第25回 株式会社キッズシティージャパン 住谷栄之資

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第25回
株式会社キッズシティージャパン 代表取締役社長 兼 CEO
住谷栄之資 Einosuke Sumitani

1943年、和歌山県生まれ。小学校からは大阪へ。中学3年で、サッカー部から一転、水泳部へ転身。高校からは水球を始め、大学時代には全日本代表選手に選ばれる。慶応義塾大学商学部を卒業後、藤田観光へ入社。香川県・直島の開発プロジェクトを任されるなど活躍。入社5年目に、水球部の先輩に誘われて脱サラ起業。共同経営パートナーとして、(株)WDIの経営に携わるように。1972年、「ケンタッキーフライドチキン」のフランチャイジーとして六本木店をオープン。以後、30店舗ほどを展開。その後も、「トニーローマ」「スパゴ」「カプリチョーザ」などのライセンスを獲得し、飲食事業を幅広く展開する。 2000年、(株)WDIの社長に就任。2003年、60歳で同社を退職。同年、友人の紹介でメキシコの「キッザニア」の存在を知る。視察に訪れ、ライセンスの獲得と日本への誘致を決意。帰国後、スポンサー探しに奔走し、2004年9月、(株)キッズシティージャパンを設立。約2年の準備期間を経て、 2006年10月5日、東京都江東区のショッピングモール「アーバンドック ららぽーと豊洲」内に、「キッザニア東京」をオープンした。

ライフスタイル

好きな食べ物

和食中心を心がけています 
昔は肉中心の食事だったのですが、今は和食中心ですね。魚と野菜を多く摂ることを心がけています。お酒は大好きですね。飲酒運転の取締りが厳しくなったで しょう。夜の食事で飲めないなんて、私の場合ありえませんので、自宅で食事する機会が増えました。妻が「大変になった」とぼやいていますよ(笑)。

趣味

ゴルフとスカッシュ 
ゴルフとスカッシュですかね。あと、週に2回は30分程度ですがプールで泳いでいます。ほかの趣味ですか?

ほっとする時間

目覚めたら布団の中で30分
毎朝目覚めてから、布団の中でだいたい30分くらい過ごすようにしています。外に出たらひとりきりになれる時間なんてないでしょう。だから、この30分を自分ひとりで考える時間にしているのです。私にとって、とても大切な時間です。

1週間休みがとれたら

目的のない時間をひとりで
休みですか、ここのところはほとんどないですね。もしも1週間休めるならば、国内でも海外でも、静かな山にこもって寝ていたいですよ(笑)。目的のない時間を過ごすことに今は憧れています。

60歳を超えてゼロからの再起業に挑戦!「キッザニア東京」、豊洲の地に誕生

 2006年10月5日、東京は豊洲に、こどもが主役のこどもの街「キッザニア東京(Kidzania Tokyo)」がオープンした。2歳から12歳までの子どもを主な対象とした、さまざまな職業を疑似体験することができるエデュテインメント施設である(エ デュケーション=教育とエンターテインメント=楽しみを組み合わせた造語)。オープン以来大盛況で、インターネット予約も受付開始と同時にアクセス殺到の 状態。筆者である私も何とか予約を取って子どもたちと出かけたが、平日の夜でもこのこどもの街は大賑わい。多くの子どもたちが、企業がスポンサードするパ ビリオンで、一所懸命働いていた。それも生き生きと、とても楽しそうに。ここまで「キッザニア東京」が流行っている理由は何なのだろう? それは日本とい う国がこの施設を必要としていたからにほかならない。面白くも何ともないが、それ以上に的確な答えが見つからないのだ。「キッザニア東京」を運営するキッ ズシティージャパンの代表である住谷栄之資氏は、60歳を超えてゼロスタートでこの施設をメキシコから誘致し、立ち上げた。今回はそんな住谷氏に「キッザ ニア東京」がブレイクしている理由、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<住谷栄之資をつくったルーツ.1>
5歳の少年が思った将来の自分像。それは戦闘機のパイロット

 1943年の戦中に、私が生まれたのは和歌山県の南部にある田辺市。母方の実家が漁師町で網元をやっていましてね。だから小さな頃から、遊び場とい えば海でした。今は「キッザニア」という子ども向けにさまざまな仕事体験を提供するエデュテイメント施設を経営していますが、5歳の頃の私は、大人になったら 戦闘機に乗って戦うもんだと思っていました。戦争が終わっても空には戦闘機がびゅんびゅん飛んでいましたからね。戦後に母と電車に乗ったときも、私は「空 襲警報発令~!」と大声を出して電車の中を歩き回っていたそうです。後になって、母からすごく恥ずかしかったと愚痴を言われましたよ(苦笑)。

  小学生になってからは大阪に引っ越します。今とは違って、受験戦争もない、いじめもない、平和な小学校生活でしたね。そして当時の楽しみはやはり、夏休 み。毎年必ず故郷の和歌山に帰って、海遊びに興じていました。台風が来るとワクワクするのですよ。沖から大きな波が岸めがけてやって来るでしょう。その波 めがけて飛び込んで海の底に潜るのです。海の上はもちろん大荒れなのですが、海底はすごくおだやか。説明するのが難しいのですが、静と動のギャップを征服 するような気持ちだったのだと思います。今考えれば、そうとう危険な遊びですね。絶対マネはしないでください(笑)。

  中学はサッカーの強かった箕面中学に入学し、私もサッカー部に入部します。当時は大阪府大会でも優勝するような強豪だったのです。仲のいい友人もたくさん できました。しかし、中学3年になる前に地域の人口増により、学校が第一と第二に分かれることに。当然、サッカー部の仲良しも別れ別れになってしまいまし た。サッカー部の同期10人のうち、8人が第二に行き、残ったのは私とあとひとり。実は、このひとりが内心気に食わないやつでね(笑)。こいつと一緒に サッカーを続けるのも何だなと。泳ぎは昔から得意でしたから、水泳部に鞍替えです。だから中学最後の夏は、平泳ぎの選手として活躍していました。

 

<住谷栄之資をつくったルーツ.2>
水球部の監督と大ゲンカ。結果、坊主頭で就職活動

 高校は大阪府立池田高等学校へ進学します。中学からの流れで、水泳部に入部したかったのですが、この高校には水泳部がなかった。でも、水球部はある と。これも必然と、私は水球部に入部することに。当時、大阪府に水球部のある高校は3つくらいしかなくてね。2回勝てば優勝なわけですよ。まあ、池田高校 の水球部自体、強かったのもあって、国体やインターハイに何度か出場しています。今後の人生の節目節目に、水泳と水球がいろいろ関係してくるのですが、当 時の私にはわかるはずがありませんでした。

 水泳部の監督が慶応大学出身で、その監督から「絶対に慶 応大学に進学するように」と強く薦められましてね。確かに水球は面白いし、まあ学内宿舎もあるからいいかと。そんな理由で、私は慶応大学の商学部に進学し たのです。東京への憧れがあったかって? いや、全くなかったです(笑)。あの監督がいなかったら、私は多分、関西にとどまっていたでしょう。本当は、関 西学院大学に行きたかったのですから(笑)。ちなみに大学時代には、水球の全日本代表メンバーにも選ばれています。まあ、それくらい水球漬けの4年間でし たよ。

 さて大学4年になって就職活動が始まる寸前、私と水球部の監督の間で問題が勃発します。私は当時キャプテンだったのですが、どうしても監督のやり 方に納得がいかないわけです。監督が私に持っていた思いも同じだったようで、「住谷、お前もう退部しろ!」。それを受けて私も、「いいえ、監督が辞めるべ きです!」と反論。この頃、学生が体育会を辞めるイコール大学を去るという考え方でしたから、こっちも必死です。これが大問題になりましてね。何とかOB が助け舟を出してくれて双方収まったのですが、私には反省の見せしめのために頭を丸めるという条件が課せられました。

 だから私は坊主頭で就職活動しているのです。当時でもこれは珍しかった(笑)。あのころは、7月1日と8月2日の2回に分かれて就職試験があった のですが、周囲の仲間の多くは、7月1日に実施される銀行とか大手メーカーの就職試験を目指しています。私はあまりそれらの業界に興味がなかったし、7月 はまだ水球のシーズン。それで水球部の先輩の薦めもあって、8月1日に藤田観光の就職試験を受け、無事合格。そういった流れを経て、私の社会人生活は、観 光ビジネスの現場からスタートを切りました。

<脱サラブームに乗り起業>
水球部時代の先輩に誘われて、共同経営パートナーに

  藤田観光は、ご存じのとおり東京の椿山荘、大阪の太閤園、ワシントンホテルなどを運営している観光事業大手です。当時は全社員が箱根小涌園という温泉 旅館で2年間、研修と称した修業をするのが慣わしでした。ですから私も、庭掃除、客室清掃、布団の上げ下げ、厨房にベルボーイまで、旅館の仕事は隅から隅 まで経験することができました。そして3年目、私にある白羽の矢が当たることになります。香川県と岡山県の間、瀬戸内海に浮かぶ直島の開発担当に抜擢され たのです。抜擢の理由は、「住谷は水泳が得意だから」(笑)。

 藤田観光が当時所有していた、直島の 南側にある地区をキャンプ場として開発しようというわけです。将来的には5000室のホテルを建てるという鳴り物入りの一大プロジェクト。今は「ベネッセ アートサイト」のある島として開けた感がありますが、私が赴任した1960年代後半は本当に何もない場所でした。ですからこれは、水道、電気、ガス、電 話、道路などのインフラ構築に始まり、岡山と香川からの定期船を運航してもらうための交渉に桟橋の造成と、ゼロからひとつの街をつくる仕事。大変でしたが ものすごいやりがいを感じていましたね。もう、海の若大将気分でした(笑)。

「無人島パラダイス」という名前をつけましてね。1階部分のバンガローを土台として、その上にテントを乗っけた「テンガロー」という宿泊施設も新し く用意して、このキャンプ場はすごく話題になったのですよ。そうやって3年間、夏を含む半分は直島で、ほかの半分は大阪の太閤園でウエディング関係の仕事 と、とても忙しかったですが毎日が充実していました。

 そんなある日、東急不動産に勤務していた水球部時代の先輩が、「住谷、起業して一緒に何かやらないか」と。当時の日本は高度経済成長で上り調子の 時期。ちょうど脱サラブームが始まった頃です。じゃあ一丁やってみますかとその話に乗りまして、1969年の9月に先輩とともに株式会社WDIを創業。海 外旅行の手配、ボーリング場の運営、ダイヤモンドの輸入販売、貸しビル業などなど、ありとあらゆるビジネスを手がけ始めます。その後1972年に、「ケン タッキーフライドチキン」のフランチャイジーとなって六本木店をオープン。この参入を機に、WDIは外食事業を会社の柱としていくことになったのです。

<ウルフギャング・パックとの出会い>
強運体質が呼び込んだ、世界的シェフとのライセンス契約

 事業は軌道に乗り、「ケンタッキーフライドチキン」のフランチャイジーを30店舗くらいは展開したでしょうか。当初は「日本にはから揚げというおい しい鶏肉料理があるじゃないか。フライドチキンなんて売れないよ」と多方面から揶揄されました。成功した要因には、日本人のアメリカに対する強い憧れが あったからだと考えています。私たち自身も、小さいころから食うや食わずの生活を強いられてきましたから。食べ物には思い入れが強いのですよ。そうやって 外食ビジネスを続ける中で、説明のできない肌感覚とでもいうのでしょか、まだまだこのマーケットにはチャンスがあると感じていました。

  ファストフードの次は、カジュアルダイニングのブームが来ると踏んで、1979年にオープンしたのが、「トニーローマ」。これはアメリカのローマ・イン ターナショナル社からライセンス権を取得したバーベキューリブレストランです。その後も、ライセンスを取得して店舗展開していくという経営戦略で、カリ フォルニアキュイジーヌの「スパゴ」、ロックンロールがテーマのダイニングレストラン「ハードロックカフェ」、カジュアルイタリアンの「カプリチョーザ」 などを手がけていきます。どの店も話題になり、とても繁盛しました。

 WDIで一番心に残っている仕事は、「スパゴ」を日本にオープンしたことですね。今やカリフォルニアキュイジーヌの創始者として世界的に有名と なったシェフ、ウルフギャング・パック。彼は1983年にアメリカのウィリアムスバーグで開催された、先進国サミットミーティング最終日のオフィシャル ディナーを任されて一気にブレイクしました。

 実はその半年前、私はウルフギャング・パック自身と直接ライセンス取得交渉のテーブルについていたのです。ちょうどそのころ、パック自身も日本で 店をやりたいと考えていましてね。約30分のディール交渉で、確約を取り付けることに成功していました。ブレイク寸前だった彼と交渉ができたのも、すべて はそれまでに培ってきたさまざまなつながりを大切にしてきたから。もうひとつは、私自身、かなりの強運体質なのだと思っています。

<脱サラブームに乗り起業>
水球部時代の先輩に誘われて、共同経営パートナーに

  藤田観光は、ご存じのとおり東京の椿山荘、大阪の太閤園、ワシントンホテルなどを運営している観光事業大手です。当時は全社員が箱根小涌園という温泉 旅館で2年間、研修と称した修業をするのが慣わしでした。ですから私も、庭掃除、客室清掃、布団の上げ下げ、厨房にベルボーイまで、旅館の仕事は隅から隅 まで経験することができました。そして3年目、私にある白羽の矢が当たることになります。香川県と岡山県の間、瀬戸内海に浮かぶ直島の開発担当に抜擢され たのです。抜擢の理由は、「住谷は水泳が得意だから」(笑)。

 藤田観光が当時所有していた、直島の 南側にある地区をキャンプ場として開発しようというわけです。将来的には5000室のホテルを建てるという鳴り物入りの一大プロジェクト。今は「ベネッセ アートサイト」のある島として開けた感がありますが、私が赴任した1960年代後半は本当に何もない場所でした。ですからこれは、水道、電気、ガス、電 話、道路などのインフラ構築に始まり、岡山と香川からの定期船を運航してもらうための交渉に桟橋の造成と、ゼロからひとつの街をつくる仕事。大変でしたが ものすごいやりがいを感じていましたね。もう、海の若大将気分でした(笑)。

「無人島パラダイス」という名前をつけましてね。1階部分のバンガローを土台として、その上にテントを乗っけた「テンガロー」という宿泊施設も新し く用意して、このキャンプ場はすごく話題になったのですよ。そうやって3年間、夏を含む半分は直島で、ほかの半分は大阪の太閤園でウエディング関係の仕事 と、とても忙しかったですが毎日が充実していました。

 そんなある日、東急不動産に勤務していた水球部時代の先輩が、「住谷、起業して一緒に何かやらないか」と。当時の日本は高度経済成長で上り調子の 時期。ちょうど脱サラブームが始まった頃です。じゃあ一丁やってみますかとその話に乗りまして、1969年の9月に先輩とともに株式会社WDIを創業。海 外旅行の手配、ボーリング場の運営、ダイヤモンドの輸入販売、貸しビル業などなど、ありとあらゆるビジネスを手がけ始めます。その後1972年に、「ケン タッキーフライドチキン」のフランチャイジーとなって六本木店をオープン。この参入を機に、WDIは外食事業を会社の柱としていくことになったのです。

<ウルフギャング・パックとの出会い>
強運体質が呼び込んだ、世界的シェフとのライセンス契約

 事業は軌道に乗り、「ケンタッキーフライドチキン」のフランチャイジーを30店舗くらいは展開したでしょうか。当初は「日本にはから揚げというおい しい鶏肉料理があるじゃないか。フライドチキンなんて売れないよ」と多方面から揶揄されました。成功した要因には、日本人のアメリカに対する強い憧れが あったからだと考えています。私たち自身も、小さいころから食うや食わずの生活を強いられてきましたから。食べ物には思い入れが強いのですよ。そうやって 外食ビジネスを続ける中で、説明のできない肌感覚とでもいうのでしょか、まだまだこのマーケットにはチャンスがあると感じていました。

  ファストフードの次は、カジュアルダイニングのブームが来ると踏んで、1979年にオープンしたのが、「トニーローマ」。これはアメリカのローマ・イン ターナショナル社からライセンス権を取得したバーベキューリブレストランです。その後も、ライセンスを取得して店舗展開していくという経営戦略で、カリ フォルニアキュイジーヌの「スパゴ」、ロックンロールがテーマのダイニングレストラン「ハードロックカフェ」、カジュアルイタリアンの「カプリチョーザ」 などを手がけていきます。どの店も話題になり、とても繁盛しました。

 WDIで一番心に残っている仕事は、「スパゴ」を日本にオープンしたことですね。今やカリフォルニアキュイジーヌの創始者として世界的に有名と なったシェフ、ウルフギャング・パック。彼は1983年にアメリカのウィリアムスバーグで開催された、先進国サミットミーティング最終日のオフィシャル ディナーを任されて一気にブレイクしました。

 実はその半年前、私はウルフギャング・パック自身と直接ライセンス取得交渉のテーブルについていたのです。ちょうどそのころ、パック自身も日本で 店をやりたいと考えていましてね。約30分のディール交渉で、確約を取り付けることに成功していました。ブレイク寸前だった彼と交渉ができたのも、すべて はそれまでに培ってきたさまざまなつながりを大切にしてきたから。もうひとつは、私自身、かなりの強運体質なのだと思っています。

<未来へ~キッズシティージャパンが目指すもの>
「キッザニア東京」大ブレイク!国内での多店舗展開も計画中

 そして2006年10月5日、ついに「キッザニア東京」が豊洲の地にオープンしました。実は豊洲以外にもいくつか候補地はあったのですが、私自身は どうしてもこの場所でやりたかった。失礼な言い方になるかもしれませんが、豊洲ってまだ場所的な知名度が低いでしょう。そして、石川島播磨重工さんの造船 基地跡地でもあり、海が近い素晴らしいロケーションでもあります。豊洲といえば「キッザニア」、そんなブランディング効果も狙いたかったのです。

  ここでちょっと施設の案内をしましょう。「キッザニア東京」の主な対象年齢は2~12歳で、16歳以上は働くことができません。子どもに合わせて、現実世 界の約3分の2のサイズでつくられた街には、パイロットやDJ、消防士など約70種類の仕事や習い事などのアクティビティを体験できるパビリオンが並びま す。各種パビリオンは、その職業に関連のある企業がスポンサーとなっており、例えばヤマト運輸さんの宅配センター、モスバーガーさんのハンバーガーショッ プなどで、制服を着て仕事をするというリアルな体験が可能です。

 子どもたちが労働の対価として得た専用通貨「キッゾ」は、施設内で使うこともできますし、銀行に預けて次回来場時に使うこともできます。入場に関 しては、1日2回、5時間ごとの入れ替え方式で、1回当たりで平均4~5カ所のパビリオン体験。ちなみに、保護者の方は同伴者としてご入場はできますが、 子どもたちと一緒にお仕事体験することはできません。

 おかげさまでオープン以来、多くのマスコミにも取り上げられ、嬉しい悲鳴状態です。当社としてはソフト面、ハード面を充実させるとともに、スタッフの拡充と教育を急いで、より多くの来場者をお迎えできるよう環境整備をしているところです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
雑念に惑わされることなく、本当にやりたいことを探そう

 これからどの分野にビジネスチャンスがありますか? そんな質問が多いですよね。これは時代が進むにつれどんどん変わっていくものですから、適切な 答えなんてないと思っています。儲かりそうだから、伸びそうな分野だからという理由で取り組むビジネスを選ぶのは全くのナンセンス。自分が本当にやってい て楽しい、続けてやっていきたいと思えることは何なのか、これを見つけることの方が大切です。

 私が 今携わっている「キッザニア」について、「レストランビジネスとは全くの異分野への挑戦ですね」と言う人がいます。確かに業態は違いますが、箱物ビジネス であり、スポンサーが必要であり、感性とヒューマンスキルが求められる仕事という意味で、私にとっては前職の延長のようなものなのです。日本で展開したい ビジネスと出合った、そして自分が得意とするビジネススキルが生かせる、と踏んだから始めただけ。それでも実はそこに専門技術など必要ないのです。今では さまざまな専門家が存在しますから、それらを上手くコーディネートすればいい。そういった意味で、自分のやりたいことが見つかって、それができそうなタイミン グが来たならば、そのときが始めどきなのではないでしょうか。人間、運も時間も限られていますからタイミングは重要です。

 2007年を機に、団塊世代の方々の定年退職が増えていきます。第二の人生、起業という生き方を選択される方も多いのではないかと思います。私も 60歳を過ぎて、「キッザニア」を始めました。団塊の世代にいる方々にお伝えしたいのは、無理をせず、自然体でいくのがいいですよということ。今の時代、 何をするにもいろいろな参考書が散乱しています。参考書とはその字のとおり、あくまで参考にするものであって、それに振り回されないようにしてください。人 間の数だけ生き方があるように、仕事の種類ややり方も千差万別。いくら思い描いても、最終的にどんな運命になるかなんて、誰にもわからないのですから。繰 り返しになりますが、雑念に惑わされることなく本当に自分がやりたいことを探すのです。そのためには、自分で一所懸命、考え抜くしかありません。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:土岐節子

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