第105回 NGO大地を守る会/株式会社大地を守る会 藤田和芳

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

目次

第105回
プロフィール NGO 大地を守る会 会長 株式会社大地を守る会 代表取締役社長
藤田和芳 Kazuyoshi Fujita

1947年、岩手県生まれ。上智大学法学部卒業後、建築系の出版社に勤務。1975年8月、学生運動指導者の故・藤本敏夫氏とともに、有機農業の普及をめざしてNGO(非政府組織)大地を守る市民の会(現・大地を守る会)を創立。1977年11月、同会の流通部門として、社会的起業の先駆けとなる、株式会社大地(現・株式会社大地を守る会)を設立した。以来、有機農業運動をはじめ、食糧、環境、エネルギー、教育、世界平和などの諸問題に対する活動を展開し、国内外の生産者との連携も深めている。現在、NGO大地を守る会会長、株式会社大地を守る会代表取締役社長を兼務。また、「100万人のキャンドルナイト」呼びかけ人代表、アジア農民元気大学理事長なども務めている。著書に『ダイコン一本からの革命』(工作舎)、『農業の出番だ!「THAT’S(ザッツ)国産」運動のすすめ』(ダイヤモンド社)など多数。

ライフスタイル

好きな食べ物

毎朝の朝食です。
毎朝の朝食は欠かしません。ご飯に味噌汁、納豆、小魚、漬物が基本です。食事全般も、肉系より魚系の料理が好きです。お酒は、何よりもビール。有機の地ビールもいいですが、一番はエビスビールでしょうか(笑)。

趣味

俳句と囲碁・将棋です。
仲間と年に2回ほど、句会をやっています。あとは、囲碁・将棋。食事中も、囲碁チャンネルを見ながらビールを飲んでいます。経済誌の指導対局連載で、ある著名女流棋士と勝負して、勝ったこともあるんですよ。

行ってみたい場所

ブータンです。
ブータンです。敬虔な仏教国で、豊かな人間の感性、ゆったりとした時間の流れを感じてみたい。雨の日とひどい二日酔いの翌日以外、5キロのジョギングを日課としています。ブータンでも走ってみたいですね。ちなみに、南アのヨハネスブルク、パレスチナでは、「走らないほうがいい」と止められました。

最近感動したこと

パレスチナへの支援です。
パレスチナのオリーブオイルを輸入しています。ガザ地区にイスラエルが侵攻し、現地の生産者から、助けを求めるメールが届きました。そのことを大地を守る会の会員に伝えたところ、なんと1週間で約8000口、430万円もの現金が集まったのです。日本で一番早い支援ができたことを、とても嬉しく思い、感動しました。

日本の第一次産業を守り、環境問題にも取り組む。
「事業」と「市民運動」の両輪でファンづくり!

 農薬や化学肥料に頼らない、有機野菜が売れている。おいしくて、体に安全なのだから当然だろう。しかし、大地を守る会が生まれた今から35年前、この取り 組みは生産者からも、流通業者からも「無理だ」といわれていたのだ。社会的起業のさきがけと呼ばれ、現在、9万1000人の消費者と2500人の生産者をつなげる一大ネットワークとして、大地を守る会を育て上げた藤田和芳氏は言う。「環境に負荷を与えない生産活動を推進し、大地も、川も、海も、ひいては人々の健康な体を守るため、この活動を通じて、これからも日本の農業をしっかりと支えていきたい。絶対に、この旗を降ろすわけにはいきません」。今回は、そんな藤田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<藤田和芳をつくったルーツ1>
農家の次男は家を出て行くのがしきたり。物心ついた頃に、高校卒業後の上京を決める

 生まれ育ったのは、岩手県の胆沢町(いさわちょう)です。今は市町村合併で、奥州市となりました。北上川が流れ、奥羽山脈と北上高地にはさまれた広い扇状地でしてね。どこまでも田んぼが広がっている。私の実家も代々続いた稲作農家です。5人兄弟の真ん中の次男でしたから、親の干渉もあまりなく、自由奔放な少年時代をすごしました。勉強はきらいだったけど、まあまあできたほう。でも、夏休みの宿題などは、最後の日にやり始めて、3分の1も埋めずに提出してた。ずっとその繰り返しですよ。遊びといえば、夏は川でドジョウや、コイ、フナを捕まえたり、ヘビを追いかけたり。冬は下駄の下にアルミ箔をつけて、氷の張った田んぼでスケートしたり、雪の深い日は学校までスキーで通ったり。おなかが空いたらりんごをもいで食べ、らっきょうを引っこ抜いて味噌をつけて食べ。大自然の中で、いろんな遊びを楽しんでいました。

 周りのほとんどが農家の子。なぜか1学年、2学年上には、男子生徒がひとりもいませんでしたね。でも、私の学年は5人の男子がいて、乱暴なガキ大将ではないですが、なんとなくリーダー役に。小学4年で地域の子ども会の選挙に出られると聞いて、立候補してみました。4年より下は、基本的に私の支配下にありましたから(笑)、圧勝で当選しました。会長の仕事といっても、早起き会、ラジオ体操、お祭りなど、行事の仕切り役ですよ。当時は周辺に22地区の子ども会があって、子ども会の会長会議が開かれたので参加してみたら、小学4年の会長は私だけ。2歳上の姉からは、「なんで弟の命令を聞かないといけないの?」とか、不満を言われていました。結局、会長は6年まで続けています。まあ、目立ちたがり屋の面もあったのでしょう。

 農家の家は、長男が継ぐもの。食事に魚が出たら、父と長男が尾頭付きを食べ、その他は尻尾のほうとか、子どもの頃から差をつけられていました。物心がついた時にはもう、「ああ、自分は高校を出たら、きっとこの家を出て行くんだろうな」と。家の近くに束稲山(たばしねやま)という山がありましてね。その山の向こう側の、ずっと遠くに東京がある。束稲山のてっぺんに登って東京の方角を眺めながら、当時はやっていた石原裕次郎や小林旭の歌を口ずさみ、「あそこに行けば、幸せになれるかな」なんて想像していました。小学生の頃の夢ですか? 医者になりたいと思っていましたね。あとは、弁護士や新聞記者も面白そうだ、とか。明確な理由はなかったのですが、なんとなく、そんな仕事に就いてみたいと考えていたのです。

<藤田和芳をつくったルーツ2>
60年代、学生運動の風が吹き荒れる中、上智大学新聞の主幹として運動に加担

 ずっと子ども会の会長をしていたでしょう。地元では目立った存在でしたから、中学の入学式では代表として挨拶をしました。運動神経の良い友人たちは、みんな野球部に入るんですよ。私はみんなと同じというのがイヤでして、バスケットボール部に入部。比較的強いチームで、地域の中では常に3位以内に入っていました。その後、良い指導者の先生がいると聞いた高校へ進学し、ずっとバスケットを続けています。いや、高校の練習は想像以上に厳しかった。正月の3日間以外は、来る日も来る日も練習です。当時は冷暖房なんてないですし、零下10度くらいに気温が下がる冬も、すきま風が吹く体育館で必死で練習しました。もう、吐き気がするくらい。でも、その甲斐ありまして、インターハイに1回、国体にも2回出場。私がキャプテンになって、東北地方では負けなしの50連勝。負ける気がしませんでしたね。

 そんな部活漬けの毎日でしたから、勉強のほうはいまひとつ。ただ、早く東京に出て行きたいと思っていましたので、現役で受かりそうな大学を受験することに。そこでいろいろ調べてみると、上智大学には法学部はもちろん、新聞学科もある。弁護士と新聞記者に憧れていたこともあり、上智の法学部に入れば、新聞学科の講義もとれる。実は、かわいい同級生の女生徒が、上智を受験するという話も聞いていたこともありまして(笑)。無事、私は上智の法学部に合格し、上智大学新聞部に席を置きました。話が前後しますが、高校3年の時、60年安保反対運動を指導した、元・東京大学教授の日高六郎さんが書かれた共著『1960年5月19日』を読んだのです。タイトルの日は、日米安保条約が改正された日。安保闘争の中、反対運動に実を投じ、命を落とした樺美智子さんなど、高い志を持った若い学生や闘士たちが、大権力と戦う姿の描写・ストーリーに、深い感動を覚えました。

 入学後の大学生活は、比較的平和にすぎていきます。最初は上智大学新聞の記事内容も、演劇や映画、哲学書などの評論、懸賞論文を掲載したり、文化的なものが多かった。でも、中国で文化大革命が始まり、ベトナム戦争が勃発。国内では、東大紛争、70年安保闘争、沖縄返還運動が起こり、上智大学新聞も政治的な視点を展開するように。2年の時に、私は上智大学新聞の主幹に担ぎあげられます。ちなみに、上智大学の学則は学生の政治活動を禁止していました。しかし、心がゆさぶられた学生がデモに参加し、見つかると停学になる。私たちは処分撤回闘争を開始し、デモへの参加をあおったり、政治的な記事を掲載したり。そうこうしているうちに、大学側が別の御用新聞を出し始め、上智大学新聞は活動費を削られ、兵糧攻めに……。結局、その数年後に上智大学新聞は休刊に追い込まれます。今もOB会が開かれていますが、いつまでたっても私たちが一番の下っ端。緒先輩方にビールをついで回ると、「おまえたちのせいだ」と笑いながらも叱られます(笑)。

<新しいかたちの改革>
食物をつくる第一次産業を足場に、下から広く社会を見渡し、社会を変えていく!

 大学の3年までは、ねじを巻きなおせば司法試験勉強に復帰できる程度の準備はしていました。が、学生運動にのめりこみすぎて、もうそれどころではなくなった。すさんだ気持ちで心の中がいっぱいになっていましたね。卒業後の進路を考えながらも、小さくまとまった自分を認めたくない自分がいた。上智大学新聞で記事や評論を書いていましたから、とうぶんはひっそりと生きていこうと、知り合いの紹介で小さな出版社にもぐりこみました。学生運動の中、同じ年代の仲間が内ゲバで傷ついて田舎に帰ったり、少し下の年代の運動家が、浅間山荘事件、クアラルンプール事件、ダッカ日航機ハイジャック事件を起こしたり……。大学時代の自分がやろうとしていたことは何だったのか? 働きながらもずっと、心の中にもやもやしたものが残っている。妻を得て、子宝を授かり、静かに暮してはいるものの、自分の人生の総括がなかなかできない。このままでいいのだろうかと……。

 出版社で編集の仕事をしていた頃、有吉佐和子さんの『複合汚染』を読んだのです。その小説には、農薬の使いすぎで土壌や水質が汚染され、ミミズやドジョウが次々に死んでいくさまが描写されていました。微生物や小動物に起きていることは、いずれ人間世界にも波及する。このままではいけない――。その時、はたと気づいたのです。「自分は農村の生まれだった」ということに。学生運動は政治やイデオロギーと戦って社会を変える、ある意味、上から目線の闘争だったと思います。しかし、結果、国家権力に弾き飛ばされ、多くの仲間が傷を負ってしまった。一方、食物を食べるということは、万人の生命維持の根幹にある活動です。その食物をつくる第一次産業を足場に、下から広く世の中を見渡しながら社会を変えていくのはどうだろうか。小さくてもいい、時間がかかってもいい。人間が人間らしく生きていくための、正しい変革を起こしてみたい。この解にたどり着いた時、心のもやもやが晴れ、気分がすっきりしたことを覚えています。

 また時同じ頃、週刊誌の記事で、元陸軍医の高倉煕景(ひろかげ)さんが、「兵器として開発された化学物質が戦後に農薬に姿を変えて使われているが、農家に健康被害が出ている」と語り、周囲の農家に農薬を使わない農業を勧めていることを知りました。私はすぐに茨城県・水戸の高倉さんを訪ね、詳しい話を聞いたのです。高倉さんは農家の現場に私を連れて行ってくれました。すると、「無農薬で野菜をつくりたいが、小さな虫食いのあとがあるだけで、安く買い叩かれる。しかし、妊娠した妻を農薬まみれのハウスで働かせたくない」と農家の方々は言います。生協なら有機栽培の野菜を買ってくれるのではないか。私は生協で働いている知り合いに、打診してみることに。しかし、「確かに良いものだとは思う。しかし、価格が高くては顧客から支持されない」。そんな理由で最終的には断れてしまうのです……。

<産直の青空市場をスタート>
江東区の大島団地、空き地での産直野菜販売が、百貨店を使った「無農薬農産物フェア」に発展

 農家の方々も、「藤田君は、大口をたたいたけど、やっぱり無理か」と……。引っ込みがつかなくなった私は、「ならば、私がその野菜を都市へ売りに行きます」と宣言。そして会社休みの日曜日、江東区の大島団地の空き地にござを敷き、青空市場で有機栽培のトマトやきゅうりを売り始めました。「無農薬の野 菜ですよ~! おいしいですよ~!」と声を張り上げながら、やりましたよ。思えば、当時の私は28歳。団地で子育てをしている主婦のほとんどが同世代で、地方出身者だった。私と同じように、田舎のおいしい水、おいしい野菜を察知する、味のものさしを持っていたのでしょう。これが、売れに売れた。毎週日曜日は大盛況で、人が集まると周囲の人たちも気になるもの。最初は朝10時に6丁目団地から始め、12時からは4丁目団地。その後、土曜日は練馬区、水曜日は渋谷区へと、学生たちに手伝ってもらいながら、青空市場の販売拠点が広がっていきます。

 この青空市場のお客さまに、ただ持ってきたものを買ってもらうだけではなく、ほしい野菜の注文をしてもらい、次週にまたお持ちする。今の大地を守る会の原型が、この時にかたちづくられています。1975年8月19日、生産者、消費者を集め、「農薬の危険性を100万回叫ぶよりも、1本の無農薬の大根をつくり、運び、食べることから始めよう」というメッセージを携え、「大地を守る市民の会」(現・NGO大地を守る会)の立ち上げ集会を開催。そして、この年の年末に私は勤務していた出版社を退職し、独立。すると、「面白い運動をやってるじゃないか」と訪ねてきたのが、学生運動のスター的指導者で、歌手の加藤登紀子さんと獄中結婚したことでも有名になった藤本敏夫さん。彼を初代会長として、1976年の1月、新宿に小さな事務所を借り、活動を本格的にスタートさせたのです。無農薬野菜を売る、頑固な八百屋の親父として。

 立ち上げメンバーはたった4人でしたが、私はこの活動を大きなムーブメントに育てたかった。縁をたどって当時の西武グループ代表・堤清二さんに面会し、活動の説明をしたところ、「面白い、やってみろ」と。1977年、夏の参院選前に、池袋西武百貨店で「無農薬農産物フェア」を開催できることになりました。そこで、反自民を標榜する革新的な文化人たちが結成した政党・革新自由連合の協力を取り付け、代表の中山千夏さん、ほか野坂昭如さん、加藤登紀子さん、松島トモ子さんなどの著名人に、日替わり1日店長になっていただき、無農薬食材を売ってもらった。野坂さんなどは、ウイスキーを飲みながら売り子をされ、その様子が面白おかしく連日スポーツ紙などで報じられました。無農薬農産物が売れ、活動の知名度が上がったことはもちろんですが、この時のお客さまの多くが共同購入の賛同者となってくれたのです。

ひとりでも多くの生産者と消費者を味方につけて、
日本の農業を守り、未来につなぎ、食糧自給率に貢献!

<両輪経営の始まり>
1枚5000円の株券をつくって全国を練り歩き、約1カ月で1669万円を集め、株式会社設立

 無農薬農産物フェアの成功もあり、少しずつ共同購入を希望するグループが増えていきました。年商で2000万円くらいが見えてきましたが、冬に事務所用のストーブを買おうと思っても、個人事業主の藤本敏夫では月賦も組んでもらえない。生産者の方々からも、「最終的な責任を取るのは誰なんだ?」と。そこで初めて、法人化の検討を始めました。農協や農林水産省と一線を画した活動をしているわけですから、彼らのおうかがいを得て設立するような社団法人や財団法人は向いていない。ならば我々は株式会社でいこうと。強大な資本家を排除し、趣旨に賛同してくれた、多くの株主のための民主的な活動をしていけばいいのです。弁護士に相談したうえで、1枚5000円の株券をつくって全国を練り歩き、約1カ月で1669万円を集めました。株主になってくれた方の中には、「野菜のカブじゃなくて株を売るのか?」と(笑)。

 そして、1977年11月、株式会社大地(現・株式会社大地を守る会)を設立。大地を守る会のNGOと株式会社、両輪経営のスタートです。ただし、まだまだシロウト商売でしたから、試行錯誤の連続でした。買い取りを約束した畑が豊作になると、販売先を探して大慌て。ジャガイモを保存しておいたら芽が出てしまった……。今度は北海道から届いたジャガイモが凍って使い物にならない……それも5トン分……。背に腹は代えられないと、JR蒲田駅前の路上で、毎朝、通勤客にジャガイモを売っていたことを今でも鮮明に覚えています。そんなこんなで、常に資金繰りの恐怖にさらされていました。私の給料は会社設立から数年間、ほとんどなし。NGOと株式会社の運転資金に、すべてを投入していましたから。1980年の確定申告の年間収入を覚えていますが、30万円ですよ。初代会長の藤本さんから、「君んとこは、奥さんが働いているから大丈夫だ」と(笑)。

 当時の共同購入は、10キロの農産物を例にとると、ある指定された場所に届けた農産物を、グループに所属している主婦を中心とした女性たちが立ち会って、仕分けし、持ち帰ってもらうというものでした。しかし、時代の流れとともに働く女性が徐々に増え始め、共同購入者の増加に陰りが見え始めます。そこで1985年、夕方の6時から深夜12時まで、調布センターの半径10キロメートルの範囲に限定して、個別宅への夜間宅配を開始しました。これが共働きの方々、老人の方々、障害者の方々など、幅広い層のお客さまに受け入れられたのです。その頃は、重ければ家の中まで運びます、冷蔵庫の中まで届けますくらいの勢いでやっていましたね。この宅配事業が大当たりとなり、その後、昼間の時間帯も稼働。今では、年間約160億円の供給高、生産者約2500人と、消費者9万1000人をつなぐネットワークに成長しています。

<日本の農業を守る>
年に100回程度の産地交流を実施しながら、有機農産物ファンと協力生産者を拡大中

 生産者の方はというと、消費者の拡大と共に、生産者の紹介で増えていったかたちです。従来のように、農協や市場に農産物を納める場合、生産者はある意味バクチ。気候などの関係で出来高が少ないと高い値段で売れますが、逆に豊作だと買い叩かれる。でも、大地を守る会は、収穫前にオーダーしたものの価格をすべて保証します。また、スタート当初から、生産者と消費者の交流を意識してきました。生産現場に会員の消費者が赴き、どうやって農薬に頼らない農産物が生まれるのか、見てもらうわけです。子どもたちも、ドジョウやフナが泳ぐ田んぼや小川で遊び、村祭りなどにも参加する。最初は「だまされているんだ」と疑っていた別の生産者も、そんな楽しげな光景を目にし、農薬に頼らない農産物を食べて喜んでいる消費者の笑顔を見て、実際に農産物が売れる実情を知ると、自分も仲間に入りたいと思うようになるのです。今では年に100回程度の産地交流を実施しており、抽選となるほどの人気企画となっています。

 協力生産者に、「来年、あとこのくらいジャガイモをつくってほしい」「イチゴがこのくらい必要になりそう」と相談すると、「うちはもう無理だが、あの人ができそうだ」と、新しい生産者を紹介いただける。そうやって協力生産者は拡大を続け、今、農産物、畜産物、水産物の生産活動に携わる約2500人が、大地を守る会を支えてくれています。賞味期限や産地の偽装問題、BSE問題などが世をにぎわせ、安全な食物への関心が高まり、マスコミの目も厳しくなっています。生産性を高めるために、近代化を推し進めた農政も、ここにきて、農産物への農薬散布、畜産物への薬物投与など、様々なことを見直さざるを得ない状況です。2006年に有機農業推進法が成立し、有機農業の推進や、そのための人材育成にも予算がつきました。35年前に私たちがこの活動を始めた頃に比べると、大きく前進したものだと思っています。

 そんな背景もあり、競合も増えましたが、組織によって、安全性のバリエーションは様々。しかし、国内で流通している農産物の中で、JAS法で認定されて有機農産物と表示できるものは、まだ0.18%程度なのです。その基準値をかなり大目に見たとしても転換期中の農産物も含めて「有機農産物」と認めていいのは7%くらいでしょうか。正直、有機野菜はおいしくて安全ですが高いので、この不況下では安いものに消費者が流されるのも理解できます。では、安全性はどうなのか、味はどうなのか、値段はどうなのか、売り方は共同購入、宅配、店舗販売なのか。そして私たちが行っているような、産地交流に重きをおくのか。食の安全性に関する多様性が広がる中で、私たちのポジション、信じる道をしっかり見定めながら、社会から認めていただける存在感をしっかりと守り、これからもぶれない活動を続けていきます。

<未来へ~大地を守る会が目指すもの>
社会運動と事業経営、この両輪で、世の中を変える活動を続けていく

 今でも年間に約3%ずつ会員が増えています。昨年(2009年)11月からは、お客さまのご希望にあわせてお好きな時間に全国にお届けするウェブストアをオープン。また、2010年3月には東京駅構内「エキュート東京」に無添加惣菜デリ「大地を守るDeli」を、年内には都内の某百貨店に新しい店舗を出店するなど、消費者の方々に、おいしくて安全な食べ物をお届けする接点も増加しています。そのためには当然、生産者の方々と相談しながら作付けを増やす必要があり大変ではありますが、環境に負荷を与えない生産活動を推進し、大地も、川も、海も、ひいては人々の健康な体を守るために、この活動を通じて、日本の農業を支えていきたい。この旗を降ろすわけにはいきません。

 NGOが事務局を担当している、「100万人のキャンドルナイト」もそうですが、私たちは有機農業運動をはじめ、食料、環境、エネルギー、世界平和などの市民運動を展開中です。また、「フードマイレージ・キャンペーン」を開始し、地産地消によるCO2削減の呼びかけも行っていますが、パレスチナの良質なオリーブオイルなど、国内では取れない農産物の輸入も扱います。ガザ地区にイスラエル軍が侵攻を開始した時、パレスチナの生産者たちから、毎日メールが届きました。「なんとか私たちを救ってほしい」と。そのことを、大地を守る会の会員の皆さまにお伝えしたところ、なんと1週間で約8000口、430万円ほどの寄付金が集まった。現地で一緒に戦うことはできないけれど、自分たちのできることで、世界とつながっていたいと。この時は涙が出るくらい嬉しかったですね。

 農業従事者の高齢化と後継者不足が進み、日本の農業は悲鳴を上げています。特に、中山間地にある多くの畑や田んぼは荒れ放題、水路も崩壊……。そしてご存知のように、我が国の食料自給率は40%程度に落ち込んでいます。これは本当に由々しき問題なのです。気候変動で年々世界の農作物生産は不安定となり、さらに地球上の人口は1年毎に1億人も増えている。これまでの日本は、お金を払って安い作物を世界から集めることができましたが、このままでは将来どうなるかわかりません。だからこそ、私たちはひとりでも多くの生産者、消費者をつなげながら力を蓄え、国内の食料自給率を1%でも高めていきたいのです。これからも社会運動と事業経営、この両輪で、私たちは世の中を変える活動を続けていきます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
行動はローカルに、理想や理念はグローバルに!
まずは100人のうち、賛同者1人の獲得に注力せよ

 水戸の有機栽培農家の農産物共同購入から始まった私たちの活動は、「食べる」をテーマに東京を中心とした巨大マーケットの消費者へとつながり、そのネットワークがさらに全国の消費者、国内外の産地へと広がっています。行動はローカルに、理想や理念はグローバルに。理想だけではダメ。持続できませんから。昨年、定款の前文を新設し、“株式会社大地を守る会は、「大地を守る会」 の理念と理想である「自然環境に調和した、生命を大切にする社会の実現」 を目指す社会的企業として、株式会社としてのあらゆる事業活動を、「日本の第一次産業を守り育てること」「人々の生命と健康を守ること」「持続可能な社会を創造すること」という社会的使命を果たすために展開する”としました。

 もちろん、9万1000人もの会員をつくるのは、確かに大変な努力が必要でした。でも、こう考えてみてください。まずは100人のうち1~3人を、あなたの事業の賛同者に変えてみましょう。死ぬ気で説得すれば、できないことはないと思えませんか。それができれば可能性として、東京なら1000万人の人口として20万~30万人、関東なら3000万人として90万人くらいの賛同者を集められることになります。私たちの賛同者は、全国規模で、まだ10万人にも達していないわけです。それでも実際に、年間で約160億円の事業収入を挙げ、スタート以来、無借金経営を続けることができています。最初から100人のうち、98人を獲得しようとしてもダメ。そんな幻想に踊らされず、100人のうちの、しっかりとした賛同者1人を獲得することに力を注ぐべき。どんな事業分野であれ、社会に絶望している人でない限り、そのチャンスは必ずあると思います。

 たとえば、某県の人口が100万人とすると、2~3%で2~3万人。そのうちの10分の1の2000~3000人を組織することができれば、世界につながる事業が始められるのです。夫婦ふたりが経営するある豆腐店が、地元の有機大豆を使った無添加の豆腐を販売するとしましょう。2000~3000人のファンがいれば、10日に1回購入していただけるとして、1日200個の豆腐が売れる計算です。それで毎月80万円の売り上げが挙がれば、ふたりの生活は成り立ちます。少し余裕が生まれれば、売り上げの一部をパレスチナの平和のために、東ティモールの教育発展のために使ってもいい。さらに、奥さんが妊娠して店に立てなくなったら、障害者を雇用する。そうやって、「あの豆腐店はいいね」という背景が生まれたら、きっとファンの輪がどんどん広がっていくはずです。繰り返しになりますが、行動はローカルに、理想や理念はグローバルに。まずは自分の志に賛同してくれる1人を獲得することに苦心してみてください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.現在の規模のビジネスになるまでの過程において、例えば、キーマンの存在など、転機なったことがあればご教授ください。 (東京都 会社員)

A.
大地を守る会がスタートした初期の頃は経営が苦しく、月末に社員の給料が払え ないようなこともありました。そんな時、支援の手を差し伸べてくれたのは歌手 の加藤登紀子さんでした。
コンサート会場に行き、楽屋でお金を借りたこともあります。加藤登紀子さんが いなかったら、大地を守る会はここまでこれなかったでしょう。

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