第89回 株式会社スマイルズ 遠山正道

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第89回
株式会社スマイルズ 代表取締役社長 
遠山正道 Masamichi Toyama

1962年、東京都生まれ。慶応義塾大学商学部を卒業した1985年、三菱商事株式会社に入社。1997年に、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社に出向後、スープ専門店“Soup Stock Tokyo”第1号店を東京・お台場のヴィーナスフォートにオープンさせる。出向期限の3年を終え、社内を駆けずり回りながら、2000年、三菱商事初となる社内ベンチャー企業、株式会社スマイルズを設立。代表取締役社長に就任。自身も13%の資本金を出資するという、国内ではレアケースといえる社内ベンチャーが誕生した。2005年、同社の会長に就任。当時は三菱商事外食サービス事業ユニットに所属していた。2008年2月、 MBO(Management Buyout、経営陣による事業買収)を行い、同社社長に再任。三菱商事を退社し、オーナー社長となった。ビジネスパーソン、ベンチャー社長として活躍しながら、アーティストとしての顔も持っている。これまでに、コンランショプのパッケージデザイン、イデーの家具デザインなどを手がけ、ニューヨーク、青山、代官山などで個展を開催している。著書に、『スープでいきます~商社マンがSoup Stock Tokyoを作る』(新潮社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

顔が見える料理です。
家の食卓とか、近所のレストランとか。つくり手の顔がしっかり見える料理が好きです。でもたまにひとりで、カウンターのビストロとかに飛び込みで行くこともあります。お酒は比較的飲めるほうで、酒類も幅広くいただきます。

趣味

トライアスロンです。
トライアスロンをやっています。年に1度か2度大会に出たりして。経営者仲間の、“トライアスロンボーイズ”というチームの末席にいます。まだタイムは4 時間を切った程度。この間の石垣では、RUNの途中で足切りになってしまいました(笑)。

行ってみたい場所

北欧の国々です。
去年は海外に一度も行けなかったので、今年は、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドなど、北欧あたりを旅してみたいと思っています。何となく清潔な感じがする海外旅行をしたいので。

最近感動したこと

500人を超える方々のご来場です。
1996年、33歳で個展を開いた代官山ヒルサイドテラスのギャラリーで、2009年6月16日に「遠山正道の仕事」展を開催しました。ものすごい雷雨の中、500人を超える方々にご来場いただけたこと、心から感謝しています。

アーティストの顔を持つ商社マンのアイデアから生まれた、
“Soup Stock Tokyo”が、都会人の温かいインフラに!

 “Soup Stock Tokyo”。現在、首都圏を中心に53店舗を展開しているスープ専門店である。このビジネスモデルは、元・三菱商事の社員だった遠山正道氏が、日本ケンタッキー・フライド・チキンに出向中の1997年、ふと思い浮かべたインスピレーションから生まれたものだ。そして、この新規事業を三菱商事の社内ベン チャー企業として独立させ、2008年の初頭には、自らの全額出資によりMBOを完了。株式保有率100%のオーナー経営者として、運営母体であるスマイルズの新たなかじ取りを始めている。また、これも自身の思いから生まれた事業であるが、ネクタイの製作販売、新しいかたちのリサイクルショップも動き始めた。「とてもおっとりした家庭環境で育ち、3人兄弟ですが、兄弟げんかをした記憶もありません。それゆえか、キツキツしたマネジメントは苦手。チームや世の中との共感と、未来のあるべきイメージを思い描く。これが私の経営スタイルです」と語ってくれた遠山氏。今回は、そんな遠山氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<遠山正道をつくったルーツ1>
東京・青山の地で生まれ育ったアイデンティティが、
人生の地図となり、自身を未来に導き続けている

 東京の青山の、今、ブルックスブラザーズのビルが立っている向かい側にあったマンションで生まれました。1962年生まれで、大学を出て会社に入るまでの22年間、ずっとそこで暮らしていました。昔の青山は、今よりかなり素敵な街だったと思っています。あくまでも私個人の印象ですけれど。ちなみに、小学校に通うために都電を使っていました。青山通りを通って渋谷まで行って、別の都電に乗り換えて、明治通りを通って学校がある天現寺まで。そんな時代だったのです。1964年に東京オリンピックが開かれたでしょう。そのために道路の拡幅工事が行われて、渋谷から外苑までの青山通りが整備されまして。あの辺りは今よりもキレイで整然としていて、だけどきらめきのある街並みに映りました。

 経営者だった父が、私が生まれる前にニューヨークから戻ってきて、自宅に60年代のモダニズムがガバっと持ち込まれました。今でいうミッドセンチュリーの家具に囲まれて育ったのです。それがすごく心地良かった。家の近くにはユアーズという24時間スーパー、VANジャケットの本社、アルフレックスのショールームとかもあって、欧米文化に憧れていました。小学校ではラグビー部に所属です。当時、子どもたちに人気の相撲や野球にはまったく興味がありませんでした。むしろ嫌いだったでしょうか。遊びといえば、表参道をスケボーに乗って滑り下りたり、友人たちと“イージーライダー”という名前のチョッパー型自転車を乗り回したり。あとはメンコとか酒蓋集めも。いつも酒蓋をもらいに行く酒屋さんがあったんです。今でも日本酒のにおいをかぐと、昔の青山の街並みを思い出します。

 性格は穏やかで、みんなの後ろからついていく感じでしたけれど、友だちはスポーツマンやガキ大将みたいな人、優等生やアート系の人、どちらともバランスよく付き合っていました。その傾向は大学までずっと変わりません。中学に上がると、当時、学校の中庭ではやった卓球部に入部。けっこう上手な気がしたんです。でも、ちょっと後悔しています(笑)。ほら、「卓球をやっていました」って言うの恥ずかしいじゃないですか。あと、誰かに習ったわけでもなく、水彩画を趣味で描き始めたのですが、なぜか黒しか使わず。いつも水墨画みたいでした。理由はなぜだかわからないですけど(笑)。特にうまいわけでもなかったですが、先生はほめてくれました。そういえば私が中学3年の時、『ポパイ』が創刊されて、学校帰りに買ったことを覚えています。ファッションにはこの頃から興味を持っていましたね。勉強ですか? 算数のテストで95点とって、それがすごく嬉しかったことくらい。勉強はまったくダメでした(笑)。

<遠山正道をつくったルーツ2>
高校では奇術部、大学では水上スキー部に所属。
就職は面接官の人間性に惹かれ、三菱商事へ

 高校ではですね、奇術部に入部しています。いわゆる手品です。昔から手品が大好きで、中学生時代、アルバート・ゴッシュマンなど世界的に有名なマジシャンが一同に集結するレクチャーショーにも出かけていたくらい。大きなホテルで2泊3日とか。飯田橋や神田の会議室で、国内の手品マニアたちが集まるレビューにも参加していました。弁護士や歯科医など、インテリのおじさんたちに混ざって中学生がひとり(笑)。慶應高校の奇術部だったのですが、主将になりまして。日吉祭という文化祭では、一番人気の大教室を確保して会場をけっこう盛り上げました。私は鳩を飼っていたので、鳩をポンっと出すマジックとか(笑)。やっていましたね。

 大学は慶應義塾の商学部に進学していますが、この頃はまだビジネスの道で生きていくという意志なんてなくて。そうはいっても商学部ですから、マーケティングのゼミを取ってゼミ長とかやらせてもらっていました。はまったのは、水上スキー部での活動です。毎日、朝から夕方まで江戸川に行って練習し、夏休みはほとんど山中湖での合宿生活。もちろん大変な日々でしたけれど、とても楽しかった。インカレで7連勝していた時代で、その当時が一番強かったですしね。あと、大学4年か卒業した年だったか曖昧なのですが、先輩がサンドイッチ屋を青山で開業すると。その際に、ロゴマークと内装の絵を描いてほしいと頼まれたのです。その絵が、『ポパイ』の情報コーナーで紹介されまして。それがきっけで、『ポパイ』の連載コラムのイラストや、泉麻人さんの書籍の壮丁イラストなどを描かせてもらうようになりました。

 祖父も父も三菱系の人間だったこともあり、自分もその流れに沿って就職をと考えていました。ただし、私は金融マンのタイプではまったくないですし、海外志向がありましたから、必然的に商社。三菱商事がいいと。ある部長を紹介いただき、アドバイスを受けながら入社試験に臨みました。あれは確か3次面接でした。質疑応答にうまく答えることができず、「これは落とされる」と思ったのです。その時、面接をしてくれた社員が紳士的な対応をされる人で、ますます三菱商事への憧れが募りました。私は、面接が終わったその足で、アドバイスしてくれていた部長に直談判に行きました。「どうしても入りたいんです」と。その積極性が評価されたのかどうか定かではありませんが、結果として私は、無事に三菱商事に入社することになります。最初の配属は、都市開発を行う建設部門。天王洲の開発プロジェクトなどを行っていました。

<なぜか個展を開催>
33歳の会社員が、代官山ヒルサイドテラスのギャラリーで、なぜ大がかりな個展を開催したのか?

  天王洲のプロジェクトを終えた1993年、今度は機械情報化推進室に異動となります。ここで私は電子メールやパソコン通信の存在を知って、「これはすごい。世の中が変わるかも」という胎動を感じ、興奮したのですね。そこで、課長の一村さんを主人公にした「二村課長の電子メールのある1日」という、誰にも頼まれていない企画書を書きました。ITを知らない他部の社員にインターネットを使ってもらうためには、使いたくなるような提案が必要だろうと。たとえば、「これまで麻雀相手を探すために一人ひとりに電話をかけていたけれど、メールなら一度に20人に連絡することができます」とか。いくつかの日常的な使い方事例を取り入れながら、わかりやすい物語調で構成したのです。この企画書が予想以上に好評で、別の部署や上層部にもコピーされていき、ついには当時の槇原社長から呼び出され、インターネットの説明をすることになりました。

 その後、情報産業グループに移り、当時のボスは湯川部長というとても優秀な人。彼には今でもお世話になっていますけど、湯川部長がすごいおかげで、いろんな人からちやほやされて、自分まで偉くなったような気がしていました。でもある時、「もしも湯川部長がいなくなったら」と考えている自分を知ってゾッとした。早く親離れしなければ、また、一生会社員のままでは後悔することは間違いない。そんな思いに駆られたのです。祖父も父も経営者だったので、起業への憧れもありました。仕事は楽しいし、給料もいい。ただ、このまま60歳になって定年を迎えるのはまずい、と。そこで私は、自分で絵を描いて個展を開こう。そう決めたのです。なぜ個展か? 確かに理論が飛躍しすぎていますが、私もうまく説明できないのです(笑)。

 32歳でその決意をしてすぐ、1年後の代官山ヒルサイドテラスのギャラリーを押さえました。それから1年間をかけて、70点のタイルの作品を描きました。もちろん会社の仕事はしっかりこなし、平日の朝と夜、休日を使って、描いては焼き、描いては焼き、創作活動を繰りかえしたわけです。この個展の総合ディレクターとして、幼なじみのトップスタイリスト、山本康一郎が協力してくれました。彼の細部まで徹底的にこだわり手抜きをしない仕事ぶりを目の当たりにし、プロとして認められ、活躍し続ける人間の厳しさと感性を実感することができました。オープニングの少し前の打ち合わせで、康一郎に「これで自分の夢が実現する」と言いましたら、「そんなチンケな夢に付き合ったつもりはない。ここからが本当のスタートだろう」と。ショックでした。でも、確かに自分で扉を開けてステージに立つわけですから、ここらが本当のスタートです。堂々と演じきらなければならない。そう強く思ったのです。

<Soup Stock Tokyoの始まり>
個人性と企業性、都会育ちの3つのカードが織りなした、東京的ハイブリッド型・新外食産業

 結果、個展は大成功に終わり、70点の作品もすべて売れました。そして、お世話になった皆さんのご恩に報いるために、「成功することを決めた」という決意の手紙を送らせてもらいました。ひとつ自分で思っていたのは、ビジネスパーソンとしてこの個展を採算的に成功させなければならないということ。お金持ちのお遊び的に思われたくはありませんでしたから。また、アートという世界で、ビジネス的なやり方ができることも証明したかった。その両方を自分なりに実現できたこの個展は、私にとって大きな自信となり、その後の人生のターニングポイントとなりました。アーティストもビジネスパーソンも世の中にはたくさん存在しています。でも、いい絵を描いている時に、小躍りして喜んでいるような“個人性”と、事業の仕組みや信頼性がある“企業性”の良いところだけを掛け合わせられる私のようなポジションは希少です。このハイブリットな視点を持って、自分オリジナルの成功を目指していこうと考えるようになりました。

 情報産業グループに在籍していたものの、いまひとつ仕事のスケール感が大きすぎてしっくりきません。漠然とですが小売や食といった、手触り感があり、自分で実感できる世界に身を置きたいと感じていたのです。そうやって周りを見渡してみると、仕事でも関わりのあった関連会社である日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)がありました。そこで、様々な人脈と知恵を使って、ある意味、KFCに無理矢理潜り込んだのです。そしてKFCに出向してから、私は新規事業を任されることになります。富山県の高速のサービスエリアに、定食屋さんとケンタッキーを抱き合わせて新規出店させるとか、そんな仕事をしていました。しかし、チキンのことは私よりも詳しいスタッフがたくさんいるわけです。それよりも、自分にしかできない新しい何か。自分の価値観の中から新しいものを生み出したい。仕事を続けながらも、新しい事業プランに思いをはせる日々をすごしていました。

 その昔、KFCやマクドナルドが日本に上陸した頃は、誰もが新鮮な驚きを持っていたと思います。ただし、改めてファーストフード業界を俯瞰して見ると、私には「どうしてこうなっちゃうの?」と疑問に感じる要素が沢山ありました。また、世のお母さんたちが「ファーストフードばかり食べてちゃダメ」とよく言うように、体に悪いものと見なされることも多かった。この世界を、従来の欧米型とは異なる、高感度かつ低投資による提案で、良きものに変えていく仕組みはないだろうか。というような思いが徐々にふくらんでいきました。そんなある日、レストランで友人たちと会食をしていた私の頭の中に、ふと「女性がひとり、お店の一角で、温かいスープをすすっているシーン」が浮かんできました。このイメージが、「Soup Stock Tokyo」の起業へとつながっていくことになりました。

今から10年以上前、物語形式でつくられた企画書の内容は、
“予言の書”のごとく、そのほとんどが実現されている

<物語、スープのある1日>
インスピレーションに従った物語形式の企画書で、決済者たちの“Yes&Go!”を導き出した!

 そのインスピレーションに従いながら、約3カ月をかけて、ひとつの企画書にまとめました。作成は1997年で、全体で22ページ、「1998年、スープのある1日」と題した物語形式の企画書です。その内容は、無添加素材でつくられたスープをめぐる具体的なシーンから、お店や会社の将来像まで、多岐にわたっています。もう既にこの世界ができ上がっているかのような内容で、いわば未来のことを、さらに先の未来から振り返って過去形で書いてみたという。たとえば、10年後に「Soup Stock Tokyo」は50店で打ち止めとありますが、ちょうど10年たった今、53店舗を運営しています。また、JALさんと提携して「On the Ship」というスープブランドをつくったとも書いていますが、これも昨年実現しています。予言の書の話みたいですが、書いておくということは、自分への約束ですし、チームの中では目指すものが明確になります。とても大事なことだと思っています。

 当時のKFC社長だった大河原さんはこの企画書を読まれ、「面白い。スタディしてみるように」と、GOを出してくれました。またまた頼まれてもいない企画書が日の目を見ることになったのです。その後、1年半をかけて60種類のスープを試作していくことになるのですが、その過程で、「秋野つゆ」という架空の女性を設定し、彼女がつくるスープという想定をしました。彼女は、装飾性よりも機能性を好む。フォアグラよりもレバ焼きが好き。プールでは平泳ぎではなく豪快にクロールで泳ぐ。などなど、細かな彼女のプロフィールや属性情報を書き連ねました。その後、商品開発したり、店舗開発をしたりしていく中で、「これって、秋野つゆさんっぽくないよね」とか、擬人化させながら方向性を決めていったわけです。

 そして1999年、東京・お台場ヴィーナスフォートに「Soup Stock Tokyo」1号店をオープン。もともとファーストフードへのアンチテーゼ的な側面もありましたから、繁華街や商業施設の中ではなく、「恵比寿公園の裏手あたりでひっそりオープン」、なんてことを考えていたのです。ただし第1号店を絶対に失敗させるわけにはいきません。お店のスタンスは厳しく律しますが、どんなお客さまも差別することなくお迎えする。ターゲットは0才~100才、Soup For All(すべての人にスープを)でいくことを決めていました。だから、ヴィーナスフォートにという大人気の商業施設に出店できたことは、結果的には大正解だったと思っています。この決断をしたことで、私は経営者として成功するための第一歩を踏み出すことができたのです。「Soup Stock Tokyo」の活動をとおして、世の中の体温を少しでも上げていきたい。都会で暮らす人たちのために必要なインフラになりたい。そんな考えを持つようになりました。

<社内ベンチャーを個人が買収>
MBOの手法で、スマイルズ株を100%ゲット。この状態こそが最適なカタチであることを信じて

 1号店をオープンした翌年の2000年、三菱商事からの出向期間3年が終了しました。私は、この事業を単なる会社の新規事業のひとつではなく、自分がオーナーシップをもったひとつのベンチャー企業として発展させていきたいと思ったのです。企画書を書いて、まずは戻った情報産業グループにかけ合ったてはみたものの、「まったく畑違いのビジネス。どうエンピツをなめても無理だ」と。それから社内の各部署にプレゼンして回り、結局は畑違いの物流部門から出資を取り付けました。本部長がとてもユニークな人でして(笑)。私も13%出資をし、2000年に株式会社スマイルズを設立。当時はまだ三菱商事に社内ベンチャー制度が存在していなかったので、私は勝手に社内ベンチャー0号と呼んでいます。

 もちろん紆余曲折はいくつもありましたが、素晴らしい仲間がどんどん集まってくれたおかげで、スマイルズは成功を目指し未来へ進み続けることができています。現在、店舗数が53店舗、社員数が約130名、アルバイトさんが1000名くらい。そんなたくさんの仲間同士が共感を持って仕事をしていけるよう、数年前、企業理念とスマイルズの五感というものをつくってみました。アートでいえば、白と黒の間には無限段階の色が存在します。共感のルールを一つひとつの言葉で表すなんて、実際には無理だと思っていましたが、3カ月にわたるアンケート調査、インタビューで、自分たちの中に存在していた共感のキーワードを見つけることができました。まず、企業理念の「生活価値の拡充」。スープを売るためだけに私たちは生まれてきたわけではありません。それぞれの生活が豊かに拡がり、充たされていくことを目指すという大きな意義があります。そしてスマイルズのスタッフが大切にすべき五感は、「低投資高感度」「誠実」「作品性」「主体性」「賞賛」。この2種類の言葉のおかげで、スマイルズが向かうべきベクトルがとても明確になったと思っています。

 三菱商事から生まれ、育ててもらいましたが、10年間経営をしてみて、やはりスケール感など三菱商事とスマイルズの間にはなかなか埋めづらい違いがありました。それによって私がスマイルズに求めていた、ファミリアな文化や、ユニークさ、チャンレンジが失われつつあることを感じました。創業から10年目を迎えた昨年、「そうだ、MBO(Management Buyout、経営陣による事業買収)しよう」と思い立ってしまった。ただし、株式公開を目指していないのでベンチャーキャピタルからの支援はありません。そんな時、ある人物が「中小企業の経営者は親せきからお金を借りるものだ」とアドバイスしてくれました。「なるほど! それでいこう」と。三菱商事に勤務していると、そんなこともわからなくなるのです(笑)。昨年12月に三菱商事に提案を持ちかけ、2008年の2月にはMBOが完了。そして私は、株式 会社スマイルズの100%株主として新たなかじ取りを進めることになりました。

<未来へ~スマイルズが目指すもの>
よりファミリアに、フリーに、チャレンジングに。常に世の中の体温を少しでも上げる存在を目指す

 というわけで、私はベンチャー企業を経営していたものの、2008年の2月にMBOが完了するまで三菱商事の会社員であったということです。完全独立に際して三菱商事からは、「スマイルズを一番知っている遠山君がやるのが会社にとってハッピーだろう」と言っていただけました。もしかしたら、スマイルズをどう扱っていいかわからないから、私のこの提案を待っていたかもしれません(笑)。今後の出店につきましては、いい場所が見つかればという前提で、「Soup Stock Tokyo」を年間3、4店舗くらい出していこうと思っています。また、スープの通信販売、カップなどの物販にもさらに力を入れていく計画です。あと、最初に書いた企画書の中で実現できていないものとして、老人向けの介護食と赤ちゃん向けの離乳食があります。マーケットとしては老人食のほうが大きそうですが、社内では“食育”というキーワードがけっこう立っていましてね。離乳食か幼児食のほうを先に進めることになると思います。

 スープ周りの事業はそんなふうに、計画していいます。あと、関連会社にgiraffe(ジラフ)という会社があり、ネクタイの製作販売を行っています。実は15年前に、ネクタイをビジネスパーソン自身のパーソナルメディアにというコンセプトと、「サラリーマン一揆」というキーワードで、このアイデアを三菱商事の情報産業グループに提案してみたのですが、当然のごとく却下(笑)。3年前に、個人で有限会社を立ち上げ、今はスマイルズの関連会社として活動しています。もうひとつ、この9月から始まる新しいプロジェクトがあります。東京・丸の内にある三菱商事が入っていたビルの跡地で、「何かやってほしい」と提案をいただき、さて何をやろうかと考えました。隣にはレンガ造りの美術館ができ、庭に面した天高が4m 、15坪の素敵な店舗です。仕事には常々、意義が大事と思っています。意義があるから頑張れますから。そう考えていくうちに、「リサイクルだ!」との思いに至り、それに振り切ってしまうことにしました。

「PASS THE BATON」と名付けたリサイクルショップをオープンします。高級ブランドもいいけど、そもそもモノを所有する人自身に、すでに歴史もカルチャーもセンスもある。人々が必要としなくなった所有物を誰かに渡していくことってとても大切なのではないかと。そんな考え方です。そうはいっても単なるリサイクルショップではなくて、かっこいいショップなわけです。店舗デザインは片山正通さん。パリのユニクロの設計を任されているデザイナーさんです。店だけではインフラにならないので、Webでワールドワイドに展開します。このデザインは中村勇吾さんというカンヌで賞を取ったデザイナーさん。最初は小山薫堂さんなど知り合いの著名人にお願いして、出品していただきます。リサイクルだけどかっこいい。そんなスタイルのショップを目指していますので、ぜひご期待ください。MBOしていなければ、この「PASS THE BATON」も実現できなかったでしょうね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
行動には神さまがオマケをつけてくれる。意義を感じたことであれば、まず動き始めること

 私にとって人生のターニングポイントとなった33歳での個展開催。この時に、「行動には神様が何かオマケをつけてくれる」と思いました。なぜ個展かという脈略は希薄なものの、それをやったからといって会社員としてほめられるわけでもなし、アートで食べていこうと思ったわけでもなし。ただし、金銭的なリスクや、家族との時間を取られるリスク。絵を描いて発表するわけですから、「お前、ヘタクソだな」と言われるリスクもありました。ただし、いざやってみるといろんな方々が協力してくれたりだとか、何か人とか情報だとかがボコンと生まれてくるのですね。あの個展が今につながるなんて、当時は想像すらできませんでした。チャレンジを実行した人には、何かしらのご褒美が待っていると思うのです。

 先ほども申しましたが、やはり意義を大切にしてほしいです。それは、個人的なものでも社会的なものでもいい。単に売れるだろうとか、データではこうだったとか、それは起業の理由にしないほうがいいです。そもそも私が始めた外食事業なんて、完全にオーバーストアだと思っています。何を始めるにせよ、基本的にうまくいかない環境です。そんな状態の中で踏ん張り続けることができれば、やっとかたちみたいなものができてきます。売れそうだとか、カッコイイだけは人を説得することはできないし、続けるのは難しい。成功を本気で目指して踏ん張り続けるために、小さくてもいいので挑戦する意義を持っておくことです。

 私のことをアイデアフルな経営者だと思われているかもしれませんが、10年間でスープ、ネクタイ、リサイクルの3つを始めただけですからね。事業アイデアなんてそんなにポコポコ生まれてくるようなものじゃないんですよ。自分の中から何かをねじり出し、ひねり出すような感じでしょうか。それがタイミング良くパチンと胎に落ちていくというか。ネクタイも、ある人が着けた時の心持ちであるとか、サラリーマンがもっとカッコ良くならないのはなぜか?という思いとか。最初に売れるかどうかではなく、まずそんな気持ちがあったのです。「誰かからコレがあって良かったと思われたい」という気持ちと言ったほうがわかりやすいでしょうか。スマイルズ的に言えば、世の中の体温が少しでも上がれば、と。誰かにとって自分たちが役立てる何かを探してみる。そこから始めてみてはどうでしょう。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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