第165回 UIEvolution株式会社 中島 聡

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第165回

UIEvolution株式会社

Founder

中島 聡 Satoshi Nakajima

1960年、北海道生まれ、東京育ち、米国シアトル在住。早稲田大学大学院理工学研究科修了。高校時代からアスキー社で、記事執筆やソフトウエアの開発に携わり、大学時代には日本のCADソフトの草分け的存在である「CANDY」を開発。大学院修了後、NTTに入社し、武蔵野市の通信研究所に配属される。1986年、マイクロソフトの日本法人・マイクロソフト株式会社が設立されると、当時の代表取締役社長の古川享氏に直訴し、転職。1989年、米国マイクロソフト本社に移り、Windows95、Internet Explorer 3.0/4.0、Windows98などのソフトウエアアーキテクトを務めた。2000年にマイクロソフトを退社し、約1年間のベンチャーキャピタル勤務を経てUIEvolutionを設立。様々なデバイスで新たなユーザインタフェースを実現するフレームワーク「UIEngine」などを開発する。現在は、代表を後進に託し、ファウンダーとして同社の経営を見守っている。ブロガー、プログラマーとしても活躍中。著書に『エンジニアとしての生き方―IT技術者たちよ、世界へ出よう!』(インプレス選書)がある。

ライフスタイル

趣味
テニスです。

考えることと体を動かすことは、人間の脳にとって同じくらい大切。で、4年前からテニスを始めました。今、シアトルで家族と住んでいますが、アメリカでは、所属しているテニスクラブのチームレベル別に、全国大会に挑戦できるんですよ。そして今年、州代表になって全国大会に出場。個人戦では1勝2敗でしたが、頑張りました(笑)。

行ってみたい場所
宇宙です。

地球を宇宙から見てみたい。昔、宇宙旅行に申し込んだのですが、その会社がとん挫しました。また申し込まねばと思っています。あとは、鯨と一緒に泳いでみたい。ハワイで、何度か挑戦したんですよ。一度目は陸から見つけたクジラを泳いで追いかけて、二度目はシーカヤックで追いかけて。どちらも鯨にたどり着けませんでした(笑)。

感動したこと
映画「ウィンブルドン」です。

泣けるといわれる映画で、一度も泣けたことがないんですよ。「主人公よ、勝手に死んでくれ」って思うくらい(笑)。でも、飛行機の中で観た、2004年のイギリス映画「ウィンブルドン」はとても面白かった。テニスのウィンブルドン大会と恋を題材にした、ロマンチック・コメディなのですが、予想外に泣けました。お勧めです。

第一線を走り続ける日本人プログラマーが導く、
ソフトウエアで文化を変える素晴らしき未来

 マイコン「TK-80」を購入して、プログラミングの面白さを知った高校時代。自作のCADソフト「CANDY」が大ヒットし、プログラマーとして名を売った大学時代。そんな時を経て、中島聡氏は、米国マイクロソフト本社のソフトウエアアーキテクトとなるのだが、2000年、「自分の意にそぐわず」と、同社を退社。UIEvolutionを設立し、自分の思い描く素晴らしき未来を見据え、ソフトウエアで新たな文化を創造する活動を続けている。「ハードは常に進化していきますが、どんなハードも必ず臨界点を迎えます。でも、ハードが進化していくと、これまでできなかったことができるようになる。その波打ち際を、常に走り続けていたい。かっこいいでしょ(笑)」。今回はそんな中島氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<中島 聡をつくったルーツ①>
理数系は天才肌で、科学者を夢見た少年時代。
中学時代のお気に入りはNHKの「通信高校講座」!?

 生まれた場所は北海道ですが、生後3カ月頃に、大手ゼネコンで建築設計をしていた父の転勤で東京へ。その後はずっと東京暮らしです。ちなみに、両親ともに九州から東京に出てきた人で、僕には姉が一人。典型的といえばいいのかな。日本の高度成長期を支えた、4人家族のサラリーマン家庭ですよ。ちょうど時代の変わり目で、白黒テレビがカラーになったり、電子レンジが登場したり。新しい家電がどんどん生まれていました。SF小説を読みあさっていましたね。学校の図書館の棚にあったSFはすべて読んだと思います。中でもよく覚えているのは、アイザック・アシモフの『銀河帝国の興亡』です。あと、鉄腕アトムが大好きで、子どもの頃は原子力に希望があった。もちろん、今はみんな考えが変わったけれど。小さな時から僕の夢は、科学者になること。算数と理科はすごくできて、その2教科は成績がいつも5なのですが、ほかの教科はからきし。かなり偏っていたから、親も少し心配していたみたいです(笑)。

 中学でも理系好きの偏重は変わらず。3年間ほぼ毎日、夜の7時から10時まで当時NHKで放送していた、「通信高校講座」を見ていました。中学生が、高校生が学ぶ科学、物理、地学とか。これがとても面白かったですし、自分の大きな素地になりました。ただ、姉は本当に嫌がっていましたね。ゴールデンタイムに好きな番組が見られないんだから(笑)。あとは、中2の頃、秋葉原に通って、自宅で化学実験ができる道具をそろえるために、フラスコ、ビーカーなど実験道具をよく買っていました。ある実験のために、硝酸を手に入れたくなったんだけど、当然、子どもに売ってはくれません。だったら自分でと、化学事典で硝酸のつくり方を調べたり、物理に興味があったので、瞬間移動装置やタイムマシンをつくるためにはどうすればいいか考えたり。でも、映画『蝿男の恐怖』の原作『The Fly』を読んでから、瞬間移動装置はちょっと怖くなりました(笑)。

 東京工業大学出身の父は、僕には東京大学に進んでほしかったようです。ただ、ちょうど、僕らの年代から共通一次試験がスタートすることになって……。僕は文系科目が苦手でだから、共通一次はかなり厳しい。そこで、大学までエスカレーター式で進めて、理数系の勉強に思いきり専念できる高校を探してみたんですよ。それが、早稲田大学高等学院でした。当時、早稲田大学高等学院の入学試験は英国数の3教科で、300満点中167点を取れば合格できるといわれていました。数学はほぼ確実に100点が取れる自信がありましたし、残りの英語と国語の2教科で67点なら絶対にいける。それが、早稲田大学高等学院を受験しようと思った理由です。結果、無事合格し、高校、大学、大学院と、9年間続くことになる、僕の早稲田デイズが始まりました。

<中島 聡をつくったルーツ②>
高校時代にプログラミングの面白さに開眼。
アスキー社にもぐり込み、大人顔負けの大活躍

 高校に入って間もなくして、僕が憧れていたものづくりが得意な叔父が、ある雑誌の広告を見せてくれたんですよ。それが、日本初の個人ユーザー向けマイクロコンピュータ、NECの「TK-80」。これがどうしてもほしくて、両親から8万円の借金をして購入しました。そこからプログラミングを始めるわけですが、当時は参考書もなく、正直、最初はまったくやり方がわかりませんでした。それでも暗中模索で続けていくうちに、ふっとプログラミングがわかった瞬間が訪れた――。何かが自分の中に、ガスッと入ってきた感じとでもいうんでしょうか。周囲に聞いてみると、これが起こった人、起こらなかった人がいるようですが、プログラミングにのめり込んでいく人種は、当然、前者です。そこからはコンピュータがどんどん面白くなって、ゲームや様々なツールを自作するようになりました。

 高2の頃、僕がプログラミングしたゲームやツールのコードを、『アスキー』に掲載してもらおうと、直接編集部に持ち込んでみたんです。アスキー社には、西和彦さん、吉田博英さん、古川享さん、成毛眞さんなどがいて、高校生の僕を気さくに迎え入れてくれました。それ以来、早稲田大学高等学院の授業が終わると、学校のある上石神井から、アスキー社があった青山へ毎日通うように。編集部で記事を書いたり、プログラミングの手伝いをしたりしてすごすようになりました。まあ、パソコン倶楽部のようなものですね。そうやって楽しくやっていたある日、古川さんから声がかかりました。「NECのパソコン開発担当者が、CP/M用のディスクドライブのスピードを上げられず困っている。アスキーに何とかしてほしいと相談に来たが、中島、やってみないか」と。成功させれば、50万円のインセンティブだといいます。仲間のプログラマーと2人でさっそく問題解決に取り組み、約2週間でその性能を従来の50倍ほどにアップさせました。

 結果、NECからも、アスキーからも喜ばれ、2人で100万円のインセンティブを手にしたわけですが、この話には後日談があります。その後、NECは国内パソコンシェアの80%を押さえるまでに成長していきますが、僕らが手がけ、納品したあのディスクドライブは、アスキー社がNECとの間に利用制限をつけた契約を交わしていたようです。結果、マイクロソフト社の代理店でもあったアスキー社は、MS-BASICが世の中に出るタイミングで、NECに当該ディスクドライブを使い続けたいのであればMS-BASICをライセンスしろと強要し、それがきっかけとなって、NECはMS-Dos、Windowsを採用していくことになった、と。コンピュータの黎明期に、コンピュータの世界にどっぷりつかり、自分の手足を動かすようにプログラミングができる高校生なんて、ほとんどいませんでしたからね。僕にとってアスキー社は、貴重な時間をすごした、とても面白い場所でした。

<億万長者の大学生>
大学時代、5日間でつくったソフトが大ヒット!
確定申告で驚くほどの税金を支払うまでに

 大学では、物理をやるか、コンピュータをやるか迷いましたが、人気があった電子通信学科でコンピュータを学ぶことに。大学時代もアスキーに入りびたりでした。あれは大学3年くらいだったでしょうか。古川さんが、「マウスのライセンスを仕入れてきた。マウスで使えるソフトを誰かつくらいないか?」と。僕はすぐに手を挙げました。パソコンでグラフィック処理ができる可能性が、やっと見えてきた頃の話です。当然、GPUなどないですから、全部ソフトでやらなければならない。でも、僕は、今あるハードの性能を極限まで引き出す挑戦に燃えるタイプ。実は、NEC-PC9800を使って、直線を早く引くための研究をずっとやっていたのです。マウスを使うのだから、CADソフトを――というのは、自然な流れでしたね。父が建築家でしたから、大型のコンピュータで動くCADを見たこともありましたし。今でもそうですが、結局、ハードが進化すれば、これまでできなかったことができるようになる。そこで誰よりも早くやれば、先人になれることを、その当時すでに理解していたのです。

 基本的な図面の描画が可能で、拡大・縮小や回転などのデモまで動く試作品を5日くらいで仕上げて持っていったら、古川さんも成毛さんも、みんな喜んじゃって(笑)。みんな、ものすごくおだて上手なんですよ。僕は、誰のためというより、アスキー社の人たちを驚かせることが一番楽しかった。この試作品は、世界初のパソコン用CAD「CANDY」として発売され、大ヒットソフトになりました。で、本当に驚くくらいのロイヤリティ収入が入ってきたのですが、僕はお金にそれほど興味がなく、全部、普通預金口座に貯金(笑)。初年度に確定申告したら莫大な税金を支払うはめになり、さすがに翌年からは勉強して節税対策をし始めました。当時から付き合っていた彼女が僕の妻なのですが、デートも普通に割り勘だったんですね。今でも言われますよ。「あれだけ持っていて、何で割り勘だったのよ?」って。

 研究者や大学教授になるという夢も捨ててなかったので、大学院に進んでいます。結果、2年だけの修士で終わりましたが。大学院修了後は、NTTに就職するのですが、ここを選んだ理由は、理系就職の最難関だったからです。成績もよかったですし、教授も「君ならいけるよ」と言ってくれるし、じゃあ行ってやるか、と(笑)。武蔵野市の通信研究所に配属されれば、そこから教授になるとか、大学に戻って博士号を取ることもできるので、ちょうどいいやと思って。もう、ものすごく生意気でしたね。当時はまだソフトウエアは趣味と思っていたし、ハードをつくりたかったので、通信機用のCPUをつくる部署を希望し、そこでソフトウエアの知識を生かして設計をやる。そのとおりの配属となったのですが、期待は打ち砕かれました。僕にとって、緊迫感が足りないし、燃えるような気持ちになれない。結局1年ほどで、NTTを退職することになるんですよ。

<アメリカへ>
大反対をされながら、NTTを自己都合退職。
3年後、念願かなってマイクロソフト本社へ……

 NTTに入社した1年目のある日、マイクロソフトの日本法人が設立されるという新聞記事を読んだのです。その記事を読んだ日にすぐ、代表取締役社長に就任する元アスキーの古川さんに電話して、「水くさいじゃないですか。そっちに転職して働くことを決めましたから」と伝え、NTTの上司にはその翌日、直接辞表を提出しました。NTT側からは、「何を考えているんだ。社会常識がなさすぎる。そもそもうちを辞めて、アメリカの小さなベンチャー企業に転職するなど、あり得ない」と、大学の教授からは、「大学側に一言の相談もなく自己都合退社? そんな前例は過去に一つもない」と、ものすごい剣幕で怒られました。退社してから2年くらいは、教授の研究室の敷居をまたげなかったですよ。何にせよ、僕はそんな社会常識や前例などいっさい気にしないタイプですから、自分の意思で堂々と辞表を提出し、マイクロソフトに転職することを決めたのです。

 日本法人に3年ほどいましたが、最初からアメリカで働きたいと会社に伝えていました。ハリウッド映画の美人女優や、米国人プロレスラーの強さとか、そもそもアメリカという国に憧れていましたからね。ちなみに、ビル・ゲイツとは、アスキーに出入りしていた学生時代に何度か会っていて、すでに面識はありました。僕は一つの条件として、ソフトの日本語化とか、日本のマイクロソフトの窓口だけはやりたくなかった。純粋な一人のエンジニアとして見てほしかったし、勝負したかったのです。もちろん、自信もありました。アメリカに赴任した1989年、まずはOS/3を研究する中核のチームに入れてもらって、それがうまくいかなくて、Cairoのプロジェクトに移って、これもだめで、Windows95に行き着いたと。僕はこの流れの、すべてにかかわっています。この間、もめたこと、大暴れしたことは数知れずです(笑)。

 米国のIT企業は、日本とは比べ物にないくらい貪欲に、優秀なエンジニアを求めています。そして、優秀なエンジニアには、ずっとエンジニアでいてほしいと思っている。だから、日本の企業のように課長や部長などとして昇進していくのではなく、エンジニアのランクによって出世していきます。技術力を積み重ねていくことでランクが上がる、ラダーシステムとか呼んでいましたが、僕はマイクロソフトではマネジャーよりも権限と実力があるソフトウエアアーキテクトとして仕事をさせてもらっていました。そのポジションになると、例えば上司よりも報酬が高かったりする。それだけ、IT企業で働くエンジニアは、会社から大切にされているということです。そんな環境に自分を置くことができたからこそ、いい仕事にたくさん巡り合えたのだし、自分自身が成長できたのだと思っています。



プログラミングは生涯続けるライフワーク。
ハードウエアの性能を極限まで高める挑戦

<エンジニアの苦悩>
恐竜が哺乳類に淘汰される時代が見えた。
ここでやれないなら、自分の信じた道を行く

 Windows95の開発もなかなか大変でした。Windows3.1用につくられたプログラムが、Windows95の上ではうまく動いてくれない。僕の前のエンジニアは、簡単にいうと、プログラムが悪さをしないように、OS側のガードを固めようとするやり方で開発を進めていました。でも、悪さをしているプログラムのほうを書き変えればいいんじゃないかと、考え方を180度転換してみたんです。ある意味、コロンブスの卵的な発想です。ただ、マイクロソフト以外の第三者が書いたプログラムに勝手に手を加えるのは、はやりおきて破りではありました。当初は僕の方針に反対がありましたが、プログラムをつくった側に聞いてみたら、「それでいいです」と。よくよく考えれば、そうすることで、こちらは新OSが成り立つ、プログラム側はより多くのユーザーに使ってもらえる、当然ユーザーは喜ぶという三方よしとなるわけです。

 しかし、普通はOSってそんなことしないものなのです。OSは、いろんなプログラムが乗ってきて、走るものでしょ。走るもの自体を変えちゃうのは常識外れ。わかりやく説明すると、あり得ないくらい背が高い人が旅客機に乗ってきたら、座席に座れるよう、足を手術して切ってしまう、とか。それくらい、おきて破りのやり方ではあったのですが、WindowsNTでもこの方法が採用されるなど、徐々に常識になっていくんですよ。その後も僕は、Windows98、Internet Explore3.0、4.0などのソフトウエアアーキテクトを務めましたが、2000年にマイクロソフト去る決断をします。ちょうどネットバブルが到来し、シリコンバレーではとても面白いことにチャレンジしている、小さくて元気のいいベンチャーがどんどん生まれていました。ビルとも話していたのです。「ビジネスの気候が大きく変わりつつある。恐竜は、進化スピードの速い哺乳類に食われてしまうかもしれない」と。

 もうひとつ、僕はそもそも大きなチームでやる仕事が好きではなかったんですよ。Windows95の時は30人くらいのチームだったからうまくいったのだと思っています。でも、Windows Vistaは2000人規模にふくらんでいました。あれが失敗の元凶だったんじゃないかと。時代の変化に合わせながら何かを進化させるなら、大きなプロジェクトではなく、2、3人でやれるプロジェクトをどんどん立ち上げて、スピードを上げ、だめなものは自然淘汰させて、いいものだけを残していけばいい。ビルは「それは資金のないベンチャーのやり方だろう。マイクロソフトは、ベンチャーにはない資金力と人材力で、彼らが到底まねできないことをやるのだ」と。もちろん、僕の話がすべて正しいわけではなく、ビルの考え方が正しい部分もあります。WindowsのOSを、いまだに多くの人が使い続けているわけですから。いずれにせよ、僕自身はもう大きなチームの仕事はやりたくなかったし、ビルとの考え方は最後まで合いませんでしたね。

<スタートアップ!>
ビル・ゲイツの間違いを証明するため、
自分が思い描くアーキテクチャで勝負する

 それから約1年間、マイクロソフト時代の上司がいた、ベンチャーキャピタルで働きましたが、自分がやりたいのは投資やインキュベーションではなく、やっぱりソフトウエアだということがわかりました。そして2000年8月に、米国のシアトルでUIEvolutionを創業したという経緯です。Internet Exploreの開発を通じて、これからはOSではなく、ブラウザの時代になると確信していました。アプリケーションをダウンロードして、インストールする時代は終わって、将来は、どこかのWebサイトにアクセスすればブラウザ上であらゆるアプリケーションが動くようになると。ビルは「そんなことは無理だ」と言っていましたけど。ただ、当時のブラウザにはまだそこまでの力はなかったので、ビルが間違っていて、僕が正しかったことを証明するために開発したのが、GUIに特化したシンクライアント・ソリューション「UIEngine」です。もちろん、ビジネス的にはまだWindowsOSのように広がっていませんが、ほぼ、僕が考えていたような方向性で、「UIEngine」は進化を続けています。

 これまで様々な企業に当社の「UIEngine」を採用いただいていますが、僕個人が一番アーキテクチャとして美しいと思っているのは、NTTぷららが提供している「ひかりTV」でしょうか。「ひかりTV」のセットボックスをNTTの光ファイバーにつなぐと、ネット上で勝手に「ひかりTV」のサービスを見つけてきて、そこから自動的にディスプレイにユーザーインターフェイス(UI)を表示して、動かせるという。要は、このセットボックスにUIは入っていないということです。「UIEngine」を使ってはいますが、すべてはサーバ側にある情報なので、イメージ的にはブラウザに近いアーキテクチャで動いている。サーバ・クライアント技術による快適な操作性、サービスの拡充に柔軟に対応する機能拡張性、プラットフォームの拡大を容易に実現する高い移植性を実現しています。当社のIPTVソリューションのアーキテクチャは、他社に比べて10年は先に進んでいると思いますよ。

 繰り返しになりますが、僕が嫌だと思うのは、何かをしようとした時にアプリケーションをダウンロードしなきゃいけないことなんです。これをなくしたい。スマホ、タブレット、パソコン、どんなデバイスであっても、あることをしたくて、ある場所にアクセスすれば、UIが自動で勝手に表示されて、自在にコントロールできるというアーキテクチャです。例えば、2000年に当社が特許を取得しているのですが、ユニバーサルリモコンに代わる、UIリモコン。スマホをリビングに持ち込むと、ブルートゥースLEで、部屋中の家電製品が存在を主張し、スマホに各家電のリモコン用UIが表示される。リモコンが、スマホ1台に統合され、自宅だけではなく、友人の家などでも利用可能。仕組みとソフトウエアは当社ですでに準備できていますが、すべての家電にこの機能を持ちこむのはまた別の大変な仕事です。この記事を読まれたメーカーの方が、問い合わせてくれるといいですね。

<未来へ~中島 聡が目指すもの>
プログラミングはライフワークとして、
未来をよりよくするために一生続けていく

 今、当社の代表は穂坂浩司に任せ、私はファウンダーという立場です。ただ、大株主ではあるし、経営に対する声も大きいですよ(笑)。最近は、UIEvolutionのファウンダーとしての活動が3分の1、個人としてのメルマガの執筆が3分の1、プログラミングが3分の1といった感じでしょうか。プログラミングは自分のライフワークとして、一生続けていくんでしょうね。ハードは常に進化していきますが、どんなハードも必ず臨界点を迎えます。でも、ハードが進化していくと、これまでできなかったことができるようになる。その波打ち際を、常に走り続けていたい。かっこいいでしょ(笑)。そして今、ビデオで革命を起こしたいと思っているのです。iPhoneのGPUの性能がものすごく高くなっていて、今までできなかったことが簡単にできるようになったので、じゃあそれをやろうと。そんなプロジェクトが進んでいます。

 それが、「VIDEO SHADER」という、動画を撮影した瞬間にリアルタイムで映像をアニメーションなどに変換してくれるアプリです。数年前まではかなり高性能なパソコンでしかできなかった技術ですが、携帯端末で簡単にできるようになった。女の子も生の動画を撮られるのには抵抗があるけど、これなら面白いからOKでしょう。ナンパに最適なアプリになるかもしれません(笑)。これもハードウエアの性能を極限まで引き出す挑戦の一つですね。これまでも個人の活動として、iPhone・iPadアプリ「CloudReaders」や「neu.Notes」をリリースして、多くのユーザーに使ってもらっています。「VIDEO SHADER」は、露骨にドラクエの真似をして、まずは100万本無料ダウンロードにします(笑)。これで儲けるのが目的ではなく、100万本ダウンロードが目的だから、それでいいのです。2014年の初頭にはリリースする予定ですので、ぜひ皆さん使ってください。

 先ほども言いましたが、プログラムは、年をとって書けなくなるまで、ずっと書き続けます。あと、「まぐまぐ!」から発行しているメ有料ルマガ『週刊 Life is beautiful』の執筆も楽しんでやっています。今、読者は1000人強ですが、ホリエモンが1万人ですからね。そのうち追い付き、追い越したいですね。UIEvolutionという会社はタイミングを見極めながらですが、できれば上場させたいと思っています。市場は国内でも海外でもいいし、事業を分割させたほうがいいならそれでもいい。自分が創業した会社ですし、やっぱり脚光を浴びせてあげたいんですよ。また、一所懸命働いてくれているスタッフはストックオプションを持っていますから、彼らに報いることができますしね。どうしてもやりたいこと、やらなければならないことがあふれている自分の人生、本当にありがたいと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業はきっと一目ぼれと同じようなもの。
それを見つけたら迷わず挑戦するべきです

 新聞はどうなる? テレビはどうなる? 答えが見つからない混沌とした時代がもう少し続くでしょう。いろんなせめぎ合い、探り合いがあって、そこで誰が主導権を握るか、きっと今後10年か20年の内に決まっていって、その時にデファクトを取った会社がすごいことになっている。例えば世界の現状では、Amazonが本の市場を、iTunes‎が音楽の市場をスケール的には押さえていて、今後もそのままいくのかもしれない。放送はまだまだですけど、誰かが放送の市場でうまくやるかもしれない。ネットでコンテンツをデジタル配信できると、流通コストが大きく下がるわけで、テレビ局にとってチャンネルという電波を送る既得権が無価値になりつつある。コンテンツの流通コストがゼロになった時、結局はスケールメリットで世界的なビジネスをしている会社が勝つ。テレビ局が生き残るとしたら、電波帯に頼るのではなく、コンテンツで勝負するしかなくなるのです。そういった見方をすると、テレビ局の下請けで必死にコンテンツをつくっていた制作会社がのし上がっていける時代がくる可能性がある。ぜひ、そのことに気づいてほしいと思います。

 自分の甥っこにアドバイスする前提で話します。あくまでも持論ですが、手に職もない大手企業のホワイトカラーサラリーマンが、高い給料をもらえる位置に留まれない時代がきます。自分が得意なこと、好きなこと、柱となるものを見つけてください。ハードでもソフトでも、コンテンツでもいいのですが、自分にしかできない価値を探して磨く。そのうえで、自分を生かせる職場を見つけるのです。2年後、3年後にもらえる給料だけで見ればテレビ局の勝ちでしょうが、10年後を考えれば絶対に制作会社に入るべきだと僕は思います。エンジニアも大手企業に入って、仕様書ばかり書いていたら終わりなので、プログラムをバリバリ書ける職場を探して、そこで勝負する。そして、その仕事で一生食っていく。エンジニアにとって、つくるコスト、流通コストが下がっていのるで、一人で起業してもやれる時代になりました。特に実力のある若いエンジニアには、どん詰まりの大手企業を飛び出して、頑張ってほしいですね。

 起業に必要なものは、やっぱり“思い”でしょうね。起業することが目的だったり、お金のためだったりでは、続かないですよ。それよりも、起業によって自分は何を成し遂げたいのか、なぜ自分がやるのかという部分がはっきりしていると、強いんです。例えば、僕が今進めている「VIDEO SHADER」も、ユーザーが使ってくれないと意味ないじゃないですか。技術的に優れているだけではダメで、ユーザーがどう使うか、そのメリットは何かを意識していないといけません。素人でも写真がカッコよく撮れるアプリ「Instagram」は、写真のネット流通数を飛躍的に伸ばしました。文化が変わったわけです。同じように、僕は「VIDEO SHADER」で文化を変える。その裏側に僕がいるというストーリーのモチベーションだけで、お金が儲からなくても僕はいくらでも働けますし、努力が努力とは思えなくなる。起業はきっと一目ぼれと同じ。悩むくらいならやめておいたほうがいい。どうしてもやりたい仕事が見つかって、24時間そのことばかり考えているなら、迷わず挑戦するべきです。

<了>

取材・文:菊池徳行(ハイキックス)
撮影:内海明啓

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