第134回 株式会社ポジティブ ドリーム パーソンズ 代表取締役  杉元崇将

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

- 目次 -

第134回
株式会社ポジティブ ドリーム パーソンズ/
代表取締役

杉元崇将 Takamasa Sugimoto

1967年、福岡県生まれ。大学在学中、アルバイトしていた中洲のバーで出会った経営者に触発され、起業家を目指し始める。福岡大学商学部商学科を卒業した1989年、オフィス家具を扱う老舗企業・イトーキに入社。オフィススペース全体の空間設計やCI(コーポレートアイデンティティ)の受託など、オフィス移転に伴う大型プロジェクトを経験する。また、26歳で子会社の再建を任され、2年で黒字化、ビジネスモデルの刷新を実現。その後、オリジナルウェディングのプロデュースを行う、某大手ブライダル企業での修業期間を経て、1997年7月1日、30歳で株式会社ポジティブドリームパーソンズを創業した。都内の人気レストランのウェディング・コンサルティング事業からスタートし、2002年からは自社直営施設の運営を開始。今では、ホテル、ウェディング、レストラン、フラワー、バンケット、コンサルティングと、事業領域を6つに広げ、感動で満ち溢れる日本創りに注力し続けている。

ライフスタイル

好きな食べ物

和食です。
子どもの頃、骨のついた魚を食べることが得意で、よく母からほめられていました。また昨今、体を気遣って、肉類を極端に食べなくなったんですよ。なので、焼き魚に納豆、冷ややっこ、お味噌汁があれば大満足。お酒は飲み過ぎない程度、人並に飲みます。

趣味

「心・技・体」づくりです。
ホテルを見て回る旅、映画も好き。でも、やはり経営者としての「心・技・体」づくりが趣味のようなもの。最近は週3回走って体調管理、あとは水を1日3リットル飲み、朝食はフルーツのみ、大好きなコーヒーも2杯まで(笑)。一番大切なのは健康な体ですから。

行ってみたい場所

各地の世界遺産です。
人の創造力と歴史が紡いだものって、無条件に感動します。僕たちの施設はすべて、人の心の中に世界遺産を創り上げるような気持ちで手がけているんです。僕はまだ本物を見たことがないので、「サグラダ・ファミリア」「モン・サン・ミシェル」など、著名な世界遺産を巡ってみたいと思います。

お勧めの本

『思考は現実化する』(きこ書房)
著者 ナポレオン・ヒル
アンカー
1937年発行以来の世界的なロング・ベストセラー、原題『Think And Grow Rich』ですね。起業した30歳の頃に初めて読んだと記憶しています。そもそも人って“方向指示機”がないと、なかなか動けないんです。なので、「ポジティブドリームパーソンズ」という、社名を決めたのもそう。僕たちは「こっちの方向に進むんだ!」と、はっきり社内外に伝えるために決めた社名です。いずれにせよ、物事の考え方ひとつで、人の行動はすべて変わるんですよ。そのことをわかりやすく教えてくれた、僕が多くのビジネスパーソンに勧めてきた一冊です。

ウェディング事業で培った“感動創出技術”で、
感動に満ち溢れる日本を創ってゆく。

1997年7月1日、ウェディングビジネスで起業のスタートを切った、株式会社ポジティブ ドリームパーソンズ。同社を立ち上げた杉元崇将氏は、2008年の第二創業期に、ウェディング専門企業からの脱却を宣言。そして今、ホテル、ウェディング、レストラン、フラワー、バンケット、コンサルティングと、6つの事業領域をターゲットに定め、感動に満ち溢れる日本創りに注力し続けている。「自分が成長していくんだ、学び続けるんだと思ったことの延長線上に、大きな貢献を果たしていけるであろう明確な目標を、僕も含め、これから次代を背負っていく日本人は持たないといけないと考えています。現状がこうだからできないなど、ネガティブな志向は人間をダメにします」。今回はそんな杉元氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<杉元 崇将をつくったルーツ1>
負けず嫌いの自分を形成した原点は、
リトルリーグ時代の押し出し逆転負け

 父は新日本製鐵に勤務する会社員、母はパートの立場で、デパートのショップマネージャーをやっていました。そんなふたりの間に生まれた僕は、生まれも育ちも九州の北九州市で、兄弟は5つ下に弟がひとり。ちなみに父方の祖父は造り酒屋の経営者で、母方の祖父は旅館の経営者だったんです。子どもの頃、祖父たちの家に行くと、新しいテレビや家電製品が、近所で一番先に購入されていて、周囲の人がそれを見に集まって来る。そんな光景を覚えています。父は14人兄弟の9番目でしたから、あとを継ぐこともなく自由奔放に育ったみたいですが、「杉元家は昔から事業家として技術を継承し、商売を通じて地域貢献を続けてきた」、そんな話をよく聞かされていました。今、僕が経営者として人生を歩んでいるのも、父、母、両家の血が関係しているのかもしれません。

 小学生になるとソフトボールを始め、4年の時にリトルリーグに転部しています。かなり厳しい練習を強いられるチームで、毎日真っ暗になるまで練習に励みました。ポジションはずっとピッチャーで、打順は6番。自分の投球の良し悪しでその日の勝敗が決まる。そんな責任ある立場が好きだったんです。ところが、あれは忘れもしない6年の秋の試合でのこと。押し出しで逆転負けを喫した僕は、監督からエースの背番号1番をはく奪されてしまうんです。そして次の試合から、背番号は10番、ポジションはライト……。マウンドから見る景色と、外野から見る景色はこんなに違う。その時、“負ける”ということの現実を思い知った。守るべき大切なものは、自分の力で勝ち続けなければ失ってしまう。あれからですかね、僕が人一倍の負けず嫌いになったのは(笑)。とても苦い経験でしたが、今となっては、ある意味、大事な人生訓となっています。

 中学ではバレーボール部に入部しました。先輩に誘われて軽いノリだったんですけど。野球と同じチームスポーツですが、感覚がまったく違いました。ポジションはセッターです。アタッカーが野球でいうエースだとしたら、バレーのセッターはけっこう地味な役割。でも、ゲームプランを組み立て、サインを出して、それぞれのポジションの選手を動かす面白さがあった。そうやって頭を駆使しながら、チーム一丸となって試合で勝った時のあの心地よさ。おぼろげではありますが、初めてマネジメントの重要性に触れたのは、この頃だったと思います。あと、自分でも理由は良くわからないのですが、毎学年、2学期になったあたりから、学級委員を任されたり、生徒会長選挙に推薦されたり。それが全く嫌じゃなかった。やっぱり、昔から僕はリーダーの仕事が好きなんですね(笑)。

<杉元 崇将をつくったルーツ2>
アルバイト先のバーで出会ったかっこいい大人。
経営者である彼に感化され、起業の夢を抱く

 いろんなスポーツを経験しておこうと、高校ではテニス部へ。でも、チームワークが大事な野球やバレーと違って、個人競技のテニスは、あまりなじめませんでした。勉強ですか? 高校2年までは理数系クラスだったんです。男子ばかりの(笑)。理数系ではありましたが、僕は世界地理が大好きでね。小さな頃から地球儀や世界地図を見て遊んでいたからでしょうか。興味があるので、そんなに必死にならなくてもスラスラ頭に入る。何度か全国模試で1番の成績を取って、学校から表彰されたこともあります。すると進路指導の先生が、「得意なことを伸ばすべきだ」と。「ああ、そうかもしれない」と。で、3年からは女子がたくさんいる文系クラスに転籍しました(笑)。高校までは将来は何になりたいという夢はありませんでしたが、なぜか早く社会に出たいという気持ちは強かったですね。

 東京の大学もいくつか受験しましたが、ふられてしまい……。早く社会に出たいと考えていた僕は、浪人は時間がもったいないと、地元の福岡大学に進学しました。そして入学早々、飲食店でのアルバイトに精を出すことになります。福岡一の繁華街・中洲に、日本バーテンダー協会の会長を務められた方が経営する、有名なバーがありました。大学2年、僕が20歳の時、ある知人の口添えで、そのバーで働く機会を得ました。この100席もある大きなバーで、僕は佐藤さんというお客さまに出会うんです。飲食店のマネージャーや従業員の方など、アルバイトを通じていろんな大人と接してきましたけど、佐藤さんは、ひと味もふた味も違いました。何というか、醸し出す雰囲気がおしゃれで、ものすごくかっこいい大人だったんです。

 佐藤さんは、広告関係の会社の経営者で、スタッフや仕事仲間とカウンターで飲んだ後、中洲のクラブへ繰り出していく。僕もいつの間にか、かわいがってもらうようになり、「杉元君、これからラーメン食いに行くから、おいでよ」なんて、誘ってもらって。いろんな話をしてくれました。会話を聞いていると、仕事と人生を思いきり楽しんでいることが伝わってくる。当時、佐藤さんは今の僕と同じ、40歳を超えたくらいの年齢で、独立した年を聞いたら28歳。自分も佐藤さんのようなかっこいい経営者になりたい。それも28歳までに。それからですね、周囲に「俺は将来、絶対に起業する」と公言し始めたのは。そして就職活動の時期が来ると、将来の起業に役立つ仕事をという観点で企業情報を調べるように。当時はバブル絶頂期で、リクルート社から百科事典のような大きさの就職ガイドブックが届きましたよ(笑)。

<イトーキへ>
変革期を迎えた老舗企業への入社を決意。
大型案件の担当と子会社再建を経験する

 いくつかの会社から内定が出ましたが、その中から僕が選んだのは、オフィス家具を扱うイトーキです。最初は単に机や椅子を売る企業と思っていましたが、就職説明会で、「オフィス家具が会社の環境を変えてく。CI(コーポレートアイデンティティ)構築の重要なアイテムとなる」という話を聞いて、興味を持ったんです。また、当時のイトーキは100周年と上場を同時に控えており、会社の大きな変革期を経験しておくことは必ず将来の起業に役立つはずだと――。そして希望どおり東京勤務が決まり、待ちに待った僕の社会人生活が幕を開けたというわけです。最初の配属は、業界別に組織されたオフィスのコンサルティング・プロジェクトチーム。僕は医薬品メーカーの営業を担当することになり、「MRは出張が多いので、フリーアドレスのオフィスを」、「接待続きのストレスをためないために、目に優しいグリーン色の椅子を」など、いろんな提案営業を経験することができました。

 その後は、フジサンケイグループのお台場移転、電通の聖路加タワー移転、TBSの赤坂ビッグハット移転など、大きなプロジェクト案件に携わることになります。オフィス家具は競合他社との差別化が難しい分野ですから、「どうすれば仕事の効率が上がるか」「いかに企業イメージを高めるか」など、クオリティの高い企画提案が選ばれるための打ち手となります。それらを企画し、プレゼンし、提案内容をまとめ上げて納品していく――。そんなコンサルティング営業が、自分には楽しくて仕方ありませんでした。また、当時のフジテレビの社長とイトーキの社長が、商談決定後の会食のテーブルで握手するシーンを末席に座って見たことがあります。「すごいな。こうやってトップ営業が行われ、億単位の仕事が決まっていくんだ……」。とても刺激的で、貴重な経験でした。

 そして華やかだったバブルがはじけた後、26歳の僕は、ある問題を抱えたイトーキの子会社へ出向することになります。与えられたミッションは、黒字化とビジネスモデルの再構築。肩書きは課長でしたが、ここで僕がやったことは再建を任された経営者のようなもの。実績や営業力がいくらあっても、説得力のある中期計画がないと、銀行はお金を貸してくれません。BSやPLを一から勉強し、キャッシュフローの重要さも学びました。結果としては、年商12億円、20名の陣容が、年商9億円、12名と縮小しましたが、約2年で黒字化とビジネスモデルの再構築を実現することができた。天の配剤と言うべきなのでしょうか、僕はこの子会社再建を経験したことで、起業後に正しい商売を継続していくための、大切な基礎を身に付けることができたと思っています。

<感動の記憶>
ある結婚式で受けた感動を再生する技術を!
2年後の起業を目指し、ベンチャー企業で修業

 26歳からの2年間、子会社再建に奔走したため、僕が20歳の時に決めた28歳で起業するという目標は、少し遅れることになります。話を少し戻しますが、イトーキに入社したての頃、会社の先輩の結婚式に招待されました。新婦のこともよく知っていて、先輩とケンカばかりしていたので、結婚して大丈夫なのかな?と(笑)。ところが、その結婚式が想像以上に素晴らしかった。社会人になって初めて出たその結婚式は、青山の会場でのキリスト教式で、披露パーティはまるで本格的なフレンチレストランのようでした。福岡で親戚の結婚式に出たことはありましたが、それとは全くの別物です。新郎新婦は感動の涙ですし、おしゃれでかっこよくて、僕自身も大感動しました。東京の結婚式には、何か重要な仕組みがあるに違いない――。そう考えた僕は、会社が休みの土曜日を使って、某有名シティホテルで配膳のアルバイトを始めることにしたんです。

 配膳のアルバイトを始めてわかったことは、特別な仕組みは存在しないということ。だったら厨房に何か仕掛けがあるのかと、今度は皿洗いのアルバイトをしてみましたが、ここでも新たな発見はない。ということは、結婚式というコンテンツに何かしらの編集を加えることで、“感動の再現性”の仕組みを構築できれば、新しいビジネスモデルが生まれるのではと考えたわけです。そして、イトーキの子会社の再建が見え始めた頃、オリジナルウェディングを提案する、設立されたばかりのウェディング会社に出会うんですね。「自分の考えに近いウェディングビジネスを立ち上げようとしている」。まず、そのことに驚きを覚えました。イトーキでは、会社の上場、事業再建を経験した。でも、自らが起業する前に、ベンチャー企業の市場を開拓するステージの経験もしておきたい。そこに一番のメリットを感じたこと、そしてその社長のビジョンが素晴らしかったこともあって同社でお世話になることを決めました。

 当初の目標より2年遅れたが、30歳までに起業しよう、市場を創ってゆくシーズステージから事業運営を開拓するアーリーステージまでを一生懸命やり遂げよう。そう考えながら仕事に取り組みました。新郎新婦とゲスト双方に、いかにして感動と満足を提供できるか、その仕組みづくりに没頭しましたね。そんな仕事を続ける中で、またひとつ新たな発見がありました。当時、リクルート社から『ゼクシィ』が創刊されるなど、確かにウェディングビジネスは成長市場で、オリジナルウェディングも徐々に定着しつつあったのですが、まだまだこれを経営として数字で判断できる店舗やレストランが少ないということ。ここに必ず大きな起業チャンスがある――。会社の陣容が20名を超え、自分の役割もミドルマネジメントとなるタイミングでもありました。そして、アーリーステージを超えたタイミングの1997年7月1日、夏の暑い日、起業というステージへの第一歩を踏み出すことになるのです。

日常の感動を創出する新たなビジネス領域へ。
第二創業期を過ぎ、世界展開も本格化!

<不退転の覚悟で>
アセットと組織を有する有望なレストランに、
コンサルティングで、新たな収益源を提供する

  起業時の資本金は400万円。3カ月の運転資金しか捻出できませんでした。そんな条件下で、ウェディングビジネスという成長市場にどうやって切り込んだのか。僕はレストランウェディングに狙いを定めたのです。まずは、すでに資産と組織を持っているレストランのコンサルティングに特化していこうと。徒手空拳の挑戦のようですが、僕には必ず市場を創ってゆくステージを乗り切れるという読みがありました。起業前、お取引していた衣装会社から、千代田区丸の内にある中堅ホテルのフレンチレストランを紹介されました。クライアントはその1社のみでのスタートです。代官山や表参道などに比べると、東京駅近くのオフィス街は確かに色気がありません。でも、地方からの招待客のことを考えると、アクセスがいい。ものの見方を変えれば、逆転の発想ではないですが、どこかに勝機が見つかるものなのです。

 話を聞けば、前年の結婚式組数はわずか2組。しかし、土日の稼働率をどうしても上げたいと。そこでこうお伝えしました。「当社にお任せいただければ確実に組数を上げることができます。しかし、そのためにはいい部分をブラッシュアップし、悪い部分はとことん変えなければなりません」。もちろん不安もありましたが、僕たちも不退転の覚悟でしたから、必死です。レストランと当社の全スタッフの目の前で、古い既存のウェディングサロンを内装業者に壊してもらうことで、変わることへの強烈な意識付けを行い、また、営業担当者、シェフやホールスタッフに、ウェディング会場として成功するためのノウハウを徹底的にレクチャー。もちろんただ指示を出すだけでなく、僕たちもスタッフと一緒に結婚希望者を接客するテーブルについて、率先垂範の人財教育とマネジメントを続けました。

  毎月6件の結婚式を獲得し、年間で72組を目標としていましたが、1年目に、なんと98組を達成。スタート時の成功体験は、僕とポジティブドリームパーソンズ(PDP)のメンバーにとって、とても大きな自信となりましたね。このフレンチレストランは、その後も人財採用と人財育成をお手伝いし、僕たちのコンサルティングがもう必要ないとなったタイミングでフェードアウト。今でも人気のレストランウェディング会場です。最低でも起業から5年間は、固定費をできるだけかけない持たざる経営を続ける覚悟でした。それからは青森のホテル、静岡のオーベルジュ、千葉のホテルなど、さまざまな地方の案件を手がけながら、ウェディング業界での地歩を固め、他社が敬遠するような難しい仕事に必死で取り組み成果を出しながら、会社としての足腰を鍛えていったのです。

<直営施設の運営開始>
レストラン、フラワー、ホテル事業など、
より多面的な事業展開をスタートさせる

  そうやって、数多くの経験・ノウハウを地道に積み上げ、しっかり成果を出し続けたことが、PDPの評判を業界内外に広めてくれました。会社の陣容が大きくなり、次の経営・事業戦略を考えるタイミングが訪れたのは5年目をすぎた頃。スタッフが誇りを持てるような自社直営施設の運営に乗り出すことが、今後の経営戦略上、重要だと考え始めたのです。それでも最初から自社で新設するのではなく、リスクがより小さな中古案件をあえて狙いました。そんな時にお声かけいただいたのが、トヨタ自動車と長崎県が第3セクターで運営しているヨットハーバーのレストランの運営です。ここでもやはり「難しい案件でも確実に成果を出してきた」という点が評価されました。そして2002年、そのヨットハーバー内に当社の直営施設第1号として、ゲストハウス「THE VILLAS(ザ ヴィラズ)」が誕生します。

 その翌年、福岡にも「THE VILLAS」を、そして2004年には、東京・代官山に「GRANADA SUITE(グラナダスィート)」を出店しています。当時は、多くのブライダルカンパニーが各地に続々とゲストハウスを建設していて、その多くは新婦に好まれる白亜系のタイプでした。では、PDPはどんなテイストのゲストハウスを展開していくのか?「GRANADA SUITE」は僕たちにとって、社内外に向けたブランディングの方向性を位置づける重要な役割も持っていたのです。そのうえで、新婦だけではなく、新郎にとっても魅力を感じてもらえるよう、スタイリッシュかつモダンな空間設計を施しました。

 今から6年前にフラワー部門を内製化しています。きっかけは、うちで結婚式を挙げられたお客さまから「当日の会場イメージが違った」という感想が寄せられたことにあります。ドレスや引出物は目で確認できます。食事は試食サービス、ヘアメイクもリハーサルがある。これまで装花だけは、事前に確認できなかった。当時の提携企業とはその仕組みが実現できなかったので、ならばお客さまのために自分たちでと。それから「“試”花」サービスを始めたというわけです。また、2007年には神奈川県・葉山町に、初のコンパクトデザインホテル「SCAPES THE SUITE(スケープス ザ スィート)」をオープンしています。SCAPES THE SUITEは、あえて4室ならではの心憎いおもてなしのスィートルームとレストランを兼ね備えたコンパクトデザインホテルで、この取り組みもPDPの未来戦略にとって重要なポイントとなりました。

<未来へ~ポジティブ ドリーム パーソンズが目指すもの>
“感動創出企業”世界一を本気で目指し、
企業理念に定めた“200年継続する企業”へ

  この頃同時に、今後PDPが取り組んでいくべき事業領域の検討をし始めています。先輩の結婚式に出席して得た感動が、今のビジネスの出発点です。そして、確かにその感動の仕組み化をテーマとし、会社経営を推進してきました。でも、この感動創出を結婚式という一生に一度きりのものではなく、日常の連続性の中で提供していきたいと考えるようになっていったんですよ。そこで出した結論が、ウェディング専門企業からの脱却です。創業10周年を迎えた2008年を第二創業期として、PDPを“感動創出企業”と再定義しました。お客さまとのアクセスポイントを増やし、しかも長期的継続関係を体感していただくためのビジネスモデルに再編成していく――。そこで、ウェディング、フラワー、ホテル、レストラン、バンケットビジネス、コンサルティングの6つを、PDPのコアコンピタンスであり、感動提供の事業領域として定めることを決定しました。

 この6つの事業領域展開の可能性を検証する場が、「SCAPES THE SUITE」でした。ありがたいことに、ここで結婚式を挙げた、また評判を聞いて1度泊まったお客さまのリピート率がとても高いんです。この結果は、PDPのサービス提供により、感動の連鎖がしっかりと始まっていることを意味します。PDPが未来に向かって事業を推進していくうえで、とても大きな自信になりました。来年には富士山のふもとに立つある施設で「SCAPES」ブランドの2号店をオープンする予定です。富士山は日本人にとって特別な山であり、世界の多くの人々も「一度は見たい」「登ってみたい」と思う素晴らしい日本の資産。将来、当社が本格的に海外進出をする際にも、ここで事業を行うことが非常に大きなブランディング・アドバンテージになると考えています。

 そして、今年の4月29日には、東京・品川駅前の旧・ホテルパシフィック東京内に、「THE LANDMARK SQUARE TOKYO(TLS)」がオープンしました。宿泊特化型のホテル、レンタル会議室などからなる複合施設ですが、TLSはその3階と29・30階を使用して、レストラン・バーの運営を主軸としながら、ウェディング、バンケット、フラワーといった4つの事業をワンストップで提供していきます。また、2年前からブライダルカンパニーのコンサルティングを行ってきた韓国で、某有名外資系ホテルグループとの提携による、直営のフラワー事業の出店も決定しています。2008年から、全社一丸となって推進してきた第二創業期の“身長延ばさず、筋トレしまくる”期間を終え、“筋トレしながら、身長伸ばす”というステージに突入しました。国内はもちろん、アジアへ、世界へ、PDPの底力を本格的に発信していくタームに入りました。これからも、“感動創出企業”世界一を目指し、企業理念である“200年継続する企業”として、PDPを育てていきたいと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
学びと成長の延長線上にある社会貢献という志。
ただし、自分に向き合い続けなければ出会えない

 自分が成長していくんだ、学び続けるんだと覚悟を決めた延長線上で、初めて大きな貢献を果たしていけると思います。そんな明確な目標を、僕も含め、これから次代を背負っていく日本人は持たないといけないと考えています。現状がこうだからできないなど、ネガティブな志向は人間をダメにします。誰しも意味があってこの世に生を受けたわけですから、自分は何を成すべき人生を歩むべきなのか、その設計図をしっかりとつくっておくことが必要ですよね。ちなみに、僕は社内のメンバーに、「“感動創出技術”ナンバーワンの会社になろう。GNH(グロスナショナルハッピネス:国民総幸福量)を増やしていこう」と、自分と会社が目指すべき方向性を伝えています。そうやって、人生の目的をはっきり定めることがすごく重要だと思うんです。

 きっと、これが「志」なんでしょうね。僕の場合、20代の頃から、独立したい、起業したいという私欲はずっとありました。この私欲の先にいったい何があるのか? このことをずっと考えていたんです。で、35歳を過ぎた頃、社員がついてこない、想像したより業績が上がらないと、ものすごく悩みました。その時、一度自分を振り返ってみようと、一人旅をしたんですよ。その時ですね、「世の中にもっと感動を生み出したい」という、答え=志が見つかったのは。本当にポロッという感じでした。志って、言葉にすると簡単ですが、見つけるまでは本当に大変です。最初に野心から入って、事業を必死で継続する中で、明確な志につながった有名起業家も多いです。何にせよ、絶対に逃げずに、「自分は何のために生きているんだっけ?」と、愚直に自分に矢を向け続けることが重要です。

 今、僕は3年制の大学院に通っていて、来年3月の卒業を目指しています。海外進出を目指していた37歳の頃、上海の若手起業家との間に提携話が持ち上がりました。でも、今のままの自分では、彼には勝てない、負けるな、と。「なぜあなたは、そんなに優秀なのですか?」、ストレートに聞いてみました。すると、中国は国家として、優秀な学生を海外の有名な大学院に送りこんでいることを教えてくれた。でも、当時の僕は会社を経営しながらMBA留学はできませんから、国内の大学院で学ぶ道を選択したというわけです。冒頭のリトルリーグの話ではないですが、勝ち続けたいなら、やはり、学び続けないといけない。学ばないと勝てないですし、学ぶことで成長し続けなくてはいけない。そう僕は考えています。起業は始めたら絶対に継続する。ゴーイングコンサーンが大前提の勝負なのですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

起業、経営ノウハウが詰まったツールのすべてが、
ここにあります。

無料で始める