第7回 財団法人日本サッカー協会 キャプテン 川淵三郎

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第7回 財団法人日本サッカー協会
キャプテン 川淵三郎 Saburo Kawabuchi

1936年、大阪府生まれ。中学では野球部に所属。三国丘高校時代からサッカーで活躍し、61年、早稲田大学商学部入学。大学在学中に日本代表入りを果た す。同大卒業後、古河電工に入社。日本代表として、ローマ・オリンピック予選、ワールドカップ・チリ大会予選、東京オリンピックなどに出場。ベスト8と なった東京オリンピックでは、強豪アルゼンチン戦で逆転勝利を呼び込む同点ゴールを決めた。72年まで現役としてプレー。引退後は、古河電工監督、日本代 表監督などを歴任する。88年、古河産業取締役就任。91年、会社を退職し、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の初代チェアマンに。94年からは、日本 サッカー協会副会長も務め、2002年、日本サッカー協会キャプテンに就任した。

ライフスタイル

休日

ほとんどないですね。1月に1日くらいかな
ほとんどないですね。1月に1日くらいかな。それでもだいたいゴルフとかで埋まってしまいます。一番リラックスできるのは、1日中家の中にいてパジャマで 過ごすこと。テレビをみてポケっとしたり、本を読んだり。もしも1週間休みが取れたら、温泉でも行こうかな。それほど温泉に行ったことないんだけど、北海 道とかいいかもしれないね。

平均的な一日

Jリーグ開幕の頃は、取材が1日最高で10件 
朝はゆっくりですね。だいたい7時半に起きます。しっかり朝食を摂って、9時半に協会へ。Jリーグ開幕の頃は、取材が1日最高で10件。すべて受けて立っ てたからね。でも、当時はストレスからくる顔面神経痛になったくらいハードだった。今はだいたい取材は1日2、3件くらいにしてもらってますね。という か、お断りすることが多いかな。昼食はだいたい下の食堂で取る蕎麦と握り飯。夕食は会食が多いんだけど、二次会は絶対に行きません。

好きな食べ物

よく知っている店では『うまいけど、残しますよ』って
蕎麦と握り飯。協会の近くにある蕎麦屋の鰊蕎麦が好きですね。肉なら、ステーキとしゃぶしゃぶかな。でも、最近は運動不足だから、栄養価の高いものはなる べく摂らないようにしてますね。外国のお客さんとの会食は、天ぷらや中華料理が多いんだけど、よく知っている店では「うまいけど、残しますよ」って最初に 断ってるんですよ。

趣味

オペラ、囲碁、ゴルフに読書
オペラ、囲碁、ゴルフに読書。最近、読んだ本で印象深かったのは、藤原正彦さんの『国家の品格』(新潮新書)と森昭雄さんの『ゲーム脳の恐怖』(日本放送 出版協会)。『ゲーム脳の恐怖』は、子どもの頃にゲームをしすぎると、脳の前頭前野(ぜんとうぜんや)という部分がおかしくなるという、簡単に言えばそう いう内容。子どもを持つ、父母の方々にはぜひ読んでおいてほしい一冊ですね。

“DEREAM”――最初に必ず夢がある。夢は大きく、そして志は高く!

 1993年、日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグは幕を切った。今日、サッカーというスポーツがここまで多くの日本国民から支持されるようになったの は、川淵三郎氏の尽力のおかげといえるだろう。氏のサッカー発展への情熱をかきたてるものは何なのか? そこにはサッカーという概念を超えた、未来の日本 の窮状を救うための、ぶれない理念が常に存在している。日本サッカーリーグのチェアマンから、日本サッカー協会のチェアマンへ。そして、「百年構想」、 「キャプテンズ・ミッション」、「2005年宣言」……、常にその志と理念を進化させながら発信し、実現に向けて奔走を続ける川淵キャプテン。今回は、そ んな川淵三郎氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<川淵三郎をつくったルーツ:少年時代>
小学校では演劇、中学は野球に打ち込む。サッカーを始めたのは高校になってから

 小学校では、児童文化研究で大きな功績を残された吉岡たすく先生が4年生の時に赴任してこられて、演劇にはまってたんです。先生のそばにいると本当 に楽しくて、演劇部にも入ってね。先生と一緒に、NHKの放送劇に出たこともある。その頃は、オーケストラの生演奏もよく見ていたから、指揮者になりたい と考えたりもしましたね。

 そんな文化的な活動をしながらも、僕が住んでいたのは海がすぐそばにある高師浜というところだったので、自然の 中で思い切り遊んでました。海で泳いだり、いろんなスポーツもやった。運動神経はよかったと思いますね。中学に入ってからも演劇を続けていたんだけど、野 球部を強くするということで、運動神経のいい僕にも声がかかった。それで野球部に入って、当時の野球部は、大阪で優勝を狙えるくらい強いチームになりまし たよ。

 サッカーをすることになったきっかけは、四国に行きたかったから。何かというと、進学した三国丘高校のサッカー部が大阪大会で優勝 して、香川県の高松で行われる西日本大会に出場することになった。それでまた僕に白羽の矢が当たり、誘われた。船に乗って四国に行くなんて、その頃はすご いことなんですよ。そりゃ、行きたいと(笑)。それでサッカー部に入部したわけ。だから、本格的にサッカーを始めたのは15歳の夏からです。それから今に 至るまで、ずっとサッカーに関わることになったと。何がきっかけで人生変わって行くかわからないね。

 僕は、今も三日坊主を奨励しているん です。普通、飽きっぽい、長続きしないって、悪い意味で使われるんだけど、いい方に考えると好奇心が旺盛で、何かに取り組み始めたということでしょ。その 取り組む姿勢こそが大事なのであって、何でもやってみないと自分に適しているかどうかなんてわからない。好き嫌いもわかるし、ほかとの比較もできる。昔は つまんないと思ってたことでも、今ならうまくできると思えるかもしれないしね。

 だから、何事も経験してみることが一番大事。やってみて続 かないことがあっても悲観なんてしなくていい。たとえば何十回も転職を繰り返して、大成している一流の作家もいるでしょう。僕だっていろいろなことに首を つっこんだからこそ、サッカーと出合えたと思ってるしね。動機はちょっと不純だったかもしれないけど(笑)。

<川淵三郎をつくったルーツ:サッカー現役選手時代>
サッカーの恩師から教わった人生哲学。遠征先のドイツで目にした光景がJの理念に

 僕には人生哲学を教えてもらった恩師が二人いる。一人はさっき話をした、吉岡たすく先生。もう一人が、日本初の外国人コーチとなった、デッドマール・クラマー。彼との出会いも大きかったね。

  日本代表として、東京オリンピックに出場した時、僕たちは予選でアルゼンチンと戦い、奇跡の大逆転勝利を収めます。試合後、ロッカーで大いに盛り上がって いる僕らにクラマーは、「今、もっとも友達にそばにいてほしいのは、アルゼンチンチームの選手たちだ。僕は彼らのところに行ってくる。君たちは君たちで喜びを 分かち合えばいい」と言い残し、本当に行ってしまった。その時は「かっこいいこと言っちゃって」って思ったくらいだった。

 でもその後、決 勝トーナメントの1回戦でチェコと戦った僕らは、4-0で完敗。敗戦後の沈んだ雰囲気のロッカーで、クラマーは僕らにこんな言葉をかけてくれた。「君たち は本当に努力をしたし、そのことは僕が一番よく知っている。人生はサッカーがすべてではないんだ。今日はサッカーのことは忘れよう。でも、こんな時に君た ちのところに来てくれるのが、本当の友達なんだよ」と……。クラマーからはサッカーはもちろんだけど、この時の経験も含め、人生哲学を本当にたくさん教え てもらった。感謝しています。

 あと、クラマーは国際試合の経験を数多く積むことを奨励し、僕ら日本代表チームをヨーロッパ武者修行の旅に 連れて行ってくれた。そこで目にしたドイツのスポーツ施設に僕は心から感動しましたね。8面もあるグラウンドにはそれは美しい緑の芝生が敷かれ、プロ選手 が練習している隣で子どもたちが練習しているんです。グラウンド横には、体育館やプールなども付設されていて、地域の老若男女がスポーツに親しんでいる。 日本の子どもたちは不幸だな、こんな環境でスポーツができたらどんなにいいだろうと思った。この時見たヨーロッパの光景と感動が、将来Jリーグを立ち上げ る際の理念の柱となっているんです。

<川淵三郎をつくったルーツ:現役から指導者へ>
引退間際に本当に面白いサッカーを知り、後続に教えたいという志が生まれた

  23年間、現役としてプレーしてきましたが、昔は、フォワードなど攻撃側のポジションは、守備なんてしなかった。クラマーがやってきてから、それが がらりと変わったんです。フォワードであっても守備をせいと言う。最初は無理矢理やらされている感じで嫌だった。でも、フォワードが後ろでボールを取っ て、それをまた攻撃につなげていく。これがだんだん、快感に変わっていくんです。

 そしてやっと 引退間際になって、守備をしながら攻撃するサッカーのスタイルがとても楽しくなった。こんな楽しみ方もあるんだなってね。この頃、指導者になって若い選手 たちにサッカーがもっと楽しくなることを早く教えてあげたい、そんな志が生まれたんです。そして現役を引退して、古河電工の社員として仕事を続けながら、 同社のサッカー部監督、ロサンゼルスオリンピックの強化部長、日本代表監督として指導者時代が始まります。

  どんな仕事も同じだと思うんだけど、始めたばかりは知らないことばかり。やり始めたら勉強する機会が生まれるから、何でも試しにやってみること。その中で いろんな知識をどんどん吸収していくと、自分なりの意見ができてくる。それが見識となる。見識を実現に移すのが胆識(たんしき=自分が信じた道を何事にも 動じずやり遂げる実行力のこと)。そうやってさまざまな物事を自分の中で高めていくことが、いろんな可能性につながっていくんです。リーダーシップも、そう やって苦労しながら育まれるのだと思っています。

<川淵三郎をつくったルーツ:指導者時代>
嫌な仕事から逃げてはいけない。経験すればどんどん強くなる

  僕は、リーダーは絶対逃げちゃいけないと思っている。今でも子どもの頃の僕を知る友人は「気の弱いブッちゃんが、よくチェアマンになったもんだ」っ て言いますね。昔はすごく人のこと気にしてた。相手はどう思ってる? とか、相手のしたいことを感じ取ることがうまかったように思うんです。ガキ大将でも あったけどね(笑)。でも、もともと持って生まれた性格だからどうにもならないんじゃなくて、性格って経験によって広がっていくものなんですよ。僕もいろ んな経験をすることで、人間が変わっていった。監督ってのは、非情さと愛情の幅が広くないと絶対にやっていけないですからね。

  こんな経験があります。1976年から2年半、代表監督を務めた二宮寛氏に退任を勧告する役目を僕が任された。いきがっていたこともあって引き受けました が、二宮監督に「辞めたほうがいい」と伝えてから2週間、胃が痛くて痛くてしかたなかった。神経性胃炎になったんですね。こんなの初めてのこと。言うん じゃなかったって後悔もした。でも、これも経験。引導を渡される側も、渡す側も同じくらい大変でつらい。でもリーダーとしてとても大切な仕事だってことが この時、自分はわかったんです。それから、嫌なことでも伝えなきゃならないことは、必ず本人を前にして言うことを心がけています。

  オフトの時もそう。僕が話をしたんだけど、実はオフトは次のスケジュールのための契約更改を考えて会いにきてた。で、僕が「あなたとはもう契約しない」と 告げた瞬間に、オフトは、「いや、僕もそう思ってた。辞めさせてもらいたい」と。彼は現役時代に選手として、引退後はオランダリーグの強豪・ユトレヒトの GMとして、常に真剣勝負で切った張ったの経験をしてきた男。そうやってきたからこそ、こんな切り替えしができたんだと思う。見事だった、引き際の美しさ だね。今思い出しても感動する出来事です。

地域社会と未来を担う子どもたちのために、スポーツを通じて健全な世の中をつくる!

<会社を退職し、Jリーグ立ち上げに尽力>
単なるサッカーのプロ化ではなく、その先にある大きなコンセプトを目指して。

 1984年のロサンゼルスオリンピックで強化部長を努めましたが、予選敗退の責任を取って辞任したことを期に、サッカー界とはいったん距離を置き、 古河電工の社業に専念することにしました。でも、名古屋支社の営業部長だった時、古河産業という関連会社の役員として出向を命じられます。これがショック だった。関連会社とはいえ、1500億円の年商を誇る立派な会社だったんだけど、サラリーマンとしての限界が見えてしまった。いずれは本社の経営陣にと本 気で思ってたからね。それで今後の人生を考えると、やっぱりサッカーしかないと。すると、日本サッカーリーグ(JSL)の総務主事というポストに空きがあ るという。それに手を挙げたんです。これが1989年のこと。

 それから、現役時代にドイツで接したスポーツ文化への感動を思い浮 かべながら、Jリーグの立ち上げにまい進することになります。JSLや日本サッカー協会の、反対をクリアしながらね。僕は、ただ単にサッカーのプロ化を推 し進めるのではなく、せっかくチャレンジするんだから自分の気持ちをしっかり出していこう、社会のためになる大きなコンセプトをもってトライしようと思っ ていました。どういうことかというと、プロサッカークラブがしっかりと収益を挙げ、その収益をもとに地域のスポーツ振興を図る。そして、企業はそのクラブ を支援しながら、自らも地域貢献活動に参画する。つまり、クラブ、地域、企業が三位一体となって、心身ともに健全な子どもたちを育てていくということ。日 本のプロ野球のような、企業オリエンテッドの仕組みにはしたくなかったんですね。だから、今でもJリーグのチーム名には企業の名前は入っていないでしょ う。

 

<1993年、ついにJリーグ開幕>「3つの理念」と「百年構想」。ぶらすことなく持ち続けている思い

 1991年、社団法人日本プロサッカーリーグが設立され、初代チェアマンに就任することになります。Jリーグの理念としては、①サッカーの技術向上 と普及促進 ②豊かなスポーツ文化の振興と国民の心身の健全な発展への寄与 ③国際交流親善。この3つを掲げました。そして、1993年にJリーグ開幕。 Jリーグは初年度から予想を超える好スタートを切りましたが、翌年以降、徐々に観客動員数が下降していくことになります。それに比例して、チーム経営も厳 しくなっていった。調子がいいと誰しも足元が見えなくなるもの。だから僕は、選手の年俸が高すぎる、もっと先のことを考えろと警鐘を鳴らしてたんです。で も当時は誰も聞く耳を持たなかった。

 開幕当時はまさに「蝶よ花よ」。知らない人まで僕の友達だとやってきました。でも、昔クラ マーに教えてもらった人生哲学を覚えていましたからね。いつか人気が下降して、罵詈雑言を浴びる日がくるという予感はしていた。そういう意味では、気持ち に余裕がありましたね。観客動員数の低下、ドーハの悲劇などなど、すぐにその予感が当たることになったしね。でもその後は、マリノスとフリューゲルスの合 併で選手年俸の見直しが始まり、各チームが経営の健全化を目指すようになった。1998年にはフランスワールドカップに日本代表が出場することになり、 サッカーの人気が再び復活していった。浮き沈みがある中でも、僕は一貫してJリーグの3つの理念、そして「百年構想」と名付けたその先にあるスポーツを通 した幸せな国づくりの考え方を絶対にぶらしませんでした。常に、今ではなく、未来のあるべき姿を見ていたんです。思いをかたちにするためには、理念がない と前に進まないし、誰もついてきてくれない。そして、何が何でも継続させるという固い意志が大切なんですよ。

<Jリーグのチェアマンから、協会のキャプテンへ>
これまで以上に誰もがスポーツに親しめる地域社会という土壌を肥やしていくために

  そして2002年、Jリーグのチェアマンを辞して、日本サッカー協会のキャプテンに就任。キッズプログラム、女子サッカーや地域の活性化など、10項目の重点施策からなる「キャプテンズ・ミッション」 を掲げました。これまで以上に、誰もが地域社会でスポーツが親しめる土壌を発展させていくためです。Jリーグや日本代表が活躍してくれたおかげで、協会に は約7年間の間に40億円ほどの資金がプールできていました。そしてこれからの10年間は、貯めるのではなく、未来に向かって投資していかなくてはいけな い。毎年6億円の余剰金があると想定し、そのうち5億円を投資することに決めたのです。この原資をもとに、「キャプテンズ・ミッション」は構成されていま す。言葉だけの空手形ではないということです。

 施策の進め方は、まずはトップダウン。たとえば、47都道府県にあるサッカー協会 には、地方組織の会計を明朗化するために、法人化と情報公開をお願いしました。そうするなら、年に100万円の補助をする。もしもやらないなら、代表試合 も天皇杯の試合もしないと宣言。結果、3年間でほとんどの都道府県が法人化してくれました。キッズプログラムも同じ。やりたいなら、1500万円の補助を 出しますと。そうやって、まずはやりたい人に手を挙げさせて、その結果をきちんと広報していくんです。そうすると刺激になるのか、どんどんほかの地域も手 を挙げてくるようになるし、協会がこれまで思いつかなかったような新しい取り組みが地域でなされていることも発見できるようになる。そうやってトップダウ ンで始まった「キャプテンズ・ミッション」は、今では徐々にボトムアップされてくるようになりました。やっと私たちの理念が浸透してきたんだと思っていま す。

 そうやって、協会の理念と地域コミュニティのベクトルが同じ方向に向いてきたことに価値があるんですよ。「キャプテンズ・ ミッション」それぞれの活動の趣旨、目標、活動内容や進捗状況、総括は、ホームページですべて広報するようにしています。地域に透明性を求めるならば、そ れ以上に協会がオープンでないとおかしいですから。まあ、誰にも文句を言わせないための仕組みとも言えますね(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>起業の利益は未来をつくるために使うもの。それには、絶対に成し遂げたい理念が必要

 最近の起業家を見ていると、いったい何のために事業をやっているのか、理解に苦しむことが多い。お金を儲けて、自家用ジェットに乗って、世界旅行に 行って、その先にいったい何があるというのか? Jリーグは、「豊かなスポーツ文化の振興と国民の心身の健全な発展への寄与」という理念があります。その ために、指導者や選手、各協会のスタッフは働いています。繰り返しになりますが、理念なくして物事は前に進みません。すべては理念につながっているので す。

 企業は基本的に営利目的なわけですから、利益を挙げるのは当然です。じゃあ、その利益を社会のためにどう使うのか。これが重 要。少なくとも企業に大きな利益が残ったのは、スタッフや、取引先、お客さんなどなど、多くの人が携わってくれた結果でしょう。だったら、その利益を使っ て今度はできるだけ多くの人に恩返しすること。そうやっていくことに、自分が生きている甲斐を見つけないといけない。それが見つけられないような事業活動 なら、はっきりいってやらないほうがいい。

 結局、動物と人間に共通しているのは、食べるものをしっかり食べて子孫を残すために生 きているということ。しかし、新しい文化をつくって世のため人のために広く共有させていくことは人間にしかできない。だから、そんな生き方をしっかり見つ けてほしい。そのためには、ありとあらゆる機会を通じて人の話をよく聞くこと。少ない行動範囲の情報量を満たすために、本をたくさん読むことを進めたいで すね。

 僕がすごく心配しているのは、やはりこの国の将来を担う子どもたちのこと。地域コミュニティで気軽にスポーツできる環境が なくなっている弊害が、子どもの発育不全という問題になってきています。そのために、やはり芝生のグラウンドを全国につくりたい。などと考えていると、礼 儀や道徳の問題、ゲームをしすぎる子どもの脳障害の問題と、どんどん解決、改善していきたい課題が押し寄せてくるのです。だから、僕はやるべきことがいっ ぱいで、まだまだ死ねないね(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:松村秀雄

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