第106回 株式会社トランジットジェネラルオフィス 中村貞裕

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第106回
プロフィール 株式会社トランジットジェネラルオフィス 代表取締役社長
中村貞裕 Sadahiro Nakamura

1971年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、伊勢丹へ入社。2001年、現・トランジットジェネラルオフィスを設立。「ファッション、音楽、デザイン、アート、食をコンテンツに遊び場を創造する」を企業コンセプトに掲げている。同社のユニークでファッショナブルな発想による仕事は、日本はもとより海外においても高く評価されている。カフェレストラン事業、ケータリング事業のほか、2003年ホテル「クラスカ」の企画運営によりホテル事業に進出。 2006年に大阪の「堂島ホテル」をブランディングプロデュース。そのほか、レジデンス、オフィス、アパレルブランドのブランディングプロデュースなども。近年、グループ会社として、ケータリングイベント会社「TRANSIT CREW」、広告代理店「JET AGENCY」、人材紹介会社の「Departure & Partners」などを設立。ライフスタイル・ブランディング創造総合企業を目指し、話題の遊び場を創造すべく今日も精力的に活動中。

ライフスタイル

好きな食べ物

寿司、カレー、焼き肉……。
寿司、カレー、焼き肉、中華とかですかね。新しい店、話題の店にもよく足を運びますが、仕事的な感覚で行くことが多いです。通常は、同じ仲間と、同じ定食屋とかレストランで食事していますね。お酒は深酒をしないタイプ。でも、少し前まで「お笑いパブ」「カラオケスナック」めぐりに凝っていました(笑)。

趣味

ジム通いです。
長く続いた趣味がほとんどないんですよね。人生を振り返ってみても、仕事以外に続いたことが思い出せません。ああ、1年前から提携会社の社長と一緒にジム通いしています。きっかけは10キロも増えてしまった体重を落とすため。週に2回ほどですが。体重が戻った後も続いていて、自分でも驚いています。

行ってみたい場所

(今は)パワースポット。
パワースポット人気って、意外と続いていますよね。本気で霊的な力を信じているんじゃないですが、今はなんとなく屋久島とか興味があります。行ってもないのに、その話題をするのが嫌なんです。だから、スペイン、ブータン、アフリカ、ロシア……海外にも、行ってみたい場所がまだまだたくさんあります。

最近感動したこと

「bills」の成功です。
お店が大ヒットした時はやはり嬉しいですね。特に、鎌倉七里ガ浜の「bills」。この3月の横浜赤レンガ倉庫の2号店も楽しみです。あと、昨年長男が生まれた時も感動しましたね。出張などで長期自宅を留守にすると会いたくてたまらなくなる。かわいいですが、疲れて帰宅した時には、ちょっとつらい(笑)。

「クラスカ」「Sign」「bills」「THE SOHO」――
話題の空間を次々にブランディングする魔法使い

 外苑前や代官山のカフェ「Sign」、目黒のホテル「CLASKA」、大阪の「DOJIMA HOTEL」、鎌倉の「bills」、青海の「the SOHO」などなど、中村貞裕氏が率いるトランジットジェネラルオフィスが手がける人気空間が増殖中。ファッション、音楽、デザイン、アート、食といったさまざまな魔法をふりかけて、ひとつの空間が話題を呼び、そしてトレンドとなる。それはなぜか? トランジット・マジックを求める人、そしてマジックを体感し、笑顔になりたい人が増えているからだ。「ファストファッションという言葉が今、普通に使われています。でも、“GAP”1社では、大波にはならなかった。“ZARA”“H&M”“FOREVER 21”の追随があって、今のような大波がつくられている。僕としては、要は、東京、ひいては日本が発信する、ブームやトレンドを津波に変える人になりたいんです」。今回は、そんな中村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<中村貞裕をつくったルーツ1>
家業のファミリービジネスで、自宅は大賑わい。人懐こくて、甘えじょうずな性格が醸成される

 父は、若い頃からさまざまな商売を手広く手がけていまして。その中でも大当たりしたのが弁当の販売。ビジネス街など、人が多く集まるいろんな場所に出張して売るという。今もその商売は続いていますが、30年前と弁当の売値をほとんど変えていないのがすごい。昔はコンビニなんてなかったでしょう。どの場所でも飛ぶように売れたみたいです。父はその商売を成功させて、28歳で武蔵小金井にかなり大きな家を建てました。いわゆるファミリービジネスで、母方の親族が家に集まって弁当事業を手伝ってくれるわけです。学校が終わって家に帰ると、おばさんたちに、従兄弟たちがいつもたくさん。また、早稲田大学出身の父は、母校の学生バイトを何人も雇っていて、彼らも同じ屋根の下で働いている。「あそこはいったい何をやってんだ?」と、近所でも評判になるくらい、多くの人が出入りするにぎやかな家でした。

 そんな環境の中で育った僕は、姉がひとりいる長男。静かで泣かない、扱いやすい子どもだったそうです。夕飯まではみんなが一緒で、出前で寿司や中華をとったり、鉄板を並べて焼き肉を焼いたり、わいわいと食べる。毎日がとても楽しかったですね。で、僕はというと、いつも大学生のお兄さんたちの間に入って、遊んでもらっているという。父も母も忙しく働いていたので、遠い親戚のおばさんが住み込みで、姉と僕の世話をしてくれて。今思えば、あの頃の生活が、人懐こくて、甘えじょうず、人間関係なんてまったく苦にならない自分をつくってくれたのだと思います。今だってひとりじゃなく、チームで仕事をするのが得意ですしね。

 小学生の頃から、パーティの雰囲気が大好きでした。文化祭や体育祭のあとの打ち上げは、毎年必ず我が家が会場となる。パーティ当日は玄関の前に、友人たちの自転車が数十台ずらりと並び、宅配ピザを頼んで、自分で選曲したカセットで音楽流して、子どもなりに一所懸命演出するわけですよ。そうそう、僕は自分のことを、かなりの飽き性だと思っています。中学で入ったバスケ部も夏でやめ、高校で始めたスケボーやDJの練習もほどなくして投げ出しました。でも、パーティ的な活動だけは、ずっと続いていくんですね。小学校ではクラス内の打ち上げ、それが中学ではクラス横断となり、高校では学校全体のパーティとなり。大学でもいろんな大学と一緒になってパーティを企画して、たくさんの人たちとの交流を楽しんでいました。

<中村貞裕をつくったルーツ2>
大学時代、大切な彼女とはしごし続けた、『東京いい店やれる店』のチェックデート

 中学でバスケ部をやめた後は、仲のいいグループで学校になかったバレーボール部をつくりました。バレーの練習はまったくしないんですけど。ただ所属 していただけ。卒業アルバムの写真、バレー部で載っていますが、みんなユニフォームじゃなく、学ランで写ってる(笑)。いわば、ダメ人間の集まりみたいな 感じですよ。でも、意外とモテていたかも。。成績も良かったし、走るのが速かったのでいつもリレーの選手に選ばれていました。また、僕自身はまったく不良じゃないのですが、一番の大親友で、いつもつるんでいたのが学校一不良の番長。彼とはいまだに遊んでいます。そんなでしたから、なんだかギャップがあったのかなと。

 高校時代は、吉祥寺や渋谷の街で遊んでばかりいました。当時はチーマーがはやりだしていまして、仲のいいやつらもいましたが、僕の場合は広く浅く。人間関係をそつなくこなすタイプです(笑)。他校の仲間たちと昼間のディスコを貸切ったりして、パーティをたくさんしました。そんなこんなで、高校の頃から知り合いの数がすごく増えていって。でも、必死で人を集める中心的な役割はせず、知り合いが一所懸命パーティを運営して、そこに僕はいつも顔を出すという。当社の今の副社長がその頃からの仲間なんですが、「おまえが一番楽しんでた。ずるいくらい」と言われます。

 そして、僕は慶應義塾大学の法学部へ。大学のパーティチームに入って、「Jトリップバー「GOLD」「ジュリアナ」とか、はやりのディスコでパーティ三昧。毎日が楽しくて仕方ありませんでした。あと、当時、ホイチョイ・プロダクションの『東京いい店やれる店』という本が出まして。そこに出ている店は背伸びしてでも全部行こうと、毎晩、彼女と一緒に店めぐり。飲食店に限らず、新しい店や話題の店はだいたいつぶしていました。

 

<藤巻幸夫との出会い>
研修での高成績を買われ、一番忙しいフロアに配属。
2年目、念願だった師のアシスタントに抜擢される

 父は僕にとって商売の神様なんです。弁当の販売だけではなく、はやりのグッズをつくっては大当たりさせていました。僕が子どもの頃から父は、「おい、今、学校でなにがはやってる?」と質問するんですよ。で、父にほめてもらいたくて、いつも答えを用意している自分がいた。常に、話題になるもの、流行になりそうなものを察知する力は、父とのそんな問答で身についたんだと思います。商売人の父を見ていましたから、なんとなく、いつか自分で商売をしたいと考えていました。が、大学までずっと能天気にすごしてきたでしょう。当時はまったくのノンポリなわけです。なので、パーティ好きだし、イベントの仕事といえば電通か博報堂か、もしくは先輩がいる伊勢丹に行くか。最終的に、それほど悩む間もなく伊勢丹への就職を決めるのですが、入社前に広尾のカフェ・デ・プレで、藤巻幸夫さんに偶然お会いしたんです。

 内定をもらって、伊勢丹ってどんな会社かくわしく調べ始めていた頃でした。それで藤巻さんのことを知って、「面白い人がいるんだな」と感動してたんです。その場ですぐに、「翌春から伊勢丹に入社する中村です。ぜひ藤巻さんと一緒に働かせてください」と、そんな挨拶をしました。入社後はですね、メンズのハイファッションのフロアに仮配属され、なおかつ3カ月間、伊勢丹のアイカードをつくってもらう営業をしました。30枚くらい契約できればほぼトップだったようですが、僕はなんと160枚も契約を取っちゃったんです。知り合いをたくさんつくっておいたことの成果ですね。

 その実績がものをいったのか、僕は伊勢丹で一番忙しく、厳しいといわれていた、「スライス・オブ・ライフ」というフロアに本配属されました。朝8時出社で会議して、営業時間中はずっとバックヤードでストック整理。閉店後は陳列された商品のおたたみに、品出し、23時から売り上げ集計。家に帰るのは毎日深夜の2時くらい。あんなに夜遊びが好きだったのにまったく遊べないわけです。でも1年後、女性向けの新しいフロアをつくることになり、僕もそのフロアへ異動。なんと、その売り場に藤巻さんがバイヤーとしてやって来て、僕は彼のアシスタントに。これは嬉しかったですね。この時期に、藤巻さん経由で、有名なデザイナー、取引先、海外のアーティストなど、後につながるたくさんの方々とお知り合いになることができました。また、藤巻さんがパリ、ニューヨークなど海外出張に出かける際、僕も有給を取って自腹でついて行ったり。普通、部長クラスじゃないとできないことを、若くして経験できて本当に良かったです。

<「rouge」というサロン>
最先端を求める東京中のパーティピープルが毎金夜・表参道のサロンに集結し始めた

 入社3年目をすぎた頃だったでしょうか、アシスタントのままバイヤーになる気配もなく、なんとなく会社に染まりきった自分がイヤになり、漠然とした将来への不安を感じるように。それで、藤巻さんに相談したんです。そしたら、「クビになるつもりでおまえが好きなことをしてみろ」と。で、「何をやりたい?」と考えた時に、自然と出てきたのが「パーティをやりたい」ということでした。仕事の出会いも増えていましたし、就職後に転勤などでバラバラになっていた大学時代の仲間たちも東京に戻ってきていましたから、タイミングもちょうどいい。コンセプトは、緩やかな音楽の中、いろんな人たちと出会い、ゆったり座って会話を楽しむ。そして、毎週金曜日の夜、表参道のカフェを借りて、「rouge」というサロン形式のパーティを始めることになるんですよ。

 トップクラスのDJに上質な音楽を流してもらい、エントランスにはタキシードを着た黒人スタッフを配備。完全リスト制で、1度来てくれたら、その後はメンバーズカードの提示でOK。ニューヨークのハイソなパーティをイメージしました。友人、知人はもちろん、藤巻さんにも大うけで、みんな「これは面白い!」と大評判に。たくさんのマスコミにも取材していただきました。僕自身も最高に楽しくて、金曜日はいっさい残業せず、「rouge」にかかりきり。担当売り場の上司からの評価は下がりましたが、伊勢丹のハイブランドチームからの評価はけっこう高まっていたようです。「中村、やるな!」と。また、「rouge」のプロデュースが縁で、人気アパレルショップのオープニングパーティを手がけたり、おこがましくも東京コレクションの演出をお引き受けしたり。

 会社では藤巻さんが「B.P.Q.C.」というプロジェクトを立ち上げ、僕も参画させてもらうことに。でも、当の藤巻さんが「もうやりきった」と退職を決定。その時、僕は30歳になっていました。実は当時、他社の場所を借りて運営する「rouge」のスタイルに、いろいろな意味で限界を感じていたんです。これだけの知り合いができたのだから、自分が満足のいく空間をつくればたくさんの仲間に来てもらえるのではないかと。その頃、カフェが話題になっていたので、「ああ、カフェも面白そうだ」と考えまして、2001年3月、外苑前に父が借りていた古いビルの5Fの倉庫を再利用して、オフィスをコンセプトとした「OFFICE」というカフェをつくったんです。これが予想を超える大成功。そして僕は、お世話になった伊勢丹を退職することになります。

「ライフスタイル・トレンド創造総合企業」として、
小さなブームやトレンドを大きな津波に育てていく

<話題づくりが起点>
ひとつひとつ、大切に成功実績を積み重ね、仕事が仕事を呼ぶ好循環で成長を遂げる

 仕事だったか休暇だったか、数年前に訪れたベルリンで、現地の人から尋ねられたんです。「日本にあるカフェ『OFFICE』って知ってるか? とてもいいらしね」「それ、僕の店だよ」。遠く離れた異国の地で、そんなやり取りができた。あの時はすごく嬉しかったですね。「OFFICE」をスタートした少し後、同じビルでトラットリアを経営していた父が、その店を閉めることになりました。「倉庫代わりの5階フロアで『OFFICE』をプロデュースし、成功させた。ぜひ、自分にやらせてほしい」。そう父に交渉し、今度は「Sign」というカフェをオープン。。最初のクライアントは、僕の父だったんです。で、その後、「OFFICE」「Sign」の成功を見た方から、代官山「Sign」の話をいただいて。

 そんな風に、ひとつの話題づくりが起点となって、僕たちの仕事は、数時間をすごすカフェやラウンジから、1日をすごすホテルへ、365日をすごすレジデンスへと広がっていきました。ホテル「CLASKA」との出合いは偶然でした。トランジットは、2003年に「OFFICE目黒営業所」というカフェを出店しています。そのすぐ近くに今のクラスカがあって、リニューアルが進んでいることは知っていました。ご近所なので挨拶に行くと、1、2階のテナントとして入ってほしいと依頼されたんです。でも、規模的に無理だとお断りしたら、アイデアだけでも出してほしいと。で、ペットとの暮らし、本やアートのある暮らしなど、いろんな提案をさせてもらったら、気に入っていただいて。企画と運営でお手伝いすることになりました。

 あとは、元・伊勢丹のいろんな方々が外資系ラグジュアリーブランドにヘッドハントされていましてね。2005年くらいから、銀座や表参道に旗艦店をどんどんつくり始めていた。そのオープニングパーティのケータリングで声がかかるようになるんです。一番最初にお引き受けしたのが、クリスチャン・ディオールがパリで開催したパーティをそのまま東京で再現するというもの。50人のイケメンウェイターをそろえることが絶対条件でしたが、軽く100人以上、質の高いイケメンスタッフを集めることに成功しました。派遣するスタッフにも、モヒカン、タトゥー、カッコよさにはいろいろありますし、ブランドによってそのポイントも違うでしょう。「中村は、そのツボがよくわかってる」と評判となり、今では月に約40件のケータリングを受託しています。

<信頼の積み重ね>
オペレーションあがりの空間ブランディング会社がひっぱりだこ

 2001年にこのトランジットを立ち上げて10年、カフェなど飲食店のプロデュース、オペレーションからスタートしましたが、会社の守備範囲も広がり、ホテルやレジデンス、オフィスなど仕事空間のプロデュース、直営飲食店、運営受託飲食店の運営が、トランジットの大きな柱です。あとはイベント・ケータリングとPRと音楽も少し。そうそう、うちでプロデュースしたカヴァーCD「Essence of life」が数年前に50万枚売れたんです。その時の資金を使っていろんなチャレンジをしておいたから、今につながっているのでしょう。先ほどお話ししたケータリング、ほかにも、広告代理店、人材ヘッドハンティング、不動産コンサルティングなどの事業を行う子会社がそろっています。

 プロデュースを手がけるショップも、飲食店だけに限らず、ヨガスタジオ、美容室、海の家と広がっています。また、クラスカ以降も、2006年に大阪の「DOJIMA HOTEL」、2008年に鎌倉市七里ガ浜の複合施設「WEEKENDHOUSE ALLEY」、2009年に「BEACON Tower Residence」、「Marunouchi Park Bld」などの各種コンセプトワーク、プロデュースに参加してきました。また、サニーサイドアップさんと合弁会社をつくり、直営展開している「bills」というシドニーにある世界一の朝食を出す店として有名なレストランも好調です。週末になると鎌倉は2時間以上の待ちで、その2号店がこの(2010年)3月に横浜の赤レンガ倉庫にオープン。これもすごく楽しみですね。

 僕たちがやりたいことは、話題をつくって、新しい人の流れをつくり出すこと。そのために空間ブランディングは大切ですから、コンセプト、ネーミング、コンテンツとなる飲み物や食べ物、音楽にインテリアなど、ひとつでも多く、とことんまで考えて、ひとつでも多くのフックを用意します。もちろん、プロモーションも。でも、長く続いていくブランドには、上質なオペレーションが欠かせないと思っています。伊勢丹というブランドは、スタッフのひとりひとりがお客さまに商品を届けたことでいただけた、「ありがとう」という言葉の積み重ねでつくり上げられたもの。僕たちが今、さまざまな大手企業の方々からお声かけいただけているのも、「OFFICE」や「Sign」で、1杯数百円のコーヒーを大切なお客さまに届け続けてきたから。これからも、「オペレーションあがりの空間ブランディング会社」として、素敵な空間づくりのお手伝いを続けていきます。

<未来へ~トランジットが目指すもの>
ブームやトレンドをつくるだけではなく、それを津波に育てることを心がけている

 トランジットをグループ会社として、規模を少しずつ大きくしながら、存在意義を高めていきたいと思っています。先ほどお話しした「bills」は5年以内に5店舗を展開。「Sign」の店舗数も増やしていく計画です。また、「AUDI CAFÉ」「GUCCI CAFÉ」「JILL STUART CAFÉ」などさまざまなハイブランドと提携した、「カフェも増えていきそうです。おそらく5年後には、直営飲食店、運営受託飲食店合わせて50店舗くらいの規模になっているのではないでしょうか。実際にたくさんのビジネスを行っていますが、僕はすべてにくまなく首を突っ込むのではなく、しかるべき人間に任せる部分は任せて、要点でチェックをしながら、かき回す感じ(笑)。あくまでも、広く浅く、そして長く継続できる方法が、僕にとっては心地よいやり方だったということです。

 プロジェクトでは、いつもひとつのブームやトレンドをつくるだけではなく、それを大きな波に育てることを心がけているんですよ。たとえば、ファストファッションという言葉が今、普通に使われています。でも、「GAP」1社では、大波にはならなかった。「ZARA」「H&M」「FOREVER 21」の追随があって、今のような大波がつくられているんです。要は、東京、ひいては日本が発信する、ブームやトレンドを津波に変える人になりたい。

 今、湾岸エリアの青海に「the SOHO」という世界最大級のオフィスビルのプロデュースを行っています。これは仕事=遊びというクリエイターの働き方をそのままコンセプトにし、参加したプロジェクトメンバーも建築ディレクション、インテリアデザインにWonderwallの片山正通さん、グラフィックにGROOVISIONSさん、音楽に藤原ヒロシさん、BACHの幅允孝さん、森本容子さん、蜷川実花さんなど日本を代表するクリエイターに参加していただきました。入居者も募集から約4ヶ月で3分の1以上決まり、メディアにもかなり取り上げていただいているので嬉しい限りです。鎌倉七里ガ浜の「WEEKENDHOUSE ALLEY」もそうなんですが、1カ所だけが面白くても、面での面白さが生まれませんから。何かを巻き込んでブームをつくっていくことが大事だと考えています。今、僕たちは「空間創造総合企業」を標榜していますが、少し窮屈になってきました。なので、これからは「ライフスタイル・トレンド創造総合企業」を目指そうと思っています!いずれにせよ、人々が生活する空間を面白くする“何でも屋”として、これからも仕事を続けていきます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
「Made in Japan」ブランドの力はまだまだ絶大。アジア圏における「RE」ビジネスは面白い!

 あくまでも僕の仕事に対する考え方ですが、どんなことでもひとりでやろうとしませんね。確かにひとりでやったほうが利益は残りますけど、絶対に仲間やブレーンと一緒に成果をつくる道を選びます。なぜなら、1+1が無限大になるって信じているから。そもそも僕は飽きっぽい性格なんです。最初から最後まで全部自分で関わってやることは珍しい。広く浅く、できるだけ長くやりたいタイプ。そういった意味でいえば、自分の不得意なことをまずは研究したほうがいいと思います。人間、得意なことは放っておいてもやっちゃうものなんです。だから起業を目指す人は、不得意分野を早めに発見して、穴埋めの方法を把握しておく必要があると思います。

 そのうえで、自分の得意を見つけて、得意が同じ人たちとくっついて、仕事をすれば1+1が爆発する。そのブレイクスルーを一度経験してみるべきですね。あと、僕は飽きっぽいと表現しましたが、裏を返せば、新しい物が好きなんでしょうね。今、興味津津なのは、アパレルのリサイクルビジネスです。ある洋服の回収業者と組んで、新しいリサイクルマーケットをつくろうと画策しています。回収した洋服を工場で仕分けして、国内で売れるものは再販、もしくはリメイクして再販する。国内で売れないものは、たとえば海外の被災地に寄付、ほかにも、雑巾や断熱材としてリユースする。などなど、ファッション業界の新リサイクルシステムを仕組み化し、ビジネスとしての付加価値を高めて売り込んでいきたい。お台場とかに、世界中から注目を集めるような、この仕分け工場をつくってみたいです。

 21世紀が始まった後もふわふわと残っていた日本の価値観が、2008年を境にリセットされた気がしています。ビジネスチャンスを考えると、やはり「RE」がつくものはありですね。リノベーション、リユース、リブランディングなどなど、そのほかにもいろいろ考えられる。ただ、それをどうやってビジネスにつなげていくか。「RE」を、オシャレにカッコよく提案していくのか、それとも一歩下がって質素に見せていくのか。その入り方がこれからはとても大事になるはずです。日本に国力がないと言われていますが、僕はブランドとしての「Made in Japan」にはかなりの自信を持っています。特にアジア圏において、その力はまだまだ絶大です。アジアの中の日本のポジション。そして「RE」ビジネス。そのあたりを探ってみると面白い答えに出合えるかもしれません。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.プロデュースを手がけるに当たって、さまざまなコンセプトを立てられていると思いますが、どんなものが発想の源になっているのですか? (千葉県 会社員)

A.
偏見を持たずに業界、人種、年齢など問わず色々な人に会って話します。
また、好奇心旺盛なので、国内外問わず気になるところに行ってみる。
雑誌の立ち読みは欠かさない。自分の周りの専門家の人から知識を得るなどです。

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