第140回 株式会社レスキューナウ危機管理研究所 市川啓一

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執筆者: ドリームゲート事務局

第140回 株式会社レスキューナウ危機管理研究所/ 代表取締役社長
市川啓一 Keiichi Ichikawa

1964年、マレーシア生まれ。4歳から6歳までをチェコスロバキア(現・チェコ共和国)で過ごし、プラハの春を経験。成蹊大学経済学部を卒業した1987年、日本アイ・ビー・エム株式会社に入社。金融機関担当営業を経て、アウトソーシングサービス、ビジネスリカバリーサービス、マルチメディア・コンテンツ・プロデュースなどの新事業立ち上げに参画の後、経営企画室課長。2000年、株式会社レスキューナウ・ドット・ネット(現レスキューナウ)設立。設立と同時に有珠山が噴火、現地に行き災害情報の発信支援に努める。 2001年、危機管理情報を個人の携帯電話に配信するサービス「マイレスキュー」を開始。 2003年、法人向け初動情報支援サービス「3rdWATCH」開始。企業や自治体向けに災害発生情報の通報、安否確認等のサービス提供を行なう。 2005年~2007年、中央防災会議「災害被害を軽減する国民運動の推進に関する専門調査会」委員、特定非営利活動法人事業継続推進機構幹事、NPO法人東京いのちのポータルサイト 副理事長、NPO法人日本災害情報ネットワーク理事。2011年、株式会社レスキューナウ危機管理研究所の代表取締役社長に就任した。

- 目次 -

ライフスタイル

趣味

愛犬との時間です
シェパードを2頭飼っています。大きな犬種ですから、彼らを飼うために、多摩川の近くの家に引っ越しをしたほど。川沿いを散歩するのですが、川にざぶざぶ平気で入っていく。つい先日、十分離れたつもりだったのですが、釣りをしている方に怒られてしまいました(笑)。

好きな食べ物

好き嫌いなしです。
好き嫌いはほとんどなく、甘いもの、からいもの、和洋中何でも好きです。昼間のランチでデザートも食べますし、夜が近づくとビールが飲みたくなる(笑)。さらに夜が更けてきたら、バーボンやスコッチが恋しくなりますね。

行ってみたい場所

さびれた温泉地です。
テレビのない、携帯電話の電波も入らない、人の少ない静かな温泉地に行きたいですね。一人で本だけを持って、寝て起きて、ご飯を食べて、散歩して温泉につかる。自分の心を整えるための時間をつくりたいと思っています。

お勧めの本
『突破する力』(青春出版社)
著者 猪瀬直樹

孤独を友として仕事と向き合った時間は、けっして自分を裏切らない。ギリギリまで自分を追い込めば仕事力が磨かれて、それが閉塞状況を打ち破る武器になる―道路公団民営化をはじめ、作家として、東京都の副知事として、さまざまな世間の“壁”を突き破ってきた著者が、自らの体験を踏まえて綴る、人生を面白くする本気の仕事&生き方論。起業家にも同じような力が求められていると思います。

365日24時間、今そこにある危機に備える情報配信。
その根底には、より安全で安心な社会をつくる「志」

最新の情報技術を駆使し、危機に対する迅速な救援と復旧、復興と予防に貢献することを企業理念に置いて事業を展開する、株式会社レスキューナウ。同社を創業し、現在は、株式会社レスキューナウ危機管理研究所の代表として、世の中にレスキューナウの存在意義、その重要性を広めるための活動に注力しているのが、市川啓一氏である。「結局、危機は起こります。危機を避けられたのに、知らなかったという悲劇をなくしたい。今回も、あの大津波が来ることを想定しなかったこと、それが悔しくて仕方ないのです。今の時代よりよいかたちの情報の共有化が進めば、より安心、安全な暮らしが保たれるはず。人間の英知とコミュニケーション能力を最大限につなぎ合わせ、これからも人の役に立つ仕事を続けていきたいと思っています。」。今回はそんな市川氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<市川啓一をつくったルーツ1>
幼少期、チェコで暮らしてプラハの春を経験。
ナンバーワンよりナンバーツーのほうが心地いい

 僕が生まれたのは、三井物産に勤務する父が赴任していた、マレーシアのペナン島です。10カ月しかいなかったのですが、現地人の執事、料理人、僕専属のベビーシッターを雇っていて、ものすごく豊かな生活。自分の誕生記念パーティの写真が残っていますが、ものすごく豪勢なものだったようです。その後の3年間は日本にいったん帰国し、父の次の赴任地であるチェコスロバキアのプラハへ。アメリカンスクールに通いながら、ここでは4歳から6歳までを過ごしました。この時期に、うちの家族は「プラハの春」を経験しています。家の目の前でプラハ市民とソ連軍が衝突。火炎瓶が飛んで、火の手が上がる。現地在住の日本人3家族で、自家用車に日の丸の絵をたくさん貼り付け、国外脱出を図りました。僕はと言うと、車窓の外を走るソ連軍の戦車を見つけるたびに、ワクワク(笑)。何度も検問を受けましたが、無事に近隣諸国に入って、その後の数カ月間、ヨーロッパを家族で旅行して回ったのですよ。

 大手企業に勤める父はどちらかというと実直な性格、商売人家系で生まれた母はとても豪胆な性格。今思えば僕は、いい部分も悪い部分も含め、父母両方の性格をしっかり受け継いでいるのではないでしょうか。さて、プラハから再び日本に戻り、小学1年からは、東京で過ごすことに。驚くほどスムーズに周囲の同級生と打ち解けましたね。放課後、友だちと一緒に遊ぶ際、どこで、何をして遊ぶか、みんなの状況を聞いたうえで毎日コーディネートする。たとえば、昨日は2丁目の公園だったから、今日は5丁目の公園に集合。ケイドロが続いたから、今日は缶けりにする。あの子は17時から塾だから、早めに主役をやらせてあげる……。などなど、できるだけ公平性を保ち、さらに門限もしっかり把握していたので、友だちはもちろん、親御さんからもけっこう信頼を得ていたと思います。

 昔から、ものをつくったり、調べたりすることが好きでした。レゴでいろいろなものをつくりましたし、年末には必ず干支を彫った自作の芋版を作成。寅年の時、小学校あてに送った年賀状が、3学期の始業式で、校長先生から読みあげられて誉められた。別に狙ったわけじゃなく、素直に毎年、お世話になった学校に年賀状を送っていたのです。月食の時は、誰に頼まれたわけでもないのに、半分徹夜して、毎時間、月のかたちを書き続けたり。あとは、おもちゃやスポーツ用品、ジュースの缶とか、使いながらよく考えていました。「世の中の会社は、なぜ自分を採用しようとしないのだろう? こうしたほうが売れるというアイデアを、自分はいくらでも考えだせるのに」。まだ、小学生なのですけどね(笑)。

<市川啓一をつくったルーツ2>
サッカーの部活動に明け暮れた中学・高校時代。
中学の文化祭では、恩師の一番の思い出づくりも

 両親は、大学までエスカレーターで行ける私立に行かせたいと考えていました。僕は、中学に上がったらサッカー部に入部することを決めていたので、グラウンドの状態を見学して、成蹊中学への進学を選択。無事に合格し、サッカー漬けの毎日が始まります。火曜日から土曜日までは部活の練習で、日曜日はだいたい他校との練習試合。月曜日は部活が休みなのですが、中学・高校の6年間、サッカー部の活動は皆勤賞。体調が悪くなると、月曜日に学校を休んで体力を回復し、部活には穴を空けない、と。担任の先生は、「市川が学校を休むのはいつも月曜日……」と、不思議に思っていたみたいです(笑)。ポジションは、右サイドバックで、副主将。今もそうですが、ナンバーワンよりナンバーツーのほうが心地いいのです。プレイングマネジャーとして、他校の担当者と交渉して練習試合を組み、そのスケジュールも管理していました。だから、監督やコーチからもかなり重宝がられていましたね。

 中学1年の文化祭の出し物として、「宇宙戦艦ヤマトをつくろう」と、クラスで提案しました。みんなキットがあると思っていたようですが、僕は一からすべて手づくりすることを提案。実は、小6の時に、自宅で大型の航空母艦を自作した経験があったのです。まず、段ボールで自作の工作用ドックを用意し、その中で、ハンガーの針金やボール紙、バルサ材、絵の具を使用してつくる。最初はみんな「無理だよ」と尻込みしていましたが、僕が実際に作成した航空母艦「スプレンダー」を見せた途端、がぜんやる気に。それから2カ月ほどをかけて、全長2メートルほどの宇宙戦艦ヤマトを完成させた時は、クラスの全員が大きな達成感に包まれた。先日、卒業25周年同窓会があって参加したのですが、当時の担任の先生が、「教師生活で一番楽しい思い出になった」と一言。嬉しかったですね。

 元・和田中学校で民間校長をされていた藤原和博さんが、面白いことを言っています。戦後の日本は小品種大量生産を成功させ、高度経済成長を遂げました。そして高度教育を行き渡らせました。しかし、そこにはすぐに正解を求める「正解主義」があった。よく学校では「わかった人だけ手を挙げなさい」と言います。でも、世の中に出たら、実にさまざまな選択肢が用意されていて、正解は一つだけじゃない。一方、欧米の教育では、正解なんてなく、自分の思ったことを発言し、それをみんなが反応し、修正していく。いわゆる「修正主義」が一般的です。そういえば、僕は正解かどうかに関係なく、いつも手を上げて発言していました。それで、浮いちゃうのですけど(笑)。何かをつくりたいと思ったら、何を持っているかではなく、正解かどうかではなく、何が求められているか、何が必要か、それをどうやってつくるかを考え、みんなで話し合う。それが、人の感性に訴えるものをつくるための秘けつだと思うのですよ。

<学生起業>
ライターとシートベルトのアイデア商品を考案。
失敗と成功を重ねた、大学生ベンチャービジネス

 高校卒業後はそのまま、成蹊大学へ進学しています。高校時代に、成蹊の同級生である今の妻と付き合い始め、大学では一緒に楽しめるという理由で、スキーの同好会に入りました。あとは、高校3年から始めた、吉祥寺のステーキハウスのバイトです。皿洗いから始めて、焼きから仕込みまで、ずいぶんいろんな仕事を任されました。このバイトは大学2年で卒業。会社をつくって事業を始めたいと思ったんです。実は中学の卒業文集に、「サラリーマンにはならない。屋台のラーメン屋でもいい、事業オーナーになる」と書きました。当時は彼女のご家族とすでに水入らずでお付き合いしていて、週の半分は彼女の自宅に入り浸っていました。そのお父さんから、ワンタッチで風防カバーが飛び出す、ライターの販売方法を相談されたのです。「ぜひ、自分にやらせてください」とお願いし、事業部をつくってもらった。その名も、「リーベン企画」。“便利”を逆にしただけなのですけどね(笑)。

 いろいろ調べていくうちに、温度によって色が変わる塗料を発見。風防バーにヌード写真を印刷しておき、着火するとその絵柄が浮き出てくる。このライターがけっこうなヒット商品になったのですよ。いろいろな会社に売り込みに行きました。いったん断られても、「今度こんなキャンペーンがあるから」と聞けば、ほかのメーカーを回って、合う商品を探して回る。で、そのメーカーで新たな商品を見つけたら、さらにその売り先を探す。そうやって、次々と相手の要望に応える活動を続ける中で、さらなるヒット商品が生まれました。ちょうど、自動車のシートベルトが義務化されたタイミングで発売したのが「タッスキー」と名付けたシートベルトカバーです。と自動車保険会社に採用され、群前県の交通安全協会で配布されたことがテレビでも取り上げられ、何万本もの出荷となりました。

 もちろん成功談だけではなく、重ねた失敗もたくさん。売り込みに成功しても稟議にてこずったり、信用がないために前金を求められたり。メーカーと直接取引されたり。大学卒業後もこの事業を続けるという選択肢もありましたが、一度は大きな会社に入り、その大企業の論理や仕事の仕方を学んでおくべきだと思うようになりました。ちょうど父が三井物産を翌年定年退職することもあり、就職に有利と聞き「間違いなく内定が出る」と高をくくっていたのですが……あまりの就職試験の点数の悪さに、落とされてしまった。それからは、ほかの大手商社、メーカーなどを受け続けましたが、何と32社連続でダメ出し。人との違いをアピールするために、ライターとタッスキーを売ってきたことを実物も見せて語りまくったのですが、それがアダになったようです。さすがの僕も落とされ続けたプレッシャーで体調を崩してしまいました。

<日本アイ・ビー・エムへ>
仕事が本当に楽しく、大きなやりがいを感じていた。
営業として大活躍し、会社からの評価もしっかり

 その後、友人の紹介で面接を受けたのが、日本アイ・ビー・エム(以下・日本IBM)とリクルートでした。これまで落とされ続けた会社と違って、自分で解決策を求める力、顧客のニーズを引き出す力を買ってくれたのですよ。そして両社から内定をいただき、僕が選んだのは日本IBMです。どちらにしようかと相談に行った時に5人の面接官の評価表を見せていただき、ありのままの自分を評価してくれているここなら素直に背伸びせずにやっていけそうだと思えたことが決断の理由でした。採用面接時に「英語は得意ではありません。コンピュータも好きではありません」とお話していましたが、「大丈夫、英語は必要なら教えるから。社内にはコンピュータ好きがぞろぞろいるから。君の得意な顧客ニーズを引き出すことに専念してくれればいいよ」。と言われた話は本当でした。実際、英語はたくさんの研修の機会もいただきましたし、システムはそれこそSEさんやプロの専門家がたくさんいてくれました、

 そして、9カ月にわたる営業新人研修修了後は、セールス・レプリゼンタティブという名称の営業となり、営業活動をスタート。営業1年目は、あまりにもコンピュータの知識が乏しかったので、SEの先輩たちから、「バカイチ」というありがたくないあだ名を拝命し、罵倒されたことは数知れず(笑)。それでも、「自分は採用時にコンピュータには強くなくてもいい、顧客の要望を聞きだすのが仕事と言われている。そのためにSEさんがいるのでしょ」などと言ってしまったもので、火に油ですよ。でも、当時はバブル花盛りの頃。証券業界を担当していた僕は、お客様にも恵まれ、次々に大きな仕事をこなすようになり、かなりのインセンティブを頂戴しました。仕事が本当に楽しく、大きなやりがいを感じていました。

 日本IBMには、ゴールデンサークルというアジア・パシフィックの成績優秀者が招かれる、ハワイでのコンベンションがありました。営業にとっては一度でも招待されたら最高というものでしたが、二度も招待いただきました。給料もけっこう良かったですし、妻と共にIBMの大ファンでした。(笑)。その後バブル景気が終焉を迎え、金融業界全体が業績不振に陥りました。そこで、僕は会社に申し出て、「お客様のシステム費用を抑制するアウトソーシングという新しい手法をアメリカへ調べに行きたい」と直談判。普通、営業の一兵卒ではあり得ない話なのですが、許可が出て渡米。2週間ほど、全米各地でリサーチし、帰国後にクライアントの証券会社にアウトソーシングサービスの提案を開始します。これが1994年頃の話です。まだアウトソーシングという言葉自体、浸透していなかった時代ですが、中には1000億円規模の提案も含め、お客様の情報システム事業そのものをまとめて受託するというワクワクするような新規事業の立ち上げに参画しました。入社前、「35歳までに起業する」という決意を打ち立てていましたが、この頃は忘却の彼方でした。

●次週、「災害情報配信サービスで、一人でも多くの危機を救う事業を起業」の後編へ続く→

独自の技術で、最適な情報を最適な人たちへ届ける――。
避けられた危機を知らなかったという悲劇をなくしたい

<決断>
「志ありき」でないと、苦境を乗り越えられない。
ベンチャー起業家として自分の「志」を優先させる

  その後、入社以来お世話にになっていた上司から声がかかり、マルチメディアの事業部に移動しました。入社後初めて、ソフトウエアをコンシューマー向けに販売するBtoCビジネスを経験することになりました。移動した当時、この部署で扱っていた商品は高品質ではあっても、とても市場で売れるようなものではありませんでした。マーケティングの発想が欠けていたのです。そこで僕は、こうすれば売れるという5つの商品コンセプトを提案しましたが、「そんなのはとてもつくれない」と誰も賛同してくれませんでした。その提案を聞いた上司から、「確かにそのコンセプトの商品が実現した売れるのはわかる。自分でやってみるか? ただし予算はないよ」と言われました。先にまとまった開発予算は用意できませんでしたが、日本IBMと仕事をしたい、口座を開きたいと思っている良い会社さんはありました。そういった会社と相談し、成功報酬で仕事を依頼。そして、完成した幼児教育ソフトが予想以上の大ヒットとなり、日本ソフトウエア大賞を受賞しました。しかし、僕はすでに33歳。そろそろ起業しなければという思いが再燃していました。

 その頃、日本IBMは、社内ベンチャー支援制度を計画し、僕もその検討メンバーに入っていました。でもその制度がなかなか始まらない。そこで、当時の社長に直談判したら、テストケースとして社長室預かりというかたちで、2年間、給料をいただきながら起業をさせてもらえることに。自分で育てた教育ソフトはシリーズ化され、ベストセラーになっていました。このビジネスをもって起業するという選択肢もあった。しかし、やはり「志ありき」でないと、ベンチャーは苦境を乗り越えることができません。もうひとつ考えていたのは、危機管理のための情報提供サービス。そのきっかけは、阪神淡路大震災の際の実体験にあります。1995年1月17日、私は東京で被災地のニュースを見ていました。「自分も早く現地に行って手伝いたい」という衝動にかられましたが、マスメディアから得る情報では、どこで、何が必要とされているか、具体的な情報がまったくわかりませんでした。

  いても立ってもいられない自分の中に生まれた衝動――。広くあまねく行き渡るマス情報ではなく、一人の人間のために供する危機管理情報サービスの確立。人間は自然災害の前に無力ではありますが、正しい情報を得ることで、被害状況の拡大を抑えられる可能性は高まります。また、当時はインターネットが登場し、必要な人に必要な情報を届けるためのインフラができ上がりつつありました。その「志」の部分を信じ、徒手空拳でもいい、まずは動き出そう。そして、2000年4月1日、株式会社レスキューナウ・ドット・ネット(現・レスキューナウ)を設立。設立日の前日に、有珠山の噴火が勃発し、右も左もわからないまま現地に出動し、災害情報の発信支援を開始。そんな激動ともいえる幕開けと共に、当社のビジネス活動がスタートしました。

<レスキューナウ、始動>
マクロな情報ではなく、ミクロな情報を必要な人へ。
24時間365日稼働する「RIC24」をコアに活動開始

  起業して、走りながら、事業を徐々にかたちにしていきました。当初は、詳細な災害情報を無料で幅広く提供していくか、行政などと組んで情報発信のアウトソーシングをしていくか、有料で特定の個人へ情報提供していくか、大きくは3つの選択肢を考えました。そして、携帯電話の今後の普及・拡大をにらみ、2001年、危機管理情報を個人の携帯電話に配信するサービス「マイレスキュー」をスタート。緊急時における危機管理情報は、その後の行動に対する影響が大きく、その鮮度と正確性が非常に重要です。しかし、危機発生直後の情報は混乱しがちで、迅速かつ正確な状況把握がいかに困難であるかということは、よく知られています。またこれまでは、困難の中で収集された情報の流通手段が、マスメディアのみに委ねられていたために、緊急時に、ピンポイントな詳細情報を必要とする人に、届けることができていませんでした。

 そして、レスキューナウでは、24時間365日稼働する危機管理情報センター「RIC24 (Rescuenow Information Center 24)」を構築し、独自のネットワークから抽出された、地震、気象、災害事故情報はもとより、陸、海、空路の交通情報、不良品のリコール情報から、衛生管理情報、ウイルス発生情報まで、危機管理に関するあらゆるニュースを収集し、それらを直ちにデーターベースへ格納。その後、災害発生地までの距離(Distance)、災害の深刻度(Level)、災害の種類(Category)の属性をもってデーターベース化された各情報は、エンドユーザーのニーズに合わせて配信され、個人ユーザーだけでなく、提携を結んだ放送事業者、インターネットメディアサービスプロバイダーなど、それぞれ異なるニーズを持つ各企業へも提供されます。

 当社が開発した、危機管理情報のコンテンツを必要な時、必要な人に向けて配信する「DLC理論」はビジネスモデル特許を取得。これらの仕組みをスピーディにかたちにするため、「RIC24」で情報収集に当たるスタッフは、緊急時でも即時に対応ができるよう、会社から徒歩5分圏内に在住しています。その後、アメリカで起こった911同時多発テロがきっかけとなり、法人における危機対応として、BCP(Business Continuity Plan = 事業継続計画)の重要性がさけばれるように。そして、2003年からスタートした、企業の社員向けの危機管理情報配信サービス「3rdWATCH(サードウオッチ)」に、事業の軸足を徐々にシフト。危機発生時の初動支援としての安否確認、被害状況レポートの提供、危機に際する基本的な行動ガイドラインや対策マニュアルの策定を行なっています。さらには防災用品の備蓄、対応訓練の実施など、より実践的に役立つコンサルテーションサービスを総合的に提供する体制を整えました。

<未来へ~市川啓一が目指すもの>
人間の英知とコミュニケーション力を生かし、
これからも人の役に立つ仕事を続けていきたい

  そんなプロセスを経て、2006年1月、ITベンチャーからソリューションカンパニーへの脱皮を図り、社名からドット・ネットを削除。株式会社レスキューナウと名称を新たにし、今日まで事業を継続、成長させてきました。現在、事業の柱は大きく3つ。BCPをメインとしたソリューション事業、通信社のようにメディアに情報を提供するコンテンツ事業、もうひとつが物販です。災害発生時に命をつなぐ必要最低限のアイテムを厳選した防災緊急キット、「1dayレスキュー」などを取り扱っているのが「ショップレスキュー」事業です。実際に被災された方、帰宅困難者となった方々の実体験の声を参考に、長期保存を考えた製品、そして企業の机などにも収まるようにとA4サイズのボックスにパッケージ化したキットも提供しています。

 3本の柱の売り上げシェアが、ほぼ30%ずつ。残りが「RIC24」の運用を支えるシステム開発で培った、システム受託開発事業というかたちです。取引先は大手企業を筆頭に、400社を超えています。危機管理情報センター「RIC24」には、他社の追随を許さないノウハウが凝縮されており、レスキューナウの一番大切なコアです。現在、「RIC24」はまだワンセンターですが、これを複数センター化していく、扱う情報の幅をさらに拡大していく、そして日本の、世界の災害情報、危機管理情報のパイオニアのポジションを確立していかなければなりません。情報は言ってみれば、すでに世の中にあふれています。平時の情報監視において、365日、常時80以上のWebサイトを延べ7500回以上監視するほか、交通機関を中心に300回以上の電話取材を実施。災害発生時には、これに加えて、報道機関や行政機関、ライフライン企業等のWeb情報の収集のほか、電話取材などを行って、あらゆる危機管理情報の迅速な配信を目指します。

 私自身は、レスキューナウのかたちがひととおりまとまったこともあって、昨年に会長職に就き、現在は最高顧問となり、と同時に株式会社レスキューナウ危機管理研究所を創立してその代表取締役社長に就いています。主にはクライアントへのコンサルテーションや、講演、さまざまな学会、NPOなどに参加するなどして、世の中に危機管理の必要性や考え方、対策を広めるための活動に注力しているところです。言ってみれば、伝道師、エバンジェリスト的な役割というところです。結局、危機は起こります。危機を避けられたのに、知らなかったという悲劇をなくしたい。今回も、あの大津波が来ることを想定しなかったこと、それが悔しくて仕方ないのです。今の時代よりよいかたちの情報の共有化が進めば、より安心、安全な暮らしが保たれるはず。人間の英知とコミュニケーション能力を最大限につなぎ合わせ、これからも人の役に立つ仕事を続けていきたいと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分の中に生まれた「志」を実現することが
ベンチャー起業家にとって一番の醍醐味

 何と言っても、起業家に必要なのは「志」であると思います。ここまでお話したことの繰り返しになるかもしれませんが、やはり、何を持っているからではなくて、何が世の中に必要とされているのか、世の中に何をつくり上げるか、それは人によって違うでしょうが、その何かを見つけたら、実現させるためにまずは歩み出す。その根底にあって、前に進むためのエネルギーとなるのが「志」です。僕も今、「志」の再定義にチャレンジ中ですけど、自分の中に生まれた「志」を実現することがベンチャー起業家にとって一番の醍醐味ですし、「志」がないビジネスはベンチャーではないと思っています。この「志」が見つけられないという人は、まだ起業するべきではないですね。

 「志」と出会うためのヒントですか? それは、社会の中に存在している、解決すべき課題の存在を常に探し続けるしかないでしょうね。僕の場合は、子どもの頃から、世の中に出回っている商品やサービスを使ってみて、「何でこうしないのだろう?」と考え、それを解決するため行動することが癖のようになっていました。それが結果的に、阪神淡路大震災の時に感じた「なぜミクロな災害情報がないのだろう?」という不満であり、ニーズにつながって、そして世の中を見渡してみたら誰もやっていなかった。だったら自分でやるしかないと決断し、レスキューナウが誕生したわけです。スタート時には、資金も、人も、技術も潤沢ではないし、明確な商品すらなかった。でも、「志」を高く持って走り始めたら、応援してくれる人たちが増えていったのです。

 不満、不便といった、“不”がつくものを発見すると、どうしても解決したくなります。先日も、常に渋滞している会社近くの道路の不便さを調べて、警察に解決策の提案をしたばかりです(笑)。ほか、いろんな製品を使って、よりよい改善の仕組みを思いついたら、その会社に提案のメールを送ったり。さて、話を戻しますが、起業はゴーイングコンサーン、継続が前提の勝負です。経営がどんな状態に置かれても、絶対にぶれない企業理念を最初に策定し、常に全員が自分ごとのように共有しておくことが重要だと思います。自分はこの会社を何のためにつくったのか、人が増え、仕事の階層が増え、組織の形態が変わったとしても、50年、100年後も変わらない軸。あなたの中に生まれた、「志」をしっかりと言葉に刻むということです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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