第66回 株式会社ビームス 設楽 洋

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第66回
株式会社ビームス 代表取締役社長
設楽 洋 Yo Shitara

1951年、東京都生まれ。小学校から高校まで、東京教育大学(現・筑波大学)の付属校に通学し、1971年、慶應義塾大学経済学部に進学。広告研究会に 所属し、遊び一色の学生生活を送る。1975年、株式会社電通に就職。SP(セールスプロモーション)局にてプロモーションディレクター、イベントプロ デューサーとして活躍。広告電通SP賞、イベントプロデュース賞受賞。1976年、同社勤務の傍ら、父親が創業したダンボール会社の新光株式会社の新規事 業として、ビームスの創業にかかわる。1982年、株式会社ビームス設立。1983年、電通を退職し、株式会社ビームスおよび新光株式会社専務取締役就 任。1988年、株式会社ビームス、新光株式会社、株式会社ビームス クリエイティブ代表取締役社長就任。1997年、ニューヨークADC賞金賞受賞。2004年、デザイン・エクセレント・カンパニー賞受賞。

ライフスタイル

好きな食べ物

和食とイタリアン。
和食とイタリアン、ですかね。素材としては肉類が好きです。行きつけの店は、西麻布にある『肉匠なか田』。季節ごとに違う牛肉を食べさせてくれる店です。いわゆる「B級グルメ」も大好きですよ。オムライスとか、カレーとか、スパゲティナポリタンとか(笑)。

趣味

気功と瞑想。
20年ほど、心身の健康とリラックスのために気功と瞑想を続けています。そのほかは、典型的なミーハーのように、広く浅く。スポーツは何でもやってきましたし、音楽も一通りはこなしてきました。しかし、どれも極めてはいません。それがコンプレックスでもある(笑)。

行ってみたい場所

南の島。
仕事柄、世界中を回って再認識していますが、一番好きなのは南の島ですね。まだ行ったことのないセイシェルとかに行ってみたい。普段は変化の速い業界に身を置いているので、スローな空気や時間の中で過ごしてみたいんです。違う何かが見えてくるかもしれない、って。

休日の過し方

海に行きます。
出かける時は、ドライブがてら海に行きます。何もせず、日向ぼっこ。家にいる時は、お香をたいて、音楽やミュージックビデオを見てゆっくり過ごしますね。いずれの場合も、スローな時間にひたり、瞑想しながらリラックスするようにしています。

米軍キャンプで垣間見た、アメリカ人のライフスタイル。
それが欲しくても、どこにも売っていないことが始まりでした

 終戦間もない1951年に生まれ、アメリカの生活文化が押し寄せ始めた時代に多感な時期を過ごした設楽少年。男の子なら誰もが「女の子にモテたい」と胸を 焦がす青春期、設楽氏もなかばそのことをきっかけにファッション、音楽、スポーツに傾倒していった。そして、学生時代。米軍キャンプで、いつかアメリカのテレビドラマを見て憧れた、芝生のある白い家を垣間見る。そこにあった若者の生活文化を飾る品々を「手に入れたい」と願うも、どこにも売っていなかった。そこが原点となり、電通に勤務の傍ら「洋服ではなく、ライフスタイルを売る」ビームスを開業。以来、変化の極めて激しいファッションの世界にあって、32年間成長を続けるという奇跡的な存在となる。「規模の拡大と、相反する陳腐化を防ぐことをどうバランスさせるか。今でもジレンマを感じています」という設楽氏に、感度豊かな自分自身を育んだ青春時代から、経営の要点までを大いに語っていただいた。

<設楽 洋をつくったルーツ1>
ファッションに目覚めた中学時代。父親の帽子や作業着を加工して着用

 生まれたのは東京の中野ですが、生後すぐに北新宿に転居しました。父親は、僕が生まれる前は漁業の会社で働いていましたが、僕が2歳の時に結核を患って退職し、自宅敷地内にダンボールの会社を創業します。時代が時代だし、父が病気をした上に借金して創業したということで、家は貧しかったと思います。4歳半下の弟と、10歳下の妹がいますが、父は長男の僕にだけ厳しかったですね。食事の時など、父親の脇にはいつも竹製のものさしが置いてあって、僕が何か粗相をするとピシャリと叩かれましたよ。でも、その半面よく遊んでくれました。ダンボール工場から端切れを持ってきて、いっしょに工作をしてくれたりね。父はまた、豪放磊落な一面もあって、おしゃれな人でもありました。僕がクリエイティブなことやおしゃれなことが好きなのは、そんな父親の血を受け継いでいるからだと思っています。

 母親は、そんな父親を支えてやりくり算段をするような、内助の功の人。曲がったことが大嫌いな、真っ直ぐな人です。父親はすでに亡くなりましたが、80歳の母親はかくしゃくとしていて、まだ当社の副社長を務めています。ちなみに、ビームスは新光という父親が創業した会社の新規事業部門として始め、後に分社しますが、いずれの本社も北新宿の実家があった地に置いています。本社にあるのは総務部門と経理部門で、母親がその責任者。彼女は毎日出勤していますよ。「永遠の副社長」ですね(笑)。

 小学校から、国立の東京教育大学付属に入りました。母親が教育熱心だったのです。家系に医者が多く、小学生の頃は自分も医者になると思っていました。小さなノートに「医学」と題を書き、顕微鏡で何か観察したことを記入したりしていました。小さい頃の自分の着るものは洋裁の心得のある母親の手づくり。小学校3年くらいになると、それじゃイヤだ、これが着たいと言うようになります。そして、中学校でファッションに目覚めました。当時、男子は全員坊主刈りで、それがイヤでイヤでたまらなかった。それをカバーするために、父親のタンスにあった帽子を加工して被ってみたりしてね。当時、ビートルズが全盛で、ジョン・レノンの帽子を真似たりしましたよ。そうそう、父親の作業着に、当時第一次ブームだったペンギンとかカサとかのワンポイントを自分で縫い付けたりもしました(笑)。そういうおしゃれに興味がありましたね。

<設楽 洋をつくったルーツ2>
女の子にモテようと努めた中学・高校時代。それを原動力にセンスを磨く

 中学、高校と部活でサッカーをやっていました。実は、小学生の頃は早熟で身長が上から2番目と高く、中学に進んだ時は最初バスケ部に入ったのです。ところが、成長が止まってほかの部員にどんどん追い越されてしまい、しかもさして強い部ではなかったので、半年ぐらいでサッカー部に移りました。サッカーなら比較的身長は関係ないだろうということと、チームが強かったこと、そして何より女の子のファンが多かったからです(笑)。足が速かったぼくは右のウイング(サイドを走り、センタリングを上げることが役割のフォワード)で活躍しましたよ。関東大会の決勝で前歯4本を折り、以来そこは刺し歯です(笑)。また、当時入ってきたビートルズに代表される洋楽に洗脳され、フォークギターを手に入れて友人とバンドを組んで演奏していました。エレキギターが欲しくても、高くて買えなかった時代でした。

 自分で言うのも何ですが、高校時代から女の子には割とモテましたね。そうなるように努力した成果もあると思いますが。どんな努力をしたかというと、話術を工夫することです。当時、サッカー部には足の速さでかなわないチームメイトがいて、バンド仲間には見た目がスゴくかっこいいやつがいた。同じ方向では負けるので、話術で勝負しようと(笑)。相手に打ち解けてもらえるように、ウィット感というか、どこかに隙をつくる、わざとヌケている部分をつくるようにしました。そのことは、現在まで人に対するサービス精神の発揮という面で大いに役に立っていますよ。ビームスというファッションの会社の社長としてビシッと決め過ぎていると、人に寄ってきてもらえないでしょう? ファッションにしても、音楽にしても、男が一生懸命になるのは「女の子にモテたい」という動機からだと思いますよ、よほどの洋服フェチでない限りは。

 60年代に中学、高校という多感な時期を過ごしました。当時はアメリカの生活文化が日本に流れ込んできた時代で、我々はそれによって人間形成に非常に大きな影響を与えられた世代だと思います。子供の頃、アメリカのホームドラマが放映されて、芝生の庭のある白い家にGEの丸くて大きな冷蔵庫があり、大きな犬がいて……。そんなアメリカ人の生活に憧れを抱きました。彼らが着ている洋服に憧れ、彼らが聞くロックに憧れた。カッコいいと思いましたね。そんな思いが後のビームス設立の原動力になりました。

<浪人~学生時代>
アメリカ人の若者たちがはいていた、見たこともない白いジーンズやシューズに感激

 現役での大学受験は大失敗でした。東大や早慶、立教などを受験しましたが、全没です。生まれて初めての挫折でしたね。上半分は東大に受かるような進 学校にいたので、自分は勉強できるんだろうと思っていたんです、遊んでばかりいたくせに。ところが、予備校のテストでは、すべての志望大学が「合格見込み率0%」。ショックでした。ここで初めて世間を知り、おのれの実力を思い知った。そこから数カ月猛然と勉強に集中して、何とかいい成績になってきた。短期集中しかできないタイプなんです(笑)。

 大学は慶応の経済学部に入学。第一志望でした。長らく国立の学校にいたので、違う空気を吸いたくなったのです。高校時代は、美大とか建築科などのクリエイティブな学科に進みたかったんですが、おそらくは会社をぼくに継がせようと考えていた父親に反対されました。ぼくにしても、デザインとかのスキルを学んでいたわけではなかったので、あっさりあきらめたんです。

 入学してサッカー部にスカウトされましたが、もう汗臭い世界は御免でした。そして広告研究会に入ります。そこは毎年夏に葉山でキャンプストアをオープンするんですが、それをやってみたかった。夏の間、晴れの日は葉山に行って真っ黒になりながらアルバイトをします。そしてお金がたまるとハワイや沖縄に行きました。
大学時代は、突然昼間になったような、青い空のようなイメージですね。予備校での勉強と新宿のジャズ喫茶やパチンコ通いという暗い浪人時代の反動や、学生運動の終わりの時代という開放感のような気分もあった。とにかく、学生時代はよく遊びました。

 葉山のキャンプストアで横須賀基地の米軍関係者と知り合い、米軍主催のバザーの折などにキャンプの中を見せてもらう機会がありました。そこには、かつてテレビドラマで見ては憧れたアメリカ人のライフスタイルがあったのです。将校の子供たちが、見たこともない白いジーンズやバスケットシューズをはいていました。心の底から「欲しい!」と思いましたが、どこにも売っていません。バザーに出されるのは大きなサイズばかりでした。この時の渇望感が、ビームス開業の直接の動機となります。

 1969年8月15日から3日間、アメリカのニューヨーク州で「ウッドストック・フェスティバル」という、40万人を動員した歴史に残る大規模な野外ライブが開催されます。ヒッピー文化が最高潮に達した瞬間でもあります。昨日までコットンパンツにボタンダウンシャツといったいでたちのアイビー少年が、ベルボトムジーンズに花柄のシャツに変わった。そんな時代の変化の最先端に居続ける快感を、ぼくたちは日本で味わっていたのです。

<就職~ビームス創業>
電通に就職、SPやイベントの仕事で活躍。家業の多角化のためにビームス創業へ

 3年間遊びまわっていた自分は、当然のように成績が悪く体育を含めてもAは5つだけ。就職先は、とても普通の一流企業なんて無理でした。一方、クリエイティブな仕事ができる会社を希望していましたが、デザインが引けるわけではない。そんな自分がクリエイティブなことに携われそうなのは、広告会社しかないだろうと。就職課に相談に行ったら、Aの数が2個ぐらいしかない先輩が電通に入っていた。なら自分でも入れるだろうと思って就職課の担当者に希望を出したところ、「君にはコネがあるのか?」と聞かれました。「そんなものはないです」と言うと、「じゃあ120%無理」と。それで火がつきました(笑)。その時は5月で、電通の採用試験は7月です。友人らに「2カ月間、すべての連絡を絶つぞ」と宣言して、試験勉強に突入しました。浪人の時もそうでしたが、ぼくは短期集中には強いんです(笑)。大学は必修の授業だけに週に一度出席し、家で新聞を5紙取って毎日常識問題などに取り組みました。その甲斐あって、運よく合格できました。

 電通ではSP(セールスプロモーション)局に配属されます。大きなものは東京モーターショーから、小さなものはデパートの屋上のウルトラマンショーまで手がけました。ファッションショーも数多く担当しましたね。そういった仕事がやりたかったので、SP局に配属してもらうよう面接の場などで芸をしてアピールしましたよ。事実、自分にとてもよく合っている仕事と思いながら、8年間、突っ走ってきました。そのハイライトは、7年目と8年目に「広告電通SP賞・イベントプロデュース賞」を受賞したこと。その対象となったのは、帝国ホテルで開催した、複写機メーカーの新製品の発表イベントです。会場の天井から壁から床からを全部真っ白にして、そこに光を投影していろいろな色に変えるという企画。会場に一歩足を踏み入れた途端、未来空間が広がるという演出が評価されました。一流ホテルを相手に、多少無理な造作を許可してもらうことに骨が折れましたが、そういった障害があったほうが達成感も高まろうというものです。

 実は、ビームスは電通に入社して2年目に創業します。父親から、家業のダンボール会社がオイルショックの影響による原料高騰に喘ぎ、多角化に踏み切りたいと相談されたことがきっかけになりました。そこで「アパレル事業部」をつくり、学生時代から思い描いていた、アメリカの生活文化を売る店を開くことにしたのです。ダンボールのパッケージには大した付加価値がなく、価格は叩かれる一方でした。だから、付加価値の低い「モノをつつむ箱」から、付加価値の高い「ヒトをつつむライフスタイル」へシフトしようというわけです。

「ハッピー ライフ ソリューション カンパニー」

<ビームスの経営に専念>
創業期、最先端の編集者たちから情報を収集。順調なスタートを切る

 電通は入社後8年で退職します。直接的なきっかけは、父親の結核の再発でした。一時、強い薬を服用して衰えてしまった姿にあせってしまったのです。父はその後、回復していますが。また、それ以前から会社員生活に多少の違和感も覚えていました。大成功してもボーナスが少し上がるくらいで、逆に失敗しても大きく困るようなことはない。それより、自分の努力で成功したら周囲の人もいい思いができて、失敗したら自分が全責任を取ることのほうが男としてやりがいがあるのではないか、と。そして、2年連続で賞を取り、もう名指しで仕事がもらえるレベルに達したという到達感のようなものも感じていました。さらに、ほかと同じような商品や、大したことのない商品をよく見せるための広告というものに、疑問を感じてもいた。本当にいいモノなら、そんなことしなくてもいいじゃないか、と。企画ではなく、「その中に文化がある」モノそのものを提案したいという思いが強まっていたのです。そこで、退職してビームスの経営に専念することを決心しました。

 1976年の2月、原宿に6.5坪のビームスを創業します。「日本の若者の風俗や文化を変える」という、今から考えれば大それた思いがありました。開業当時、店には青空に雲が描かれたカーテンを張り、パインのテーブルを置いて、Tシャツやスニーカーのほかにお香やネズミ捕りも並べた。単なる洋服屋ではなく、アメリカのUCLAに通う若者の部屋をモチーフに、その生活文化を提案する店を開きたかったのです。そして、売れたものを仕入れる形で少しずつ広げていき、徐々に洋服中心の店となっていきました。

 創業した年の夏に、若者文化をリードした雑誌『ポパイ』が創刊されます。そう、時代の風が吹いていました。当時、築地にある電通に勤務していましたが、『ポパイ』を発行する平凡出版(現・マガジンハウス)はご近所。同社に大学時代の広告研究会の仲間だった小黒一三(現『ソトコト』編集長)がいて、ある日路上でばったり。そんな縁で、『ポパイ』で「原宿に面白い店がある」と取り上げてもらいました。小黒を通じて石川次郎さん、松山猛さん、北村勝彦さんといった時代の最先端を切り取る編集者の方々と知り合い、いろいろな情報を教えてもらってよいスタートを切ることができました。「ニケというスニーカーがある」と教わり、ずいぶん後になって「ナイキ」とわかったことも(笑)。それくらい、情報がない時代でしたね。

<32年間成長してきた要因>
チェーンストア理論に縛られず、すべて違う店に。“コク”と“キレ”をバランスさせて商品をセレクト

 浮き沈みの激しいファッション業界にあって、一発当ててはそのうち陳腐化して消えてゆく数多くの同業者を見てきました。一発当てることは簡単ですが、それを継続させることは難しく、だからこそ大事なことなんだと思います。手前味噌ですが、30年以上いい位置にいられたというのは奇跡的。次々と海外からブランドが押し寄せ、国内でもとんがった店が出現する。そういったところと闘いながらも、会社として成長させていかなければなりませんでした。とはいえ、僕の内面ではどこが適正な規模なのか、常にジレンマがありますが、永久拡大は企業の宿命。社員だって給料が上がってほしいし、店次長、店長とポストも上がっていきたいですからね。そのためには利益を拡大させ続けなればならず、店を増やして旬のとんがったお客さまだけでなく、ある程度一般的なボリュームゾーンのお客さまも取り入れていくことになります。

 そこで、普通は成功した1店目と同じフォーマットで2店目、3店目を出していくわけです。これが通常のチェーンストア理論。しかし、それではファッションの世界では陳腐化につながってしまいがち。そこで、いくつかの方法論を考えました。まず、チェーンストア理論に縛られずにすべて違う店にすること。開業の地である東京・原宿の明治通り沿いには9つの店が並んでいますが、すべて違うコンセプトです。一人のお客さまに違う提案をすることで、陳腐化を防いでいる。ある意味、自社内競合をしているので非効率な面もあるんですが。そして、商品セレクトに“コク”と“キレ”の両面のバランスを取ることです。“コク”とは、モノの質へのこだわりの部分。職人気質の造りであったり、ディティールであったり、伝統であったりといった要素です。“キレ”とは、時代のあだ花のような、一瞬で消えるかもしれないけれども、今面白いもの。このさじ加減に気を配っています。

 さらに、例えば一流のソムリエに「なんでこんなシブい栓抜きが置いてあるの?」と思われるような、一般の人はわからないマニアックな商品をさりげなく置く。雑誌などマスコミの人は、知れ渡っているビームスではなく、マニアしか知らないような店を取り上げたいんですが、そういった人たちにも「やっぱりビームスはチェックしておかないとマズいよね」と思わせることが重要なんです。そういった商品はほとんど売れないんですが、店の隠し味として欠かせないんですね。違う店にしてしまうことにしろ、大して売れない商品を置くことにしろ、当社が上場しないのはそこにも理由があります。その非効率は一般の株主なら納得できないでしょうから。

<未来へ~ビームスが目指すもの>
かかわる人がすべて幸せになる「ハッピー ライフ ソリューション カンパニー」

 かつてレディースを始める時は「ビームスは男の店。女物なんかやりたくない」と反対され、地方へ出店する際は「ビームスは東京の店。地方の人が買いにくればいい」と反対されました。家具を始めた時もそうです。しかし、結果的にそれらもビームス発のライフスタイル提案として成功し、会社の成長に貢献してくれました。

 男のライフスタイルの要素には、例えば衣・食・住のほかに、音楽、アート、車、スポーツ、旅、ギャンブル、セックスなどが挙げられます。女性はそれ以上にあるでしょう。そして、そのそれぞれにビームスとしての考え方、フィルターといったものがあるはずです。そこで、これまで異業種とのコラボレーションも積極的に手がけてきました。航空会社の機内誌への通信販売商品の提供やプロ野球チームのユニフォーム製作、自動車や文具、マンション、ホテルの一室など、多彩な分野に広がっています。ビームスが提案する商品・サービスを社内で手がけられなければ、その道のプロとコラボして、ビームスのフィルターを通してつくることはできる。これからも、その領域を広げていきます。例えば、かつて子供服への参入を検討し、時期尚早として見送ったことが2回ありましたが、そろそろやってみようかと思っています。また、目下アート領域を取り扱うことを検討しています。

 32年間やってきて、「日本の若者の風俗や文化を変える」とまではいかなくても、泉に小石を投じるほどの影響は与え続けてこれたかなという自負はあります。その要因はどこにあったのだろうと総括してみると、経営理念にこだわってきたことに行き着きますね。創業30年目に「ハッピー ライフソリューション カンパニー」ということをあらためて理念に掲げましたが、その想いは創業時からずっとあって、社員たちと共有してきたことです。

 ビームスは、創業以来、洋服を中心にライフスタイルを売るセレクトショップとして経営してきました。その存在意義は、情報やモノが溢れかえっていて何が正しいのかよくわからない世の中において、「コレがいいよ」と言ってあげるところにあると思います。そして、そんなライフスタイルを手に入れて、ワクワクドキドキ幸せな気持ちになっていただく。そのことに関係する社員も、取引先も幸せになる。これからもそんな会社にしていければと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
世の中にどんな存在価値があるのか。お金もうけや地位より大切なことがある

 独立起業するタイミングに悩む人もいるかもしれませんね。僕の場合、一つの基準になったのは「名指しで仕事が来るか」ということでした。「仕事ができる」ことと「仕事がくる」ことは違います。一流企業ならば特に、組織という金看板の中で仕事ができる人はたくさんいるでしょう。ところが、必ずしも「あなたの企画がほしい」「あなたのサービスがほしい」と名指しされる人は少ないはず。それが人脈によるものなのか、ノウハウによるものなのかはよくわかりませんが、そういったレベルのものがないと独立してもうまくいかないように思います。

 企業経営、事業運営に一番大切なものは、やはり理念だと思います。野心を持って起業し、成功し上場でもすれば、お金がもうかったり、一定の地位を得ることもできるでしょう。しかし、そういったことより、自分や自分が起こした会社、その仲間の存在は世の中にとってどういう意味があるのかということのほうが、はるかに重要なテーマなのではないでしょうか。お金もうけだけが目的の会社にどれだけの価値があるのかということです。価値がなければ、存在する意味もないでしょう。もちろん、お金はないよりあったほうがいいに決まっているし、お金がなければやりたい事業もできない。しかし、お金そのものが目的になってしまうことには、大いに疑問を感じます。

 

 ビームスにも、もっと給料がほしい、もっと出世したいと思っている社員もいるでしょう。それも否定はしません。趣味でやっているわけではなく、きちんと利 益を追求するビジネスを行っているわけですから。けれども、そういったことより、いずれ振り返った時に「ビームスが時代をつくってきた」という足跡を残すような仕事をし、そこに生きがいが感じられる集団でありたいんです。ビームスは、会社名でも、ファッションブランドの名前でもない。そこで働く人や関係する人が幸せになる、いつも面白いことを手がけている集団の名前である。そう思われることを願っています。

<了>

取材・文:高橋光二
撮影:刑部友康

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