第21回 スーパーアグリ F1チーム 鈴木亜久里

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

- 目次 -

第21回
株式会社エー・カンパニー 取締役 スーパーアグリ F1チーム 代表
ARTA Projectプロデューサー
鈴木亜久里 Aguri Suzuki

1960年、東京都生まれ。埼玉県育ち。城西大学理学部中退。小学校時代からカートレースを始め、高校3年の18歳で全日本カート選手権のチャンピオンに。1979年から自動車レースに参戦開始。1986年、全日本ツーリングカー選手権に参戦してチャンピオン。1988年、全日本F3000選手権の総合王者となる。翌1989年のシーズンからF1に本格参戦。1990年の鈴鹿グランプリでは、決勝で3位に入賞し、日本人初の表彰台を獲得。1998年には、ル・マン24時間レースに参戦し、総合3位に入賞。その後も、船井電機がスポンサーのフナイ・スーパーアグリチーム、オートバックスとの提携による ARTAプロジェクトなどを立ち上げ、後進育成のための活動に入る。2005年11月1日、F1参戦申請を正式表明。幾多の試練を潜り抜け、2006年3 月、第1戦のバーレーングランプリのスターティンググリッドにチームカーが並んだ。日本人初、個人が立ち上げたF1チームのオーナーとして、現在も 2006年のシーズンを戦っている。

ライフスタイル

好きな食べ物

イカが大好きで、お酒はガブガブ 
好きな食べ物ね……。イカが好きだね(笑)。刺身でも、フライでもイカが好き。寿司屋に行っても、まずはイカから(笑)。逆に嫌いなのは、ソースとケチャップ。でも醤油は大好き。とんかつでも醤油かけて食べるしね。お酒はガブガブ飲む(笑)。ワイン、焼酎、ウィスキー、ブランデー。日本酒はあんまり飲まないかな。

趣味

ラジコンのヘリコプター 
ちょっと前まではゴルフが好きだったんだけど、今はあんまりやってないね。趣味かぁ。F1かな(笑)。F1以外? じゃあ、ラジコンのヘリコプター。5年くらいから集め始めて、今は7、8機持ってます。

休日の過ごし方

確実にゴロゴロ寝ています
あまりないね。体の調子が悪いときくらいかな。休んでいるといえるのは。そしたらもう、家でゴロゴロしっぱなし。寝てますね。ホント、まるでトドみたいに。奥さんからは、だらしないだの、粗大ゴミだの言われてます(笑)。。

ファミリー

息子は確実に僕よりいい子に育ってる
妻と男の子がひとりです。息子は16歳で、小さい頃ピアノやりたいっていうから、買ってあげた。「こんな高いもの買わせて、途中で挫折したら、殺すぞ~」 なんて脅したけどね(笑)。幸いピアノも続けてるし、今はギターにもはまってるみたい。すげえ、いい子に育ってるよね。確実に僕よりもいい子(笑)。これは奥さんのおかげだと思ってる。

1週間休みがとれたら

オーストラリアの自宅でゴロゴロ
オーストラリアにある家に行って、ゴロゴロ。場所? メルボルンやブリスベンとかじゃない、田舎のリゾートだよ。ゴルフやって、プールで泳いで、サウナに入って、お酒飲んで、とにかくゴロゴロしてたいね。

僕の頭に浮かんだ未来の自分のあるべき姿。それがF1レーサーとして活躍する自分だった

 F1レースは世界約200カ国に放映され、1レース平均で約5億8000万人の視聴者があるという。ファンの方には言うまでもないことであるが、そういっ た意味で、オリンピックや、サッカーのワールドカップと並ぶ世界的スポーツイベントなのである。ミハエル・シューマッハ選手の引退、鈴鹿サーキットの最終 開催年というニュースが話題の2006年F1シリーズ。さらにここに、日本チームとして鈴木亜久里氏が、スーパーアグリF1チームとして参戦を表明したの だ。~Born in Japan~。なんと魅力的な響きを持つ言葉だろう。日本のF1ファンにとっては、観戦のため眠れない日が増えたことは間違いない。ちなみに、F1のトッ プチームの年間運営費用は400億円を超える。様々な人や企業の応援があるとはいえ、そんな巨額の資金が必要とされるピラニアクラブに、鈴木亜久里氏は個 人オーナーとして参戦しているのだ。カートレース、ツーリングカー、F3、そして28歳でF1ドライバーとなった彼は、どのようにしてF1オーナーへの道 を切り開いてきたのだろうか。今回は、鈴木亜久里氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていた だいた。

<鈴木亜久里をつくったルーツ.1>
11歳でカートレースを初体験。高校時代にはいっぱしのプロに

 小さな頃は、大人になったら飛行機のパイロットやコックさんになりたいと思ってました。いたって普通の子どもですよ。自動車レーサーになりたいと 思ったきっかけは、11歳、小学5年生の頃。親父がカートレースにはまっていて、僕もついて行った。昭和40年代に、カートやってる人なんて少なかったけ どね。

 そのうち自分もカートに乗ってみたいと思って。最初に乗ったときはやっぱり怖かったよ。で も、少しずつ早く走れるようになると、だんだんカートが楽しくなってきた。それで12歳でライセンスを取って、公式レースにも出場するようになったんだ。 休みの日はカートもやるけれど、学校は普通に行ってたよ。まあ、学校ではこの話題で盛り上がることはあまりないよね。周りの誰もやってないし、カート (笑)。

 当時は埼玉に住んでいて、高校にも普通に通ってた。ガンガン、カートに乗ってたね。本当に 一所懸命やってたと思う。カートの整備も自分でやってたし、もうこの頃はプロだった。将来は自動車レーサーとして食っていこうと思ってたけど、まだF1な んて全く考えてなかったよ。だって、テレビでもF1レースの放映なんてしてないし、自動車専門誌も今のようになかったからね。

  大学はあまり行きたくなかったんだけど、親父に「友だちつくるだけでもいいから行っとけ」って言われて。まあ、それもそうかと、一応進学した。高校の推薦 枠を使ってね。理学部を選んだのは、単に文系が苦手だったから。もちろんレースをやりながらだけど、麻雀もしたし、酒飲んだり、よく遊んだよ。でもやっぱ り理系だったから、暗いんだよね。明るい大学生活っていうんじゃなかったよ(笑)。

 

<鈴木亜久里をつくったルーツ.2>
再度レース活動に復帰するため、オイルの輸入販売で活路を拓く

 

 高校3年のとき、全日本カート選手権A2クラスのチャンピオンになって、大学時代もカートは続けた。その3年後の1981年にもチャンピオンになっ たかな。カートの活動と並行して、1979年からは日本F3選手権にも参戦。19歳から始めて、その後6年くらいF3は続けたね。F3は地元埼玉のカー ショップにスポンサードしてもらってやってた。年間の活動費として1000万~1500万円くらいは必要なんだよ。でも1984年に、資金不足になっ ちゃって、1年間乗れなくなったことがある。

 「グアムに行くけど、車に乗れないなら一緒に行く か」って、親戚の叔父さんに誘われてグアムに行った。で、グアムのカーショップをのぞいてたら、あるオイルに目が留まったんだよ。オートマチックトランス ミッション用のオイルだったんだけど、まだ日本では売られていなかった。それで、このオイルのインポーターになって、日本で販売してみよう。自分で稼いだ 資金で、もう一度車に乗ろうと。帰国後、販売元に「私に売らせてほしい」という内容の手紙を書いて、権利をもらったんだ。

  でも23歳のまだガキじゃない。まあ不安はあって、親父に相談してみた。そしたら「お前は自分ひとりの範囲で物事を考えて、マイナス要素ばかり探してい る。一歩踏み出して初めて、新しい出会いがあるし、そうすれば展開も広がる。まずはやってみろ」と、助言されたんだよね。それで、オイル販売の会社をつ くった。1本75円で仕入れて、売値は7500円。売値を安くしたら逆に売れないと思ったんだよ。営業も宣伝も全部自分でやった。卸会社への卸値はいくら だったらやる気になってくれるか考えたり。結局、そのオイルは何万本も売れてかなり儲かっちゃった。それで車に乗れる資金は稼げたから、この会社はおじさ んに譲った。でも確かその後1年くらいでつぶれたんじゃないかな(笑)。

 そのビジネスが成功したおかげで、埼玉から東京のマンションを借りて移って、また走ることができるようになった。当時は資金不足以外にもいろんな壁にぶつかってた時期だったんだけど、自分の力で突破口をこじ開けたことで、なぜか人生が急にうまく回り始めたんだ。

<F1ドライバーへのキャリア時代>
日産ワークスのドライバーに。テクニックの向上を実感した日々

  1985年、日産ワークスのドライバーに抜擢されたんだよ。初めて資金の心配をすることなく、レース活動に専念できるようになった。これはすごく嬉 しかったね。サーキットに行けば、車ができてるし、いくらでも走らせることができた。本当に天国のような日々だったよ。年間で200日以上は車に乗ってた んじゃないかな。この頃、自分のテクニックがどんどん上達するのを実感してた。それだけ乗るんだから。そして、全日本ツーリングカー選手権へも参戦するよ うになった。

 1986年には、全日本ツーリングカー選手権の国内グループAに、スカイラインRS ターボで参戦してチャンピオンになった。カート以外の初タイトルはこのときなんだよね。この年には、ル・マン24時間レースにも出場した。もうこの頃に は、30歳までにF1ドライバーになって、35歳で引退して、45歳で自分のF1チームを持つって、決めていたんじゃないかな。これまでに、自分の頭の中 に明確なイメージが浮かんで、それをやるって決めて、できなかったことがひとつとしてないんだよ、僕は。周りのほとんどは「そりゃ無理だ」って言ってたけ どね(笑)。

 1987年からは、大手運送会社のフットワークにスポンサードしてもらい、全日本 F3000選手権に参戦。この年は2位だったけど、次の年にはシリーズチャンピオンになった。このシーズンには、ヨーロッパF3000選手権にも挑戦して いて、フランスとイギリスで3レースを経験している。実はこのシーズン中に翌年のF1デビューは決まっていたんだけど、1988年10月、F1日本グラン プリを中耳炎のため欠場することになったヤニック・ダルマスの代役として、ラルースチームから急遽スポット参戦することになった。初めてのF1の結果は、 予選を20番手で通過し、決勝は16位で完走というものだった。

 あと、この頃に結婚したんだよ。彼 女とは大学1年のときから付き合ってたんだけど、向こうの両親にはずっと内緒にしてた。それが新聞にすっぱ抜かれちゃってさ。それもスポニチの1面で(苦 笑)。ついに、せざるをえないって感じになってね。でも、彼女にはずっと助けてもらってる。強い人だよ、本当に。

<本格的にF1に参戦>
地獄の16戦全戦予備予選落ちから、翌年は日本人初の表彰台へ!

 そして1989年、いよいよ本格的にF1への挑戦が始まった。チームはドイツのザクスピード。そして、エンジンはヤマハ。このシーズンの結果は、全 16戦すべて予備予選落ち……。みんないろいろ言ってたけど、「俺はこんなもんで終わるわけがない。悪いのは今だけ。大丈夫、絶対に成功する!」って、い つも本気で思ってた。最初の3戦は、ちょっと苦しかったけどね(笑)。

 翌年の1990年のシーズンは、ラルースチー ムへ移籍。マシンはローラ・ランボルギーニ。第8戦のイギリスグランプリで、初の6位入賞。シーズン終盤の第14戦、スペイングランプリでも同じく6位に 入賞した。そしてその次戦の日本グランプリでは予選を10位で通過。決勝では3位に入って、日本人で初めてポディウム(表彰台)に立ったんだよ。もちろん すごく感動したけど、実は心の中で、「ラッキーだなぁ」って思ってた。

 翌年もラルースチームから参戦して、入賞はア メリカグランプリの6位。1992年からは、フットワークチームに移籍。2年間同じチームで参戦したんだけど、入賞は1度もできなかった。1994年の シーズンは、ドライバーズシートを失ってしまうんだよね。この年は、トヨタから全日本ツーリング選手権に参戦しながら、F1パシフィックグランプリで ジョーダンチームから1戦だけスポット参戦。そしてその翌年の1995年、無限エンジンを積むリジェチームと契約。6戦に参戦して、ドイツグランプリで6 位入賞。これがF1での最後の入賞だね。で、このシーズンでF1から引退(日本GPで引退宣言をするはずだったが、予選で大クラッシュして、正式に引退を 表明できなかった)。35歳だった。

 F1ドライバーを引退してからは、全日本GT選手権やル・マン24時間レースに 参戦しながら、後進の育成を始めることに。日本には、まだまだ若くて優秀なドライバーがいっぱいいるって思ってたからね。僕自身の夢としては、45歳まで に自分のF1チームを持ちたいって思ってはいたけど、どうやったらそうなれるかわからないんだよ(笑)。当然、自分にそんな経験はないし、周りにそんな知 り合いもいないしさ。でも常に「絶対にそうなるんだ」って信じてた。

僕のF1オーナーとしての挑戦は始まったばかり。今年を走りきり、来年は必ずトップグループに!

<抱き続けた夢。F1チームオーナー>
出走のための必要資金は55億円。金融機関からの融資でまかなう

 1997年からは、オートバックスとの提携によりARTA(エーアールティーエー=AUTOBACS Racing Team Aguri)プロジェクトがスタート。チームの総監督として、フォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権へ参戦。僕自身は2000年のシーズンで、完全に ドライバーからは引退した。本格的に若手ドライバーの育成も始めて、2001年には、ARTAのバックアップでドイツF3に参戦した金石年弘がシリーズ チャンピオンになってる。2003年からは、メキシコ人レーサーのエイドリアン・フェルナンデス率いるフェルナンデス・レーシングと提携して、「スーパー アグリ・フェルナンデス・レーシング」を立ち上げた。そして、チームオーナーとしてIRL(Indy Racing League)への参戦もスタートしている。

 そんな活動を続ける中でも、どうやればF1の世界に戻れるのか という考えは常にあった。優秀な後輩たちに、チャンスをあげたかったしね。自分を応援してくれるパートナー(スポンサー)も見つかって、ホンダにエンジン 供給の話をし始めたのが、2005年の2月くらいだったかな。そこから、本格的に自分のF1チームを持つという夢が実現に向けて回りだしたんだよ。

  でも、やっぱり簡単に事は運ばなかった。ちなみに、F1の世界ってたった12チーム24台しか参加できなくて、世の中で一番資金を必要とするプロスポーツ なんだよね。2チーム分の空きはあったんだけど、走るためにグリッド(出走枠)を押さえるだけで、供託金が48ミリオンドル(約55億円)必要となる。そ して1年間を走りきるためのチーム運営費が、最低でも80億円はかかる。つまり、最低135億円を用意しないと、参加できない世界なわけ。

  グリッドを押さえるための供託金にしても、最初のパートナーがこけて、その次に見つけたパートナーもこけちゃって。どうしたかっていうと、結局、僕が銀行 から融資を受けたんだよ、55億円の。基本的に供託金は返ってくるお金なんだけど、利息だけでも相当でかい(笑)。そんなごたごたがあって、FIA(国際 自動車連盟)への入金が支払期限に遅れてしまって……。レイト・エントリーというかたちで、2006年1月、FIAからエントリー許可を受けた。これでも う、絶対に後には引けなくなったよね。

<Born in Japan発進>
F1参戦の表明から4カ月で第1戦へ。資金、シャシー問題など苦悩は続く

 2005年11月1日に、ドライバーは佐藤琢磨と井出有治(後に、山本左近に変更となる)、エンジンはホンダ、タイヤはブリヂストンという日本チー ム、「スーパーアグリF1チーム」としてF1への参戦申請を表明。それまでの資金調達、パートナー開拓は、本当に大変だった。まあ、本人がやりたいんだか ら、大変とか言ってちゃいけないんだけど(笑)。でも、1年間走りきる体制を整えないと、55億円の供託金も返ってこなくなるから、それはもう毎日必死。 1日単位の綱渡り状態。ギリギリの厳しい日々だったね。もしももう1回昨年に戻って、同じことをやれるかと聞かれたら、「ありえない!」。100%もう絶 対にやりたくないよ。

 心が折れかけたら、もうそれで終りだから、絶対に折れないって思ってたよ。で も、もしも失敗したらと考えたときに、奥さんに相談したことがある。「自己破産するかもしれないから、離婚しておいたほうがいいかもしれない」って。そし たら彼女は「あなた慰謝料払わずに分かれる気じゃないでしょうね。やると決めたんだから、二度とそんなこと私の前で言わないで!」と。もちろん、状況をす べてわかったうえでのアドバイスなんだけど、まあ嬉しかったよね。

 資金だけではなく、車に関しても いろいろあった。2005年のBARか、2006年のホンダのシャシーの知的財産を譲渡してもらう予定だったんだけど、FIAとFOM(フォーミュラ・ワ ン・マネジメント)および、F1参加チームの間の取り決めであるコンコルド協定により、それが使用できないことが判明。結局、旧アロウズチームが2002 年に使用していた、「A23」というシャシーをベースにした、「SA05」で開幕後数戦に参戦することに。ほかチームの最新マシンのシャシーと比べると、 4年の差があるわけで、これはある意味、竹やりで戦闘機と戦うくらいの開きがあるよね。ちなみに、現在はオリジナル設計のシャシー「SA06」を投入して います。

<未来へ~鈴木亜久里が目指すもの>
50歳まではF1をがっちりやって、その後、仕事はいっさいしない

 そして今年の3月、なんとか第1戦のバーレーンには間に合った。佐藤琢磨も、第3戦目まで連続で完走するなど、頑張ってくれているよね。今9月だけ ど、これから第14戦の中国、そして日本、最終戦のブラジルまで、なんとかいい成績を残して今シーズンを走りきりたいと思ってるので、応援していてくださ い。

 「スーパーアグリF1チーム」は、約150人のスタッフで運営しているんだけど、僕は船長みた いなもの。船長が乗組員に不安を見せたら終わり。だから例え不安があっても、絶対にそれは見せない。もちろん自分が核になって動き出したチームではあるん だけど、つくづく思うのは、本当にいろんな人に助けてもらっているなと。自分の力なんて、1%くらいだよ。だって船長も機関士や航海士の代わりはできない じゃない。個々の才能や力が集まって、頑張ってくれているから今がある。だからやっぱり人間関係が大事だよね。振り返って考えてみると、いつも僕は「みん なで成功しよう」って思い続けてる。

 来シーズン?来年はかなり大丈夫!ガッチリいきますよ。トップ グループを走りますから期待していてください。表彰台?それはわかんない(笑)。来年の先の将来? 昔は漠然とした夢をどんどん口にしていたけど、今は言 えない。イメージはできてるんだけど、ちょっと図々しすぎる夢だからね(笑)。

 ただ、50歳になっ たら全部いったんやめる。仕事はいっさいしないで、好きなことしかしないって決めてる。世間が何と言おうが、やんない(笑)。もしやるとしたら、お姉ちゃ んが集まる喫茶店とかカフェとかならありえるかもね(笑)。冗談はさておき、50歳以降は、多分、日本とオーストラリアとヨーロッパとアメリカを転々とし てるんじゃないかな。それが今考えている、ちょっと先にある将来の自分のイメージ。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分のコップに水をためるのではなく、みんなのためのプールに水をためよう!

 ほら、僕の人生って、行き当たりばったりじゃない。だから僕が起業家の方々にアドバイスなんて、好きなことやってるだけだし、役に立つのかな? 起 業家には緻密さが必要なんて言われたら、やばいよね。僕が緻密だったら、そもそもF1チームのオーナーなんてチャレンジしてないって(笑)。

  でもやっぱり、何のために起業するかって大事だよね。まあ最初から独立後の自分の収入を心配しているようじゃ、ダメだと思う。洋服屋でも何でもいいんだけ ど、自分がやったらもっと良くなるって考えるから、会社を辞めて起業するんでしょう? 夢やビジョンがあるから、頑張れるんじゃないの? 例え話だけど、 自分のコップに水をためようとしても、それはなかなか難しい。それよりも、プールに水をためて、みんなに泳いでもらうんだ! それくらいじゃないとね。も ちろんリスクは大きいけど。僕はいつもそのつもりでやってきたし、そうじゃない人とは考え方が違うから、やっぱりコメントできないよね。

  毎日寿司食いたいからとか、いい車に乗りたいからとか、ちょっといい生活したいなんて理由が先に立つなら、起業なんてやめておいたほうがいいと思う。多 分、そんな人が起業したって、カローラにも乗れないんじゃないかな。起業の理由が自分のためにだと難しいよ。きっと誰も応援してくれないじゃない。それな ら会社員として頑張って、会社からコップに水を注いでもらう生活を続けていた方がいいと思う。

 あ と、僕はいいことも悪いことも、全部含めて過去は嫌いなんだよ。どうでもいいよね、そんなことは。関係ない。常に前を向いて、成功をイメージして、自分が 進化していくから面白い。夢やビジョンが生まれたら、とにかくやること。一歩を踏み出す。失敗なんて当然あるわけで、同じ失敗を繰り返さなければいいんだ から。僕も何度も失敗してきたけれど、絶対に同じ過ちは繰り返さないようにしてる。悪い女には二度と引っかからない。もう教訓はできてるぞと(笑)。

 そしてビジネスを立ち上げて、継続していくためには、やはり人間関係が一番大切だよね。そのためには、自分にウソをつかずに、正直に生きることだよ。それを決めて一歩を踏み出せば、人との新しい出会いがあって、新しい展開が広がっていくはずだから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

起業、経営ノウハウが詰まったツールのすべてが、
ここにあります。

無料で始める