第71回 株式会社ノンストレス 坂野尚子

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第71回
株式会社ノンストレス 代表取締役社長
坂野尚子 Naoko Banno

1957年、横浜育ち。国際基督教大学教育学科心理学卒業後、フジテレビに入社。5年間、国内でアナウンサー、2年間、ニューヨーク特派員を務めた後、同 社を退職。NY勤務時代に自らビジネスを立ち上げることを決意し、コロンビア大学のビジネス・スクールに留学。MBA取得後、ビジネス・スクールで知り 合った男性と結婚。帰国後は、外資系コンサルティング会社に入社し、シニア・コンサルタント、ディレクターとして勤務する。1994年1月、キャリアカウ ンセラー、エグゼクティブ・サーチを事業とする人材戦略コンサルティング会社・キャリア戦略研究所を設立し、起業。ニューヨークの女性たちが手軽にネイル サロンを利用する姿を見て、日本にも適正価格のネイルサービスの必要性があると思い立ち、2年後の1996年1月にザ・クイックを設立。第二の起業を果た す。現在、ザ・クイックは株式会社ノンストレスに社名変更。「ネイルクイック」「ネイルパフェ」「クイックシェイプ」などの店舗を全国で展開している。 16歳の女の子を持つ母でもある。

ライフスタイル

好きな食べ物

おいしいもの。
好き嫌いはありませんが、あえて言えば、マズイものが嫌いかな。好きなことをして、楽しく生きていくことが信条ですから、一食一食の食事にもこだわって大切にしています。だからといって高価なものを求めるのかというとそうではなく、おいしければOKなんです。お酒は太るから日本酒とビール以外。ワインや焼酎をよく飲みますよ。

休日

娘と一緒に。
16歳になった娘となるべく一緒にいたいので、土日は仕事があっても、できるだけ家で仕事をするようにしています。彼女、反抗期なんですけどね(笑)。でも、一緒に渋谷の109にショッピングに出かけたり、当社のサロンの意見を聞いたり、いろんな情報をくれるのでありがたいんです。ちなみに娘に事業を継承するつもりはいっさいありません。

行ってみたい場所

ブータンとかペルーとか。
私は旅行が大好きで、これまで50カ国以上は訪れています。ちなみに30歳の誕生日は一人旅をしていたイスラエルで迎えたんですが、食事がかなりおいしくなかった。悲しい思い出ですね(笑)。これから行ってみたいのは、ブータンとかペルーとか。あ、アマゾンにもいいですね。辺境の旅もへっちゃらですし、大好きなんです。

最近、感動したこと

先日の店長会議です。
お客さまから、「ありがとう」のメールをいただいた時とか、感動することはたくさんあります。先日、約50人の店長に集まってもらう月例店長会議を開いた時のことです。そこで彼女たちを目の前にした瞬間、自分が思いついたこのビジネスを始めていなかったら、みんなと出会うこともなかったんだなって。不思議な感動を覚えました。

ネイル、ダイエットで日本人のストレスを解消したい!
欲張りだから、育児も起業もやり遂げたかったんです

 “女性が憧れる職業を答えなさい”。この質問の答えとして、多くの人が「女子アナウンサー」を挙げるのではないだろうか。そんな花形職業、フジテレビの女子アナのポジションを自ら捨て、起業家としての転身を図ったのが、株式会社ノンストレスの経営者・坂野尚子さんである。特派員として2年暮らしたューヨー クで、人生選択の自由さを実感した坂野さんは、まずはMBAの取得を決意し、惜しまれながらフジテレビを退職。「欲張りだから、育児も起業もやり遂げたかったんです」と笑う坂野さん。その言葉どおり、MBA取得し、結婚、出産を経た後、人材ビジネスで最初の起業。そして、自らの感動体験を盛り込んだ、ストレス・マネジメント・ビジネスで第二の起業。確かに、人生をどこまでも満喫するために疾走を続ける、ある意味とても欲張りな女性といえよう。今回は、そんな坂野さんに、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<坂野尚子をつくったルーツ.1>
絵に描いたような優等生だった女の子。中高の女子校時代は放送部に所属する

 私が産声を上げたのは、広尾の日赤病院ですが、育ちは横浜の白楽です。大学時代に1年と3カ月一人暮らしをした期間以外は、25歳までずっと白楽住まいでした。私が生まれた頃の日本は、まさに高度成長期真っ只中。父は当時では珍しく、ヘッドハントされながら転職を重ね、住友造船から始まって、森永製菓・乳業、西武、ダイエーと、基本的にはフードビジネス業界で働く企業戦士でしたね。ダイエーの常務を最後に50歳で飲食ビジネスのコンサルタントとして独立して事務所を開設し、今も元気にやっています。もともと起業家的なマネジメント志向を持っていたのだと思います。そして母は、私と2歳下の妹を合わせた4人の家庭を守る専業主婦でした。母にはとても厳しく育てられました。

 厳しい母に育てられた小学生時代の私は、もう絵に描いたような優等生(笑)。勉強も、着る物も、髪型でさえも、非常にうるさくしつけられたんです。ホント、教育ママですよ。何でも一番になるのが当たり前。それを真に受けて頑張ったので、テストの成績はほとんどトップクラスでした。でも、今振り返って当時の自分のことを考えると、面白みのない子どもだったと思いますよ。井の中の蛙だったんですね。受験した第一志望の私立中学には蹴られてしまい、合格したのは国立大学の付属中学と東洋英和女学院の中等部。

 結局、おしゃれな女の子たちと一緒に、セーラー服を着て六本木の校舎で学ぶという、東洋英和に進学することに決めました。白楽から六本木までの通学はかなり大変でしたけど。ほら、私は背が低いでしょう。通学の満員電車では大人に囲まれて息もできないような状態でしたから。でもとても楽しい毎日で、中学時代はあまり勉強をした記憶がなく、自由を満喫することができました。ちなみに中高では5年間、放送部に在籍しています。なぜ放送部なのか? それは小学生の時、好きだった男の子が放送委員だったから(笑)。きっかけはそんなたわいもないものでしたが、この放送部の活動で、たくさんの先輩後輩、友人ができました。

<坂野尚子をつくったルーツ.2>
中途半端な人生を送っている自分を、ハタチを転機に変えるべく行動を起こす

 両親からは、「大学はアメリカに行くといい」と提案されていたのですが、当時の私にそんな気はなく。国内の大学に進学して、弁護士になるか、臨床心 理士になりたいと思っていたんです。一番行きたかったのは国立の一橋大学。私立なら、慶應大学か国際基督教大学(ICU)。それで大学受験を迎えるのですが、残念ながら一橋大学は不合格。合格した慶應とICUですが、私の中ではほぼICUに傾いてたんです。なぜなら白楽の自宅から往復で4時間も通学にかかるため、一人暮らしできるかもしれないでしょう。一方の慶應は教養課程の日吉キャンパスがすごく近い。そもそも一橋大学に行きたかったのも、できるだけ親元から離れて生活してみたいという理由があったんですね(笑)。

 両親とも慶應大学卒でしたから、いろいろ相談もしました。でも、私、当たると有名な「新宿の母」の栗原すみ子さんに占ってもらったんです。そしたら「あなたは将来、海外で生活することもあるようだから、ICUがいいと思う」と。それが決定打となった、わけでもないのですが、結局私はICUで心理学を学ぶ道を選んだんですね。女子高だった中高時代とは打って変わって、共学のICUに入学したとたん周囲の雰囲気がガラリと変わりました。そんなこともあって、2年間は何の迷いもなく、とても楽しいキャンパスライフを送ることができました。

 でも、20歳になってふと考えたんです。第一志望の大学に合格できなかった自分。ICUの2年目にUCLAやバークレーへの留学制度があったのですが、選ばれなかった自分。自分自身、器用なほうだと思っていましたし、ある程度のことはできているけど、いろんな意味で中途半端じゃないのかな。そもそも私は人生で何をやりたいのかなって。そうやって悩むうちに、放送に携わるような仕事、人にインタビューするような仕事、あるいはDJ、そんな仕事をしている自分が頭に浮かんできたんです。それで、この分野を本気で極めてみようと思い、まずはアナウンサー養成スクールに通いはじめることに。

<憧れのアナウンサーに!>
超・超就職難の氷河期の中、アイデアと行動力で内定を獲得!

  このスクールで縁をいただいて、ラジオ番組の報道リポーター募集のオーディションを受けたら、なんと合格。これまでレストランのアルバイト経験はありましたが、仕事に真剣に打ち込んだことはこの時が初めてでした。ソニーのデンスケという録音機材を担いで、ひとりで取材に行くわけです。例えば、当時大流行していたインベーダーゲームのリポート。例えば、高速道路近くの空き地がトラック運転手の用足し場になっているという情報を元に、現地に出向いてリポート。仕事というものがどれほど大変なものなのか痛感しました。

 こんなこともありました。本番直前、番組で相方となるアナウンサーの冗談に付き合いながら談笑していたら、ディレクターにものすごい勢いで怒られたんです。それも私だけ。その瞬間は何が何だかわからないのと、悔しいのとで、仕事からの帰り道を泣きながら歩いたことを覚えています。親にさえ、そんなに怒られたことありませんでしたから。ただ後になって考えてみると、バイトの立場とはいえ、仕事の対価としてお金をもらう以上プロ。本番直前に遊んでいるとは何事だということです。プロとしての仕事がどれほど厳しいかということを教えてくれたんですよね。約1年半、リポーターの仕事を続けさせてもらいましたが、この時の経験が、「将来は放送業界で働こう」と本気で考えるきっかけになったんですね。

 ただ、当時の就職環境は、今なんて目じゃないほどの超・超氷河期です。4大卒の女性はさらに厳しくて、優秀な私の友人も短大卒の募集の入社試験を受けていたほど。そんな時代ですから、希望どおりフジテレビのアナウンサー試験に受かった時は、自分自身、正直びっくりしました(笑)。面接でも冗談ばかり言っていた記憶がありますし。でも、入社試験を受ける会社の情報収集、対策、戦略、アクションプランをA4のノートにびっしり書き込んで、かなり精密につくっていましたよ。そのおかげで、フジテレビのほかに、人気の旅行会社、都銀の内定も獲得できましたからね。ちなみに私の同期は、山村美智子さん(現・山村美智:役者)と、なぜか東大の3年生という。そんな変則的な採用だったんです。私たち3人は「きっと“三の線”が採用基準だったんだから、元気よく行こう」と。局の廊下でスタッフとすれ違う時も、「お早うございま~す!!」とか、明るすぎる自分を無理矢理つくってやっていました。かなり疲れましたけど(笑)。

<ニューヨーク赴任で人生観が変わる>
自分が自分のボスになる!起業家としての人生を思い描く

 当時、アナウンサーはかなり暇でしたから、私は、「採用したんだから責任もって番組に出してください」と思いましたね。どうにか1年目の後半からは、リポーターとしていろんな仕事を任されるように。それからの約4年間は、ほぼ休みなく北は北海道、南は沖縄と全国を飛び回り、忙しくも楽しい毎日を送ることができました。ひとつの転機として、これは自著にも書いていますが、ほぼ確定していた「なるほど・ザ・ワールド」のレギュラー出演が立ち消えになったことが挙げられます。この時は本当に悔しかった……。もしもこの話が生きていたらなら、私の人生は今とは違ったものになっていたかもしれません。

 話を戻します。私は1983年にプライベートでニューヨークを旅しています。すっかりNYの雰囲気が気に入って、いつかここで生活してみたいという思いが強くなっていました。そして1985年3月、希望していたNY特派員を任じられ、憧れのNYで仕事をすることになるんです。赴任して帰ってきたら、「このままアナウンサーを続ける」「フジテレビでディレクターになる」「フリーアナウンサーになる」「大学院でジャーナリズムを学ぶ」という4つの選択肢をもっていました。ところが2年間のNY生活で、マスコミ業界以外の職業に就いている魅力的な人々とたくさん知り合いになり、親しい友人になるにつれ、「もっといろんな人生の可能性を考えていいんだ」って発見が私の中に生まれたんですね。また、「ディレクターに使われる仕事は性に合っていないな」と感じ始めた自分もいました。

 私の人生は一度きり。マスコミ以外の仕事にチャレンジしてもいいんだ。自らがディレクションをする社長という生き方もあるんだ。起業するために、NYの大学院でMBAを取得しよう、と。そう決めて、NYから日本の上司に退職する旨の連絡を入れました。もちろん遺留されましたが、私の決意は揺るぎません。当時のフジテレビは国内では視聴率が断トツ・ナンバーワンのポジションでしたから、もしも私が日本で仕事をしていたら辞められなかったかも。NYで活動していたからこそ、決断できたのだと思います。1987年の3月に帰国してからは、約8カ月勉強漬けの毎日。TOEFLの点を1点でも上げる、GMATの点を10点上げるという、いわゆる地道な浪人生活です。それまであった会社の保障がいっさいなくなったわけですから、この8カ月はかなり厳しかったですよ。今の私なら確実に、「合格してから会社を辞めなさい」とアドバイスするでしょうね(笑)。

企業ビジョン、継続する意志、具体的な戦略。
この3つが成功するための必要条件です

<MBA取得、即起業とはならず>
MBAと一緒に“MRS”も取得。帰国後は外資系企業にいったん入社

 1987年の12月25日、コロンビア大学のビジネス・スクールの入学許可が届き、30日にはNYに向けて旅立っていました。その年の夏学期をとって翌年の5月に卒業したので、1年5カ月でMBAを取得したのですが、私にとってビジネス・スクールでの日々は三重苦の連続。まず学生同士の英語のディベートが最初はなかなか聞き取れない。もともと経済や経営学の知識がいっさいない。フジテレビでの7年間、机に座って仕事したことがほとんどない。授業を終えた夜、分厚い英語の参考書をめくりながら知らない間に眠りに落ちていました(笑)。ただ、MBAだけでなく“MRS(ミセス)”も取得することができました。ビジネス・スクール時代に知り合った今の夫と結婚したんです。5月17日が卒業式で、その翌日の18日にNYで結婚式を挙げました。

 通常なら、MBA取得、そのまま起業準備となるのでしょうが、私の場合、夫が日本企業からの派遣だったこともありいったん帰国。いろいろ考えた結果、まずは外資系の経営コンサルティング会社に入社します。新しく経営戦略コンサルティング部門を立ち上げるタイミングという話だったので面白そうだと。もうひとつの理由としては、起業するための、これぞというネタがまだなかったということもあります。失敗も怖かったですし。それから3年間、経営コンサルタントとして働いたのですが、かなり悶々としていましたね。ビジネスをしようとフジテレビを辞めてMBAを取得したのに、自分はいつまで会社に勤めているのだろうって。給料もかなり良かったので、このポジションを捨ててまで起業するべきかなって。そんな中で初めての子どもを授かったんです。

 長女が成長していくにつれ、いろんなイベントなどがありますから、時間を自由に使いたくなるでしょう。それまでクライアント企業には、21世紀の経営戦略を提案するコンサルティングをしていました。「これを個人のキャリア形成のために落とし込んで、提案していくと面白いのでは」と考えるように。そこでヘッドハントをやっている経営コンサルティング会社の別部門のディレクターとして産休後に復帰。人材流動化ビジネスのマーケットを把握し、ノウハウを吸収させてもらって、子どもが1歳の誕生日を迎えた1994年の1月にキャリア戦略研究所を設立。半年後には街の雰囲気が大好きな表参道に小さなオフィスを構え、エグゼクティブ・サーチ事業をスタートさせたのです。これが私の最初の起業となりました。

<第二の起業>
「ネイルクイック」と「クイックシェイプ」、まず目指すのは全国100店舗の展開

 第二の起業は、1996年1月に設立したネイルサービスを提供するザ・クイックという会社。現在は、ノンストレスに社名変更しています。設立の1年ほど前にNYに赴いた私は、現地でネイルサロンが急増していることを目の当たりにしたのです。それ以前に私自身も国内でネイルサービスを受けていたのですが、単なるおしゃれではなく、とても質の高い癒し効果が得られることも知っていました。ただ、その当時、東京のネイルサロンは1回5000~6000円と価格も敷居も高かった。そこで、半年ほどかけてじっくりとフィールドリサーチを行い、事業プランを何度もつくり直し、1回2800円から受けられるネイルサービス事業を立ち上げたというわけです。

 価格破壊ということも話題となり、1号店となった表参道のサロン「ネイルクイック」には、看板を見たお客さまがどんどん来店されました。実は、経営が不安定な人材紹介ビジネス、コンサルティングビジネス以外に、安定的に日銭が稼げる消費者向けビジネスを模索していました。だから自分のアイデアがお客さまに受け入れられたことが、涙が出るくらい嬉しかったですね。その後は、1年に1店舗のペースで、資金が貯まったら次の店を出店するというゆっくりした店舗展開でしたが、確実に黒字を積み重ねるという戦略を数年間継続。もちろん今では金融機関からの融資を受け、またフランチャイズという仕組みも取り入れ、48店舗の「ネイルクイック」を全国で展開しています。

 2004年頃に会社のそばのスポーツクラブで、有酸素・無酸素運動を組み合わせたフィットネスを始めて、私は約8キロのダイエットに成功したんです。アメリカで、小さなスペースにトレーニングマシンを設置したフィットネスがはやっていることを知り、視察に行ったのですが、いまひとつ面白みにかけると感じました。そこで当社オリジナルの“ジム・アスレティック”というプログラムを開発し、2005年から25~30坪のスペースで運営可能な「クイックシェイプ」というサービスをスタート。こちらは地域密着型の経営手法を取り入れ、現在ではフランチャイズを含む17店舗を展開しています。ちなみに「ネイルクイック」は10代~60代までの女性が中心、「クイックシェイプ」は30代~50代の男女を中心として、多くのお客さまにご利用いただいています。

<未来へ~ノンストレスが目指すもの>
みんなが入社したい、働けて良かったと思える会社として育てていきたい

 実は、2005年度から、キャリア戦略研究所の代表をおり、キャリア戦略研究所の方は、信頼できる、しかるべき人に任せ、私は今、ノンストレスの経営と上場実現に向けて集中しています。経営ビジョンとして、「ささやかな幸せ感を感じていただけるようなワクワクとしたサービスを提供することにより、お客さまが日常のストレスを解消し、生き甲斐を感じるような環境のお手伝いを行うこと」。経営方針としては、「健康と美容のドメインの中で、カジュアル、フレンドリー、リーズナブル、クイックの4つのコンセプトを掲げ、気軽に、楽しく、お手ごろ価格で、忙しい現代人に必要なサービスのみに集中した事業を展開していくこと」。このふたつのいわゆる当社ミッションをスタッフ全員で遵守しながら、これからも安定成長を継続していきたいですね。

 3年前くらいから、「徐々に人も育ち、少しずつ強い会社になってきたかな」と、やっと実感できるようになりました。でも、経営者には常にさまざまな悩みが付きまといます。資金調達も大事ですが、やはり一番は人に関する悩みでしょうか。どうすれば自分と同じか、それ以上の人材を育てられるかどうか。いわば次代の経営者候補を育てること。それこそが経営者にとって一番大切な仕事だと思っています。会社経営に終わりはありませんから、常に前を向いて走りながら考え続ける毎日です。

 今、当社では正社員217名、アルバイトを含めると270名のスタッフが日夜頑張って働いてくれています。どうすれば「ノンストレスに入社したい」と多くの人から思ってもらえるだろうか。どうしたらすべてのスタッフに「ここで働けて良かった」と思ってもらえるだろうか。これからもこの命題をしっかりクリアしていかなければと考えているんです。そしてノンストレスが全国で展開している拠点を、日本人にとってのコンビニエンスな健康・美容ステーションとして、さらに機能拡充していきたいと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
強い意志、明確なビジョン、最適な戦略があれば、起業の世界に男女の差なんてないんです

 女性起業家のひとりとして、起業を目指す女性へのメッセージをさせてもらいますね。女性起業家とか、女社長という言葉の響きに憧れている人も多いと思いますが、そんなに甘いものじゃないですよ。本当に苦労の連続なんですから。何かしらの特技を生かしてフリーランス的に事務所を構える独立なら別ですが、人を雇って組織的な成長を目指す起業なら、不退転の決意ができない限り止めておいたほうがいいでしょう。起業とは、自社のスタッフ、取引先など、本当にさまざまな人々の人生を自己責任で背負うということ。それがどれだけ大変なことか。その責任の重さを抱える覚悟ができるまでは、起業しないでほしいということです。

 ただし、成し遂げたいはっきりした夢があって、本気でそれを実現したいなら、ぜひ起業してほしいと思っています。ストレートに言えば、やろうと思えば誰だって起業できるんです。決断して一歩を踏み出した後、一番大切なのは継続して成長していくこと。そのためには、強い意志、明確なビジョン、最適な戦略という3つの要素が必要不可欠です。ここを抜かりなく準備してからスタートしてください。今、世界的に大変な不景気と言われていますが、へこんだ時こそチャンスだと思いますよ。私の好きな言葉は“為せば成る”。明確な目標があるなら、あとはひとつずつゆっくり階段を登っていけばいい。人間にできないことなんてひとつもないんですから。

 女性ということを理由に起業の難しさを感じている人もいるでしょう。でも、それは自分の足りなさを棚に上げて、自分の首をしめているだけだと思います。男性だって、自分や家族の生活保障など、大きなリスクを背負って起業に挑戦するわけですからね。そもそも私は起業してから一度だって女性ということでマイナスを感じたことがないんです。もちろん、資金調達や物件獲得の問題もすべて。先ほども言いましたが、成し遂げたいビジネスにかける強い意志、明確なビジョン、最適な戦略をしっかりそろえることができれば、起業の世界に男女の差なんてありませんよ。小さくまとまらず、大きな会社をつくる気概とアイデアを持った女性起業家の登場を待っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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