第78回 株式会社サンズエンタテインメント 野田義治

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第78回
株式会社サンズエンタテインメント 代表取締役 
野田義治 Yoshiharu Noda

1946年、富山県生まれ。父の仕事の関係で、何度か引っ越しをするが、11歳から高校を卒業するまでは、広島県呉市で育つ。映画好きが高じて、俳優の道 を志すように。呉工業高校を卒業後、単身上京。劇団こまどりの研究生として稽古をしながら、生活費を稼ぐため新宿歌舞伎町での水商売を開始。その後、芸能 プロダクションのマネジャーを経て、1980年に仲間と一緒にイエローキャブを創業。1988年に法人化。故・堀江しのぶに始まり、かとうれいこ、細川ふ みえ、雛形あきこ、山田まりや、小池栄子、佐藤江梨子、MEGUMIなど、数々の巨乳タレントを発掘し、「巨乳ブーム」を巻き起こす。2004年、株主と のトラブルでイエローキャブ経営者の座を追われるも、新たにサンズエンタテインメントを立ち上げ、独自の視点で芸能プロダクションの経営を継続。昨年、大 ブレイクした、はるな愛も同事務所の所属タレントである。

ライフスタイル

好きな食べ物

野菜系以外は何でも。
野菜、特にトマトは苦手ですが、そのほかは何でも食べます。お酒はほとんど飲まないですね。昔は酒の席でわざと牛乳をオーダーしたりしてたけど、今はドリンクメニューも増えたから、いろいろ頼みます。水にきゅうりを一本差してもらって、焼酎っぽくして飲むこともありますよ(笑)。あと、タバコが大好きで、 1日1箱は吸ってます。

趣味

ギャンブルです。
パチンコですかね。時間があったら毎日行きたいくらい。あとは競馬も少々。いろんな意味で、やっぱり女の子とすごす時間は大好き。仕事であり趣味みたいなものです。あとは、お客さんやスタッフなどなど、いろんな人と話をすること。会話って人間の温かさを感じることができますからね。

最近感動したこと

スタッフたちが頑張っている姿。
昨年、はるな愛が大活躍してくれたでしょう。彼女とマネジャーが頑張ってくれたから、あれだけの人気が生まれたんです。一所懸命やってるスタッフを見るにつけ、日々感動。ちなみに、はるな愛は飲食店を経営する事業家でもありますから、「人材育成とかどうやってんだ?」って相談したりしてます。

行ってみたい場所

暖かい場所。
暖かい場所が好きなんですよ。リゾートなら、オーストラリアかタヒチかな。暖かくても、東南アジア方面はは何となく苦手なんだよね。あとは、アメリカにも行きたい。気候がいい時期のロサンゼルス、ニューヨークとかがいいですね。

俳優を目指し上京した青年が新たな人生を発見!
巨乳という新しいジャンルを発掘し、成功をつかむ

 巨乳をビジネスに仕立て上げた、芸能プロダクション社長、野田義治氏。彼が発掘し、育て上げた美しくグラマーな女神たちにお世話になった男性諸氏も多いの ではないだろうか。ただし、もとから巨乳グラビアアイドルを育てるつもりなどなかったのだと言う。野田氏が女性タレントをスカウトする際に注目したのは、自分の好みに加えて、利口さ、性格の良さ。あとは、自分自身の勘。それらの審美眼にかなった女性の多くが、たまたま胸の大きなコたちだっただけ。ただし、マーケッターとしての勘が、世の中の若者男性のニーズを見逃さなかった。巨乳バカ一代を自称し、自らもマスメディアに登場。巨乳タレントと強面社長のギャップがさらなる話題となり、巨乳ブームはいっきに広まっていった。「そもそもグラビアイドルなんて続かないんですよ。水着なんて1年で飽きられちゃうから。できるだけ長くかわいがってもらう手法を考えてあげないと」と、強面で人間味あふれる優しい自論を語る。今回は、そんな野田社長に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<野田義治をつくったルーツ.1>
広島の港町、呉市で過ごした少年時代。スポーツとケンカに明け暮れた日々

 父は海上自衛隊に勤務していました。ずっと船に乗って仕事しているわけだから、家で父と顔を合わせるのは月に1度あるかどうか。母は長男の僕を含む5人兄弟を、食うのもやっとの状態ながら必死で育ててくれたんですよ。生まれたのは富山なんですが、その後何度か父の転勤に伴い引っ越しをしています。子どもの頃は、なんでこんなに転校しなきゃいけないのか、とても不思議でしたね。あとになって父の仕事柄そうなのかとわかるんですけど。正直、転校はやっぱりいやだったなあ。でも、京都の舞鶴のあと、11歳の頃から高校を卒業するまでは、広島に落ち着きました。呉市という港町に。

 小学生時代の僕は、まったく目立たない子どもでしたよ。運動は好きでしたけど、勉強は当然きらい。授業も適当に聞いて、テストはだいたい一夜漬けで済ませていました。あの頃を振り返ると、何にもないあの小さな町で、よく過ごせたな、どうやって過ごしてたんだろうと思います。まあ、友だちと遊んでばかりでしたけど。中学に上がってからは2つの部活を掛け持ち。バスケットと野球です。どちらかというと、得意だったのはバスケかな。当時も背が高かったのかって? いえいえ、バスケをやめてから背が伸び始めたんですよ。

 勉強はきらいだけど、一応高校くらいは出ておこうと。倍率の低いところを選んで、広島県立呉工業高校の電気科に進学しました。今はわかりませんが、当時はあの辺りで一番悪い高校だったんじゃないですか。僕は何となくそこに進学したんだけど、本当に悪い連中がいっぱいいましたからね。偶然そんな中に入って、自分もだんだんと悪くなっていったという(笑)。いつも3人くらいでつるんで遊びに出かけるんですが、みんなワルなんですよ。だいたい他校のやつらとケンカが始まっちゃう。そんなだから、学校に行けば先生から怒られ、殴られてばかりいましたよ。

<野田義治をつくったルーツ.2>
映画好きが高じて、俳優の道を志すように。上京し、稽古しながらのアルバイト生活に突入

 母にたまに連れて行ってもらっていた映画が大好きでね。中学、高校の頃には自分で映画館に通うようになっていました。3本立てで入館料が100円くらいの時代ですよ。東映や日活の活劇、アクションものばかり観てた。松竹はあんまり好きじゃなかったんだよね。当時は石原裕次郎さんや浜田光夫さんの全盛期だったんだけど、僕にとって彼らは次元が高すぎるというかハイカラで、ちょっと違うなと。僕は自分たちの世代に近い感じがする高橋英樹さんのファンで、彼が出演した作品は全部観たんじゃないかな。どの作品もお気に入りだから、一番を選べといわれても難しいね。

 映画好きが高じて、俳優になりたいと思い始めたんですよ。これが大きな勘違いなんだけど(笑)。友だちにも、「もうちょっと真剣に考えたほうがいいぞ」とか諭されましたが、もうその時には自分で応募書類を書いてオーディションの申し込みを済ませてた。で、高校を卒業して、すぐに上京。当時、新宿の下落合にあった劇団「こまどり」に研究生として所属し、俳優を目指す生活が始まるんですよ。演技の稽古をしながら、いろんな映画やドラマのエキストラ、舞台の端役として出演していましたよ。でも、生活費を稼がなきゃならないですから、アルバイトもたくさんやった。「キューポラのある街」の舞台である埼玉・川口の親戚の家で世話になっていたので、鋳物づくりとか。今でも教えてもらえばすぐにその仕事に復帰できると思います(笑)。

 あとは雑誌や新聞の配送センター。駅売店への搬入や返品が主な仕事です。この時に出版ビジネスの仕組みを把握しました。週刊誌といっても1週間売店に置かれているわけじゃない。だいたい3日くらい。月刊誌でも長くて15日。だから「うちのタレントのグラビアが出てる雑誌も短期決戦なんだぞ」とマネジャーたちにハッパかけてます。これは後日談ですが、その頃の出版社に頼んで、返品されて不要になった雑誌のアンケートハガキを使わせてもらったこともあったよ。500枚ほど譲ってもらって、うちのタレントのグラビアや記事に投票するんです。僕はそんな数字をまったく信じていませんが、編集者の中には「アンケートの投票数が少なかったので、次回は……」とか言うのがいるんです。そんな時は、「それほど投票数が大事なら、この手を使いますよ」って脅してやる(笑)。数字よりも自分たちの感性を信じて勝負しないと、雑誌はどんどん売れなくなっちゃうよ。

<歌舞伎町で水商売>
人気ディスコの支配人となり、俳優の道が遠のいた。
新たに生まれた夢、芸能界で成功する別の方法

  川口から劇団がある下落合って遠いんですよ。だから近くの、新宿歌舞伎町でバイトをし始めました。1960年代の歌舞伎町には風俗店なんてなくて、モダンジャズの喫茶店がいくつかあって、若者にとって憧れの街だった。で、当時最先端といわれていた「ジャズ・ビレッジ」というジャズ喫茶で働き始めるんですね。時代の流れとともに、今度はゴーゴークラブが流行り出して、オーナーが新宿2丁目に生演奏で踊れる「POP」という店をオープン。今度はここで主任として働くようになって、バンドのブッキングの仕事を任されるようになった。その後、歌舞伎町の高級ディスコ「サンダーバード」の支配人になり、ブッキング、演出、運営まで全部仕切らせてもらった。自分と同じワルのにおいのするやつらが夜な夜なたくさん集まって、もちろんトラブルも多かったけど、この仕事がどんどん面白くなっていくんですよ。

 今思えば、芸能界の仕事に関する基礎はこの時代に学んだんじゃないかな。いろんなミュージシャンや有名人ほか、たくさんの人脈もできたし。今でも、「昔、サンダーバードでよく遊んだけど、もしかして野田さんが支配人だった?」なんて聞かれたりします。でも、だんだんと小奇麗なディスコが六本木や赤坂にでき始め、歌舞伎町から少しずつお客が流れていった。うちの店は、スケルトンのコンクリ壁にブラックのペンキ塗ったようなラフな内装だったし。そのうえ警察の取り締まりが厳しくなって、「夜の11時には閉店しろ」と。僕らは12時に寝たらもったいないと思ってたから、聞く耳持たず勝手に営業してた。そしたら、店の前にどーんと大きな警察車両が止まって、一斉検挙。まず客が全員もってかれて、そのあとに僕らがしょっぴかれて朝まで事情聴取。それでも無視してまた深夜営業して、毎週毎週同じことの繰り返し。きっと、新宿署に行けば、あの頃の僕の始末書が山ほど溜まってるんじゃないの。そんな毎日がだんだんかったるくなってきたんです。

 で、店を辞めることにした。俳優の夢は、水商売を始めて少し経った頃にあきらめた。自分には芝居の才能もないみたいだし、いろんな裏側も見えてきたから。オーディションってあるでしょう。うちのタレントたちには「オーディションは業界に顔見せをする場所であり、落ちにいくところなんだ。だから一喜一憂するな」って言ってます。多くの場合、最初から優勝するのは決まってる。ほかの出場者は、スポンサーを満足させるための数合わせなんですよ。そんな裏側とかね。店を辞めたあと、大手プロダクション系の事務所に所属して、しばらく営業しながらマネジメントの勉強をしていました。俳優の道はあきらめたけど、芸能界で成功するという夢は捨ててなかったから。あまり知られてないけど、僕が初めてマネジャーを担当したのは、夏木マリさん。「絹の靴下」というデビュー曲が大ヒットしてね。この時にタレントのマネジャーとしての基礎を、みっちり学ばせてもらったんです。

<いしだあゆみとの出会い>
7年間、天才女優、歌手の現場に張り付いて、4年目にやっとマネジャーに昇格する

 夏木マリさんの事務所を辞めたあと、キャバレーの支配人をしながら次のチャンスを探してたんです。ある日、歌舞伎町時代に知り合った渡辺プロダクション系「サンズ」の知り合いから、「野田君、何もしてないなら、明日からいしだあゆみさんの現場やってよ」と。当時すでに、いしだあゆみさんは超人気スター。「ぜひ、やらせてほしい」と即答していました。でも、彼女はすでに完成された大物女優、歌手であり、衣装やメイクまで自分自身で完璧にプロデュースできる天才なわけです。これまでの経験などまったく通用しない、ゼロからのスタートでした。歌番組の現場から始めたのですが、歌舞伎町からぽっと出てきた不良上がりの僕にできることなんてないんですよ。まさにプロとアマチュア。3年間くらいは、ただの付き人として動いていたようなものです。

 いしだあゆみさんには、数えきれないくらい怒られたけど、本当に大切なことを学ばせてもらいました。彼女は覚えてないそうですが、こんなことを言われたことがあります。「私はいつも崖っぷちの立場。あなたはそんな私の背中を押す立場。清水の舞台から落ちた私をどうすんの? 落ちたら私の下敷きになるのがあなたの仕事でしょ」って。ひとりのタレントとして、商品である自分に最適な次、次のことをいつも真剣に考えているんです。あと、時間にはとても厳しい人でした。もちろん遅刻はゼロ。終わる時間が決められた仕事は、仕事が残っていようが時間きっかりに帰っていくんです。それでは現場の雰囲気が険悪になるので、終わり時間に救急車を呼んだこともあった。さすがにみんな「お大事に」って言って帰してくれるから。そうやって彼女につかず離れず、行動をともにし、4年目だったかな。現場で、「私のマネジャーです」と紹介してもらった時はものすごく嬉しかったですよ。

 僕も会社からだんだん認められるようになり、肩書きが増えていった。いしだあゆみさんのほかに、アン・ルイスさん、テレサ・テンさんのマネジメントも任されるようになってね。でも、結局いしだあゆみさんが結婚して、現場を離れて。それをきっかけに、僕も事務所を去るんです。いろんな人から「あれほど扱いづらい、いしだあゆみさんのマネジャーをよくやれているね」と言われてましたし、勘違いしちゃったんですね。もう俺は芸能界で十分生きていける。人脈もたくさんできたし、一匹狼で大丈夫だと。でも、天才女優と、会社の看板があったからできてた仕事なんですよ。そのかすりをもらいながら食っていたと。結局その後、津川雅彦さんから奥さんである朝丘雪路さんのマネジャーを依頼され、3年ほどお手伝いすることになりました。そうやって過去に培ってきた経験や人脈が、ある時期ある時期に重なりながら仕事につながっていくんだよね。そして、1980年に仲間と一緒にイエローキャブという事務所をつくるんだけど、社長になるのは少しあとの話。

巨乳バカ一代の宣言は、ブームづくりの一環。
総合芸能プロダクションを目指し新たな挑戦に邁進

<堀江しのぶとの二人三脚>
最後の言葉は、「社長、仕事が、したい……」。その遺言を胸に、事務所経営に奮起する!

 当時の僕は34歳、事務所の代表は、僕の友人であり、世界のクロサワを父に持つ黒澤久男さん。山咲千里さんが所属してました。でも、すぐに映画「影武者」が大ヒット。黒澤さんはそっちの仕事にかかりきりになって、結果的に僕が事務所の代表を引き受けることになったというわけ。で、17歳の堀江しのぶと出会うんだよね。しっかりしたとてもいいコで、彼女が20歳の時にクラリオンガールコンテストに出場。グランプリは逃したけど、「平凡パンチ・アイドル賞」を受賞した。というか、させた(笑)。それから、テレビ、ラジオ局を駆けずり回って堀江しのぶの営業を始めるんです。いろんなきっかけがあったけど、横山やすしさんに気に入ってもらったことが大きかった。何をするでもないんだけど、番組の中で、暴れん坊のやすしさんの緩衝材みたいになったんだろうね。いつも堀江はやすしさんから「おい、ねえちゃん」って呼ばれて、彼女は「早く名前覚えてください」って。本当にかわいがってもらってたから。

 あと、当時は雑誌編集部のグラビア担当が、タレント事務所に営業に行ってた。「あのコを使わせてほしい」って。そこを逆張りの発想で、僕は雑誌社に営業をかけた。そしたら少年マガジン編集部にちょっと変わった編集者がいて、「堀江しのぶさんでいきましょう」となった。その頃、マンガ雑誌のグラビアでビキニの女の子なんて出てないわけ。みんな私服か、いってもワンピースの水着。そこをビキニでやると。堀江も最初はすごく抵抗したけど、何とか納得させた。まずは表紙と巻頭グラビア18ページ、その後は巻末グラビア10ページ。そんな展開を1年間続けて、堀江しのぶは一躍若者たちのアイドルとして育っていったんですよ。利口で性格も良かったから、ファンから支持されただけではなく、いろんな芸能人にも気に入られ、バラエティ、ドラマなど露出がどんどん増えていった。彼女の活躍は本当に目覚ましいものがありましたよ。

 でもね、病魔に冒されて堀江しのぶは23歳で人生の幕を閉じるんです。約半年間、闘病生活を送りましたが、僕はたったの2回しかお見舞いに行ってあげられなかった。励ましの電話は何度もしたんです。僕は顔に出ちゃうんで、面と向かって話ができないから……。彼女の最後の言葉は、「社長、仕事が、したい……」。消え入るような声でささやいた、僕への遺言です。実際、事務所には彼女に対するたくさんの仕事のオファーが届いていました。それまで彼女とずっと二人三脚でやってきましたので、新人を育てる余裕がなかったんです。それもあって、彼女がいなくなってからはまったく仕事をする気がおこりませんでした。ただ、彼女の最後の言葉は、「仕事が、したい……」だったわけでしょう。堀江しのぶの思いを受け継いで、もっといい仕事をするためにタレントを育てていこうと覚悟を決めたんです。

<巨乳専門は後付けだった?>
巨乳のグラビアアイドルを育てるつもりはなし。デビューから少しずつ服を着せていく戦略が奏功

 やっとやる気が出てきたのは、かとうれいこを見つけてからですかね。数年前からうちは巨乳専門とか言われていますが、最初からそこを目指してたわけではないんです。利口で性格が良くて、しゃべりも歌も芝居もできそうなコを選んでいたらたまたま胸の大きなコが多かったというだけ。まあ、洗濯板に干しブドウよりは、グラマーのほうがグラビアでは人気ありますしね(笑)。実は、僕が昔つかせてもらってた夏木マリさん、いしだあゆみさんも細身に見えて、かなりのグラマーだったんですよ。何だかわからないけど、結果的にそんなコたちが集まってくれた。で、ある時に言われて思った。巨乳が大きなマーケットになるのなら、徹底的にやってやろうじゃないかと。巨乳バカ一代の始まりです(笑)。

 雛形あきこ、山田まりや、MEGUMI、小池栄子、佐藤江梨子など、ほかたくさんのタレントを育て、芸能界でかわいがってもらえるようになりました。みんな最初は雑誌や写真集のグラビアを経験してきましたが、テレビでは水着にさせないという信条があります。僕は確かに巨乳ブームをつくりましたが、グラビアアイドルを育てるつもりなんてありませんからね。水着人気なんて1年ももちません。彼女たちをできるだけ長く芸能界で活躍させたいから、本人の適性を見ながら、バラエティ、芝居、歌など、少しずつ服を着せていく仕事をさせるようにしています。もちろん忘れられたら困るので、時にはグラビアの仕事も入れますが、売れるコほど水着の仕事が自然と減っていくんです。「私はグラビアアイドル」なんて自分で宣言してるコはいつかヌードになって、消えていくんじゃないですか。

 どうやって売れるコを選ぶのか? かつては自分の好みで選んでいたと思いますが、正直言ってほとんどはヤマ勘ですよ。結局、芸能界は現場がすべて。スタッフ、共演者などから「このコはいい」と思われないと次につながっていかないんです。だから、やはり利口で性格の良いコを自然と選んでいるのかな。ちなみに僕の面接はセクハラ面接っていわれています。本人と親の前で、「おまえは処女か? 違うならこれまで何人とやった?」って聞くんですよ。そこで本人がどう答えるのか。親がどんな反応を見せるのか。そんなキワドイ質問でも、しっかりとした自分の考えをすぐに返してくるコは見込みがありますね。時には平気で、「もう3人くらいとしてます」なんて答えるコもいるんですよ、親の目の前で(笑)。

<未来へ~サンズエンタテインメントが目指すもの>
常に必要とされる事務所の鮮度を保ち続けながら、次代へ良き芸能界のあり方を伝達していく

 

 2004年、イエローキャブの株主との間でトラブルが起こり、僕は経営責任を追及され辞任。新たにサンズエンタテインメントを設立し、芸能プロダクションの経営を続けています。今、頑張ってくれているうちの所属タレントたちをしっかり売り込みながら、これからも常に売れるコを育てていきたい。昨年からブレイクしている、はるな愛もうちの所属タレントなんですよ。MEGUMIが怪我をした時に、ずっと看病してくれたのがはるな愛で、その縁で知り合った。「おまえは、男と女、どっちでいくつもり?」って聞いたら、「社長、もうアレを取っちゃってるんで、女で~」と(笑)。売り込みの際は、彼女を担当するうちのマネジャーが相当しつこく頑張ってくれたんだよね。本人の実力はもちろんですが、マネジャーのしつこさがあったからこそのブレイクだと思う。そういった意味で、うちのスタッフもだんだん成長してきているよね。

 すべての所属タレントは僕にとって、家族であり、子どもみたいなものです。10年でも、20年でも、できるだけ長くみなさんにかわいがってもらいたい。そのためなら僕は何だってやる。タレントを守るために時には雑誌社や局とケンカもするし、昔は直接脅しに行ったこともある。「夜道には気をつけろよ」なんて(笑)。今はもうしませんけど。でも、何かあった時は、「社長がそんなこと言ってましたけど……」って言えとは伝えています(笑)。“めちゃイケ”への出演がきっかけで、僕が表に出ることが多くなったでしょう。僕自身は肩身が狭くなったし、動きづらくなったけど、社長をネタにすればいいんですよ。雛形あきこも、山田まりやも、MEGUMIも、売れてったコはみんな僕を上手に利用してきたんだから。経営者は使えて、使われてなんぼだと思います。

 女の子を中心にやってきて、最近少しずつ、男の子も育てるようになった。はるな愛は中間ですけど(笑)。これからは、芸能プロダクションとしてもう少し正常なかたちを目指していきたいと考えています。タレントだけでなく役者もしっかり育てていきたいですし、新しいコンテンツにも挑戦していきたい。それを実現するためにも、ある意味で昔堅気のマネジャーをつくらないといけないと考えています。仕事は人で成り立つものなんですから。タレントという商品がいくら優れていても、それを芸能界へとつなげるマネジャーが弱いと話にならない。この業界はいろんな人たちが義理と人情でつながった、究極のアナログ世界。次代へ良き芸能界のあり方を伝達することも、僕に課せられた重要な使命だと思っていますから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
まずは目標に向かって果敢に挑戦する度胸を持って、経験を重ね、勘を研ぎ澄ます継続が成功を呼び込む

 何かのきっかけをつかんだなら、あとはもう突っ走るしかないでしょう。起業したら、おそらく苦労が99%、いいことなんて1つあるかないか。どんなジャンルで勝負するにしても、人との付き合いが一番大切だと思います。人間は失敗する生き物ですし、不義理することも時にはある。1度の不義理は仕方ない。でも裏切ってしまったらその人間関係は終わり。その人はあなたの目の前からいなくなってしまします。どうしてもその人を失いたくないなら、不義理をお詫びして1回ぶん殴られてもいいじゃないですか。2回目に、きっとその人はあなたに手を差し伸べてくれます。人間には情というものがあるんですから。

 芸能プロダクションという仕事は、無から有をつくりだす仕事なわけです。そんな不安定な事業には、銀行だってなかなかお金を貸してくれません。でも、今日は売れないかもしれないですが、明日あるタレントがブレイクする可能性がある。だから、継続し続けるしかない。ただし、心強いのは、大昔から娯楽は世の中から必要とされ、今も求められているということ。うちにとって、まだまだ仕事の空席があるんですよ。出雲の阿国は河原で興業していましたが、今でも路上ライブはあるわけです。それがラジオ、テレビと人々が目にするメディアが変わっているだけ。原点を見直せば、どんなビジネスだって同じようなものじゃないですか。時代のニーズをしっかり考えながら、初心を貫く覚悟を決め、継続し続けること。これしかないですよ。

 あと、起業家に必須なのはKKD。「勘、経験、度胸」だと思います。まず、必要だと思うことに果敢にトライする度胸が大切です。そして、その度胸を持ちながら、たくさんの経験を積んでいく。経験をどんどん積んでいけば、ここぞというチャンスや、それにはコレ!というヒントをつかむ、自分なりの勘が研ぎ澄まされていくわけです。そのためにも、一番いやなこと、面倒くさいことを先にやってしまう癖をつけておくべき。成功をつかむためには、まず、やってみること。習うより慣れろの精神で、前を向いて突っ走ってください。あとは、掲げた夢を達成するまで絶対にあきらめることなく、ビジネスを継続し続ければいいんですよ。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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