第29回 際コーポレーション株式会社 中島 武

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第29回
際コーポレーション株式会社 代表取締役
中島 武 Takeshi Nakajima

1948年、福岡県生まれ。2歳以降は、東京にて育つ。小学3年ころまでは、内向的な性格だったが、野球を始めるとともに、だんだんと元気な子どもに変貌を遂げる。拓大一校に進学し、応援団と出合ってからは、さらに本能ともいうべき負けず嫌いの性分が開花。拓殖大学では、4年次に応援団長となる。卒業後、就職した航空会社をわずか1カ月で退職。応援団の先輩に誘われ警備会社を立ち上げるも、2年で倒産。その後、金融の勉強をするべく再建管理会社に入社。 10年間ずっと社長の次のポジションとして働く。バブルの到来に乗じて、独立。不動産事業、アンティーク家具、衣料輸入販売などを手がけ、百億円単位のビジネスを仕切る。しかしバブルの崩壊とともに、これらの事業から手を引き、1990年、際コーポレーションを設立。大好きな街、東京・福生にて、イタリアン「ウノクイント」、中国料理「韮菜万頭」を開業し、飲食ビジネスに参入。1994年に、主力業態である「紅虎餃子房」八王子店をオープン。その後も、スピードをもった業態開発、出店展開を進め、現在、約300店の飲食店、物販店を経営している。業界でのあだ名は「飲食界の虎」。飲食ビジネスを目指す若者たちを対象にした私塾「中島塾」も主催。著書に、『ハングリー―日本を明るくするバカ力』(講談社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

銀座の『壬生』での食事
飲食業やってここまでくると、どんな店に行っても裏側がわかってしまうからつまらない。正直、つらいですよ。でも、銀座にある「壬生」という料理屋は素晴 らしい。いつお伺いしても、背筋がしゃんと伸びるというか。本当にこの店に出合って食の人生観が変わりました。それからというもの、どの店に行っても「壬 生」と比べてしまうんです。ちなみに僕は、お酒は飲みません。

趣味

古きよき時代の作品を鑑賞すること 
家具や着物、車など、僕は基本的に古いものが好きですね。それらを見ることが趣味といえば趣味かな。この間も、アンティークの着物、 帯留めなどのコレクターとして有名な池田重子先生のコレクション展に行ってきました。とても素敵でした。

今ほしいもの

FACEL VEGA HK500-COUPE
30歳くらいの時、フランスにクライスラーのエンジンを搭載した1958年型の「FACEL VEGA HK500-COUPE(ファセル・ヴェガ)」という車の買い付けに行きました。そのときは結局巡り合えずあきらめました。とても粋な車で、昔からずっと ほしかったんです。もう僕のところには回ってこないだろうなと思っていたら、ある人から「いいのが1台入りました」という情報が! 今、迷っています。

行ってみたい場所

場所よりも、旅は誰と行くかが大事
どこでもいいんですよ。でも、やはり旅は誰と行くかが大事。ドバイとかみんな行きたいとか言っていますが、僕は全く。行くとしたら、やはり古い街ですか ね。チベットとかシルクロードとか、なるべく楽な生活をさせてくれない場所。もしくは仲良しの友人とアメリカの西から東までジープを借りて、アンティーク の家具とか買いながら横断する。そんなところでしょうか。

バンカラ生活の10代、波乱万丈の20代仕事人生、
バブルにわいた30代……42歳、飲食事業に参入!

 「紅虎餃子房」「万豚記」「胡同四合坊」など、開業当時は風変わりに感じていた店名だが、今や全国区の繁盛レストランの代名詞となった。これらの飲食店を 経営しているのが、従業員数3000名を超える企業、際コーポレーションを率いるボスであり、飲食界の虎、中島武氏だ。現在、同社は中国料理、日本料理、 西洋料理など、85業態の飲食店、物販店を約300店舗展開中。「成功するかどうか、確かに球を投げてみないとわからないですけど、明らかに失敗するもの は球を投げる前に十分わかるんです」。私塾「中島塾」を開校し、レストランビジネスで独立を目指す若者たちへの指導も開始している。しかし、中島氏が飲食 ビジネスに本格参入したのは、1990年、彼が42歳のときだ。失われた10年と呼ばれる、1990年代に、レイトスターターの中島氏がこの帝国を築き上 げることができた裏側には何があったのか? 今回はそんな中島氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大い に語っていただいた。

<中島 武をつくったルーツ.1>
内向的だった中島少年が、野球と出合い好奇心旺盛に

 僕が生まれたのは福岡県田川市。母の実家がこっちでしてね。2歳くらいまでは福岡にいたみたいですよ。その後はずっと東京の東村山で育ちました。今はどんどんしゃベってますが、昔は、すごく内向的でね。今でも本質はかなりの照れ屋です。特に美しい女性を前にすると目を見て話すことができない(笑)。 ちなみに小さなころ、どのくらい内向的だったかというと、自閉症とまではいかないんですが、幼稚園の先生から小学校に上がる前、「普通の学校じゃ難しい」 と言われたくらい。このとき母が「この子は絶対に大丈夫」って頑張ってくれたから、そうはなりませんでしたが。

  母は戦後に上海から引き上げてきた人で、すごくハイカラでカッコいい女性でした。これまで僕は、ほとんど父親のこと語ってこなかったでしょう。あまり好きじゃなかったんでしょうね、父のことが。父と母はよくケンカをして、母は九州の実家に帰ってしまうんですよ。それで何度か離れて暮らした時期もあったか ら、どんどん母への思いが強くなっていった。でも、世のほとんどの男がマザコンなんじゃないんですか。母親って、人間であり、女性であり、父にとっての妻であり、自分の母でもあるでしょう。男はそんなことわからないまま、実は小さなころから、母親にいろんな種類の愛情をたっぷり注がれて育つわけですから。

 小学3年くらいまでは、内向的なままでしたね。でも、このころ野球を始めたんですよ。みんなとわいわい。そこからですかね、だんだん自分が変わっ ていったのは。小学4年では、学級委員に選ばれましたし。本来の性分が目覚めたというか、好奇心旺盛になって、自分の思うままに行動するようになりまし た。中学でも野球部に入部したのですが、大きなケガをしてしまい、2カ月学校を休むことになってしまった。それがきっかけで野球をやめたんです。その後 は、姉の影響を受けて、けっこう本を読むようになりました。谷崎潤一郎とか三島由紀夫とか。インテリジェンスに憧れてというとまだカッコいいんですが、実 は本を読んでいる自分に酔っていただけだったような(笑)。

 母は僕のことをどうしても強い男にしたかったんですよ。それで、高校はバンカラな校風で有名な拓大一高へ行けと。僕としては正直行きたい学校では なかったんですが……。中学の先生までも「それは中島君がかわいそうです」って反対してたくらい。でも、結局は母の意を汲んで、ほかに受かっていた高校を 辞退して、拓大一高に進学することを決めました。当時、この進路決定が僕の転機になろうとは考えもしませんでした。

<中島 武をつくったルーツ.2>
オッス、オッスの校風に慣れた後、応援団の真似事を始めたきっかけ

 出席確認や授業中の返事もオッス、廊下で先輩とすれ違ってもオッス、もう全部オッス、オッス(笑)。そんな校風にすごい抵抗感があって、慣れるまで に2、3カ月はかかったと思います。でも、高校ではすぐに仲間ができましてね、悪いやつもまじめなやつもいろいろ。徒党を組んで、新宿とかによく遊びに行 きましたよ。応援団の真似事して、四角いバッジをつけて街を闊歩する。ただそれだけなんですが、すごく楽しかった。そんなある日、他校の連中ともめて、つ いに果し合いをすることになった。そして後日、決闘場所の小平霊園に30人くらいが集まって、相手を待っていたわけです。すると誰かが通報したんでしょ う、警察がやってきた。「こりゃまずい!」と、とっさに全員でオッス、オッスだの、フレ~、フレ~だの応援団の練習の真似事を始めて、「僕たちは応援団 で、練習をしているだけです」って何とかやりすごした(笑)。それが、1年生の僕たちだけで応援団をつくることになった発端です。

  始めは遊び半分でした。でも教頭先生が、応援団の顧問になってやるって言い出して。なんとなく本格的になってきた。少し団員も増えたある日、校門に羽織袴 に紋付で木刀を携えた人が立ってるんです。それは拓殖大学の応援団の先輩でした。高校生の私たちにとっては、恐怖ですよ。それからその先輩たちに厳しい指 導を受けるようになって、さらにすったもんだの末、みんな五厘刈りにされちゃって……。立派な応援団になっていったというわけです。

 このころ、上海帰りの母に影響されてか、自分も海外で生活してみたいという気持ちが芽生えてきましてね。一時は本気でブラジルに移住しようと考え て、政府の説明会にも参加。すると見せられる映像が、さとうきび畑とかコーヒー農園の仕事ばかりなんですよ。本当はブラジルの街の顔役になって大儲け、み たいな世界をイメージしてたんですが……。昔、実家の家庭菜園の仕事を手伝わされて、農作業が大嫌いだったから、一気に萎えちゃった。それで推薦枠で拓殖 大学に進学することにしたんです。一応、商学部の貿易科を選びましたが、気持ちは大学に進むというより、応援団に入部するって感じでした。大学での応援団 生活はますます本格的になって、「俺たちは日本一の応援団なんだ」という自負もあったから、よく他校とケンカしましたね。人間はやはり環境によって変わっていく生き物なんですよね。小さなころは泣き虫だった僕が、他者に負けてなるものかというプライドの塊になっちゃいましたから。応援団との出合いがなかっ たら、確実に僕の人生は違ったものになっていたでしょうね。

<大学4年次、拓大応援団の団長に>
卒業後の就職先は1月で自主退職。次の会社は2年で倒産……。

  大学4年では、数百人を束ねる応援団長になったんですが、それまでは、御殿女中のように目上の先輩を敬わなければならない決りに疑問をもっていまし た。酒を先輩から勧められても、すぐに飲んではいけないんですよ。「飲んでいいぞ」「オ、オッス」でいったん躊躇して、「飲めって!」「オ、オッス」で再 び躊躇して、「いいから飲めって言ってるだろ!」でやっと、「オッス」と慌てながら一気飲みする。それで「よしよし、かわいい後輩め」となる。そんなバカ バカしい風潮を変えたいと悩んでいた僕に、ある先輩がこう言いました。「確かにお前の言いたいこともわかる。でもな、今は従え。人間、なかなか人前でバカ になれない。今はわからないかもしれないが、バカになれる人間はそれだけで金貨だ。そしてお前がリーダーになっても違うと思うなら、ルールを変えればい い。ルールを変えられるのはリーダーだけなんだよ」。いや、この先輩うまいこというなあ、と思いました。でも、リーダーにしか、ルールは変えられないとい う真理は確かにそのとおりだと、納得したことを覚えています。

 サラリーマンにはなりたくなかったの ですが、心配をかけて大学も出してくれた両親に悪いと思い、一応は就職しました。航空会社に。仕事で使う書類は全部英語で、みんなタイプライター打って る。が、自分は英語なんてまったくダメ。そのうえ、周りの社員はおぼっちゃんばっかりで、きれいなスーツ着てる。「中島君、今度、ジェットスキーにいかな い?」と誘われても、ダボダボのでかいスーツ着た僕は、「はぁ?」って感じなわけです。ある日、上司に言いましたよ。「すいません、便箋ください」「何に 使うんだ?」「辞表書こうと思いまして」(笑)。で、1カ月足らずで自主退社。そのときに上司から、「二度と大企業には入れないぞ」って脅されましたが、 こっちからゴメンです。二度と大手企業には入るものかと思いました。

 その後、応援団時代の先輩に誘われて、東部総業という会社を立ち上げました。一応は警備会社でしたね。僕はお金がなかったから、先輩についていったって感じでしたけど。この人がまあいい加減な人でね。「中島、夕方までに靴をピカピカに磨いておけ。ポケットチーフも忘れるな」と言う。で、何をするか というと、銀座へ飲みに繰り出すんですよ。仕事はそこそこに、ほぼ毎日。スーツも仕立てて、外では見栄張ることばっかりして、事務所にいるときはサウナの半ズボンで過ごしてました(苦笑)。僕はまだ向上心があったから、このままでいいわけないって不安でね。結局、2年後に不渡り出して会社は倒産。まあ、当然ですよ。でも、僕はこの生活からやっと抜け出せるということに、内心ほっとしていました。

<金融会社のナンバー2に抜擢>
バブルのスタートとともに起業!バブルの崩壊とともに事業撤退……

 その後、ちゃんとした仕事をしようと思い直し、靴やスーツを新調して。大学の就職科から紹介してもらった、鉄の商社や設備メーカーなどの門をたたく んですが、ことごとく落っこちる。なぜだろう? そういえば担当者が一様に聞いてくるんです、「中島さん、失礼ですがどういったご経歴で……」と。それで 気づきました。応援団で鍛えた風貌に加えて、僕が選んだスーツが、その筋の人を演出してたんですね(笑)。結局、自分で探したある不動産会社に就職できた んですが、「絶対にここは値上がりしますよ」って不確かなことばかり言わされて売るのにだんだん嫌気が差しましてね。「やり方が汚いぞ」って会社とケンカ して、1年半くらいでここも辞めてしまった。

 ふと思い返せば、自分は世の中のことを全く知らないということに気づい た。今はもうあまり聞かないかも知れませんが、手形や小切手など、金融を学びたいと思い始めまして。債権管理をやっていた金融会社に入社することに。僕と 同じような感じの社員がいっぱいいたので、やっていけそうだと思ったからなんですが(笑)。ここでは売掛債権の買取から始め、手形、不動産、そして高級外 車の輸入販売まで、ずっと社長の次のポジションで仕事させてもらって、さまざまな生きた経営を学ぶことができました。入社当時は20人くらいだった社員が 1000人くらいまでの規模に急成長しましてね。社長からは「中島、社員の半分はお前の派閥だな」と。早稲田の空手部、日大の拳法部なんかの知り合いを次 々に入社させていましたから。そんなですから居心地も悪くなくて、結局、この会社に12年も居ついちゃったんですよ。

 1982年、時はバブルの始まりを告げていました。僕も35歳になって、そろそろ自分でビジネスをしようと思い、会社を退職。それからは、金融、 不動産、車、アンティーク家具、衣料の輸入販売など、手広く事業を展開しまして、いい年だと百億円規模の商売をしていたんです。しかし、80年代後半にさ しかかると、ご存じのとおり、バブルの崩壊が始まります。ご多分に漏れず、僕の事業もだんだん雲行きが怪しくなり、銀行も貸し出しを渋るようになり、お金を融通し合っていた仲間たちが次々に倒れていく……。本格的にまずいことになると直感し、これらの事業から一気に手を引く決断をしたのです。それからです ね、飲食事業を手がけ始めたのは。

力のある若手とのコラボレーションも念頭に、いつまでもいい飲食店をつくり続けていきたい

<際コーポレーション、産声を上げる>
大好きな街、東京・福生で始まった、路地裏の雰囲気をもつ飲食店

 バブルのころ、僕は香港や上海やパリなんかによく行ってましたが、表舞台にある店じゃなく、路地裏の店に好んで足を運んでた。そういう店が好きなん ですね、僕は。だから、聞くとバカだな~と思うんだけど、「私、海外に行ったら、観光客が行かない地元の人たちしか知らない店に行きたい」って言ってる女 性たちの気持ちもわかるんです。観光旅行に来た外人さんが、焼き鳥屋の前で本当は入りたいんだけど、ちょっと躊躇している光景ってあるじゃないですか。そ の気持ちがよくわかる。だからなんとなくだけど、店をやるなら路地裏にあるような雰囲気の店をつくろうと思ってました。

  1990年12月に、際コーポレーションを設立して、僕が昔から好きだった街、福生でイタリアンの「ウノクイント」をつくって。その後、中華の「韮菜万 頭」をつくった。福生はベースが近くにあって、とても異国情緒あふれる街で。スタンダードにプラスアルファというか、新しいけどそこはかとない怪しさも あって、そういった雰囲気が僕はすごく好きだった。最初はね、頭下げて営業行かなくても、店さえ出せば頼まなくても人は来てくれるだろう。いい環境で、美 味しい料理を出せばって。そのくらいに考えてた。でも、路地裏の店、1年くらいは全くだめだったね。月商も50万円くらいしかいかなくて。当時はマガジン ハウスの『Hanako』が絶頂のころで、リリースの仕方なんかわかんないから、「福生で面白い店やってるんで取材に来てください」とか手紙書いたけど、 来てくれないんですよ。福生、遠いしね(笑)。

 なんだかな~と思ってましたが、この路地裏の店はそのうち来るはずだという、匂いみたいなものは感じてました。たとえば、僕自身は寺山修司さんの 「天井桟敷」にそれほど興味はないけれど、あのエログロというか、つたなさみたいなものが認められたわけでしょう。それと同じように僕の店も、絶対にある タイミングで評価されるようになるだろう、そう思ってました。予想とおり、開店から1年半後に、その波がやってきましたしね。そうそう、『Hanako』も やっと取材に来てくれました(笑)。

<主力業態「紅虎餃子房」スタート!>
中国、日本、西洋料理、麺に飯。路地裏から全国へ“際”が広がる

 1994年に、東京・八王子に「紅虎餃子房」を出店します。僕が悶々として抱えていたマグマのような思いを一気に吐き出せたのがこの店ですね。そも そも、「俺は中華料理屋の親父で終わるのか? 冗談じゃない!」って思ってましたから、拡大路線は決めていました。僕は、スタイリストがモデルに似合う服 を選ぶように、「この街に、こんな雰囲気でこんな料理を出す店をつくれば売れる」というのがなんとなくわかるんですよ。そして、当たったものは誰かに真似 される前に一気に展開していくべきだと考えていました。中国人がきちんと本場の料理をつくって、路地裏っぽい独自の雰囲気の店で提供する。そのコンセプト を貫きながら、どんどん店を出して。時代も良かったんでしょう、つくる店つくる店、すべて流行りました。当時は、何でみんな同じようにしないんだろう?と 疑問に思っていたくらい(笑)。

 ちなみに、うちの中国料理の店名は「胡同四合坊」「白碗竹カイ樓」 「万豚記」「人人人」など、一般的には読みづらい漢字を使います。イタリア料理店は、イタリア語で店名を表記するでしょう。それと同じで、うちの店名は、 本物の中国料理を出す店であるというプライドの現れです。だからメニューのエビも日本表記の「海老」ではなく、中国表記の「蝦」を使う。それから、いろん な店が「支那ソバ」って使ってるけど、うちは絶対に「支那」とは言わない。そもそも「支那」というのは、日本が戦時中に中国を植民地化したときの呼び名で す。中国人と一緒に仕事をやる以上、それを使わないのは最低限のルールですよ。

 現在、全国で約300店弱の飲食店を経営していて、そのほかに、古着屋、家具屋、雑貨屋なんかもやってます。スタッフも3000人を超えていま す。飲食でいうと細かくは85業態くらいあるんだけど、僕の中では、中国料理、日本料理、イタリアンやフレンチなどの西洋料理、アジア料理、麺・飯店など 10業種くらいと考えています。それらの運営方法はほぼ同じような感じですが、全く違うのが会席料理。会席料理の店「川富味」「一心居」は、料理人も使う 器もやることも、すべて特別で、出す料理も季節物ですからメニューは一月ごとに変わるんです。これはこれで、面白いんです。

<未来へ~際コーポレーションが目指すもの>
正しい再生機能を有した企業体へ!本当にいい店をつくり続けていく

 これからの際コーポレーションは、本当にいい店づくりをすることに注力していきます。企業には上りの時期、下りの時期が必ずあります。だから会社の 機構としても、店という商品としても、下りに入ったタイミングで、きっちり再生できる機能をもった会社にしていきたい。そもそも僕はカルロス・ゴーンのよ うな経営者にはなりたくないんです。確かに彼は不採算部分を整理して、経営を上向かせましたが、売れる商品をどれだけつくったのかというと、疑問が残るで しょう。今後の日産がどうなっていくか、見ものですよね。それよりも僕は、いつも売れる商品をつくり続ける男でいたい。ちょっとカッコ良すぎ?(笑)。

  再生という部分では、旅館の再生を始めていますが、お金なんかかけずにいい商品をつくることもできるんです。たとえば山の中にある瀕死寸前の旅館があった としましょう。まずは余計なものはすべて取り去って、できるだけシンプルにして、すごい料理を1つだけ用意させる。山に入ってキノコ取ってきて、猟師と一 緒に獣や鳥を取ってきて、最高のジビエ料理を出す。それなら人を増やさなくていいから、料理に50%の原価がかけられる。それができたら、絶対に勝てます よ。お客さんも絶対に「来て良かった」って言ってくれます。要は、外側を良く見せるより、中身をしっかり充実させることが大切であるということです。

 この3月、六本木の元防衛庁跡地に東京ミッドタウンが開業します。昨今、当社はラゾーナ川崎、ららぽーと豊洲など、大型の商業施設に出店してきま したが、今回、東京ミッドタウンには出店しません。そうすると、自分たちを客観的に見れるんですよね。確かに晴れの舞台ですし、キラキラのデビューできま すが、出店費用も通常の倍くらいかかる。たとえばですが、京都の餃子店の老舗、「王将」さんは、絶対に東京ミッドタウンには出店しないでしょう。でも、年 商400億~500億円の大変な優良企業なわけです。もしかしたら王将の社長は「何でそんな大変なことやってるんだい? 東京ミッドタウン、何ぼのもん や」って言うかもしれない。自分たちらしい生き方って何なのか、ここらでしっかり考えないといけないなと。それがあって、本当にいい店づくりに注力すると いう考えにつながったんです。

 再生機能をしっかりもった会社にする。大変難しい課題ではあるけれど、これができれば素晴らしい会社になれるでしょう。この挑戦を続けていくこ と。もうひとつは、力のある若手の飲食ベンチャー経営者たちとの提携を進めていきたい。3、4軒までは大丈夫なんですが、それを40~50軒にもっていく のはなかなか難しい。単なるファンドと組むよりも、僕らのような飲食業を同じ目線でやってきた会社が、一緒になってやっていくほうが絶対にいいものがつくれますから。これも楽しみですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
あなたが本気で球を投げる前に、企画を否定してくれる人を探せ!

 まず、独立をする自分を描いてください。そして、その企画、コンテンツが正しいのかどうか、客観的にジャッジする機会をもつこと。自分で世の中にな い、面白いって思うもので成功するのは千に三つと考えておいた方がいい。もちろん飲食店も同じ。だから僕はいつも言ってるんだけど、「僕はおっかなくない から相談においで」って。まず、誰かしかるべき人に相談すること。飲食店で独立しようと考えている人は相変わらず多い。みんな外食はするし、なんとなくで きるような気になるのもわかる。でも、自分の趣味、志向など、ライフスタイルの延長でやろうと思っても、絶対に成功できない。たぶん、『東京カレンダー』 で紹介されているような店をやりたいんだろうけど、そんな店つくろうと思ったら何千万円もかかるんです。試しにデザイナーは誰にするか決めて、そのデザイ ナーに聞いてみるといい。あなたのつくった店の成功確率はどのくらいですかって。それを聞いた上で、まずあなたの考えを否定してくれないとだめです。デザ イナーでもコンサルでも、あなたの都合のいいようにものを聞いてくれる人は、まず疑わないといけない。

  これも同じような話なんですが、青森に三沢ってあるでしょう。基地の町で、10年前からアメリカ村をつくるっていう再開発を進めてる。僕が福生でいろいろ やってきたから、意見を聞きたいって声がかかってね。まあ行ってみようということになって、三沢に行ったわけです。飲食店や飲み屋も充実していて、確かに いい街なんだけど、再開発で何をやるかって、アメリカ村の真ん中にホワイトハウスをつくると。「その予算はいくら?」って聞いたら、4億円。もうラブホテ ルかパチンコ店のレベルですよ。「三沢は無駄遣いしてるってみんなにくすって笑われるから、ホワイトハウスはやめといたほうがいい」って正直に言ってあげ た。「アメリカ村も大阪のアメ村みたいだから、たとえばベースタウンって名称にすれば」とか提案もして。やってもいいけど、やり方を間違えないでほしいと いうことを伝えたかったんです。10年以上かけて進めてきたから、止めることは難しいっていう意見もあったけど、10年も間違ったことを考え続けてきたん だから、今日1日でその間違いに気づけたことが重要でしょうと。

 今、僕は毎月1回のペースで「中島塾」を開いていて、飲食店で独立を目指す人たちが毎回50人くらい集まるんです。参加費も2、3千円しか取らな いから、商売じゃない私塾なんですが。ここにも本当にトンチンカンなプランで独立しようとする人が来るんです。もちろん僕は彼を止めて、「君、3000万 円助かったんだから、少し僕に払ってくれよ」って冗談言うんですが(笑)。成功するかどうか、確かに球を投げてみないとわからないですけど、明らかに失敗 するものは球を投げる前に十分わかるんですよ。だから、自分のプランを客観的に厳しくチェックする機会をもつこと。独立する前に、絶対にこのプロセスを忘 れてはいけません。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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