第169回 農業生産法人 株式会社GRA  岩佐大輝

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第169回
農業生産法人 株式会社GRA
代表取締役CEO
岩佐大輝 Hiroki Iwasa

1977年、宮城県山元町生まれ。高校卒業後に上京。パチプロとして生計を立てるように。その後、フリーのプログラマーになり、システム開発などの仕事を個人で開始。大学在学中の2002年、ITコンサルティングを主業とする有限会社ズノウを設立(現株式会社ズノウ)し、代表取締役に就任。東日本大震災が発生した2011年、特定非営利活動法人GRAおよび農業生産法人GRAを設立。先端施設園芸を軸とした「東北の再創造」をライフワークとするようになる。故郷のイチゴビジネスに構造変革を起こし、地域をブランド化。大手百貨店で、ひと粒1000円で売れる「MIGAKI-ICHIGO」を生み出す。2012年、グロービス経営大学院でMBAを取得。2014年「ジャパンベンチャーアワード」(経済産業省主催)で「東日本大震災復興賞」を受賞する。同年3月、初の書籍『99%の絶望の中に「1%のチャンス」は実る』(ダイヤモンド社)発行。現在は、日本、インドで6つの法人のトップを務めている。

ライフスタイル

趣味
ファッションです。

今日、着ているのはファストファッションなんですけど(笑)、昔から洋服やファッションが大好きです。サテライトオフィスを置いている青山周辺のショップをひやかしながら、買い物をするのが、ほとんど無趣味といわれる私の趣味ですね。

行ってみたい場所
コスタリカやフィジー。

私のブログのタイトル、「旅するように暮らそう!そして、生活するように旅をしよう!」が夢です。高校くらいからサーフィンに親しんできたのですが、いつか時間ができたら、往年のサーフィン映画「エンドレスサマー」のような旅をしてみたいと思っています。

好きな食べ物
寿司です。

最近は特に、寿司好きになりました。東北で獲れる、うにや牡蠣など、東北の魚介類が大好きですね。お酒は適度に飲みます。GRAのヒット商品、スパークリングワインの「ミガキイチゴ・ムスー」も好きですが、毎日飲むならビールでしょうか(笑)。

東日本大震災が自分の人生を変えた――。
IT起業家が挑戦する、自己流・東北再創造

2011年3月11日、東日本大震災発生――。その翌日、東京でITビジネスを軌道に乗せた起業家・岩佐大輝氏は、津波被害に遭った生まれ故郷・宮城県山元町へ向かった。ぼろぼろになってしまった町の惨状を目にし、主要作物だったイチゴ農業を、IT技術を活用し、世界に通用する農業ビジネスに生まれ変わらせるという、自分なりの復興支援を決意する。2年後、ひと粒1000円で売れる山元町発のブランド・イチゴ「MIGAKI-ICHIGO」が誕生。そして今、彼の取り組みは、東北の枠を超え、世界へ広がりつつある。「僕のようなかたちで参入をした農業の成功事例がないので、後進の方々の参考になるような成功のロールモデルになりたい。そのためにも、GRAという日本の農業生産法人が、世界で十分に通用することを証明しなくてはいけませんね。いずれにせよ、まずはここ数年で、一農業生産法人としての事業を軌道に乗せる。これが目下の目標です」。今回はそんな岩佐氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<岩佐大輝をつくったルーツ1>
新聞配達のアルバイトでパソコンを購入。
小学時代からプログラミングに親しんだ

私の生まれ故郷は、宮城県亘理郡山元町(わたりぐん・やまもとちょう)。仙台市から南に30㎞ほど離れた太平洋の沿岸部に位置する田舎町です。両親は共働きの公務員で、4つ下の弟が一人。父も母も働いていたので、一緒に住んでいるおばあちゃんが、私たち兄弟の面倒をみてくれていました。そんな家庭環境でしたから、おばあちゃんっ子だったのですが、いろんなことを「自分でやらねば」と考えていた子供だったと思います。山元町は、海も山もある自然環境に恵まれたエリアです。山に行って友達と秘密基地をつくったり、海へ行って釣りをしたり。自然のなかで遊ぶことが多かったですね。習い事は、小学4年の頃から剣道を始め、中学でも剣道部に入って、腕を磨きました。あと、外遊びに飽きたら、ファミコンです。小学生の頃は、ファミコンがとてもはやっていて、友達の家に行ってはやらせてもらっていました。両親は子供に簡単に物を買い与えない方針だったののです。だから、私自身はファミコンを持っていませんでした。

そんな家庭だったので、小遣いを自分で稼ごうと考え、小学5年から、新聞配達を始めました。朝のみ、十数件の家に配るだけでしたが、毎月6000円のバイト料が出たんです。当時の私にとってはものすごい金額ですよ。この頃、宮城県主催で、県内の小学生数百人が集められて、旅をする企画に参加しています。そして、旅の間に仲よくなった、仙台在住の仲間から、パソコンなるものの存在と、面白さを教わったのです。彼の話を聞いてから、どうしてもパソコンがほしいと思い始めた私は、新聞配達のバイト料を貯め、秋葉原のショップの通信販売で、中古のマシンを手に入れました。それからパソコンの専門誌を買って言語を独学し、いろんなソフトウエアを自作するようになります。自分で書いたプログラムで、画面の中のものが指令どおりに動く“万能感”とでもいうのでしょうか。すぐにコンピュータとプログラミングの面白さに、はまっていきました。

よく覚えているのは、人工知能的なソフトをつくったこと。辞書機能を使っていろんな言葉を覚えさせることで簡単な会話ができるようになるという。当時は今よりもたくさんのパソコン関連雑誌が発行されていて、自作のソフトを雑誌のコンテストなどに投稿して掲載されたりもしました。中学でも新聞配達のバイトは続けていて、2台目として手に入れたマシンがNECのPC98。当時、全盛期だったパソコン通信にもトライするなどして、遊んでいました。ちなみに、“中学まで”はそれほど必死にやらなくても、勉強がものすごくできたんですよ。県内全体の模試でも上位に食い込むくらい。それもあって、中学卒業後に進学した先は、宮城県で偏差値の高さ1、2を争う難関といわれる仙台第一高等学校。でも、入学してからまったく勉強しなくなってしまうんですよ。というか、ほとんど授業に出なくなってしまった。

<岩佐大輝をつくったルーツ2>
登山と街遊びに明け暮れた高校時代。
卒業後、トラブルに巻き込まれ、故郷を後に

続けてきた剣道部に入ろうと思ったのですが、上下関係がかなり厳しいと聞いて、それはやってられないなあと。その代わりに山岳部に入部したのですが、これがとても面白かった。練習はかなりきついし、上下関係の大変さもそれなりにありましたけど、山の魅力にはまったのです。また、仙台市って山元町に比べると大都会ですから、遊ぶ場所がたくさんあるでしょ。で、街遊びではまったのは、パチンコです(笑)。相変わらず小遣いは自分で稼ぐ必要がありましたから、研究に研究を重ねて、けっこう稼がせてもらいました。毎日、自宅を出て、仙台の街に入りびたり、パチンコを打って、彼女と遊び、放課後になったらやっと学校へ行って、部活動に精を出す。そんな毎日でしたから成績はぼろぼろだし、毎年、出席日数はぎりぎり状態。3年次も、最後の春休み前に誰よりも長い日数の補習を受けて、何とか卒業させてもらったって感じでした。

山岳部の活動のほうですが、月に2本は山に登っていました。夏は南アルプス、冬は蔵王とか、日本の名山をたくさん。通常のルート登山に加えて、ロッククライミングや沢登りにもけっこうチャレンジしました。こんなことがありました。だいたい1度の登山に、部員15~20人で臨むのですが、事前に安全かどうかを把握するために、選ばれた部員が偵察に出かけるんです。登山が一番難しいシーズンに、私がある山の偵察隊に選ばれました。偵察時は問題なしと判断したのですが、実際に登山した日、いきなり爆弾低気圧に襲われた――。そして、あっという間に視界はほぼゼロ。部員全員が散り散りになりかけたところで、偵察時にはなかった山小屋を偶然発見するんですよ。何とか全員無事に非難することができ、最悪の事態は回避できました。あの時は、本当にもう終わりかもと、今でも恐怖がよみがえります。それでも、命の大切さを教えてくれた、得難い体験だったと思っています。

高校時代に遭遇したもう一つの“事件”は、インターネットの登場ですね。パソコン通信どころの話ではなく、これでいっきに世界がつながっていく――ものすごいことがこれから起きていきそうだと想像するだけで、わくわくしたことを覚えています。さて、高校は卒業できましたが、まったく勉強していなかったでしょ。でも、やっぱり大学には行っておこうと考え、仙台の予備校に通うことにしました。でも、ちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまうんですよ。当時、付き合っていた彼女と別れたのですが、その後、その女性からしつこく付きまとわれるようになって……。そのうちに怖いお兄さんとぐるになって、ありもしないことをネタに脅しをかけてきた。あの頃は携帯電話なんて持っていないから、脅迫電話が自宅にガンガンかかってくるわけです。もうノイローゼ状態でした。それで知人に相談したら、「危ないから、もう仙台にいないほうがいい」とアドバイスされ、19歳の私は東京に逃れることを決めました。

<パチプロ、起業する>
なんとなく大学へ進学するも、個人事業が大忙し。
24歳でITビジネスを本格的に起業する

東京へ、とはいっても、知人がいるわけでもなく、何のあてもありません。とりあえず、西日暮里の安アパートを借り、日々の生活費をパチンコで稼ぐ日々が始まりました。いってみれば、パチプロですね(笑)。あとは、プログラミングができたので、たまにホームページの制作や、ソフトウエア開発の下請けをこなしながら。そんな生活が少し続くのですが、仙台で女性トラブルに巻き込まれたでしょう。女性恐怖症になっていたのか、女性がそばにいると過呼吸になって、パニックになる……。あの頃の2年間は、けっこうつらい期間でしたね。そうこうしているうちに、このままではだめだと一念発起。精神状態と生活スタイルを改善するため、やっぱり大学行こうといくつかの大学を受験し合格。仏教系で都心から近いという理由で駒澤大学経済学部へ進学したのが22歳の時でした。ただ、大学生になったものの、高校時代と同じく、授業にはほとんど出ていませんでした。ただし、仏教(禅)の勉強だけは猛烈にやってました。ここで学んだ「禅」が私の今の経営スタイルを支えることになるとは当時は思ってもいませんでしたが……。

プログラマーの仕事がかなり忙しくなっていて、大学生というよりは完璧に個人事業主の生活。この頃には自社で立ち上げたポータルサイトとメルマガの広告収入がけっこうありましたし、また、いくつかのシステム開発案件もこなすようになっていました。その後も仕事は順調に増え、スタッフ2名も私のビジネスに参加。そして24歳になった2002年11月、個人事業のオフィスズノウを有限会社ズノウ(現株式会社ズノウ)として法人化しています。私よりも早く大学に入った高校時代の同級生たちも当然24歳になっていて、医者や弁護士になったという話を耳にするようになるわけですよ。彼らよりスタートが遅かった分を取り戻すために、自分にはいったい何ができるか考えてみた。それはやはり、これまで続けてきたビジネスであり、事業経営だろうと。そして、資本金300万円で有限会社を設立し、私の起業家としての人生が幕を開けたというわけです。

仕事は引き続き順調でしたが、スタッフを正式に雇用し、事務所を借りたことで、毎月の固定費が大幅に増えたじゃないですか。会社の口座からどんどんキャッシュが目減りしていき、起業4カ月後にはあわや資金ショートという大ピンチに……。しかし、そのタイミングで、以前、仕事をさせてもらった経営者の方から「自社のネットワーク構築の仕事がある。以前、真面目にやってくれた岩佐君のことを思い出したんだよ」という連絡が入るのです。詳しいお話を聞くと、総予算が1000万円ほどの大型案件。「ぜひ! やらせてください」とお答えし、そのネットワーク構築の仕事を引き受けさせてもらいました。もちろん、資金ショートは一気に解消です。「仕事のご褒美は仕事」という話をよく聞きますが、誠実な仕事を続けてきて本当によかった。若輩経営者の気を引き締め直してくれたエピソードです。

<大学院へ入学>
自己流経営を学び直すためMBA取得を決意。
そして、悪夢の東日本大震災が発生……

ズノウの主な事業内容は、企業内システムの開発と運用で、毎月の運用とメンテナンスが売り上げの土台となっていました。そのほかにも、単発の受託ソフト開発、ネットワーク構築なども同時並行で請け負い、事業は比較的順調に推移していきます。そして、スタッフも数十人を抱えるまでになり、年商も1、2年のうちに数億円に。当時は、かなりハデに私生活を謳歌していましたね(笑)。しかし、2006年に起こったライブドア事件後に、会社の成長が鈍化し、続いて2008年のリーマンショックで、当時メインの顧客だった不動産会社が次々と倒産し、経営自体が苦しくなっていきます。徐々に攻めの経営から守りの経営にチェンジせざるを得なくなって、経営者としての自分の心のバランスが不安定になりました。そこで自己流で進めてきた経営を、体系的に学び直そうと考え、2010年にグロービス大学院に入学。MBA取得を目指すことにしたのです。

この決断は本当に正しかったと思っています。私は会社勤めの経験もなく、すべて自己流でビジネスを続けてきました。だから、社会やマーケットの中で自分が相対的にどんなビジネスパーソンなのか、よくわかっていなかったんですね。でも、グロービスでは、一流大学を出て、一流企業で働いている多くのエリートたちが学んでいます。そんな彼らと一緒に授業を受け、経営を学ぶことで、自分のやってきたことが基本的には間違っていなかったことがわかり、また、自分の社会的なポジションも明確になって、いろんな意味で、心と頭をしっかり整理することができました。また、グロービスで学んだことを軸に、自社の経営を振り返ることで、さまざまな問題点も見えてきた。問題がわかれば解決することができます。苦しかった経営も、少しずつ、好転していきました。

そうやって会社を経営しながら、大学院で学んでいた、2011年の3月11日。その日は世田谷区の自宅で仕事をしていました。また、妊娠していた妻が里帰り出産をするため、生まれ故郷である福島県に帰省した当日でもありました。そして、14時46分、大きな揺れが……。東日本大震災の発生です。すぐに山元町の実家と、福島の妻の実家に電話をかけましたが、まったく通じません。気になりながらも、会社に行って、スタッフたちの無事を確認。それから社員総出で、山元町の人たちが安否情報を自由に書き込める掲示板サイトを立ち上げました。掲示板にはものすごい数のアクセスが殺到し、多くの方々から安否確認ができたと喜ばれ、徐々に被災地の情報も入ってくるように。そして震災の翌日、車に支援物資を満載して、私は山元町に向かいます。現地で目にしたのは、津波にのみ込まれてしまった町、そこを行きかう自衛隊の軍事車両……。戦争でぼろぼろにされた焼け野原のような、想像を絶する悲惨な光景が広がっていました。

次週、「山元町のブランド・イチゴを世界へ――被災地発・新農業ビジネスの挑戦!」の後編へ続く→

 

“共創感”を大切に、本当にいいものをつくる。
山元町発のイチゴ農業ビジネスを世界へ!

<自分にできること>
協力者を得て、素人が農業にチャレンジ!
新しいかたちのイチゴビジネスをスタート

幸いにも、現地の避難所で両親と再開し、その後、妻の無事も確認できました。しかし、山元町では700名もの方々が命を失い、行方不明者も多数。町内の家々、駅や線路も津波で流され、主要作物だったイチゴ畑とビニールハウスの95%は破壊されてしまった……。何もかも失ってしまった町の惨状を目の当たりにして、「生まれ故郷を、何とかしなければいけない」と心の底から思いました。そして、とりあえずいったん東京に戻り、グロービスの仲間に声をかけて、ボランティアチームを結成。震災の翌週からチームで被災地に入り、イチゴ栽培が再開できるよう、地元の方々と一緒に畑の泥かき、がれき撤去を始めます。ボランティア活動を続けながら、いろんなことを考えました。イチゴ農家はほとんどが高齢者で、後継ぎ問題も残っています。被災して仮設住宅で暮らす農家の方々に頑張ってもらって、町を震災前の状態に戻すだけではまったく足りない。さらに明るい未来を山元町にもたらすため、自分にできることがもっとあるのではないかと。

これまで、自分はITおよびビジネスのプロとして生きてきた。ビジネスとして新しいイチゴ農業を確立し、継続できる事業のスキームを構築し、雇用を生み出す。そうすれば、山元町に活気が戻り、若い人たちも集まってくるはず。そんな話を各方面でしていたところ、町の福祉協議会に所属していた橋元洋平と出会います。同じ危機感を抱いていた彼と意気投合し、まずは自分たちでイチゴをつくってみることを決めました。そして、2011年7月に立ち上げたのが、農業生産法人・株式会社GRAです。ちなみに彼は今、当社の副社長となっています。従来の流通に乗せるのではなく、山元町のイチゴを世界的なブランドに育てるためのアイデアをすでに温めてはいました。ただし、肝心のイチゴ栽培については2人ともど素人。そこで、橋元の遠縁にあたるイチゴ栽培35年の大ベテラン、橋元忠嗣さんを何とか口説いて、指導してもらうことに。そして、綿密なマーケティングで高くても売れる品種を決め、その秋から栽培をスタート。2012年2月、初めての収穫――。自分たちにも美味しいイチゴがつくれたということが、本当に嬉しかった。けっこうな量も採れ、まずは地元の皆さんに食べてもらいました。

被災地で、まったくの素人がゼロから農業に参入し、収穫までもっていく。そして、ビジネスの力で高級イチゴをブランディングし、そのうえで新たな販路を開拓していく。スタートの段階から、東北に大きな社会的インパクトを残すことを狙っていました。そのため、2011年末に農林水産省の「被災地の復興のための先端技術展開事業」のコンペに参加して、受託。総工事費約2億5000万円の最先端大規模園芸施設を誘致し、イチゴ農家だった祖父の土地に、建設しています。ここには約20の研究機関および企業が集まり、ITと農業を掛け合わせたさまざまな方法を試しながら、より良質なイチゴとトマトの研究を進めています。同時にこの研究施設で得た成果を実践するため、自分たちの大型農場を持つことを決めました。こちらの総工事費は4億8000万円で、補助金などもありましたが、2億円以上を銀行から私の個人保証を付けて借り入れました。大型のハウス栽培設備を2カ所新設し、圧倒的なイチゴ農業ビジネスの実績をあげるための準備を整えました。今考えるとほとんど経験のない農業にいきなり個人保証で何億円も借りるという意思決定を瞬間的にしていたことは、自分でも怖くなるくらいです。でも、それくらい東北を何とかしなければという“想い”が強かったのです。

<MIGAKI-ICHIGOの誕生>
最高の立地環境に最新のITテクノロジーと、
熟練職人の技術を統合させた最高級のイチゴ

GRAのイチゴ農場では、いくつもの管理システムを導入しており、ITを活用した温度や湿度の管理など、ベテラン農家の方々の経験や勘を形式知化するための研究・実験を今なお継続しています。もちろん、私たちだけの成功のためではなく、周りの農業生産法人、農家の方々にもノウハウを提供しながら。そして2012年12月、GRAは、最高級のイチゴ・ブランド「MIGAKI-ICHIGO(みがき・いちご)」を発売しました。山元町は、長い日照時間と大きな昼夜の寒暖差、南西の冷たい風“いなさ”が吹く、イチゴ栽培に最適な土地。この最高の環境に、最新のITテクノロジーと、熟練のイチゴ職人の技術を統合させた最高級のイチゴです。「MIGAKI-ICHIGO」は、これまでにない斬新なパッケージで包装され、全国のデパートや、ネットショップで販売されました。最高グレードの「MIGAKI-ICHIGO」の価格は1粒1000円と高額な値付けでしたが、おかげさまで販売後すぐに売り切れとなるほど、順調な売れ行きとなりました。

今後、「MIGAKI-ICHIGO」を地域のブランドにする計画もあります。例えば山元町で新規就農される方々へ、その栽培技術やノウハウを提供するなどして。ただし、日本一の味を目指しているイチゴのブランドですから、クオリティコントロールが簡単ではないと思っています。そのあたりは急がず、慎重に進めていかなければいけませんね。一方、2012年の3月、大手企業にCRS関連の部署に勤務していた知人から、「岩佐君は、震災後、水や電気が十分でない環境のなか、美味しいイチゴをつくった。インドでイチゴをつくってみないか」という相談を持ちかけられます。その話を受けてから、GRA、当該大手企業、インドを支援するNPOの3者で、JICAに事業として提案。その提案が受け入れられ、私たちはインドでイチゴ栽培をスタートさせることになるのです。インドの女性たちを雇用することで、彼女たちの所得を上げ、低かった女性の地位を高めることが本プロジェクトの旗頭でしたが、私にはもちろん、インドの人たちに美味しいイチゴを食べてもらいたいという思いがありました。ちなみにインドではほとんど生のイチゴを食べる習慣がないので、基本すっぱいんですよ。

インドに入って、2012年の6月に、「ここでイチゴをつくろう」と決めた場所は、南インドに位置する、マハラシュトラ州プネ近郊。その年の11月には、現地の人たちと一緒にハウスを建設。農場の規模は1000㎡ですから、300坪。栽培に従事しているのは、インド人女性10人と、GRAの日本人駐在員1人です。水はあるにはありましたが、pH値がすごく高いアルカリ性で、水質が毎日変わる(苦笑)。最初はかなり苦戦しましたが、最近になってやっと水質が安定してきたという感じです。初の収穫は、2013年の3月で、予想以上に美味しいイチゴが採れ、インド国内のホテルなどに販売することができました。まだ量が安定して収穫できていないことが、解決すべき課題ですね。海外展開としては今後、サウジアラビア、アラブ首長国連邦など中東地域への輸出販売、現地での栽培も計画しています。アセアン諸国では、すでに日本のイチゴが出回っていますが、中東なら大きなシェアが握れる可能性が高い。少しずつ、フィジビリティ・スタディを進めているところです。

<未来へ~GRAが目指すもの>
日本・山元町発の農業生産法人が、
世界で十分に通用することを証明する

IT会社のズノウのスタッフは15人ほど。マネジメントはナンバーツーに任せていて、月に1日出社するくらいです。なので、私の時間の99%はGRAの経営が占めています。GRAには、農業生産法人とNPO法人があって、NPOでは、いわゆるまちづくりだったり、コミュニティデザイン、山元町での新規起業のサポートを主に行っています。あと、山元町には中学校が2校あって、震災後すぐに始めた「こころざし教育」という名称のキャリア教育を提供中です。これは学校の公式プログラムに認定されていて、未来のキャリアを自ら切り開いていってもらうために、学生たちにこの授業を受けてもらっています。農業生産法人・株式会社GRAの陣容は正社員が13名、栽培スタッフを含めると45名くらいでしょうか。正社員のなかには、大手銀行や外資系IT企業などを辞めて来てくれたMBAホルダーもいて、本当に優秀な人材が集まっています。入社の動機は、GRAのビジネスモデル自体もそうですが、農業ビジネス、まちづくりやコミュニティデザインに興味を持ったという人が多いですね。みんな、前職に比べて給料はかなり下がったようですが、この事業を心から楽しんで働いてくれています。

一方、NPOのほうには今、850人くらいの参加者および協力者がいて、私も含めてほとんどが別の仕事を持って、自分の専門能力を提供してくれるボランティアです。プロボノのモデルとしては非常に面白い取り組みをしていて、例えば先述した「こころざし教育」のほかにも、NPOと農業生産法人が協力し合って「MIGAKI-ICHIGO」のブランディングを行っています。そういった取り組みから生まれたのが、「MIGAKI-ICHIGO」だけを原料として使った、スパークリングワイン「ミガキイチゴ・ムスー」。かなり希少で、美味しいスパークリングです。ブランディングにも成功し、おかげさまで「ミガキイチゴ・ムスー」は、大ヒット商品になりました。ネットでも購入できますので、ぜひ飲んでみてください。やはり、いろんな人が集まると、いいアイデアがたくさん出てきます。これからも、「MIGAKI-ICHIGO」というブランドを、みんなの力で大切に育てていきたい――。今、GRAには、とてもいいチームワークが醸成されています。

農業生産法人としては、まだ今年がやっと3シーズン目。品質管理と収穫量の安定を徹底し、農業生産法人としての力をつけることが一番の目標です。また、私たちが培ってきたノウハウや技術で、周囲の農家が潤ったり、山元町での新規就農を増やすサポート事業にも力を入れていきたいと思っています。もうひとつ、先ほどの「ミガキイチゴ・ムスー」もそうですが、「MIGAKI-ICHIGO」を活用した化粧品開発など、6次産業化にも注力していきたい。あとは現在進めている海外展開の推進ですね。とにかく、10年間で100社、1万人の雇用機会をつくることが私たちのビジョンですので、これに則って事業を拡大していくだけ。あとは、僕のようなかたちで参入した農業の成功事例がほとんどないので、後進の方々の参考になるような成功のロールモデルになりたい。そのためにも、GRAという日本の農業生産法人が、世界で十分に通用することを証明しなくてはいけませんね。いずれにせよ、まずはここ数年で、一農業生産法人としての事業を軌道に乗せる。そのために、“共創感”を大切にし、いろんな企業、組織を巻き込んで、本当にいいものをつくる。「MIGAKI-ICHIGO」のラベルには、“メイドイン山元町”と表記されています。山元町発の農業生産法人が、日本の農業を変えていく取り組みと挑戦に、ぜひ期待していてください。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
できるだけ早く起業をスタートさせて、
PDCAのサイクルを高速回転すること

まずは、スモールスタートでやってみることです。起業を目指しているけどまだやっていないほとんどの人は、一歩踏み出すということをしないで、うまくいくかどうかってことばかりを考えている。だから結局、一歩を踏み出せないままなんですね。それでもやっとこさ何とか一歩を踏み出した時には、時代やマーケットががらりと変わっていて、もう通用しない時代遅れのビジネスモデルになっている、とか。そう考えると唯一の成功法則というのは、小さくてもいいから早く始めて失敗しておくこと。やりたいことがあるのなら、できるだけ早くスタートさせて、PDCAのサイクルを高速回転させる。それしかないと思います。

もうひとつ、リスクを抱えることを当たり前として考えておかないといけません。リスク=リターンです。安定した事業プランを紙の上で書いて、仮にリスクがゼロになるまで考えられたとしたら、当然、ファイナンス的にリターンもゼロになるわけですよね。リスクとリターンのバランスは、常にトレードオフ。成功の裏側には失敗する可能性が必ず潜んでいるということです。リスクを恐れずに挑戦する覚悟をつくる。これも大事なことだと思います。

チャンスがあるなと感じるマーケットは、やはり規制されている分野です。農業、医療、介護、教育だとか。そういった、国の予算がたっぷり入った業界には、イノベーションが起こる可能性が高いということですね。農業×ITのような言われ方をしている業界は遅れています。ITなんて今やどこでも当たり前のキーワードなのに……。民間の競争にさらされていなくて、力のない既得権益者が跋扈している分野は、挑戦のしがいがある。そういった分野を探してみるのも手でしょうね。

今、あなたがいる場所で最大の成果を残すことが一番の起業準備です。給料をしっかりもらっている以上、プロ論というか、それが当たり前のこと。企業の大小、役職などのポジション関係なく、置かれた場所で最大のパフォーマンスを出すことを心がけてほしいです。ズノウからも独立していった仲間がいますが、彼らは間違いなく、リスクを理解していたし、自分の頭で物事を考えるハードワーカーばかりでした。

最後に、シニア世代の起業は、かなり面白いと思っています。その方々は日本経済が一番成長していた時代に、例えば、ものづくりなどの世界に誇れる技術をつくられてきた。そういう能力を、企業にしばられない軽い立場になって、意外と気軽に試せるのがシニア世代。ぜひ、素晴らしい知見やノウハウ、技術を新しいステージで輝かせてほしいです。ただし、今の時代のスピードにしっかり対応しておく術をしっかりと身につけたうえで。ぜひ、頑張ってください。

<了>

取材・文:菊池徳行(ハイキックス)
撮影:内海明啓

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