第155回 株式会社メディアフラッグ 代表取締役社長 福井康夫

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第155回 

株式会社メディアフラッグ

代表取締役社長

福井 康夫 Yasuo Fukui

1968年、千葉県生まれ。誕生時、千葉県の人口300万人を達成した赤ちゃんだった。1991年、早稲田大学法学部卒業後、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。土浦支店・神田支店にて、提案型融資営業を経験。1995年、株式会社セブン-イレブン・ジャパンに転職。約1年間、店長を経験後、スーパーバイザーとなる。神奈川県西部で、延べ約50店舗の指導・教育を担当後、情報システム本部システム企画部に異動し、店舗システム活用推進プロジェクトを担当する。2001年、株式会社セブンドリーム・ドットコムに転籍となり、インターネット通信販売事業立ち上げに尽力。2004年、株式会社メディアフラッグを設立、代表取締役社長就任。『「IT」と「人」をキーワードに流通業界に新しい価値を創造する』を事業コンセプトに、マーケティング支援を目的として、流通向けアウトソーシングを展開中。2012年9月、東証マザーズに上場を果たした。

ライフスタイル

好きな食べ物
立ち食いそばです。

忙しいからという理由もありますが、立ち食いそばが大好きですね。あとは、セブンイレブンのおにぎり。どこのコンビニよりもうまいです。お酒は普通に飲みますよ。焼酎にビールが多いです。沖縄に子会社をつくったこともあり、最近は泡盛も。

趣味
マラソンです。

先日も那覇マラソンに参加してきました。5度目のフルマラソンで、タイムはまだ、4時間を切る程度ですが。2013年は1月に館山マラソン、2月に東京マラソンに参加予定です。毎月1本はフルマラソンに挑戦したいです。

行ってみたい場所
東南アジア諸国です。

20年前バックパッカーとして訪れましたが、今は、東南アジア諸国からの引き合いを多くいただいているからです。当社のビジネスのリサーチも兼ねて、インドネシア、マレーシア、フィリピンなどをゆっくり回ってみたいですね。

「IT」と「人」を見事に融合させた仕組みで、
流通・飲食業界に新たな価値を創造する

CMなどのマス広告だけでは、なかなかモノが売れない時代となった――。そんななか、業界から注目されているのが、店舗店頭に特化して行われるフィールドマーケティング調査だ。そして、2012年9月、同業の中で初の上場企業となったのが、株式会社メディアフラッグである。同社の社長を務める福井康夫氏が、2004年2月の起業からかじ取りを続けてきたわけだが、ここまでのプロセスは、まさに波乱万丈。たくさんの紆余曲折があったと言う。「経営を続けるなかで、自分が変われば、周囲が変わる――。そのことを実感しました。社員への物事の伝え方、一体感の醸成を何よりも重視し始めたのです。スタッフたちの目の色が変わるのがわかり、業績がどんどん上がっていきました」。今回はそんな福井氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<福井康夫をつくったルーツ1>
千葉県の人口300万人目となった赤ちゃん。
小さな頃から、「社長になる」が夢だった

 昭和43年、千葉県市川市で産声を上げた僕は、千葉県の人口300万人を達成した赤ちゃん。当時の県知事・友納武人さんが自宅に訪問されたり、新聞の千葉県欄の記事になったりしたそうです。後にわかったのですが、出生届が県庁に届いた順番で決まったそう。何だか、強運の持ち主っぽいでしょう(笑)。さて、うちの父は、僕が小学校の頃に脱サラして独立。でも、3年くらいで事業をたたみ、会社員に戻っています。また、母方の祖父は、地場で不動産業を営む経営者。ある時期まで、けっこう手広く展開していたようですが、徐々に尻つぼみに……。まあ、二人ともどちらかというと、事業経営に失敗してしまったわけです。ただ、そんな家柄だったので、僕も将来は社長をやってみたいなあ、と。小さな頃から、起業するという夢を持っている、そんな子どもでした。

 そういえば、母は僕に笑いながらよく言っていましたね。「将来、まさか経営者にはならないと思うけど、あなたは強運の持ち主だからね」って。小学生時代の僕は、少年野球チームに所属する野球小僧。ただ、椎間板ヘルニアになってしまい、野球は小学校で終了。この頃って、スポーツできる男子がナンバーワンでしょう。僕の場合、運動はそこそこだったけど、勉強はけっこうできました。だからか、自然とリーダー的なポジションに収まっていた気がします。小学校の頃に父が会社をつぶしたこともあり、両親の仲がそれほどよくない時期もありましてね。まあ、明るい母のおかげで、それほどつらい思いをしたことはなかったですが。そのせいか、中学に上がった僕は、何となく世の中を斜めに見るような、先生にとって扱いづらい生徒になっていました。

 腰を悪くしたため、野球も続けられず、帰宅部です。その頃、家族で住んでいた、千葉の八千代市は、不良がたくさん。不良にはなりませんでしたけど、いろんな要素が合わさって、世の中に反抗したくなっていたんでしょうね。で、勉強は相変わらずできる。テストは学年でほぼ1番だったと思います。態度は悪いけど、「勉強ができるんだからいいでしょ」って、先生のお小言もどこ吹く風。あと、みんながやっていることに、まったく興味が持てなかったんです。当時はファミコンブームでしたが、僕は触ったことすらない。不良たちが手を出すタバコやお酒も同じ理由で、まったくやりたいと思いませんでした。しかし、振り返ってみると、当時の僕は、そうとう嫌なやつですよ。もしも今、うちの会社にそんなやつがいたとしたら、絶対に許しません(笑)。

<福井康夫をつくったルーツ2>
ラストスパートで希望する大学に合格。
将来の起業につながるバイトを経験する

 テストの成績はダントツによかったのですが、内申点が最悪なわけです。それでも、とりあえずは第一志望の県立千葉高校を受験。しかし、案の定、玉砕です。で、進学したのが進学校の私立市川高校。男子校でしたが、「何でも自分で決めてやりなさい」という、自由と自己責任を重んじる校風が、僕にはとても合っていました。これまで、スポーツの実績もなく、特にこれといったものにのめり込んだ経験がない。群れるのが嫌いでサラリーマンには向いていない、いつか社長になりたいと思っていましたが、根性や志、向上心もが低い。さらに、立志伝の主人公が抱えていたような、劣等感、ハングリー精神も薄い。自分には何もないから、勉強だけはやっておこうと決めたんですよ。アルバイトしたり、彼女と遊んだりもしましたが、予備校に通って、大学受験の勉強は粛々とこなす。そんな高校生活でしたね。早く遊びたかったので、目標はもちろん現役合格です(笑)。

 3年生最後のラストスパートで、大学合格はギリギリセーフという感じでした。まず、早稲田大学の教育学部・不合格、商学部・不合格、一番偏差値の高い法学部に合格という結果でしたから(笑)。とりあえず、納得できる大学へ進学することができ、ほっとしました。当時はバブル最盛期。サークルに入って、イベントやパーティで思いきり遊びましたよ。この頃、六本木のディスコなどで大掛かりなイベントを企画していた先輩たちの多くが、今、起業家として活躍されています。僕が起業してからも、いろいろ相談に乗ってもらったり――人生経験って、いつ何が役立つかわかりませんね。サークル活動以外では、バイトをけっこうしました。自宅で寺子屋のような塾を始めたんです。今の個別指導塾の走りだったんじゃないでしょうか。小中学生が対象で、母の強力な宣伝活動もあって(笑)、50人ほどの生徒を教えていました。この仕事で、月に20万~30万円くらいは稼いでいたと思います。

 自分で稼いだお金で、あの頃人気だった、ホンダのプレリュードという車を中古で買って、よく遊びに出かけました。社長になりたいという夢があったので、大学時代に始めた個別指導塾を「このままずっと継続していこうか」と考えていた時期もあります。ただ、当時は小さくまとまってしまいそうな気がして、結論として塾ビジネスの社長になる線は消えました。もうひとつ、やっていたアルバイトがあります。それが、流通系企業グループの調査会社から依頼された、覆面調査員です。グループ各社が展開している様々な形態の店舗にお客のふりをして訪問し、サービスのチェックをする仕事。最終的に僕は調査員集めの手配師的な立場になって、こちらでもけっこう稼がせてもらいました。今から25年前に経験したこのバイトが、自分の起業につながるなんて、大学生時代の僕には想像すらできませんでした。

<就職、そして転職>
流通王国の茨城県で、銀行員生活をスタート。
入社4年後に、流通業ナンバーワン企業に転職

 大学卒業後の就職先は、社長になるための修業ができる企業を、と考えました。そして、お金の勉強ができ、営業力を厳しく鍛えてもらえそうな関西系の大手都市銀行・三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。最初に配属されたのは茨城県の土浦支店です。当時の茨城県には、カスミグループ、ライトオン、ジョイフルホンダなど、勢いに乗った流通系企業の本社がたくさんあって、支店での仕事も、おのずと流通系企業への営業や融資が多くなります。もちろん僕もいろんな企業を訪問し、某企業のオーナー経営者のお世話係のような役割もこなしました。「俺の口座から現金10万円引き出してきてくれ」とか(笑)。また、仕事に関する話をたくさん教えていただく中で、今後も流通ビジネスの勢いは続くと確信。この頃ですね、「起業するなら流通ビジネスに関する分野で」と思い始めたのは。

 土浦支店の一つ上の先輩に、タリーズコーヒージャパンの創業者、松田公太さんがいたんですよ。若手5人で住んでいた寮では、一緒にいろんな話をして、仕事でもプライベートでも仲良くしてもらいました。2年後に僕は、東京の神田支店に異動。ここでも、たくさんの優秀な先輩に囲まれて、とても有意義な勉強をさせてもらうことができました。ですが入行から4年、給料がいっきに上がる前に、三和銀行を退行。流通企業ナンバーワンといわれていた、セブン-イレブン・ジャパンへ転職するためです。このまま銀行にいると、居心地がよくなって、辞められなくなると踏みました(笑)。また、流通ビジネスを学ぶために選んだセブン-イレブンで、最初の仕事は店長でしたから、できるだけ若いタイミングがいいだろうと。

 最初の3カ月は店長の仕事に慣れず、しんどかったですね。まず、扱うお金の単位が銀行員時代とまったく違う。失礼な言い方ですが、バブル時期の神田支店は、「500万円以下は金じゃない」なんて風潮でしたから。一方、コンビニは1円単位のお釣りが出る世界。金銭感覚の桁外れのギャップにかなり戸惑いました。1年目に茅ケ崎市内で2店舗の店長を経験し、その後は茅ケ崎、藤沢、平塚エリア50店舗ほどの教育・指導を行うスーパーバイザーの仕事に3年間従事。都合4年間の現場経験で、業界ナンバーワン企業の商品管理や店舗マネジメントの仕組みなど、貴重なナレッジ、ノウハウの数々を目の当たりにし、セブン-イレブンのビジネスモデルの素晴らしさに驚きすら感じました。そしてその後、本部から声がかかり、システム部門、新規事業部門で5年間をすごすことになります。

<起業の決断>
販売促進策を店舗に徹底して実施させる理由――。 
それは、確実に売り上げが上がるから

 システム部門、新規事業部門では、本部の情報システムの構築、IYバンク(現セブン銀行)、インターネット通販(セブンドリーム・ドットコム)など、新規事業の立ち上げを担当していました。任される仕事自体はとても楽しく、評価もしていただけたと思っています。ちなみに、ネット通販を立ち上げる新会社は、ソニー、NEC、NRI、三井物産、JTBなどが出資する、超大型プロジェクトでした。規模はものすごいのですが、意思決定が遅く、思い描くビジネスがなかなかうまく立ち上がってくれない。他方、ベンチャー企業の楽天は、スピード感を持って急成長を遂げていました。この時に、痛感しました。新しい領域でビジネスを始める場合、責任者が生きるか死ぬかくらいの覚悟で事業を推進していかないと、成功はできない、と。当時の僕は30歳を過ぎており、「早く自己責任で勝負する、起業の世界へ行かなくては」――そんな焦りを感じ始めていました。

 セブン-イレブンは、日本を代表する高収益企業です。ビジネスで得た収益は、IT環境、優秀な人材などに再投資され、さらに強い体質を持つ企業へと進化を続けます。POSを含めた最先端のITシステム、優秀なスーパーバイザーのアナログ的な指導と教育。それらが完璧に徹底されているからこそ、セブン-イレブンの圧倒的な強さが維持できているわけです。この仕組みを中小企業が真似ようと考えても、資金的にかなり難しいことは明白ですよね。そう考えた時、僕の頭に浮かんだのが、大学時代のアルバイトで出会った、覆面調査員とラウンダーでした。店舗をITで管理するシステムを構築し、覆面調査・ラウンダーというアナログの仕組みを合わせたら、強いビジネスモデルができるのではないか。中小企業が望んでいるような、素晴らしい店舗管理サービスが提供できるのはないか――。

 いよいよ起業を決意し、8年間勤務したセブン-イレブンを退職。その後1年間、起業準備を進めながら、あるベンチャー企業のお手伝いをしていました。某ドラッグストアチェーンの販売支援業務に携わった時のことです。セブン-イレブンでは、現場のキャンペーン実施率がほぼ100%でしたが、そのドラッグストアチェーンでは40%ほど。結局、どの店舗でも販売結果はPOSで把握できますが、商品の陳列法、キャンペーン用の販促物の展示および接客ができているかどうか、そのプロセスがわからない。では、なぜセブン-イレブンは、販売促進策を店舗に徹底して実施させるのか? それは、売り上げが上がるからにほかなりません。この準備期間に、僕は温めていたビジネスモデルの可能性の高さを再確認できました。そして2004年2月、店舗店頭のマーケティング支援に特化したメディアフラッグは、東京港区にあるインキュベーション施設で事業を開始。僕は35歳になっていました。


日本のサービス業の“質”をさらに高めながら、
世界中に「おもてなしの心」を届けていきたい

<挑戦の始まり>
マネジメントスタイルを180度チェンジし、
覚悟を決めた。みんなで一緒に未来を目指す

 実は、最初は一人でコンサルをやろうかと悩みました。銀行とセブン-イレブンでの経験で、食っていける自信がありましたから。でも、人を抱えて、資金の手当てをして、責任感を持って事業をしないと起業の意味がない。そう思い立ち、手伝っていたベンチャー企業のスタッフを誘い、まずは二人体制で事業をスタートさせました。ちなみに、当時27歳の社員第一号が、現在の当社取締役・石田国広です。管理システム「マーケットウォッチャー」の構築を外部のシステム会社に依頼し、覆面調査員やラウンダーは、派遣会社のネットワークを活用する計画でした。ただ、名もないベンチャーのサービスが簡単に売れるわけがありません。流通専門誌への寄稿、依頼された講演活動など、事業資金の足しになることは何でもやった。もちろん、当初は僕と石田で、自ら覆面調査やラウンダーをやるケースも多々ありました。

 1期目は、今後の資金調達のことも考え、何とか黒字を達成。もちろん、僕の給料はなく、石田にも微々たる金額しか渡せませんでした。営業に出向くのですが、なかなか目標予算に届きません。どんどん資金が枯渇していく、恐怖との戦いでしたね。ただ、2期目に、知り合いの記者が『日経MJ』の記事で、うちを取り上げてくれたんです。そして、その記事を読んだ、三和銀行時代の先輩で、タリーズの社長だった松田公太さんが連絡をくれました。実は当時、水面下で、某人材会社に自社の売却の話を持ちかけられていたのです。この頃の僕は、野心もなく、志も低かった……。売却の話を松田さんに相談すると、「絶対に自分で続けるべき!」と一喝。そのうえで、投資もしてくれるというありがたい申し出をいただきました。松田さんのアドバイスもあって、売却の話はお断りし、その人材会社を含む数社からの第三者割当増資を受け、何とか自ら事業を継続する決断ができました。
 
 それでも、4期目までは赤字が続き、出資者からのプレッシャーが、そうとうこたえました。さらに、会社の数字を知っている幹部がどんどん辞めていく、それを知ったスタッフも辞めていく……。資金は確保できたけど、人がまったくついてこないわけです。自分自身も「黒字化するのが難しいモデルなんだ、しかたない」とか、ずいぶん弱気になっていたし、スタッフへの接し方も、思い返せばひどかった。そんな僕を救ってくれたのが、稲盛和夫さんが主宰する「盛和塾」でした。「会社とは、事業内容・売り上げ・利益ではなく、従業員が根幹にある」――。「盛和塾」の講義を受けるようになってから、僕のマネジメントスタイルは180度変わったと思います。覚悟がしっかり決まったんです。絶対にメディアフラッグのビジネスをあきらめない、そして、みんなで一緒に未来を目指す、と。

<成長期>
競合に負けない強みをさらに強化し、
最高のサービスを顧客に提供し続ける

 自分が変われば、周囲が変わる。そのことを実感しました。会社の理念を「社会性のある事業の創造」と定めて以降、社員への物事の伝え方、一体感の醸成を何よりも重視し始めたのです。スタッフたちの目の色が変わるのがわかり、業績がどんどん上がっていきました。そうすると、もっと人を増やすことができます。それにつれて、僕の信念も自然と大きくなっていく。好循環はさらに運を呼び込むのかもしれません。4期目の2007年には、住友商事さんと、博報堂DYホールディングスさんから、大型の資本参画が決定。この頃から、上場も視野に入り始めましたが、僕にとって、上場はただの通過点でしかないと思えるようになりました。もちろん、自分もスタッフもそうとう忙しくなり、仕事の難易度も上がりました。そんな状況でも、志を高く持つことができれば、大変な仕事でも楽しく思えてくる。そんな自分になれたのは、やはり覚悟を決めたからなんでしょうね。

正直言いますと、当社の「マーケットウォッチャー」というシステム自体、他社に真似されるかもしれません。もちろん、追いつかれないように常に進化させていきますが。では、メディアフラッグにしかない強みとは何か――。それはやはり、店舗の現場に出向いてくれる、覆面調査員、ラウンダーなど当社のメディアクルーたちの質の高さにほかなりません。対面とオンラインで教育を受け、プロの調査員、巡回員となったメディアクルーが、店頭を訪れ、インターネットを介して「マーケットウォッチャー」に店舗の様子や巡回内容を入力すると、即座に分析されたレポートが表示されます。クライアントは、これらのレポートと店側の売り上げ情報の一括管理が簡単にできる。さらに、今後の店頭サービス改善に活用できる。このフィールドサービスを支えてくれているのが、現在、全国で16万人が登録している当社のメディアクルーというわけです。

 ちなみに、当社の前期年商は、約23億円。その内、売上原価と販売管理費の80%が人件費です。正社員は約100人、大手スポーツアパレルメーカー、大手製薬メーカーなど店頭販売を行う契約ラウンダーが約300人、そして、16万人が登録しているメディアクルーの内、月間平均で約3500人が稼働しています。毎月、4000件もの人件費振り込みが発生する、当社はまさに人に支えられている会社。だから、僕はいつも考えています。一人ひとりが、今より1%いい仕事をするためにはどうすればよいか。その1%の成長を全員が継続していけば、メディアフラッグはどこにも負けない会社になる。今、メディアクルーの登録がどんどん増えており、教育インストラクター130人を、200人体制にする計画です。先月も、札幌から沖縄まで14拠点を回り、200人弱のメディアクルーと面談してきました。みんな、本当にいい顔をしていました(笑)。

<未来へ~メディアフラッグが目指すもの>
「社会性のある事業の創造」に、
これからも全員一丸となって挑戦し続ける

 おかげさまで、今年(2012年)9月、東証マザーズに上場することができました。先ほども言いましたが、今、上場できたことに、まったく満足していないんですよ。まだまだ、先は長い、単なる通過点だと。本当に、この仕事が面白くて仕方ないんですね。「来年のプライベートの目標は?」なんて聞かれても、会社の目標しか思い浮かばない(笑)。経営者としての覚悟、信念がどんどん大きくなって、やっぱり自分はこの会社のために存在している人間なんだと改めて思っています。当社は、フィールドマーケティング企業としては、最も後発です。25年前に、僕がアルバイトをしていたくらいですから。でも、ITと人の融合で、新しいサービスの仕組みをつくることができた。競合も数社存在しますが、上場したのは当社が初めてです。せっかく手にしたこの先行者メリットを無駄にすることなく、成長スピードをどんどん高めていきたいですね。

 上場して、信頼性と認知度が格段に高まったことは事実です。CMなどのマス広告では、なかなかモノが売れない時代になりました。広告宣伝費が販促支援に流れ、消費者に直結する店頭販促の重要性が増しています。実際に今、流通、飲食だけではなく、地銀など新しいマーケットのクライアントがどんどん増加しているのです。ちなみに、当社の社員の約半数が流通サービス企業勤務経験者。ほか様々な当社ならではの強みをフルに生かしながら、今後3年以内に、東証一部市場への上場、5年以内に年商100億円を本気で目指しています。現在のクライアント数は約200社で、年間累計20万店の調査および販促支援を行っています。100億円の年商が実現するということは、100万店舗のデータベースを手に入れるということ。このインパクトはものすごいと思っています。ここで生まれる新たな付加価値をしっかりかたちにしたいですね。

 もちろん、海外市場への布石も忘れていません。すでに11月には上海に進出しており、可能性の大きさを実感しているところです。海外では、現地の商流を熟知した広告代理店や人材派遣会社と提携しながら、当社のナレッジ、ノウハウの浸透を図る計画です。目標は、5年以内に海外年商50億円。インドネシア、マレーシア、フィリピンなど、東南アジア諸国への進出をにらみながら、積極的に進めていきたいと考えています。また、消費者のニーズがどんどん変化していますが、その実際が如実にわかるのが店頭という現場です。そういった意味で、店頭リサーチおよび販促支援に強みを持つメディアフラッグが、広告代理業やセールスプロモーションなど、上流ビジネスの展開も不可能ではないと思っています。そうやって考えると、僕たちにできる社会貢献はまだまだ山ほどある。当社の理念である「社会性のある事業の創造」に、これからも全員一丸となって挑戦していきます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
理念と信念と志をしっかり固めて、
ぜひ、雇用をたくさん生みだす起業を!

僕の場合、昔から社長になりたいという夢がありましたが、起業にかける信念や理念が薄いまま、社長業を始めてしまいました。振り返って考えると、ここまでこられたことがとてもラッキーだったと思っています。本当に失敗の可能性が高かったと、スタート時点の自分を思い出すと恐怖を感じるほどです。ただ、ここまで辿り着くプロセスの中には、ビジネスを学ばせてもらった勤め先、松田公太さんや当社のスタッフたちをはじめとする、大切な人たちとの偶然の出会いがありました。そのなかで、たくさんの気づきを得て、軌道修正を繰り返したから、何とかやってこられたわけです。これから起業の世界を目指す皆さんには、ビジネスモデルよりも先に、なぜ自分はこのビジネスに挑戦するのか――その信念、理念をしっかり固めて始めてほしいです。

 一人で始められるビジネスもあるでしょう。でも、僕はぜひ、組織で立ち向かうビジネスに挑戦してほしいと思うのです。なぜなら、雇用増はこれからの日本にとって、なくてはならないもの。より多くの雇用を生み出す会社が世の中に増えていけば、日本は絶対に元気になれるはずですから。また、僕自身、採用した仲間を後悔させないために、何度も踏ん張ることができました。赤字や投資家のプレッシャーに負けず、事業を継続できたのは、雇用した仲間たちへの責任感があったからです。まあ、自分自身の性格が、負けん気が強く、あきらめが悪いということもありますけど(笑)。社員という仲間がいたからこそ、自分には見えなかったものが見えたし、自分の力以上のことが実現できたのは事実です。ぜひ、雇用を前提としたビジネスに挑戦してください。

 起業することは簡単ですが、事業を継続することが難しい。僕にはハングリー精神や劣等感といった、マイナスを乗り越えるモチベーションはありませんでした。でも、もしもそれを克服したいという理由で起業していたら、上場したことに満足してしまい、今頃は勘違いした人間になっていたかもしれない。そうではなく、仲間と一緒に追いかける「社会性のある事業の創造」という経営理念が見つかったからこそ、今もずっと先の未来を見据えて、仕事に専念できているのです。そういった意味でも、事業継続のためには、理念と志の高さが絶対に必要です。最後に、いくら理念があっても、資金が回らないと会社は継続できません。経営者になるのであれば、しっかりとお金の勉強をしておくべきです。その知識に自信がないまま起業しまうのは、泥船に乗ったまま未知の大海にこぎ出すようなものだと思います。最低でも決算書が読めて、BS、PLがわからないと危険ですよ。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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