第43回 株式会社skipkids 藤代 聡

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第43回
株式会社skipkids 代表取締役
藤代 聡 Satoshi Fujishiro

1966年、東京都生まれ。獨協大学経済学部卒業。父の仕事の関係で、幼稚園は島根県、小学校は東京、中学・高校は千葉県で過ごす。小学時代から始めた野 球を高校卒業まで続ける。足が自慢の外野手だった。高校時代は本気で甲子園を目指したが、惜しくもベスト8で敗退。プロ選手への道を断念し、大学に進学。 大学ではスキークラブと、学園祭実行委員会、バイト斡旋の学生起業などの活動に明け暮れた。卒業後は、リクルートのグループ会社に就職。10年間の営業で 3500社のクライアントを担当し、その後、新規事業を経営に提案する事業企画部、メディアづくりを担当するメディアプロデュース部を渡り歩き、15年間 勤めたリクルートを37歳で退職。2004年3月、有限会社クリアールを設立。同年6月、親子カフェ「スキップキッズ」1号店となる西葛西店をオープン。 開業後すぐに子連れ主婦から絶大な人気を博し、行列ができる大繁盛カフェとなった。2006年3月、社名を株式会社スキップキッズに変更。現在、直営7店 舗、スタッフ総勢130名を取り仕切る、同社の総帥として活躍している。

ライフスタイル

好きな食べ物

イタリアンが多いかな。
スキップキッズでご提供しているフードメニューが、パスタ、ピザなどイタリアン中心なんです。なので、外食でも視察を兼ねてイタリアンレストランに行くこ とが多いです。あと、スタッフとの“飲みニケーション”も。熱いスタッフをよく誘いますね。お酒は個人的にも大好きで、よく飲むのはビールと焼酎かな。

趣味

本当はスキューバダイビング。 
会社員時代は、妻とスキューバによく行っていました。あとは、週末はテニスに野球、週2で水泳&ジム通い。でも、起業後の3年間は全く(苦笑)。起業前の水泳は10年位続けていたので、また再開したいです。

休日

ほとんどないですね。
スキップキッズの営業は年中無休。私の休みもほとんどありません。でも、好きでやってる事ですから、オンとかオフの感覚がないですね。毎日がとても楽しいです。家族は妻と、中1の長男、小4の長女、小2の次女の5人家族。みんな、私の忙しさを理解してくれています。

行ってみたい場所

やっぱり、海。
これまで、グレートバリアリーフ、ハワイ、グアム、沖縄の離島と、たくさんの海を潜ってきました。ちなみに、一番、きれいだな~と思ったのは、沖縄の海でした。休みが取れたら、家族みんなで行ってみたいですね。スキューバしに、海へ。

親子間の笑顔が広がれば、悲しい事件もなくなる。
親子カフェ“スキップキッズ”は、社会貢献の装置

 親が子を虐待、子が親を殺傷……。ここ数年、さまざまなメディアから、親子の悲鳴ともいえる悲しい報道が次々に流れてくる。そして子を持つ親は、誰もが、そんなニュースを耳にして心を痛めている。これらの悲しい事件の原因となっているものとはなんだろう。それは、家庭を切り盛りする母親のストレスだったり、両 親間の情報不足であったり、いずれにせよ大人の余裕のなさが、その元凶をつくっているのではないだろうか。スキップキッズは、子連れの主婦が気軽に訪れることができる「親子カフェ」。この場所には、親子の思いきり明るい笑顔がたくさんあふれている。そして、これまで存在していなかった、「親子カフェ」マーケットを創出したのが、スキップキッズ代表の藤代聡氏である。彼もまた、妻と3人の子どもをもつ父親だ。そんな彼が、家庭の中でのあるきっかけから思いついたのが現在の事業。「ささやかかもしれないが、親子カフェがあれば、世の中から悲しい事件を減少させる、社会貢献ができるかもしれない」と。今回は、そんな藤代氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<藤代 聡をつくったルーツ.1>
ベランダから飛び降りるやんちゃな子ども。小学時代からは、熱心な野球少年に

 父はKDD(現・KDDI)に勤める会社員でした。私は父と母の間に生まれた一人っ子。産声をあげたのは東京・新宿の病院でしたが、幼稚園にあがる頃、父の転勤で島根県浜田市に引っ越したんです。当時住んでいた辺りは、海、川、山がすぐ近くにある、自然環境が抜群に良い場所。海や川には魚がたくさんいましたし、山に行けば昆虫や小動物に出合えますから、自然を相手に思い切り遊んでいました。

 あと、相当やんちゃな子どもでしたね。駐車場のマンホールに、車にかかっていたカバーシートをはがして詰め込んで、下水をあふれさせたり。7階建てのマン ションの4階にあった自宅のベランダからぶら下がって遊んでいて、2階の屋根まで落っこちたり。で、お尻から落ちたので、ほとんど無傷(笑)。いや、ホントよく生きてましたよね。往診に来られたお医者さんから「こんな暴れん坊は、骨折でもしたほうが大人しくなる」なんて怒られたことを覚えています。いずれにせよ父母は、僕のせいでいろんな方々に謝って回っていたようです。

 小学生になった1年の1学期に、また父親の転勤で、今度は東京の田無市(現・西東京市)へ引っ越しました。幼かったですが、石神井川の鉛色の川面を見て、川が汚いのと魚がいないことに驚いた。ほら、絵本や図鑑で紹介されている川はみんなきれいでしょう。それが当然だと思っていましたから。この頃から野球を始めたのですが、将来はプロ野球選手になるか、環境庁に入って、自然保護の仕事をしたいと考えるようになりました。

 今度は父が千葉の流山市に家を購入。それで、僕も流山の中学へ入学します。公立の中学だったんですが、ものすごいスパルタ教育を実践している学校で。校則も厳しく、当然、男子は坊主頭、制服チェックも週1のペース。軍隊みたいな学校で、正直、イヤでしたね。部活は小学校から続けていた野球部に入部。走るのが速かったので、陸上部にも所属しました。当時、流山市の100メートル走で、市内3位の記録も持っていたんですよ。

<藤代 聡をつくったルーツ.2>
野球部の過酷な練習で、退部者続出。生き残った自分に、自信を感じる

 高校は、県立我孫子高校へ進学しました。私が入学した前年、先輩たちは夏の甲子園に出場していましてね。現在、阪神タイガースの一軍守備走塁コーチを務めている和田豊さんも当時の出場選手でした。それもあって、地域の野球では名の知れた選手が、たくさん入学してきたんです。偏差値も65くらいでしたでしょうか。それほど高くもなく低くもなく、それもちょうどいい頃合だったんだと思います。同級生で野球部に入部したのが、なんと100名強。ここから熾烈な競争が始まるわけです。

 当然、練習は過酷を極めました。前年の甲子園出場に際して、決勝まで行 ける寄付金を集めていたのですが、1回戦で負けてしまった。その余った寄付金が何に使われたかといいますと、雨天練習場、夜間照明、ピッチングマシン8台分。練習環境としては申し分ないのですが、雨天練習場があるから、雨の日も練習できる、夜間照明があるから、夜いつまでも練習ができるわけです。1年間のうち、練習が休みになるのは年間で3日とか4日とか……。野球部員は合宿所での下宿生活ですから、3年の夏に引退するまで、練習ばかりでほとんど遊んだ記憶はありません。

 監督は、甲子園で負けた理由は、緊張のせいだと。緊張感を克服させるため、「このゲームで負けたら走らせる」とプレッシャーをかけます。でも、例えば負けてしまって、グラウンド100周と言われればまだいい。監督は「走れ」と指示を出したまま帰っちゃう。そうすると、みんなず~っと走り続けなければならない。で、一人倒れ、二人倒れで、脱落していく。終わるのか、終わらないのかわからないって、かなりの恐怖なんです。すると、夜遅くにOBが車でやって来て、「もう終わっていいぞ」と伝達に来る。これでやっと開放されるわけです。そんな大変な日々の練習に耐え切れず、退部する同級生が続出。1年目を終えた時には、私を含めて同級生はたったの7人しか残っていませんでした。

 でも、自分はこの過酷な練習に耐えきった。このことが、大きな自信となりましたね。授業中は当然、寝てばかりでしたが(笑)。そうそう、合宿生活も自分を鍛えてくれました。私は一人っ子だったでしょう。家庭では、自分用の食事が普通に出てくるのですが、下宿の食堂はまさに弱肉強食。自分で食べるものは、自分で確保するということも覚えました(笑)

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<大学祭実行委員会へ参加>
学園祭のイベント企画をとおして、企画書づくりと企業との交渉術を覚える

 3年の夏の千葉県大会では、残念ながらベスト8で敗退してしまいました。彼女もできて、燃えていたんですけどね。負けても絶対に泣かないって自分では思ってたんです。でも、監督から「よく頑張った、悔いはないか?」って労いの言葉をもらった瞬間、返事もできず、堰を切ったように号泣してしまいました。ちなみに相手はかなりの強豪。私たちのチームは必死に戦ったのですが、彼らはまだまだ余裕があったように思えました。それでも結局、相手の高校も甲子園に出場することはできなかった。正直、自分のレベルを思い知らされましたよね。まだまだ上がいると。野球をやり切ったという満足感はありましたから、このタイミングでプロへの道は断念し、大学へ進学して、別の将来を模索しよう決めたのです。

 そして、 私は一浪して、獨協大学経済学部へ進学します。高校時代、全く遊ばなかったでしょう。だから、大学では普通の若者らしい生活をしようと(笑)。けっこう本格的なスキー部に入って、あとは適当に遊んでたんです。でも、だんだん退屈になってきて、1年の終わり頃から、大学祭の実行委員会に参加し始めたのです。もともと、人が集まる場所やイベントが好きでしたし、学園祭イベントの企画をやってみたいと。その希望を聞き入れてもらい、私はコンサートやミスコンの企画に携わるようになりました。

 いろんな学園祭の参加アーチストを調べていくと、どこの大学も同じような感じ。どうせやるなら、もっとビッグネームを呼んで、みんなに喜んでほしい。でも、それまでの獨協大学の学園祭は、講堂がコンサート会場でしたから、収容人数がマックス200人程度と少ない。すると必然的に、予算の上限も決まってしまい、ビッグネームを呼べるほどの資金はつくれない。そこで、私は企画書を作成して、大学側に交渉を始めたのです。校庭を開放して、オールスタンディングのコンサートにしましょうと。しかし、屋外での音楽イベントは近隣からの苦情がつき物。最終的には学校側と折り合いをつけて、体育館でコンサートをすることを了承してもらった。講堂の倍は人を収容できますからね。

 結局、プロモーターとの折り合いが悪く、ビッグネームのアーチストは呼べませんでした。しかし、大手飲料メーカー、化粧品メーカー、食品メーカーなどからの、スポンサードは非常にうまく取り付けることができました。PRの結果もしっかりスポンサーにフィードバックしましたし。学園祭のイベント企画をとおして、私は企画書の書き方と、企業との交渉方法を覚えることができたのです。

<リクルートへ>
学生起業の道を断念し、就職を選択。10年間の営業で3500社を担当する

 学園祭の実行委員で活動していると、他大学とのネットワークや、イベント会社などとのつながりができるんです。それで、大学2年の後半くらいから、学生起業のような活動も始めました。いろんな会社から学生のアルバイトを紹介してほしいというオーダーが入り始めたのです。主には、軽作業の人員確保と、イベントの集客です。最初は数人のオーダーから始まって、最盛期には週末に50人から100人の学生をブッキングするまでに。数人の責任者をつくって、みんなで手分けして。もちろん、拠点はそれぞれの自宅です。1日ひとり当たり約8000円のバイト料から、紹介料として1000円が私たちの見入りとなります。固定費ゼロ、変動費100%のおいしい仕事です。このまま就職しなくても、この仕事を続けていけば食っていけるという淡い期待も正直ありました。でも、大きな落とし穴が待ってたんです。

 大口の仕事を出してくれる会社が、バイト料の支払いをせずに逃げちゃったんですね。それで、責任者のみんなでバイトしてくれた学生への未払い分を分担して。まあ、ひとり当たり5万円程度でしたから、親に泣きつくようなことはありませんでしたが。契約書も、与信管理もなくやっていたので、今考えれば恐ろしい話ですよね。やはり、一度社会に出て、しっかりビジネスのルールを学ぶ必要があると痛感させられたトラブルでした。それで私はこの学生起業を断念し、就職することにしたのです。いい勉強になったと思っています。あのまま突っ走っていたら、大変な目に遭っていたでしょうね。

 就職を考える上で、私は、60歳になって仕事人生を終えた時、「俺はこれをやった、残した、つくり上げた」という思いをもてる仕事をしたいと考えました。最終的には自分で事業を立ち上げたいと思っていましたから、そのための修業ができる企業に行こうと。当時はバブル期、学生にとっては超売り手市場。業界を問わず、いろいろな会社を受けた中で、私はリクルートのグループ会社、リクルートフロムエーへの就職を決めました。強いメディアを持っているということ、業種問わずトップアプローチの営業ができることが最大の決め手となりました。

 入社後の10年間で、1部上場企業から居酒屋などの水商売まで、約3500社のクライアントを担当することができました。将来、起業しようと思っていましたから、営業して経営者に商売成功の秘訣をヒアリングさせてもらえる。採用のコンサルをするわけですから、必然的に会社のメリットを聞かなければ人が採れませんからね。非常にエキサイティングで、楽しい仕事をさせてもらったと思っています。実は10年間働かせてもらって、32歳で起業しようと考えていたのですが、その目標は実現できませんでした。その理由は・・・。

大手の市場参入こそ、この事業が世に求められている証。
パイオニアとして、親子カフェのさらなる進化を目指す!

<家族との生活から生まれた事業アイデア>
会社員時代に得た経験をフル動員し、「親子カフェ」の事業理念をかたちづくる

 まず、営業の仕事を続けたことで、どんな会社がいい会社なのか、自分なりに分析できました。継続して成長し続けている会社には、共通した理由がある。現金商売であること、顧客層が幅広いこと、世のため人のためになる仕事をしていること。あとは会社の対象ユーザーに嘘をつかない姿勢を貫いていること。いくら儲かっている会社でも、これらが揃っていないと、数年後にはなくなっている。営業の10年間は、本当にいい勉強となりました。で、退職して起業するという道も検討はしたのですが、リクルートの経営陣に対して新規事業を企画提案する、事業企画部への異動辞令が届いたのです。結局、私はこの辞令を受けることになるのですが、これも選択として間違っていませんでした。

 私は起業に際して、国民生活金融公庫、信用保証協会へ開業資金の調達のためのプレゼンをしていますし、起業後の出資獲得に当たっては、出資検討先の経営陣へのプレゼンも経験しました。それらのプレゼンに際してリクルートの事業企画時代に、経営陣への新規事業プレゼンを経験できたことが本当に役立ちました。私が「少し曖昧かも」と思っているポイントを、必ずついてくるんですね。エリアやユーザー、競合状況など綿密にマーケティングするなど、その難しさを乗り越えるための努力と苦労はイヤというほどしていましたから。今振り返って考えても、起業の練習としては本当にもってこいだったと思っています。

 起業のアイデアは、こうして生まれました。私には3人の子どもがいるのですが、妻は毎日毎日、子どもたちとべったり。私は仕事が忙しく、毎日、帰宅は午前様。せめて週末は家族で楽しく過ごしたいのですが、妻は平日のストレスが積もっていて、ピリピリしている事がありました。そこで、「俺が子どもを見てるから、映画でも観てきなよ」と、自由な時間をプレゼントしてみたのです。すると、たった2、3時間の自由時間を過ごしただけで、妻は別人のようにリフレッシュして帰ってくる。親が子どもを虐待する事件も多発していましたし、何かここに自分が貢献できる事があるんじゃないかと考えるようになったのです。

 親子で出かけられる場所もあるにはありますが、遊園地やテーマパークは混んでるし、高いし、頻繁には出かけられない。公園は、子どもは楽しめるけど、大人がつまらない。ファストフードはチープで面白くない……。だったら親子がお互いに気軽に出かけられて、満足できる場所をつくってみてはどうだろうかと。そこで思いついたのが、子連れで気兼ねなく楽しめる親子連れ専用のカフェ「親子カフェ」。厳選した遊具をラインナップしたプレイルームを併設し、子どもの面倒を見る保育士を常駐させ、しかも料理もおいしい。そうすれば、母親たちがのんびりとした時間を有意義に過ごせて、それにより、親子の笑顔が広がるはずだと確信しました。

<スキップキッズ1号店誕生>
綿密なマーケティングで出店場所を決定。オープン1週間後には行列ができる店に

 退職の意思を伝えると、会社からも、両親からも猛反対を受けました。リクルートの上司や仲間からは、「少子高齢化の時代に、なぜ子ども向けのビジネスなのか? せめてシニア向けビジネスにしたら」と。両親からは、「せっかくいい会社で、活躍できる舞台を任されているのに。いったい何を考えてるんだ」と。でも、妻は、「ITで起業するって言われてもわからないけど、親子カフェなら自分でもニーズがよくわかるし、絶対イイと思う!」と応援してくれました。この挑戦は、きっと社会貢献にもつながる。そして、世の中にないものをつくり、残したいという、私が社会人になる前に思い描いていた起業理念にも合致している。自分の中で、親子カフェを絶対に成功させたいという思いはどんどん膨らんでいきました。

  その後、リクルート本社の商品企画部に異動し、2003年の8月に退職。起業準備を始めます。ちなみに、ドリームゲートの専門家無料相談は60回以上、使わせてもらいました(笑)。あとは、ユーザー調査もかなり詳細を極めましたよ。まず、「月何回利用したいか?」「自宅からどのくらいの距離なら行こうと思うか?」「ディナー、ランチ、コーヒーはいくらが希望か?」など、数百人の主婦にアンケートを取って、予測来店人数と予測客単価を割り出しました。そのうえで、世帯数、出生数、転入者数、公園の少なさなどを、一都三県の街をひとつひとつ調査。そんな総合的な調査の結果、スキップキッズ1号店の出店場所は江戸川区の西葛西に決まったのです。

 2004年6月にオープンし、広さは55坪。1号店の開業資金総額は2200万円でした。その約半分弱を滑り台やボールプールなどの大型遊具や、ままごとセット、絵本などをそろえたプレイルームに充てています。雑誌や書籍、パソコンなどもラインナップ、メニューにはワインやビールも用意し、大人が時間を楽しむためのアイテムにもしっかり気を配っています。開業から4日間は、比較的のんびりとしたスタートでした。しかし、その翌週からいきなり入店待ちの行列ができ始めた。どこにもなかった商品やサービスって、まずイノベーターユーザーが利用して、良ければすぐに広めてくれる。当然、悪くてもそのうわさはすぐに広がります。ありがたいことに、スキップキッズは子連れの母親ユーザーにとって良いサービスと受け止めていただけたようです。

<未来へ~スキップキッズが目指すもの>
強力な競合の出現もある意味、本望。フランチャイズ展開で多店舗化を目指す!

 正直、開業後うまくいかなかった時の施策はいくつも考えていたのですが、これほど短期間に結果が出るとは予測していませんでした。開業1週間後に、私の主な仕事は受付で入店をお断りする係となっていましたから(笑)。店内の窓側にプレイルームを設置していることもあり、お子さんがいったんその状況を見てしまうと、もう帰りたがらなくなっちゃうんです。それで行列ができる。これではお客様にご迷惑をかけてしまうということで、すぐに予約制を導入しました。基本的に、お食事料金以外に、1歳から6歳までのお子さんの1時間当たり利用料金は250円(キッズプレートを注文した場合は1時間無料)。以降は30分毎に100円をいただいています。平均滞在時間は2時間くらいで、特に時間制限は設けていません。

  おかげさまで、スキップキッズの1店舗当たり月商平均は500万円以上を推移しています。また、さまざまな企業から主婦対象マーケティングリサーチのオーダーも受け付け中。主婦の方々も、来店ついでにちょっとしたアンケートに協力することで、お小遣い稼ぎができるとお喜びいただいています。このマーケティング事業の売り上げがの比率がどんどん伸びています。開業直後から、出店依頼の声をたくさんいただいていたのですが、2号店の出店は慎重に慎重を重ねて計画しました。しかし、2006年4月に、2号店となる南行徳店(千葉)を出店して以降は、1年強の間に、雪谷店(大田区)、東大島店(江東区)、武蔵小山店(品川区)、上石神井店(練馬区)、本八幡店(千葉)と、現在では直営7店を展開するまでに。ちなみに、東大島店はショッピングセンター、ダイエーへのテナント出店、上石神井店は、コンビニエンスストアとの併設出店という、実験も行っています。

 現在、さまざまな企業からフランチャイズでの提携の打診をいただいており、地方展開に関しては、そういった契約で進めていく考えです。また、この8月に1社が撤退しましたが、新たにバンダイ、ツタヤといった大手企業2社が、親子カフェマーケットに進出してくるようです。事業としてもっと成功させたいという思いも当然ありますが、元々この事業を始めた根底には、ストレスを抱えた親子に笑顔が広がることで、虐待を撲滅したいという思いが流れています。世の中になかった良いものをつくって、そのマーケットを広げて一般化していくというチャレンジができたんですから、私にとっては競合の出現も、ある意味、本望といえますね(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業準備中は十分自分をナーバスに。特に、人の見極めは慎重に!

 起業すること自体を、会社から反対され、両親にも反対され始めたわけです。当然、大きなリスクを背負ってのチャレンジですからね。でも、例えば、メディア、銀行、ベンチャーキャピタルなどから、「君の考える事業計画は絶対にうまくいかない」と言われたとしても、絶対に「親子カフェ」事業を始めていたでしょうし、他の人に何と言われようとも、私は取り組んで良かったと心の底から思っています。雇われない生き方っていうんですか、自分で自分の人生をつくっている状況ほど心地いいものはありませんから。

 後悔めいたものがひとつあるとすれば、もう少し若い頃に始めてもよかったかなということ。やはり家族を持つようになると、いろんな責任が増えます。これは些細なことですが、起業後子どもの誕生日が来たんですよ。「自転車を買って」というので、一緒に見に行ったんですが、高いのと安いのがある。子どもは当然、「高いのがいい」と言います。会社員時代だったら、今月ちょっと出費しても、しばらくすれば必ずボーナスがある。多分、躊躇なく高い自転車を買ってあげたと思うのです。子供にしてみれば、親の転職や独立等全く関係ないですからね。守るものが少ない時のほうが、やはり気が楽ですからね。まあ、これは人それぞれだとは思いますけど。

 独立、起業は、自己責任の世界。自分ひとりですべてを決めていかなければなりませんが、ひとつひとつの判断が、新しい自分の価値となっていくでしょう。また、起業準備をしている期間は、良い人も悪い人もたくさん集まってきます。起業する人は、だいたいそれなりの準備資金を持ち、そのお金を使う立場にありますから、ある意味、“カモネギ”になりえるわけです。特に、お金を払う人に相談すべきではありません。飲食店の開業を目指す人なら、例えば内装業者がそれに当たります。物件を一緒に見てもらって、アドバイスを仰ぐと、心無い内装業者は、早く仕事を獲得したいので、あなたの計画よりも自分を優先して、どんどん先に話を進めるでしょう。人の見極めは慎重に行うことです。立ち上げ期こそ、自分を想いと考えを信じて、慎重に進めていくべきです。起業後に後悔しないためにも、気を引き締めて頑張ってください!

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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