第22回 株式会社ゼットン 稲本 健一

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第22回
株式会社ゼットン 代表取締役
稲本 健一 Kenichi Inamoto

1967年、愛知県生まれ。金沢育ち。金沢工業高等専門学校から名古屋芸術短期大学へ進学。卒業後は東京の商社に就職するも、半年後に退職し、名古屋に戻る。デザイン事務所に転職し、プロダクトデザインの仕事に従事。勤務しながら、夜はバーテンダーの仕事を続ける。93年6月に開業した、期間限定のビアガーデンがブレイク。その後、ある居酒屋のリノベーションプロジェクト参加を契機に、デザイン事務所を退職。本格的に飲食ビジネスの世界を歩み始める。 95年10月、(株)ゼットンを設立し、翌11月にレストランバー「zetton」を開業。その後、さまざまな業態の飲食店を、名古屋、東京、京都を中心に立ち上げ続け、現在26店舗の個性的な店を運営している。名古屋の「ランの館」「徳川園」「中部国際空港」「テレビ塔」、東京の「三井記念美術館」など、公共施設をレストランビジネスで活性化させる「パブリックイノベーション&リノベーション事業」にも注力。2006年10月19日、名古屋証券取引所セントレックス市場に上場を果たす。

ライフスタイル

好きな食べ物

ワインは人が頼んだ高級なもの全部 
食べ物は、焼肉と寿司。子どもみたいだよね(笑)。酒は何でも飲みます。シャンパンなら頼みやすいから、モエ・シャンドンですかね。焼酎は芋全般でしょ。ワインは、人が頼んでくれた高級なものは全部(笑)。

趣味

ワークアウトのジム通い 
趣味かー。ジェットスキーやボートとか、エンジン系のマリンスポーツが好きだったんだけど、もう2年くらい行ってない。もう錆びてるよ、きっと。ゴルフは嫌いでしょ。今の趣味といえば、ワークアウトのジムに通うくらいですかね。

休日の過ごし方

仕事とプライベートの境目なし
基本はない。そもそも仕事とプライベートの境目がないんだよね。まあ、海外によく行くから、そのときが休みみたいな感じでしょうか。今年は上場もあって、あまり行けてないんだけど、ロンドン、ハワイ、上海、この間はベトナムのハノイに行ってきました。

1週間休みがとれたら

ハワイ島の山小屋でのんびり
行きたくなったら、すぐに行っちゃうからね。どこだろう? やっぱりハワイ島かな? コーヒービジネスもやってるんだけど、コーヒー園を回りながら、山小屋でのんびり過ごす。たまに仲間と一緒に行くんだけど、かなりリフレッシュできます。

街、そこにいる人、そして時代によって、僕らがつくる店も常に進化していく

 稲本健一氏は言う。「俺たちがやっているのはプロの水商売です」。1995年11月、名古屋でスタートした第1号店はもうない。「利益は出てたけど、あの 店は閉めました」と。大繁盛した第1号店の、役割は終わったという判断らしい。稲本氏らしいドラスティックな決断だ。場所、そこに集う人、そして時代感に よって必要な店は変わってくる。稲本氏は、まず店がこの場所にできたことをイメージし、たくさんのお客が楽しんでくれているシーンがカラー映像で浮かんだ ら、出店を決めるという。そしてその店づくりには、そのときにゼットンが有している、すべてのクリエイティビティを投下する。ゼットンは現在(06年10 月)、名古屋を拠点とし、東京、京都で26店舗の飲食店を展開中だ。まだゼットンを体験していない人は、ぜひ店に足を運んでほしい。どの店に訪れたとして も、独特のオリジナリティと、スタッフたちの元気なプロ意識に触れられるだろう。「店づくりって、本当に楽しい仕事。だから、前と同じ店をつくっても楽し くないでしょ」。そう言って笑う稲本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<稲本健一をつくったルーツ.1>
小学時代に商売のまねごと開始。中学はやんちゃなバスケ少年

 生まれたのは母方の実家がある名古屋なんだけど、3歳くらいから20歳までは金沢で暮らしていました。金沢の家は繁華街の近くにあって、よく兼六園 とかで遊んでましたよ。僕らが小学校の頃、コカコーラの王冠をめくって当たりが出ると、カウンタックとかスーパーカーが描かれたさらにデカイ王冠がもらえ るキャンペーンがあってね。みんな夢中になってた。僕は、土日に歩行者天国にドリンク売りの露天が出るので、その仕事を手伝って王冠集めたりして。で、 余った景品を学校で友だちに売ってた(笑)。

 中学は普通にワルかったですよ。東京ならもっといろい ろやることがあったんだろうけど、田舎ではグレるかオタクになるか2つの選択肢しかなかった。まあ、最悪のワルにはならなかったけどね(笑)。スポーツは ね、バスケットが好きでした。当然、バスケット部に入部したんだけど、いろいろあって辞めちゃった。でも、高校への進路を考え始めた頃、金沢工業高等専門 学校、いわゆる地元の高専にスポーツ推薦枠があることがわかった。僕の成績じゃ、とても入れないレベルなんですが、バスケならイケるかも、と。それで、顧 問の先生に頭を下げて、バスケ部に再入部。もうトライアウトの世界だよね(笑)。試験は英語の1科目だけだったかな。思惑とおりスポーツ推薦枠を獲得して、 無事、バスケで高専に進学することができました。

 高専進学後も、普通にワルかったですね(笑)。バイトも始めて、最初にやったのがガソリンスタンドの仕事。これで通学用のバイクを買いました。そ の後は、街のファッションビルに入ってた喫茶店のバイトを開始。これが僕の飲食業界初体験ですね。学校が終わって、夕方5時からずっと働いてた。結局、そ れが原因で、バスケ部続けられなくなって。中学のときと同じように、バスケ部辞めちゃうんだよね、またしても(苦笑)。監督ともそりがあわなかったしね。

 

<稲本健一をつくったルーツ.2>
高専では陸上でインカレ出場。卒業後は芸術大学へ進学

 いろいろ悪さもしてたし、学校も辞めようかと考えたこともありました。でも、おふくろに切々と説教されてね。なんだか悪いな~と思って、踏みとど まった。そもそも学校に行きたくないと思ったことは一度もないんですよ。友だちがたくさんいるから、楽しいしね。ある日、グラウンドで陸上部の奴らが 100mのタイムを計ってるのが見えて、「俺たちにもやらせろ~」と声かけたら、僕と陸上部の選手で勝負することになった。相手はスパイク履いて、スター ティングブロック、こっちはバッシュで地べたスタート。にもかかわらず、僕が勝っちゃった。

 それを 陸上部の監督が偶然見ていて、「稲本、もう一回走ってみろ」って言われて、走ってみた。これがけっこういいタイムでね。「じゃあ、稲本、おまえ陸上部に採 用~」。この監督はヤクザっぽい感じだったけど、大好きな先生だった。それで陸上部に入部したんですよ。高専4年のときには、100m競技でインカレにも 出場できた。思い切り負けましたけどね。でも、このおかげで、何度かあった退学の危機もまぬがれたのだと思います。卒論は、学年で一番頭いい奴と友だちで そいつとの共同研究だったんで、ほぼ何もしなくてよかった(笑)。そして高専を無事卒業することができました。

 で、この先どうするかを考えた。高専って一般的には優秀なので(笑)、NECさんとか富士通さんとかに就職して陸上かバスケの実業団に入るという 道もあった。でも、メーカーのビジネスパーソンでしょ。これは絶対に自分に向いてないと。じゃあ、工業系の大学に進学か。これも結局その先には、メーカー しかないんだろうなあと。そんな風に悩んでいたら、なぜかデザイナーという言葉が頭に浮かんだんです。これ、カッコいいかも。そういえば、子どもの頃は絵 がうまかったし。それで、1週間泊り込みで美術家の先生の家に行ってデッサン習って。いろんな美大とか美術系の専門学校を受験したんです。

 いくつか合格した中で、名古屋造形芸術短期大学への進学を決定。この学校の裏手には牧場があって、サラブレットなんかも走ってて、芝生がばーって 広がってる。もう、これぞキャンパス~って感じなわけですよ。それに僕は高専で5年間、男ばっかの生活だったでしょ。それが、この大学には女子が7割。ここは天国か!みたいな(笑)。で、ここに行くことを決めたんです。

<名古屋へ~大学時代>
思い切り遊んだキャンパスライフ。カウンターバーの世界に魅せられる

  大学では、プロダクトデザインを専攻します。作品づくりだけは、真面目に取り組みましたよ。高専のときは、電気工学科だったので、溶接はお手の物。 作品展でみんなこぢんまりした作品を出品する中で、僕は鉄を溶接してつくった、でっかい照明付きボトルラックとかつくって出品してた。「どうだー!」って ね。周りからは「稲本のじゃまだよ~」とか言われてましたが(苦笑)。

 芸大の学生ってあんまり群れ ないんです。だからサークルもほとんどない。だったらと、僕が中心になって、シェイクという名前のサークルをつくった。ありがちなナンパ系サークルです よ。スキーツアーに、海ツアー、ラリーやったり、飲み会の企画や、ディスコ借り切ってパーティしたり。学園祭ではパーティ券つくって胴元やってかなり儲け ました。この側面では、ありがちな大学生ですよね。でも飲食系のベンチャー社長って、大学時代はみんな僕と同じようなことやってたみたいですよ。あとはバ イトですね。この頃は、バーでバーテンダーのバイトしてました。何がいいって、飯が食えることが最大の魅力。親元からの仕送りは授業料だけって約束でした から、とにかく金がない。バイトに行かないとマジで飯が食えないくらい。

 当時はバブル景気にわいてた時代でしょ。このバー自体もかなりバブってた。オヤジがお姉ちゃん連れてふたりで2杯づつくらい飲んで、会計が2、3 万円。オーナーは、僕ともうひとりのバイトに「お前らに任せる」って、ほとんど店に来ない。だから、ほとんどふたりで仕切らせてもらってて、「おい、この 会計もう少し高くしてもいいんじゃないの?」とか、適当に相談しながらやってました(笑)。バイト料もすこぶる良かった。毎月20万円以上は稼いでいたと 思います。たまにボーナスもドーンと出ましたしね。あと、オーナーが所有してたベンツだのポルシェだの「いつでも使っていいぞ」って。乗り放題(笑)。

 そうやって夜の世界で働いてると、忙しいからどんどん遊ぶ時間がなくなっていくわけです。でも、バーという世界で働いていること自体が、だんだん遊んでいるような感覚に変わっていきました。

<卒業、就職上京、再び名古屋へ>
モトカノのおかげで名古屋へ帰還。デザイン事務所に転職

 大学を卒業して何をしようかと考えたときに、ふと飲食の世界もあると考えたのですが、当時はレストランビジネスという言葉すらない時代です。それで 結局会社員になってみるかと、東京の商社への就職を決めました。担当エリアは、銀座、渋谷、六本木。会社にだまって、夜はバーテンダーのバイトもしていま した。バイト先の店にもついでに営業したりして。おかげで、売り上げ成績はいつも好調です。

 ある日、名古屋時代に付 き合ってた彼女と電話で話をしてたら、盛り上がっちゃったんですよ。上京前に、一応お別れはしてたんですけど。そのうち彼女から「そうはいっても、あなた 東京にいるからこんな話してても意味ないね」とか言われて。僕、負けず嫌いでしょ。「よ~し、じゃあ名古屋に帰ってやろう」と。就職して半年後に、会社を 辞めて名古屋に帰ったんです。帰ってみると、あの電話での盛り上がりはどこへやら。帰ってきたという達成感の方が大きくて、彼女への思いが冷めてしまっ た。何度か飲みに行ったりしましたが、結局、彼女との仲が戻ることはありませんでした。でも、今の僕があるのは、あの時に名古屋に帰ってくることができた から。そういった意味では、彼女のおかげでもあるんだよな。ちょっと悔しいけどね。

 名古屋に帰ってきてから、友人の家に転がり込んで、一軒家に5人くらいで暮らしてた。もうありえないくらいの汚さ。部屋中ゴミだらけなのは当然 で、クーラーボックスに1年前に釣った魚が入ってたり、バスタブに誰かのウンコ付いてたり(笑)。今でも大笑いできるネタがいくらでも思い出せるほど楽し い生活でした。そうやってバーテンダーのバイトで食いつないで半年くらいたった頃、僕に新しい彼女ができて、一人暮らしするためにその汚い家を出て、デザ イン事務所に就職します。それでも相変わらず、バーテンダーの仕事は続けていました。

 当時、ちょうどマックがデザインとDTPの世界に進出し始めていて、その登場は、版下デザインをやっていた僕らにとっては「なんじゃこ りゃ~!?」というくらいの衝撃。もちろんデザイン作成に使う際には便利なのですが、僕はマックを使って企画書をつくろうと考えた。先輩や友人から飲食店 をつくりたいという相談があれば、僕が店舗デザインを含めた企画書を書いてあげて。お店ができる前には、スタッフにお酒のつくり方を教えたりして。これで ギャラももらってました。4店舗くらいはやったと思います。プロデュースとはいえないですが、店づくりにかかわるようになったのは、この頃ですね。

店づくりは、本当に楽しい仕事。だから同じ店はつくりたくない

<デザイナー兼、飲食立ち上げ屋時代>
期間限定ビアガーデンの成功。不振の居酒屋リノベーション

 デザイナーを続けながら、僕が初めて自分でプロデュースした飲食店は、夏季限定のビアガーデン。名古屋市内の覚王山という場所で、広めの駐車場を目 にしたんです。「ここでビアガーデンを営業したら面白い」。そんな直感がひらめいて。そこで、今度は自分のために企画書を書いてみた。駐車場オーナーを口 説いて、その後すぐにキリンビールさんにプレゼン。却下されたけど、ハイネケンさんを紹介してもらった。それで、「ハイネケン・ビアガーデン・ネグリル」 をオープンしたんです。「ネグリル」というのは、ジャマイカにある美しい夕陽が見える砂浜。行ったことないんですけどね、ジャマイカ(笑)。それで、好き でもないレゲエをかけて営業したら、かなり話題になった。最終日には、覚王山の駅で警察が交通整理するくらい大勢のお客さんが来てくれて。自分がつくった ものに、これだけたくさんの人が集まってくれるということに感謝しながらも、ものすごいエクスタシーを感じました。

  その後、ある居酒屋のリノベーションプロジェクトに参加するんですが、そのときに知り合った空間デザイナーの神谷利徳にこう言われたんです。「稲もっちゃ んさあ、飲食店の立ち上げばかりやってるけど、開業後の運営もやらないと無責任だよ。もう辞めれば」って。そのコメントに僕は納得しながらも負けず嫌いな んで、「だったら全部やったるわ!」となって。ズバッとデザイン事務所を辞めて、この居酒屋の再生に専念することにしたんですよ。自分も店に立つと決めて ね。

 とにかくお金はなかったから、瀬戸焼で有名な瀬戸に行って、焼き物の破片をただでもらって、セメント塗った壁に貼ってオブジェつくったり。メ ニューは、僕と、運送屋と、ジーパン屋とスナックの店長と、あとはプータローのオカマの男5人で考えました。全員が僕のマンションに集まって、オレンジ ページとレタスクラブのバックナンバー買ってきて、ポストイット貼りながら「あ~でもない、こ~でもない」とか言い合ってね(笑)。で、大きな鍋にダイ エーで買ってきた一番安いコーラをドボドボ入れて、手羽先を放り込んで煮る。それにギャバンのブラックペッパーを大量にかける。これがメチャクチャうまい んですよ。こんな感じだったけど、素人くささも目新しかったんでしょう。結果、再生を任された居酒屋は、ものすごく繁盛した。それまでの売り上げの倍どこ ろじゃないくらいはやった。

 でも、僕はずっとバーテンダーやってきたじゃない。やっぱり居酒屋じゃなくて、カウンターのあるバーをやりたいんですよ。それで、居酒屋も軌道に 乗せたし、そろそろ自分の店をやろうかと考えていたときに、理想の物件に出合うんです。交通の便は良くないけど、昭和初期に立てられた、すごく雰囲気のあ る屋根裏付きの日本家屋でした。

<第1号店「zetton」オープン>
祖母の実家を担保に資金調達に成功。開業後4カ月は全く集客できず

 自分で店をつくると、こんなにお金が必要なのかと驚いた。そもそも、物件を借りるためにはお金が要る、お金を借りるためには物件を押さえてないとい けない。なんか無理があるよね。でも、この物件を早く押さえたかったので、友だちにすぐ返すからって借りて、すぐに国民生活金融公庫に行ったら却下され た。それで急遽、金沢のばあちゃんに頼んで、家を担保にしてもらって、信用保証協会の保証付きでなんとか銀行から3000万円を借りたんです。ばあちゃん は「この年になって、私を家から追い出す気なの!」って言ってたけどね(笑)。当然、すべて完済しましたよ。

  1995年の11月にレストランバー「zetton」をオープン。カウンターがあって、オープンカフェでお酒が飲める、理想的な店ができあがりました。と ころが、全くお客が来ない。ビラをまいたり、クルマで送迎するなど、考えられるあらゆる手を尽くしたんですが、翌年の2月までは何をやってもダメでした。 でも、春になって「オープンカフェのある店」ってことで、マスコミから徐々に取り上げられるようになって、その後は一気にどかーんとブレイク。確かに、冬 にオープンカフェっていっても、誰も来たがらないよね(苦笑)。

 現在、名古屋、東京、京都で、ゼットンではさまざまな業態の店を26店舗運営しています。自分たちが原因で撤退した店は1店だけ。通算5店目に出店し たクラブ風の居酒屋だったんだけど、これは最低最悪。1億円くらいの負債を抱えたと思う。1店目にこれをやってたらと思うとぞっとするよね。その後は、 しっかり街や物件の特性を見極めて、自分の頭の中に、お客さんがその店を使ってくれているイメージがカラー映像で思い浮かぶかどうか。これを、出店の判断 基準にしています。

 「ゼットンは同じ店をつくらないのがコンセプトですよね?」とよく聞かれますが、実はそんなこと一回も思ったことない。ただ、せっかくやるんなら 同じ店をつくってもつまらない。店づくりって、すごく楽しいことなのに、クリエイティブが発揮できないなら意味がない。だって、街が変われば歩いている人 も変わる。時間だってどんどん過ぎてるじゃないですか。それなら、その街やそこにいる人に喜んでもらえる、そして自分たちも常にバージョンアップしてるん だから、常にその力を試せる仕事をしたい。だからこの質問への回答としては、「俺たちは同じ店をつくるのがイヤなんです」ということかな(笑)。

<未来へ~ゼットンが目指すもの>
公共施設の活性化、そして街づくりまで、レストランビジネスの新境地を開拓!

 2004年の5月に、「THE ORCHID ROOM」という、ウエディング施設を兼ね備えたレストラン&カフェを開業しました。名古屋にある植物園「ランの館」の場所活用プラン募集があり、「じゃ あ俺たちもやってみるか」と参加した結果です。この頃からですね、公共施設を活性化させるパブリックイノベーション&リノベーション事業に本格的に取り組 もうと思ったのは。以前、ここには普通の喫茶店しかなくて、ラン園を見に来るご婦人の方々も、ジャージにリュックみたいな服装が主流だったんです。です が、「THE ORCHID ROOM」ができた後、ランを見るだけに訪れていたご婦人方の服装がワンピースになり、レストランでお食事会を開いてくれるようになったのです。2004 年の11月に開業した「ガーデンレストラン徳川園」もそう。これまで1度も庭園散策などしたことがなかった人たちが、レストランができたことで、ここに訪 れるようになった。コンテンツが少し変わるだけで、公共施設が活性化する。こういう仕事も、僕たちレストランビジネスにかかわる人間ができることのひとつ だなと。

 もちろん商業施設への出店も並行して続けていきます。しかし、ある資産家が金儲けのために 建てたビルに店を開いてそこに家賃を払うのと、最近、当社が手がけた名古屋のテレビ塔のような公共施設に店を開いて家賃を払うのと、どちらにやりがいがあ るか。前者は個人の懐を増やすのみですが、後者の場合の家賃は文化財としてのテレビ塔の保護に使われるのです。意味のある建築物を後世に残していく一助を 担っていると考えれば、公共施設への出店は僕たちにとって、とてもやりがいのあるビジネスといえます。

 国や地方自治体の公共施設に加え、財閥企業が持つ美術館など公共的要素が強い場所への出店も始めています。建物だけではなく、今後は街づくりとい う視点でも、僕たちのクリエイティビティを活用したいというオファーもいただくようになりました。また、もう少し先になりますが、海外に日本のレストラン ビジネスをソフトとして輸出したいという思いもある。今回、上場するのも、会社として社会的信用を得るという部分はもちろん、やりたいことがあればすぐに 動けるような資金体制を整えるという意味もあります。株主の方々と同じチームという意識をもって、よりピュアに僕たちらしいビジネスをやっていきたいです ね。そうそう、ちなみに利益は圧倒的に出していきますから(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業自体が目的になっていないか再考。ただ、誰が何と言おうが、やる奴はやる

 まず、経営者って本当に大変ですよ。辞めようと思っても簡単には辞められないしね。特に僕らベンチャー企業は業績を上げながら経営を継続させるという意味で、まるで100mダッシュをするかのようにゴールのないマラソンを走っている。そんな感じですよ。

  起業系の講演会なんかで必ず言うことなんだけど、まず、起業することが目的ならやる意味はないと思うよね。自分がやること自体が目的になっている人が多す ぎるんじゃないかな。自分が会社を辞めることを誰かが本当に求めているのか、自分が起業したら世の中のどこかで本当に何かいいことが起こるのか。まずはそ こんとこがどうなのかを、しっかり考えてみたほうがいい。もしも自分以外の誰かを喜ばせるための目的が見つからないなら、やらないほうがいい。それ以外、 僕が言えるメッセージってないよね。

 起業しないから悪ってことはないし、今いる組織で輝くことも大切なことなんだから。もしもうちのスタッフが起業して失敗でもしたら、本気で申し訳 なかったと思うだろうね。だから経営者としての僕は、起業という誘惑に負けない魅力的な仕事をスタッフに与えられているだろうかっていつも考えてる。

 たまに「将来、社長になりたいんですけど……」とか相談してくる人がいるんだけど。まず「なんで今やんないの?」って聞くよね。今は資本金の上限 規制もなくなって、資本金1円、取締役1人で株式会社がつくれる時代でしょ。そういった意味では、社長になろうと思えばすぐになれる。「だから明日会社を 登記して、将来と言わず今すぐやんなよ、以上」って感じですよ(笑)。でも、社長という肩書きには、これまでのような信用がなくなるよ。そもそも社長とい う言葉というか、響きがなんだかカッコ悪いと思わない?(笑)。

 こういうことがやりたくて、でも、今の会社ではそれができなくて、こんな奴らと一緒にやりたくて、だから起業したいんです。そういう相談ならわか るよね。それでもたぶん、起業したいと言ってる人の9割以上は起業しないんじゃないかな。やらない人の中にも、才能ある人はたくさんいるだろうね。でも結 局は、僕がアドバイスしようがしまいが、やる奴はやるんですよ。だから、起業しなかった人は、やらない言い訳をしないことです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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