第17回 GMOインターネット株式会社 熊谷正寿

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第17回
GMOインターネット株式会社 代表取締役会長 兼 社長
熊谷正寿 Masatoshi Kumagai

1963年、長野県生まれ。國學院高校に主席で入学するが、2年で中退。その後、さまざまなアルバイトを経験する。18歳で、父が経営する店舗で働くことを決意。業績不振店の立て直しを成功させる。20歳で結婚し、翌年、女児を授かる。当時は、放送大学の学生であり会社員、家庭では夫であり父親と、1人4役の生活に忙殺されていた。21歳、手帳に「やりたいことリスト」を書くことから、独自の手帳術の実行を開始。「何かの分野で圧倒的ナンバーワンの実業家になる」「35歳で上場する」といった夢を追い求めるように。91年5月、ボイスメディア(現・GMOインターネット)を設立し、代表取締役に就任。94年より、インターネット事業をスタート。99年8月、独立系インターネットベンチャーとして、国内初のジャスダック上場を果たす。2005年6月、東証一部に上場した。「すべての人にインターネット」「ニッポンのインターネット部を目指して」をコーポレートフィロソフィーキャッチに、現在、グループ総勢27 社、1600名を超えるスタッフを率い、約50万社の法人、約2091万人のネットユーザーにさまざまなサービスを提供している。著書に、『一冊の手帳で夢は必ずかなう~ なりたい自分になるシンプルな方法 』(かんき出版)、『20代で始める「夢設計図」』(大和書房)、『情報整理術クマガイ式』(かんき出版)などがある。

ライフスタイル

好きな食べ物

残り1万2000回。できるだけおいしいものを 
好き嫌いなく何でも食べますよ。ラーメンでも、コンビニの弁当、サンドウィッチ、サラダとかも。でもですね、日本人男性の平均寿命から残日数を計算します と、ディナーできる回数はあと1万2000回なのです。そうすると、やはりできるだけおいしいものを食べたいなと(笑)。でも、私はこの7月17日で43 歳になりまして、基礎代謝もダウン傾向ですし、さらに糖尿病の家系なのですぐ太っちゃうんですよ。だから、食べる量と回数は極力減らすようにしています。

好きなお酒

ブルゴーニュのピノノワール系が大好きです 
ビール、シャンパン、ワイン、芋焼酎……、何でも飲みますね。特にワインには目がなくて、ブルゴーニュのピノノワール系が大好きです。食事も、和、洋、中と何でも、このワインに合うものを選ぶことが多いくらいなんですよ。

趣味

体力なら、若い人たちにも負けません
運動です。同世代の人たちと比べたら、ものすごく体を鍛えていますね。ウェイトトレーニングは、23年間続けています。あと、PADIのレスキューダイ バーの資格や、小型船舶1級の免許も保有しています。が、日焼けが苦手なので、どちらもあまり使えていませんね(苦笑)。あとは、下手ですがゴルフには まっています。

もしも一週間休みがとれたら

思いっきりゴルフの練習をしたい!
迷わず、ゴルフ合宿に行きますね。プロコーチをつけて、1日3ラウンドくらいラウンドしたい。ゴルフ場のそばにテント張ってでも(笑)。10年くらい前に 始めてはいたのですが、年1ゴルファーだったんです。最近急にはまっていまして、月に1、2回は行くようにしています。コミュニケーションもできるし、男 女問わず一生涯楽しめる素晴らしいスポーツですね、ゴルフは。80歳くらいにはシングルになってたいなぁ(笑)。今のベストスコアですか? それは秘密で す。

一冊の手帳が、人の一生を左右する。夢をカタチにすることが、夢への第一歩

 激務の中、ドリームゲートユーザーのために時間を割いてくれた、GMOインターネットグループの熊谷正寿氏。インタビューは、氏が社内会議を終え、取材場 所へ向かう移動時間も惜しんで、ブルートゥースを利用した電話会議システムを介してのスタートとなった。音声だけのやり取りをして数分後、取材場所である 執務室に到着した熊谷氏は、さわやかな笑顔で、「バタバタして、本当に申し訳ございません」とペコリ。そのていねいな物腰に、取材陣一同、恐縮。その後 は、質問の先の先を読むかのように、氏の口からは次々にきちんと整理された言葉がよどみなく流れ出してくる。94年にインターネット事業を開始してから、 変化の激しいこの業界で常にイニシアチブを保ち続けている同社。このポジショニングを維持できている理由は、熊谷氏の先を読む力、スピードを重視した大胆 なアクション、社内の一体感を醸成するマネジメント力にあるようだ。そんな熊谷氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプラ イベートまで大いに語っていただいた。

<熊谷正寿をつくったルーツ:1>
ヒッチハイクをしながら、日本を旅する小学生!?

 私の父は、飲食店、映画館、パチンコ店、不動産事業などを手広く経営している実業家でした。小さな頃から夕食時の食卓は、父から経営学を学ぶ場所で す。商売の基本や、上手な対人関係のつくり方など、いろいろなことを教わりました。また、家族でレストランに行っても小学生の私に、「正寿、テーブルがい くつあって、席数はいくつだ? メニューを見ればだいたいの客単価がわかるだろう。それに回転数をかければ、店の売り上げが計算できる」とか。もちろん食 事を楽しみながらですが、父は私にこんな話をするわけです。振り返って考えてみますと、私は子どもの頃から、事業家や投資家としての視点を自然と学んでい たんだと思います。

 親もよく許してくれたな~と思うのですが、小中学生の頃は、よくヒッチハイクの 旅に出かけていました。ひとりで1カ月くらいかけて、北海道とかを回るわけです。ユースホステルに泊まったり、野宿とかもしながら。当たり前ですが、学校 にいるのは同世代の人間ばかりじゃないですか。でも、旅に出ると老若男女、本当にいろんな方々と知り合いになれますし、未知なるものとたくさん出合うこと ができます。旅を重ねるたびに、私は自分が何歳か大人になったような、人間として成長したような、そんな高揚感を味わっていました。お金がなくなったら、 「大学生です」ってウソついてアルバイトもしましたよ。当時のことを母に聞くと、「あなたは旅から帰ってきたときの方がお金持ってたわよ」ということらし いです(笑)。

 中学2年になった私は、自分ひとりで手続きをして、親に内緒でパスポートを取得しました。東南アジアへヒッチハイクの旅に出かけるためです。しか し、それを知った母から「危険すぎる。それだけはやめて!」と、引き止められ、泣く泣くあきらめました。これはちょっと残念な思い出ですね。

 旅から学んだことは本当に多いです。例えば、見ず知らずの人やものに対するのが苦手な方って多いですが、私はまったく抵抗感がないんですよ。どん どん飛び込んで行っちゃいます。上場した後に、フォーブスに載っているような有名経営者にアポイントを取って会いに行ったのですが、臆面もなくそれができ たのも、旅の経験のおかげだと思ってます。行動が人間を成長させるということも、旅が教えてくれた大切なことですね。

 

<熊谷正寿をつくったルーツ:2>
難関私立高校へ主席で合格。が、2年で自主退学の道を選択

 

 勉強はあまり得意ではありませんでした。テストも一夜漬けで望むことが多かったです。中学で進路相談に臨んだとき、職員室で担任の先生から、「熊谷 はどこの高校へ進学したいんだ?」と聞かれました。渋谷や青山などの街のイメージが好きだった私は、「青山学院か國學院に行きたいです」と、答えたので す。すると担任の先生は、「お前、何言ってるんだ。自分の偏差値を考えたことがあるのか」と。しかも、周りに聞こえるような声で。その場にいたほかの先生 たちも、「熊谷、それは無理な話だよ」と笑うわけです。これがすごく悔しくて、「よし! 絶対に合格して見返してやる」と決意したのです。

  それから受験までの数カ月、睡眠時間を削って、まさに死ぬ気で勉強しました。必要な参考書や教科書は、すべて丸暗記したほどです。そして、國學院大學付属 國學院高校を受験した私は、なんとトップの成績で合格したんです。入学式では学生総代にも選ばれました。だから入学当初は学長から、「熊谷君、大学はぜひ 東大を目指してほしい」と言われるほど期待されていたのです。が、あまりにチヤホヤされて、「俺はやればできるのだから」と、調子に乗ってしまい、また勉 強しなくなった。2年になったときには、600人中500番台まで一気に急降下です(苦笑)。それが原因で、担任から毎日冷たくあしらわれるようになりま して……。この頃、おぼろげながらですが将来は自分で起業しようと考えていたこともあり、もう学校はいいやと。2年次に、國學院高校を自主退学しました。

 それからは、起業前にいろんな仕事を経験しておこうと、ありとあらゆるアルバイトを経験しました。一番刺激を受けたのは、マクドナルドのバイトで す。顧客に対する接し方であったり、近代的なマニュアルであったり。このときに学んだマクドナルドの経営手法は、自分が起業したときにも参考にさせていた だいていますしね。

<父の経営する会社へ入社を決意>
業績不振店の経営を、自分の才覚で立て直す

  18歳になる前に、私はいったん家業への入社を決意します。長野のパチンコ店の店長さんが急遽退職してしまい、運営が難しくなったという話を聞きま して、父に、俺にやらせてほしいと。また、その店は業績不振に陥っているらしく、じゃあ自分が立て直してみせると宣言。そして私は、長野に向かいました。 当時は家業の経営幹部を目指すことも本気で考えていましたね。

 店舗では、率先垂範のつもりで、掃除 や雑用、釘の調整、従業員教育の徹底などから始め、自分で顧客を増やすためのアイデアを考えながら、どんどん実践していきました。例えばそのひとつが、両 替サービスです。当時はプリペイドカードなどなく、両替機が店に数台しか置かれていなくて、お客様は両替するために離れた場所にある両替機まで歩いていか なくてはいけませんでした。その間にお客様の「乗っていた気分が冷めてしまう」ことに気付いた私は、従業員に「両替お申し付けください」という文字の入っ たシャツを着させます。そして、両替希望のお客様の席まで現金の入った袋を持参して、両替をするというサービスを始めたのです。そのほかにもさまざまな手を尽 くした結果、店に訪れるお客様がどんどん増加し、地域一番の店になりました。これが、私が社会人として初めて手にした成功体験ですね。

 その後、私は20歳で結婚して、21歳で女児に恵まれます。この頃は、朝から晩まで父の会社の会社員として働きながら、放送大学の聴講生として勉 強もしていたのです。夫、父親、会社員、学生という1人4役の生活に、忙殺されていた時期でしたね。一方、大学生になった友人たちは、バイトに遊びと青春 を謳歌しています。こっちは父の方針もあり、給料も安いままで、誰よりも長く働く……。こんな生活のはずじゃなかった、こんな生活を続けることにいったい どのような意味があるのだろうか……。日に日にそんな焦りを感じ、本当に苦しかった。あるときふと、自分のなりたい姿、こうでありたい姿を手帳に書いてみ たんです。

<夢・人生ピラミッドと未来年表の誕生>
夢を明確化することが夢実現への第一歩をスタート

 そしてとにかく、将来やりたいこと、なりたい自分を思いつくままに書き連ねました。これがすごく胸がすっとして自分を楽にしてくれたのです。この作 業を習慣化していくうちに、今はこうだけど将来はこうなるんだという気概がどんどん大きくなりました。次に、たまった「やりたいことリスト」を3段の「人 生ピラミッド」に振り分けます。下の段の中心が何よりも大切な「健康」。その左右に「精神・心」「知識・教養」です。それを土台とし、「社会・仕事」「プ ライベート・家庭」を乗せて、一番上を「経済・モノ・お金」としました。そして、下の段から「基礎レベル」「実現レベル」「結果レベル」と名づけ、アク ションの優先順位をつけたのです。「どんな分野でもいい、事業家として圧倒的ナンバーワンの会社をつくる」「35歳で会社を上場させる」といった、明確な 夢も生まれました。

 それができたら、今度は行動のためのスケジュールが必要になります。そこで私は、「未来年表」という未来に向けた自分の人生の設計図を作成するこ とに。当時使ったのが月次の集計用紙を横にしたもので、30コマの2コマを1年として、15年分、35歳までの設計図ができ上がりました。それからは、こ の未来の設計図を人生の守るべきベースと決め、夢の実現に向けてひとつずつ、コツコツと、アクションを開始していったのです。

 

それか らの私は、さらに身を粉にして働き続け、また、給料の大部分は、近い将来、設立するであろう自分の会社のために貯蓄しました。そして1991年5月、28 歳で私はGMOインターネットの前身となる会社、ボイスメディアを創業します。いよいよ夢の実現に向けた、第一歩のスタートです。事業内容は、電話とパソ コンの技術を組み合わせた、電話会議装置の開発でした。最初は話題となり儲かったのですが、この事業の先行きは明るくないと判断。撤退を決断しました。そ の後ほどなくして、インターネットの存在を知った私は、これまでの情報発信の常識がガラリと変わる、ものすごい産業になっていくと直感。同時に、一ユー ザーとして「この回線を通して世界とつながることができるんだ」とすごく感動したんです。この素晴らしいメディアを、ひとりでも多くの方々に体験していた だきたいと、インターネット・プロバイダー事業への進出を決断します。そのとき、私は32歳。「未来年表」の端に記した35歳まで、4年弱の期間が残され ていました。

すべての人にインターネットを。そしてニッポンのインターネット部を目指します!

<思い優先で始まった新事業>
目標にしていた会社の上場を、1カ月遅れるが見事達成させる

 1995年当時、ユーザーがプロバイダーに加入する場合、会員制で年間契約、料金は前払い、さらに契約してから接続までに1カ月はかかるというケー スがほとんどでした。しかし、私は水道やガスのように、誰でもすぐに使えるような仕組みにしなければ、インターネットは普及していかないと考えました。そ こで、私はNTTさんに協力をあおぎ、電話回線を使ってインターネットに接続し、利用時間に応じた課金制、料金は後払い、しかも電話料金と一緒に徴収とい う、非会員制のインターネット接続サービスを実現。これが一気にブレイクし、ベンチャー系としては日本最大のプロバイダーになることができたのです。

  プロバイダー事業は順調に推移していったのですが、私はずっとインターネットをもっと面白くしなければいけないと思っていました。ホームページがどんどん 増えていけば、ユーザーの方々も、もっとインターネットを利用したくなるのは当然ですよね。そこで当社が、次のステップとして取り組んだのが、レンタル サーバー事業とドメイン登録事業です。ところが、当時レンタルサーバーを利用すると月額数十万円、ドメイン登録も取得に10万円以上、月間の維持費に数万 円がかかるなど、高額なわけです。この打開策として考えたのが「価格破壊」でした。レンタルサーバー利用料は月間5万円、ドメイン登録料は年間数千円に下 げてサービスの提供を開始。現在のレンタルサーバー契約数約30万、ドメイン登録数約40万という数字は、ここから始まったのです。

 当社のプロバイダー事業、レンタルサーバー事業、ドメイン登録事業ともに、「すべての人にインターネット」という思いが最初にあって生まれたもの です。そしてどれも、いったん契約いただければ継続してご利用いただけるストック型の収益モデルです。この、思いを先行させながら、売り上げや利益を積み 上げていくという戦略が奏功しまして、1998年8月、当社は独立系インターネットベンチャーとして初のジャスダック上場を果たします。当時は新興市場な ど存在せず、野村證券さんの調査では、設立10年以内に上場できる会社の確率は1000万分の17だったそうです。この難関を潜り抜けられたのは、若き日 に人生のベースと決めた「人生年表」に従いながら、がむしゃらに働いたからだと思っています。ちなみに上場したときに、私は36歳。「35歳で上場する」 という目標は、1月だけですがオーバーしてしまいました(笑)。

<さらなる計画とグループスピリットの誕生>
90歳までの「55年計画」と、「スピリットベンチャー宣言」

 私は上場した前年に、21歳の頃に作成した35歳までの「人生目標」の先をつくらなければいけないと思い立ち、その作成に取り掛かりました。そして まず、どこまでの未来を描くことにするかを検討します。90歳までは精一杯仕事をしたいと考えており、それまでが約55年。また、旧ソ連の有名な経済学 者、N・D・コンドラチェフ氏の唱えた説では、技術革新に起因して、ほぼ50年周期で大きな景気循環が見られるそうです。そして、太陽の活動サイクルが 11年周期と言われていますから、この自然のサイクルを5倍にすれば55年になる。そうやって、「55年計画」ができ上がりました。現在も私の行動は、す べてこの「55年計画」がベースとなっているのです。

 また、2001年からは、GMOインターネッ トグループに関わるスタッフに一番大切にしてほしい「考え方」を記した、「スピリットベンチャー宣言」をつくり、グループ全社で共有しています。これは、 グループビジョン、哲学、行動原則などをA4の用紙3枚くらいに書き込んだものです。毎年、「これも入れよう、あれも必要だ」と、スタッフのアイデアも取 り入れた改訂版を発表しているので、どんどん長くなっているんですよ(笑)。これを社内の会議などあらゆる機会に、そこにいる全員が唱和するのです。10 分くらいかかりますが、2001年以降、当社の組織力は一気に強まったと思っています。

 2000年9月には、連結子会社まぐクリックがヘラクレスに、創業から364日という当時の最短上場記録で上場。2005年4月には、連結子会社 GMOペイメントゲートウェイが、6月には、連結子会社GMOホスティング&セキュリティが、東証マザーズに上場。また、当社も2004年2月に東証2 部、2005年6月に東証1部に上場と、ステップアップを実現。昨年度12月末期の連結売上高370億円、経常利益41億円と、順調に成長し続けていま す。

<未来へ~GMOインターネットグループが目指すもの>
インターネットユーザーに「なくてはならないもの」を提供

  「55年計画」には、売上高10兆円、経常利益1兆円、グループ会社202社、従業員数20万人のインターネット総合グループなる、と記していま す。私はこれを夢で終わらせることなく、絶対に実現させるつもりです。ちなみにマイルストーンとしては、2009年の売上高1000億円があります。今期 の売上高予測が500億から600億円くらいですから、その差額である400億から500億円をどうやってつくっていくかがキーとなりますね。

  当社がインターネット事業に参入して11年になりますが、一貫してインフラ事業もしくはサービスインフラ事業を手がけてきました。ストック型の収益モデル である、レンタルサーバーやドメイン事業などは、まさにインターネットのインフラ事業です。インターネットが続いていく限り、ホームページのデータ量は増 えてきますから、この事業は拡大することはあっても終わることはないでしょう。そしてネットメディア事業や証券などのネット金融事業は、サービスインフラ 型の事業ですね。メディア事業では、ブログ事業のマイナスを「JWord」という検索サービス事業の収益で相殺しているという感じです。ですが、多くの人 が集まるメディアには必ず広告がついてきます。宣伝したいという企業がなくならない限り、このメディア事業もなくなることはありません。だから超目先の課 題としては、現在、業界ナンバー3に甘んじているブログ事業の強化です。そして金融は、人類最古のビジネス。これも経済活動になくてはならないもですよ ね。

 そうやって、私たちは「なくてなならないもの」を、ユーザーの皆様に提供し続けてきました。インターネットビジネスはとかく一極集中しがちです が、当社はネットインフラ事業、ネットメディア事業、ネット金融事業のシナジーを生かしながら、ライバルの追随を許さない、インターネット総合サービスグ ループを目指します。2009年の売上高1000億円というマイルストーンを達成した後は、ちょっと予測が難しいですね。この世界はいまだにドッグイヤー のスピードで進んでいますから。スピードを落とさず走りながら、考えていくしかないですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
考えすぎるのはよくない。大胆に行動していきましょう!

 考えるよりも、まずは行動することが大事だと思います。私もそうですが、ソフトバンクの孫さん、楽天の三木谷さん、サイバーエージェントの藤田さ ん、ネット業界で成功しているといわれている経営者は、一様にスピード経営を重視しています。チャンスの女神は前髪しかないっていいますが、本当だと思い ますね。あと、ひとつだけ断言できるとすれば、事業は思ったとおりにはならないということ。これだけは経験者として、保証できます(笑)。今やコンシュー マーは驚くほど多くの情報を持っていますから、会社はお客様にとってよかれと思うことを100%考えて、100%のパワーをもってやり続けるしかないので す。だからこそ、走りながら考えることが成功への一番の近道なのですよ。

 あくまでもこれはビジネス の話であって、自分の人生はおおざっぱでもいいから、方向性を決めておくべきです。自分は何をしているとき、目指しているときが一番ハッピーなのか、そん な人生の価値基準はきちんと定めておいたほうがいい。例えば、最後にお墓に入ったとき、人からどんな風に思われていたいか、どんな価値を残した人間だと 言ってほしいか、とか。そこから始めてもいいかもしれません。「人生ピラミッド」と「人生年表」を、ぜひつくって実行してほしいと思います。

 インターネットビジネスにはまだまだ宝の山が隠されているでしょうね。先日、娘の就職相談に乗っているときに、「自分からいったん幽体離脱する感 じで、世の中やコンシューマーがどの方向へ向かうのか客観的に考えてみるといいよ」とアドバイスしました。それと同じで、生活の中で起こるさまざまな事象を、 事業家や投資家としての視点で見る癖をつけると、ビジネスアイデアが見つかりやすくなるのではないでしょうか。知り合いの優秀な経営者の方々も、みんなそ んな視点をもった人たちばかりです。

 最後に、事業はひとりでは大きくすることはできません。ひとりでも多くの人と一緒に、同じ方向に進んでいくパワーが必要となります。人を本当の意 味で動かしたいのなら、マネジメントテクニックにあまり頼り過ぎない方がいい。テクニックよりも、この人を笑顔にさせるにはどうすればいいだろうかと一所 懸命考えることの方が大事です。経営者には、そんな精神道場のような考え方も必要なんですよ。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:山口雅之

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