第35回 KLab株式会社 真田哲弥

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第35回
KLab株式会社 代表取締役社長CEO
真田哲弥 Tetsuya Sanada

1964年、大阪府生まれ。小さな頃から、ご近所でも学校でもやんちゃで有名。小学校に入ってから、すでに反体制。数々の逸話を残し、多くの教師を悩ませ た。中高一貫の私立大阪星光学院に進学。サッカーとバンドにはまる。また、歴史小説も読みまくる。一浪後に、関西学院大学経済学部に入学。当時、関西最大 といわれていたパーティサークル「なにわ倶楽部」を立ち上げるなど、大学1年次からさまざまな企画、イベント、ビジネスを手がけ始めた。全国の大学生イベント サークル主催者との交流も行う。合宿免許にスキーツアーを組み合わせたサービス、「マイライセンス」を企画提案し、個人事業、リョーマをスタート。この事 業が大当たり。最盛期で年商10億円を挙げるようになり、1987年、株式会社リョーマを設立。1989年、ダイヤル・キュー・ネットワークを設立する が、1年半で経営が破綻。多額の個人債務を背負い、返済と生活のため、さまざまなビジネスにトライ。どん底を味わった。1997年、アクセスに入社。インター ネットの技術を体得するため、33歳、人生初の会社員となる。1998年、iモードビジネスに照準を合わせ、仲間とサイバードを設立。代表取締役副社長兼 CTOに就任。2000年にJASDAQ上場。同年、携帯電話の技術開発を行うケイ・ラボラトリーを設立。代表取締役に就任。2004年、社名を KLab(クラブ)株式会社に変更した。

ライフスタイル

好きな食べ物

和食が中心で、お酒はかなり。
食事はやはり和食が中心ですね。よく行く店もだいたい決まっていまして、あまり浮気をしないです。お酒はかなり飲みますよ。僕の性格って、昼は織田信長、 夜は坂本竜馬(笑)。夜、会食に出かけると、必ずひとつ、お会いする人に役立つであろうアイデアをお土産にしてもらうことを心がけています。もしくは人と 人をくっつけたり。やっぱ、竜馬っぽいですよね、夜は(笑)。

趣味

ゴルフにはまっています。 
サーフィンはあまり行かなくなったし、やっぱりゴルフですかね。あまりうまくないんですが。ちなみにベストは93です。最近は土日のうち1日は行くように していますから、月に4回はラウンドしています。「トーナメントに出るんだ」という気合の入った経営者仲間もいますが、僕の場合は楽しくプレイできればそ れでOKですね。

休日の過ごし方

温泉とゴルフ。
休日は、できる限り取るようにしています。僕は旅行が好きなんですよ。だからゴルフに行くときも、前日に温泉宿に泊まって、うまいもん食って、翌日にラウンドするってのが基本です。ゴルフに行かないときは、子どもと遊んでます。一緒に動物園に行ったりね。

行ってみたい場所

リオのカーニバル。
南米大陸に行ったことがないんです。僕はボサノバやサンバなどの音楽が大好きですし、サッカーも大好きでしょう。だからブラジルには1度行ってみたいですね。ブラジル料理も好きですよ。でも、どうせならリオのカーニバルを見てみたいから、本当に行くとすれば2月かな。

モバイルマーケットの市場は今後10年で10倍に!
KLabの本格的な勝負は、今、スタートしたばかり!

 必ず“結果を残す人”。あなたが一緒に働いている人たちを見渡せば、ひとりくらいはその該当者が見つかるのではないだろうか? その結果が問題だ。いい結 果をもたらす人、悪い結果をもたらす人……。でも、考えてみてほしい。勝負事はすべてときの運。いいときもあれば、悪いときもあるのは当然だ。しかし、問 題を目の前にしたとき、“できるかできないか思考の人”ではなく、常に“やるかやらないか思考の人”がカッコいい人と呼ばれていないだろうか。今回、お話 を伺ったKLab代表の真田哲弥氏は、まさにそんな“結果を残す人”。小さな頃から、常に自分の中に生まれた志が指し示す方向に次の一歩を進めてきた。あ まりにも素直に。ときには挫折もあった。ときには逃げたいと思う月日もあった。しかし、いつか必ず自分が君臨すべきポジションを信じて、挑戦し続けるファ イティングポーズは1日たりとて忘れなかった。そして、今、モバイルマーケットの中で、なくてはならない存在と呼ばれる企業をつくり上げた男。今回は、そ んな真田哲弥氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<真田哲弥をつくったルーツ.1>
教師からすれば一種のモンスター。自分のルールを曲げない男の子

 父は船舶関連の会社に勤める普通の会社員。大阪の阿倍野区生まれで、2歳上の兄とふたり兄弟です。小学校の頃から、親の言うことも、先生の言うこと も全く聞かない相当やんちゃな子どもでしたね。いくらでも逸話が思いつきますから。例えば小学校4年のときのこと。先生が間違ったことを授業で教えたんです。僕は「先生は間違っています」と主張したんですが、先生も意地を張ってか、「これが正しいんだ」と。そんな先生から授業を受けても仕方がないと、「おーい、俺が正しい授業をするから、みんなグランドに行こう!」って、クラスのみんなに声をかけた。そしたらほとんどのクラスメートが僕についてきましてね。この事件がけっこう大きな問題になって、その先生はいつの間にか別の学校に飛ばされていました。とかね。

  特別にはまったわけではないのですが、水泳と器械体操は続けていました。あとは、ケンカをよくしましたね。アニキをいじめたやつがいると聞けば、「よー し、仕返しに行こう」って、上級生だろうが何だろうが関係なく、かかっていくんです。体が大きいほうじゃなかったんですが、まあ、子どものケンカですか ら、気合いの入ってるほうの勝ちでしょう。僕は常にめちゃくちゃ気合い入ってましたから、一度もケンカで負けたことはなかったんじゃないかな。そんなです から、いつも子分を従えているガキ大将の立場でしたけど、いじめはいっさいしませんでしたね。

 勉強はですね、できましたね~。小学生の頃は、神童と呼ばれたこともありました(笑)。新学年になると新しく赴任してきた先生にこんな約束を取り 付けるんですよ。授業を聞かなくてもいい権限をくれと。その代わり、いきなり指されても必ず正解を答える。もしも答えられなければ、それ以降は真面目に授 業を聞く。先生とかなりしつこく交渉して、この条件を呑ませていました。で、いつ指されても必ず正解を答えるから、授業中は何をしてもいいわけです。だっ たら騒いだり、授業の邪魔をするのかというとそうではなくて、歴史小説とか、好きな本ばかり読んでいました。

<真田哲弥をつくったルーツ.2>
人を巻き込みながら自己主張をかなえる。政治家への道が頭によぎった中高時代

 中学からは、中高一貫教育の私立大阪星光学院に進学しました。大阪府下では随一の進学校ですから、真面目で頭のいいやつらが集まってるんですよ。僕 はというと、サッカーとバンドに熱中して、全く勉強をしませんでした。入学時の成績は上のほうだったと記憶していますが、当然ながらその後はひたすら下へ 下へと落ちていくんです。あと、やっぱり気持ちは反体制でしたね。校則がとても厳しい学校で、中には納得できないことがたくさんある。別に生徒会とかの活 動には興味なくて、やるなら自分の意思でやろうと。中高6学年の全生徒に呼びかけて、校則改正運動を展開したんです。それも、揃いのトレーナーをつくって 賛同者に販売して。これはかなり学校側から怒られました(笑)。でもこのときの活動によって、いくつか実際に変わった校則もあったんですよ。

  昔からそうなんですが、僕は思ったことは絶対に行動に移しちゃう性分。そして、大勢の人を巻き込んで差配していくのが大の得意。歴史小説が好きで、特に司 馬遼太郎先生の小説は全部読んでいるんじゃないですか。中でも、『竜馬がゆく』は暗記しているくらい何度も読んだ。明治維新から、この国の大きな改革、変 革が始まって、特に第二次世界大戦後なのですが、日本が歩んできた道のりはなんだかおかしくないか……。そんなことをよく考えていたから、漠然とだけど、 将来は国をかたちづくる政治家になるのもいいかもと思ってた。ほら、基本は反体制派で、人を束ねて動かすのも得意ですから。もともと気質的には、政治家向 きなのかもしれないね、僕は。

 トレーナー販売以外にも、ちょっとしたビジネスを手がけています。学校には夏用の制服として、校名が刺繍されたカッターシャツがあって、高校3年 で冬服に衣替えすると、その夏服はもう着なくなる。ここに目をつけた。夏服って何枚も必要になるから需要は高い。3年生からそれを集めて、下級生に販売し たんです。これがけっこう売れましてね。別に小遣い欲しさにやったんじゃなくて、学園祭でバンドのライブやるにも、PAやアンプとか、機材のレンタルにか なりの費用がかかるんですよ。収益のほとんどは文化祭全体を盛り上げるために使いました。でも、結局はこのことでも学校から怒られたなあ(笑)。

<関西学院大学経済学部へ進学>
いくつもの学生ビジネスを立ち上げ、関西の学生たちのヒーローに

  高校時代も全く勉強しなかったから成績は悲惨(笑)。で、結局は浪人したんですが、いまさら必死で勉強するのも何なので、どうすれば合格できるかと いう受験テクニックを一所懸命に研究したんです。それで受かったところに行こうと決めていて、結果、関西学院大学経済学部に合格。入学後は自由な時間を 使って、「これをやったら面白い」というアイデアをどんどん実現しようと思っていました。すぐに行動に移したのは、この受験テクニックを伝授する講座の開 講です。「関関同立家庭教師連盟」というもっともらしい名前をつけまして。決して学力は上がらないけれど、間違いなくテストの点数は上がると(笑)、受験 生やそのご父兄から大好評でしたね。まあ、浪人時代も「関西予備校サッカーリーグ」を主催したり、パーティサークルを立ち上げたりと、勉強はそっちのけで すでにいろいろ動いてはいたのですが(笑)。

 大学に入学して、一応イベントサークルに籍を置きまし た。でも、浪人時代から続けていた学外の活動もしていまして。当時はディスコブームが絶頂の頃で、各大学のサークルを僕が束ねて「なにわ倶楽部」という関 西最大のパーティサークルを立ち上げたんです。その延長で、「日本酒倶楽部」という活動も始めましてね。酎ハイがはやるなら、日本酒のカクテルがはやって もいいだろうと。全国に3000くらいの日本酒メーカーがあったのですが、「日本酒ブームをつくるために10万円の活動費の協賛にご協力ください」という DMを出して。何をするかといえば、仲間と夜飲み屋を回って日本酒を飲み歩くだけなんですけどね(笑)。「3000社から10万円集まったら3億円か~。 飲みきれないぞ~」とか淡い期待を抱いて。でも、そこそこは集まったんですよね。で、そのまた延長で、信販会社と交渉して国内初の学生専用クレジットカー ドも発行したり……。まあ、本当にいろいろやりました。

 あと、学生向け合宿免許にスキーツアーを組み合わせた新サービスを企画して、運転免許試験所に免許取得を目指す学生を集客するビジネスも始めまし た。この事業はどんどん業績を伸ばしまして、1987年に株式会社リョーマとして法人化。僕が代表取締役で、専務は僕の中高時代の同級生であり、まぐク リックの創業者の西山裕之。最盛期は年商で10億円くらいは挙げていたはずです。しかし、僕はちょっと好き勝手に暴れすぎたんでしょうね。西山から 「リョーマを抜けて、独立したい」という相談を受けたんです。社員の半分も西山についていくというし、これは自分が身を引くべきだと。僕は自らが立ち上げ たリョーマを去る決意をするのです。このときは、さすがに落ち込みました……。

<装置ビジネスで大勝負!>
ベンチャー企業が挑戦したインフラ事業。スタートは絶好調だったのだが……

 リョーマを抜けて何をしようか考えたんですが、何も思い浮かばない。当時、僕はすでに大学5回生でしたし、学校に戻っても面白いこともない。大阪で の活動もそろそろ飽きてきた。「そうだ、東京に行ってみよう」と。イベントサークルつながりで交友のあった、今井祥雅さんを頼って上京したのです。このと きに大学は自主退学しています。今井さんはJR田町駅のそばのマンションで「三田倶楽部」という社会人サークルを立ち上げており、そこに潜り込んで新規事 業の話を日々仲間たちと語り合うようになりました。彼はここを母体として、企画会社をつくろうとしていたんです。「三田倶楽部」はその後、マインドシェア という会社となり、今もなお今井さんが代表として活動を続けています。しかし、僕はもう企画仕事に興味がわかなかった。大阪でやりすぎたんでしょうね。そ れよりも、資金と仕掛けを凝らした大掛かりな装置ビジネスを手がけたかった。

 そんなある日、パソナの知り合いから 「NTTがダイヤルQ2サービスを開始するらしい」という話を聞かされたのです。これは番組提供者が電話回線を活用して情報を発信し、ユーザーはその回線 にアクセスすることで主に音声情報を得ることができるというもの。いってみれば、今のiモードの原型ともいえるサービスです。「これだ!」と。この話を聞 いてから3日間はずっと、寝食を忘れてこの事業を成功させるにはどうするべきか考え続けました。そこで出した方向性が、「ラジオ、テレビに次ぐ第3のメ ディアをつくる」。ただのコンテンツアグリゲーターになるのでは意味がない。回線を大量に押さえることで、今でいう情報ポータル、そう、インフラの構築を 目指すことにしたのです。そのためには大量の資金が必要となります。企画書づくりに、3カ月は費やしたでしょうね。

 1989年9月、ダイヤル・キュー・ネットワーク(以下、Qネット)を設立。僕は専務で、当時現役東大生だった玉置真理を社長に就任させます。狙 いとおり、「話題のベンチャー企業の女性社長は20歳の現役東大」など、マスコミ各社が次々にQネットを取り上げてくれました。おそらく2~3億円くらいの 広告宣伝効果があったでしょう。そうやって認知度が高まったQネットには、出版社、レコード会社、映画会社など、多くの優良企業がどんどん参画してくれる ように。サービススタートからすぐに売り上げは倍々ゲームで伸びていき、拠点網をいっきに全国に広げていきます。その先に予想外の落とし穴が待っていると は知らずに……。

どこにも追いつかれない、どこにも負けない自身あり
最先端のR&Dを生かした、新領域への挑戦が始まる!

<人生最悪の日々が始まる>
インフラビジネスの破綻、巨額の個人負債。33歳、再起を賭けてサラリーマンとなる

 振り返って考えれば、資金力の乏しいベンチャー企業が壮大なインフラづくりを目指したこと自体、間違っていたんですよ。今なら10万円くらいで買え る音声サーバーの購入に、当時は6000万円くらいかかりましたし。全国にサービス拠点を広げていくために、途中からリース契約に切り替えはしたのです が、それでもランニングコストはどんどん高まっていく。大きな融資も受け、キャッシュフローはあったのですが、バランスシートをおろそかにしていた。財務 的なことを誰もウォッチしていなかったんですよ。そうやって徐々に目に見えないリースの負債残高が重なっていったんです。もうひとつ、Q2開始から約1年 後に想定外の問題が起こった。親の知らない間に、子どもがQ2でアダルト番組を視聴し高額な請求が届く、会社員が会社の電話でQ2を利用するなど、さまざまな トラブルが露呈し、大きな社会問題に。さらに追い討ちとなったのが、偽造テレカが横行し、NTTが公衆電話からQ2へのアクセスを禁止するという規制措置 をしいたこと。これで売り上げが激減し、そこからすべてがうまくいかなくなった……。

 そんな中でも、Q2で 出会い系の2ショットダイヤルやアダルト番組の提供で儲けている業者はいたんです。でも、僕は「インフラをつくる」という“錦の御旗”を降ろすことがどう してもできなかった。結局、ずるずると負債がかさみ、設立から1年半で、Qネットは倒産……。会社借り入れの連帯保証人になっていた僕は、億単位の債務を 背負うことになります。さらに、資金繰りのために転売した回線の使用権に関するトラブルから、ヤクザの事務所に拉致監禁されてボコボコにされたり……。そ れから、人生で最低最悪の渦に巻き込まれていくんです。あがけばあがくほど、何もかもが裏目となる……。毎日が修羅場の連続でしたが、「絶対にいつか復活 できる」、それだけは信じていました。

 それから6年くらいは債務の返済と生活のために、さまざまな仕事を手がけました。携帯電話の販売、携帯基地局設置のための人材派遣などなど。特に携帯 電話は一時めちゃくちゃ売りまして、当時の東京で僕の販売台数が一番だったそうです。でも、どれも長くは続かなかったですね。そんなとき、インターネット の存在を知った。そして、今後インターネットがどんどん世の中に、人々の生活の中に浸透していくことを直感。「この波は本物だ!インターネットで最後の勝 負をしてみよう」、そう思ったのです。しかし、まずその前にインターネットに一番詳しい人間になろう。そのために、1997年当時、「どんな端末でもイン ターネットに接続できるようになる」と主張していたアクセス(現・ACCESS)に入社するんです。悪い流れを断ち切りたい一身でした。まずは、いったん すべてをリセットだと。33歳にして、我が人生初の会社員生活の始まりです。

<iモードの誕生>
iモード開始とともに仲間とサイバードを設立。危機感を察知し、R&Dカンパニーを立ち上げ

 当時のアクセスは、インターネットテレビ用のブラウザ開発などで有名なソフト開発会社でした。また、できる限り機能を減らした携帯電話用ブラウザの 開発も始めていた。それで営業専任だった僕が、NTTドコモを担当することに。そして、iモードの開発にも携わるようになるんです。「これだ!」と。考え てみれば、iモードってダイヤルQ2の焼き直しのようなもの。しかもポータルはNTTドコモがつくって、Q2の失敗原因を徹底的に研究し、それをつぶして くれている。あとは、コンテンツさえしっかり整えれば成功は間違いない。「よし。iモードビジネスに参画して、復活の狼煙を上げよう!再び起業しよ う!」。と、決心したのはいいのですが、資金はない(笑)。それで、僕が事業計画書をつくって、iモードビジネスを模索していた堀主知ロバートたちと組ん でサイバードを立ち上げたのです。堀が代表となり、僕は副社長兼CTOという立場でした。

 質の良いコンテンツを持っているプロダクションを口説いて、それを携帯用のコンテンツとして加工し、配信していく。読みとおり、1999年2月にスタートしたiモー ドは爆発的にユーザーを増やし、それとともにサイバードの業績も増加していきます。結果、1998年の設立から2年目の2000年12月、サイバードは JASDAQ市場への上場を果たしました。それは確かに喜ばしいことではあるのですが、僕は「このままのかたちでビジネスを続けていくだけではいけない」 と、自分自身に向け警鐘を鳴らしていました。当時のサイバードは技術がわからないやつばかりが集ってた。これでは進化スピードの速い、携帯マーケットで勝 ち続けることができない。そして2000年8月、サイバードの子会社としてケイ・ラボラトリーを設立して、僕が代表取締役に就任。モバイルマーケットの進 化を見据えながら、未来に必要とされるだろう技術開発に真剣に取り組み始めたのです。

<未来へ~KLabが目指すもの>
10年後のモバイルマーケットは10倍を予測。準備段階を終え、本格的な反撃に転ず

 2004年にはUSENの連結子会社となり、ケイ・ラボラトリーからKLab(クラブ)株式会社に社名を変更しました。設立以来、モバイルマーケッ トにおける技術開発企業として、どんどん進化を続ける携帯電話の技術仕様づくりに携わり、今ではキャリア企業からの信頼も大きくなりました。起業前に僕が 勤務していたアクセスは、各種端末をインターネットにつなげるための技術開発をし続けることで、常に数年先に登場するだろう新しい製品情報を把握すること ができるのです。当社も同じように、未来の携帯電話に必要な技術を支える最先端の技術開発を続けていくことで、将来もずっとモバイルマーケットのイニシア チブをハンドリングできると考えています。

 また、パソコンマーケットは、マイクロソフトやグーグル など、世界規模での競争にさらされますが、国内に限っていえばモバイルマーケットはそこまで体力を使う必要がない。当然、携帯電話の機能はこれからもどん どん発展し続けますし、eコマース分野での使い勝手なんて、ここ数年で劇的な成長を遂げるでしょうね。そういった意味で、10年先のマーケットを予測する と、現状のマーケット規模はまだ1割程度のもの。そう考えれば、今の10倍くらいのマーケットが残されている。のりしろは巨大ということです。

 ただ、技術開発を続けていくだけでは、事業としてスピードをもった規模拡大が望めません。これまでも、モバイルマーケットでキーとなりそうなジャ ンル、例えば各種ソリューション、コンテンツ企画、セキュリティー、電子金券などの事業を手がけてきましたが、今後は一般ユーザーに使ってもらえるような サービス系の事業にも注力していきたいですね。設立から7年、できることはひととおりやってきましたし、力もついてきた。種蒔きはそろそろ終わり。いよい よ本格的に、反撃の狼煙を上げるときがきたと。これからのKLabに、ぜひ注目していてください。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
考えるだけではなく動くこと。そうすれば見える景色が変わってくる

 まず、起業を目指している人たちに言いたいのは、やりたい、やりたいと考えているばかりでは何も始まらない。本気ならまずは動けということ。そし て、もしも少しでも悩んだり、躊躇するくらいなら最初からやめとけよと。動き出せばいいこともあるかもしれないし、もしかしたら悲惨な目に遭うこともある かもしれない。そのことはしっかり織り込んでおかないといけません。ただ、自分が動き出さない限り、何も景色は変わりませんし、進化するものもありません から。

 ビジネスアイデアはどうやって考えればいいのか? それはですね、僕の個人ブログ「ベン チャー起業の秘訣!無料アイデア付き」を読んでみてください(笑)。そこにも書いていますが、新しい業態を探そうとして四苦八苦している人はたくさんいま す。しかし、いくら腕組みして考えても、まったく新しいものなんて生まれてこない。新しいものを生みだしたければ古いものを研究すること。だから、僕は 「どうしたら見つかるか」と聞かれると、あなたが今取り組んでいる仕事を一所懸命にすることだと答えますね。まずは、その仕事のプロになるのです。そし て、その中に潜む問題点を発見し、それを解決する方法を考える。それが新しいビジネスを見つける近道なことは間違いないでしょう。

 最後に、モバイルマーケットで起業を考えている方にアドバイスを。先ほども言いましたように、このマーケットはこれからものすごい勢いで拡大して いくでしょう。そういった意味でいえば、チャンスもたくさんあるといえるでしょうね。ただ、だからといって携帯電話だけを見ているようでは成功するビジネ スアイデアは生まれないと思います。すでにモバイルマーケットは、多くの大手企業が虎視眈々と狙っている王道マーケットなのです。今後、PCを使ったイン ターネットでできることはほぼ携帯電話にもできるようになるでしょうし、全く新しいビジネスを生み出すのは簡単ではありません。そのためにも携帯電話だけ にとらわれず、世の中にまだ登場していない、世の中に役立つビジネスが何なのかを考え出すことが先決です。そして、そこに携帯電話の機能を付加すればもっ と世の中が便利になる。そんな感じで考えるのが良いと思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:山口雅之

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