第108回 株式会社ディー・エヌ・エー 南場智子

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

目次

第108回
株式会社ディー・エヌ・エー 代表取締役社長兼CEO
南場智子 Tomoko Namba

1962年、新潟県生まれ。県立新潟高校から、津田塾大学英文学科に進学。在学中に、1年間、ブリンマー大学へ留学。大学卒業後の1986年4月、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。1988年、いったんマッキンゼーを退職し、ハーバード大学大学院へ私費留学。1990年、ハーバード大学にてMBAを取得し、その後マッキンゼーに復職する。1996年、歴代日本人女性で3人目のマッキンゼーパートナー(役員)に就任。1999年に株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)を設立。同年、マッキンゼーを退職し、DeNA代表取締役社長に就任。2003年に内閣IT戦略本部員、2004年に規制改革・民間開放推進会議委員、2007年には知的財産戦略本部コンテンツ・日本ブランド専門調査会委員に就任。2009年10月、「グローバル時代におけるICT政策に関するタスクフォース」国際競争力強化検討部会構成員に就任(現任)。

ライフスタイル

好きな食べ物

白米です。
米どころ新潟の生まれですから。白米そのものが大好きです。炊きたてのご飯に、お味噌汁、明太子、卵、筋子なんかあると最高ですね。お酒は飲みますし、好きなほうです。社員ともよく飲みに行きますが、弱いです。

趣味

読書くらいでしょうか。
ないんですよね~、強いて言えば、読書? 今読んでいるのは『カラマーゾフの兄弟』です。宮城谷昌光さんの小説『太公望』も面白かった。時代物から小説まで何でも読みますが、ビジネス書はいっさい手にしません。だって、過去の事例だから。

行ってみたい場所

温泉と沢登り。
家族で、キャンピングカーを購入する計画を立てています。秋くらいを目標にしています。温泉と沢登りが好きなので、日本中の名所を走って回りたいと思っています。忙しいから実現できるかどうか微妙ですけど。そういえば、ダイビングにもほとんど行けていません。

最近感動したこと

7歳のさくらのこと。
飼い犬のさくらのこと、「頭悪い犬」って思っていました。でも、出張に行く時、荷物をパッキングするでしょう。それを見つけて、吐いちゃうんです。さびしくなることを察知しちゃうんですねえ。ここまでわかっているのかと、ちょっと感動しました。

「モバオク」「モバゲータウン」で右肩上がりの成長を継続中――
5年以内に、世界にインパクトをもたらすビジネスを!

 「モバゲータウン」「ポケットアフェリエイト」など、日本最大規模のモバイルサービスを展開し、右肩上がりの成長を続けている株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)。「モバゲータウン」を介した、月間のページビュー(PV)は600億PVを軽く超え、日本の携帯電話の総トラフィック数の15%を獲得するまでに。モバイル先進国といわれる、日本での成功と10年をかけて培ってきた実績を武器に、今、チームDeNAが目指すのは、世界のリーディング・カンパニーの仲間入りをすることだ。同社の創始者であり、代表取締役社長の南場智子氏は言う。「すべての企業は成長を目指すべきか? 自問してみたのですが、これは好みの問題だと思います。私を筆頭に、チームDeNAは、フラットが嫌い。右肩上がりが大好きなのですよ(笑)」。今回は、そんな南場氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<南場智子をつくったルーツ1>
父がダメと言ったことは、理由なくダメ!絶対権力を持った父の元で育った少女時代

 年がばれてしまいますが、「寺内貫太郎一家」って覚えていますか? 小林亜星さんが下町の頑固で短気でケンカっぱやい、石材店のオーナー兼親父役を好演したテレビドラマ。うちの父も新潟で経営者をしていましたが、貫太郎のかわいげを全部とっぱらった感じ。母、姉、私にとって、ものすごく怖い存在でした。とにかく厳格な人で、高校までずっと門限があって、それも18時。友だちと喫茶店で話が盛り上がって、帰りが少しでも遅れたら、「どこに行ってたんだ!」となる。喫茶店は校則で出入りが禁止されていましたから、友だちに悪いと思い、「ひとりで喫茶店へ行っていました」とうそをついたら、父はその喫茶店に電話して、「今日の顧客の記録を見せてほしい」と迫る。姉が夜、海浜公園のバーベキューに行った時もすごかった。お迎えの車を派遣して、公園の周りを走らせ、姉の名前をと大声で呼びながら捜索させましたからね。

 小学校の頃から、私、父のお酌をしたり、ふとんをひいたり、腰をもんだり、靴を磨いたり、「これをやりなさい」と言われたら、基本的に「はい」以外はありえない世界です。絶対服従です。毎晩、母は父が20時に帰宅することを想定して夕食を用意していました。ただ、父の帰宅時間は決まって遅くなる。冷めた御膳は許されませんから、20時半をすぎるといったん下げて、帰宅時にまた温め直して出しました。また、深夜近くに帰宅した時には、よく「うどんにしてくれ」って言い出すんです。常にうどんを冷蔵庫に常備していたのですが、運悪く切らしていた日がありました。焦った母は、すぐに夜中でも外に駆け出して行き、明りのついている近所の家を探し回って、「うどん、譲っていただけませんか?」と。

 当時はコンビニなんてありません。で、家に戻って、譲ってもらったうどんをつくって父に出したら、「バーン!」とひっくり返される……。すごいでしょう。もちろん、テレビのチャンネル権も私たちにはありません。「レコード大賞」が見たいのに、なぜか父は裏番組の「マジックショー」をよく見ていました(笑)。一度口に出したことを、絶対に覆さない人でもありました。同級生のみんなが持っていたから、自転車がほしい時があったのです。母と一緒に、「みんなが持っているからほしい」などと言っては絶対にダメに決まっています。「どうお願いするのが一番良いか」と作戦を練った結果、正直に「自転車を買っていただきたいのです」と伝えました。父からの返答は、「必要ない」。以上です。二度目の交渉の余地はなし。父がダメと言ったことは、理由なくダメ。あきらめるしかありません。

<南場智子をつくったルーツ2>
この家にいると個性のない人間になってしまう?
家を出る覚悟で、父に本当の意味で体当たり!

 父からは、一度も「勉強しろ」と言われたことがありません。「女に教育など必要ない」という考えの持ち主ですし、学校教育をいっさい信じていないんです。それよりも家庭教育のほうが重要だと。授業なんて聞かなくてもいい、俺の言うことを聞いていればいいのだと。だから、教科書は学校の机の中にずっと置きっぱなしでしたし、宿題をやった記憶もない。さらに、忘れ物の数はクラスで一番多かったし、ドリルもいまだに終わっていません。たとえば、家で勉強していたとするじゃないですか。それを父に見つかったら、「勉強しないと、勉強ができないのか? すぐに勉強をやめて、靴を磨きなさい」と。でも、テストの成績はすごく良かったんです。父に隠れて、一夜漬けをしていましたから。昔っから負けず嫌いでしたからね、私は。勉強でも、運動でも、一番にならないと嫌だったんです。

 父も母も、うちの親族のほとんどが、男は県立新潟高校へ、女は新潟中央高校へ進学しています。姉もそのしきたりに則り、中央高校に進学しましたから自分もそうなるのだろうと思っていました。でも、私は新潟高校に行きたかったんです。そうしたら、父は「おまえは新潟高校に行きなさい」となった。「あれ?」って感じで拍子抜けしましたが、嬉しかったですね。私、ものすごく成績が良かったんです(笑)。ちなみに部活動は、小・中・高とずっと水泳部に所属していました。あれは高3の時でしたか、部活が終わる時間を聞かれ「わかりません」と返したら、「すぐに部活を辞めなさい」。私の部活動は、ここで終了。

 大学は、そもそも行かせてもらえるかどうかすらわかりませんでした。あれは忘れもしない、高校3年の8月13日のこと。父に聞いてみました。「大学に行かせていただけますか」。「地元の新潟大学に行きなさい。東京の大学で独り暮らしする女性は100%不幸になる」。もうこれ以上耐えられないと思った私は、生まれて初めて父に反抗したんです。「もう家を出ていきます」と荷物をまとめ、本気で出ていこうとしたら、180センチ、100キロを超える巨漢の父がドアの前に仁王立ち。もう私も何が何だか分からなくなって、父に向って体当たり。3回目の体当たりで跳ね飛ばされて、家具の角に背中をしたたかにぶつけてしまった。けっこうな量の血が出て、母と姉はオロナインを持って泣きながらおろおろするばかり。その後の父ですか? 「明日は墓参りだ。17時にお墓に集合するように」という一言を残し、どこかへ行ってしまいました。

<父との邂逅>
父から逃れるため、1年間の米国留学。手紙のやり取りで、ふたりの間のしこりが取れる

 この家にいると自分の考えが持てない。やはり、家を出ていきたい。そんな思いがどんどん募って行きました。先ほどのこともあってか、母が数カ月かけて父に対する工作をしてくれたんですよ。あとは、高校の先生も父を説得してくれて。それでやっと、上京することを許してもらった。ただし、父から提示された条件がありました。「女子寮がある女子大であること。卒業後は新潟に戻り、就職は自分に任せること。ボーイフレンドをつくらない。学生運動はしないこと」。で、「津田塾大学を受けなさい」と。普通、大学受験って、複数校受けますよね。でも、私の場合、津田塾のみ。そして、英文学科と国際関係学科を受け、両方合格の通知が来た時、「女なんだから、英文に行きなさい」と、結局は選択の余地などなく、父に即決されました。

 東京に出てきたものの、いつも父に監視されているような気がしていましたね。きっと外国へ行けば、本当の自由が得られる。父は英語がしゃべれませんから(笑)。大学で成績が一番になれば、奨学金でアメリカの大学に行ける制度がありました。それで、必死で勉強してその権利を獲得し、大学4年生の1年間、ブリンマー大学への留学が実現。父はもちろん大反対でしたが。留学時、私は毎日父に手紙を書き、送り続けたのです。1週間に一度くらいは、父からも返事が来るんですね。それまで父との会話のほとんどが、「はい」「いいえ」で答えるだけのやり取り。この手紙でのパーソナルなコミュニケーションが、父娘の間にあった、しこりのようなものを取り除いてくれたんだと思っています。留学期間を終え、帰国する際、父と私はハワイに集合して、一緒にバカンスを楽しみました。父のゴルフのお付き合いがほとんどでしたけど。この時に写した写真、ふたりともすごくいい笑顔なんですよ(笑)。

 帰国したら、私は大学5年生。同級生はみんな就職していました。さて、どうしようかと考えていた時に、声をかけてくれた先輩がいまして、その方がマッキンゼーに勤務していました。イキイキと働いている印象で、コンサルタントって面白そう、カッコ良さそう。当時はまだ女性を第一線で活躍させてくれる会社もそれほど多くなかったですからね。新潟に戻る約束ですか? 父に「マッキンゼーに入社します」と伝えたら、「有名な大前研一さんが社長の会社か。おめでとう、頑張んなさい」。で、コンサルタントとして私の社会人生活が幕を開けるわけなのですが、現実は甘くはなかったですね。自分のできなさ加減を、痛感させられる日々が始まりました。

<マッキンゼーへ>
自分のできなさ加減に嫌気がさし、MBA取得を目的にいったん逃亡

 最初はリサーチ業務が多かったのですが、そもそも専門用語の意味がまったくわからない。必死で内容を理解して、仕事に取り掛かろうとすると、もう夜です。仕事をまとめて退社するのがだいたい深夜の3時、4時。でも、遊びたい年頃でしょう。そのままドライブに行ったり、友だちとお酒を飲みに行ったり。そんな中で、上司からいつも「自分のバリューを出せ」と言われるのですが、その要領がまったくつかめない。不安が焦りに変わり、入社2年目になった頃には、精神的にも肉体的にもかなりつらい状態に追い込まれていました。それで、現実逃避というのでしょうか、私はMBA取得を口実にした留学を考え始めます。

 当時はマッキンゼーに留学制度はなく、辞めて行くしかありませんでした。それで、ピカピカの応募書類をつくってエントリーしたら、入学許可通知が届いてしまったと。大前研一さんにはこっぴどくしかられましたが、ともかく今の状況から逃げ出したくて、日本を脱出したわけです。この2年間の留学期間はリフレッシュという意味では最適でした。MBAを取得して、「さてどうしよう?」と考えた時、いくつかの選択肢がありましたが、日本のマッキンゼーに戻ることにしました。病気になった母のことが心配でしたし、逃げたままでは自分へのわだかまりが残ってしまいます。自信を取り戻したかったんです。

 でも、復職初日に、もう大後悔していましたね。何でこんなつらい場所に戻ってきちゃったのかと。その後、本気で転職活動を進めていたのですが、そのタイミングで、ある大きなプロジェクトを任されることになります。これが最後のご奉公。全力でやってみようと、腹をくくりました。「私はアホです」と最初にカミングアウトして、チームのみんなに助けてもらいながら。結果的に、このやり方が良かった。プロジェクトは大成功し、クライアントにも大変喜んでもらえました。どんなかたちでも、クライアントの成果を生み出せば正解。自分の評価なんて、実は瑣末なこと。「成功体験でしか、人は変われないし、成長できない」。この経験が、コンサルタントとしての私にとって、非常に大きな転機となりました。

●次週、「DeNAを起業! 暗く長いトンネルをくぐり抜け、日本を代表する永久ベンチャーに!」の後編へ続く→

2010年が元年! チームDeNAが本気で目指す、
世界を代表するIT業界のリーディング・カンパニー

<起業の厳しさを痛感する>
1年後の黒字化を信じ、オークション事業を開始。ふたを開けたら、暗く長いトンネルが待っていた

 それからは、私が担当するプロジェクトが次々に成功するようになって、34歳でコンサルタントの最高位であるパートナーに抜擢されました。ただ、コンサルティングの面白さが徐々にわかってきたものの、どんなに一所懸命企画を提案しても、プロジェクトを実際に動かし、最後までかかわることができません。そこがどうにも面白くないわけです。机上で戦略を立てるだけではなく、現場で血ヘドを吐いてでも、とにかく「チャリン」とお金が落ちてくる音が聞ける商売をやりたい。そんな思いがどんどんふくらんでいきました。クライアントに、「あーすべき、こーすべき」って、偉そうに提案しているうちに、私にもできるんじゃないかって、魔が差したんですね。企画した事業で、自ら製品やサービスを生み出し、人に役立つ商売をやり倒したい。

 マッキンゼーでの最後の3年間は、マルチメディア系新規事業のコンサルティングに主にかかわっていて、世界最先端のITビジネスをずっとリサーチしていました。これはイケるんじゃないかと直感したのが、まだ日本ではなじみの薄かったインターネット・オークションです。それで、1999年3月4日に、ディー・エヌ・エー(DeNA)を起業し、ベンチャーキャピタル(VC)や事業会社にプレゼンテーションして出資を募りました。でも、やはり実業は厳しかった。当初、「ビッダーズ」のカットオーバーを6月に予定していましたが、それが9月に延び、10月に延び、結局スタートできたのは、11月29日と年末近くになっていました。外部のシステム会社に頼りすぎたことが原因の失策です。その間に、「Yahoo!オークション」が本格始動してしまい、しかも、結果的に後発となったスタート時の「ビッダーズ」は、ネットから出品ができないというオマケつき……。

 当時は、灯りの見えない、暗くて長いトンネルを、やみくもに進んでいるような感覚でしたね。「業界の負け組」などという声は、耳をふさいでシャットアウト。明るい出口があるに違いないと、一瞬たりとも疑わず、前のめりに日々をすごしていました。競争に負けることが大嫌いですから、Yahoo!を追い越すためには何でもしようと。でも、そのうち見えていたYahoo!の背中が見えなくなってきた。起業した時点では、1年後に黒字になると信じていましたが、4年間も赤字が続くことになります。ただ、踏ん張っていたから、たくさんのお客さまが集まってくれていました。本質的には、みんなオークションをしたいのではなく、ほしいものを探している。そう信じて2002年、ショッピングサイトへの転換を図ります。VCからは、「Yahoo!との競争で疲弊しているのに、今度は楽天と勝負かい!?」と揶揄されましたけど(笑)。「ビッダーズはお客さまのことを第一に考え、お客さまが喜ぶ販売にシフトするのです」と宣言し、納得してもらえました。

<右肩上がりが大好き!>
DeNAをぶっ壊す覚悟で、大きな改革に着手!
すべてをゼロからつくり直し、新たなチャレンジを

 2003年、DeNAはやっと長いトンネルを抜け出し、初めての黒字化を果たしました。負けず嫌いの私は、誰もいない場所で、ひとり嬉し泣きしましたよ(笑)。PCでのオークション・サービスでは、確かにYahoo!に負けました。では、ナンバーワンになるために、どうすればいいのか。勝負する土俵をモバイルにシフトしよう。そう決めて立ち上げたのが、「モバオク」です。これは、あれよあれよという間に成長を遂げ、今では日本最大規模のモバイル・オークション・サイトに成長しています。また、同年に始めた「ポケットアフェリエイト」もそうです。約60万のサイトと数千の広告主を結ぶ、ナンバーワンのモバイル広告ネットワークに育っています。こちらも日本最大規模ですね。そして、2005年2月にIPOを果たし、2006年には、「モバゲータウン」をスタート。2009年10月、内製ソーシャルゲームが大ヒットし、2010年1月、モバゲーAPIのオープン化によって100種類以上のゲームが公開されました。

 内製ソーシャルゲーム「怪盗ロワイヤル」「ホシツク」は、mixiアプリへのコンテンツ提供も開始し、ユーザー数をどんどん拡大しています。また、モバゲーAPIのオープン化により、国内のゲームデベロッパーのみならず、アメリカ、中国からの参戦も増えてきました。このように、モバゲータウンの急成長を支えたゲームが、再び大きな盛り上がりをみせていますね。では、DeNAは、モバゲータウンの会社なのでしょうか? 確かに今、当社の売り上げシェアのおよそ60%を稼いでくれているのは、ソーシャルメディアです。でも、30%は、毎年10%以上の成長しているEコマースで、当社のオリジンといえる大事な事業。ほか、モバゲーとのかぶりがありますが、広告事業が15%ほど。残りの数%が、「趣味人倶楽部」などを手がけている新規事業となっています。

 私たちは、常に時代の変化をとらえ、お客さまのニーズに耳を傾けながら、特定の市場やデバイスに拘泥することなく、自由に挑戦し、右肩上がりの成長を続けてきました。もちろん、苦しんだ時期もありました。成長がコツっと、音を立てるように止まったんです。「モバオク」「ポケットアフェリエイト」「モバゲータウン」が、自律的な成長を続けていた頃、事業規模が拡大し、業務量が数倍に増えたにもかかわらず、私たちは同じやり方、陣容で仕事に臨んでいたんですね。成長を止めないことばかりを考え、進化するための改革を忘れていたということです。強い危機感を覚えた私たちは、DeNAをぶっ壊す覚悟で、大きな改革に着手します。採用、戦略、意思決定のプロセス、撤退ルールなどなど、すべてをゼロからつくり直しました。リソース配分も見直しました。では、すべての企業は成長を目指すべきか? 自問してみたのですが、これは好みの問題だと思います。私を筆頭にチームDeNAは、フラットが嫌い。右肩上がりが大好きなのですよ(笑)。

<未来へ~DeNAが目指すもの>
5年以内に世界をあっと驚かす、大成功事例をつくり出したい!

 グローバルに世界を切り拓いていくための、DeNAアイデンティティーを確立していきます。世界中の人々が、「DeNAが登場するBefore・Afterで、世の中がこんなに違っていたんだ!」と、あっと驚くほどの大きなインパクトを残したいと本気で思っています。新たな購買手法なのか、余暇の過ごし方なのか、友だちとの出会い方なのか、才能の発揮の仕方なのか、手がける分野はいろいろあると思うのですが、地球上の人々が喜ぶことを、続けていきたいんですね。こんな大言壮語をしても、妄想癖なんて言われない状況にようやくなったと思っています。ITの領域で、世界を代表する日本企業が思い浮かびますか? グーグル、フェイスブック、ジンガなど、全部アメリカの企業ばかり。それもここ10年以内に、にょきにょきとゼロから生まれてきた。悔しいじゃないですか。だからこそ、日本をオリジンとするチームDeNAが、世界の人材、ノウハウを集めて、そのポジションを目指すのです。

 50年ぶりに、ソニーや任天堂のような、真の日本発グローバル・リーディング・カンパニーを目指す。私たちは2010年を、その元年と位置づけました。その夢を実現するためにも、成長し続けること、挑戦し続けること、機動力を維持し続けること。永久ベンチャーであり続けたいと思っています。ベンチャーだけど、人材はとびきり優秀というような。PCオークションからスタートし、ショッピング、モバイルオークション、モバイル広告ネットワーク、モバイルSNS、ソーシャルゲームと、成長のエンジンがどんどん変わっています。ちみなに今年度内に、NTTドコモと合弁会社と設立し、「E★エブリスタ」という、ケータイ小説のみならず、コミックやイラスト、写真、レシピ、俳句など、数多くのジャンルの投稿・閲覧ができ、幅広い年齢層に楽しんでいただけるサービスを提供する予定です。しばらくはIT&モバイルという軸は外さず、今後の2年くらいのキーワードは"ソーシャル"ではないでしょうか。

 今、毎月1週間をシリコンバレー、3週間を東京というスケジュールで生活していますが、地球って案外狭いんですよね。国や地域など、既存の枠にとらわれず、世界を視野に挑戦し続けます。新潟に生まれ、2度の留学を経て、コンサルタント業務に長く携わってきました。でも、私の人生は1999年から始まったと思っています。日本の人口はシュリンクしていきますが、国内のモバイル保有台数は1億台、世界では40億台。そしてこのマーケットは、世界規模で見ればこれからもますます拡大していくでしょう。起業から10年の間に、モバイル先進国の日本で、いくつかの日本最大規模のサービスを生み出すことができました。この先行者メリットを十分に生かしながら、私たちチームDeNAは、5年以内に世界をあっと驚かす大成功事例をつくり出します。お楽しみに!

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
どうせやるなら世界を自分のアイデアで支配したいとか、
そんな純粋な野心を持ってチャレンジしてほしい

 日本が起業したくなる環境かと聞かれると、「そうではない」と答えざるを得ませんよね。シリコンバレーでは、アントレプレナーやエンジニアのステイタスが異様に高い。弁護士やコンサルタントなんて下のほうですよ。また、研究機関や金融の仕組みなど、起業を後押しする仕組みが素晴らしく整備されている。今もきっと、にょきにょきとベンチャー企業が誕生していて、そのうちの数社が10年後のリーディング・カンパニーになっているかもしれません。一方、経済も国民も、いまだ大企業頼りの日本。アントレプレナーが尊敬されているとはまったく思えないですし、金融機関から融資を受ける際には個人保証をつけられ、失敗したら身ぐるみはがされる。ちょっと賢い人は、きっと起業しないと思います(苦笑)。誰だって、ミゼラブルな人生を送りたくないから。

 先日、ドリームゲートの「大挑戦者祭」というイベントで講演をさせてもらいましたが、起業環境が遅れた現代日本の中にもけっこういましたね! 本気で起業を目指す方々が集まっていた。ビジネスプラン・コンテストでプレゼンした人の中にも、規模はまだ小さいけれど、多国籍チームで事業を進めている人が数チーム見受けられました。あの方々は日本の希望だと思います。マスコミをもっと巻き込んで、かっこいいアントレプレナーのヒーロー、ヒロインを仕立ててほしいです。その場合、私みたいな元・マッキンゼーとか、過去の経歴が立つ人ではなく、普通の会社員の脱サラケースとか、大学中退で起業のケースとか、普通の市井から出たヒーローのほうがインパクトはありますよね。ご本人が持つ、ピカピカの実力の証明にもなりますし。

 当社のモバゲーAPIもそうですが、いろいろな仕組みがオープン化され、起業のチャンスは世界的に広がっていると思います。勝負するなら、今のほうがいいですよ。難しい時にスタートして成功したほうが目立ちますし、いろんな意味で取り分も多いですから(笑)。ただ、どうせやるなら世界を目指してほしい。たとえばですが、世界を自分のアイデアで支配したいとか、そんな純粋な野心をもつことです。私はひとりでも多くの日本人にシリコンバレーを見学してほしい。シリコンバレーの多国籍軍アントレプレナーたちは、地球を自由に闊歩しています。同僚のインド人が母国にある格安の開発先を開拓し、アフリカ人が格安のコールセンターを見つけてくる。日本なら数カ月の時間を要することを、彼ら数人の多国籍ベンチャーはたったの6時間で実現してしまう。現実論としてあれこれ言いましたが、そうは言っても私は日本が大好きなんです。だから、日本発の永久ベンチャーであり続けたいと頑張っているのです。みなさんにもせひ、挑戦し続けてほしいと願っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓



現役社長 経営ゼミナール

Q.起業を決める前、決めた後でも多々判断する場面が出てきてます。
自分が楽できる方向ではなく、客観的に見ようとはしてますが、不安になる事が多々あります。正しい判断と決断は何をもってされてますでしょうか。
(東京都 会社員)

A.
社内のキーパーソンとディスカッションしながら意思決定を行うことで、その客観性を担保できると思います。そして判断には何より迅速さが重要です。正しい判断をしようと、材料が完璧に揃うまで待ってから意思決定をしたのでは、環境の変化に乗り遅れてしまいます。一旦判断をしたらその決定が正しかったのかについてくよくよ悩まず、下した判断を正しくするという気持ちで取り組む姿勢が大切です。

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