第102回 株式会社マクロミル 杉本哲哉

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第102回
株式会社マクロミル 代表取締役会長兼社長 
杉本哲哉 Tetsuya Sugimoto

1967年、神奈川県生まれ。私立聖光学院中学校・高等学校から、早稲田大学社会科学部へ進学。1992年 株式会社リクルートに入社。就職情報誌営業部、財務部、新規事業開発室などを経た後、デジタルメディア事業部門にてデータ放送の事業化検討に携わる。2000年ネットリサーチ会社、株式会社マクロミルを設立。代表取締役社長に就任。 2004年 会社設立から4年弱で東証マザーズに上場を果たす。1年後、東証一部へ市場変更し、代表取締役会長に就任。同年、国際的な起業家表彰制度「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー JAPAN 2005 日本代表」を受賞。2006年、取締役ファウンダーに就任。 2007年4月から法政大学キャリアデザイン学部にて非常勤講師(現任)、早稲田大学ビジネススクール(大学院)にて招聘講師を担当。2008年4月、経済同友会幹事に就任。2009年7月、マクロミルの代表取締役会長兼社長に復帰し、現在に至る。

ライフスタイル

好きな食べ物

カツカレーです。
なぜかと聞かれても、本当に好きだから(笑)。お酒は飲み助とまではいきませんけど、ビールと焼酎が好みですね。昔みたいに何軒もハシゴして朝までということはないですが、社員と飲みに行くことも多いです。最近は、部門単位の飲み会に呼ばれることが増えました。「ゲストとして」なんてお呼びがかかりますけど、要はお財布ですよね(笑)。

趣味

クルマです。
クルマが大好きなんですよ。少し前まで、週末の休みになるとディーラーを回って、試乗ばかりしてた。国産の小型車から、外車まで。あまりに行くから、「あ、また試乗に来た」って相手にしてもらえなくなったくらい(笑)。学生時代は明治通りの千登世橋に座って、1日中、クルマを眺めてたことも。首都高が見えるオフィスだったら、仕事が手につかないでしょうね(笑)。

好きな場所

やっぱり沖縄。
日本食がないとダメなので、海外に行く時でも日本料理店があるような、ブリュッセル、ロンドン、ニューヨークとか、都市ばかり。でも最近、昔は鼻で笑っていたリゾート地にも興味が出てきました。ああ、でも今一番好きなところは沖縄ですかね。1年間のうち1カ月くらいはいたことありますよ(笑)。東京の次に僕が長くいる場所は沖縄県でしたから。

最近感動したこと

別れの瞬間。
法政大学のゼミ学生たちが卒業の記念に、学んだことを冊子などにまとめた自作のプレゼントボックスをくれたんです。出会いってワクワクしますけど、最近は涙もろくなりました。ゼミの卒業生の追い出しコンパを明治記念館の小さな部屋でやった時も、贈る言葉を話している最中から、2時間ぐらいずっと泣いていました。

誕生から10年、ネットリサーチの業界トップ企業が、
今なお、ベンチャーとして挑戦し続ける理由

 「ミルミルミルミル、マクロミル~♪」。人気女優・歌手の原田知世さんが歌う、可愛いラジオCMソングが頭に残っている読者も多いだろう。2000年に株式会社マクロミルを立ち上げ、ネットリサーチ業界最大手企業に育て上げたのが、同社の代表取締会長兼社長を務める杉本哲哉氏である。2006年9月にいったん取締役ファウンダーとしてトップの座から離れるが、2009年7月、「再ベンチャー宣言」を掲げ、代表復帰。経営のかじ取り役として、今日も“理想の会社”づくりにまい進中だ。「7月から半年ほどしか経っていませんが、スピード感とか、既存事業の強化、新規事業への挑戦、ベンチャーマインドの呼び戻し、徐々にではありますが成果が出始めていると思っています」と語ってくれた杉本氏。今回は、そんな杉本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<杉本哲哉をつくったルーツ1>
勉強ができる、やんちゃなリーダー。思えば、小学生時代が人生最良の時だったかも?

 僕が生まれたのは、神奈川県の横浜市。3歳までは茅ケ崎市で暮らし、その後、横浜市の旭区・二俣川に引っ越して、4つ半下の弟が生まれました。父は大阪大学の工学部を出て、自動車メーカーに入社した会社員。時は日本の高度成長期、ニュータウンに一戸建てというのがひとつのパターンだったんですね。ちなみに母は大阪教育大学で音楽を学び、自宅でピアノ教室を開いていました。小学校はできたばかりの新設校で、1クラス50人、1学年6クラス、全校生徒2000人くらいのマンモス校。先生たちも張り切っていて、とても活気がありました。この頃の僕は、勉強がスーパーできて、友だちもたくさん。面白い、楽しいと思ったことは、人に勧めずにはいられない性格は今も昔も変わりません。小3から劇団を結成して、自分でつくったストーリーを台本に仕上げ、毎年の学芸会で披露する。観に来る両親も楽しみにしていて、「てっちゃん、今年は何をやるの?」「それは秘密だ」なんて。小学生時代が人生最良の時だったかもしれない(笑)。

 親の勧めもあって、中学受験をしています。小2くらいから父がいろんな参考書を買ってきて、「今日は何ページまでやること」と毎日課題を出してくれていました。いつだったか、参考書の解答ページの隠し場所を見つけたんですよ。こっそりそれを見て完成させた課題を父に提出したら、思いきり怪しまれ、「俺の目の前でもう一度やってみろ」と。何度かそんな危機を迎えましたが、あの父とのやり取りが、僕の貴重な「切り返しトーク力」と、丁々発止の「瞬発力」を鍛えてくれた(笑)。怒らせるとかなり怖い父でしたから。

 高学年になると、進学塾に通い始めます。その塾はなぜか、かつて赤線があった日ノ出町というエリアにあったのですが、プロの受検講師に教わることや同じ目標を持った仲間と過ごす時間はとても楽しかった。塾の同級生の中でも、成績は常にトップクラスだったと思います。そして僕は、神奈川県にある中高一貫男子校のひとつ、聖光学院に進学するんです。

 電車を乗り継ぎながら学校のある山手まで50分くらいかけて通い始めましたが、中1の頃の記憶はほとんど残っていません。地元の仲間たちと離れ離れになって悲しかったのと、スーパー勉強ができていた自分が、進学校の中で何となく埋没してしまった感じがして……。バスケットボール部に入部しましたが、この頃の僕は前から4番目くらいの背丈しかなくて、活躍もできない。徐々に面白くなってきたのは、自宅で8ミリカメラを見つけてから。僕は聖光学院の23期生でしたが、3期生の先輩にミュージシャンの小田和正さんがいましてね。みんなバンドをつくってオフコースのコピーをやるわけです。自分も母の影響でピアノをかじっていましたけど、「俺は別の道でいく」と。8ミリフィルムと編集機材を買ってきて、仲間と一緒に映画を撮り始めるんですよ。ただ、入試では200人中10番だった成績は、どんどん落ちて行きました。

<杉本哲哉をつくったルーツ2>
バスケと映画にのめり込む日々を経て、映画の道をイメージ。早稲田大学へ進学する

 その当時は、「家族ゲーム」「それから」などを撮った映画監督の森田芳光さんが大ブレイクしていて、僕も彼に憧れていました。自分でシナリオを書いて、フェリス女学院や横浜雙葉の女の子たちに「女優を探してるんだけど」なんて声をかけて(笑)。仲間たちとなけなしのお小遣いを出し合って完成させた映画を聖光祭(学園祭)で上映するという。高校卒業までに4本撮りました。で、森田さんがPFF(ぴあフィルムフェスティバル)出身だったので、僕たちも作品をエントリーしたり。雑誌『ぴあ』に名前が載った時は嬉しかったですね。そういえば先日、母校である聖光学院で講演したんです。講演終了後に先生が、「杉本、これ」って。高校時代に学園祭で上映した8ミリフィルムを手渡してくれて、かなり、びっくりしました(笑)。

 というわけで、中高時代はバスケと映画にのめり込み、楽しい日々を送っていたのですが、高1の秋頃、母が胃がんを患っていることが発覚。病院での母の闘病生活が始まり、男3人で家事をせざるを得なくなった。40代後半の父は仕事がピークで忙しく、主に僕と弟が、炊事に掃除、洗濯などを担当することになって、勉強なんて後回し。自分でもイヤでしたが、さらに成績は落ちていく……。ただ、神奈川県立がんセンターが地元の旭区にあったので、お見舞いに行くのは近所でした。けれど、闘病もむなしく、母は僕が高2の冬に他界してしまいました。もっと母とたくさん話をしておけば良かったと思います。

 漠然とですが、将来は映画監督になりたいと考えていました。大学進学を考える時期になり、「日大の芸術学部とかに行きたい」と父に相談したら、「何言ってんだ」と一蹴されました。好きなことをやるのはOKで、絶対に反対というわけでもないのですが、そもそも、父は私立大学が気に入らないようで。国立の東京芸術大学はハードルが高すぎましたし。結局、浪人することになりましたが、いろいろ調べてみると、早稲田大学出身の映画監督が意外と多いことがわかった。そんな理由で、早稲田大学の社会科学部に進学することになるんですよ。早稲田の街が気に入った僕は、大学の北門から歩いて5分、神田川の近くにある家賃3万8000円のアパートでひとり暮らしを始めました。

<サークルの組織改革>
サークル活動を通じて、ジャーナリスト志向に。就職活動では出版・新聞社を受けまくるが……

 そのアパートは4畳半風呂なしでしたが、かなり広いベランダがありましてね。缶ビール片手に、新宿副都心の夜景を見ながら、「ついに俺もここまできたか」と(笑)。仕送りで親のすねをかじっている立場のくせにね。サークルは100人ほどのメンバーを抱え、英字新聞「ザ・ワセダガーディアン」や、受験生向け情報紙「早稲田魂」を発行する早稲田大学英字新聞会へ入りました。社会に出たら死ぬほど働こうと決めていましたから、バイトもほとんどせず、当時流行っていたダンスパーティーや合コンも興味なし。それよりも、授業や仲間たちとのサークル活動がとても楽しくて、毎朝2時間くらい新聞を読んで、自室と大学を往復する日々を送っていました。大学3年次には、サークルの改革にも着手しています。

 サークルとはいえ、組織じゃないですか。100人もメンバーがいると、編集をやりたい人、マネジメントをやりたい人、いろんなタイプがいるわけです。中には、自分の居場所がわからなくなって、どんよりしている人も。そんなメンバーの悩みを聞いて、アドバイスをすると次の日に顔が明るくなる。やはりサークルにも人事や全体のガバナンスが必要だと考え、編集長がトップを張っていた組織に、新たに「幹事長」を置くという提起をしました。創立1936年という歴史あるサークルですから、OBたちの反対もありました。ですが、粘り強く説明、説得を続け、新たに幹事長のポストを設置し、僕が初代幹事長に就任。現在でも同じ体制で早稲田大学英字新聞会は組織運営されています。この時、あることに気づきました。小学生時代の劇団も、中学で始めた映画づくりも、僕はいつも人をまとめてモチベーションを高めながらひとつの方向へ導いていた。その役割が好きなんだと。

 サークルでの活動を通じて、僕はジャーナリスト志向になっていき、就職活動では主な出版社と新聞社を受けまくりました。そんな中で出合ったのがリクルートです。あれは当時、リクルートの人事担当だった、現・リンク・アンド・モチベーション社長の小笹芳央さんだったと記憶しているのですが、面接の後にトイレで、「ジャーナリストもいいが、君は、本当に取材する側の人になりたいのか? 反対に事業を起こして取材される側の人になるという選択肢もあるぞ」と。この言葉が効きました。そこからですね、「自分も世の中の常識を変えるような、意義ある事業をつくりたい」と思い始めたのは。そして、情報出版社という視点ではなく、次々に新規事業を立ち上げている企業という視点で、リクルートへの就職を決めました。メーカー勤務の父は、「虚業だな」と一言(笑)。そういえば、父からほめられたことは、これまでの人生において一度もありませんね。

<リクルートへ>
ネットリサーチビジネスで新しい価値を世の中に。仲間4人を口説き落とし、マクロミルを立ち上げる

 僕が入社した1992年当時、リクルートの社員数は約3,600人で、売り上げが約3600億円。経常利益は1000億円を超えていました。毎日10億円の売上をたたき出す、ものすごい会社なわけです。「この会社を支える最前線の営業組織を経験したい」と希望を出し、2009年に廃刊となってしまいましたが『ガテン』の求人広告を提案する営業部に配属してもらいました。担当エリアは東京の北区で、運送会社、タクシー会社、印刷会社などを中心に営業し、たくさんの会社とお取引していただきました。営業の仕事は楽しかったのですが、僕の目標は事業をつくる人になること。入社3年目に、「1日10億円の売り上げを管理する仕組みを学びたい」と自己申告して、財務部へ異動します。それから約2年半、徹底的に会社の予算管理、財務管理を勉強させてもらいました。

 Windows95が発売され、世の中がインターネットにつながり始めた頃、今度は新規事業開発室へ異動となりました。インターネットの脅威は、リクルートに何をもたらし、何を失わせるのか。情報紙の未来はどうなっていくのか。そんなことを考えながら、新たな事業を模索していくわけです。その後、デジタルメディア事業部が立ち上がり、なぜか僕はインターネットではなく、CSを活用したデータ放送事業に携わることに。いくつかの番組づくりを担当し、プロジェクトを運営していくための、P/L、B/Sなど、予算管理のあり方を学ぶことができました。また、仕事の中で、マーケティングのために外部のリサーチ会社をよく活用していましたが、当時のファクスや電話を使った調査は、時間がかかりますし、費用も高い。使い勝手の良いサービスはありませんでした。ここにWebやメールなど、インターネットの仕組みを用いれば、新しいかたちのリサーチ事業が生まれるかもしれない。その発想がマクロミルの起業へとつながっていきます。

 リクルート社内でこの事業を立ち上げることもできたでしょう。ですが、1999年当時、ナスダック・ジャパン(現・ヘラクレス)や東証マザーズなど、新興企業向け株式市場が誕生し、サイバーエージェントの藤田晋さんや、楽天の三木谷浩史さんが上場しようとしていました。そんな彼らに感化されたことも起業を決断した理由のひとつです。「インターネット・リサーチ会社を自分で起業するという線もあるじゃないか」。夢が持てるし、考えただけでワクワクしました。そもそも結婚や就職と同じで、「起業」だってすべての人に与えられた権利。人生は一度きり。つぶれるかもかもしれないけど、命までは取られない。もしもの時にはコンビニでバイトしてもいいし、リクナビを使って就職活動すればいいと、自虐的に考えたりして(笑)。そして、僕はリクルートの仲間4人を口説いて、2000年1月にマクロミルを設立することになるのです。

「再ベンチャー宣言」を掲げ、
誰もが憧れる“理想の会社”づくりにまい進中!

<順調な成長>
創業間もなくしてIPOを目指すことを決定。設立4年弱で、東証マザーズへの上場を果たす

 創業メンバー5人の退職金や貯蓄を資本金とし、最初のオフィスは泉岳寺のワンルームマンションでした。本格的に事業開発をスタートしたのは、私たちがリクルートを正式に退職した2000年4月から。そして、創業当初からどうすれば利益が出せるのか、徹底的にビジネスモデルを考え抜きましたね。たとえば、利益の出ないサービスはいっさいつくらない。経常利益率30%を目指す、とか。それらを大前提としたうえで、ネットリサーチに必要な工程のシステム化を追求し、すべてをネット経由で自動処理する自動インターネットシステム「AIRs(Automatic Internet Research System)」の開発を突貫工事で進めました。ただ、2000年の3月にITバブルが崩壊し、予定していた資金調達ができなくなったりもした。進めてし まっている何千万円ものシステム開発費用の支払いをどうするのか、焦りましたよ。それを救ってくれたのが、開発を請け負ってくれていたシステム会社の役員です。彼は、創業メンバーである福羽泰紀(現・副社長)のリクルート勤務時代の同期でした。彼の口利きのおかげで、出資を条件に出世払いでシステム構築を完成させてもらうことができました。

 そして2000年8月10日に、「AIRs」はカットオーバーしました。ネットリサーチサービスを開始して、翌月には第三者割当も無事完了。それ以降は、何の面白みもないくらい順調な成長を続けています。もちろん、人材面などではひととおりの苦労もありましたけど、設立以来これまでずっと増収を続けていますし、すべてエクイティでやってきました。一度も借金をしたことがない無借金経営で、ベンチャーにありがちなお金に関する苦労はほとんどなく、ここまでくることができました。

 でも、億単位の第三者割当を求めると、当然ですが、創業者である自分たちの出資比率は下がってしまいますよね。青臭く言えば、「俺たちの会社じゃ なくなってしまう」ということになりますけれど、割り切った大人の考えだと、「エグジットを見つける必要がある」ということになります。会社を売却する、儲ける仕組みを追求してたくさんの配当を出す、もしくはIPOする。いくつかの選択肢がありますが、僕たちはかなり早い段階からIPOを目指すことを決めていました。当社の監査法人はトーマツさんですが、初めて帳簿類をチェックされた時に「おお、マクロミルさんはかなりきちんとされていますね」と驚かれたくらい。小さな規模の時から購買ルールとか細かいところもしっかりやって、上場を意識した社内管理をしていたんです。そして、設立から4年弱、2004年1月28日にマクロミルは東証マザーズに上場を果たします。

<代表復帰へ>
自分の「べき論」で代表をいったん離れるが、危機感を覚え、再びかじ取り役に復帰する

 もうひとつ、上場するということは、会社を公器にするということでしょう。企業として生き残り続ける会社を目指すべきだし、ひとりの人間に会社の命運が左右されない状態に仕上げなければなりません。リクルート在籍中に、ダイエーさんが資本参加されて、当時リクルートの会長であり創業者である江副浩正さんに、ダイエー創業者の中内功さんが会いにこられる場面を拝見する機会がありました。中内さんは当時80歳を超えておられましたが、眼光鋭く、僕なんて声をかけられないほど凄みがあった。中内さんも江副さんも、素晴らしく優秀な経営者でしたが、中内さん亡き後のダイエーさんは経営が不安定になりましたし、江副さんがいなくなったリクルートも何となく軸が失われたように感じました。そのような例を見て、「会社を継続して発展・成長させていくためには、いい意味でオーナー経営者の色を薄め、代表を交代しても順調に経営していける体制をつくっていくべきではないか」と、そんなことを上場前から考えていました。

 創業期から一緒にやってきた役員の福羽とも、「順調に会社が成長して落ち着いたら代表を交代したい」と話していたんですよ。おかげさまでマクロミルは順調に成長を遂げ、東証マザーズに上場後、1年と1カ月後の2005年4月には、東証一部に行かせてもらった。その後、自分で決めた「べき論」として、2005年9月の株主総会で承認してもらい、僕は代表権を持つ会長になり、福羽にダブル代表の社長になってもらいました。で、翌年2006年9月の株主総会で、平の取締役へ。その時に会社を去らなかったのは、筆頭株主だったことと、次の経営体制がきちんと稼動するかどうか見守りたかったから。もちろんマクロミルに愛着がありますし、その後も役員会に参加して、客観的な視点で会社を見ながら、意見を述べさせてもらったりはしていました。

 それから3年が経ち、2009年7月に僕は再び、代表取締役会長兼社長に復帰しました。景気後退も原因のひとつではありますが、2009年6月期の連結決算は、前期に対してわずか3億円の増収に留まる77億円。人員も1年間で100名くらい増加しており、創業以来初の減益。「このままではマズい」という、大きな危機感を覚えました。競合の攻勢も激しくなっている。想定していたより早く、ネットリサーチ市場の成長率も鈍化し始めていました。「早く、手を打たないと」。そう焦る気持ちが大きくなっていくんです。でも、当然の話なんですけど、やはり人事権や予算権がないと、スピーディに思うような物事が決められません。だからこれは自分の我がままでしかないんですけど、「もう一度、自分に代表をやらせてほしい」とお願いして、何度も役員の間でマクロミルに必要な戦略を話し合いました。幸いにも「もう一度、おまえがやってみろよ」と承認してもらったわけですが、正直、3年前にはここまで急激に環境が変化することも、代表に戻ることも、まったく考えていませんでした。

<未来へ~マクロミルが目指すもの>
「マクロミルっていい会社」と働く人に選んでもらえる理想の会社にしていきたい

 代表に復帰してすぐにホームページ上のメッセージや、社内の全社ミーティングで伝えたことは、「再ベンチャー宣言」。まず、これを強く打ち出しました。その理由としては、ひとつは既存事業が10年間の時を経て、エポックメイキングなサービスではなくなったこと。コモディティ化してきましたし、ネットリサーチのコンペティターが増えたことで部分的に価格競争を強いられることも出てきた。既存のネットリサーチ事業の建て直しが急務だと。もうひとつは、自分たちはベンチャーだという意識を再認識して、既存事業以外の新しいことに挑戦していこうと。これまでのリサーチ領域だけでなく、「IT×マーケティング」領域で可能性がある事業を全力で検討し、既存事業プラス新規事業、両方を強化していきたいと考えたのです。

 さらに、創業時に燃えたぎっていた社内のベンチャーマインド、会社としてのカルチャー、それをもう一度呼び覚ましたい。まず、それを役員に強く説いたんですね。そうしたら、「本気でそれをやるなら、もう一度、杉本が代表に就き、先導していくのがいいんじゃないか」と同意してもらえた。7月に復帰してから、半年ほどしか経っていませんが、スピード感とか、既存事業の強化、新規事業への挑戦、ベンチャーマインドの呼び覚まし、徐々にではありますが、成果が出始めていると思っています。足掛け3年になりますが、法政大学のゼミと大学院の客員教授をさせてもらっていまして、2010年の4月まで授業があります。だから今は、二足のわらじの状態。大学にも会社にも申し訳ないなあと。もちろん、両方一所懸命やらせてもらっていますけど。

 将来的な会社規模は、年商で200億~300億円、社員数で500~1000人の間。そのくらいはリアルにイメージできますが、ソニーさんみたいに10万人とか、そこまでは想像していません。これからどうなるかはわかりませんけど。ただ、いろんな人がいろんな会社で、いろんなことを考えながら働いていて、転職したり、独立したりしますよね。そんな彼らが「最終的に行き着く場所」ではないですが、事業内容、制度、カルチャーや人材の魅力とかいろいろな面で「マクロミルっていい会社だな」と、できるだけ多くの人から、働きたい会社として、または仕事を依頼したい先として選ばれる理想の会社にしていきたいと思っています。僕の根本って結局昔からまったく変わっていないのですが、一緒に働くメンバーが毎日、笑顔で、明るくて、楽しく仕事をしている状態をつくりたい。会社としての規模は小さくても、それが一番大切なことだと思うんですよ。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業の前提は、継続して会社を成長させ続けること。勝ち残る可能性の高いマーケットで勝負しよう!

 ドリームゲート・ユーザーの中には、学生さんもいますよね。僕は、起業すること自体はとても素晴らしいことだと思っています。でも、起業する前にいくつかの組織を経験しておいたほうがいい。できれば、それはいくつかの会社組織が望ましい。素晴らしい会社を経営している学生ベンチャーも少なからずありますから、“should”“better”で、“must”ではないですけどね。僕自身も新卒で入社したリクルートから、たくさんのことを教えてもらいましたし、どんな会社にも良い部分も悪い部分も両方あるんですよ。だから、悪い部分は反面教師としてとらえ、良い部分は先人のありがたい教えとして吸収する。それがあるのとないのでは、だいぶ起業の成功確率が違ってくると思いますね。

 ただし、「起業を恐れるなかれ」とも言っておきたい。取って食われるわけではないし、失敗したら二度と立ち上がれないとかよく聞きますが、そんなことない。世の中にはあなたのことを見てくれている人がいて、一所懸命頑張っていれば、必ず正しい評価をしてくれる。しらけた見方をする若者が増えているのは心痛いですが、世の中、意外とうまくできていると思います。もちろん、始めてすぐに評価されるのは無理ですけど、「いつか必ず」と信じ、正しいと思うこと、どうしてもやりたいと思うことは、ぜひやり続けていってほしいです。人生一度きり。お互い悔いのない人生を送りましょうよ。大人になって、「ああ、本当は小説家になりたかった」なんて、缶コーヒー飲みながらぼやいていても、何も始まらないんですから。

 今の時代、サイドビジネスとか、サブ的なものも含め、インターネットを軸にビジネスを考える人って多いでしょう。でも、僕がやってきた経験でいうと、ネットビジネスはけっこうお金がかかる。本気でやるなら大規模なサーバーやインフラ設備が必要ですし、もしも通信障害が起ころうものならものすごい損失が生じます。何を伝えたいかというと、安易な気持ちで始めるとなかなかうまくいきません。人、モノ、金、そして情報を、まずは自分で集めて、イザとなったら自分で責任を取ると腹を決める状態になれるかどうか。そこまでできたなら、ぜひとも突っ込んでいくべきです。お互いに日本を元気にするために頑張りましょう! 私も頑張りますよ。大人に元気がないと、日本の未来を支える若者たちだって元気にならないんですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.10年後、30年後、日本はどんな社会になっていると思いますか?(兵庫県 会社員)

A.
現在、日本は 1.グローバル化 2.少子高齢化 3.地方衰退化 4.IT化 5.環境対応化 の波にのまれ、いくつもの大きな岐路に立たされているように思います。
戦後、「奇跡の復興」と言われた日本が重視したのは、若者に対する「教育」。これからの10年は、再度ニッポンの「教育」を見つめ直し、ある種成熟した先 進国のあり方を示すことに活路を見出すべきだと考えています。
恐らく世界の「極」は米国と中国が二分しているでしょうから、 様々な分野によって与する「極」を選択しなければならないかもしれません。
30年後…というと私自身も晩年ですが、できることならば、引続き日本が世界の中で尊敬され、意義ある存在感を持っていて欲しいですね。

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