第31回 株式会社エイチ・アイ・エス 澤田秀雄

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第31回
株式会社エイチ・アイ・エス 取締役会長
澤田秀雄 Hideo Sawada

1951年、大阪府生まれ。大阪市立生野工業高校卒業。3年後、旧西独・マインツ大学経済学部に留学。さまざまなアルバイトで費用を稼ぎ休みを利用して、 欧州、中東、アフリカ、南米、アジアなど50カ国以上を旅行する。帰国後、海外との内外価格差に目をつけ、毛皮の輸入販売で起業するもワシントン条約の影 響で断念。1980年、旅行業の登録をし、インターナショナルツアーズを設立。格安航空券を柱に、事業を発展させていく。1990年、社名をエイチ・ア イ・エスに変更。1995年3月、株式上場。1996年11月、オーストラリア、ゴールドコーストにホテルをオープン。1998年9月、国内第4番目の航 空会社スカイマークエアラインズを就航させ、国内航空料金低価格化のきっかけをつくった。1999年、協立証券の株式を取得し、エイチ・アイ・エス協立証 券(現エイチ・エス証券)の代表取締役社長に就任。金融業界への本格参入を果たす。2003年3月、モンゴルAG銀行(現・ハーン銀行)の取締役会長就 任。2004年10月には、エイチ・エス証券を大証ヘラクレスに上場させ、経営者として東証・大証・JASDAQの3取引所への上場を果たす。2005年 度の海外旅行取扱人数(単独決算ベース)において、ジェイティービーを抜いて、国内旅行業界首位に立った。

ライフスタイル

好きな食べ物

カレーライスとお好み焼き
ちょっと辛めのカレーライスでしょう、あとは大阪出身ですからお好み焼きとか好きです。なんだか子どもみたいですね(笑)。それと、チャイニーズも好物ですね。ちなみにお酒はたしなむ程度ならいけますよ。

好きなスポーツ

最近はゴルフに凝っています 
2年くらい前からゴルフにはまっています。それまでは、ゴルフという趣味は会社をおかしくすると思って全く興味なかったのですが……。始めてみれば、たくさん歩きますからとても健康的なスポーツですし。現在、80台のスコアを目指して頑張っています(笑)。

趣味

やはり旅ですね
2カ月に一度のペースで海外旅行に出かけています。長いと60日くらい。旅行ビジネスをしていますから、旅の感覚が鈍るといけませんからね。前々回はアフ リカでしょう、前回はハワイ。今度は地中海辺りに行ってこようと考えているんです。ひとたび旅に出れば、失敗やさまざまな問題と出遭います。それを経験し たり、乗り越えていくことで、人間の幅が広がっていきます。だから旅とは、勉強の場であり、リフレッシュであり、変化であり、視野を広げてくれるものであ り、私にとって人生そのものなのです。いつかすべての経営を退いたら、昔のような旅人に戻ろうと本気で考えているんですよ。

創業当初から世界一の旅行会社をつくると決めていた。
その大きな夢をかなえるために、私の旅は続きます

 1980年に、電話1本、机2台、新宿のマンションオフィスで産声をあげたエイチ・アイ・エス。格安航空券の販売に始まった澤田秀雄氏の挑戦は、今や旅行 ビジネス、金融ビジネスに広がり、旅行グループ5000人、金融グループ5000人を抱える企業へと発展を遂げた。澤田氏はときあるごとに「人生は旅であ る」と語る。確かに、いくら細かな準備をしても未来を正確に予測することのできない私たち人間にとって、先の見えない自分の人生とはまさしく旅。前を向い て進むことでしか、人生という道は続いていかないのである。澤田氏の幼少から現在までにわたる人生の軌跡を聞いていると、まさに波乱万丈。山もあり険しい 谷もあるのだが、常に生来の陽転志向を武器に、乗り越えてきた。格安航空券のビジネス化、新航空会社の設立、金融ビジネスへの参画……彼の挑戦心をこれほ どまでに掻き立てるものとは何なのか? それは、「世界一の旅行会社をつくる」という彼の大きな夢と、「世界中の人を笑顔にしたい」という強い志の存在に ある。それを自分がこの世に生まれた使命と決め、いつとも知れない夢と志の実現を目指して澤田氏の旅はこれからも続いていく。今回はそんな澤田氏に、青春 時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<澤田秀雄をつくったルーツ.1>
経営者には絶対にならない。そう決めていた少年時代

 父はお菓子の製造卸業を営む商売人でした。業者さんとの交渉で仕入れ値を値切る父の姿を見ていると、「高く買ってあげればいいのに」って思ってしま うんです。子どもの頃の私は、気が弱くて優しい性格でしたから(笑)。だからか、事業が嫌いだったし、経営者になんかなりたくなかった。それよりも、宇宙 飛行士や冒険家に憧れていましたね。未知なる領域に何が潜んでいるのか、それを探せる仕事って素敵じゃないですか。本当に昔から好奇心は旺盛だったと思い ますよ。外で元気いっぱい、セミやカブト虫を取ったりして遊ぶのですが、川の向こう側には何があるんだろうって、どんどん行っちゃう。当然、帰りもどんど ん遅くなるから、帰宅して両親に怒られることも多かったです。

 高校になると、友人たちとよく旅行に 出かけるようになりました。紀伊半島を自転車で1周しようと計画しましてね。コンパスで距離を測って、この日はどこに泊まって、結果どのくらいの行程で実 現できるかシミュレーションするんです。大阪の街を自転車で走って、1日100kmくらいは走れそうだとか。そうやって事前にしっかり計画をしたはずなの に、実際には山もあり丘もある。すると1日30kmしか走れなかったり、深夜まで走って疲れてしまい、翌日走りたくなくなったり……。頭で考えることと、 実際はこんなに違う。計画することは大事だが、経験値がないときは実際にやった人に聞いてみることも大切だ。そんなことを学びましたね。その後も、長い休 みを利用しては、北海道とかに出かけましたよ。

 私が高校を卒業した年は、学生運動が一番激しかったころで、東京大学も入試がなかったはずです。そんな時期に日本の大学に進んでも、満足に勉強な んてできないですよね。もうひとつ、旅行で北海道に行きましたが、その先にはロシアやヨーロッパなどもっと大きな世界が広がっているわけです。じゃあ、数 年間バイトして資金をためて、海外の大学に留学しようと。そして、もっと多くの世界を見てこようと。当時の留学といえば、アメリカ、イギリスが主流だった のですが、私は生来のあまのじゃくでして(笑)。旧西ドイツのマインツ大学の経済学部に進学したのです。ここはヨーロッパの中心であるため、旅行もしやす いだろうという目論見もありましたが(笑)。

<澤田秀雄をつくったルーツ.2>
旧西ドイツの大学に留学。旅とビジネスに明け暮れた日々

 30年ほど前、旧西ドイツに飛行機で行くには60万~70万円くらいしたんです。そんな大金はないので調べてみると、横浜から船でナホトカまで渡っ て、それからシベリア鉄道を経由して旧西ドイツに入るというルートが一番安かった。結局、10万円くらいで済みました。でも今、エイチ・アイ・エスを使っ てもらえれば飛行機の直行便でそれより安くドイツに行けますよ(笑)。ちなみにその行程の中で、モスクワはとても暗いイメージ。建造物は重厚で素敵です が、人々が何となく沈んでいる。この国は近い将来おかしくなると感じました。その後ウィーンに入ると、街並みは美しく、人々は明るくて、市場には物があふ れています。社会主義と資本主義でこれほど違うものかと驚きました。またウィーンのカフェで1杯のコーヒーを飲んだときのことです。おいしいうえに、日本 の半分くらいの安さ。内外価格差を目の当たりにし、愕然としたことを覚えています。

 さて、大学では 経済学を学びながら、通訳などのバイトで稼いだ資金を使って、いろんな国を旅しました。アメリカ、アジア、中近東にアフリカ、南米などなど、50カ国以上 は訪れたと思います。旧ビルマでは、おそらくですが肝炎に罹り、病院へ。しかし、ものすごい行列です。2時間並んで診てもらったのですが、言葉がわからな いうえに診察は数分で終了。新聞紙に包まれた薬をもらいましたが、怖くて飲めなかったですね。それで自力でなんとか宿に転がり込んで、栄養をつけ、バンコ クまでぬけて療養しました。でも、肝炎って肝臓の病気ですから、本当はあまり食べちゃいけないんですよ(苦笑)。死ぬとまでは考えませんでしたけど、今思 えば無知というのは怖いなと。旅からは、いいことも、悪いことも、本当に大切なことを教えてもらいましたよ。

 そのうち旅行に出かける資金が足りなくなって、旅費を確保するためにビジネスをやってみようと。日本からのビジネスマンや団体旅行者向けに、おい しいビールや食事を出すレストラン、ライブ演奏のある店など、一晩で数カ所の観光スポットを堪能できるナイトツアーを企画したのです。店側には送客を条件 に料金をディスカウントしてもらい、ドイツ語ができる日本人留学生が旅行客を案内して、お客の獲得は日本人客の多いホテルのスタッフにお願いしました。こ れが大当たりしまして、私の取り分が月間で100万円を超えたことも。店側には売り上げが、学生にはバイト料が、ホテルのスタッフにはマージンが、そして 私もどんどん旅行に行ける(笑)。関わってくれたみんながハッピーになれるビジネスなら、必ず成功するということを実感しました。今でもこのことを事業成 功の要諦であると思っています。

<帰国後、新宿で起業!>
世界標準価格の航空券を、日本の旅行ファンに提供する!

  留学時代は石油ショックの真っ只中で、現地のテレビでは日本のトイレットペーパー買いだめの様子が報道されていました。ドイツでは誰もそんなことし ていなかったですよ。日本っておかしな国だな~と感じましたね。また、世界中の株価が暴落していまして、ここに何かチャンスがあるような予感が。そこで図 書館に通って、株の仕組みや過去の株価を調べてみたのです。するとフォルクスワーゲンの株価は、額面割れするほど下がっています。もしもフォルクスワーゲ ンが倒産するなら、西ドイツも崩壊するだろうと踏んで、ナイトツアービジネスで儲けた資金を投資してみたのです。もうひとつ、日本企業の日立にも投資しま した。そうしてまた旅に出かけて、帰ってきた頃には株価も戻り始めて、最終的には投資額は2倍にふくらんでいました。

  1976年に帰国した私は、投資で儲けた数千万円の資金を元手にビジネスを始めます。子どものころ、あれほど嫌っていた事業をやるようになるなんて、やは り父から受け継いだ血なのでしょう。東京の新宿を事務所に最初に手がけたのは、内外価格差が大きかった毛皮の輸入販売です。ほら、私は旅行が大好きでしょ う。貿易事業ならどんどん海外に行けますから(笑)。しかし、ちょうどこのころワシントン条約が採択され、毛皮の輸入が厳しくなり、この事業はあえなく断 念。さて、どうしようと考えたときに、格安航空券の販売事業が頭に浮かびました。当時、外国人は、日本人のほぼ半分の価格で飛行機に乗って日本に来ている わけです。なぜ、日本人は彼らの倍を払って飛行機で海外に行かなければならないのか。ここに憤りを感じましてね。じゃあ私がこの内外格差を埋めてやろう と。本音を言えば、旅行は趣味のままとっておきたかったのですが(笑)。

 1980年12月、エイチ・アイ・エスの前身となる株式会社インターナショナルツアーズを設立。新宿にある中山ビルというマンションオフィスの1 室で、机2台と電話1本からのスタートです。まずは販売する格安航空券の仕入れを始めるのですが、国内の航空会社はもとより、海外のメジャーな航空会社 も、できたばかりの名も知らぬ旅行会社と直接取引してくれるわけがありません。当然のごとく断られ、ホールセラーと、当時の日本ではマイナーな航空会社か ら少しずつ航空券の仕入れを始めたのです。街にポスターを張るなど宣伝もしましたが、数カ月は全くお客様が来ませんでしたよ。本当に暇でしたから、歴史も のの本ばかり読んでいましたね(笑)。するとそこに登場する歴史の名将たちが、決まって「継続は力なり」「石の上にも3年」など、「続けることが大切だ」 と言っているんですよ。「明確な夢や志があれば、苦しくとも続けていくことができるし、いつか必ず突破口は開ける」。私もそう信じるようになりました。

<格安航空券の販売に集中!>
大手が入り込めない市場を狙って、一気呵成の急成長を遂げる

 多少、お客様が来るようにはなったのですが、いかんせん小さなマンション事務所でしょう。しかも、通常の半額でヨーロッパに行けること自体が信じら れないのに、航空券はここでは渡さず空港のカウンターでとなりますから、ますます怪しくなる(苦笑)。ほとんどの人が「騙される!」と思って帰っていった んじゃないですか。それでも人間1000人もいれば、変わった人もいるもので、何人かが当社でチケットを買ってくれました。当然、その人たちは半額の格安 航空券で海外旅行に出かけ、帰国します。するとみんな半額で海外に行けたことを誰かに自慢したくなるんですね。そうやって少しずつ口コミで当社の存在が広 がっていったのです。ちなみに、創業当初にお客になってくれた旅好きな人の一部が、帰国後うちで働くようになりましてね。今ではエイチ・アイ・エスの役員 として頑張っている変なおじさんもいるんですよ(笑)。

 その後、私のインド旅行経験を元に現地情報を充実させた、バ ンコク経由で行く格安の「インド自由旅行」を企画。ビザが取りづらかった「中国自由旅行」を香港経由で企画。大手旅行会社がなかなか手を出せない隙間をつ きながらヒットにつなげました。また、当社を使って海外旅行に出かける大学生のお客様などにポスターを渡して、「旅行代金を5000円値引きするから、現 地の安宿に張ってきて」と宣伝を頼むなど、いろいろな認知度アップ戦略も実施。自分たちにできることは、本当に何でもやりましたね。ちなみに設立1期目、 1981年の年商が約3億円。その後、国内外の支店展開に四苦八苦、急拡大による人材マネジメントの問題など、さまざまな紆余曲折を乗り越えながら、ほぼ 倍々で成長を続け、1989年の年商は約164億円になっていました。

 格安航空券市場のマーケットはひとまず手中に収めたと判断し、1988年、満を持してパッケージツアーの企画販売に参画。それまでも、スタッフか ら「パックツアーをやりましょう」とせがまれていました。パッケージツアーはどの旅行会社にとっても花形の仕事ですからね。しかし、まだ日の浅いベン チャー企業が、パッケージツアーに強い大手旅行会社と戦うのは時期尚早であると考え、ずっと我慢をしていたのです。もうひとつ、創業以来、当社のお客様の 中心だった大学生や若者たちの年齢が上がり、そろそろ格安旅行だけでは満足いただけなくなっていたこともあります。そうやってタイミングを計り、マーケッ トニーズを読みながら、渡航先別営業カウンターの設置、国内在住の外国人向けツアーデスクなど、守備範囲を少しずつ拡大していったのです。

ひとたび旅に出れば、必ず笑顔の数が増えていく。
この事業の継続は、世界平和への貢献なのです

<旅行業界のベンチャーとして初上場!>
バブル崩壊を予見し、いったん手仕舞い。その後、再び反撃の狼煙を上げる!

 1990年、会社名を現在のエイチ・アイ・エスに変更し、コンピュータなどへの大規模情報投資を開始。そしてバブル最盛期に、私たちはいったん営業 以外の本社機能を新宿から浅草に移しています。この異常に膨張した好景気は近いうちに崩壊するだろうという予感があったので、土地価格が高騰した新宿から 緊急避難。世の中の物事にはすべて自然の摂理が働いていて、一方に偏りすぎたものは、必ずその反動が来るのです。予想とおりバブルがはじけたとき、私たちは きれいに手仕舞いを終えていました。そして、どん底景気といわれていた1993年、エイチ・アイ・エスは大きなお土産を用意して、再び新宿で反撃の狼煙を あげたのです。

 1993年当時、新宿南口に新本社を構え、日本一のスペース面積を誇る海外旅行のデパート 「トラベルワンダーランド」をオープン。その記念として、香港4日間1万9800円という超格安の目玉商品を投下します。旅行業界では初めてだと思うので すが、なんと本社ビルの周りにお客様の行列ができたんです。それも発売日の2日も前から。テレビなどのマスコミでも数多く報道されましたから、その宣伝効 果たるや期待以上でしたね。そしてバブル崩壊という逆風の中、果敢な挑戦という道を選択したエイチ・アイ・エスは、おかげさまで順調に成長を続け、 1995年3月30日、旅行業のベンチャー企業としては初めての上場を果たしたのです。経営が苦しかった創業時、商社から大量のチケット購入話をいただい たときも、「掛売りは絶対にしません」とお断りしたほど、無借金経営にこだわってきました。上場の資金調達によって、昔から思い描いていた事業構想にやっ と手をつけられる。そう考えると、この上場は本当にうれしかったですね。

 1980年代、さまざまな日本企業がオーストラリアのホテルに投資していましたが、その多くがバブル崩壊を境に撤退していきます。「日本の会社は 一気にやって来て、いっせいに帰って行ったぞ」と、オーストラリアの実業家がぼやいていました。しかし私は、必ず再び景気が戻ってくると信じていましたか ら、「そうじゃない日本人もいるんですよ」と宣言し、ゴールドコーストにホテルをつくる計画をスタートさせます。そして1996年11月、「ホテル ウォーターマーク」が誕生。私の思惑とおりオーストラリアの景気は回復し、ホテル事業も順調に推移しています。2005年には、ブリスベンにもうひとつホテ ルを開業。また、オーストラリアで培ったホテル運営ノウハウを持ち帰り、函館、ニセコでの年内本格開業を目指しています。今、オーストラリアでは北海道の スキーツアーが大ブームですから、こちらも楽しみですね。

<無謀への挑戦>
「国内航空運賃は均一で当然?」スカイマークがその常識を変えた!

 海外旅行の価格破壊にある程度成功はしましたが、1996年当時、国内の航空料金は大手航空会社の寡占により、相変わらず高いまま。ある関係者に 「なぜ価格で競争しないのですか?」と質問すると、「同じ物価の国内で同じ距離を飛んで、同じ燃料を使うのだから、競争しようがない」との回答が。「だっ たら私が新しい航空会社をつくります」と宣言してみたのです。そうしたら、「35年ぶりに新航空会社誕生か!?」と、いきなり大きな話題になりまして。 「翌日、ぜひ記者会見を開いてほしい」、となった。ほとんどのテレビ局、新聞社の取材陣が集まりまして、全国にこのニュースが報道されました。NHKなん て、夜7時のトップニュースですからね。欧米では、航空会社のスクラップ&ビルドなんてしょっちゅう行われていますから、ここまで大きく報道されたこと自 体信じられませんでした。また、もう後には引けなくなっちゃいました(笑)。

 1996年、スカイ マークエアラインズ(現・スカイマーク)の設立を発表。しかし、就航するまで、そして事業を軌道に乗せるまでは本当に苦労の連続。簡単ではなかったです。 まず、これまでの旅行事業とは時間の流れが全く違った。今、旅客機がほしいと思っても、でき上がるのは1年後。それも100億円強の費用がかかります。ま た、人材の問題も。地上の専門職にパイロットや1級整備士など熟練職の方々は、今の高待遇を蹴ってまでベンチャーエアラインに来たいとは思いませんよね。 ならば外国人を採用しようと思っても、当時はそれができない決まり。しかし、やると宣言した以上、さまざまなハードルを突破し続けるしかありません。そし て数え切れないほどのハードルを一つ一つクリアしながら、1998年9月、スカイマーク念願の第1機が大空に羽ばたきました。

 航空運賃に価格競争システムを導入したスカイマークは爆発的な人気を獲得します。しかし、「半額運賃などできるわけがない」と断言していた日航と 全日空が、一気に低額運賃政策を導入し始めたのです。これにより競争力が激減し、また、毎月の膨大なランニングコストが積み重なり、スカイマークは瞬く間 に大赤字事業に転落してしまいました。この赤字事業との格闘は、2004年まで続くことになります。保有機の増加、自社整備システムの構築などの施策を投 じ、2000年には東証マザーズに上場。そうやってなんとか黒字化を達成。経営者としてこの苦しい挑戦を軌道に乗せたことで、私はスカイマークの経営から 離れ、ベンチャー精神旺盛な若い経営者にバトンタッチしたのです。

<未来へ~澤田秀雄が目指すもの>
エイチ・アイ・エスを世界一のブランドとして育てていく

 現在、私が経営に携わっている事業ですが、旅行グループとして、旅行サービスのエイチ・アイ・エス、ホテル事業のウォーターマークホテル、高速バスのオリオンツアーなど。また、金融グループとして、HS証券、モンゴルのハーン銀行などがあります。

  HS証券への経営参画は、スカイマークの経営で四苦八苦していた時期でもあり、最初はお断りしていたのですが、「どうしても澤田さんにお願いしたい」と何 度もお願いをされまして。悩んだ末にお引き受けすることにしたのです。しかし今では、証券事業に挑戦してよかったと思っています。昔の私のような、若いベ ンチャー経営者がハードルを乗り越える際のお手伝いができますからね。

 モンゴルは急激に成長しており、たとえるなら、日本の明治維新以後のような勢い。ものすごいスピードで、資本主義国家となるべく変貌を遂げていま す。私がハーン銀行の経営に参画したのは、2003年3月。国立銀行の民間払い下げに入札した結果です。経済発展の波に乗り、今やその金利は14%。社員 数2600人、支店網420店と、ナンバーワンリテールバンクとしての地位を獲得しています。現在、エイチ・アイ・エスの支店数が国内・海外合わせて 300ほどですから、もう抜かれてしまいました(笑)。経営に参画してからまだ4年ほどですが、すでにその企業価値は5倍ほどにふくらんでいますよ。

 旅行グループのエイチ・アイ・エスですが、国内ではおかげさまで8、9割の認知度を得るまでに育っています。しかし、海外ではまだまだです。私は 幹部メンバーと共に世界的なブランドとして、エイチ・アイ・エスを広めていきたい。旅行は一種の平和産業ですよね。旅に出て、いろいろなものに触れ合っ て、笑顔が生まれる。みんなが笑顔になれば、戦争なんて起こらないでしょう。これからも、安くて価値の高い旅行商品をどんどん手がけていきたいと思ってい ます。自分が携わっている仕事が世界平和につながっていると思えば、どんな苦労も乗り越えられますから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自然の摂理とバランスを考えて、夢と志を育てていけば大丈夫!

 夢と志をもつことです。世の中のためになること、誰かを幸せにできること、社会貢献につながること。自分が手がける事業に、そんな思いが込められな ければ、続けることは難しいでしょう。もちろん最初からうまくいくことなんて稀ですし、起業とは10社中8社くらいが10年以内に淘汰されていく世界で す。そんな競争の激しい世界に挑戦するのですから、大きな夢や志がないと、ちょっとした失敗に出くわしたり、苦境に立たされた瞬間にくじけてしまいます。 当然、生活もありますからある程度の儲けは必要です。最低でも3年、食えるようになるまでは絶対にあきらめない覚悟をもって臨んでください。

  そして、自然の摂理を良く考えて、一歩一歩慎重に事を運びましょう。私たち人間は、ある意味、地球の子どもですよね。私たちの親である地球が存在している のも、酸素があり、水があり、生き物が活動しているという、つまりはバランスがうまく保たれているから。栄養を取りすぎると病気になり、逆に不足しすぎる と栄養失調になる。何でもバランスで成り立っているということです。そういった意味では、いつかの満塁ホームランを狙うよりも、こつこつと継続的にヒット を狙ったほうが事業成功の確率は高いといえます。また、継続のためには、技術、販売、サービスなど人の強みはそれぞれですから、まんべんなくバランスの良 い人材パワーをそろえる努力も必須ですね。

 景気の循環も振り子のように、行き戻りを繰り返しています。どんなことでも、膨らみすぎたものは、いつか反動が起こり、収縮しているのです。孔子 が語った、「過ぎたるは及ばざるがごとし」とは世の真理なのです。だから、あまりに振れすぎた事象には注意が必要でしょう。歴史を振りかえれば、経営を行 ううえでも学べることがたくさんあります。私の場合も、エイチ・アイ・エス創業間もない頃に読んだ歴史小説が大いに役立ちましたから。「石の上にも3年」 「継続は力なり」を信じて、頑張ってください。そして、夢と志を強く信じる者は、きっと救われます。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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