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第58回 ジャパンベストレスキューシステム株式会社 榊原暢宏

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

- 目次 -

第58回
ジャパンベストレスキューシステム株式会社代表取締役
榊原暢宏 Nobuhiro Sakakibara

1967年、愛知県生まれ。父と母が多忙を極め、祖父母に預けられて育つ。その体験から、困った人を見ると助けずにはいられない性格に。大阪経済法科大学 を卒業後、パルコ系列の株式会社アクロスに就職。名古屋パルコのショップスタッフとなる。業務改善の提案をし過ぎ、すべての上司に「辞めろ」と言われるほ ど煙たがられる。5年後の退職を盾に、副業の許可を取り付け、ど根性で2000万円の貯蓄をつくった。その資金を元手に、1994年、有限会社ノアを設 立。当初、バイク版JAFのようなサービスの立ち上げを目論むが、信頼されず、バイクショップが敬遠する業務をこなす御用聞きビジネスとアルバイトで糊口 を凌ぐ。数年間、御用聞きビジネスを継続するうちに信頼が醸成され、また、バイク以外のお困りごとサービスも手がけるように。1997年、日本二輪車ロー ドサービスとして株式会社化し、代表取締役就任。その2年後、ジャパンベストレスキューシステムに社名変更し現在に至る。2005年8月、東証マザーズ市 場に上場。2007年9月、東証一部市場、同年11月、名証一部市場に上場を果たした。

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ライフスタイル

好きな食べ物

白いゴハンにおかずを少し。
白いゴハンに、シーチキンとか餃子とか(笑)。学生時代に食べていたものが今でも好きです。お酒は起業して24時間体制で車で出動しなくてはならなかった頃に、禁酒してから飲まないようになりました。同じ頃に、タバコも止めています。

趣味

アロマに凝っています。 
においには昔からすごく敏感でして。気になって、タクシーに乗れないほどなんです。今日は北海道の北見で購入したハッカ水を持っています。睡魔に襲われた時などに顔に少し塗るだけで、すっきりします。あと、レモングラスの香りもお気に入りです。

スポーツ

最近ゴルフを始めました。
最近になってやっとゴルフを始めました。私はすごく負けず嫌いなので、今年の12月までに70のシングルプレーヤーになろうと思っているんです。ですから、今、レッスンプロについて教えを請うています。今日も朝5時からレッスンをつけてもらったんですよ。

仲間

厄払いにお誘いしています。
那須与一のお墓で知られる、京都の厄払いで有名なお寺があります。私もここでお世話になったのですが、同世代で仲の良い経営者をお誘いして訪問しています。こちらのお守りはいつも左のポケットか、カバンの中に入れてあります。

“困っている人を助ける”ために生まれた生活救急車で
世のお困りごとを解決していきます

 祖父母と暮らした経験から、困っている人は助けるものだと思った。学生時代は、困った人をみると放っておけなかった。バイクに乗るようになって、自分と同じように鍵を紛失したりパンクしたりと、トラブルに遭った時、助けてくれるサービスが存在しないことに気づいた。そして、バイク版のロードサービス会社を 起業。たったひとりの船出だった。最初は誰からも相手にされなかったが、あきらめずに事業を継続しているうちに、信用という化学反応が生じた。それからは、世の中の困っている人を助けるための事業領域が、短期間でいっきに広がっていった。「110番と119番以外の困りごとであれば、すべて解決できる組織づくりに挑戦しています」という榊原氏。今回は、そんな榊原氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<榊原暢宏をつくったルーツ1>
祖父母に育てられた経験から芽生えた、人助けの精神でみんなのお助けマンに

  名古屋で生まれ、父と母、2歳下の妹と私の4人家族。小さな頃から、父は会社の役員として忙しく、母は今でもシニア国体に選出されるくらいのテニスプレイヤーとして活躍していましたから、近所に住む祖父母に預けられて育ててもらっていたんですよ。だから、ふたりの肩を揉んであげたり、電車の席を譲ったり、困っている人を見たら声をかけたりと、誰かを助けるという行動が自然に身についていったんだと思っています。あと、両親は「勉強なんてしなくていいから、遊んでらっしゃい」と、そんな教育方針でしたから、まったく勉強しない子どもでした。それはそれで楽でしたが、振り返って思えば英語だけはやっておくべきだったと少しだけ後悔しています。

 毎日、近所の友人たちと缶蹴りや馬飛びをやって遊んだり、一緒にサッカーチームに入ったりと、のびのびとした小学生時代でしたよ。通知表は体育だけが4か5で、ほかの教科は見るも無残でしたね。人を助けてあげたいという性分は学校でも同じで、いじめられた友人がいたら、帰りにその子の家まで訪ねていって「大丈夫だよ。気にするな」って声をかけたりしてました。現場では怖いですから、止めに入れないんですけど(笑)。

 小学5年の頃に強烈な思い出があります。友人と遊んでいて、「ホットドッグを食べよう」となったのですが、僕が持っているお金が50円足りなくて友人に借りたんです。そこにちょうど父がとおりかかったので、「50円返したいから、ちょうだい」と頼んだら、本気でボコボコに殴られました。それ以降は、その経験がトラウマとなって借金は基本的にしません。

  ちょっと話がそれましたが、中学に進んでもほとんど勉強せず、入部したサッカー部の練習に明け暮れる毎日です。愛知県でベスト10くらいには入ってたんじゃないですかね。そうそう、小学校から中学校まで、通知表の内申コメント欄には「落ち着きがない。集中できない」と書かれていました。1時間じっと座って何かするのが今でもすごく苦手です。だから起業してたくさんの新規事業を立ち上げているんだと思います。

<榊原暢宏をつくったルーツ2>
大阪の大学と地元名古屋の往復で、気づいた事業アイデアのタマゴ

  高校は、私立中京高校へ進みました。ここでもサッカーを続けようと、サッカー部に入部はしたのですが、先輩の足はボールを蹴るもんだと思っていた ら、なぜか私のお尻ばかりを蹴ってくる。それに嫌気が差して、2週間ほどで退部しています。母が私のお尻を叩くためのテニスラケットが家にはたくさんあって(笑)、多少は腕に自信もありましたので、結局それからは卒業するまでテニス部員として過ごしました。ちなみに今、私の身長は187㎝ほどですが、高校時代にいっきに20㎝も伸びたんですよ。いずれにせよ勉強することもなく、あまり頑張らない高校時代でしたね。モテませんでしたし(笑)。

 両親も大学には行っておいたほうがいいと。また、少し離れた場所で生活するのもいいだろうと。私は地元名古屋ではなく、大阪の大学を受験します。日本で1校だけ、作文だけが入試科目の大学があったんです。それが私立大阪経済法科大学で、70年代に流行った漫画「嗚呼!!花の応援団」のモデルと言われていた大学です。論文ではなく作文ですからね。無事にここに入学しましたが、ほとんど大学には行かず、アルバイトに明け暮れる生活を始めることになります。肉体労働、ビリヤード場、カラオケボックスなど、20種類以上のアルバイトをしたんじゃないでしょうか。でも、いつも職場の問題点を考えていました。「もっとこうすれば良くなるのに」と。この時に身につけた改善点を考える習慣は、今も役立っていると思っています。

 あと、やはり名古屋が好きでしたので、週末は車で名古屋に帰っていたんです。高速道路を走っていると、よくバイクが故障したりして困っているライダーがいた。車にはJAFがありましたが、バイクには急なトラブルに対応してくれるサービスがありませんでしたから。性分となった人助けの精神で、困っているライダーを見つけたら助けていましたね。高速道路でガス欠になって困っているライダーがいたら次のインターで降りてガソリンを買って戻って届けてあげたり、道路からバイクを落として困っていたライダーがいたらロープで引き上げてあげたり。この時に、バイク版JAFの事業アイデアをおぼろげながら思いついたんです。

<すべての上司に嫌われた社員時代>
辞めろと言われても辞められない。5年後の退職を宣言し、副業開始!

 人助けも好きでしたが、子どもを喜ばせることも好きだったので、就職活動はおもちゃメーカーを中心に20社くらいを受けました。でも、すべて落とされてしまうんです。残念ながら(笑)。それで名古屋に戻って、当時オープンした名古屋パルコの販売スタッフを大量募集するという会社の面接を受けたら合格したんですね。これがパルコ系列のアクロスという会社でした。社会人になった以上しっかり仕事をしなければと思い、接客をこなしながら、「お客さまにとってはこうしたほうが良い」と思うことをどんどん会社に提案していきました。こっちは良かれと思ってやっているのですが、上司には相当煙たがられていましたね。「余計なルールをつくるんじゃない」とか、「そんなことで頑張っても給与は増えない」とか。はっきりとした数は覚えていませんが、30人くらいの上司に「もう会社を辞めてくれ」って言われていましたから(苦笑)。

 でも、当時はまだ祖父母が存命でしたので、すぐに会社を辞めて心配をかけたくない。それで「5年後に辞めて独立します。その資金を稼ぐためにバイトをしますので残業はしません」と宣言し、許可も取り付けて、大学生の時みたいにいろんなバイトを始めるんです。10時から19時くらいまで会社員として働いて、その後に映画館の掃除のバイトを終えて、カラオケボックスで店長やって朝の5時まで。学生バイトを使ってうまくやれば、空いたボックスでけっこう寝られました(笑)。そのうえ休日には、後々勉強になるだろうと、保険代理店と広告代理店の仕事も手伝って。毎月50万円くらいは貯めていましたよ。それで5年後には、2000万円ほどの貯蓄ができた。本当はもう少し貯まっていたはずですが、地味に遊んでいましたからね。

 それで公約どおり、5年で退職し、1994年に有限会社ノアを設立。社名はノーアクシデントの略です。会社員時代はスクーター通勤をしていましたが、相変わらずバイクの故障で困っているライダーを多く見かけていました。バイク版JAFのようなサービスを立ち上げたら喜ばれるんじゃないかと。もうひとつ、保険代理店でバイトをしたことで、契約書という紙のやり取りで前金がもらえる事業は利益になるということに気づいたことも大きかったですね。

<ひとり経営者時代>
アルバイトで生活費を稼ぎながら、バイクショップの御用聞きを続ける

 まず、サービス内容と契約書を作成して、愛知県と関西圏のバイクショップに向けた会員獲得のお願い営業を開始しました。バイクで困ったことがあったら24時間かけつけるという事業内容です。ですが、まったく相手にしてもらえないのです。「君ひとりじゃどう考えても無理だろう」と。いくら営業を続けてもこのような状況が変わりませんでしたから、1年後に戦略を変更しました。困っているライダーではなくて、困っているバイクショップを助けようと。言ってみればバイクショップの御用聞きですよ。バイクショップが敬遠するような仕事を見つけてそれを片端から請け負うわけです。

 例えば、「朝、車検場に並んで順番を取っておいて」「お客のバイクがトンネルで事故った。飲んでいるから車が使えないので代わりに回収を頼む」「どこどこでタイヤがパンクした」などなど、ひとりで電話を受け、24時間体制で仕事を引き受け続けるのです。常に車で出動する可能性が出てきますから、この頃にお酒とタバコはきっぱり止めることができました。あと、信用が大切なので、社員が何人かいるかのように、状況に合わせて自分が声を変えて電話に出たりしましたね。たまに口をタオルでふさいだりして(笑)。

 社長になっても、生活費を稼ぐために2001年くらいまでは映画館の清掃アルバイトを続けていました。そこで20万円ほど稼いで、妻と子ども3人の生活費に充てるという。そんな状態ですから、毎日本当は辞めたいと思っていました。何とか踏ん張れたのは、元勤務先の上司たちを見返したかったから。改善したいと会社に意見ばかりを言い、それで退職して独立しましたので、失敗したら「榊原はただ口だけの男だった」と思われてしまう。それだけは我慢できなかった。

 もうひとつはバイクショップから前金で費用を受けとってサービスを行うというビジネスモデルですから、それに対する責任感もありました。そうやって踏ん張りながらも、バイクショップが敬遠する案件を積極的にさばいていきますと、しだいに状況が変わっていくんですよ。「ああ、榊原がいてくれないと困る」というふうに。そこで再びここがチャンスだと、1997年に日本二輪車ロードサービス株式会社を立ち上げたのです。信念を曲げずに続けていれば、転機は訪れるものなんです。

110番と119番以外のお困りごとを、
すべて解決する会社づくりに挑戦していきます!

<お金がないから生まれた工夫>
バイクロードサービス専業から一転、生活関連サービスを手がけるまで

 昔、父にボコボコにされたトラウマからか(笑)、私は絶対に借金はするまいと決めていました。新たに人を採用すれば人件費がかかります。追加の車を購入すれば経費がかかります。それらの費用をまかなうために自分でバイトして稼いでは、会社につぎ込んでいるようなものでしたからね。だんだんと、今あるものの中で工夫することを考えるようになるのです。そこで、日本二輪車ロードサービスを立ち上げる前の3カ月を使って、全国3000カ所のバイクショップをネットワークする営業活動に集中しました。これまでは自分が出向いてトラブル対応していましたが、これからはバイクショップにその役割をやっていただこうと。

 ただ単にバイクショップにロードサービスをお願いするだけではなく、どこそこで故障したバイクの部品は、あそこで手配できますという、関連情報も調べて提供する。そうやってサービスを展開していくと、バイクの鍵を失くしてしまったお客さまが、家の鍵や自動車の鍵も一緒に失くしてしまうことがよくあることがわかりました。キーホルダーにいろいろな鍵をつけていますからね。そうなった場合、タウンページなどを使って鍵をつくってくれる事業者を探すんですよ。できるだけ電話対応が良くて、料金体系がきちんと定まっている事業者を選びなが。

 最初はバイクのロードサービス専業で始まった会社ですが、事業を継続していくうちに、そのほかのお困りごとも引き受けるようになって。また、冬場は雪のためバイクに乗る機会が減るでしょう。そうすると、特に北海道や東北など北のエリアでの利用率が極端に激減するわけです。そのシーズン性に危機感を覚えたこともあって、事業をバイク以外にも広げていこうと。日本二輪車ロードサービスの社名の頭文字が“JBR”だったのですが、この社名では守備範囲まで対応できなくなりまして。ロゴを変更する資金ももったいなかったので、次の社名を現在のジャパンベストレスキューシステムと変更したんですよ。で、ロゴはそのまま“JBR”を使っているのです。

<生活救急車の誕生>
ユーザーの要望をくまなくクリアするため生まれたネットワークブランド

 その後は、バイク、鍵だけに留まらず、ガラスまわり、水まわり、電気まわりなどなど、さまざまな事業者に提携を持ちかけていきました。もちろんお客さまとのやりとりをしっかり見て、今後も一緒に仕事をしてほしいと思える事業者さんに絞って。自社でそれらのサービススタッフを抱えることなく優良な各種のサービスと、対応エリアを広げていったわけです。一方、当社は24時間365日体制で名古屋のコールセンターで、全国から寄せられるお困りごとの内容、場所をお聞きして、しかるべき事業者に橋渡ししていきます。

 また各事業者と提携を進める中で、例えば水まわりの修繕を主に行う事業者さんにやる気があれば、鍵やガラスなどほかの技術を学んでいただける研修所を全国に設置しました。もともと彼らは非常に手先が器用な方が多いですから、基本だけお教えすればだいたいどんなことでも対応していただけるようになるのです。だいたいそれらの事業者さんは白いワンボックスをお持ちなんです。そこでバイクのロードサービスから守備範囲を広げた「生活救急車」という現在のメインブランドを確立し、青色に車を塗装していただく。一緒にブランドをつくってやっていきませんかという提案です。通常業務を続けながら、副業感覚で新たな収益源が確保できるわけですから、それはそれで喜んでいただけているようです。

 資金がなかったからできた苦肉の策だといえますね。それからは徐々に会員数が増え始め、経営も少しずつ安定していきました。私が会社からまともに給料を受け取れるようになったのは、本当に5年前くらいなんですよ。実際にその頃まで映画館の清掃アルバイトを続けていましたから(苦笑)。でも、今では大資本のライバル参入はまったく怖くなくなりました。持たざる経営の強みを有した我々を逆に利用してもらったほうが参入は簡単なわけですから。それよりもお金のない新参の会社のほうが怖い。どんなアイデアを持っているかわかりませんからね。私たちが試行錯誤して今のポジションを新たに創出したように。

<未来へ~JBRが目指すもの>
永続的に世の困りごとを解決する会社として、少数精鋭のままネットワークを拡充し続ける

 世の中の人が困っていることを見つけ出して、ワンストップでお助けできる便利なサービスをいつも考えています。いってみれば、110番とか119番以外のお困りごとならすべて解決できるような。バイク、自動車、鍵、水まわり、ガラス、パソコン、電気関連、家や店舗に、お庭まで。今では20種類ほどの生活関連のトラブルに対応できるようになりました。サービス体制としては当社が決めた適性をクリアした「生活救急車」という加盟店が400ほど。またそれ以外に、人口の少ないエリアを主に担当していただく400ほどの協力店が存在しています。これら約800店のネットワークが当社の最大の財産であり、強みといえますね。だからこそ、社員数55名という少数精鋭で運営できているのです。

 現在、大きくは3つの事業を柱としています。タウンページやインターネットをご覧になったお客様から1日あたり約3500件のお電話をいただくコールセンター事業。もうひとつは会員事業。当初から続けているバイク会員は17万人以上。さらに生活会員事業は、30万人以上にサービスを提供中です。これは、大学生や賃貸入居時に加入いただく生活まわりのトラブル解決のサービスです。バイク会員も生活会員も、バイクメーカーや不動産会社などのOEMサービスとしてご利用いただいているケースもあります。そして3つ目が、企業提携事業。旭硝子さん、セコムさん、INAXさんなど大手企業と、お互いのブランドを使って提携している事業です。コールセンターのOEM受託だけを行う事業もそこから派生しており、現在では約110社にご利用いただいています。

 創業時から会社の資金と個人の資金をしっかり分けていましたから、上場は比較的スムーズだったと思います。財務内容がものすごくキレイだと主幹事証券会社からほめられましたから。おかげさまで2005年8月に東証マザーズ市場に上場してからわずか2年後に、東証一部市場と名証一部市場へ上場することができました。これも大きなPRにはなりましたが、ブランディングに関してはまだまだ力を入れていかねばと。フリーダイヤル「0120-50-50-50」という、わかりやすい番号も手に入れました。そうはいっても急がず慌てず、ひとりでも多くの困った人を助けることができる会社として、継続した成長を続けていきたいと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
短期的な成功を目指さないでください。長期戦で臨めばきっと芽が出ます

 まずは行動し始めることです。そしてあきらめずに継続していけば、いつか良いかたちが見つかるでしょう。その変化を見逃さずに、さらに継続していけば、進化と成長につながります。私の事業の始まりも同じでした。当初、バイクショップからまったく相手にされませんでしたが、どうすれば続けられるかを考え抜いた結果、バイクショップが敬遠することを引き受ける御用聞き事業を思いついた。しかもそれだけでは食べていけず、事業を継続するためにずっとアルバイトを続けたわけですから。正しいと思ったことであれば継続する道を探せばいい。社長だって時間外にバイトしたっていいんです。しっかり税金を支払っていれば。ただし、人様に迷惑をかけないようにすべきですね。できるだけ借り入れをせず、自分で何とかする道を探すことです。

 真面目に続けていると、いろいろな方々から役立つ意見をいただけるようになり、それを糧にして成長していくことができました。あとは目の前に存在している問題点の存在を常にウオッチしておくことも大切です。当社の場合は秋以降、特に冬のシーズンにバイクロードサービスのオーダーが極端に減るという問題点に気づいてすぐに、その埋め合わせができるようにほかのサービスを取り入れるという舵取りをしています。問題点を解決することができれば、それが仕組みとなって、あとはキレイに流れていきます。ですから、できるだけ早く問題点に気づき、解決していくことも重要ですね。

 そのためには、事業を継続していくうえで間違っていると思うことにはしっかり対応することです。それが年上であろうが、偉い人であろうが意見を言うべき。衝突しないとわからないこともありますからね。いずれにせよ、短期的な成功を目指さないでください。長期戦で臨まないと芽が出ない事だってたくさんあるんですから。私がこれまでお話してきたことを考えれば、よくわかりますよね(笑)。これからも困っている人をどんどん助けていきますが、起業に挑戦する若い人たちの支援も続けていきたいと思っています。相談されると断れない性分なものですから、私は(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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