第53回 株式会社リンクアンドモチベーション 小笹芳央

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

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第53回
株式会社リンクアンドモチベーション 代表取締役社長
小笹芳央 Yoshihisa Ozasa

1961年、大阪府生まれ。小学校時代は野球少年。中学、高校時代はラグビー一色の日々を送る。一浪後、早稲田大学政治経済学部へ進学。2年次にビジネス 系学生団体を立ち上げ、その活動にのめりこむ。結果、一年留年。大学5年目、フルフルの50単位を残すが、大学の事情によりテストが中止に。レポートと論 文提出のみで、奇跡的に無事大学を卒業。1986年、一浪一留のハンデを取り戻すべく、平均年齢が若く、早く仕事を任せてもらえそうな株式会社リクルート に入社。人事部に配属され自社の新卒採用担当となる。同社の大量採用に力を発揮し、5年目で人材開発課長に抜擢される。営業所長として異動した後、自ら社 内で組織人事コンサルティング室を立ち上げた。2000年、14年間勤務したリクルートを退職。同年3月、モチベーションエンジニアリングをメッセージと した経営コンサルティング会社、リンクアンドモチベーションを設立し、代表取締役社長に就任。事業を順調に成長させ、昨年12月、東証2部市場に上場を果 たす。著書に『会社の品格』(幻冬舎新書)、『モチベーションエンジニアリング経営』(東洋経済新報社)など多数。

ライフスタイル

好きな食べ物

アワビのニンニクステーキ。
好き嫌いなく何でも食べますよ。カレーライスとか、子どもっぽいのも好きですね。ただ、最後の晩餐に何を食べたいかというと、アワビのニンニクステーキ。ワインも大好きですから、それに合わせてブルゴーニュの白と決めています。

趣味

落語です。 
落語が好きなんです。同じオチの話でも、噺家によって特有の違いがあって。私は講演会で話す機会が多いので、とても勉強になります。お気に入りは、古今亭 志ん朝さんです。iPodを使って、仕事の移動中とか、自宅の近くに川原があるので、ウォーキングしながらとか、本当に飽きずによく聴いてます。

休日

読書ですかね。
本の虫なんですよ。年間200冊は読んでいるんじゃないですか。ビジネス系はもちろんですが、サスペンス小説も好きです。カバンには必ず1冊入っています し、風呂に入っている時も、寝る前も。雨が降った休日は、ほとんど読書。もしかして、暗いですか(笑)。ちなみに、昨年のベストは、平川克美さんの『株式 会社という病』(NTT出版)です。

行ってみたい場所

マカオを見てみたい。
今は全くやりませんが、昔はギャンブルが好きだったんです。新婚旅行もラスベガスに行ったほど。20年前く らいにマカオにも行きましたが、当時はそれほど発展していませんでした。それが今や世界的にもトップクラスのカジノに成長している。どれほど変わったの か、その雰囲気を現地で感じてみたいんです。

モチベーションエンジニアリングという独自手法で、
日本の会社と個人をもっと元気にしていきたい!

 優秀な社員を採用し、高業績の会社をつくりたい。と、世のすべての経営者が考えている。高い給料、権限のあるポストを社員に提供すればそれが実現した、そ んな時代はもう過去のこと。人材流動化が進む現在、自己成長できる実感、仕事の社会的意義、社内の一体感など、目には見えない何らかのメリットがないと、 会社に人が集まらず、また入社したとしてもすぐに見切りをつけられてしまう。しかし、経営者やリーダーはその糸口を見つけられず、会社の成長が鈍化してい く……。目に見えない何かとは“モチベーション”の欠如に原因がある。そのことを誰よりも早く看破し、リンクアンドモチベーションを立ち上げたのが、リク ルート出身の小笹芳央氏だ。個人のモチベーションに焦点を当て、組織の活性化を実現し、着実に成果を挙げていく“モチベーションエンジニアリング”という 独自の手法を用いた経営コンサルティングで、2000年4月の創立以来、約1700社のコンサルティングを手がけてきた。今回は、そんな小笹氏に、青春時 代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<小笹芳央をつくったルーツ1>
勉強しなくてもオール5で、スポーツ万能のガキ大将タイプ

  家族構成は、両親と9つ上の姉、2歳下の弟にはさまれた私の5人家族ですね。生まれたのは大阪の阿倍野区で、3軒長屋の真ん中の家に住んでいまし た。せまくて居場所がなくて、いつも外に出て遊んでいましたよ。ちなみに父の仕事は大阪市が運営する結婚式場の料理長でした。職人気質の寡黙な人でね。父 は朝5時には仕入れに出かけ、夜は9時頃に寝てしまうという毎日でしたから、母子家庭みたいな感じ(笑)。だから、家での教育担当はもっぱら母。それほど しつけも厳しくなくて、けっこう自由な家庭環境だったんだと思います。

  父は大阪の人でしたが、なぜか巨人の大ファンだったんですよ。その影響もあって、私も巨人ファンになりました。王貞治選手、特に長嶋茂雄選手が好きでした ね。やっぱり背番号は3だろうと。それで、少年野球を始めるんです。放課後は毎日グランドに出て練習に明け暮れる野球小僧。ちなみにポジションはピッ チャーでした。地元のリーグ戦はなんとか勝てるんですが、大阪市の大会では負け続き。結局、府大会までは出られなかった。でも、高校生になったら野球部に 入って甲子園を目指そう。小学生の頃はそんなことを漠然と考えていました。

  勉強は特にしなくても良くできたんです。図工以外はオール5。特に体育の時間が大好きでした。秀才タイプというよりも、活発なガキ大将タイプで、スカート めくりもよくやった記憶があります(笑)。市立文の里中学でも当然野球を続けるつもりだったのですが、私が入学した年に野球部がなくなっちゃったんです よ。でも、高校に行ったら再び野球をするために体を鍛えておこうと。地元では強豪で、練習が厳しいことで有名なラグビー部に入部しました。

 それからはラグビー一色の毎日でしたね。放課後は練習、夏、冬、春の休みも合宿。ひたすら走りこみ、タックルの繰り返し。私は足が速かったので、 1年ながらたまにウィングのポジションで試合に出してもらったり。その後はフランカーが定位置となり、中学2年の大会では大阪市の大会で優勝しています。 勉強はですね、まだこの頃はやらなくてもできるほうだったんです。なんでみんなできないんだろうって思うくらい。高校になると、まったくダメになるんです けど(笑)。

<小笹芳央をつくったルーツ2>
やんちゃした高校時代。ラグビーから人生を学ぶ

  高校は、進学校の府立住吉高校へ。入学前にラグビー部に誘われまして、中学最後の春休みから部の練習に参加していました。よって、この時点で甲子園 の夢はついえたということです。で、ラグビー部の練習は真面目に参加するんですが、高校の授業にはまったく興味がなくなってしまった。制服ではなく私服 だったこともあって、学校に行かず、仲間と喫茶店にたまって、それに飽きたら麻雀やって、繁華街に遊びに行って。教師とぶつかったり、いろいろやんちゃも しました。まあ、当然ですが成績は552人中552番とビリです。大人になってあの頃の私を知っている同級生に会ったら、「おまえ、人格変換装置でも使っ たんか?」って言われちゃいましたから(笑)。

  大阪の高校はラグビーが盛んで、約130校くらいあったと思います。本大会ではないですが、当時うちの部は大阪府で優勝したこともあるんですよ。ラグビー からはOne for all,All for oneの精神だけでなく、本当にいろいろなものを学びました。ラグビーボールは真っ直ぐに転がってくれません。いくら練習しても、最後のひと転びで戦局が がらりと変わってしまう。とても先が読みづらいスポーツなんです。自分の力だけではどうにもならないことがある。理不尽な人生と同じだなあと。それが楽し くもあり、苦しくもあり。あと、大阪工業大学高校(大工大)という大阪で1、2を争うラグビーの名門校があるんですが、そのフェアプレー精神と圧倒的な強 さを知ったことも自分にとってはいい経験でした。3年の時、大阪府の代表選手を選考するセレクションに参加して、大工大高校の2年生と同じポジションを 争ったんです。結果は、ぼろ負け。俺は全国レベルには到底なれないな、と。それで、ラグビーからはすっぱり足を洗おうと決めたんですよ。

  今は、会社の経営者になっているんですけど、実は私の弟が当時手の付けられない不良でして。やはり小笹家を守るのは長男の自分の役目だよな。せめて大学に は行っておこうと思ったんですよ。それで3年の秋にラグビーを止めてから、猛勉強を開始しました。大学入試のシーズンまで残り5カ月しかないけどやればで きると。結果は、明白でした(苦笑)。すべての大学に落とされて、受かったのは京都の駿台予備校の私立文系コースのみ。それでも、「よく受かったな」って 言われたんですけど(笑)。

<大学生時代>
ビジネス系学生団体にのめりこみ一浪一留。ハンデを取り戻すためリクルートへ

  浪人時代は京都で一人暮らしをして、毎日14時間は勉強。夜に頭が冴えるものですから、徹夜して朝7時とか8時まで。で、夕方に起きるんです。だか ら、予備校には有名な英語の先生の授業以外、ほとんど通ってないんですよ。それでも模擬テストを受けると、結果がどんどん上がっていくので、やっぱり俺は やればできると(笑)。それで東西の有名私立大学をいくつか受験して、合格した中から早稲田の政治経済に進学することに。高校の校長先生に合格報告しに 行ったら、「まさか? あの問題児が?」って驚かれました。いや、実は合格してしまった私が一番驚いていたんですが(笑)。

  晴れて大学生になったのはいいのですが、最初の1年間はくさってましたね。中高時代のラグビー部の仲間との熱い友情とか、固い絆と比べると、なんだか大学 の同級生たちがとても幼く感じて。東京という場所にもなかなか馴染むことができなかった。食べ物もおいしくないし。ラグビーと決別し、早慶戦も見ないと決 めていたこともあり、燃えるものが何も見つけられない。理由をつけては、大阪に帰って昔の仲間と遊んでいました。今思えば、暗い時代でしたね。いろんなも のから逃げていた。周りよりも自分自身が幼かったんですよね。

  2年になって、さすがにこのままじゃまずい。東京で自分を生かすことができる基盤をつくらなければと奮起。それで仲間とある団体を立ち上げたんです。早稲 田の学祭にやってくる学生たちに声をかけて、私たちが主催するイベントや旅行企画に参加してもらうという。今でいう学生起業の走りみたいなものです。これ がどんどん面白くなって、いろんな大学の学生を巻き込んで主要メンバーが50人くらいに増え、お客さん候補のイベント参加者リストも最終的には1万人以上 になって。収益もけっこう挙がっていました。この活動にかなり時間を費やした結果、大学を1年留年してしまうんですよ。

  5年になって就職活動を開始したのですが、やりたいことがわからない。でも、なぜか自信だけはありましたから早く社会に出たい。いろいろな会社を訪問しま したよ。まず、人的に魅力を感じたのは商社でした。いくつか内定ももらったのですが、結果、最後に受けたリクルートを選ぶんですよね。理由はいくつかあり ますが、ひとつは一学生である私の話をどの会社よりも真剣に聞いてくれ、とても熱心に口説いてくれたこと。もうひとつ、私は、一浪一留じゃないですか。こ の2年遅れのハンデを取り戻すには、社員の平均年齢が若いベンチャー企業のリクルートのほうが早そうだと考えたんです。昔からリーダー気質が強かったの で、これ以上後塵を拝するのだけはごめんだよと。

<リクルート社員時代>
人材開発部のトップリーダーとして、会社始まって以来の採用成果をもたらす

 リクルートへの入社を決めてから、内定者として通信回線のリセール営業のアルバイトを開始。アルバイトながらいい業績を残したんです。だから、営業希望を 出して、そのとおりになるだろうと思っていたんですよ。しかし、配属は自社の新卒採用をミッションとする人材開発部であると。正直、青天の霹靂でしたよ。 そうそう、私は浪人時代から大学までずっと、夜型の生活をしていましたから朝がすごく弱かったんですね。寝坊が理由で内定式に遅刻し、なんと入社式にも大 幅に遅刻してしまった……。人事部長の怒りを買って、本気で回し蹴りをくらいました(笑)。

  採用の仕事は、結局、自分の会社(商品)の魅力を語って学生(顧客)を口説くという作業ですから、営業の仕事と似ているんですよね。そのことに気づいてか ら、この仕事がとても楽しくなりました。初年度にある程度の良い採用実績を残すことができると、2年目、3年目とどんどん難しい仕事を任されるようになり ます。リクルートの場合、仕事の報酬は仕事なんですね。そして、当時の江副社長から私に勅命が下りました。これまでなかなか採用できずにいた学生群を大量 に採用せよと。

 どうすれば良いか戦略を考え抜いた結果、まず、私たちのチーム全員で、対象となる学生数百人すべてに会うことから始めました。そのうえで、ひとり ひとりの学生の考え方や属性を分析して、全学生相関図を作成。A君を最初に口説く前に、B君を口説いたほうが確率は高いなど、その相関図を使って対策を練 りながら採用活動を展開していったのです。その結果は大成功でした。

 7年間、人材開発部に在籍した後、自社メディアに掲載する新卒採用広告を販売する営業所長として異動。営業現場に出て真っ先に感じたのは、自分たちが一所懸命口説いて入社してくれた社員たちが疲弊していたこと。私は就職活動でリクルートの門を叩いてくれた学生たちに、広告営業の先には、人事および採用戦略、組織戦略を提案するコンサルティング業務が必ず必要とされると公言していたんです。このままでは、彼・彼女たちの信頼を裏切ることになってしまう……。そこで、コンサルティングの仕事をするための場所をつくろう。自分が彼らの灯台となって、キャリア形成の道しるべになろうと。そして取締役に直談判して、1994年に組織人事コンサルティング室を立ち上げることになるのです。その準備室のスタートは、自分ひとり、机ひとつの船出となりました。

時代が変わり、社会が変わり、人の欲求が変わっても、
モチベーションニーズは変わらず高まっていく

<リンクアンドモチベーション、始動>
組織人事コンサルティングの現場で個人と組織の新しい関係の必要性を痛感

 たったひとり、組織人事コンサルティング室をスタートさせ、「こんなサービスを新たに始める」と社内広報しました。時はバブル崩壊直後、企業の採用 に対するスタンスが変わり始めていたこともあったのでしょう。すぐに多くの営業担当から、「私のクライアントが困っています。コンサルティングしてほし い」という声が届き始めます。マーケットのコンサルティングニーズを確認できたことも嬉しかったのですが、私が口説いて採用した社員たちの顧客オリエン テッドの姿勢、成長欲求の高さに感動しました。これまでも今も、自分がやってきたことに間違いはなかった。そしてその後も営業現場からの依頼は着実に増加 し、組織人事コンサルティング室立ち上げから7年で、スタッフ数35名、年商10億円を超える事業に成長。思えばこの経験が、起業の疑似体験となっている んですね。

 私はリクルートを退職し、2000年3月にリンクアンドモチベーションを設立しています。組織人事コンサルティング室の仕事を続けるうちにあるこ とに気づいたのです。世の中の会社は成果主義を取り入れ始めていました。経営者は表層的に思うんです。「そうだ。うちも成果主義を取り入れたい」と。しか し、学生時代ラグビーをやっていた頃、複数の個人が集まったチームには、目に見えない雰囲気や空気が確かにあって、その状態が良いと感じた時ほど力が発揮 できていた。会社に入ってチームで仕事をする際も、その雰囲気や空気のつくり方をいつも気にしていたのです。

 結局、会社の経営者やリーダーは誰しも、個人(社員)のやる気=モチベーションを高めながら業績を高めたいんですよ。そして、退職の1年前くらい から、モチベーションという目に見えないものを体系化できないだろうか。これを自分のこれからのメッセージとして、強く、広く世の中に発信していきたいと 考えるように。そのためには、リクルートという大きな看板よりも小さくてもモチベーションを旗印にしたほうがよいのではないか。そんなジレンマを抱いてい た時に、組織人事コンサルティング室のコアメンバーたちが、「小笹さんに付いていくので、早く旗を立ててください」と。そんな声も私の背中を押してくれま した。

 創業当時、モチベーションという言葉は心理学用語として認知されていましたが、経営やマネジメントの世界では耳慣れない言葉でした。そこで私は “モチベーションエンジニアリング”、文字どおり、目に見えないモチベーションというものを体系化していくことを当社の命題とし、まずはこの言葉の認知を 加速させる活動を開始します。書籍を執筆し、リクルート時代から続けていた講演活動を増加させ、すべてをモチベーションに収束していく。高い費用をかけ て、日経新聞に大きな中途採用広告を掲載したこともあります。当初から、比較的順調に仕事を獲得できていましたが、2002年のサッカーワールドカップの 頃、三浦知良選手や中田英寿選手がモチベーションという言葉を使い始めてから、さらに当社の存在が知られていくようになったのです。

<経済合理軸以外の共感づくり>
時代が変われば人々の欲求も変化する。時代に合わせモチベーションニーズも進化

 モチベーションエンジニアリングとは、「経済合理軸以外の共感づくり」です。私たちが子どもの頃、日本のエンゲル係数は50%もありました。しか し、今では20%。日本はとても豊かな国となり、人々の欲求もどんどん変化しています。マズローの欲求階層説のとおり、十分に食べられる生存欲求と安全な 生活が満たされると、段階を追って、集団帰属の欲求、尊敬されることを求める認知欲求、さらに自己成長欲求へと移行していきます。会社はこれまで、お金と ポストという報酬で社員のやる気を喚起してきましたが、もうそれでは難しい時代なのです。ということは、働く社員の、仕事での成長感、達成感、一体感、ダ イナミズムなどを刺激していく、そんな高次元の欲求を満たす必要があるということです。

 そして、組織が有している悩み、問題の多くは、個人である人と人、その個人が所属している組織と組織、また本社と支社間などのコミュニケーション ロスにあります。そこにモチベーションエンジニアリングの手法で、目に見えないモチベーションを最大限に高める戦略を見つけ出し、最適なコミュニケーショ ン手段をご提案していく。そうやって、個人の集合体である会社に共感と一体感を生み出すことができれば、間違いなくその会社はさらなる成長に向けた大きな 変革を起こすことが可能なのです。

 私たちの最大の強みは、モチベーションの観点から企業の組織診断を行い、採用戦略、組織戦略、職場戦略、ブランド戦略まで、すべてをワンストップ で提供できるという点でしょう。おかげさまでベンチャー企業から大手企業、また教育機関、プロスポーツチームなど、様々な分野のクライアントからお声かけ いただき、設立から7年で約1700社のモチベーションエンジニアリングを実施してきました。例えば、ある大手飲料メーカー様が、業界No.1シェア奪還 に向けて当社のコンサルティングをご指名いただいた際は、膨大な社内ヒアリングから導き出した仕事の意義の明文化、それを全社で共有し一体感を持ってもら うための社員語り合いイベントの実施、ほか様々な施策を織り交ぜながら目的実現に寄与することができました。また、ある大手家電メーカー様からのオーダー は、100位台だった新卒の就職人気ランキングを、トップ10以内に持っていきたいというもの。こちらもランキングトップ10入りを実現することができま した。

<未来へ~リンクアンドモチベーションが目指すもの>
モチベーションをキーワードとした、ひとつの産業分野をつくり上げたい

 先程も述べましたが、人々の欲求は時代に合わせながら変化していくものです。まず、モチベーションエンジニアリングを提唱している私たち自身が、常 に良い意味でのモデルケースとなるべく、モチベーションの高い集団であり続けなければなりません。そのために、世の中の変化を敏感に察知しながら、試行錯 誤しながら、会社のあり方を進化させていく必要がありますね。実は2002年に上場を目指していたのですが、直前になって時期尚早と判断し、取りやめてい ます。それ以降は、サスペンデッドの立場を取ってきました。しかし、しっかり情報開示できる準備、外部の投資家の方に安心して出資いただける土壌もでき た。いよいよ機は熟したと踏み、上場企業という厳しいルールの中で、自社を輝かせていく挑戦の道を選ぼうと。昨年12月、東証2部市場に上場を果たしまし た。これも新しい進化のひとつです。

 また、これまでは企業と社員のためのモチベーション向上をコア業務としてきました。しかし昨年M&Aを実施し、IRとブランディングのコ ンサルティング事業を当社に受け入れ、企業が投資家から投資を求める際に必要となる投資モチベーション、企業が販売活動を行う際に必要となる購買モチベー ションの向上に貢献するための事業を新たにスタートさせています。これまでこの分野は主に広告代理店が扱う業務でしたが、消費者が消費行動する際、従来の 値段や機能だけでなく、会社の歴史、志、ブランドイメージなど、より多くの決定材料が求められています。企業が消費者や投資家から選ばれるために、モチ ベーションエンジニアリングを活用してみようと。基本的にモチベーションという切り口は変えることなく、これからも様々な挑戦を続けていきたいですね。

 今から46年前の1962年、安全というキーワードで、警備員の派遣事業をスタートさせた会社があります。今日、安全関連市場の市場規模は約2兆 円。その会社というのが、6000億円の売り上げを誇るセコムさんです。私たちも同じように、モチベーションというキーワードの一大産業分野をつくり上げ たい。そのために、教育分野なのかレジャー分野なのかはわかりませんが、私たちのモチベーションエンジニアリングが必要とされる市場には積極的に挑戦して いくでしょう。また、国内マネジメントマーケットのサービスの多くが海外からの輸入品です。近い将来、日本発の経営マネジメント手法として、海外展開でき るよう頑張っていきたいですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分の経験、社会に広く伝えたい強いメッセージ。それがあるかどうかが一番大事

 独立・起業という外形的な概念に振り回されないことです。なぜなら、それは誰だって、いつでも、会社を登記しさえすればできることですから。それよ りも、新しい事業を始めるということはどういうことなのか。その本質はあなたが、世の中、社会に対してどうしても伝えたいメッセージがあるかどうかという こと。会社がその発信基地であり、商品やサービスがそのメッセージとなります。強いメッセージがない限り、商品、サービスも、会社というハコも必要ないで しょう。私の場合のメッセージは、モチベーションでした。もしもあなたに強いメッセージが生まれたなら、まずは独自性を追求する、そしてそのメッセージを よりわかりやすく明文化する、そこにエッジが立っているならば、きっとその事業はどんどんかたちとなり、育っていくはずです。

 よく「自分探しをしなければ」なんて言いますね。しかし、その前にまず“自分創り”をしっかりやれと伝えたい。それはどういうことかというと、目 の前にある仕事をしっかりこなし、まずひとつの信頼を得る。そしてそれを繰り返し、信頼の残高をどんどん増やしていく。仕事は信頼できる人にしか回ってき ませんよね。信頼残高が多い人の周りには、自然と仲間が集まり、お金が集まり、どんどんやりたいことができるようになる。自由が増えていくということで す。そうなれば、好きな人と、好きな場所で、好きな時間に、いろんな仕事ができるようになります。私も会社員になった当初、仕事は選べない、朝早く出社し なければならない(苦笑)。自分はなんて不自由なんだろうと悩みました。でも、ある時、そのことに気づくことができたのです。

 では、信頼の残高を増やしていくためにはどうすればいいか? それは、どんどん仕事の約束をして、約束を守るための行動をしていくしかないんで す。そして、ひとつの約束が守れたなら、今度は同時にふたつの約束を取り付けて、行動していく。そうやって自分に負荷をかけながら信頼の残高を増やしてい くことが、必ずあなたの自分創りにつながっていくはずです。例えば、20年前の私が一所懸命探しても、モチベーションというメッセージにはたどりつけな かったはず。つまり、約束をたくさん守ってきたからこそ、材料がたくさんあつまって、今の自分につながっているということ。そのプロセスを経験しておかな いと、あなたの自分探しの旅は永遠に続いていくことになってしまうでしょう。人生、ムダなものは何ひとつないと思っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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