第62回 株式会社エムビーエス 山本貴士

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第62回
株式会社エムビーエス 代表取締役
山本貴士 Takashi Yamamoto

1972年、山口県生まれ。家業の倒産、両親の離婚などの事情で、群馬県で青春期を過ごした。入学した高校はすぐに自主退学し、妹の学費を稼ぐためにさまざま なアルバイトを経験。18歳から横浜の外車ディーラー「ヤナセ」に勤め始めるが、 1年半で退職。その後、生まれ故郷の山口県・宇部市に戻り、個人事業として足場組みの仕事を始める。肉体労働を続けながら、市場の将来と課題を冷静に分 析。足場組みの作業効率を上げると同時に、1997年、有限会社を設立し、その翌年、新規事業として外壁リフォームサービス「ホームメイキャップ」を立ち 上げる。2001年に組織を株式会社に変更し、株式会社エムビーエス誕生。事業は急成長し、2005年4月、福岡証券取引所Q-Boardに株式上場を果 たした。中国地区ニュービジネス協議会会長賞、大前研一氏主催のビジネスジャパンオープン審査特別賞など、受賞歴も多数。

ライフスタイル

好きな食べ物

焼き肉です。
経営者って、けっこう和食とか野菜が好きって言いませんか? あれきっと本心じゃないですよ。親しい経営者同士で会うと、よく「久しぶりに焼き肉行こ う」って言うんですが、あれ? この間も一緒に焼き肉食べたでしょうって(笑)。僕はネギ以外の食べ物は何でも好きなんですが、一番は焼き肉ということに しといてください。ウソが嫌いなので(笑)。

趣味

映画鑑賞しかないんです 
ほぼ無趣味なんですけど、ひとつ挙げろと言われたら映画鑑賞です。映画って、たった2時間程度でいろんな主張をしてくれますよね。あとは、プロデューサー がどんな狙いで監督や出演者を選んでいるのか、投資ビジネス的視点で観ても面白いですし。時間がある夜は、1冊の本よりも、1本の映画を観ることにしてい ます。

休日の過ごし方

自分の靴を磨くこと
丸1日休めるのは月に2日程度です。家にいる時は、よく靴磨きをしています。あとカバンのメンテナンスとか。もともと革製品が大好きで、愛着あるアイテム をメンテナンスしながら使い込んでいくと、いい感じになるでしょう。そのプロセスが好きなんです。あと長男が中学校に入ったので、一緒に映画とか食事とか 行ったり。こいつも大分、楽しい存在になってきました(笑)

最近、感動したこと。

ある経営者からの一言
けっこう感動することが多いんですが……。そういえば、資本提携をしている極東建設の鳴本聡一郎社長から言われた一言にはかなりグッときました。具体的に はお教えしたくないのですが、あれは、エムビーエスを永続して成長させるために今絶対に必要なアドバイスでした。彼こそ、僕にとってなくてはならないパー トナーだと思っています。

あるものは守る、そして長く愛されるものをつくる。
そこに安全という柱を組み込んで、社会貢献を続けます。

 家業の倒産により、一家離散。強硬な債権回収が始まる。裕福な家庭事情は暗転し、いきなりどん底生活へ突入。そんな家庭に生まれ育った少年は、勉強とス ポーツを武器に、自分を外部からの攻撃から守り続けた。青春時代、高校をすぐに辞め、やんちゃもしたが、18歳の夏、あるきっかけから、社長を目指していた幼き頃の夢を思い出した。最初に就職した会社で、組織運営の“いろは”を吸収した後に退職。起業を決意し向かった先は、父が事業を失敗させた、自身の生まれ故郷でもある山口県・宇部市。底辺からのスタートすることを自分で決め、足場組みの個人事業主から、上場企業経営者へと自分自身を成長させたのが、株式会社エムビーエスの代表取締役、山本貴士氏である。ロック界の“成りあがり”代表が矢沢永吉氏なら、山本氏はビジネス界のそれといえよう。今回は、そんな山本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<山本貴士をつくったルーツ1>
父の会社が倒産し、幸せな家庭は崩壊。祖父母を守るため、ひとり実家に残る

  山口県の宇部市が僕の生まれ故郷です。父は建築系のインテリア会社の経営者で、従業員も多数抱えて、繁盛させていたようです。ですから、当時はかな り裕福な家庭でしたよ。どれくらい裕福かというと、まず、家には数え切れないくらいの日本刀のコレクションがありました。父の趣味だったんでしょうね。で、それを使ってチャンバラゴッコをやって刀を傷つけてもまったく怒られませんでしたから。あと、幼稚園時代の記憶が残っている遊びといえば、実家の隣にある事務所での社長ごっこ。名前は忘れましたけど、手形に数字を押すスタンプ機で、みんなでばんばん手形をつくって遊んでいました。当然、僕が社長役ですよ(笑)。

 小学校に上がるころ、そんな裕福な家庭事情が一転。父の会社が取引先の事業失敗に巻き込まれていきなり倒産してしまうんです。それからヤクザ風の男たちが自宅に取り立てに来るようになって。土足でガンガン。本当にいきなりでした。何となく家族会議のようなものが開かれて、その2日後には父と母、1つ下の妹は群馬に夜逃げすることに。でも、僕は絶対について行かないと。家にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが残ることになることを聞いて、僕が守らなきゃいけないと思ったんでしょうね。ヤクザがやってきたら、僕はいつもふたりを守るため、やつらにつっかかっていっていました。小さいから、何もできないんですけど……。それから家も会社も差し押さえられてしまって、祖父母と僕は小さな家に引っ越しすることになるんです。

 今思えば、親が必要とか、大人が必要とかまったく考えたことがない子どもでしたね。なぜか自立心が旺盛だったんですよ。お祖父ちゃんはとても厳しく、お祖母ちゃんは僕のことをいつも心配してくれる優しい人でしてね。僕はかなりの悪がきでしたから、それでいつもお祖母ちゃんはお祖父ちゃんに怒られて。もちろんお金もないですから、狭い家で生活も質素。だんだんふたりに負担をかけているなあと思うようになって。これ以上僕がここにいると逆に申し訳ないと。それで、小学校2年のときに、ひとり群馬の両親の元へ行く決意をするんですよ。

<山本貴士をつくったルーツ2>
憧れではなく、お金を稼ぐ職業として、プロ野球選手になると誓った小学生

 群馬の小学校に転校しましたが、生活はドが付くほどの貧乏ですよ。家に電話はないし、給食費が払えなくて担任の先生に立て替えてもらったこともある。給食費を集めるための封筒を家に持って帰るのが本当に嫌でしたね。僕らが小さなころって、大多数を占める中流家庭の子どもが、貧乏か身体的問題を持つ子どもをマトにしていじめるというものでしたでしょう。だから、それを避けるツールとして、スポーツと勉強はしっかりやりました。特に、はまったのは野球ですね。小学校時代は、本気でプロ野球選手になりたいと思っていたんです。単なる憧れではなくて、金を稼ぐ職業のひとつとして。

 父は会社勤めを始めたのですが、やはり元経営者というプイライドが邪魔するのでしょう。雇われる働き方にうまく入っていけず、職を転々として酒に逃げるばかり。母の内職だけが家庭の原動力なわけです。小学4年生のころ、確かジャイアンツのある選手だったと思うのですが、年俸で4000万円ももらっているということを知った。父の背負った負債が3000万円くらいと聞いていましたから、プロ野球選手はたったの1年でそれを超える金を稼げるのかと。それからは野球一色の生活ですよ。中学卒業まで続けて、同級生のチームメートのうち5人が甲子園に出場しています。けっこう強いチームだったんですよ。

 僕の場合は、野球を断念せざるを得ない事態が発生……。父と母が離婚してしまうんです。高校に入学はしたのですが、すぐに自主退学しました。生活費のほとんどを母に頼っていましたからね。妹は絶対に高校だけは卒業してもらいたかったので、自分がのんびり学校に行っている場合じゃなくなった。それからは働きまくりの毎日です。トラック運転手の助手、ラーメン店のホール係、物置の組み立て工など、いろんなアルバイトを続けました。それでも月に10万円稼ぐのが精一杯。アルバイト料のほとんどが、日々の生活費と妹の学費に消えていきました。

<ヤナセの会社員時代>
甲子園で活躍するライバルの姿に大ショック!社長になる夢を思い出し、まずは就職を決意

  18歳の夏、なけなしのバイト料を貯めた資金で、仲間よりも先に車の免許を取得した僕は、友人たちと神戸までドライブに出かけたんです。ドライブインでふと目にしたテレビでは、甲子園の中継を流している。「ん? あれは?」。中学時代にライバル視していたチームメートが、テレビの中のバッターボックスに入っている。バイトばかりで先の見えない自分と、ひとつの夢を叶えたライバルとの差に愕然としました。「いったい俺は何をやってるんだ」。金縛りにあったような感じでした。そしてあまりの悔しさに、涙が溢れてきた……。この瞬間に、このままではいけない、自分は会社の社長を目指そう。そう思ったんですよね。もともとプロ野球選手になる前の夢は、経営者でしたから。

 小学校からの親友の親戚がヤナセの重役をしていまして。高校卒業を控えたその親友が「俺はヤナセを受けるけど、お前もどうだ?」と誘ってくれたんです。いつか社長になりたいといっても、会社経営や、組織運営に関してはまったくの無知。これは渡りに船だと、勉強させてもらうつもりで入社試験を受けさせてもらった。やんちゃばかりの10代でしたが、なんとか高卒と同じ待遇で採用が決定。そして僕は横浜のヤナセに配属となり、ドイツ本国から運ばれてくる高級外車の品質管理部で働くことになったんです。

 船便で到着した車を検査して、傷や錆がある、雨跡がある、部品が間違って装着されているなどの瑕疵をチェックします。その後、これは板金、これは塗装、磨き、調整などのラインに振り分けるための指示書を書くわけです。それぞれのラインは当然、自分たちの仕事を軽減したいですから、できれば別のラインに回したい。その交渉、調整が大変で、僕の前の担当者はストレスで体を壊したそうです。最初は僕もかなりのストレスを強いられましたが、強気かつ、ザックバランな性格が、ラインの中で一番怖いといわれていた上司に認められまして。それからは、とてもスムーズに仕事を回せるようになった。1年半後には、もう何でも自分でできるような気になって(笑)、そろそろやるかと。退職日の翌日、僕は退職金の50万円とボストンバッグを手に、山口県・宇部空港に降り立っていました。

<生まれ故郷で反撃の狼煙を上げる>
足場施工の親方となり実力発揮。稼ぎに稼いで月間収入300万円!?

 どうせやるなら、父が失敗した宇部の街でリベンジしてやろう。そして、底辺から始めて頂点を極めるのがかっこいいだろうと。宇部空港に着いて、タクシーに乗り、一番近い不動産屋へ直行。そこで今日から住めるアパートを紹介してもらって即契約し、大家さんに新聞を借りて、求人欄を調べたんです。そこで見つけたのが、建築現場の足場組みの仕事。その時、ちょうど20歳の僕と30代の中村さんという男性が応募していて、じゃあまずふたりで組んでやってみろとなった。結果、僕のほうが仕事、できたんですよ(笑)。それで、僕が個人事業主の親方となって、彼とふたりで仕事を始めることになったんです。

 最初の月は、1日1件の現場をこなすのがやっと。それで1カ月の業務委託費が40万円と少し。中村さんには25万円払う約束で、車のリース代、ガソリン代も僕が支払いますから、まったく手元に残りません。当初は飢え死に寸前でしたよ(苦笑)。そこから効率化への工夫を始めるんです。あらかじめ現場の図面を見て、その日に必要な資材や調整部材を綿密に計算し用意。そうすると、荷台に2件目用の資材も詰めるようになり、資材置き場に戻る時間を削除できます。どんどん効率化を進めていった結果、2カ月半後には、1日、2件、3件と現場を回れるようになって、4カ月目には僕の手元に100万円が残るようになった。2年目からは人員増強を始め、5年目には毎月の僕の収入は300万円を超えていました。

 その頃、自分自身が体を壊して入院してしまった。僕についてきてくれたスタッフも、今のままでは安心して働ける職場とはいえません。そこで、スタッフたちのリスクを軽減する各種保険を整備したいと思い、法人を設立。この仕事を始めた当初から、「5年後には有限会社を」と計画していましたから、まあ予定どおりですね。時同じ頃、あるリフォーム建築現場で足場を解体していると、お客さまが僕にクレームがあると。お聞きしてみたら「外壁が新築時のようになると思っていたのに、ペンキでベタっと塗られてしまい想像と違う」。実は、同じような話をいろんな現場で聞いていたのです。親切心でその話をリフォーム業者に伝えたのですが「やり方は変えられない。こっちのせいじゃない」の一点張り。このギャップを解決するために、僕は研究開発を始めることになるんです。

建造物を守りたい人がいる限り、出番は終わらない。
誰からも惚れられる“女形的企業”を目指します!

<地方企業が挑む頂上作戦>
研究開発した武器を広く知らしめるため、権威あるビジネスプランコンテストに挑戦

 建物を最初に建てた時の状態に戻すことができれば、お客さまの希望に沿うことができると考えました。そのためには、外壁を数ミクロン単位で均一に削り、壁の表面に無色透明のコーティング材を塗布すればいい。芸術的な家具塗装メンテナンスの技術を活用してみようと。そこでまず、市販のバフや研磨剤を使って、嫁の実家や知人の家の外壁を削らせてもらった。もうボロボロになるまで(苦笑)。その一方で、いろんなメンテナンス系のフランチャイズ本部に加盟金を支払って加盟し、さまざまな技術の研究にも取り組みました。数年間の研究開発費として、数千万円くらいはかけていますから、こっちも必死です。

 結果、外壁の凹凸部分を均一に削ることができる、従来の回転式ではなく、振動式の羊毛バフの開発に成功。外壁を研磨した跡のコーティング材も、数え切れないくらいの材料を試し、英国の塗装材メーカーのコーティング材との相性が良いことも判明。そして外壁材の種類別に最適な技術、施工法も完成し、1998年には本格的な外壁リフォーム業へと進出しました。最高の技術との自負はありましたが、残念ながら当社は宇部市という地方都市にある小さなベンチャー企業でしょう。学術機関との共同研究継続、開発技術の特許申請、英国の塗料材メーカーとの独占契約、また設備投資に人材確保にかかる運転資金が必要なのですが、金融機関にまったく相手にしてもらえない。そのうえ、訪問販売は絶対にしないと決めていましたから、簡単には受注も増えません。

 ならば、自らでこの会社を全国区、特に東京のメディアにPRしたり、権威あるビジネスプランコンテストにアタックしたりすることで格を上げていこうと。まず、従来のリフォームとの差別化を図るために、「ホームメイキャップ」という事業名を考案し、工法の特許を出願。そのうえで起業家支援情報誌『月刊アントレ』の事業計画オーディションに応募。トップ賞を受賞。それだけで、地元の金融機関の見方が180度変わりました。その後、大前研一さんが主催した「ビジネスジャパンオープン」にも応募し、参加者のなかでトップの評価を得たんですよ。そして大前さんからの出資を受け入れ、2001年に株式会社に組織変更。株式会社エムビーエスとしての進撃を開始するのです。

<上場はあくまでもひとつの通過点>
戸建てリフォームから始まったビジネスが、大型建造物の耐久性向上を手がけるまでに

 ホームメイキャップ事業ですが、自社での施工はもちろん、心ある建設会社、設計事務所、工務店と提携して、彼らに施工してもらうという体制も構築し ています。正直、普通の外壁塗装よりも価格は高くなるのですが、きちんとご説明することができれば、美観の面、耐久性の面で、ホームメイキャップの費用対効果の良さは伝わるようです。山口県内の受注もどんどん増加したことで、著名な建築家にこの技術が見初められるなど、県外でのオーダーも入るようになりました。おかげさまで、現在では東京と福岡に支店を開設。その後の施工数もかなりの勢いで増えているんですよ。

 その後も研究開発を継続し、耐久性を高めるため、まずガラス繊維を混ぜたグラスファイバー製のシートで補強し、その上に特殊カラーコーティング剤を塗布するという工法も考案。特許を申請しています。これにより、戸建て住宅の外壁リフォームだけにとどまらず、大型ビルやマンション、また、鉄道の高架や高速道路、トンネルなどコンクリート造の大型建築物に対応することも可能となりました。万一、コンクリートの内部の鉄筋腐食などが原因で起こる爆裂や亀裂が起きても、崩壊やコンクリート片が落下する二次災害を防げます。この技術をさらに発展させ、構造物の表面異常が見える透明な塗布接着形シート工法を開発したことで、国土交通省中国地方整備局より「NETIS」への登録を得ました。簡単に説明すると、入札の必要がなく、随意契約が結べるということ。技術力への評価により、価格競争に巻き込まれないビジネスができるようになったのです。

 話を少し戻しますが、2000年、まだ有限会社だった頃のこと。毎年自分の誕生日である7月17日にひとりで宇部全日空ホテルに宿泊し、今後の事業展開を考えることにしてたんです。うちのメンバーは学歴は低いけど、みんな心意気が良く、地頭のいいやつらばかり。彼らの履歴書で上場企業に入ることはできないけど、エムビーエスを上場させることで上場企業の社員になれるじゃないかと。「逆立ちしてもできないないなら、逆立ちしてできる方法を実現すればいいんだ」と。それで5年後に必ず上場することを決意し、翌日のチェックアウト時に「5年後の今日、上場記念パーティーをするので、一番広い宴会場を押さえておいて」と予約したんですよ。フロントの担当者は当然半信半疑で「有限会社は上場できないのでは?」と言われた記憶があります(笑)。でも実際に、2005年4月、エムビーエスは福岡証券取引所の「Q-Board」に上場。7月17日の上場記念パーティーはもちろん嬉しかったですが、一番ほっとしたのは全日空ホテルなんじゃないですか(笑)。

<未来へ~エムビーエスが目指すもの>
どこまで可能性が広がるか予測不能。誰からも惚れられる女形的企業になる!

 「100年住宅」という言葉が昨今もてはやされていますね。確かに、これからは今以上に、既存の建造物を大切に修繕・修復しながらできるだけ長く使おうという風潮は強まっていくでしょう。当社は戸建ての美観を元どおりに復元するという事業からスタートしましたが、その後、さまざまな既存建造物の耐久性を高めるというサービスも提供するようになりました。そこからさらに一歩を踏み込み、美しくより長く住まえる安全な住宅をつくりたいと考え、2006年4月、不動産の分譲事業に進出しています。ホームメイキャップ工法の優れた耐久性・耐震性を生かし、さらに安全・防犯性も付加した、新しい居住システム「セキュメゾン」を企画・開発・施工。こちらも早期完売を実現することができました。

 また、現在準備を進めているのが、「道の屋泊(やど)」プロジェクトです。これは、全国津々浦々に点在している「道の駅」の近くに、発泡ウレタンで耐震コーティングを図った、ドーム型の宿泊施設兼、災害時避難施設「防護ハウス」を設置していくというもの。通常は1家族4人、1泊1万円程度で使っていただける手頃なホテルとして稼動させ、災害時には地域の方々に避難場所として使用してもらいたい。今ある建造物をできるだけ長く、また、これからつくる建造物もできるだけ長く、そしてそれぞれに“安全”という視点を盛り込んでいく。世の中のために僕たちができることは何かをじっくり考えた結果、この3本柱を事業の核とすることを決めたのです。

 手がけるマーケットは少しずつ広がり、当社の思いも時代の要請に合致していると考えています。大手電鉄会社や道路関連企業からのオーダーや、建設業をネットワークした組織との提携なども増え始めており、どこまでマーケットが広がるのか予想もつかない状況です。もしも自社を急拡大しなければならなくなった時、僕自身が経営者としてしっかり舵が取れるのかわからない部分も正直あります。大きな政治力も必要でしょうし。だから、メンバーにはいつも言ってるんです。「俺たちは、超美形の女形的な会社になろう」と。男くさい建設業界の中で、誰からも嫁としてほしがられる会社になろうということです(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
周囲の応援に応えるためのプレッシャーをエネルギーに変えて奮闘し続けてください

 基本的には起業なんてしないほうがいいですよ。会社員として頑張れる場所があるなら、わざわざ飛び込む必要ないんじゃないですか。結局、「絶対にやめておけ」「失敗するぞ」って何度言われても、どうしてもやりたい人ってやるんですよね。僕は昔から社長になりたいって思っていましたから、誰がなんと言ってもやっていたとは思いますけど。ちなみに、母からはそうとう止められました(笑)。でも、実際に起業してみて思うのは、張ったリスクの大きさに比べて、得られるリターンはそれほど大きくないですし、それゆえに自己満足を繰り返していくしかない、本当に自己責任が重い、大変な世界だなということ。

 リフォーム事業に参入した時は、競合相手が企業舎弟だったことも。ある物件を受注後、「引け」といわれて、断った。最後は黒塗りの車に乗せられて、「引け!」「絶対に引けない!」という押し問答になって。社員たちを食わすためにも絶対に落とせない仕事だったんです。最終的には、相手が根負けして引いてくれましたが、そんなリスクもあったりするわけですよ。でも、僕はまったくそういうのが怖いと思わないんです。小学生の頃に、もっと怖いのを経験していますからね(笑)。ある意味それらはトラウマなんですが、頑張れば超えられないものはないという体験になっているのかもしれない。

 最近、トラブルがあるとすぐ人のせいにする人が多くなっている気がしています。「誰でもよかった」という理由で殺人をするやつとかいますし。「可能性がある」とか「夢を持とう」という応援の仕方もいいのですが、やはり、そこに行くまでには越えるべき高い壁があるわけで。その存在をしっかり教えるだけでなく、体験させてあげないといけないと思うんです。そういった意味でも、起業して本気で成長したいなら、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた尊敬できる経営者をつくっておくべきです。いっさい甘えさせてはくれず、この人から褒められたいと思えるような人がいいでしょうね。

 そもそも起業家としての成長の尺度は、お金をどれだけ得るかではなく、関係する周囲の方々から応援されていることをしっかり実感し、その応援に応えるためのプレッシャーをクリアし続けることにあると思います。それも少しずつ自分への付加をつけながら。ひとつクリアしたら、ひとつ褒めてもらえて、また次を目指す。起業してこの循環をつくることができれば、あなたも起業家として成長できるサークルに乗ることができたと思っていいのではないでしょうか。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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