第147回 株式会社セクションエイト 代表取締役社長 横山淳司

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第147回
株式会社セクションエイト
代表取締役社長
横山淳司 Junji Yokoyama

1983年、北海道江別市生まれ。2001年、公立高校の理数科を卒業後、父親の経営する飲食店チェーンに入社。約5年間の修業期間中、札幌、東京、仙台、郡山など、さまざまな地域で店舗運営に携わる。この間に、独立資金の500万円をつくった。2006年4月、23歳で独立。新宿歌舞伎町に「北海道厳選素材 新鮮炙り焼き居酒屋はなこ」1号店をオープン。2008年6月、運営会社の株式会社セクションエイトを設立し、代表取締役に就任。2012年3月現在、東京、大阪を中心に、「居酒屋はなこ」「BEER&PIZZA HANACONA」「WINE&PIZZA HACHI」「WHISKY BAR DARUMA」計33店舗を展開。女性スタッフの次の展開を支援する、モデル・タレント事務所も設立している。今後、直営、社員の独立支援、フランチャイズ展開で、2015年までに全国で100店舗の出店を計画している。居酒屋業界初の試みとして、「居酒屋はなこ」フェイスブック店、ツイッター店の設置、オリジナルバースデイソング「ハッピーハッピーBIRTHDAY」の着うた配信など、常に斬新な試みを続けている。

- 目次 -

ライフスタイル

好きな食べ物
カレーライスです。

この質問、答えづらいんですよね(笑)。好きな食べ物、たくさんありますから。でも、毎日、同じメニューでも食べ続けられるものを挙げるとしたら、カレーライスでしょうか。好きなお酒を聞かれたら、プレミアムモルツと答えます(笑)。

趣味
ゴルフです。

飲食業界だけではなく、さまざまな経営者仲間と、よくコースに出ています。3年くらい前から始めて、はまりました。誰と回っても楽しいですし、スコアを競い合うことも好きなんです。だから、練習もしっかりやっています。

行ってみたい場所
ラスベガスです。

ラスベガス、まだ訪れたことがないんですよ。特別、ギャンブルが好きなわけではないのですが、カジノを中心とした世界でも有数のエンターテインメントの街でしょう。一度、どんなものなかの、この目で見ておきたいと思っています。

お勧めの一冊
『道をひらく』(PHP研究所)著者 松下幸之助

昭和43年の発刊以来、累計400万部を超え、いまなお読み継がれる驚異のロングセラー『道をひらく』。本書は、松下幸之助が自分の体験と人生に対する深い洞察をもとに綴った短編随想集である。事業の成功者であり、それ以上に人生の成功者である松下幸之助であればこそ、その言葉には千鈞の重みがある。あらゆる年代、職種の人に役立つ、永遠の座右の書である(出版社からの内容紹介抜粋)。

「居酒屋はなこ」という、新しい飲食店のかたち。
事業にかかわるすべての人の“幸せ実現”を目指す

高校卒業、父親の経営する飲食店チェーンに就職し、23歳の起業を心に誓った。自分への約束どおり、2006年4月、5年で貯めた500万円を元手に1店舗目の居酒屋を開業し、6年の月日が流れた。そして、セクションエイトの創業者である横山淳司氏は、ファッショナブルな制服を身にまとった、かわいい女性スタッフたちの接客が大人気の「居酒屋はなこ」の多店舗化に成功。今や、同社の年商は約30億円に達する勢いだ。「この年商をつくってくれているのは、“はなこスタッフ”、厨房の料理長、店を切り盛りする店長など、一人ひとりの仲間たちです。すでに2名の社員が、独立を果たしました。これからも、スタッフたちの『独立したい』『有名になりたい』という夢を応援していきます」。今回はそんな横山氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<横山淳司をつくったルーツ1>
北海道の自然と親しんだ少年時代。
中学からはバスケ部で汗を流す

 北海道、札幌市の東側に隣接している、江別市。僕はこの街で、生まれ育ちました。広告代理店と飲食店を経営する父と、専業主婦の母、2つ上の兄。そんな4人家族です。父は会社の経営に忙しく飛び回っていて、平日は家にいないのが当たり前。友だちの家に遊びに行った夕方、その子のお父さんが夕食を食べている姿を見て、「この人は仕事していないのか? 大人は仕事するのが普通なのでは?」と不思議に思ったことを覚えています。どんな子どもだったか? いたって普通だったんじゃないでしょうか(笑)。ただ、北海道でしょう。小学校の隣にあった牧場で友だちと遊んだり、石狩川の支流の千歳川が流れていて、そこで釣りをしたり。自然はいつも身近にありました。

 冬はスキーです。小学校から、スキーの授業がありましたからね。学校のすぐ近くに、スキーができる小さな山があって、そこで。ちょうど、スノーボードが流行り出した頃で、みんなでスノーボードの練習をしましたね。勉強は、けっこうできるほう。特に、算数が得意でした。1年の頃からそろばん教室に通っていて、なぜか、いつもひとつ上の学年の組に入れられていたんですよ。だから、掛け算や割り算は、学校で習う前にすでにマスターしていました。授業を聞かずとも、すらすらできたわけです。

 中学に上がると、バスケットボール部に入部します。仲のいい友だちが、何人かバスケ部に入ったので、じゃあ僕もと(笑)。1つ上の先輩の代が、ものすごく強かったんですよ。3年の時は、北海道大会で優勝し、全国大会に出ましたし、北海道選抜のレギュラー5人中4人がうちの先輩。全国大会には、2年生の僕も帯同しましたよ。残念ながら選手としてではなく、ビデオ係としてですが(笑)。僕のポジションは、ポイントガードです。まあ、レギュラーになったり、外されたりというレベル。先輩たちと比べるとチームの実力は雲泥の差で、最後の市内大会も、決勝まで行けず、敗退してしまいました。

<横山淳司をつくったルーツ2>
得意の数学を生かし、公立高校の理数科へ。
勉強そっちのけで、バイトに精を出す

 高校は、どうしても札幌市内の学校に行きたかったんです。やっぱり、都会の方が何かと面白いですから。数学が得意だったこともあって、10分電車に乗れば通うことができる札幌市内の高校の理数科を受験し、合格。理数科は札幌でも中の上レベルだったので。そして、1年の時から、アルバイトを始めました。ほしいものがたくさんありましたから。最初はファストフードのハンバーガーショップです。任された仕事は、パテを焼いたり、ポテトを揚げたり。大学生バイトの店長代理がお気楽な人でしたから、楽しかったですよ(笑)。

 つくった後、規定の時間が経過した商品は、破棄するというルールがあって、そのロスがもったいなくてね……。ロス率を抑えることが、飲食業にとっては大事。初めて飲食業界のおおまかな仕組みを学んだのが、このハンバーガーショップでした。ほかにも、引っ越し屋とか、いろんなバイトを経験しました。面白かったのが、商業施設の玩具店での仕事です。高2の時でしたが、ワイシャツにネクタイで働く決まりがあったんですよ。新しく入ってきた女の子のバイトに社員と勘違いされて、最初は上から目線で「おい、あれやっといて」なんてやっていました(笑)。この仕事では、在庫管理やレジを閉めた後の売り上げ報告など、けっこう重責ある業務を任せてもらいました。

 学校の先生たちが教えてくれることよりも、仕事を通じて学ぶことのほうが断然面白く、夢中になってバイトしていましたね。そして、面白いうえに、お金も稼げるわけじゃないですか。しかも、自分で自由に使える。流行りの洋服を買ったり、中型免許を取得して、アメリカンバイクを買ったり。400CCのドラッグスターというアメリカンスタイルの愛車を手に入れたんですよ。北海道のまっすぐで、広い道を、仲間とバイクで走ったこともいい思い出です。そして、働く面白さに目覚めた僕は、高校3年の夏頃から、父が経営する、飲食店でバイトを始めることになります。

<大学進学よりも就職を選択>
仕事の面白さに開眼し、高校卒業後、
父親が経営する飲食店で働き始める

 夏休みは、遊びもそっちのけで、一所懸命になって働きました。当時、飲食店を運営していた父の会社には、23歳のナンバーツーがいました。6店舗すべてを統括していた部長で、各店を任されている年上の店長たちよりも大きな権限を持っている。そして、乗っていたクルマは、大きなベンツ。飲食業界や人生観など、いろんなためになる話もしてくれて、すぐに憧れの存在になりました。若くても彼のように頑張れば、高いポジションも、高い収入も両方得ることができる。その頃から、いつか自分も飲食業界で起業したいと考え始めたのだと思います。

 高校卒業後、母は大学に行ってほしかったようですが、父は「行かなくていい」というスタンスでした。父の店でバイトをするようになり、さらに仕事が面白くなって、大学生として4年間をすごすよりも、早く実社会で働いたほうが、大事な人生経験が多く積めるんじゃないかと考えるようになっていったんです。というわけで、最終的には、自分自身で大学受験しないことを決め、卒業後は、父の会社に就職することを決断。もちろん、高校の理数科の同級生たちは、ほとんどが大学に進学したはずです。高3の3学期も働きまくっていましたから、ちょっと定かではないのですが(笑)。

 そして、予定どおり、高校を卒業した僕は父の会社に入社。社員として働き始めました。まあ、高校時代のバイトの延長のようななかたちで、当然、下働きからですよ。経営者の息子ということは内緒にしていたんですけど、すぐにバレましたね(笑)。最初は、店のウェイターが主な仕事でしたが、頑張れば頑張るほど、お客さまに喜んでいただくことができ、お客さまの満足が増えれば増えるほど会社の売り上げが上がっていく。毎日、深夜、早朝まで働いて、会社の寮に帰って、服のままベッドに倒れ込むような日々が続きました。でも、仕事がものすごく面白くて、不満を感じることはまったくありませんでした。

<23歳で独立を果たす!>
同級生が大学を卒業した頃までに、
経営者になる目標を掲げ、仕事にまい進!

 高校時代の友だちとは、だんだん疎遠になっていきましたね。持っているお金も違うし、さすがに会話も合わない。今振り返っても、大学に行かず、仕事を始めておいてよかったと思います。絶対に学校では教えてもらえない、貴重な体験の連続でしたから。実は、この仕事を始める前に、ひとつの目標を決めていました。同級生たちが大学を卒業して、社会人になった頃、自分は経営者になっていようと。つまり、それは5年後です。その目標を実現するため、常に真剣になって、目の前の仕事に向かっていました。

 独立の夢はさておき、最初に配属された札幌の店から始まった僕の仕事生活は、東京の居酒屋の助っ人、仙台、郡山の店舗の立ち上げなど、単身赴任の渡り鳥状態。場所が変われば、客層も、店の運営方針も、当然ガラリと変わります。毎日、毎日が、本当にいっぱいいっぱいで、まさに仕事に追いかけられる日々でした。当時の僕は、まだハタチ前後です。たとえば年上の社員に何かを伝えるとしても、社会経験が浅いですから説得力がない。当然、うまくいかないこと、失敗したこともたくさんありました。ただし、今、その頃の自分に何かを伝えられるとしたら、「そんなのは苦労でも何でもない!」、そう言ってやりたいですね(笑)。

 働き始めてからずっと、独立資金を貯めていました。僕が22歳になった頃、景気が鈍化し始め、会社も少しずつリストラを始めた。なかには、失うには惜しい人材もいるわけです。リストラを抑えるために、改善策を提案しましたが、経営者の息子といえども、上司や店長の壁をなかなか突破できません。彼らを守れるような会社をつくるためには、自分でやるしかない。手元にあるのは、500万円。この資金を原資に、一発当てようと、目指したのは日本一の歓楽街と言われる東京新宿の歌舞伎町です。理由は単純で、飲食業にとって最大のマーケットエリアだったから。そして、2006年4月、「居酒屋はなこ」1号店をオープンさせます。その時の僕は23歳。高校の同級生たちが、新社会人になった年でした。

●次週、「居酒屋とエンタメの融合が大ブレイク――店舗数は6年で30店を超えた!」の後編へ続く→→

手持ち資金500万円の挑戦は、6年で年商30億円に!
2015年までに100店舗展開、年商100億円が目標

<最初の挑戦は新宿歌舞伎町>
2号店目から店づくりのスタンスをチェンジ。
変化への決断がブレイクへの転換点だった

 「居酒屋はなこ」1号店は、歌舞伎町の路地裏で、ひっそりと産声を上げました。元レストランをそのまま居抜きで使った店舗です。いろんな街を仕事で渡り歩いた経験から、地元・北海道の食材は、やはり断然ウマイと思っていました。だから、最初からお客さまに提供するのは、北海道の旬の素材と決めていたのです。そして、絶対に1店舗だけで終わらせず、多店舗展開しようとも。なぜなら、店の数が多ければ、店長の数も増え、独立という夢も見えてくる。自分も、5年後に経営得者になるという夢があったから、くじけることなく頑張り続けることができた。会社に集ってくれたみんなが、夢を持って働ける、そんな居酒屋チェーンをつくらなければ――。そう考えていたのです。

 ちなみに、歌舞伎町の1号店は、立地が悪く、看板も出せない、飲食店にとって難しい条件ぞろいの店舗でした。最初は閑古鳥状態ですよ。それでも強気は変えず、同じ年の6月に、2店舗目となる五反田店を出店。こちらも居抜き店舗でしたが、好立地だったこともあって、けっこうお客さまにきていただけるように。ただし、まだまだ勉強不足は否めませんでした。キャッシュが残っているので大丈夫と思っていたのですが、締めてみると大赤字。現金商売の怖いところです。とりあえずは日銭を必死で確保しつつ、取引業者さんに支払いを待ってもらうなど、まさに崖っぷちの毎日でしたよ。そんな日々の中にあっても僕は、居酒屋のメインターゲットであるサラリーマンが行きたくなる店を徹底的にリサーチしていました。

 父からは、悩んだり、立ち止まったりした時は、本から学べと教えられてきました。本のなかには、著者が長い時間をかけて培ってきた、貴重な経営のヒントがたくさんつまっています。自分よりも先に生まれ、知識を得た先人から学べることは非常に多いのです。そしてまず、店づくりへのスタンスをチェンジしました。僕は、“自分が行きたい店”という点に縛られてしまっていた。そうではなく、まず考えるべきは“お客さまが行きたい店”のはず。では、それは何か? おいしい料理がとお酒が、お手頃価格で楽しめて、かつ、若くてかわいい女の子が接客してくれる居酒屋。言ってみれば、ガールズバーと、居酒屋の中間にあるような、お店。そんな新業態のアイデアが、頭に浮かんだのです。

<新スタイルの居酒屋誕生!>
「面白い居酒屋がある。今度、一緒に行こう」と、
サラリーマンたちが口コミで評判を拡散してくれた

 「居酒屋はなこ」には、厳選して採用した、かわいい女性スタッフがそろっていて、彼女たちが言わば一般の居酒屋のホールスタッフです。そして、制服は、ファッショナブルで斬新。そんな“はなこスタッフ”たちが、オーダーをおうかがいし、料理やお酒をお運びしますが、もちろん、お客さまとの同席はいっさいなし。ただ、入店された際のお出迎え、お帰りの際のお見送りなどなど、彼女たちが笑顔を振りまきながら、最上級のおもてなしをさせていただいています。これが、僕たちが想像していた以上に、サラリーマン層のお客さまに響きました。「面白い居酒屋がある。今度、一緒に行こう」と、店の評判がどんどん口コミで広がっていったのです。

 そして、2006年の年末あたりから、「居酒屋はなこ」が話題となり、口コミとの相乗効果で、店は連日、大入り状態に。そして2007年6月、3店舗目となる神田店がオープンします。ここは、今でも「居酒屋はなこ」の旗艦店と位置付けていますが、初月の1カ月後に締めてみたら、予想を超える1000万円ほどの売り上げが。神田店のオープン以降、ほぼ会社としての単月黒字が出せるような体制になりました。その後も出店を継続して、5店舗目をオープンさせた2008年の6月に、株式会社セクションエイトを設立し、法人化。フランチャイズ出店を要望する方々にも対応できる体制を整え、「居酒屋はなこ」は、多店舗化へのスピードをさらに早めていくことになります。

 正直、新業態ということもあって、創業から2年ほどは、テナント契約の面接で断られることもありました。ただ、30代、40代のサラリーマンに大人気の居酒屋というイメージが定着した昨今は、まったくその心配はありません。同じように、“はなこスタッフ”の採用も難しかった。でも、真面目でかわいい子を採用する。お店のルールと、接客手法をしっかり教育する。また、Webの人気投票で選出された“はなこスタッフ”がトップを競う、「はなこガールズグランプリ」を開催。グランプリ受賞者は、当社の関連会社のモデル・タレント事務所から、芸能活動などへのバックアップが受けられます。今では当社が望むような女性の応募が増え、選べる採用ができるようになった。そうやって、店舗、スタッフの認知度アップの努力を継続したことが、当社にかかわるすべての人々に、安心感をもたらしてくれたようです。

<未来へ~セクションエイトが目指すもの>
変化をいとわず、新しい挑戦を継続し、
常に顧客から選ばれる飲食店をつくる

 歌舞伎町店のオープンから6年がすぎ、「居酒屋はなこ」の店舗は、東京、神奈川、埼玉、大阪、愛知、北海道へと広がり、2012年3月現在で、姉妹店である「BEER&PIZZA HANACONA」「WINE&PIZZA HACHI」「WHISKY BAR DARUMA」を含めて33店舗。今後は、ほかの地方都市、海外への出店も視野に入れつつ、「居酒屋はなこは」を2015年中に100店舗体制に持っていく計画です。今、当社の年商が約30億円ですが、この年商をつくってくれているのは、 “はなこスタッフ”、厨房の料理長、店を切り盛りする店長など、一人ひとりの仲間たちです。すでに2名の社員が、独立を果たしました。これからも、スタッフたちの「独立したい」「有名になりたい」という夢を応援していきます。

 昨年の3月11日、忘れもしない、東日本大震災が起こりました。心が締めつけられる痛ましい天災でしたが、我々、飲食店経営者にとっても、大きな痛みを伴う出来事となりました。お客さまの足がぱたりと止まった……。1週間ほどではありましたが、日銭商売にとっては、死活問題です。いいお付き合いをさせてもらっていた金融機関の融資もあり、何とかしのぐことができて、本当によかったですが。そうそう、飲食業のベンチャー経営者の方々にはお世話になっています。ダイヤモンドダイニングの松村厚久さん、エムグラントフードサービスの井戸実さん、subLimeの花光雅丸さんなど、飲みに誘ってもらったり、アドバイスをもらったり。起業したからこそ、お会いできた、ありがたい先輩たちです。

 本当にたくさんの方々の支援をいただき、おかげさまで、「居酒屋はなこ」は、ここまで成長することができました。一方で、うちのスタイルを真似する競合店も増えています。そこはまあ、勝手にやってくださいというスタンスで、うちは、常に、よりお客さまに喜んでもらえるサービスが何かを真剣に考えながら、進化を続けていけばいい。一例を挙げれば最近、居酒屋業界初の試みとして、「居酒屋はなこ」フェイスブック店、ツイッター店を設置、オリジナルバースデイソング「ハッピーハッピーBIRTHDAY」の着うた配信。これらの取り組みも活況を呈しています。お客さまから選ばれる店であり続けられるためには、自分自身も含め、当社のスタッフ一人ひとりが、付加価値を高めていかねばなりません。そのための努力と継続が、僕たちの存在意義を確立するためのエンジンなのです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業するのも、思い立った時が吉日だと思う。
足りないものは走りながらそろえればいい

 起業して何をやりたいかを明確にするために、確かに、考える時間は必要でしょう。ただし、「もうできそうだ」となったタイミングで、独立資金が足りない、人が見つからない、そんな不足で悩んでいる人は、きっといつまで経っても一歩を踏み出せない、独立できない人だと思います。人材でも、資金でも、調達方法はいくらでもあるんです。いずれにしても、思い立ったなら、ぐずぐずすることなく、早めにやったほうがいい。会社経営を始めたら、独立前よりも、もっと難しく、複雑な問題が、目の前に現れるんですから。

 僕の起業は、23歳の時でした。正直言って、BSもPLくわしくは知らなかった。それでも何とかなるものなんです。運もよかったと思いますけど(笑)。いったんやると決めたら、やるしかないわけで。そして、やるしかないと決めたら、問題をクリアするために、どんどん勉強せざるを得なくなる。当時を振り返ってみると、本当に、問題が目の前に現れ、何とかするために勉強をするという連続。その後もずっとその繰り返しで、今につなげてきたと思っています。言ってみれば、赤字経営が10年続いても、キャッシュがあれば会社経営を続けることができる。反対に、黒字倒産することだってある。でも、挑戦をあきらめなければ、倒れないやり方があるということです。

 飲食業界は、ほかの業界に比べて、始めることはたやすいけれど、続けることが難しい、そんなマーケットだと思います。もしも、本気でこの世界で独立を考えている人がいるのなら、うちに来てほしいと思いますね。頑張れば「居酒屋はなこ」の独立オーナーになることもできますし、独自のアイデアがあってそれがしっかりしたものなら、バックアップすることだってできます。ただ、僕と同じような若い人には、背伸びした店舗イメージは持たないほうがいいと伝えたいです。自分が行きたい店ではなく、お客さまが来たくなる店をつくることが大事。いつだって、年相応のやり方が、あるんですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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