第81回 株式会社マザーハウス 山口絵理子

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第81回
株式会社マザーハウス 代表取締役社長 
山口絵理子 Eriko Yamaguchi

1981年、埼玉県生まれ。小学生時代にいじめに遭い、中学ではその反動から非行に走る。中2で柔道を始めたことで、更生。柔道を極めるため、大宮工業高校に女子部設立を嘆願し、進学。最後の大会で、全国7位となる。柔道人生とはここでお別れ。半年間必死で受験勉強に取り組み、慶應義塾大学総合政策学部へ。大学4年次、ワシントンにある国際機関でインターンを経験。大学卒業後、単身バングラデシュに渡り、BRAC大学院開発学部修士課程に入学。現地で夜間の大学院に通いながら、日本の大手商社のダッカ事務所にてインターン。商社の仕事で訪れた見本市会場で、ジュートバッグと出逢う。自ら描き起したデザイン画と、バイトで溜めた資金を携え、現地工場との生産交渉を開始。幾多のハードルを乗り越え、完成した160個のバッグを持ち帰り、2006年3月、株式会社マザーハウスを起業。現在も、ビジネスを通じた健全で持続可能な途上国支援のために走り続けている。「フジサンケイ女性起業家支援プロジェクト 2006」最優秀賞受賞。著書に『裸でも生きる』(講談社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

オムライスかな。
本社がある台東区入谷には、安くておいしい定食屋さんがたくさんあって、よく食べに行っています。オムライスが好きなんですよ。バングラデシュでは、毎日、毎日カレーを食べてた反動かもしれません(笑)。あとは、アイスクリーム。中でもチョコミントがお気に入りです。お酒もタバコもいっさいたしなみません。

趣味

油絵です。
小学3年から少し習っていました。それからずっと変わらない趣味です。静物、風景いろいろ描きますが、最近、バングラデシュで撮った写真を題材にすることが多いです。あとは、中学・高校と続けていた柔道も最近楽しんでます。実はバングラデシュの国体に出場させてもらっていて、2年連続で金メダルを獲得してるんです。

最近感動したこと

現地工場のスタッフの姿勢。
バングラデシュの自社工場で、現地の優秀なパタンナーを面接したのですが、給料の面が折り合わなくて断られました。ふと見ると、面接終了後、あるスタッフが彼を説得してる。「給料以上の価値がマザーハウスにはある。たくさんのことを学べる」と。すごく嬉しかったですね。結局、その説得の後、彼は当社に入社することになりました。

行ってみたい場所

中東エリアです。
これまで行ったことがない、中東エリアでしょうか。私たち、マザーハウスのビジネスとしても、銀細工や様々なアクセサリーなど、面白い取り組みが考えられそうですし。あと、国内にもまだ訪れたことがない場所がたくさんあります。北海道には行ってみたいですね。これは仕事抜きの、楽しい旅行として(笑)。

バングラディシュでつくる世界に誇れるバッグ。
健全で持続可能な経済基盤の提供が途上国を救う

 自らの目で見たもの、そして自らが得た経験が、すべて山口絵理子氏の行動の背景にはある。言い方を変えれば、どこかからともなく流れてきた客観的な情報では、彼女は動かないということ。まだ27歳と、あどけなさが残る山口氏だが、ここまで自分という機軸をぶらさずに生きる姿勢には感服させられる。マザーハウスのバッグはすべて、バングラデシュという、いわゆる途上国メイドだ。誰もが安かろう悪かろうをイメージする商品を、ここまで短期間でブランディングし、多くのファンをひきつけた理由。それは、彼女の生き方に裏打ちされたストーリーの存在があるようだ。山口氏が教えてくれた。「うちのお客様は、老若男女本当に幅広いんです。品質はもちろん確かですが、それよりも、『元気をもらいたかったから』『マザーハウスの活動を応援したいから』、そんな購買動機を持たれる方々が多いですね。これからも正しい途上国支援のかたちを模索し続けます」。今回は、そんな山口氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<山口絵理子をつくったルーツ1>
小学生時代、壮絶ないじめに遭い不登校に。中学からはその反動で非行の道に走る

 生まれたのは埼玉県の大宮(現・さいたま市)で、兄弟は姉と弟がいます。不動産会社を経営する父は毎日忙しく働いていて、小さな頃、家ではなかなか会えなかったことを覚えています。私、小学校でいじめに遭って、学校に行けなくなった時期があるのです。いじめが始まった原因を思い返してみると、朝礼とかあるでしょう。ああいう、強制的にみんなが一緒に参加させられる行事が大嫌いで。小学1年の時、教室で先生に「出たくありません」と発言したんです。それが「生意気だ」となったのか、最初は男子からの暴力が始まって、そこに女子も追随していって。私は孤立無援で、本当に毎日ケガだらけでした。半年くらいは踏ん張っていましたが、ついに給食も食べられなくなって……。

 家は出るものの通学路をうろうろするだけで、学校まで行けなくなり、それから4年間くらいはずっと不登校状態が続きました。「もっと強くなりたい」「大人になったら楽しい学校をつくりたい」。つらい毎日をすごしながら、いつもそんなことを考えていました。で、中学に上がったらその反動で非行に走ってしまった……。でも、中学2年で柔道を始めるんです。理由は、もっと強くなりたいと思ったから。

 柔道部の練習を偶然のぞいたら、私にもできそうだと感じて。ただし、入部させてもらうために、顧問の先生といくつかの約束をしたのです。試合に出たいなら、タバコを吸わない、茶髪はやめる、などなど30個以上のルールがありました。でも、柔道を始めたおかげで、更生することができたんですね。そして一所懸命に練習に励み、中学3の最後の大会では、県で優勝、全国でベスト16の結果を残すのです。ただ、まだ私よりも上がいると思うと悔しくて。高校でも柔道を続けることを決意しました。

<山口絵理子をつくったルーツ2>
1年、365日、必死で取り組んだ柔道。高校最後の大会で、全国7位に食い込む

 当時、埼玉で一番強かったのは埼玉栄高校の女子柔道部。全階級で全国制覇を続けていましたから。栄高校からもスカウトされたのですが、英才教育で強くなっても面白くない。何とか自分の力で強くなりたいと、ほかの高校を探したのです。そこで目に留まったのは、男子柔道部しかないけれど、県で最強と言われていた大宮工業高校。「ここで男子と練習すれば強くなれるに違いない」。そう確信し、中学卒業までに何度も大宮工業に通い、顧問の先生にお願いして、女子部をつくってもらう許可をいただきました。「本気で全国優勝を狙うなら」という条件付きで。そして私は大宮工業へ進学し、1年365日、柔道に打ち込み続けることになるのです。

 女子部といっても、部員は私ひとりきりです。100キロを超える男子選手を相手に、練習漬けの毎日。鼻の骨は2回折っていますし、指もつぶしたし、膝のじん帯も数回切っています。失敗をして、先輩から殴られることもありました。そんな環境の中、厳しい練習を続けましたが、2年まではまったく結果が出せず。「男子とばかり練習しても、女子には勝てない」。他校の選手からそんなことを言われると悩むわけです。方法を間違ったかもしれないと。そして、悪循環に陥ってしまう。でも、3年最後の大会の前日に吹っ切れました。これまで自分が信じたかたちの努力を続けてきた。不安は忘れ、思い切りやろうと。準決勝で栄高校の選手に一本勝ちして、決勝戦も勝利。その後の関東大会で2位になり、武道館で行われた全国大会では7位に食い込むことができました。結局、本当の敵はライバルではなく、自分の気持ちだったのです。

 柔道からは本当に多くのものを学ぶことができました。3年の夏が終わり、同級生たちが進路を考え始めました。柔道部の仲間たちは、国士舘大学など柔道の強い大学を目指したり、警察や警備会社への就職を希望する人が多かった。でも、私は柔道はやり切った。もういいかなと。将来、自分が進むべき道を探し始めた時、小学生時代に「もっと楽しい学校をつくりたい」と考えていたことを思い出したのです。そのためには、やはりもっと広く社会を知る必要がある。できるだけ難しい大学へ進もうと決めましたが、工業高校は主要5教科を学ぶ以外に、図面を描いたり、実技を学んだり、そんな授業が多いのです。まずは大学の入試情報を取り寄せて、机に座って大学受験の勉強に取り組むことからスタートしました。

<発展途上国への思い>
国際援助と途上国開発の関係性を知るために、ワシントンの米州開発銀行でインターンを体験

  3年の夏からの勉強開始というハンディがありましたので、2教科か1教科の試験で受験できる大学を探したのです。そして、英語と数学だけに絞って必死で受験勉強に励みました。結果としては、早稲田と青山学院にふられて、慶應の本試験を待つ前、推薦入試の面接で「教育改革をしたい」と伝えた慶應義塾大学の総合政策学部に合格。そうした経緯で私の大学生活がスタートするわけなのですが、湘南のキャンパスに通い始めたら本当に住む世界が違う人たちばかりで驚きました。普通に英語で会話している人がいたり、コンピュータソフトをつくっているという人もいる。当時の私は、コンピュータに触ったことすらありません。だから最初は、授業についていくだけで精いっぱいでした。

 日本の教育を変えるのは、やはり政治なのかな? そんな単純な考えから、1年生の時には議員秘書やウグイス嬢のアルバイトをしてみました。でも、何か違うともやもやしていた時、竹中平蔵先生が担当していた開発経済学の授業を受けたのです。そこから、発展途上国に興味を持つようになりました。貧しい国に生まれたという理由だけで、学校に行けない子どもが世界にはたくさんいます。そんな国を豊かにするためには何が必要なのか。その答えを探すために、開発経済、哲学や思想に関する本を読みあさるようになりました。様々な資料を調べてみると、途上国の成長を表すグラフはきれいな右肩上がり。でも、それは理論上の話であって、実際はものすごい格差社会だったりするわけです。国際援助と途上国開発の関係ってどうなっているのか。そんな疑問がどんどんふくらんでいったのです。

 同級生たちは就職活動に勤しんでいましたが、私は国際機関で開発援助に携わる仕事をしたいと考えていました。そして無理だと思いながら応募したワシントンにある米州開発銀行のインターン選抜試験に合格。大学4年の春から約4カ月間、途上国援助トップといわれる開発銀行の予算戦略本部で働くことになるのです。主な仕事は、上司のアシスタント業務でした。それでも、いろんな人たちと会話したり、議論したりしたことで、私が思い描いていた世界とはかなり違っていることがわかってきました。そこで働く正規スタッフはみんなお金持ちの家出身で、大学の博士号を持つエリートたち。また、出世の限度は出身国別に決まっている。さらに、決定が下された援助政策は途上国現地のフィールドレポートをしていない……。

<ジュートとの出逢い>
慶應義塾大学を卒業後、単身、バングラデシュへ。大学院とインターン生活を続ける中で、宝物に出逢う

 こんなこともありました。「計算がどうしても2ドルくらい合わないんです」。すると上司が「そのくらい、大丈夫」と。世界には、1日1ドルも使えない生活をしている人がたくさんいるのに……。確かにみんな、世界から貧困をなくしたいという尊い志を持っているのです。でも、途上国の現場、実状をよく知らない。それでは、本当に正しい支援ができないのではないか。そんな思いがふくらんで、私はワシントンから日本へ帰国するためのチケットに、バングラデシュ行きを追加。アジアで一番GDPが低いといわれるバングラデシュという国の実状を自分の目で見てこよう。そうしないと本当の意味で、貧困を解決することができないと思ったのです。

 初めて訪れる国、バングラデシュのダッカ空港に着いたのは深夜でした。まず感じたのは異様なにおい。そして空港を出ると、排気ガスが充満した空気の中、物乞いの群衆に囲まれる。ジロジロとまるで私の持ち物を狙っているような。もちろん、ベンガル語なんてできません。その日に泊まるゲストハウスまでの道のりは恐怖でいっぱいでした……。様々な驚きとともに、バックパッカー感覚で1週間ほどすごしましたが、このままではバングラデシュのことをまったく理解できないことに気づきました。でも、毎日24時間、この国のために自分ができることをひたすら考えていたんです。そこで思い立って、現地の大学院への進学を決意。バングラデシュでの生活で途上国の実状を知り、大学院で修士課程を修了し、開発銀行に戻り、正しい途上国援助の政策を提案していこうと。それがベストな選択だと、この時は確信していたのです。

 頼み込んで大学院の入試を受けさせてもらい、何とか合格。それからすぐに日本に戻り、大学を卒業するまでバイトをしまくりました。両親には、「好きにしなさい。でも、卒業後の支援はしない」と言われましたから。無事大学を卒業し、再びバングラデシュに戻った私は、まずひとり暮らしをするためのアパートを探しました。そして、昼間は日本商社の現地事務所でインターン、17時半から22時半までが大学院の授業、夜はリキシャで帰宅する、そんな毎日がスタート。ダッカでは18時以降、女性の外出が禁止されていたので、夜道がものすごくこわいのです。だから常に、催涙スプレーや防犯スプレーを隠し持っていました。また、自分の誕生日に爆破テロが勃発、その後も大洪水が起き人が死んでいく……。途上国の厳しい洗礼を次々に受けながらも、一所懸命言葉を覚え、勉強し、生活を続けていたある日のこと。商社の仕事の関係で訪れたある見本市会場で、ジュート(黄麻)という私の運命を変える素材に出逢うのです。

途上国の自立支援のためにできることはたくさん。
私たちの取り組みはアジアを中心に広がっていく

<マザーハウスの誕生>
ピンチを乗り越えながら160個のバッグが完成。帰国後すぐにマザーハウスを立ち上げ

 “ジュート”。コーヒー豆などを運ぶ際に使われる袋の素材として使われている麻の一種です。現地の見本市会場で目にしたのは、ジュート製のバッグでした。ジュートを調べてみると、普通の植物の5、6倍の二酸化炭素を吸収し、廃棄時に有毒ガスを一切出さず肥料としても使える、まさに大地から生まれて、大地に還る、地球環境にとてもやさしい素材ということがわかりました。そして、インド・バングラデシュが世界の総輸出量の90%を占めているジュート大国だということも。「これだ!」と直感。まずインターン先である商社の仕事として、ジュート製のショッピングバッグをつくり、関連会社のコンビニやスーパーで使ってもらう計画を立てました。現地事務所に事業計画を進める許可をもらい、ダッカから車で6時間ほどかかる工場に何度も通い、工場のスタッフたちと交渉しながら最高のサンプルが完成。そして私は自腹で日本に帰国し、商社の本社で副社長にプレゼンしたのです。

 その提案は、とても好意的に副社長に受け入れられました。が、最終的に担当者から返ってきた結論は「前例がないのでこの話は進められない」。コスト的にも十分採算が合うはずだったのに、なぜ? 工場のスタッフに「絶対に契約をまとめてくる」と約束したのに……。結局、この話は立ち消えになりましたが、インターンという立場の私にこのようなチャンスを与えてくれた商社にはとても感謝しています。そのおかげで私にはひとつの新しい夢が生まれたのですから。ここまでやれたのだから本気で取り組めば絶対にできる。バングラデシュが世界に誇るジュートを使って、日本人が買いたくなるような最高品質のバッグをつくろう! それが実現すれば援助や寄付ではなく、健全で持続的な経済基盤の提供というかたちで貧困の解消に協力できる。まず、ワクワクしながら私個人の新しい名刺をつくりました。そして、自分で描き起こしたデザイン画と、バイトで稼いだなけなしの資金を携えて、ジュートバッグをつくってくれる生産者探しを始めることに。

 門前払いの連続でした。「じゃあサンプルをつくろう」となった工場もありましたが、約束の日に行ってみると「君なんか会ったこともない」と。おまけに、先払いした費用も返ってこない……。泣きました。でも、やっぱり無理かもとあきらめかけていた時に、出逢えたのです。「君の夢にかけてみよう」と約束してくれた工場長に。でも、その工場も日本向けバッグの製造なんて手がけたことがない。それでも何度も何度もスタッフたちとやりあって、やり直しを繰り返して、何とか満足のいく160個のバッグができ上がりました。そして3つの大きな段ボール箱にその大切なバッグを詰め込み、飛行機に持ち込んで帰国。尊敬するマザー・テレサのお名前を拝借し、バッグを売るための会社、株式会社マザーハウスを2006年3月に設立しました。

<国内でバッグの販売を開始>
徒手空拳の飛び込み営業&講演会での実地販売。1点から始まったラインナップは300点に拡大!

 最初は家族や親族、友人に買ってもらうことから始めました。その後、バッグを扱っていそうな路面店に飛び込み営業をスタート。でも私、何もわかってなかった。卸販売の場合、かけ率があるんですよね。「じゃあ、定価の50%なら仕入れるよ」とか言われて、「何で半分も取られないといけないの」って、最初は本気で憤慨していましたから(笑)。それでも、バングラデシュの工場スタッフの笑顔を考えながら営業を続けました。その後、縁あって東急ハンズさんに扱ってもらえるように。その時、初めて契約書を交わしたんですが、何だか嬉しかった。あと、環境保全やロハスがブームになっていることを知って、関連するWebサイトに売り込むとすぐに紹介してくれ、それが新聞にも取り上げられて。そんなメディアの後押しと、自分のブログからの反響で何とか150個の在庫は完売。

 次に、650個のバッグをつくって売り始めると、『日経アソシエ』さんが4ページの特集記事を組んでくれて、テレビ番組の『情熱大陸』の出演につながったんです。それでいっきに卸先が増え、お客様からの問い合わせもどんどん入るようになりました。その間も私、様々な環境系の講演会にバッグの在庫を持って押し掛け出演して、話した後に現地で販売するなど、このバッグが生まれた背景にあるストーリーを伝える機会があれば積極的に参加するようにしていたのです。目に見えた変化があったのは、2007年8月21日、上野の入谷に最初の直営店をオープンしたことでしょうか。直営店とはいえ、家賃は8万4000円ですが(笑)。やはり私たち自身がお客様とふれあう機会は、すごく重要なのです。その場でバッグに込めたストーリーや理念をしっかり伝えられますし、お客様の反応や要望がダイレクトに返ってきますから。

 設立から3年で私たちの直営店は5店舗に増えています。一時期、取扱店は20数店にまで広がりましたが、現在は10店舗まで縮小。今後も、ストーリーを大切にしていきたいので、販売窓口は直営店に集約していく計画です。最初は1つのバッグの製作・販売から始まったマザーハウスの商品点数は、現在約300点。ジュートだけではなく、バングラデシュのレザーなどの素材も加わって、「MEN’S LINE」「LADY’S LINE」「ERIKO LINE」と3つのラインを展開中です。バングラデシュの提携工場で月間約3000個のバッグを生産委託していますが、より良い商品を私たちのこだわりと100%のコントロールでつくるため、2008年8月に現地に自社工場をつくりました。優秀な12名のスタッフが集まってくれ、月間400個のバッグがここから生まれています。いまやマザーハウスは、生産から販売までを手掛けるSPA企業なのです。

<未来へ~マザーハウスが目指すもの>
バングラデシュの取り組みを向上させ、 より多くの途上国に持続可能な経済基盤を

 現地法人を設立し、敷地を購入し、自分たちの工場ができてから、やれることがいっきに広がりました。売れ筋のラインは生産委託工場に任せ、限定品やチャレンジ的な商品をしっかりこだわりながらつくれる体制ができましたから。今、バングラデシュは第2の中国と見られています。世界のバイヤーがバングラデシュに期待しているのは、費用を抑え、たくさんつくるための効率なのです。私たちはどこまでも質にこだわるため、委託工場と対立することも多かった。少しですけど、そのストレスから解放されたことも大きいです。自社工場の労働環境にも気を配っています。上履き、エプロン、給食を支給し、毎月1度のメディカルチェック。そして、マネジメントがスタッフとしっかり対話する。日本では当たり前のことかもしれませんが、現地ではあり得ないことばかりなのです。まだテストケースの段階ではありますが、そんな労働環境がバングラデシュの普通になることを願っています。

 ストーリーを大切にしている話を先ほどしました。これまで、現地工場の仕事は段ボールに詰めたらそれで終わり。誰が製品を使っている、お客様の満足、不満足がどこにあるかなんてまったく伝わっていなかった。私たちは、毎週水曜日にインターネットのビデオチャットを使って、日本と現地工場の意見交換を続けています。マザーハウスのストーリーは、製造から販売まで、すべてに存在しているのですから。もちろん製品に自信はありますが、ストーリーこそがマザーハウスのブランド価値。この価値をより深く理解していただくため、H.I.S.さんと組んで、バングラデシュの工場見学ツアーを実施します。実は、欧州の高級ブランドは、アジアで生産していることをいっさい明かしていません。私たちはフルオープンで、その逆をいく。誇れることはあるけれど、隠すことなんて何もありませんから。これからも定期的にこのツアーは継続していきます。

 マザーハウスの売り上げは、2008年度1億2000万円から、2009年度は、2億5000万円に拡大する予定です。バッグの販売が好調なのと、大手家電メーカーやスポーツブランドとのコラボ企画展開が始まるからです。また、バングラデシュだけに限らず、アジアを中心とした途上国で様々な支援活動を進めていきます。すでにネパールでは今春の工場竣工が決定しており、秋にはショップがオープンする予定です。商材が何かはまだ秘密です(笑)。できれば1年に1カ国のペースでこの取り組みを実現させて、できるだけ早いタイミングでヨーロッパにそれらの商品を集めたデパートをつくりたいのです。あと、何かもう少しできるとしたら、企業としての社会貢献でしょうか。これまで、バングラデシュで貧困層の子どもたちにスクールバッグを配布したり、サイクロン被害地の現地支援などを行ってきました。ビジネスでも、それ以外の活動でも、私たちにしかできない途上国支援がまだまだある。世界から貧困がなくなることを夢見て、これからもマザーハウスの旅は続きます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
あふれる情報に振り回される前に、まずは本当の自分を認識すること

 途上国とのビジネスを甘く考えないほうがいいです。でき上がった商材を買い付けて売るくらいならまだしも、私たちのように現地でつくる道を選ぶとなると大変です。私が紹介された『情熱大陸』の放送後、国内のある大手メーカーがバングラデシュに進出したそうです。最初は400人のスタッフを雇ってある製品を製造していたそうですが、先日聞いた話だとすぐに100人以下に縮小されたとか。日本企業は決断が遅い、製造ボリュームが少ないくせに質にこだわるなど、意外と評判が悪いんです。私の場合もサンプル製作費が返ってこなかったり、契約工場でパスポートを盗まれたり、突然、工場がもぬけの空になっていたこともありました。誰もの途上国支援の情熱は尊いと思います。ですが、それは継続させて初めて意味があるはず。なめられて、裏切られて、それでも絶対に継続させるという強い志がないならやめておいたほうがいい。期待はできるだけ低く持って、それが普通くらいに考えておくべきです。

 自分の目で見て確認したわけでもないのに、2次的、3次的な情報に振り回されている人が多い気がします。バングラデシュだって、アジアで一番貧しい国、教育の生き届いていない国ということばかりが常識として流布されていて、その先入観だけでその国の全体を判断している他の国や企業って多いんです。私は実際に現地で生活してみたことで、うなずけることも確かにありましたが、そうじゃないこともたくさん見てきました。本当のことを知りたいなら、客観的な情報ではなく、その場所や事象の中に身を置いて、そこで感じた自分の主観を信じること。そして、その主観を哲学や理念に育てていくことができてはじめて、お客様やスタッフが納得してくれるビジネスが生まれるのだと思います。そういった意味で、心で考える時間を持つことが大切です。

 ちなみに、同世代の女性と会話すると、自分を他人と比べている人が多いですね。比べてばかりだと、どんどんつらくなってしまいます。きっと、本当にやりたいことが見つかっていないからそんな思考に陥ってしまうのでしょう。そんな自分から脱出するためには、やはり心で考える時間を持って、本当の自分としっかり向き合うしかありません。その際は絶対に自分の心に嘘をつかない、見栄を張らないこと。そうやって本当の自分がわかりかけてきた時、もしかしたら何も持っていない自分を見つけてしまうかも。その場合は、今いる場所とは違う場所に自分の身を置いてみるといいかもしれません。私は、幸運にもバングラデシュで2年間という時間をすごすことができました。365日、24時間、自分と向き合いながら、心で考える時間をたくさん持てたことで、本当の自分に出逢えたんだと思っています。ぜひ、心から挑戦したいと思えるビジネスに出逢ってください。それが継続への力となるのですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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