第20回 株式会社エスグラントコーポレーション 杉本宏之

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第20回
株式会社エスグラントコーポレーション 代表取締役兼CEO
杉本宏之 Hiroyuki Sugimoto

1977年、神奈川県生まれ。生まれた直後に父親が経営する不動産会社が倒産。借金もかさみ、3歳の時に家族3人で豪邸から6畳一間のアパートに引っ越す。小学校時代は給食費の支払いに困るほどの貧乏生活。13歳で、最愛の母親がガンに侵され急逝。この頃から、さらに生活が荒み始める。高校時代は、バイトに明け暮れる毎日。父親との刃傷ざたの大ゲンカをきっかけに、人生を真剣に考え始める。高校卒業後、専門学校へ進学。1年目に宅建主任者資格を取得し、投資用ワンルームマンション販売会社に就職。22歳でトップ営業マンとなる。2001年末に退社し、24歳で株式会社エスグラントコーポレーションを設立。2005年12月20日、幾多の試練を乗り越えて、名古屋証券取引所セントレックス市場に不動産業界史上、最短、最年少で上場を果たす。著書に『26歳、熱血社長、年商70億の男』(経済界)、『1R男』(アメーバブックス)。

ライフスタイル

好きな食べ物

大好きな赤ワインに合った食べ物よりも…
お酒は赤ワインが好きです。ロートシルトやラトゥールなどの5大シャトーのものもよく飲みますが、一番好きなのはナパバレーのオーパスワンでしょうか。じゃあ、食べ物もワインに合ったものが好きかというとそうでもないんですよね。ハンバーグ、焼き肉、ステーキとか。あ、でも一番好きなのは卵かけご飯(笑)。

趣味

今のところ趣味は仕事でしょうか
昔は、思いっきり仕事して、思いっきり遊んでましたが、今は仕事が趣味ですかね。夜の会食もほとんどが仕事がらみですし。そういえば、サイバーエージェントの藤田社長に、シーバス釣りに誘われて、道具も買ったんですが、すっぽかされてます(笑)。なので今、当社の仕事をお願いしているプロデューサーのおちまさとさんと、洋服部でもつくろうかと相談しているところです。洋服は昔から好きでしたから。

休日の過ごし方

久しぶりに買い物へ
休日は月に2日くらいです。この間は久しぶりに妻と買い物に行きました。表参道を中心に、「LOVELESS」「mastermind」「Roen」を回って、「Dolce & Gabbana」と「GUCCI」をハシゴして、最後は「タワーレコード」へ。家に帰ったのは20時を過ぎてました。

今行きたい場所

歴史ある海外の街で、建築物の視察をしたい
長めの休みが取れたら、ヨーロッパやニューヨークでゆっくりと建築物の視察をしたいですね。この秋には、ホテルWのデザイナーである森田恭道さんと一緒に、ニューヨークに行くんですけどね。ちなみに、これまでに行ったラグジュアリーホテルで一番のお気に入りは、映画「プリティウーマン」の舞台としても使われた、ロスの「ビバリー ウィルシャー」かな。

仲良しのベンチャー経営者

深夜のカフェ、男3人で語ります
グリー(株)の田中良和社長と、(株)ドリコムの内藤裕紀社長と、20代経営者の会をつくっています。それもあって、よくこの3人で一緒に食事にいったりしていますね。サイバーエージェントの藤田社長とか、テイクアンドギヴ・ニーズの野尻社長とか、話題性がすごく華やかじゃないですか。私たち20代の経営者は今ひとつ地味なので、この間も「内藤君、芸能人の彼女つくれよ」とハッパかけたばかりです。しかも、深夜のカフェで男3人、「ニンテンドーDS」やりながら(笑)。

日本に新しい建築文化をつくり上げたい!その手始めがデザイナーズマンションの開発です

デザイナーズワンルームマンションの開発事業を皮切りに、不動産流動化事業・アセットマネジメント事業新築分譲事業・中古再生事業・不動産ポータルサイト事業・賃貸保証事業を手がける。2001年12月、24歳の杉本宏之氏が立ち上げた株式会社エスグラントコーポレーションは、わずか5年という短期間で総合不動産企業に成長した。そんな杉本氏が歩んできたこれまでの起業家人生が順風満帆だったかというと、さにあらず。倒産の危機、慢心から生じた巨額の赤字、上場の度重なる延期……。まるで悪魔にもてあそばれるかのように、杉本氏の志の前にはさまざまなハードルが何度も押し寄せてくる。しかし、数え切れないほどの試練を、杉本氏は強靭なねばりと精神力で打ち負かしてきた。ディベロッパー業界最短、最年少で株式上場を果たし、未だ20代のベンチャー経営者、杉本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<杉本宏之をつくったルーツ.1>
貧乏生活。最愛の母の急逝……。生活は困窮し生活保護を受けるまでに

昔、私の父は小さな不動産会社を経営していました。かなりのワンマン経営者だったらしいのですが、事業はけっこううまくいっていたようです。しかし私が生まれた直後に、父の経営方針に異を唱える専務の謀反が起こり、社員を引き連れて独立。結局、父の会社は倒産してしまいます。その後父は不動産ブローカーとして働き始めましたが、それもなかなか長続きせず、借金はどんどん増え、何かに追われながら私たち家族3人は各地を転々と……。そして埼玉県川口市に流れ着いたのが、私が3歳のときでした。

その数年後、私たちは川崎市に移り住みます。私は小学生になっていました。しかし相変わらず父の仕事はなかなか軌道に乗らず、母のパートの稼ぎで何とか食いつないでいるような状態が続きます。小学2年のころ、さらに最悪な出来事が。私が大きな交通事故に遭ってしまったのです。左足の甲に負ったその傷はかなり深いもので、1年間の苦しいリハビリが始まりました。なんとか松葉杖がなくても歩けるようにはなりましたが、今でも私の左足の指は動かないままです。

生活を支えるために忙しく働き、自分の健康状態を顧みなかった母が倒れたのは、私が中学2年のとき。結局、末期の胃ガンに冒されていることがわかり、2カ月後に亡くなってしまいます。最愛の母がいなくなった……。そのときの悲しみは今も忘れられません。その後も父は定職につかず、私たち親子2人の生活はますます困窮の一途をたどります。さらに追い討ちをかけたのが、バブルの崩壊です。ブローカーとして何とかもがいていた父でしたが、ついに首がまわらなくなり、私たちはとうとう生活保護を受けることになりました。

私は奨学金制度を使って高校に進学し、生活費と交友費を稼ぐためさまざまなバイトを始めました。しかし、貧乏な状態は一向に変わりません。「何で俺ばかり……俺のせいではないのに……」。そんな世の中に対する不満はいつも爆発寸前。高校3年の頃には、毎日、明日なんて知らねえって感じで生きてましたから(笑)。

 

<杉本宏之をつくったルーツ.2>
実の父親に包丁で刺される。人生を変えねばと真剣に考え始める

そんなある日、定職を持たず勝手気ままな生活を送っていた父と激しい口論に。生活保護のお金を使い果たし、私のアルバイト代を無心してくる父についに切れてしまったのです。「いい加減に働けよ!」と父を一喝。そこから取っ組み合いのケンカが始まりました。

そのとき父もかなり追い詰められていたのでしょう。台所から包丁を持ち出してきた父は、「お前を刺して俺も死ぬ!」。「脅しか!刺せるもんなら刺してみろ!」と父に向かって叫んだ瞬間……。私の左手から真っ赤な血が畳の上に滴り落ちているのが見えました。血だらけになった私を見て、父も我に返ったようです。父は、涙目で震えながらただ呆然と立ち尽くしています。「俺たちいったい何をやってるんだよ!」。最悪のどん底にいる自分……。この出来事を機に、自らの力でこの生活から抜け出さなければと、初めて真剣に将来を考えるようになりました。

卒業後の進路も、先輩たちから「クラブの黒服はどうだ?」と勧められ、「まあ、それもありかも」と考えていたのですが、それではきっと何も変わりません。そこで大学に行って会社員になるという、これまでとは真逆の人生を目指してみようと、高校3年の後半から必死で勉強を開始。そのかいあって、ある大学に補欠ではありますが合格することができました。しかし、ここでふとした疑問が。「大学って長いよな……」。私は早く社会に出て稼ぎたかったのです。

そんなことを考えているうちに、父が携わってきた不動産業という業種が頭に浮かんできました。父は失敗の理由を「時代が悪かった。この最悪な状況は100年に一度くらいのものだ」と言っていた。今がどん底なら、自分が働き始めるこれからは、上に向いていくはず。逆張りの発想で考えればチャンス。それから不動産業界のことを調べ始め、「宅地建物取引主任者」の資格を取るための専門学校へ進むことにしたのです。もちろん奨学金制度を活用しました。

<念願の不動産業界へ>
完全実力主義の業界で、絶対にトップをつかむと決心

専門学校へ進んでからの数カ月は、バイトの幅も広がり稼ぎも増えました。大好きな洋服を買ったり、サーフィンに行ったり、新しい彼女ができたり。これまで考えられなかったような普通で平和な(笑)生活が続きました。宅建試験は毎年10月にあるのですが、8月くらいから模擬試験が始まり受験勉強は佳境を迎えます。遊んでばかりいた私の模擬試験の成績は、なんとクラスでビリから2番目。「俺は遊ぶために学校に通っているんじゃない!」と反省し、猛勉強を開始。結果、本試験では42点の得点を取って、見事1年目で宅建資格を取得することができました。今も昔もそうですが、窮地に追い込まれてからが強いんですよね、私は(笑)。

1日でも早く働きたかった私は、就職活動をスタート。そんなある日、求人情報誌である不動産会社の求人広告を目にします。「学歴年齢一切不問。完全実力主義。月給30万円以上」。投資用ワンルームマンション販売の会社でした。私は迷わずその会社に連絡し、翌日面接してもらうことに。今でも覚えていますが、友人から拝借したJプレスの紺色のスーツに靴は黒のエナメル(笑)。しかもいきなり遅刻しちゃったんですよ(苦笑)。それも理由が「赤坂には初めて来たもので……」。まあ社会人としてはありえない理由ですよね。それでも面接はしてくれまして、やる気を猛アピール。「まだ学生ですが、受かったら学校は辞めます!」。結果、面接の翌日にめでたく合格の連絡を受け取り、私は宣言どおり学校を自主退学し、不動産業界の会社員となったのです。

衝撃でした。ある先輩が電話口で「はい。では、判子をご用意しておいていただけますか」と話しています。そして電話を切ったその先輩が言うのです。「よし、これで歩合45万円稼いだぜ!」と。これまで1月死ぬ気でバイトして20万円稼げば上々だった私は、「すげー、これが不動産の世界か……」と、俄然やる気になりました。完全実力主義のこの世界で必ずトップを取ると。ちなみに投資用ワンルームマンション販売の世界では、アポイント数の10~15%が契約となると言われています。私は必死になって電話営業をし、毎月約20件のアポイントを取り続けました。

しかし、上司に同行してもらい営業に出向くのですが、なかなか契約に至りません。当時も勢いだけはありましたから、「この上司が悪いんだ」と文句ばかり言って、その上司とケンカしたり。挙句の果てに部長からは、「やれると思ってたが、お前、期待はずれだったかもな」と……。もう辞めようかという考えも頭をよぎりましたが、なんとか踏ん張って入社半年後についに初契約。それも立て続けに2件も。アポイントの質も上がっていたのでしょう。それから私の快進撃が続いていくことになります。

<自分の会社を立ち上げる>
社長に新規事業の提案をするも即却下。「ならば自分で」と考え始める

そして3年目には念願のトップセールスになり、私の年収は2000万円になっていました。22歳、同い年の人はまだ大学生の年齢です。そんな年端もいかない若造が、ベンツのオープンカーと恵比寿のマンションを購入し、六本木のキャバクラや銀座の高級クラブに通いまくる。今思えば、ちょっと狂ってましたね。

その後、最年少の管理職となり、新人2人のメンバーをマネジメントすることに。しかもこの2人が最悪でした。最初の面談で、ひとりは「僕、杉本さんが嫌いなんですよ。威圧的だから」。さらにもうひとりは「実は営業に向いていないから辞めようと思ってるんです」と言うわけです。もう諦めの境地ですよ(笑)。それでも、ふたりをなんとか説得して、私の管理職人生はスタートを切りました。ちなみにこのふたりは現在、株式会社エスグラントコーポレーションの管理職として頑張ってくれています。

会社では成績優秀者に海外視察旅行のインセンティブ制度がありました。何度も海外のデザイナーズ住宅を見学しているうちに、「なぜ日本のワンルームマンションは画一的でかっこ悪いんだろう」という疑問が生じてきました。そして、「自分が売りたいのはこれじゃない。デザイナーズマンションを企画して売ってみたい」と思うように。その後、休日を使ってデザイナーズマンション企画のプレゼン資料を作成し、社長に直談判します。が、その答えはNO。「仮にやったとしても原価が上がるから、お前たちの歩合も減ることになるぞ」と。私はデザインでバリューアップさせることで、賃料もアップでき、売価も上げることができると考えていたのですが、その点を全く理解してくれないのです。このとき初めて、「独立して自分でやろうかな」という考えが生まれました。

2001年の9月、私は会社の視察旅行でラスベガスに滞在していました。そして、あの9・11同時多発テロが勃発し、多くの方々が突然命を奪われたのです。「人間の人生ってはかないものだな……」。これが直接のきっかけではありませんが、背中を押されたのは確かです。帰国した9月末、私は独立してデザイナーズマンションを企画販売する会社を設立することを決意。2001年12月、株式会社エスグラントコーポレーションを設立します。24歳、私の新しい挑戦が始まりました。

まずは日本一の総合不動産企業を目指します!

<倒産の危機>
会社の口座残高が10万円台……。創業時からの支援者に土下座して無心

創業時、会社経営者のTさんから2400万円の支援をいただきました。私は15%の株主であり、会社の代表もTさんだったのです。そんなかたちで、エスグラントコーポレーションは営業を開始します。当然、いきなりデザイナーズマンションをつくって売れるほどの資金もなく、最初はマンションディベロッパーの物件を仕入れて売るという代理販売からのスタートです。仕入れに苦労しながら、メンバーも必死になって営業してくれるのですが、どんどん資本金はなくなっていきます。今考えればそれも当然で、前の職場のときと同じ給料を払っていましたし、1部屋売れただけで「景気づけだー!キャバクラだー!」と、メンバー全員で飲みにいくわけです。ありえないですよね(苦笑)。そうこうしているうちに半年後、会社の口座残高は10万円台に……。もうこれで倒産かと何度もあきらめかけましたが、最後にもう一度Tさんに助けてもらうため出かけました。

当然、Tさんは超激怒。ものすごい罵倒を受けながら、それでも土下座してお願いして最終的には1500万円を借り受けることに成功します。しかし、「これは出資ではなく融資や。株も買い取れ!お前と出会ったのが運の尽きや……」。この言葉が私の胸に突き刺さりました。その翌日、私はスタッフ全員に会社が倒産寸前であることを初めて伝えました。何人かは辞めるだろうと覚悟していたのですが、逆に全員が「ここまできたらやるしかないですよ!」と。その上、数カ月前に支給したボーナスを「大変なこの時期に、僕らだけもらうわけにはいきません。お返しします」と。感動をこらえきれず、私は初めてメンバーの前で号泣しました。

それからは社内にものすごい一体感が生まれ、エスグラントはぐんぐん業績を伸ばし続けます。そして、復活を遂げたエスグラントの1期目の決算は、売上高7億円、経常利益23万円という結果を残すことができました。そして2002年10月、ついに私たちは初めて1棟での仕入れに成功。自社ブランド物件として売り出した「ラグジュアリーアパートメント浅草橋」は、なんと発売から2週間を待たずに完売。「ワンルームのデザイナーズマンションは必ず市場から受け入れられる」。創業以来思い続けてきたこの思いは、確信に変わりつつありました。

<名証セントレックスに上場申請>
慢心から生じた巨額の赤字。そして一度目の上場承認延期

それからも仕入れは順調で、ラグジュアリーアパートメントシリーズの販売も好調が続いていきます。2期目の決算は、売上高22億3000万円、経常利益5000万円。住宅ローンの取引先も4社に増えていました。初めての自著「26歳、熱血社長、年商70億の男」を出版してからは、私自身が何度もマスコミに取り上げられるように。先輩経営者に飲みに連れられていったレストランでは、「杉本は、日本で一番稼いでいる26歳」と紹介されることもありました(苦笑)。当時はかなり舞い上がっていたと思います。

本格的な上場準備を始めたのもこの頃です。しかし、世間から持ち上げられ、いい気になっていたのでしょう。社内の反対を押し切った新規事業への進出、横浜マリノスへのスポンサード、総額7000万円を投じたテレビコマーシャル……。しかし、これらの投資はほぼ失敗に終わり、予想を大幅に超える1億5000万円の赤字となりました。これでは上場申請などありえません。これまでの自分の慢心と独裁経営を猛省し、二度と同じ過ちは犯すまいと心に誓ったのです。

そして2005年元旦、売り上げ目標は150億円、上場に向けて勝負のときが幕開けです。前年に土地を購入し、企画から販売まですべてを手がけた自社開発物件も2月に完成。この恵比寿の第1号物件は即完売となり、エスグラントコーポレーションは総合ディベロッパーとしての道を歩み始めます。社運をかけた新横浜の大型自社開発物件も、期初予測を上回る40億円の売り上げが追加されるような勢いでした。3月の終わり、私たちはついに名古屋証券取引所のセントレックスへ上場申請をします。しかし私が立てた目標の前には必ずハードルが立ちふさがるのです。まるで悪魔にもてあそばれるかのように。

5月の上場承認の1日前に、同じくセントレックスに上場しているあるベンチャー企業のトラブルが原因となり、当社の上場承認の延期が決定……。私は自分の運命を呪いました。

<未来へ~エスグラントコーポレーションが目指すもの>
近い将来に大型の都市開発を。

2005年11月16日、ついに上場承認がおりました。が、その翌日、日本中を揺るがした、あの姉歯建築士の構造計算書類偽造問題が勃発します。すぐに主幹事証券から「上場を中止してほしい」という連絡が。「俺の運命は、どこまでこうなのか……」。しかし私は、絶対にここで引かないと決めたのです。これまで当社が手がけてきたすべての物件を、建築構造士の先生を筆頭に、社内の一級建築士、社外の一級建築士2名という合計4名でフォースチェック。もちろん、問題となる物件などひとつとしてありません。

私は、この調査した全26軒の結果報告書を持って主幹事証券会社をアポなしで訪問します。エントランス前から携帯電話で社長に連絡し、説明の機会をつくってほしいと交渉しました。会議室で重箱の隅をつつくようなやり取りが長く続いた後、主幹事証券会社の社長が言いました。「もういいだろう。こいつは絶対に嘘をつくような奴じゃない。仮に問題が起きたとしたら私が全責任を取る」と。主幹事証券会社をあとにした2時間後、私の携帯電話に社長から「上場しよう」という連絡が入ったのです。本当に嬉しかったですね。そして2005年12月20日、まさに幾多の試練を乗り越えて、ディベロッパーとしては最短、最年少での上場が、やっと現実のものとなりました。

新規事業として始まった、リノベーション物件開発の「Reno*(リノ)」、技術者派遣と賃貸保証事業の「S-net」、お部屋探しカフェで賃貸仲介を行う「ヘヤギメ!」なども、すべて好調に推移しています。ちなみに、これらはすべて、社員のアイデアから始まったものです。もちろん、投資用デザイナーズマンション開発事業も、1階で営業するカフェからのルームサービスが受けられるタイプ、ペットサロンを併設したタイプなど、デザイン性だけではなく新機能性を付加するなど進化させていこうと考えています。また、芝浦の商業ビルの開発も始まるなど、着実に総合不動産ディベロッパーとしての地歩を固めつつあります。そうそう、来年には港区某所でリノベーションホテルの運営も開始する予定です。これも楽しみなプロジェクトですね。そして、5年後にはきっと、エスグラントコーポレーションは森ビルさんのように大型の都市計画に参画しているのではないでしょうか。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
強いリーダーになりたいなら、常に本気で挑戦し、学び続けること

読者へのメッセージですか……。偉そうに言うのが苦手なので、言葉に詰まっちゃうんですよ。でも、会社員をしながら起業を目指している人にアドバイスするならば、「今は遊びよりも仕事を優先した方がいいですよ」とお伝えしたいです。私はまだ起業して5年目の若造ではありますが、この5年間で本当に多くの経営者が消えていきました。なぜ失敗してしまったのかと考えてみると、その人たちは仕事よりも遊びを優先していたように思うのです。当たり前ですが、今流れている時間は二度と取り返すことができません。今のこの瞬間の1秒は、10年後の100倍、200倍の価値があると考えてみましょう。そうすれば、いつか起業するなら今何をすべきなのか、自ずとわかるはずですから。

ビジネスの趨勢を見ても、マイクロソフトのようなたて型のビジネスモデルよりも、グーグルのような緩やかに横につながるビジネスモデルがこれからのスタンダードとなりそうですよね。私たちの事業展開も、才能あるアーティストや、さまざまな事業会社と組みながら、利益をシェアするというかたちが多いですね。これからは会社組織も、先輩後輩の関係なく、フラットな時代になってきます。そういった意味でもうひとつアドバイスするなら、誰に対しても臆することなく、言いたいことは言うべきであるということです。

自分自身も、昔と比べてメンバーの話をよく聞くようになったと思っています。でも、最近甘くなってきたのでちょっとシメたんですけどね(笑)。まあ、上司とのコミュニケーションはケースバイケースですから気をつけてください(笑)。いずれにせよ、今この一瞬を大切に生きること。その積み重ねがきっと、あなたの夢を実現させてくれると思います。頑張ってください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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