第138回 株式会社MetaMoJi 代表取締役社長 浮川和宣

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第138回 株式会社MetaMoJi/ 代表取締役社長

浮川和宣 Kazunori Ukigawa

1949年、愛媛県生まれ。愛媛県立新居浜西高等学校を経て、愛媛大学工学部電気工学科に進学。後の妻であり、元・ジャストシステム代表取締役専務(副会長を勤めたあと、2009年10月29日辞任)である橋本初子とは大学在学中に知り合う。1973年3月に卒業後、初子は上京し、高千穂バローズ(現 日本ユニシス)の相模原研究所に、浮川は西芝電機に入社。二人は1975年に結婚し、1979年に徳島県でジャストシステムを創業。1981年6月に株式会社化。1982年3月、パソコン用日本語処理システムの研究開発を始める。1983年10月、NECPC-100用標準搭載ワープロソフト「JS-WORD」を開発、発売開始。1985年8月、ワープロソフト「一太郎」を開発、発売開始。ベストセラーとなる。そして浮川の率いるジャストシステム社は、ワープロソフトメーカーとして日本一の企業となる。1997年10月、株式を上場。1991年9月にコンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)の副理事長に、1990~1996年(社)日本パーソナルコンピュータソフトウエア協会会長を務める。2002年6月には、内閣府・総合科学技術会議知的財産戦略専門調査会委員に選出されている。2009年、ジャストシステムを辞して、妻初子と共に同社を退職。二人で新たに「株式会社MetaMoJi」を設立した。

ライフスタイル

趣味

ゴルフです。
ゴルフが大好きです。40歳くらいから始めて、健康のためもありますが、週に1度はマストでラウンドしたいと思っています。温かくなってきてきてから、最近もけっこう行けていますね。冬はやりたくありません。勝負事はやっぱり、楽しいですよね(笑)。

好きな食べ物

みかんです。
みかんは、子どもの頃から大好きです。愛媛のみかんを一度食べたら、ほかのみかんなんて食べられませんよ(笑)。食事の好き嫌いは、ほとんど思いつきませんね。ちなみにお酒は飲めないわけではないですが、健康に配慮してほとんど飲みません。

行ってみたい場所

ヨーロッパです。
ほとんど行ったことがないので、イタリア、フランス、ギリシャなど、一度ゆっくりヨーロッパ観光旅行に出かけたいですね。古い建物や遺跡とか、どうやってこんなものができ上がったんだろうと考えながら、歩きまわってみたいと思っています。

30歳で最初の起業を果たし、60歳からの再起業に挑む!
コミュニケーションの新たな世界をテクノロジーで開拓

「一太郎」「ATOK(エイトック)」で、コンピュータのキーボード日本語入力の快適さを私たちに提供してくれた、ジャストシステム。1979年に同社を夫婦二人で創業し、上場企業に仕立て上げたのが浮川和宣である。そして、2009年に同社を後にし、彼は60歳にして二度目の起業を果たす。それが、テクノロジーホールディング・カンパニー、“MetaMoji”だ。コアテクノロジーの調査研究、開発に特化し、具体的な製品やサービス開発、経営戦略は、別につくった各事業会社に任せるのだという。今、手書き入力アプリ「7notes」が、売れに売れている。「私がジャストシステムを創業したのが、1979年ですから、ちょうど30年経った年に会社を離れたわけです。また、30歳で最初の起業を経験し、これまたちょうど60歳で新しい挑戦を始めたと(笑)」。今回はそんな浮川氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<浮川和宣をつくったルーツ1>
勉強、運動、何でもござれの優等生だった少年時代。
放送部の運営を任されて、音楽に興味を持ち始める

 生まれは愛媛県の新居浜市というところです。親父は機械系のエンジニアでした。新居浜は住友系の会社が多くて、若い頃はそちらの仕事をしていたのですが、戦争に取られましてね。何とか生きて戻って来て、私と妹をもうけた30歳過ぎの頃、重い結核に罹ってしまったんですよ。それからは私が小学校5年になるまでずっと闘病生活。その後、地元の中堅規模の会社のエンジニアとして復帰したんですが、何度も入退院を繰り返したんですね。それでも、78歳まで長生きしてくれました。幼心に、ああ父は家にはいなくて、病院にいるものって思っていました。親父は親父で、大変な人生を送っていたんですよね。その間を支えてくれたのは、市役所で働いていた母の稼ぎでした。自分のことを話すのは面映ゆいですけど、とってもいい子でしたよ(笑)。小学校から中学校までの成績は、オール5のオールA。走るのも早かったですし、何をやっても万能で、1学年600人いた中学は1番で入って、1番で卒業していますから。

 小学校5年の時、大学を出て3年目くらいの若い先生が担任だったんですが、彼が主体で本格的な放送部をつくることになって、「浮川、おまえがリーダーをやれ」と。昼の番組などの校内放送を計画して実行する程度なのですが、6、7人のメンバーの面倒をみながら、その頃から「はい、キュー!」なんてやっていました(笑)。今では普通のものばかりですが、私たちの時代、エレクトロニクスでいえば、初めてのものがたくさん登場していましてね。まさに初めてのステレオ放送を体験したのも、放送部で聞いたラジオでした。メカが好きというよりも、放送のシナリオや曲づくりに興味がありましたね。それらに挑戦してはみるのですが、あてどもなくてうまくいかんのです。本当に自分には才能がないと打ちのめされました。後で考えたら、大人のプロがシナリオも曲もつくっているのだから、同じようにできないのは当然です。そんなレベルでは到底ないのに、ただただ悔しかった。

 当時は視聴覚教育が始まった頃で、私が通った中学でも、防音室とか放送設備とか、最新のものが導入されましてね。小学校の時のことをどこかで聞きつけた先生が、中2になった私に、また「浮川、おまえに任せた」と(笑)。それで、昔一緒にやっていた同級生を集めたり、かわいい後輩の女の子に声をかけたりしてですね(笑)。そして、朝礼や昼休みの時間にクラシック音楽やそれに準ずるものを流したり。それでも、胸をわくわくさせながら活動しまたよ。で、公式な活動が終わると、そこは防音室ですから、外に音が漏れないんですね。ちょうどその頃、ビートルズが出てきたばかりで、みんなでLPレコードとかを持ちこんで、最新の設備で聞くわけです。ワイワイガヤガヤ、本当に楽しかった。先生たちは放送設備のことをまったく知らないので、私に任せっきり。ステレオなんてお金持ちの家にしかなかったですから、自分にとって放送室は最高の環境でありおもちゃでした。

<浮川和宣をつくったルーツ2>
地元の国立大学に進学し、生涯の伴侶と出会う。
言い出しっぺ型リーダーとして学生生活を謳歌

 高校は県立新居浜西高という進学校に進んでいます。中学の成績は1番でしたけど、ブラスバンド部に入って熱中し、成績は徐々に落ちていきました。実は中学校でも、音楽部に所属していて、ユーフォニウムという管楽器をやっていたんです。高校からはトランペットですね。自分のパートがあって、みんなで一つの曲を演奏する。そこがすごく面白かった。演奏の機会は、学園祭と、春夏の高校野球の応援です。スタジアムのスタンドが我々の晴れの舞台だったんですけど、だいたい新居浜西高は1回戦負けでした(笑)。JAZZの練習もしたりしましたが、自分に演奏家としての才能はないなあと。でも、数学は好きでしたし、非常によくできたんですよ(笑)。私が高校を出る数年前に、九州芸術工科大学(九州大学・芸術工学部)が開学していましてね。音楽とデジタルを結びつけて、音楽家や演奏家を際立たせるビジネスなら可能性があるのではないかと考えました。ただし、まだまだ気持ちがいい加減だったのでしょう。現役でのチャレンジは不合格となりました。

 家庭の経済的な事情もあって、奨学金がないと大学進学は難しい。日本育英会の特待生資格を得てはいましたが、権利を使えるのは1浪まで。だから、今度は背水の陣ですよね。そして、地元であれば生活も比較的楽だという考えもあって、愛媛大学の工学部電気工学科を受験し、無事合格。晴れて大学生になれたのはよかったのですが、入学してみたら“電子”工学科ができていた。「えっ!?」ですよ。自分がやりたかったエレクトロニクスやコンピュータって、そっちのほうが適しているわけです。自分のいい加減さに嫌気がさしました(笑)。そして、入学して2カ月くらい経った頃、学生紛争が激化。ロックアウトで授業ができなくなった。最後の授業で先生の許可を得て、「学校に来れない間の情報共有ができるよう、連絡ネットワークをつくろう」と提案したんです。「言いだしっぺがやってくれるなら」という話になりまして、私が全員のリストをつくって、そのリーダーをやることに。それ以来、ことあるごとに世話役を押し付けられることになるんですよ(笑)。ちなみに授業は、1年の秋頃から再開されるように。それまでは毎日喫茶店に行っていました(笑)。

 入学3日目にのぞいたアマチュア無線部の説明会で、妻であり経営パートナーの初子(以下・専務)と出会いました。彼女は“電子”工学科だったんですよね。当時は工学部全体で女子がたったの二人。「珍しいな、かわいいな」と彼女に興味を持って以来、これまで一緒の人生を歩み続けています。あと、大学時代の思い出といえば、3回生が中心となって実行する学生祭です。学科単位でさまざまな催しを考えるのですが、3回生になるとやっぱり私がリーダーを任せられるんですよ。で、2つのことを考えた。ひとつは、演劇。自分でシナリオを書いた、ちょっとエロチックな「かぐや姫」。ちなみに衣装は、専務が担当しました(笑)。もうひとつは、とても大きなロボット型のお神輿です。電気工学科らしく、手を動かしたり、目を光からせたり工夫して。設計図はすべて私が書きました。生まれ故郷の新居浜には、「太鼓台」という勇壮なお神輿があって、それをモチーフに。松山市の街をみんなで担いで練り歩いて、大いに盛り上がりました。振り返ってみると、私は昔から、構想したことを発表して、人を巻き込んでいくことが好きだし、得意だったんですね。

<夫婦で起業>
スタートは徳島県にある妻の実家がオフィス。
オフコンの営業を続けるが半年間受注なし

 就職に関してですが、エンジニアとして、できれば大手企業で働きたいと考えていました。ただ、家族の心配もあったので東京は遠すぎる。大阪くらいかなあ、と。そうしたら、就職担当の先生が、「浮川は、大きな会社で歯車の一つになるより、好きなことを自由にできる環境のほうが活躍できる」と。先生は、私の学生祭での働きを知っていたんですね。当時の国立大学は、先生が「ここに行け」と言ったら従うしかない。それで、姫路に本社がある東芝の子会社の西芝電機へ就職が決まったというわけです。最初は電機系の設計をする部署に配属されましたが、私は仕事が遅かった。先輩がすでに終わらせた設計も、最初から自分で解析してみないと納得できない。どこまでも、突き詰めたいタイプなんですよ(笑)。入社3年後には、12人のメンバーを持つリーダーになりましたが、ここではマネジメントが下手なことが露呈。その次に、初めての仕事ばかりを遂行する、特別なチームに移動しました。この部署で、素晴らしい仕事をたくさん経験させてもらいました。

 西芝電機に勤務していた25歳の時、専務と結婚しています。彼女は、高千穂バローズ(現日本ユニシス)の相模原研究所に勤務し、OSの研究に携わっていましたが、寿退職してくれて、姫路での新婚生活が始まりました。そして彼女は、姫路の小さなシステム販売会社に再就職。とても優秀なSEでしたから、すぐに、すべての開発業務を任されたようです。当時は、中堅企業が初めてオフィスコンピュータを導入し始めた時代。兵庫県に本社がある、釣り用品の「がまかつ」、子ども服の「西松屋」の最初のオフコン導入は、すべて彼女がゼロから一人でやったんですよ。そのうちに、知り合いが起業したオフコン営業会社から、専務に「アドバイザーとして手伝って」という会社がかかるようになって。私も一緒になって、たまにお伺いしてアドバイスをしていたんです。そんな会社を見ているうちに、「ああ、会社って自分たちでもできるんじゃないか」と思い始めました。そもそも、「会社って許認可がないとつくれないもんだ」と信じきっていたくらいですから(笑)。

 普通は見込み客をいくつか確保してから、独立しますよね。でも、私の場合は、見込みなど一つもないまま、30歳でいきなり会社をつくってしまった。それがジャストシステムの始まりなんですよ。当時80歳すぎの専務のおばあちゃんから、「これからは地方の会社でも、コンピュータが必要となる」というアドバイスもあって、本社は専務の郷里である徳島県に置きました。オフコンがどんどん売れ始めているという時代背景もありましたが、私も長男、専務も長女、雇われたままでは3つの家族を養うことなんてできません。いつか自分の給料を自分で決める立場になりたい、という考えも強くなっていたのです。コンピュータには、大きな波が来ているし、ビジネスチャンスがあるんじゃないか。ひとたび会社を立ち上げれば、向こうからどんどん仕事が来るんじゃないか(笑)。いきなり苦労の連続が始まるのですが、起業した当初はそれくらいお気楽に考えていましたね。

 オフィスは彼女の実家の応接間で、名刺に印刷したのも実家の電話番号です。オフコンの営業を続けるのですが、まったく売れませんでしたね。「どんな会社?」「私と家内がやってます」「見積もりは?」「だいたい1000万円です」と。先方も、やっぱり不安になるんでしょう。1979年の5月に事業をスタートして、営業に出向いても追い返されるばかりの日々。さすがにダメかなあ、再就職かなあと、弱気になっていました。そうこうしているうちに半年がすぎ、その年の10月、農業用の種苗やビニールハウスを販売している地元の老舗企業にお伺いしたんです。そこの専務さんに、いつものように一生懸命事業の方向性の話から始めて、複雑なビニールハウスの販売業務改善の提案などをしていたら、地元のソフト会社をすべて知っているような方だったのですが、「誰もそんな提案をしてくれなかったが、よくわかった。注文書を持ってきなさい」と。それが初受注で、おそらく1200万円くらいの案件だったと思います。先日、その方にお会いしたら、20年間ずっと私たちが納品したシステムをリプレイスせずに使い続けてくれたそうです。

<かな・漢字変換システムの開発>
「一太郎」「ATOK」などの製品を市場に投入し、
日本語コンピュータ環境の基礎を築いていく

 私のやり方は、一つの会社の話を隅々までお聞きして、最適なシステムをフルカスタマイズでつくって納品するというもの。同業他社に販路を拡大できれば楽なのですが、私たちがそれをやったら裏切り行為でしょう。だから、建設会社とか、まったく別業界に営業していく。専務からは、「また、ゼロからの仕事なの」「しょうがないよ」とか、そんなやり取りをしていました(笑)。ただ、新しもの好きな私には合っていました。大手がすでにパッケージ化している、会計システムや給与計算ソフトの部分をやっても太刀打ちできない。だから、地域の特異性、特殊性をうまく活用して事業を展開している会社のこだわりの部分を勉強して、新しい最適な仕組みを提案していく。そこに面白みを感じていただいていたのだと思います。最終的に、私の提案がそのまま、もとから付き合いのある業者に発注されることも多々ありましたけど(笑)。いずれにせよ、すでに世の中にあるものをやっても、うまくいかない。そこは非常に勉強になりました。

 もしも、この仕事があまり順調に進んでいたら、専務もそこに専念させることになって、「一太郎」も「ATOK(エイトック)」も、生まれなかったかもしれません。会社を立ち上げて2年目になった頃、徐々にビジネス系のコンピュータが売れるようになって、販売店を始めました。最初は販売だけでしたが、そのうちに、「コンピュータでもっと簡単に漢字が表現できないか」と、オフコン仕事の合間に、専務と二人でアイデアを考えていたんです。一方、あるベンチャー企業のコンピュータと漢字が印刷できるプリンターを合体させた、漢字システムという仕組みを私が考案していたんです。このベンチャー系コンピュータ会社に「漢字ができるOSを搭載したコンピュータを一緒に開発しませんか」と打診したら、「うちのスタッフは忙しいと言っているので、浮川さんのとこでやってくれないか」と。これはあとで聞いた話ですが、「国語が嫌いでエンジニアになったのに、いまさら漢字を勉強するのはいやだ」。その会社のエンジニアたちの断り文句だったそうです(笑)。

 漢字OSの構築の説明を、そのベンチャー会社の幹部やエンジニアに何度もしていました。するとある日、営業部長から電話があって、「浮川さん、本当にできるよね?」と。ちょうど専務もいたので、聞いてみたら「つくれるわよ!」と一言。で、「だ、大丈夫です!」と、開発を始めることになったのです(笑)。単なるワープロではなく、しっかりしたOSの「かな・漢字変換システム」をつくれば、すべてのアプリケーションで活用できる。これが最初から私たちの発想であり、コンセプトでした。いま、皆さんがお使いのパソコンでは、スペースキーで漢字に変換し、もう一度スペースキーを押すとほかの候補が出て、候補の中から選び、エンターキーで確定しますよね。私たちは、かな・漢字変換システムを、1982年10月に東京で開かれた展示会に出品。翌年、まずはNECのPC-100用に開発した「JS-WORD」が採用され、その後はご存じのとおりです。1985年のワープロソフト「一太郎」、日本語入力ソフト「ATOK」などの製品をどんどん市場に投入し、日本語コンピュータ環境の基礎を築くことになるのです。

●次週、「60歳、“シリアルアントレプレナー”として、新たな挑戦を決断!」の後編へ続く→

新情報端末に最適な手書き文字入力の快適さを!
「7notes」シリーズで、世界マーケットを狙う

<再起業>
「テクノロジーホールディングス」型の事業形態で、
コアテクノロジーの調査研究、開発に特化していく

  そうやって、ジャストシステムは日本のソフトウエア産業の発展に寄与しながら、1997年には上場企業の仲間入りも果たしました。その後も、さまざまな挑戦を続けていたのですが、2000年中盤くらいから、徐々に業績が上向かなくなり、2009年4月、測量機器メーカーの株式会社キーエンスと資本・業務提携を締結し、実質、同社の傘下に入ることになります。そして、6月には社長の座を譲り、私は会長となりました。さまざまなコストダウンを続けるうちに、継続していくという約束だった事業に関して、新しい経営陣が「それは、もうやめる」と。ジャストシステムの中で完結させられる事業ならいいのですが、社外に多くの支援者を持つ事業もあるのです。たとえば、私たちが提案した新しいソフトウエアを頼りに研究を進められている人もいます。お世話になってきたのに、途中で梯子を外すわけにはいきませんよね。その部分は絶対に譲れませんから、だったら受け皿会社を自分でつくろうと。それで、2009年の10月にジャストシステムを去ることになったのです。

 私がジャストシステムを創業したのが、1979年ですから、ちょうど30年経った年に会社を離れたわけです。また、30歳で最初の起業を経験し、これまたちょうど60歳で新しい挑戦を始めたと(笑)。10数人のメンバーとやることを決めていましたので、退職する時には新しい会社、MetaMoJiの設立登記は完了させていました。すでに仕掛かり途中だった大きめのプロジェクト二つを引き継ぎ、研究しているものが一つ、あと、私や一緒にやるメンバーが発明した特許はいくつか持って出たのです。そしてこの会社では、私がもともとやりたかったこと、XMLの技術をベースとしたインターネット系のサービス開発に注力していく予定でした。また、MetaMoJiは「テクノロジーホールディングス」型の事業形態を採用。コアテクノロジーの調査研究、開発に特化して、具体的な製品やサービス開発、経営戦略は、別につくった各事業会社に任せようという戦略です。

  そうやって会社の方向性を定め、一生懸命開発を続けていく中で、大きな衝撃を感じることになります。あれは2010年の3月、ある方がiPadを持って当社に来社され、初めて見て触って……。指によるユーザーインターフェースに特に強く興味を持ち、すぐに、タブレット型コンピュータの時代の到来を直感しました。そして、いくつかのアプリを使ってみたのですが、「これなら自分たちのほうが、いいものつくれそうだ」と(笑)。実は、ジャストシステムを離れることを決めた時から、もう日本語入力の研究・開発に携わることはないと思っていました。しかし、iPadに出合った瞬間に、手書き日本語入力システムのアイデアが次々に頭の中に浮かんできたのです。そして、手書きを中心として事業を発展させていこうじゃないかと、まずは手書きワープロの分野で勝負することを決めたのです。重要なポイントは大きく二つ。一つが、頭と手の直結感、処理速度とスムーズさ。もう一つが、書けない漢字の支援です。

<7notes、誕生>
手書き入力の便利さ、素晴らしさを詰め込んだ。
リリース当日、有料アプリのランキング1位に!

  もちろん、iPadだけではなく、iPhoneやほかアンドロイド系の新情報端末。これらのユーザビリティ向上にシフトしていこうと。その中心となるのが、今は手書きということになります。そして、今年の2月3日にリリースしたのが、iPad用の手書き日本語入力アプリ、「7notes for iPad」です。でも、2月3日の午後にリリースの記者発表があって、その日の夕方には、ゲームなどを含めた全ジャンルの有料アプリの中、ランキングトップに。その後1カ月間、ずっとトップを独走してくれました。発売後数日トップというアプリはあったかもしれませんが、1カ月もトップを独走というのは、前例がないと聞いています。半年を過ぎた今でも、トップ10には入っていて、かなりの本数お買い上げいただているようです。もとからいいものをつくったという自信はありましたが、ここまでとは。本当にありがたいです。

 6月10日にリリースした、iPhone用の「7notes mini」も、初日から全ジャンルの中で2位のポジションを獲得するなど、売れ行きは非常に好調です。購入に関して、「一太郎ファンが、ATOKファンが」というのは、まったく関係ないようです。もちろん、それらをつくり上げてきた人間が「7notes」関わっているという安心感や、多少の注目はあったのかもしれませんけどね。ただ、最近ですとツイッターなどネット上を見ていると、「何だ、“7notes”って浮川さんがつくってたのか 」とか、「あれ、浮川さん、まだ現役やってたんだ」とか(笑)、そんなコメントをよく見かけます。購入された後になって、気付かれるユーザーが多いみたいです。私が最初に創業した頃に、ソフトハウスを立ち上げた仲間がたくさんいるんですが、今も若い頃と同じように、自分で旗を振りながら、ものづくりを続けている人はほとんどいませんね。

 先日、ある若手ベンチャー企業の経営者が当社にご挨拶のために来社されました。その時に彼もこう言っていました。「正直言って、私は卑怯だと思いました。若い人間が必死でやっているのに、浮川さんはまだやるんですか」と。もちろん、称賛の意味を込めてのコメントですよ(笑)。その経営者の方は、私たちよりも前から、iPhoneやiPadのアプリ開発をされている方ですから、「7notes」がいきなりトップに躍り出てびっくりされたそうです。で、調べてみたら、私がやっていたと。でも、私はただ、年なんて関係なく、ベンチャーとして挑戦しているだけなんです。キーボードがこれだけ普及した中、「今さら手書きですか」とおっしゃる方もいます。漢字を手書きすることって、大切ですよね。これは私が、かな・漢字変換システムを開発した功罪でもあるのですが。今、漢字が書けなくなりつつある世代の方々に、もう一度手書き。「でも、書けないし」と言う方もいると思いますが、そんな方のために「7notes」の変換システム、「mazec(マゼック)」があるのです。ぜひ、多くの方々に「7notes」の面白さを体感してほしいと思います。

<未来へ~MetaMoJiが目指すもの>
もっと楽しい、嬉しい、幸せなコミュニケーション。
目に見えない何かをテクノロジーでつくり続ける

  一番のチャレンジは、もう間もなく始まりますが、「7notes」の世界版ですね。まずは英語版なのですが、グローバルバージョンをリリースする予定です。7月の末から8月にかけて、アメリカ、ヨーロッパのマーケットを足掛かりに、いよいよ全世界に向けたビジネスがスタートします。これはまったく経験のない挑戦ですが、やっぱり世界を相手に勝負したい。ただの英語手書き入力ソフトではなくて、英語ネイティブの方々にとって非常に使い勝手のよい予測変換ですとか、世界的に誰も見たことがなかったさまざまな技術を盛り込んだアプリケーションなのです。ちなみに、既存の英語手書き入力ソフトは、おそらく数本しかありません。スペルチェックくらいの機能はありますね。でも、そういうものがあることをすでに私たちは知っていて、それを確実に超えるものを提供できる自信があります。

 デモソフトをすでに海外の人たちに使ってもらっているのですが、「これはすごい!」とほとんどの方が言われます。たとえば、どんどんメモを手書きで入力したとしますよね。それをすべて終えた後で、必要な部分だけぱぱっと変換して、必要な時に必要な箇所だけ、文章をテキストとして構成することもできるのです。もちろん、「後から変換」機能は日本語版の「7notes」にも搭載されて、非常に受けがいいのです。ここに大きなアドバンテージがあって、日本語圏でも「後から変換」機能が付いたユーザーインターフェースは見たことがありません。そもそも、海外には変換という考え方自体があまり浸透していませんからね。そこも、多くの方から驚かれるポイントです。私自身は、やりたいことがまだまだたくさんある。先ほども説明しましたが、MetaMoJiはテクノロジーホールディング会社であって、「7notes」は7knowledgeという事業会社が販売活動を行っています。今後生まれるであろうさまざまなサービスに関しても、それぞれに合わせたかたちの事業会社をつくっていきます。

 ただし、世界的なマーケットに挑戦するために、今は「7notes」に集中しているというタイミングです。ほかの言語ももちろん順次取り掛かっていきますが、技術的というよりはマーケット的に考えた順番で進めているという感じです。もとから国内だけで終わるつもりはありませんでしたし。基本的には言葉のテクノロジーがありますので、応用はしますが、サービスとして見たら、言葉、言葉したものだけではなくなると思います。言語も言葉も映像も、広くいえば、コミュニケーションのためのツールじゃないですか。そして今後、デバイスがどんどん進化していくと、コミュニケーション手法も進化していきます。私たちはその中で、便利とか効率は当然として、もっと楽しいとか、嬉しいとか、幸せとか、目に見えない何かを提供していきたい。今まで以上にもっとうまく表現できたとか、100倍伝わったとか、感動したとか。一人でも多くの老若男女の方々に向けて、人間の本質的な感動や共感の喜び体験を増やすことに貢献できれば嬉しいですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
未来の元気な日本のために、起業家よ立ちあがれ!
今の時代、ビジネスチャンスは大きく広がっている

 今は、ものすごいビジネスチャンスだと思います。昔はすべて自分でやらなければいけませんでしたが、インターネットやさまざまなデバイスなど、かなりのインフラが整っていますからね。私たちの時代に比べて、起業への挑戦がやりやすくなっているし、コストもかからなくなっている。あとは、どのようなものが世の中で必要とされているのか。あるいは自分は世の中にどう貢献したいのか。そこを考えるに当たっては、大勢でなくてもいいのです、少数でもこういう人たちがどんなシチュエーションにいる時に、こんなサービスがあれば絶対に喜んでくれるはずだと。先にお金儲けありきではなく、そのことを考えに考え抜いて、答えらしきものに出合えたなら、私は誰だって、どうしてもやりたくて、やりたくて仕方なくなると思うのです。それでも、先立つものはやはりお金ですが、それに対するハードルが格段に下がったのが、今というわけです。

 特にIT関連事業はそうですよね。そして、世界中の若者たちが、この分野でどんどん挑戦を始めています。東日本大震災の影響もあってか、日本全体の景気や経済はちょっと沈んでいて、なかなか元気が出ませんけど。あと、私から見ると、それ以前から社会が少し保守的になっていますね。チャレンジということに対して、いろんな人が声をかけるのですが、多くの人が立ちあがろうとしない。そうはいっても、挑戦への声を挙げることは、自分自身も続けていきたいと思っています。もうひとつ言うと、国ももっと起業への挑戦者を応援してほしい。ベンチャーが100社あっても、60社も70社も成功しません。生き残るのはもしかしたら、10社もないかもしれない。でも、そこに意味があるんです。そして、失敗した起業家たちには、「もっとこうすればよかった」という気付きが生まれています。失敗者にもう一度チャンスを提供できるような、そんな制度をつくるべきだと私は思います。

 公務員の方々は成功率と言いますが、そんなの予測できるわけがない。これから世界に打って出ようという時に、そこで成功できる起業家は、もしかしたら100人に一人もいないかもしれません。そんな中で、その一人を精いっぱい支援する制度がなかったら、100年後とは言いません、10年後、20年後の日本はいったいどうなっているのでしょう。今のシリコンバレーは、バブルといわれるほど、活況を呈しています。かつて、日本とシリコンバレーにこれほどの差はありませんでした。インドや中国もどんどん台頭し、日本が世界とこれだけ差を開けられたのは、前代未聞なんです。だから、今やらなくてどうするか、と。アメリカのベンチャーキャピタルの出資審査では、実は失敗の経験が意外と高く評価されます。私自身は、運よく成功しましたが、その成功要因ってなかなかわらないもの。どちらかというと、失敗した時のほうが、学んでいることは多いのです。ただし、失敗したら学習しないと、次のチャンスはもうない。起業家も、それを支援する人たちも、失敗の価値を、よくよく考えてほしいと思います。一緒に頑張りましょう!

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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