第9回 株式会社ピーチ・ジョン 代表取締役社長 野口美佳

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

目次

第9回
株式会社ピーチ・ジョン
代表取締役社長 野口美佳 Mika Noguchi

1965年、宮城県生まれ。高校卒業後、上京し、グラフィックデザインを学ぶ。94年、株式会社ピーチ・ジョンを設立。現在、カタログ『PJ』は、発行部 数250万部。直営店「ピーチ・ジョン・ザ・ストア」を全国に19店舗展開。2005年、「日本の未来」という特集で、『TIME(アジア版)』の表紙を 飾る。私生活では4児の母でもある。著書に、『愛と勇気』(ワニブックス)、糸井重里氏との共著『胸から伝わるっ』(朝日出版社)、『男前経営論』(東洋 経済新報社)がある。

ライフスタイル

平均的な一日

いつもはだいたい8時頃に起床します。
2歳の三男のクッキング教室があるってことで、昨晩は、夜中の3時まで三角巾とエプロンをつくってたんです。9時頃に起きて見せたら、喜んでくれたので ホッとしました。いつもはだいたい8時頃に起床します。朝食をとって準備して、10時頃家を出て三男を保育園にあずけます。お昼くらい出社して、退社がだ いたい18時くらい。20時に三男をピックアップして、帰宅後に夕食をつくります。23時までに三男を寝かせて読書や仕事。4時頃に就寝といった感じで しょうか。

もしも一週間休みがとれたら

そりゃあ南の島に行きますね。 
そりゃあ南の島に行きますね。でも子どもが小さいので、やっぱりハワイとかでのんびりでしょうか。もしも、子どもは見ててあげるからって言われたら、イタリアか南フランスのビーチリゾートに行きたいかな。

趣味

冬はスノーボードをやるんですよ。
冬はスノーボードをやるんですよ。でも春を過ぎると行けなくなっちゃうんで、何か面白そうなスポーツがないかと考えていました。知り合いから乗馬はどうだ と勧められて、昔から馬が好きだったこともあるし、やってみようかなと思っているところです。でも調べてみると都内は会員権がいくらするとか。私は別にエ ルメスで決めて乗馬したいんではなくて、どっちかというと草原を「ハーッ!」って駆け巡るウエスタンな乗馬がしたいんですよ(笑)。千葉のほうに行くとそ んな雰囲気の倶楽部もあるそうなので、ゴールデンウィーク明けくらいにチャレンジしてみるつもりです。

女性に「元気・ハッピー・セクシー」を届けたい!そのためにピーチ・ジョンは存在し続けます

 桃のピーチにジョン。ジョンは英語圏の男性名で、日本で言えば太郎・・・。桃太郎?そんな男らしい名前を冠する、女性向け下着通販ブランド「ピーチ・ジョ ン」。今や年商170億円を超え、若い女性の4人にひとりが、カタログ誌『PJ』の読者であるという。女性ならばほぼ知らない人はいないであろう同社を率 いる男前経営者であり、4児の母でもある野口美佳氏。あだ名はミカ☆ジョン。今回は、自分の直感を信じ、通信販売ビジネスマーケットに新しい常識をつくり 続けている野口氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<野口美佳をつくったルーツ:仙台時代.1>
集団生活になじめない、ちょっと変わった女の子

 思えば、学校でみんな一緒に机に座って勉強するとか、朝礼で並んで話を聞くとか、集団行動が嫌いな子どもでした。運動会や学芸会も。学校ってほとん どの時間が集団行動じゃないですか。でも当時は、イヤだとか、私は違うとかが言えなくて、いつももがいていたように思います。親や先生に逆らうなんて考え もしませんでしたし、いろんな疑問を飲み込まなければならないストレスで拒食症にもなっちゃいましたし……。小学校4年生の時に放送委員になったのも、人 前でしゃべりたいからではなく、裏方に回れば朝礼の際に立ったまま校長先生の話を聞かなくてもいいと思ったから(笑)。普通なら、目立ちたいからとかなん でしょうけど。でも大人になって振り返って考えてみると、勉強が嫌いなわけでもなかったし、ただいろんなことに対してすごく素直な女の子だったんでしょう ねぇ、私は。

 地方にいたことも関係しているのだと思いますが、近くに目指したい偶像やロールモデル もなく、誰かがこの本を読むといいよと勧めてくれるでもなく……。そんな感じで日々もんもんと悩みながらも、集団行動をする自分はイヤなんですが、集団を 眺めてたりするのは嫌いじゃなかった。そうしてると、いつもぽつんとひとりで座っている子の存在が見えてきます。そんな子に話しかけると、ある部分にすご くこだわっていることとかがわかったり。「へ~、そうだったんだ~」って。人とは違うと感じていた自分を、ある意味認めてあげることもできました。悩んで いた集団と自分の関係性が、少しだけすっきりした経験です。

 絵を描くのは昔から大好きでした。中学の頃、美術の先生から「お前は絵で食べていけるよ」ってほめられたことがとても嬉しかったことを覚えていま す。学級新聞などの広報物をつくるのもうまかったですよ。パソコンなんてないですから、自分で手描きのデザインをして、絵の具を買ってきて色づけして。当 時は発表の場も学校内に限られてはいましたが、そういった表現活動は全く苦にならず進んでやっていました。今であればパソコンでささっとつくって、イン ターネットで世界中にプレゼンテーションできるんですけどね。

<野口美佳をつくったルーツ:仙台時代.2>
ファッション、音楽、アートが大好き。雑誌制作の世界に、自分の将来を思い描く

 高校に入ると、一気に行動範囲が広がりました。親の教育方針は、自立心が芽生えるのでアルバイト賛成。なので、ファストフードショップやコンビニエ ンスストアなど、様々な仕事をしましたね。そうすると、お金も稼げる、何でも買える、ああ自分はどこにでも行けるんだって気がして。学校よりも社会に対し て興味が出てきたんですよ。自由も感じましたし。だから学校なんて興味ないわけです。ものすごく適当に通っていましたね(笑)。

  この時期、雑誌を読みまくりました。『anan』『mcSister』とかのファッション誌から、母が買って読んでいた『クロワッサン』に『暮らしの手 帖』まで(笑)。同じ雑誌を何十回と繰り返して読むんですよ。すると、ファッションにアート、新しい音楽……、どんどん新しい好きな世界が増えていく。 やっと自分がすがれるもの、夢見れるものと出合えたと感じたんです。もちろん誌面に登場する商品を眺めることも楽しいのですが、それより雑誌をつくる側や アートの裏側に興味を持ちました。でもこの頃は、洋服をつくりたいとは思わなかったですねぇ。洋服はカテゴリーがはっきりしていますから、つくる分野がし ばられるのはイヤだなと。絵を描くことが好きなこともあったのでしょう。デザイナーとか、編集という雑誌製作にかかわる仕事をしてみたいなーって。おぼろ げながらですが、そう考えるようになりました。

 高校卒業後のことをみんなが考えるようになる時期になっても、大学進学や就職といった普通の進路にはあまり興味が持てず。当分は、美大を目指して 浪人生活。好きなものと、好きな人たちに囲まれて過ごそうと決め、卒業後も地元に残って、バイトしては遊ぶ生活を続けました。でもその年の夏が過ぎた頃、 だんだん仙台という街に物足りなさを感じるようになりまして、東京へ行こうと。そして上京してから、私の人生が少しずつ動き始めました。

<上京、そして通信販売ビジネスとの出合い>
自分ワールドがなかなか発揮できず、苦痛のなか通販カタログをつくり続ける

  上京後、やはりグラフィックデザイナーになりたくて、学校に行ったりデザイン事務所でアルバイトをしたりしていたんです。その後もいろんなアルバイ トをする中で、ある男性と知り合いになり、通信販売の会社を立ち上げたから一緒にやらないかって誘われて。これが、私が通信販売ビジネスにかかわることに なったきっかけ。21歳で社員1号として彼の会社に入社して、仕事を手伝うことになりました。その男性とは、私が2度結婚して、2度離婚した男性であり、 ピーチ・ジョン現会長の野口正二です。彼とはそれから20年くらいず~っと一緒に仕事をしています。

  最初は、男性向けの商品を企画して通販会社に卸売りする事業からスタート。少しずつお金がたまってきたころ「セシール」の躍進ぶりを見ていた会長が、うち も下着をやってみようと。で、自分は男で女性の下着のことはわかんないからお前やってくれと。当時の私は22歳、胸が小さかったのでそれまで下着を選んだ り、着けたりすることを楽しいと思った経験がありませんでした。扱う商品にあまり興味がもてなかったけど、仕事は仕事、売れそうだという予感もありまし た。それで、下着の買い付けからコピー書きにカタログ作成まで、全部自分ひとりで作業して初のランジェリーカタログを発行したのです。

 当時は男性向けの顧客リストしかありませんでしたから、自分ワールドでセレクトした女性好みの商品は売れず、売れる下着はいわゆる男性が好むポル ノティックなものばかり。で、ポルノティック下着中心の商品構成に路線変更です。「ホワイトデーに下着をプレゼントしましょう」とか企画したりして頑張っ たのですが、私にとっては理解不能な下着をセレクトし、カタログ制作をするわけですから全く楽しくない。20代って好きなものに囲まれて過ごしたいじゃな いですか。下着通販部門がスタートした1988年から1992年まで4冊のカタログをつくりましたが、この時期は本当に苦痛の毎日でした。

<ピーチ・ジョンの誕生>
商品買い付けに訪れたアメリカで、人生を変える1枚のブラジャーと出合う

  会長も私も、男性向けに女性下着を売る事業は違うなと感じ始めます。しかし、ほかの事業が好調で会社に余裕があったことが幸いし、私は会長からもう 一度チャンスをもらいました。しかも、女性向けの雑誌に広告を出せることになったんです。また当時は、円高やディスカウント航空チケットの登場もあって海 外へ行きやすくなりましたし、海外とのやりとりもTELEXからFAXに切り替わり簡単になった。誰でも商社みたいな活動ができるようになったんですね。 そんな後押しもあって、アメリカに買い付けに出かけた私は、下着だけではなく水着も大量に取り寄せ、「自分がほしい」と思う商品ばかりをセレクトしたカタ ログをつくります。結果、この5冊目のカタログが予想以上にヒット。通販業界に飛び込んでから6年目、私は初めて通販ビジネスに面白さを感じ、本気でこの 仕事に取り組んでみようと思うようになったのです。

 翌年、同じようにアメリカに買い付けに行ったロ サンゼルスのショッピングモールで、私はその後の人生を変える1枚のブラジャーと出合います。それがピーチ・ジョンの最初の大ヒットとなった「ボムバスト ブラ」です。ふと手にしたそのブラジャーは、胸に当たる下のほうにだけ分厚いパットが入っています。カップ全体にパットが入っていて、胸を大きく見せるブ ラジャーはこれまでもありましたが、そのブラジャーのパットは下半分だけ。つまり、下から持ち上げることで自分の胸を生かしながら、胸を大きく見せること ができるというもの。試着してみたら、初めて自分の胸に誇りが持てた気がして感動しました。私がこんなに嬉しいのだから、きっと私と同じように喜んでくれ る女性が日本にたくさんいるはずと直感。そしてすぐにメーカーを調べ社長に直談判し、手持ち資金のほぼ全額を投じてそのブラジャーを買い付けました。

 そして「ボムバストブラ」を掲載した6冊目となるカタログの請求数は、雑誌での広告効果もあり、なんと1万通以上。それまで数百通の請求だったも のが一気に数十倍となったのです。この成功を受けて、1994年、株式会社ピーチ・ジョンを設立し、私が社長に就任します。女性に「元気・ハッピー・セク シー」を届けるというモットーを旗頭に、ピーチ・ジョンの快進撃が始まりました。

いつも自分の直感を大切に生きてきた。まずやってみることで自分の常識は変わります!

<ピーチ・ジョン、第二のブレイクスルーポイント>
会長の反対を押し切って直営店を出店。さらなる飛躍を決定付ける成功を手にする

  ピーチ・ジョンを設立し、カタログ名を『PJ』に統一した1994年当時、当社は文京区千駄木といういわゆる下町に本社を構えていました。通信販売 の広告には本社所在地を明記するのですが、それを見たお客さんが本社に商品購入にくるわけです。最初は1日2~3人程度だったのが、簡単な展示コーナーを つくると20~30人になり、1日20万円ほどを売り上げるように。また、雑誌社などに商品を貸し出すことが増え、編集者の人たちが来社するのですが、簡 素な事務所なのでかっこがつきません。そこで、直営店をつくりたいと会長に直訴しました。そもそも通販ビジネスは、バックヤードにかける経費をいかに削減 するかが成功のポイント。通販ビジネスのプロである会長にしてみれば、何を考えてるんだって話なわけです。でも会長の反対を押し切って、『ピーチ・ジョ ン・ザ・ストア』の出店を決めました。それも内装に4000万円以上もかけて。

 結果、私の目論見は当たりま した。編集者やスタイリストからの問い合わせがこれまで以上に入るようになり、テレビや雑誌からの取材が増加します。これにより、大きな宣伝効果とブラン ド認知力がそなわったのです。そして、若い女性たちが駅からまっしぐらに『ピーチ・ジョン・ザ・ストア』をめがけて押し寄せました。土日休みで 11:00~19:00が営業時間という殿様商売にもかかわらず、月商は1000万円超! 数カ月で出店にかけた投資分を回収することもできました。

 その後、多くのディベロッパーから声がかかるようになり、95年、2号店目を渋谷の109に出店します。当時の109は今のような若い女性が集ま る場所ではなかったんですよ。地下にちょっとそれらしいショップがあるくらいで、地上階は着物や宝飾品などのショップばかり。いわば奥様のための109 だったんです。うちは3階に出店したんですが、それからエスカレーターで若い女性がどんどん地上階を目指してくるようになりました。私が言うのもなんです が、109に若い女性が集まるようになったのはピーチ・ジョン出店以降。でもさすがは東急さんです。翌年から一気にテナント編集を変えて、若い女性向けの ショップを入れ始めましたから(笑)。

<成長を遂げてきた裏側にあったもの>
マーケティングミス、生産地変更によるトラブル・・・ 試行錯誤を繰り返しながらの体制づくり

 現在、カタログ『PJ』の発行部数が250万部、直営店『ピーチ・ジョン・ザ・ストア』は全国に19店舗を展開中、売上高は170億円を超えるまでになりました。もちろんずっと順風満帆だったわけではありません。

  スタートから4年目くらいまで、大量注文に商品在庫が全く追いつかなくなった時期があります。ある商品を3000本くらい仕入れたんですが、なんと予想外 のヒットで6万本ものオーダーが入ってしまったのです。当時の仕入先はアメリカでしたが、追加の注文をしても納品は半年後になると。お客様からは「ないも のを売るな」などクレームが来ますし、商品がキャンセルされることもありますから、会社としての信頼を失ってしまいます。それでも広告を出して販売をして いかないと、足りない在庫を仕入れる資金もないわけです。これには本当に参りました。現在では香港を拠点に、中国でトータル100カ所以上の工場と提携。 在庫不足に陥らないよう、マーケティングには細心の注意をはらっています。

 その中国とのやりとりも大変でした。アメリカや南米から生産をシフトし始めた1998年頃の中国は、下着の素材となるゴムひもを揃えることすら難 しい状況なわけです。今でこそ何でも揃いますが、当時は素材をこちらから送ってつくってもらっていたくらい。また下着の製作は裁断機やミシンを使うくらい で、90%が人の手による手づくりなんです。例えば1㎜の違いで着心地が台無しになる。クオリティをコントロールするためのマネジメントに3年間くらいは 四苦八苦してました。あとは検品の問題です。最初は国内でやっていたのですが、ロス率が高い。商品を国内に入れただけで関税もかかりますので、今では中国 サイドで検品できる体制をつくりました。

 などなど、ピーチ・ジョンはそうやって自分たちで試行錯誤を繰り返しながら、成長してきた会社なんです。

<これからのピーチ・ジョンが目指すもの>
今後3年間は徹底的に物づくりに注力。メーカーとしての底力をつけてから勝負!

  韓国や東南アジア、アメリカなどの財閥系ディベロッパーや商社から、出店のお誘いがたくさん届くようになりました。でもまだ日本市場での生産に余裕 があるとはいえないですから、まずは物づくり、メーカーとしての底力をつけることに専念しようと思っています。IT経営者の友人が多いのですが、彼らは ポータルを拡大していくことは得意ですが、コンテンツが足りないとよく嘆いています。同じように、ピーチ・ジョンも大衆に向けたビジネスを行っている会社 です。まずは、その部分を忘れることなく、しっかりと物をつくって売れる会社としてのポジションを確立し、その後、300万人の顧客に向けたコンテンツビ ジネスや、海外への進出を考えようかなと。たぶん、2、3年後とかでしょうね。

 IPOについてもよ く聞かれます。正直、お金はあるんですよ~(笑)。だからIPOできるような体制を整えることが先決ですかね。「それかわいいね」「売れるんじゃない」み たいな感じでこれまでやってきましたので、財務とか男性が得意なポジションの採用をしたいんです。いろいろな男性に会うんですが、女の子ばかりの社内をみ るとひるんじゃうのか、なかなか入ってくれないんです(苦笑)。まあ、これもタイミングがきたらって感じですね。

 あとはそのうち、おばあちゃんのための店を、巣鴨あたりに出店したいんです。かわいいおばあちゃんが増えると世の中癒されるじゃないですか。オバチャンはだめですけど(笑)。少子化で若い人は減っていきますから、ちょっと上の年齢も狙っていこうかなと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
やりたい分野が生まれたら、まずはモノマネ上手になること

 やりたいビジネスがあるなら、まずはその分野のモノマネを徹底的にやってみること。なんでもそこから始めるべきだと思います。そうやってモノマネが うまくなってから、自分なりの強みを発揮して既存のものを抜いていけばいい。モノマネができなければ、それよりもいいビジネスなんて生まれません。まずは そのことを言いたいです。  私もこれまで、いろんなモノマネをしてきました。それはビジネスに限った ことではなく、ある人の態度や、話し方や、服装や、たたずまいなど。何でも興味を持ったことはモノマネしてみるんです。あと、1日1冊本を読んでる人の話 を聞いたら、自分もそうやってみるとかね。最初は「それってパクリじゃん」なんて言われてもOK。3年くらい同じことを一所懸命にやったら絶対に追い越せますから。頑張ってくださいね。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:松村秀雄

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