきた信念のもと、“商売抜き”でこのマーケットづくりに心血を注いできた。「映画づくりも事業経営も、“良いものづくり”という意味では一緒だと思うんです。お客さんから返ってくるのが拍手か、利益か、それだけの違い」と、語る井川氏。今回は、そんな井川氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<井川幸広をつくったルーツ.1>
佐賀の豊かな自然を満喫した少年時代。中学からはサッカー部の活動にのめり込む

 何もないことで有名な、佐賀県が私の生まれ故郷です(笑)。九州電力に勤務する父がダム建設に関係する仕事をしていましたので、山暮らしが長かった。小学生時代は5度引っ越しをしていて、転校も4回。でも、その頃は今みたいな陰湿ないじめなんてなかったし、私自身まったく人見知りしないタイプですから、すぐにみんなと仲良しになれました。足が速くて、ソフトボールやドッジボールも得意。スポーツができたことも良かったんでしょうね。ある意味、それが子どもなりに身につけた処世術だったのかもしれません。そうそう、先日、佐賀で暮らした5カ所の村や町を車で回ってきました。佐賀県内のどこに行っても友だちがいることも自慢のひとつですね。

 学校での成績は体育がいつも5で、ほかは4と3が半々。両親ともに基本は放任主義でしたから、「勉強しろ」なんて言われた記憶はほとんどなく、4つ上の兄貴や友だちたちと山や川で遊んでばかりいました。川釣りはもちろん、罠を仕掛けて、雀やうさぎを捕まえて遊んだり、山に入ってあけびを取って食べたり。とても楽しい日々でしたよ。今でも山が大好き。すごくリラックスできますね。あとはたくさん本を読みました。江戸川乱歩やアガサ・クリスティのミステリー小説から始まって、中高生時代には鎌田慧とかのルポルタージュにはまりました。何となく、対体制、対権力への考え方や真実の追究に興味を持つようになっていくんです。

 中学からはサッカー部に入部します。それから高校3年の夏までは、ほとんど毎日ボールを蹴っていましたよ。ポジションはずっとセンターフォワードの点取り屋です。この頃のサッカーはかけっこみたいなもので、早くボールに追いついたやつがシュートするって感じでしてね。私の瞬発力はかなりのものでしたから。また、当時もけっこう強い学校でしたよ。中学は県大会で2位、高校は県大会ベスト4とか。ちなみに、県立佐賀東高校が母校なのですが、今では全国大会でも上位に食い込む強豪になっているそうです。

<井川幸広をつくったルーツ.2>
映画業界で社会人人生をスタート。必死で仕事を覚え1年後にフリーランスとして独立

 実は3つくらいの大学から、サッカー推薦の話がきてたんです。でも、夏の最後の大会が終わったら、いっきにサッカーに冷めてしまって。当時はJリーグなんてないですし、大学や会社に入ってまでサッカーに縛られたくないと思った。先ほども話しましたが、ルポルタージュとかジャーナリズムに興味がありましたから、サッカーよりもその道に進みたいと。ジャーナリストを多く輩出している早稲田大学など、いくつかの大学を受験したんですが、現役ではことごとく失敗。それでも何とか両親を説得して上京し、東京で予備校と専門学校に通い始めるんです。

 ですが上京して最初の夏休み、下宿で一緒だった友人が風邪をひいてバイトを休むことになり、私が代わりに行くことになった。それが松竹の大船撮影所でした。この時の経験がすごく印象的でしてね。それまでは映画って機械的にサクサクつくられているものだと思っていました。でも、撮影所の雰囲気が部活動の合宿所みたいな、すごく人間臭いものづくりの世界だったんですね。自分が映画フリークというわけでもなかったのですが、こういう世界も悪くないなと思ったことを覚えています。

 3カ月くらいで予備校には行かなくなり、その後1年とちょっとバイトと遊びに明け暮れました。でも、やはりジャーナリズム。自分でホン(企画)を書きたい。そこで、毎日映画社の試験と面接を受け、契約社員として入社することに。この会社は「皇室アルバム」とかさまざまな記録映画、ニュース映画を年間300本ほど制作していました。優秀なジャーナリストもディレクターも、みんな最後はフリーランスとして活躍していることは知っていましたから、ここで貪欲に仕事を吸収してできるだけ早く独立してやろうと。しかし、仕事は「見て覚えろ!」の世界。そこで毎朝誰よりも早く出社して、掃除と机拭きを続けたんです。そうやってまずは緒先輩方に好かれ、認めてもらうことが大切だと。

 そこうしているうちに、「井川は頑張ってるな」と評判になり、どんどんいいロケに連れて行ってもらえるようになった。長期の地方ロケだと宿泊するじゃないですか。その時もチャンス。宿で酒を飲みながら、先輩たちの貴重な経験談などを聞く機会があって、非常に勉強になりました。「この世界は、若いうちからフリーになったほうがいいぞ」というアドバイスもいただいて、結局私は1年後にフリーランスとして独立する決意をするんですよ。正直、3年分くらいの仕事をこなしたという自信もありましたから。

<20代、年収4000万円時代>
クリエイティブ業界のギャランティーと、事業企画のギャランティーの差に仰天!

  いざ、フリーランスになったのはいいのですが、やはり甘くはなかった。いい仕事がまったく来ないんです。いろんなプロダクションに自ら売り込んで、企画書を書かせてもらうのですが、当時は5~10社くらいのコンペが普通でしたから、なかなか通らない。だから、「ただで書きますからチャンスをください」とお願いしても、書かせてくれないこともありました。それでは生活が立ち行かないので、昼間は肉体労働のバイトをして、夜はダンボールを机代わりに企画を書いて。ルポルタージュをつくるにはどうしても参考書となる本が必要でしたから、6畳1間、共同トイレのアパートに、古本屋で買った本が10冊単位でどんどんたまっていく。それでも、私のつくった企画は落とされ続けました。

 その頃、バイトさせてもらっていた、ある大工の棟梁にかわいがってもらっていましてね。「そんなに大変なら、うちを手伝え。給料16万円、2LDKのマンションも提供するぞ」と。大工仕事もすごく面白かったので、そのお誘いにはグラリときました。でも、「これが最後になるかも」と気合を入れて書いた『今、東京湾で』というドキュメンタリーがコンペを通過! 結局、私が演出も手がけることになって、最初の3分間の映像に総予算2000万円のうちの1200万円ほどを投下しました。この仕事で気づいたことがあります。企画も映像も最初の出だしが肝心。ここに注力するようになってから負け続けだった企画コンペにだんだん勝てるようになり、独立2年目にテレビの世界で仕事し始めた頃には、コンペでも4割ほどの勝率になっていたんです。

 独立1年目の収入って、たぶん60万円ほどだったんじゃないですか。それが2年目に600万円、3年目に1000万円を超え、4年目以降は4000万円ほどになっていきました。テレビやドキュメンタリーの仕事だけじゃなく、事業企画の仕事も手がけるようになったんです。テレビの1時間半の番組の企画を請け負うと、2週間くらいの作業でだいたい70万円くらいのギャランティー。でも、ある6階建てビルのフロアコンセプト企画を依頼され提案した時、内容を気に入ってもらったことよりも、そのギャラが500万円ということに驚きました。自分としては、テレビと同じような感覚で仕事したにもかかわらず、です。でも、そのフロアコンセプトの仕事が評判となって、私の元へどんどん事業企画の仕事依頼が増えていくことになるんですよ。

<フリーランサーとしての挫折>
ジャーナリストの精神的強さの欠如、到達できない領域の文才の存在を知る

 その後も、F1チーム運営を手がける企業や、自治労という公務員共済組織のコンサルティングなど、大掛かりな事業企画のお手伝いもするように。この少し前くらいから「俺はジャーナリストやディレクターよりも、マーケッター的な仕事が向いているのかも」と考えるようになっていました。自分としては仕事に対する考え方や取り組む姿勢・内容ともすべて、どちらも変わっていないのですが。でも、事業企画やコンサルティングって、結局はクライアントのための仕事であって、自分でリスクを背負って最終的なジャッジをするわけではないでしょう。そこにだんだんと虚しさを感じるようになっていくんですよ。

 また、いくつかの個人的発見もありました。ジャーナリストって、そうとう強い正義感を要する職業なんです。たとえば、川で子どもが溺れかかっている、助ける前に溺れている姿を撮影できるかどうか。ジャーナリスティックに考えれば、その映像を広く報道することで、多くの人が川の危険性に気づき、危険回避の策につながるということになるのですが、正直、私はそこまで強い精神力を持ち合わせていない。まず助けてあげたいと思う。これでは、トップクラスのジャーナリストにはなれない。映像の力で未来のたくさんの命を救うよりは、まずは目の前のひとりを助け、食べ物を持ってきて、川に灌漑設備をつくって、農業を根付かせるほうが正しいんじゃないかと考える自分がいた。ここの考えに、クリーク・アンド・リバー社の原点が隠れているんですが……。まあ、ひとつはそんな発見です。

 もうひとつは、1988年の「ゆく年くる年」の企画仕事を引き受けた時のこと。構成が、あのジェームス三木さんだったのですが、彼の構成原稿を読んだ瞬間に、「神の領域って本当にあるんだ」と感動しました。たった1200文字の中に、その年のテーマである「時」が、とても美しい躍動感を持って表現されていた。いくら頑張っても自分はここまで到達できない……。それ以来、テレビの仕事はいっさいやっていないんです。ジェームス三木さんに、ディレクターとしての引導を渡されたようなものです。もちろん、ご本人はそんなことご存じないと思いますよ(笑)。そして、日米合作のドキュメンタリー映像制作の現場で、私はある格差に気づくわけです。その頃あたりですね、自分の進むべき道がおぼろげながら見え始めたのは。

このビジネスの本質はプロフェッショナルを助けること。
グローバルな視点で捉えれば可能性は無尽蔵に広がっている

<国内フリーランサーの立場の弱さを痛感>
さまざまな業界で活躍するフリーランスクリエイターの社会的地位向上を目指す

 アメリカの国営放送との合同企画で「日本の中小企業」というドキュメンタリーを作成したんです。その撮影期間中、フリーランスのアメリカ人カメラマンは、1日8時間しか働かない。しかも1週間のうち1日はオフ。でも、日本のクルーは休みなしで、朝から晩まで働いている。さらに最終日、そのカメラマン氏は「来週から2週間のバカンスに出かける。フロリダだよ」と。私が「なぜ、そんなことができる? 俺はまた明日から別の仕事だ」と質問したら、「働きすぎだよ。それで人生楽しいの?」だって(苦笑)。その後、映像編集で訪れたニューヨークで出会ったアメリカ人の編集スタッフたちも、同じようなことを言っていました。彼らはフリーランスのユニオンに加入していて、仕事環境や社会的ポジションがしっかり守られているんです。ところが日本では、そんなバックアップをしてくれる組織がまったくないんです。

 日本におけるフリーランスの立場の弱さ、不安定でなかなか報われない状況は、自分自身が実感として問題だと考えていましたし、その環境改善をビジネスと結びつけることはできないだろうかと。また、素晴らしい作品をつくる優秀なクリエイターの先輩を何人も知っているのですが、彼らがクライアントと作品の出来以外の理由でケンカしてしまい、干されていたりする。そんな人たちに作品づくりの場を提供したいと思ったことも起業へと背中を押した理由のひとつです。当然ですが、プロダクションがいいものをつくるためには、優秀な人材を必要とします。ならば、私は「いいものをつくる人たちを豊かにするための事業を立ち上げよう」と。そして1990年、クリーク・アンド・リバー社(C&R社)を設立したのです。

 C&R社は、数多くのクリエイターと仕事を結び、ギャランティーを100%保障、ケガをした時の保険や収入保障など、できるだけフリーランスが安心して仕事に打ち込めるためのシステムをつくってきました。創業後、それらをかたちづくって行くための資金繰りが厳しかったですね。初年度は、フリー時代のコンサルティング仕事でリカバーしながら、2年度は一般労働派遣に進出し、その事業を軌道に乗せ売却した資金でやっと3年度からクリエイター・エージェンシー事業に特化していったんです。最初はテレビ・映像系のクリエイター、クライアントが中心でしたが、徐々に広告・出版、Web、モバイル、ゲーム、イベントなどなど、対応メディア=守備範囲をどんどん広げていきました。今では4万人のクリエイターとパートナー・プロダクション1000社からなる、クリエイティブ・ネットワークを駆使し、あらゆるクリエイティブ・ニーズに対応していくことをビジネスモデルの基幹としています。

<事業創造は映画づくりと同じ>
良い映画にはたくさんの拍手が、良い会社にはたくさんの利益が

 ちなみに、国内で放映されているテレビ番組の約45%は当社契約のディレクターが手がけているんです。振り返って思えば、C&R社を立ち上げたばかりの頃は、まだフリーランスの延長気分で、まったく事業経営の本質がわかっていなかった。でも、いろんなハードルを越えてきたことで、「事業経営って、映画づくりと同じじゃないか」と思えてきたんです。当社の存在意義は「フリーランスを取り巻く環境を改善する」がテーマじゃないですか。ここに私と同じ志を共有するスタッフ=社員が集まって、企画をつくり、予算とにらめっこしながら、完成を目指してプロデュースしていく。ただ違うのは、映画はスクリーンで表現しますが、事業は市場へのサービスで表現していくという点です。そしていい映画ならたくさんの観客から拍手が帰ってくるし、いい事業ならたくさんの人が幸せになって利益が返ってくる。

 もうひとつ違うのは、映画は単品の製作で終わるかもしれませんが、事業は継続成長していくべきものであるということ。だから拍手の代わりに頂戴した利益を、次の新しい挑戦に投下していかなくてはなりません。クリエイター・エージェンシー事業の次に始めた挑戦が、医療分野でのエージェンシービジネス、子会社のひとつである、メディカル・プリンシプル社の設立です。きっかけは阪神・淡路大震災でした。現地スタッフに見舞金を届けるために現地に飛んでいったのですが、その時見たのは、日本人医師ではなく、ヨーロッパの医師たちが必死になってボランティアしている光景だったのです。で、知り合いの医師に聞いてみたら、「教授の許可が出ない」との返答。大学を卒業したのにどうして教授の許可が必要なんだろうと不思議に思いました。ここで、大学医局の制度を知りました。クリエイターの世界と同じようなイデオロギーの存在を知り、気持ち悪さを感じたんですね。その疑問が始点となり、今も日本全国の転職、就職の意思がある医師にエントリーしてもらい、考え方や条件の合う医療機関を紹介する活動を続けています。今では1万7000人の医師に登録いただき、協力医療機関も7500軒まで増えました。

 さらに昨年、C&Rリーガル・エージェンシー社を設立。さまざまな司法改正が進み、弁護士も急増する法曹界でのエージェンシービジネスもスタートしました。こちらはまだ始まったばかりの事業ですが、手ごたえを得つつあります。クリエイター、ドクター、ロイヤーと、それぞれ職域は異なりますが、それぞれの業界環境が持つイデオロギーや特殊性を変えることで、みんなが幸せになる環境を新たに整えていくプロデュース活動ということでいえば、本質はすべて同じだと思っています。

<未来へ~C&R社が目指すもの>
優秀なプロフェッショナルたちの才能を、グローバルに広めるための挑戦は続く

 当社の事業の柱は、まず、「エージェンシー事業」。登録者に確実に仕事を供給していくということ。そして、「教育・コミュニケーション事業」。業界において進化していく仕組みや環境を当社がしっかりキャッチアップし、登録者が才能や能力を表現するための知識・技術を提供していくということ。さらには、「ライツ事業」。著作や思想をライツ化=権利化し、換金するお手伝いをするということ。大きくはこの3つとなります。いってみればマズローの5段階欲求を順番にかなえる支援をしているような感じですね。現段階では、クリエイター・エージェンシー事業において、この仕組が完成しています。当然、この3つの柱の循環は、医療、法曹など他分野でも横展開ができますから、できるだけ早い段階で仕組み化し、応用していきたいと考えています。

 そういった意味では、この事業の本質は単なる人材ビジネスではなく、プロフェッショナル活性化事業なんです。どんな業界であれ基本的にこれまで優秀な人材は組織が抱えていました。ですが、青色発光ダイオードの中村修二さんのように、組織の壁を破って世界で活躍していくためには本当に大変な労力が必要です。私たちがこれまで培ってきたマーケティングの仕組みで、素晴らしいプロフェッショナルの才能を、もっとスムーズに世界のフィールドにつなげていくことができるのではないかと。

 たとえば、建築士。優秀な建築士が手がけた1枚の素晴らしい設計図面があったとします。それ1枚だけでは売り込みが大変ですが、いろんな設計士の設計図面を5000枚集めて世界に公開できる仕組みをつくれば、きっと世界中から注目されるはずです。そしてそんなマーケットが生まれれば、埋もれていた才能に光を当てることができるかもしれない。建築士からも設計図面を必要としている組織からも、絶対に喜ばれる仕組みでしょう。そのほかにも、科学者、工業デザイナーなど、世の中を見渡せば、私たちがサポートすべきプロフェッショナルはまだまだ存在するのです。これからも、世のため人のためというより、人のため世のための順番で、グローバル社会に貢献していければと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
誰に対しても自慢できる事業、人生をかけられる事業を探そう!

 起業を目指す方々へのメッセージですか。たくさんあるんですが、今日はこのパターンで(笑)。自分の魂をこめられる事業を見つける。創業経営者として事業を続けていきたいなら、まずはこれを探すことが重要でしょうね。私は高校を出てから29歳まで、右に行ったり左に行ったり、本当にいろんな経験を重ねてきました。そこまでは人生をかけられる事業に巡り合えなかったということです。たくさんのハードルが現れ、才能のなさに打ちのめされ、そんな中でやっと見つけたのが「いいものをつくる人たちを豊かにするための事業を立ち上げよう」という志だったわけです。

 もう少し噛み砕いて言えば、「誰に対しても自慢できる事業」「自分が一生をかけて追いかけられる事業」を探すべきということです。自分でそれを見つけられたとしても、組織として事業を成長発展させていくためには、ひとりの力では絶対に無理。そこには志を同じくする仲間が必要です。映像業界の言葉で「ゼロ号試写」というものがあります。視聴者に見せる前に、スタッフだけで完成した映像作品を見る最初の機会です。この試写会が終わって仕事仲間から本気の拍手が聞こえたら、視聴率は10%を必ず超えるんですよ。そこには、「この映像企画に参加して良かった」「またこのチームに参加したい」という一体感があるんでしょうね。会社経営も同じです。本音や建前を抜きに人生観を語り合って、そこで同じ気持ちになれた人たちが一緒に働く仲間になるわけですから。

 映画っていろんなかたちがありますが、突き詰めればテーマは愛か死のどちらかでしかない。でも、死をテーマにする映画は全体の1割にも満たないと思います。映画監督だってやはり、感動や感謝の拍手をもらいたいですからね。私たち経営者もその点は同じ。ビジネスというフィールドで、お客さんや協力者からたくさんの「ありがとう」をもらいたい。そのために、悩みながら企画を書いて、スポンサーを必死に説得しながら、企画をあきらめることなく実現していくんです。事業経営における最大の醍醐味とは、やはりできるだけ多くの人を幸せにすること、できるだけたくさんの「ありがとう」を勝ち取ること。これに尽きると思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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