第34回 株式会社バルニバービ 佐藤裕久

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第34回
株式会社バルニバービ 代表取締役
佐藤裕久 Hirohisa Sato

1961年、京都府生まれ。実家は西陣にある和菓子屋。小学校から大学入学まで、病気の日以外は、1日も欠かさず店の手伝いをする。その間、父からは勉強 と読書以外、部活動さえも許されなかった。一浪後に、神戸市立外語大学に入学。学業はそっちのけで、ラグビーと学生企業の活動にのめり込む。4年在籍し、 大学を中退。先輩が経営するアパレル会社に入社し、出店計画事業などに従事する。自らのアイデアで、不採算店舗の売り上げを爆発的に成長させるなど活躍。 社長の出資を得、24歳でアパレル会社の社長に就任するも、債務超過により経営が破綻。27歳で、その会社を手放した。1991年、有限会社バルニバービ 総合研究所を設立し、代表取締役に就任。後に、株式会社バルニバービに組織変更。中古の倉庫や廃材を用いた手づくり感覚のカフェ、レストランをオープン し、大阪・南船場を繁華街に変えた仕掛け人として注目を浴びる。現在、東京、大阪、神戸、京都、横浜などで20数店舗の飲食店を展開。商業施設のプロ デュース、起業・経営についての講演会なども行うなど、その活動範囲は幅広い。著書に、『一杯のカフェの力を信じますか?』(河出書房新社)、『日本一カ フェで街を変える男』(グラフ社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

全くグルメじゃないんです。
ラーメンとか牛丼(笑)。周りの人が最近の牛丼は味が変わったって言いますが、僕は全然わかりません。僕ね、全くグルメじゃないんですよ。まあ、和食は好 きですかね。うちのレストランの味も、総料理長と総料理主幹と開発担当常務の3人に任せています。これで鉄壁ですよね。僕は試食にも参加しませんから。飲 食業という名前の仕事の中で、毎日現場で戦っているスタッフたちを幸せにすること。僕はここだけに、集中するようにしているんです。

趣味

仕事が趣味であるべきだと思っています。 
仕事ですかね。そう言うとかっこよく聞こえるかもしれませんが、趣味を仕事にしたんだからしようがない。仲間が幸せな顔をしているときって、必ずお客さま も幸せな顔してるんですよ。そんなときに、「ああ、ええ感じやなあ」と、僕も幸せな気持ちになれます。あとはやっぱりシガーですかね、いろんなシガーをコ レクションするのが面白い。

シガー

月に100本は吸ってるんじゃないでしょうか。
ドミニカの「ダビドフ」が好きですね。あと、キューバの「モンテクリスト」かな。シガーは1日1本くらいにしておかなければいけないんですが、僕の場合月に100本くらい吸ってるでしょうかね。ちなみにタバコはやりません。

行ってみたい場所

相模原に行かなければと思ってるんです。
小学校の恩師に会いに行きたいです。もう80歳を超えた女の先生なのですが、相模原の病院に入院されているそう。僕がこれまでに書いた著書2冊とも読んで 感想もくれたりして、いつも応援してくれた方。行かなきゃ、行かなきゃと思いつつ、なかなかお伺いできないので。だから、今一番行ってみたい場所は、相模 原のその病院ですね。

スタッフが幸せであれば、お客さまも必ず幸せ。
その状態を継続できれば、お店は必ず流行ります!

 バルニバービとは、ジョナサン・スウィフトの小説『ガリヴァー旅行記』に登場する学士院の名前。ここでは、胡瓜から太陽光線を取り出す研究、人糞を食糧に 戻す研究、氷に熱を加えて火薬を作る研究、家を屋根から建てる施工法の研究、蜘蛛の巣で絹糸を作る研究などなど、常識を否定する不可解かつ不条理な研究と 実験がひたすら繰り返されるが、成果は皆無。自らの会社に、そんな名前を付け、飲食業界というフィールドで、常に新しい挑戦、実験を続けているのが、株式 会社バルニバービ代表取締役の佐藤裕久氏だ。最初の実験は、1995年に大阪の南船場で行われた。人通りのほとんどない街の一角にたたずむ古いオフィスビ ルを改装し、パリのカフェに範を取ったブラッスリー「アマーク・ド・パラディ」をオープン。立地の悪さをものともせず、1年を待たずに大繁盛店に仕立てあ げ、「カフェブームの仕掛け人」「人を呼び込む街をつくる男」などの異名がつけられるように。その後も、果敢な実験は続けられ、現在は関東、関西で20数 店舗の飲食店を展開中。今回は、そんな佐藤裕久氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただ いた。

<佐藤裕久をつくったルーツ.1>
病気の日以外は、家業の店を手伝い続けた少年時代

 僕が生まれたのは京都の西陣です。父と母は実家で「京菓子舗佐藤」という、駄菓子にお菓子、牛乳やパンまで売っている、小さな商店を営んでいまし た。ちなみに母方の祖祖父は、明治時代の初期に「オアシス」という洋食レストランを開いた、今でいうアントレプレナーでしてね。その後も手広く商売を広げ ていて、自宅に残っている資料を見ると、当時は結構な有名人だったようです。京都大学の私設応援団長もやっていまして、京大の本とかによく出ていますね。 でも祖父の代になって、レストランはちょっとしんどいからってお菓子屋さんに転業したんですよ。そのお菓子屋は、今でも父と母が続けていますから、もう 73、4年は続いているんじゃないでしょうか。

 小さな頃の自分ですか? 今と同じ、気の強さと弱さ を併せ持った子でしたね。小学校の頃、日本酒のふたを集めることがブームになった。白鹿のふた何個で、白鷹のふた1個と交換できるとか。そんな遊び。で も、僕はみんなが日本酒のふたを集めるなら、ジュースの王冠を集めようと考える、いわゆる、あまのじゃく。人と同じことをやることが嫌いなんだろうね。こ れは今も変わらないなあ。でも、王冠を集めたのはいいんだけど、全部、父に捨てられてしまうんです。勉強の邪魔になるという理由で。父は、勉強と読書と店 の手伝い以外は、部活動さえ許してくれなかった。

 そんな家庭環境ですから、小学生の頃から19歳で大学に行くまで、僕は家業である「京菓子舗佐藤」の手伝いを欠かした日がなかったですよ。風邪を 引いてない限りは。学校が終わったらすぐに帰宅して店に立ってね。いわゆる“看板坊や”(笑)。量り売りのお菓子も売ってたんだけど、お客さんから「何グ ラム分ちょうだい」って言われたら目検討でピッタリの量を出せるわけ。そしたら、お客さんも「ひろちゃん、すごいね~」って喜んでくれる。でも、僕はそこ で「じゃあ、ちょっとおまけしとくわ~」ってサービスする。すると、さらにお客さんが喜ぶ。だから近所のおばちゃんには、もてた(笑)。今思えば、当時の 経験は、間違いなく今の自分の商売に生かされているよね。

<佐藤裕久をつくったルーツ.2>
19歳、実家を離れ神戸の大学へ進学。ここから本当の自分の人生が始まる

 そんなですから、子どもの頃からインディペンデントの精神が自然と育まれていたんでしょう。僕は中学2年生の時には、これぐらいのレベルの暮らしな ら、自分ひとりでも絶対やっていけると本気で思ってたから。もう世帯主になったくらいの覚悟もしてた。本当はできもしないのに、もう俺がやるしかないん じゃ~と(笑)。まあ、早くこの家から出て、自分で稼ぎたいと考えてばかりいたよね。でも、グレたりとかはしなかった。いい息子ではあったと思う。父親と 母親って、そもそも一対のものでしょう。だったら仲が良いほうが家族にとってはいいに決まってる。僕はいつもふたりの間のバランサーだったんだろう。今、 会社経営をやってても、外部の方々と社員、また、社員同士の間に立って、バランサーの役目をすることが多いよ。

  そして19歳、一浪して進学したのが神戸市立外国語大学。英語がわりとよくできたし。このときって、もう解き放たれた瞬間(笑)。メンタル面も態度も性格 も、それまでと全く変わってないんだけど、ここから本当の自分の人生が始まるんだと、ワクワクしてた。でもね、大学自体は面白くなくはないんだけど、授業 が全然面白くない。だから、ラグビー部に入部したのと、あとは思いっきり仕事して稼ごうと(笑)。学生企業を立ち上げて、イベントとか、パーティとか、会 社のプロモーションとか、お金になりそうなことは何でもやってた。法人登記こそしなかったけど、代表の名刺や印鑑もつくって。一番大きなイベントだと、 ディスコ5、6軒借り切ってやったり。今思えば、よくそんな大掛かりな興行を張ってたよね、学生ごときが。でも一番の思い出は、1年のときに大学の講堂を 借りて企画した「七夕祭り」。このイベントが神戸外大名物の春の文化祭になって、その後も20年くらい続いたらしい。

<大学を中退し、アパレル会社へ入社>
不採算店を爆発的に成長させアパレル会社の社長に就任するが・・・・・・

  大学は、結局1年を2回、2年を2回やって4年で辞めました。それで、先輩が経営していたアパレル会社にもぐり込むんですよ。で、みんなが島流しと か呼んでいた、3坪の倉庫というかコンテナ店舗に配属された。そりゃあ最初はいじけますよ。この自分の逆境を。でもね、絶対にいじけない人って、イチロー さん、松井秀さん、松坂さんとか、神様にすごい能力を授けられたほんの一握りの天才だけで、僕ら凡人は違うわけだから。その逆境をバネに、なんとか秀才く らいまではいったろうかと(笑)。逆境って、自分でどう捉えるかが重要だと思うんです。本当にいけるかどうかはわからないけど、いつも僕は逆境を何とか好 転させてやろうとやってきた。いじけているだけでは、負けが続くだけだし、ただの時間の無駄だから。

  配属された当時は月商30万円の店舗(コンテナ)だったんだけど、僕は学生企業時代に知り合ったDCブランドのハウスマヌカンの女の子たちから、社内販売 で買ったけどもう着なくなった服を預かって、売れた値段の70%を払い戻すという契約で委託販売を始めたんです。それが予想以上のバカ当たり。8カ月後に は、なんと月商1000万円くらいにまでなって、営業利益も200万円くらい残った。ホントに火事場の馬鹿力ってある(笑)。左脳で考えれば、俺の筋力で は100キロのバーベルは上がらないって思うんだけど、右脳で考えれば上がっちゃうんだよね。このときの成功で、少し天狗になってたかな。もっとわかりや すく言えば、井の中の蛙だったよね、この頃の僕は。

 それで今度は、雇われの身ではなく、自分で会社をやってみたくなった。自宅で深夜にエッチな番組見ていても落ちつかないから一人暮らししたいっ て、青春時代に誰もが思ったでしょう(笑)。そんな感じのレベルだったんじゃないですか。それで、社長に出資してもらってアパレル会社の社長になりまし た。そのときの僕は、24歳でしたね。もともとやってたコンテンツもいい感じで推移してたし、勢いに乗って、パリのレディースファッションメーカーと独占 販売契約を結んだんですよ。それから日本全国で展示会やって、卸の予約をどんどん取り付けて、さあここからじゃ~というときになって、突然、パリのメー カーが脱税で倒産・・・。商品は、当然、届きません。呆然・・・。本当に想定外の出来事でしたね。結局、多額の負債を抱え込んでしまって、27歳でこの会 社を手放すことになりました。

<「アマーク・ド・パラディ」の開業>
最後の勝負と自らの起業を決意!南船場にブッラスリーをオープン

 それからの2年間は、個人で背負った債務の返済と自分の生活のために、イベントや企画など食うための仕事は何でもやった。本当に、何でも屋でしたよ (笑)。で、1991年、30歳の誕生日に「バルニバービ総合研究所」を設立して、ファッション関連の企画・マーケティングの仕事を始めて。その後、縁 あって友人から声をかけてもらい、1994年の12月17日、神戸の南京町に団子屋を共同経営で開業したんです。その名も「重治朗本舗」。祖祖父の名前を つけさせてもらったうえに、キャラクターまでつくってね。しかし、翌年1月17日に、阪神大震災が起こった。ちょうど1カ月で、この店もご破算。神様はこ れほど過酷なことを強いるのかと思ったよね。

 でも、これで腹がくくれたんでしょう。もう明日やるべきこともなくなっ た。人の商売に乗っかるのではなく、自分で創業するしか生きていく道はないんだと。そこで思い出したのが、パリに行くと必ず訪れていたカフェの風景だった んです。20年前の当時は、僕が考えていたカフェという概念は日本に存在しませんでした。スターバックスなんて当然ないし、あるとすれば喫茶店ですよ。場 所もそう、南船場なんて今は若者が集まる街になったけど、その頃はまだ何もなかった。でも、なぜか“ここはいい”と僕は感じてしまった。流行の場所だと か、いい物件だとか、人の興味を喚起するものが情報だとすれば、僕は情報という表面的なものではなくて、その裏側にあるものに興味があるわけで。正しいか 間違っているかはわからないけれど、自分が信じている想い、個人的なマターをかたちにすることに賭けてみようと思った。まあ、誰に聞いても「そんなん、あ かんて。やめとき!」って言われたけどね。そもそも僕は人の意見をあまり聞かないから(笑)。で、公的融資と、ある経営者からの出資で集めた1500万円 を元手に、大好きだったパリの“ブラッスリー”というカフェスタイルのお店「アマーク・ド・パラディ」を、南船場の材木店跡地にオープンさせたんです。 1995年12月のことでした。

 開業当初は、かなり厳しかったですね。60席のフロアに6人のホールスタッフがいて、ランチが3食しか出ない日もあった。シェフも開業から3カ月 で3人辞めましたが、4人目のシェフが現在の当社の総料理長です。4人目の彼が入店してから店がうまくいきだして、月商1500万円を超えるのに、1年は かかりませんでした。2人目に辞めていったベテランの料理人からは「この店の厨房では月500万円が限界です」って言われてたんだけど、その3倍をやった わけでしょう。すごくうれしかったですね。誰もが「あかん」ということでも、自分が本気になってやればいつか誰かが振り向いてくれる。でも、何もしなけれ ば誰も振り向いてくれない。そのためには自分が信じたものに、じっくり時間と愛情をかけて育んでいく努力をすることです。商売に限らず、恋愛でも何でも、 自分が何かを成し遂げたいときには、同じことが必要だと思うんですよ。

飲食業界という名の実験フィールドで、人を輝かせるための仕事に集中していきたい

<何のために僕らは仕事をしているか?>
お客さまには媚びず、侮らず、自分の幸せを一番に考えること

 3年前に東京タワーのふもとにオープンした、「ガープ・ピンティーノ」。今は何だか東京タワー自体がトレンディスポットみたいになっちゃってますけど、その頃、東京タワーがこんなに話題になるなんて思ってもみなかった。でも、人っ子ひとり歩いていないような寒い冬の夜、僕は東京タワーのふもとをひとりで歩いていて、「ああ、すごく綺麗やな~。ここで店やりたいなあ」って思ったんですよ。大家さんには何度も断られましたけど、何度も交渉してね。何が言いたいかというと、表面的なものに惑わされず、いつでも自分の心が本当に欲しているものに、正直に向き合うことが大切なんだってことです。

  よく、「お客さまのために」とか言う人がいるでしょう。僕に言わせれば、「ウソ言うなや」と。本当はお前、自分の生活のためにやっとんのやろうと。じゃあ、僕はお客さまのことをないがしろにしているのかというと、全くそうではなくて。そもそもお客さまとは、僕たちが提供したいサービスや、世の中に創出したいことに共感いただき、協力してくださってるサポーターだと思っています。そのためには、当然ですが自分たちがお客さまの目の前で最高のプレーをする必要がありますよね。だから、まずは自分を輝かせるために仕事しようよと。こっちのほうが絶対にお客さまのためになりますから。

 あと、「お客さまは神様です」も何か違うな。その昔、初めて来店された大阪のある社団法人のお客さまから、「我々は○○という団体だ。掛けで当然だろう」と、飲食費の掛け払いを強要されました。バルニバービは、常連さんやごひいき客は例外として、基本的に掛け払いは受け付けていません。スタッフと連絡を取り合いながら、カード払いでもいいからその日中に回収しようとしたのです。ところが、店のスタッフがレジで一部の現金を受け取って、領収書も切っていたんです。そこを突かれた。相手が不当拘束を理由に、警察を呼んでしまった。結局、その日の回収は断念。翌日全額回収することはできましたが、権力を振り回す卑怯な相手にいったん屈してしまったわけです・・・。このときは本当に悔しかったですよ。僕らのお客さまに対するスタンスは、「お客さまには媚びず、侮らず」。お支払いいただく料金の多寡、年齢、ステイタスの別も関係なく、すべてのお客さまに気持ちよく感じていただくこと。これこそが、僕たちの目指すべきサービスであると思っています。

<撤退と再出発>
この人がいるからこの店をつくる。飲食店はそうやってつくるべき

 最初の店「アマーク・ド・パラディ」が軌道に乗ってその後、「カフェ・ガープ」とバー「パゴド ノルド」をオープン。名前も業態も立地も統一感なし。接客マニュアルもなく、スタッフの個性に重きを置いたこの2店は、アマーク同様、繁盛店となりました。で、2000年7月から翌年8月までの1年間で、なんと13軒もの店をオープンさせたんです。振り返って思えば、経営的には100%失敗だったんでしょう。店も僕自身もスタッフもすべてが疲弊してしまって・・・。その後約3年かけて、1店ずつ閉店させていきました。

 しかし、結果論ではあるけれどこの経験は、その後の僕らの事業にとってプラスになってる。もしも6軒しか出店してなかったら、持ちこたえてその後もどんどん出店を重ねて最終的にダメになってたんじゃないかと思うから。まあ、ぎりぎりハンドリングを引き戻せるタイミングで失敗したことに気づけたことは今にして思えばラッキーだったよね。失敗の理由はね、簡単に言えば、人が追いつかなくなったってことです。飲食業は人が必要な仕事であり、人を使う仕事ってよく言われますが、そうじゃなくて、こんな人がいるからこんな店をつくろうかという話になるべきなんですよ。そのことを気づかせてくれた、いいきっかけになったと思ってます。

 で、さあ再出発するかとなったのは、2004年2月の節分。節分は節を分けるでしょう。2001年から僕は厄だったから、やっと明けたと(笑)。その後の最初の出店は、同志社大学の「アマーク・ド・パラディ寒梅館」。ここはとてもいい店になったよね。その後の出店が、鹿児島料理の「かのや篠原」。ここはめちゃくちゃ繁盛している。カフェっていうのは客単価が低いから、悪い言い方をすれば、薄く広く全体に目を配らなければいけない。うちのカフェの店長をしていた篠原というスタッフがいるんですが、彼はちょっと視野が狭くてね。でも、特定のお客さまへの受けはすごくいいわけ。僕は、篠原はカフェオーナーとしては成功しないと思ったんですよ。それで、ちょうど鹿児島料理をやりたいと思っていたので、篠原にやってみろと。また、より深くお客さまに接したいなら、オーナーのほうがいいだろうと。彼にも出資させて、オーナーとして店を運営してもらってます。これも順番として、人があって店をつくったからうまくいってるんだろうね。

<未来へ~バルニバービが目指すもの>
店の主人公は僕ではなくスタッフ。その感覚がどんどん強まっていく

 2006年9月、東京の丸の内に「カフェ・ガープ」をオープンさせました。この店は、ある意味僕にとっての終止符なのかもしれない。日本の街というロケーションの中ではもう最高の立地だと思ってますから。いい店になりましたし。ほら、プロスポーツのプレイヤーが、全盛期で引退するって話あるでしょう。あれと同じ気持ちなのかも。でも、そうしたらまた次の新しいことを考えるようになるんですよ。今度はビーチを目の前にしたクリフというロケーションとかね。

 現在は21店舗を展開していて、スタッフ数も300名を超えています。なかなか目が行き届かなくなりましたから、2カ月に1回ずつくらい、「佐藤塾」という社内講習会を開いて意思の疎通を図る機会をつくっています。今も、店の主人公は僕ではなくスタッフなのですが、今後のバルニバービは、それがもっともっと際立っていくんでしょうね。会社として目指している方向性は、とても明確ですよ。飲食業って、いろんなキャラクターの人間それぞれが、主人公として活躍できるフィールドがある。人生の主人公として自分を輝かせながら、お客さまのためではなく、 自分の幸せのために毎日を頑張っていく。そして、そうすることが必ずお客さまの幸せにつながっている。そういう意識をもつスタッフがどんどん増えてきてい ることを感じています。まだもう少し頑張らないといけないんだけど、僕の役割も大分少なくなってきたのかなと。

 ちなみに昨日、シンガポールから帰ってきたんですよ。あのあたりにいくつか案件があって、海外での展開もちょっと計画しています。実は僕、計画性のない人間でしてね。例えば東京に店を出したら、生活の3分の2が東京になって、ここでもっといろいろやってみようと考えてしまうんです。経営者としてはあまりよくないんですが(笑)。だからね、もしもシンガポールの前にベトナムとかに立ち寄っていたとしたら、ベトナムに出店したいと考えていたかもしれない(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
与えられることに慣れてはいけない。自ら奪いに行くくらいの気概を持って!

 起業とはある意味、新しい市場を自分でつくって、そのシェアを奪い合う競争をするようなものでしょう。それなのに、ドリームゲートなどが行っているセミナーで何かの知識を与えてもらおうと思っているようではね。だから僕はセミナーを聞きに来た人たちにお話をするときに、まず、「やめたほうがいい」と言うんです。もちろんこれは、「お前らごときにできるか」という意味ではまったくなく、飲食業は本当に大変だし、見た目ほど儲からない商売だということを伝えたいがために言っていること。与えられていることに慣れている人は、きっと大変なときを乗り越えることができないんじゃないかと思うんです。知識って、セミナーに行かなくても本やネットからでも得られるでしょう。その知識を超えられるものは、実験か体験しかないと思うんですよ。だったらここで話を聞いているより、1円でも安い仕入先を歩いて探していたほうがいいんじゃないの、と。

 まあ、本音を言 いすぎるとこうなるのですが、それでも1000人に1人くらいは成功する人が出てくる。でも、これはセミナーなどを聞きに行かない人も同じ比率だと思う。だから、その人にとって僕の話が起業のきっかけになることは嬉しいですよ。でも、結局僕は競合をつくることになるわけですよね、同じ飲食業界の。じゃあ、応援しないし、育てないのかというと、めちゃくちゃ応援しますよ。飲食業界の市場規模は、28兆円といわれています。そんなもの、1社で数%のシェアを取るのも大変なんだから、競争しながら、一緒に市場規模自体を拡大していこうよと。

 競争相手がいないと、何も成長していかないですよ。その証拠に社会主義は崩壊していったでしょう。日本は行政も含めて、なんとなくその傾向にあるような気がしている。だから、ちょっと海外に目が向いてしまうというのもあるんですよ。まあ、「あんな佐藤みたいなやつでもこの程度できるのなら、俺もやったらあ!」そんな感じて考えてもらえばいいのかなと(笑)。それくらいの気概がある人なら、「おう、ほんならやってみんかい!」って、応援したくなるんでしょうね、きっと。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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