第159回 アート・クラフト・サイエンス株式会社 代表取締役会長 鎌田 和彦

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第159回 

アート・クラフト・サイエンス株式会社

代表取締役会長

鎌田 和彦 Kazuhiko Kamata

1965年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部時代の3年半、学生ベンチャー企業でイベント企画の仕事に携わる。卒業後、株式会社リクルートコスモス(現・株式会社コスモスイニシア)に入社、営業企画、営業に従事。1989年、リクルートコスモスで同期入社となった宇野康秀氏(USENグループ会長)、株式会社リクルートに在籍していた島田亨氏(楽天株式会社取締役常務執行役員)、前田哲也氏(株式会社ワークスエンターテイメント会長)の4人で株式会社インテリジェンスを創業(宇野氏が代表取締役社長に就任)。1999年に宇野氏の後任として代表取締役社長に就任。2000年4月、ジャスダックに株式上場を果たす。同社が売上高840億円の企業に成長した2008年、退任しアート・クラフト・サイエンス株式会社の会長に就任。2013年、自身初の本格的エンターテインメント小説『奥さまはCEO』(牧野出版)を上梓。新丸ビルのブーランジェリー「ポワン・エ・リーニュ」のオーナーでもある。

ライフスタイル

好きな食べ物
パンです。

「ポワン・エ・リーニュ」というブーランジェリーも経営しているほど、パンが好きです。ランチタイムは難しいですが、朝と夜はほとんどパンを食べていますよ。

趣味
ワインです。

特に趣味といったものはないのですが、強いていえばワインですね。フレンチレストラン(東京・銀座のフレンチレストラン「ラール・エ・ラ・マニエール」)の経営に関与していることもあって、半ば仕事となるかもしれませんが、好きで勉強しています。自宅のセラーには400本ほどのワインをストックしています。

行ってみたい場所
ベルギーのリエージュです。

北海につながるマース川が中心部を流れていることで、中世時代から交易の中心地として栄えた場所です。しかし後年、川の堆積で次第に交易量が減って衰退したという話を聞いて、「常に新しく自身を変えていかないと栄えていても滅びてしまう」と受け止めたのです。当時の遺構をこの目で見て、戒めにしたいと思っています。

愛用品

「リノベーション」の独自ロジックを確立。
成熟している不動産業界の改革を目指す!

成熟産業である不動産業――中古マンションを仕入れてリノベーションを施し、再販するビジネスに成長性を見出し、投資判断やリノベーション手法の独自ロジックを編み出して好調な業績を上げているアート・クラフト・サイエンス株式会社。2009年に同社の会長に就任した鎌田和彦氏は、総合人材サービス会社の株式会社インテリジェンスの創業メンバーであり、二代目の社長として同社を上場させたキーマンとして知られる。そして、2003年4月には、自身初の本格的エンターテインメント小説『奥さまはCEO』(牧野出版)を上梓し、作家デビューも果たした。銀座のフレンチレストラン「ラール・エ・ラ・マニエール」や、丸ビルに出店したブーランジェリー「ポワン・エ・リーニュ」のオーナーでもある。今回は、そんな鎌田氏に子ども時代からこれまでに至る経緯、多分野で活躍する思いや大切にしている考え方などについて、大いに語っていただいた。

<鎌田和彦をつくったルーツ1>
母一人子一人の家庭環境と、
小田原から港区への環境変化

 生まれ育ったのは神奈川県小田原市です。物心ついた頃から、母一人子一人の生活でした。母は、女手一つで私を育てるため相当に努力してくれていました。親戚は飲食店経営や水道工事業などの自営ばかりで、サラリーマンは一人もいませんでした。小田原は小さな街。母子家庭で育った私は周囲から「鎌田君は勉強ができない子」と思われていたと思います。友達の家に遊びに行っても、私だけ成績のことを聞かれなかったり、学校の先生の態度も、ほかの子どもに対するものとは明らかに違うことがありました。今だったら大問題になるような体罰も受けましたね。もっとも、お調子者だった私の悪戯がすぎたという理由があるんですけれども。ほかのクラスのかわいい女の子が教室内を歩いている時、足を引っかけて思いっきり転ばせてしまうといった悪ふざけをした時は、何度も往復ビンタされましたよ(笑)。そんな私ですが、学校ではそれなりに人気者だったんじゃないかと思います。

 中学2年の時、東京の港区三田に引っ越しました。母は、片田舎の小田原にいつまでも閉じこもっていたら、私が埋没すると考えたようです。「教育上の考えがあった」なんて言っていましたけれど、真意のほどはよくわかりません。もっとも、母にとっては仕事先が近くなるというメリットもあったからだと思いますが。私にとっては、郊外からいきなり東京のど真ん中ですから、そのギャップたるや激しいものがありました。その中学校には、普通に外国人が通っていましたし、やけに勉強ができる生徒がいたり、やけに皆シラケていたり。小田原では、授業中は何でも手を挙げて発言することが奨励されていましたが、こちらではそんなことすると「カッコ悪い」と思われます。何もかもが正反対な世界に来たと思っていました。

 また、藤沢生まれのスマップの中居正広くんがテレビでよく「○○だべ?」と言っているように、藤沢あたりから小田原にかけての湘南地域にはそういう方言があるんです。私が東京の中学でそんな方言を使うと変な目で見られた覚えがあります。そのせいか、普通に話すことも恥ずかしい感じがしていたんですよ。日々のコミュニケーションにも、ストレスを感じていたと思いますね。高校は「もう都会は嫌だ」と思って、同じ学区内でも幾分マイナーな品川区にある小山台高校に進学しました。もっとも、入学してみて、港区と大して変わらないことがわかりましたけど(笑)。

<鎌田和彦をつくったルーツ2>
危機感をバネに慶應義塾大学へ。
学生ベンチャーに没頭しビジネスの基本を体得

 高校時代はそんなにきらびやかなものではありませんでしたが、普通に友達もいて、それなりに楽しく過ごしました。ほぼ全員が大学を目指す学校でしたが、私も3年になって受験勉強に没頭しました。いい大学に入らないとヤバいという危機意識のようなものがあったと思います。子ども時代の母子家庭のコンプレックスや、周囲の“期待のない”目線に対して「なにくそ!」と思う反発心がありました。そして、慶應義塾大学文学部に現役合格。文学部を選んだのは、当時は社会学者になって大学教授の道を目指そうと思っていたからです。親戚に会社員が一人もいなかったし、人から何か命令されることが嫌いでしたから、普通の会社員が務まるとは思っていませんでした。また、港区三田にあった家から近い慶應に入学したのは、後で考えれば大正解。毎日、学生ベンチャーの仕事に精を出していても、何とか落第せず卒業できたのは、家から近かったことも大きかったと思うからです。

 大学時代の3年半、イベント企画を手がける学生ベンチャー企業で働きました。その会社は常に若い血を求めていて、後で共にインテリジェンスを創業することになる宇野康秀さんが一足先に加わっていて、彼が自分の携わるプロジェクトのメンバーを探していたのです。宇野さんと私の共通の友人から誘われたことがきっかけで、私も参加することにしました。怪しい世界という感じもしましたが、友人から「これが今カッコいいんだよ」と言われ、「女の子にモテるなら」ぐらいの軽い気持ちだったと思います。時代はバブルでしたから、消費材メーカーを中心に学生向けのイベントが盛んでした。そこに目を付けた先輩たちが電通などの広告代理店からイベント企画の仕事を請け負っていたんです。

 私も食品会社の新製品キャンペーンや、鈴鹿サーキットで開催されたF1レースでのブース設営など、いろいろなイベント企画を手がけました。当時の最先端通信ツールであるポケベルを持たされて、授業中もよくピーピー鳴って「お前はヤクザか」と友人に言われたりしました(笑)。その学生ベンチャーは体育会系的な上下関係があり、理不尽な不条理がまかりとおっていましたが、何が起きても驚かなくなったという貴重な経験はできたと思います(笑)。また、売り上げから原価や経費を引いていくら儲かるか、といった商売の基本や、「入り銭は早く、出銭は遅く」といったキャッシュフロー経営の要諦を学ぶことができました。そういう意味では、本物のインターン体験ができたと思います。また、「自分には才能がある。独立してもやっていける」という“よき誤解”も生まれ、その後の独立につながったと思います。ビジネスの基本を身につけるとともに、将来を切り拓くうえでも貴重な時間だったと思いますね。

<就職、そして起業へ>
リクルートコスモスに就職。
出会った仲間と会社設立

 宇野さんからは、学生ベンチャーで一緒に仕事をしながら、「お前将来どうするんだ?  いずれ俺と一緒にやらないか?」と誘われました。宇野さんとは気が合うと感じていたので、「それもいいですね」と答えました。学年としては1年先輩でしたが、留年をしたので卒業は同じ年度。そして、偶然にも同じリクルートコスモスに入社し、同期になったのです。私が就職したのは、いずれ起業するにしても、一度きちんとしたビジネスプロセスを経験しておこうとの思いからでした。宇野さんも同様だったと思います。そして同社に就職したのは、私のように学生時代からビジネスにかかわっていた人が多く入社していたこともあります。本当は、ほかに採用してくれる会社がなかったから、というのが正直なところでした(笑)。3年半も広告業界で仕事をし、歩合制で稼いでいましたから、就職活動では相当すれた感じの妙に大人びた印象を発散していたと思います。そのうえ、私は普通のリクルートスーツが嫌で、わざと大人っぽいスーツを着て就職活動をしていました。何人ものOBから「そんなスーツやめておけ」と忠告されたぐらいです。今思えば、ずいぶん生意気だったと思いますね。

 リクルートコスモスでは、まず営業企画に配属されました。バブルの当時、これといった仕事はなく「こんなことでいいのかな」と思った覚えがあります。そうこうしているうちに、営業に異動になりました。個人向けに節税対策としてマンション1棟を売る仕事です。1棟5億~40億円という商品で、それをポンと買う人がいるのには驚かされました。そして、退職後のことですが、バブルが崩壊すると価格が当時の4分の1、5分の1になってしまった……。「こんな世界もあるんだな」と驚きましたよ。リクルートコスモスでは、人の見方が変わるという勉強ができました。学生ベンチャー時代に評価していなかったようなタイプの人が仕事で成果を上げる姿に接し、いかに偏った見方をしていたのかがわかったのです。視野が広がりましたね。

 入社1年目から、宇野さんを結節点に、彼の知り合いの当時リクルートに勤務していた1年上の島田亨さん、前田徹也さんと4人で「起業しよう」と話すようになりました。そして、島田さんから「知人の美容師が外苑前にサロンを出店するにあたり、余剰スペースの借り手を探している」という情報がもたらされたのです。「じゃあ、4人で何かやろう」という話になり、何ができるかを議論し始めました。その後、「会社員のままでは中途半端だから、退職して進めよう」と提案。活動拠点を得てから3カ月ほど二束のわらじをはいていましたが、そんなことも平気でやれていたわけです。いい時代でしたね。そして、1989年に4人で株式会社インテリジェンスを設立し、宇野さんが社長に就任。社名は、「どんな事業でも通用するように」との宇野さんのアイデアです。コピーライターのセンスも、宇野さんにはあったと思っています。

<インテリジェンスの創業期>
新卒学生採用のコンサルティング事業を開始。
倍々ゲームで順調に成長

 4人でリクルートグループを辞めて会社をつくったはいいものの、明日からどうやってメシを食っていくかを決めていませんでした。もっとも、この4人なら何かやれば大丈夫という感覚はありましたが。いろいろ話し合った結果、私と宇野さんより1年先輩の島田さんと前田さんがリクルートで経験していた、新卒学生採用のコンサルティング事業を手がけることにしたのです。学生に企業の採用広報を届ける就職情報メディアを持っていなかったので、リクルートをはじめとする就職情報会社のメディアをどう活用すればいいか、第三者的な立場からアドバイスするといったスキームでした。そして、就職情報メディアを見て興味を持った学生から戻ってくる資料請求ハガキを預って、名寄せしてリスト化する「ハガキ処理」を1通110円で受託したり、DMや入社案内パンフレットの制作などを受注してそのリストに対して発送するといったビジネスに結び付けていったのです。

 主に大企業から開拓していきましたが、その際の武器となったのが、私が発案した「Students’ Report」でした。モニターとなる学生を集めて就職活動の現状をつぶさにヒアリングし、その傾向をまとめて会員企業に配信する、というサービスです。当時も就職協定はありましたが、特に大企業においては有名無実化していました。一部の人気企業などが内定を出し始めると、いい学生を奪われたくない他社も乗り遅れまいと動き始めるわけですが、そんな動向を速報で伝えるわけです。

 会員料金は年間25万円に設定しましたが、インターネットがまだ存在していない当時、これが刺さりました。当社の情報力を認知し信用してもらうきっかけになったことが大きいと思います。こうしてスタートしたインテリジェンスのアーリーステージ期は、バブル経済の絶頂期というフォローウィンドもあって、事業は倍々ゲームのペースで順調に拡大していきました。しかし、バブルが崩壊した後の1994年あたりから、各企業は一斉に採用人数を削減……。インテリジェンスの業績は頭打ちになり、初めて大きなピンチと転機を迎えたのです。


自分の信念を貫き、創造力を発揮して
第2、第3の人生を楽しむ道へ!

<インテリジェンスの成長拡大期>
バブル崩壊を機に人材派遣、そして人材紹介に参入。
創業10年で売上高約100億円に

 1995年、業績が頭打ちになって、宇野さんが「このままではまずい」と危機感を表明しました。そして、「何か新しい事業を始めよう。派遣がいいと思う」と提案したのです。バブルが崩壊し、人材派遣が注目され始めた時期であったと思います。しかし、それに対して私は反対しました。派遣事業のスキームがローテクに思えたからです。利益率も低い。インテリジェンスの強みは、情報の量や質、採用に関する提案力という付加価値の高さにあり、そこが顧客から高く評価されていました。ローテクなビジネスを手がけることで、そうした側面が損なわれるのではないかと危惧したのです。それに対して、宇野さんは「一番でかい会社でも大してシェアを取っていない。必ずチャンスがあるはずだ」と主張しました。今考えれば、彼の言うとおりだし、派遣事業への進出から人に担保しない仕組み型ビジネスへの移行を実現できたと思っています。

 1997年、今度は私が率先して人材紹介サービスへの参入を進めることに。その背景には、規制緩和による有料職業紹介の取扱範囲の拡大やインターネットの登場がありました。さらに、正規雇用から非正規雇用へのシフトなど企業における人材ポートフォリオの多様化が進展し、人材の流動化が進み始めるというタイミングが重なったのです。
 
 そこに人材紹介業の成長の素地を見出し、現在のインテリジェンスの社長である高橋広敏君と2人で開拓していきました。このビジネスは、現在に至るまでインテリジェンスの大きな柱であり続けているように、花開くことになりました。こうして、インテリジェンスは創業から10年近くで売上高100億円ほどにまで急成長していきました。そんな1998年の終わりに、大きな出来事が起きました。社長としてインテリジェンスをここまで引っ張ってきた宇野さんが大阪有線放送社(現・USEN)の代表取締役に就任することになったのです。

<社長就任と上場、そして企業改革>
ベンチャー体質の限界を悟り、意識改革と体制整備。
上場後、10年で10倍近い規模に成長

 ご存知かもしれませんが、宇野さんは、大阪有線放送社(現・USEN)の創業者である宇野元忠氏の二男。その元忠氏が病に倒れ、後を継ぐことになったのです。さすがに有線という大企業とそれなりの規模になっているインテリジェンスのトップを兼ねることは無理があります。話し合いの結果、私が社長に就任することになったのです。そして、1999年4月1日、社長に就任。第一のミッションは、株式上場でした。まずはこれに全力投入し、翌2000年4月に果たします。今思えば非常にスムーズに上場できました。財務内容が極めてきれいだったからです。もっとも、上場準備は初めてのことだったので、結構大変に思った記憶はありますが。

 上場企業ともなると、それまでの企業風土にいろいろな齟齬が目立つようになりました。イケイケドンドンで急成長してきたベンチャーなので、一言でいえば“やんちゃ”なムードが横溢していたのです。それが活性化をもたらすというよい面もありましたが、自信が傲慢さや乱暴な仕事に転化する局面もあったと思います。それでも、それは“ベンチャースピリット”の表れとして、お客さまからは大目に見てもらえていました。しかし、企業規模が大きくなるに連れて、そういうわけにはいかなくなっていきました。実際、大手企業のロゴを広告に無断使用して出入り禁止になったり、顧客情報システムの担当者欄に「おバカ担当者」と入力して、そのままDMを打ってしまったり……いつ取り返しのつかない信用問題が起きてもおかしくありませんでした。そんな連続の中で、私は社内改革を決意します。それまでお客さまは「トヨタ」「野村」などと呼び捨てにしていたところから改めることにしたのです。「お客さまという意識を忘れているのではないか? だからこんな事件が起こるのではないのか?」という問題意識を呼びかけ、まず「お客さまと呼ぼう」という運動を始めました。これはかなり効いたと思います。

 それとともに、上場企業にふさわしい体制づくりにも力を入れました。わかりやすいところでは、会議に際してはきっちりとアジェンダを作成しておくといったように、社内手続きをきっちり進めるしくみを整備するということです。ある意味で官僚化の必要性を感じていました。それは、ベンチャースピリットと相容れないかもしれないけれども、一定の規模になり上場した企業としては、一皮むけた管理体制、組織運営をしていかないと回していけないということです。そして、上場してから10年ほどで、インテリジェンスはさらに10倍近い売り上げ規模にまで成長しました。ビジョンを明確にするとともに現場にドリルダウンし、数多くの優秀な人材を採用して、我流を廃して完成度を高めた組織運営に強固な推進力をつけていった結果だと思います。

<未来へ~アート・クラフト・サイエンスが目指すもの>
自分の創造力を存分に生かそうと転身。
不動産投資ビジネスに賭ける

創業からちょうど20年目の2009年4月、私はインテリジェンスの社長を退任し、アート・クラフト・サイエンス株式会社の会長に就任しました。インテリジェンスを辞めたのは、この会社で自分が仕事を続けていく理由を失くしたからであり、違うテーマを追求したくなったということです。上場企業としての責任を果たしていくためには、経営者としてやるべきことがあるわけですが、そのことは必ずしも自分の信念と一致するわけではありません。私は、やはり自分の人生で自分の意に反することはやりたくない、信念を貫きたいと思ったのです。そして、それまでは自分の能力を100%、インテリジェンスに注いできましたが、自分には別の創造力があると思っていました。まだ先が長い人生、それを思う存分発揮させて、2度3度と違う人生を味わいたいと思ったのです。また、自分がつくってきた企業ですが、インテリジェンスではすべてがお膳立てされた世界で、すべてが整い、その上で動かしていくという感覚になっていました。このままこれを続けていたら、「自分はバカになってしまう」という危機意識のようなものを感じたのです。

 退任して、しばらくブラブラするという考えもなくはなかったのですが、無理でした(笑)。動いていないのが怖い性分なんですね。アート・クラフト・サイエンスは友人が経営していた不動産投資ビジネスの会社で、私も多少出資していました。私が掲げてきたテーマに、成熟産業に切り込み、その中で違いをつくって成長していくということがあります。不動産は、まさに“ド”がつく成熟産業。そして、人材業界は人にレバレッジをかけるビジネスであるのに対して、不動産投資は資金にレバレッジをかけるビジネスです。バランスシートも大きい。そんな世界に興味があり、そこで自分の力を試してみたいと思いました。

 成熟している不動産業界のどこに差異と成長性を見出したかというと、中古マンションのリノベーションです。中古マンションを購入し、リノベーションを施して再販するわけですが、どんな物件に投資をするかという見立てさえ間違わなければ、確実に収益を上げることができます。その見立ては簡単ではありませんが、私はそれに対して独自のロジックで対応しています。それは簡単に言うと、他社の動向も含めた様々なファクトを集めて投資判断する仕組みです。投資基準も常に市場に合わせて変更していきます。社内の誰が判断しても一定同じ答えが出てくるように整備してきました。また、既存のリフォームのように、住設機器メーカーの製品をただ設置するといったことではなく、住人が本当に使いやすく住みやすい設計やデザインを施す余地がザクザクとあることがわかりました。その規準も精緻につくり上げた結果、物件販売は好調に伸びています。思ったとおり、とても面白いビジネスだと感じているところです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
小説も、レストランやブーランジェリー経営も
自分の創造力を表現する手段

 そんな私が、2013年4月、『奥さまはCEO』という題名のエンターテインメント小説を上梓しました。これは、ローソンが運営する「ローソン公式アプリ」で2012年10月から3カ月間、スマートフォン向けに無料配信していた計25万文字の作品を、16万文字にシェイプアップして書籍化したものです。ことの発端は、インテリジェンス時代から書き綴っていた私のブログ「丸の内で働く社長のフロク」の愛読者であったローソンHMVエンタテイメント代表取締役の加茂正治さんが、「会社やめてヒマだろうから、小説でも書いてよ」と声をかけてくれたことでした。ブログは、タイトルに“フロク”とつけているとおり、いわば“第2CPU”で、仕事とは無関係に面白おかしいことを書く方針で続けていたもので、加茂さんはそれを評価してくれていたのです。真に受けた私は、2つのアイデアをまとめて、ゴルフで一緒にラウンドした際に加茂さんにぶつけてみました。1つは、渡辺淳一風のドロドロした男女関係を描くもの、もう1つがアイデアをタイトルにした『奥さまはCEO』でした。加茂さんは「どっちも書いて」と言ってくれましたが、私もそこまで時間があるわけではないので、書きやすいと感じた後者を書き始めたというわけです。

 読んでいただいた方からは、「小説として、普通に面白い」「主人公たちと同じ東京のIT企業に勤める身として、シンパシーを感じる」などありがたい感想をいただいています。私が文学部卒なので、よく「昔から小説を書いていたんですか?」と聞かれるのですが、正真正銘、初めて書いたものです。ストーリーはすべて架空ですが、「リアリティがある」とも言っていただけています。仕事柄数多くの人と会っているので、書いたシーンは、実際に見たり聞いたりしたリアルな情報がリソースになっていることは間違いありません。ちなみに主人公の鴨志田正治という名前は、加茂さんから取ったことはいうまでもありません。

 私はまた、銀座に「ラール・エ・ラ・マニエール」というフレンチレストランや、丸ビルに「ポワン・エ・リーニュ」というブーランジェリーを出店しています。ワインやパン好きが高じて、といったところです。先に、自分の創造力を思う存分発揮させたいと言いましたが、こういう事業を手がけることも自分の創造力を表現する一つの手段だと思って取り組んでいます。もちろん、不動産投資ビジネスもまだまだやることがあるし、小説も第2弾を書きたいと思っています。これから、第2、第3の人生を楽しんでいけるとワクワクしているところです。これからの起業を考えている人には一言だけ、「始めなければ、何も始まらない」と申し上げておきます。人間の能力にはそれほど差はないのではないでしょうか。努力を続けていけば、必ずかたちになります。結局は、その一歩を踏み出す勇気があるかないかだけの違いかもしれませんね。

<了>

取材・文:髙橋光二
構成:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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