第133回 ユナイテッドピープル株式会社 代表取締役  関根健次

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第133回
ユナイテッドピープル株式会社/
代表取締役

関根健次 Kenji Sekine

1976年、神奈川県生まれ。アメリカのベロイト大学経済学部卒業。在学中、半年間の交換留学生として、中国・上海の大学へ留学。卒業旅行でトルコから日本へ陸路と船だけの旅を計画。その過程で、パレスチナ・ガザ地区を訪れる。ここで出会った少年との会話が、後に自身の人生を180度変えることになる。ワイン貿易会社を起業することを夢に食品スーパーに入社するが、1年で退職。その後、2社のITベンチャー企業を渡り歩く。過労で倒れたことで死生観を感じ、時間を無駄にしたくないとサラリーマン生活を卒業。2002年に、ダ・ビンチ・インターネット有限会社(現・ユナイテッドピープル株式会社)を起業。2003年5月、世界のNGO・NPO支援のための募金サイト「イーココロ!」を始動。2008年3月、オンライン署名サイト「署名TV」を開始。2007年より、社会的企業や社会起業家を応援する、ソーシャル・イノベーション・ジャパン(SIJ)フェロー。著書に『ユナイテッドピープル』(ナナロク社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

ラーメンです。
何かひとつ挙げろと言われれば、ラーメンですかね。一番好きなのは、地元藤沢の「街道や」。ここの味噌ラーメンはうまいです。お酒も普通に飲みます。大学時代にはまったワインと、最近では泡盛もよく飲みます。

趣味

キャンピング!です。
妻と長男、長女と4人で、キャンプに行くのが楽しみです。カヤックに釣り、自然の中での遊びはやっぱり楽しい! 僕は料理でもキャンプファイヤーでも、火を起こすのが得意。火の当番が大好きなんですよ。

行ってみたい場所

キューバです。
アメリカからの経済封鎖を受けている人口1100万人のキューバは、自給自足の生活を実現しているそうです。家の庭からガレージなど至る所に畑があって、しかも医療費は無料。貧しいというイメージからは、ほど遠いですよね。こういった生活は自分たちが目指すべき生き方なのか、そうでないのか、実際に行ってこの目で見ないと、真実はわからないですからね。

お勧めの本

『ECO・MIND―環境の教科書』(ベストブック)
著者 竹田恒泰
アンカー
我々が何となくわかった気になっていた環境問題が、実に愉快に理解できます。「うんこ」の話から環境問題を語っていたり、江戸時代の東京は素晴らしい循環型の都市システムをすでに構築していたりと、森、山、川といった自然の力をベースにして、これからのエコを考え、実践するためのヒントやノウハウが詰まっています。

ITを活用した寄付、署名、旅、イベントを提案し、
参加者全員で世の中を変える型破りの株式会社

 「僕の夢は爆弾の開発者になって、できるだけ多くのイスラエル兵を殺してやること」――。偶然導かれたパレスチナ・ガザ地区。1999年1月に、22歳の関根健次氏は、ある少年からそんな話を聞いた。食品会社、IT会社での勤務を経て、本気で世界平和を生み出す会社「ユナイテッドピープル」を立ち上げたのが2002年。さまざまなハードルを乗り越えながら、約10年の時を要したが、同社は世界中のNGO・NPOに年間数千万円の寄付を届ける株式会社となった。「これからは“しょうがない”を死語にしないといけないですね。今、こういう社会をつくりたいから、今、こういう事業をやりたいから、今の社会を変えてでも絶対にやるっ! やり続けるっていう気概が必要だと思います。社会情勢とか、国が置かれた状況とか、景気・不景気とか、全く関係ないですよ!」。今回はそんな関根氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<関根 健次をつくったルーツ1>
たくさんの思い出と愛情を注いでくれた
両親は、今でもずっと理想の夫婦像

 生まれは神奈川県の藤沢市、辻堂です。自動車の修理業と中古車販売業を営む父と、経理など父の仕事を手伝う母、そして2歳年上の姉がいる4人家族。職人気質の父は気性がとても荒い人でした。中高生の頃にかなりやんちゃをしたらしく、地元のお祭りや神輿にも熱心で、今思い出しても怖い顔してますもん(笑)。でも、仕事は汗かいて一生懸命やっていましたし、夕飯とか家族と一緒にいる時間をとても大切にする人でした。そして、アウトドア遊びが大好きで、キャンプに釣り、スキーにもよく連れて行ってくれました。ただ、何かを聞いても「自分の頭で考えろ」「俺の背中を見てろ」と(笑)、全く教えてくれない。そんな頑固な父でしたけど、自分のペースを守りながら事業を経営し、僕たちきょうだいを養ってくれた。両親ふたりは、小さな頃からずっと僕の理想の夫婦像です。ちなみに、今でも父は現役で仕事を続けています。

 そんな父に似たのか、僕は幼稚園時代から、ケンカばかり。小学校3年くらいまでは、ほんと暴れん坊でしたよ。幼稚園の時のケンカで良く覚えているエピソードがあります。幼稚園でやっつけた奴が、三輪車に乗って自宅まで仕返しに来たんですよ。そいつは持ってきた竹やりを、いきなり僕に投げつけた。そしたら竹やりの尖ったところが口の上に刺さって、血がだらだら。大怪我です。そしたら、帰宅した父に「おまえは何をやってんだ!」とものすごい剣幕で怒鳴られて、お仕置きのため物置に閉じ困められました。何時間経っても出してくれないので不安になって、物置のガラス戸を殴り付けたら、ガラスがパリンと粉砕。今度は自分の拳から血がだらだら(笑)。そんな子供でした。ただ、なぜだか理由はわからないのですが、小学校5年生くらいで僕のケンカ癖はぴたりと止まりました。

 学校の成績は中の上くらいだったかな? 体育だけが得意で、勉強は嫌いでした。小学校から始めたサッカーは途中でやめて、硬式テニスに転校。中学に上がると陸上部に入部したんですが、1年で退部。基本的に飽きっぽいんですね。でも、テニスだけは高校までずっと続けています。プロを目指していましたから。なかなか勝てなかったんですけど(笑)。中学の一番の思い出は、切ないですよ……。恋をしたんです、三角関係の(笑)。僕の同級生も同じ女子のことを好きになっちゃったという。それが原因で、その同級生の男子グループから、シカト系のかなりしつこいいじめを受けたんですよ。しかも、そいつらのグループは学年でも目立った感じで、まさに四面楚歌。人間不信に陥るくらい、すごくつらかった。ただ、別の件で僕もいじめる側にいたこともあったし、因果応報の実を思い知らされた苦い経験でした。

<関根 健次をつくったルーツ2>
日本人の少ないアメリカの大学へ進学。
自分のアイデンティティに迷った青年期

 姉がカナダのバンクーバーに留学していたので、高校2年の時に家族でカナダ旅行をしました。初めての海外旅行、ものすごく楽しかった。まず、街を歩く学生たちがガクランを着ていません(笑)。飲食店に入ると、店員は挨拶だけじゃなく、「どこから来たんだ?」なんて会話が始まる。英語、あまりできませんでしたけど。「何だこの世界は?」と。自分は日本で生まれ育って、当たり前と思っていたことが、当たり前じゃない世界があることに気付かされた。国が違えば、文化や風習など、物差しががらりと変わる。これは楽しい! もっともっと知りたい! この経験から、僕も高校を卒業したら海外の大学に行きたいと思うようになりました。もちろん、学校の先生全員からも、当然父親からも大反対されました。特に父は家業を僕に継がせたかったみたいですから。でも、最後まで思いをぶらさず決意を伝え続け、何とか了承してもらいました。

 自分で探した留学相談所と英語学校に通いながら、留学準備を進めました。その相談所はかなりのスパルタ方針でして、「準備はそこそこでいい、背水の陣で飛びこめ」「日本人ができるだけいない街の大学に行け」と。そんな教えを聞きながら、僕が進学を決めたのがウィスコンシン州のベロイト大学。専攻は経営学でしたが、いわゆるリベラルアーツカレッジなので、広く浅く、ですね(笑)。しかし、いきなり最初の授業でショックを受けました。教授がしゃべっていることがいまいち聞き取れない。どんな宿題が出たかもわからなかったのです。でも、学部の仲間たちが最高に良い奴らばかりで。いろんなやり方で助けてくれたこともあり、自分もあきらめずベストを尽くそうと踏ん張った。そうやって半年後くらいには、何とか授業にも着いていけるようになっていました。

 大学2年の時、交換留学生として半年間、中国・上海の大学へ行きました。そこでフランス人でワイン好きのルームメートと意気投合。初日から一緒に飲んだくれていましたね(笑)。ベロイト大学の授業は少人数制で面白かったのですが、中国の大学は大きな階段式の大教室で聴講するタイプの授業。僕には合わなかったですね。なので、勉強はそこそこにやって、2つのバーを掛け持ちしてバーテンダーのバイトをしてました。バイトが終わると、中国人や留学生たちと踊りへGO。僕はこの留学期間中に20歳になったのですが、バースデイ・パーティで酔っ払い、素っ裸になって踊っていた記憶があります(笑)。留学期間を終えてアメリカに帰る前、見聞を広めるため、中国の各地を一人旅しました。「おまえは何人だ? どこから来た?」と問われるたびに、「俺はアメリカの大学に進学した日本人で、今はアメリカの大学から中国の大学での交換留学期間を終え……」とよくわからない答えになってしまうんですよ。この一人旅では、新しいものを知るというよりも、自分のアイデンティティの所在を深く考えさせられる旅となりました。

<パレスチナへ>
旅先で一目ぼれしたカナダ人とイスラエルへ。
さらなる偶然が、「ガザ地区」へと導いた

今でも旅が好きです。異文化に触れれば触れるほど、日本人としての自分を知ることにつながり、それが自分たちの祖先を知ることにもつながる。旅は僕に本当に多くの知見や気付きをもたらしてくれます。ルームメートでワイン好きのフランス人の彼とは、留学修了後も連絡を取り合っていました。大学の休みを使ってヨーロッパをバックパックで回った時も、フランスで一緒にワインを飲み歩いたり。自分もワインが大好きになっていて、将来はワインの輸入ビジネスを立ち上げたいと思うまでになってましたから。大学卒業後の就職は、日本の食品系スーパーの花正という会社に決まっていました。「ワインの仕事をさせてくれるなら」という条件で決めました。それで、卒業旅行はアジアとヨーロッパが出合い意外とワインがうまい国(笑)、という事でトルコにしました。そこから陸路と船だけを使って日本に帰る計画でした。この旅がまた、僕に強烈な経験をさせてくれることになります。

 トルコのイスタンブールに着いてすぐ、バックパッカーたちが集まる安宿に入りました。その宿に付設していたバーのカウンターで、僕はある女の子に一目ぼれ。「どこから来たの? どんな旅をしているの?」と英語で話しかけたら、彼女はカナダ人で、イギリスから半年くらい旅を続けていると。玉砕覚悟で、言ってみたんです。「明日から一緒に旅をしないか?」。そしたらあっさり、「いいわよ」。いや、嬉しかった(笑)。そこから行動を共にし始めたのですが、彼女が「一緒にイスラエルに行かない?」と言いはじめました。ユダヤ系の彼女にとって、プロミスト・ランド(約束の地)なんですよ。でも、そこに行くためには、空路を使う必要があります。自分で決めた陸路と船で日本へのルールが……。でも、「行こうよ、行こうよ、一緒に」とせがまれて「OK」と即答してしまいました(笑)。そして一緒にイスラエルへ向かってワイナリー巡りを楽しみましたが、到着数日後には振られてしまいました(笑)。

 また一人の旅に戻って、今度はエルサレムを訪れた時のことです。乗り合いタクシーを待っていると、日本語で話しかけられました。久しぶりの日本人との会話が嬉しくて、いろいろ話をしていたら、彼女はパレスチナのガザ地区で働く医療ボランティアでした。すると、「私の家に遊びに来ない?」と彼女。逆ナンパではないですよ(笑)。ガザ地区の危険さはよく知っていましたから、さすがの僕も最初は躊躇しました。でも、「今は安全だから」と熱心な彼女に説得されて、数日後、僕は彼女を訪ねてイスラエルからパレスチナに入るための長いトンネルを歩いていました。当時はパスポートを見せるだけでパレスチナに入国できました。当然、今は無理です。彼女のマンションに数日ほど泊めてもらい、勤務先の病院にも行きました。英語が堪能で優秀なパレスチナ人医師を紹介されたのですが、彼らはアメリカの病院に勤務すれば、今の数十倍の給料を手にできます。でも、母国の同胞のために命を張って仕事をしている。彼女は何も知らない旅行者である私に、パレスチナの本当の現実を知ってほしかったのです。

<少年の夢>
「爆弾を開発して、敵を殺したい……」。
少年との出会いが人生を変えるきっかけに

 彼女が働いている病院は、ハンユニスという街にありました。その街を拠点として、パレスチナの難民キャンプや、数カ月前に完成したばかりのガザ国際空港にも足を運びました。空港では管制塔まで入れてもらい、「あれがエジプトから来た飛行機だ」なんて説明してくれたりして。ものすごく夕陽がきれいだったことを覚えています。しかし、それから3年後の2001年、再び情勢が悪化し、イスラエル軍による爆撃で空港は破壊されてしまいます……。あれは本当に束の間の平和だったんですね。ガザ地区に到着して2日目、病院の近くで、サッカーをして遊んでいる少年たちを見つけ、僕もサッカーに混ぜてもらったんです。みんな目がキラキラして無邪気で、紛争エリアといっても、子どもの無邪気さは世界共通だなと楽しく遊んでました。それで、特に中学生くらいの少年に、ふと思い立って聞いてみたんですよ。「君の将来の夢って何?」。彼からの答えを耳にした僕は、一瞬意味がわからず、思考停止状態に陥ってしまいました。

 「僕の夢は爆弾の開発者になって、できるだけ多くのイスラエル兵を殺してやること」――
茫然としながらその言葉を聞いた後、「ちょっと俺と話をしよう」と病院のカフェテリアに誘い、僕はその少年と2時間くらい話し込みました。聞けば、4歳の頃、目の前でおばさんがイスラエル軍の兵士に射殺されたのだそうです。それ以来ずっと、そのシーンが頭の中から離れない。そして、自分で自分の笑い方がわからなくなった……と。そんな彼がモスクで礼拝をしている時、青年から声を掛けられたそうです。それが武装組織のリクルーティングだったんですね。ある意味、洗脳されたのでしょう。彼の口からは、「ユダヤ人を虐殺したい」「ヒトラーになりたい」という話も出てきました。必死で、憎しみの連鎖は必ず自分にも返ってくると説得してはみましたが、無理でした。「ケンジの話は正しいと思う。でも、僕はきっとやり遂げるだろう。その時はテレビに出るから見ていてほしい」。この地で起こっている現実に圧倒され、自分の無力さを痛感し、僕はただ、打ちひしがれるだけでした。

 数日間パレスチナに滞在して、医療ボランティアの彼女との別れ際、「一人でもたくさんの日本人にパレスチナの現実を伝えてほしい」と託されました。でも正直、僕の許容範囲を超えている問題です。本当はもう一度イスラエルに戻ってワイナリー巡りをしたかったのですが、もうそんな気にもなれず……。早めに旅の予定を切り上げて、タイ、中国と経由して、上海から船で大阪に着いた時には、精神的にも体力的にもかなりぐったりでした。「自分には何ができる? 何もできるはずがない?」という自問自答のくり返し。僕は申し訳ないと思いつつ、パレスチナで見聞きした重たすぎる現実を、心の奥深いところにしまい込み、4月から始まる新社会人生活への準備を始めます。そして、将来のワイン貿易会社の起業を夢に、食品スーパー花正で働き始めたのです。

未来の命のために、今できることは大量にある。
その仕組みづくりと、行動のきっかけを提供中!

<今死んでもOK?>
1秒たりとも時間を無駄にするのはやめようと。
病院の天井を見つめ、会社の退職と起業を決断

  趣味を仕事にしたい。そして、1年のうち数カ月はフランスのワイナリー巡りをしながら買い付けをし、残りの期間は日本で活動する。そんな未来の経営者像を夢見ていました。しかし、現実は厳しいわけです。ワインの仕事をしたいと入社した花正でしたが、社長から「関根君、ワインじゃなくてね、肉だよ! 肉の買い付けをやってくれ」と(笑)。それでは、入社した意味がない……。結局1年足らずでこの会社は退職。2000年当時、渋谷のビットバレーが社会現象になるなど、ネットベンチャーブームが盛り上がっていました。影響を受けやすい僕は(笑)、インターネットの可能性に触発され、半年間ほどWeb系の専門学校で基礎知識を学び、アクシブドットコム(現VOYAGE GROUP)に入社。ここでは、クリック募金のアイデアを会社に提案しますが、時期尚早という理由で断念。次に転職したサイバーエージェントでは、ポイントサイトの立ち上げを任されます。ポイントを寄付に回す仕組みをサイトに加えたのですが、利益獲得につながらないサービスという事でとん挫。そしてIT業界特有の激務が続く中、僕は会社で、突然ぶっ倒れてしまいました。

 救急車で運び込まれた病院で、点滴を打たれている僕。天井を見上げながら、片手でカバンからデジカメを探し出し、自分で自分の写真を撮りました。デジカメに映っている憔悴し切った顔を見て、何だか笑っちゃったんです。何やってんだろうな、俺……。将来の準備のために死ぬほど働いて、死ぬような目に遭って。もしもここで死んだら、幸せな人生だったと言えるのか? いや、超最悪の人生です。命は有限。もう、1秒たりとも時間を無駄にするのはやめようと。この時に、会社を辞めることを決断したんです。でも、退職届を出した時も、まだ何をやるか決めていませんでした。ただ、もう一度しっかり自分と向き合って、生涯かけてすべきことを見極めるため、半年かけて世界を一周する計画を立てていたんです。そうしたら、尊敬していた上司が声を掛けてくれ、「いい仕事あるんだけど」「やります」。「会社をつくったほうがいい」「じゃあ出資してください」「いいよ」とそんなやりとりで起業への道を踏み出しました(笑)。結局、1カ月だけインドを放浪し、帰国翌日にはWebサイトのコンサルティング仕事を始めていました。

  それが2002年の7月、僕は26歳になっていました。その後の半年間はリハビリ生活のようなものでした。年末には会社の口座残高がわずかになり、本気で再起動し始めたのが2003年です。この年に大好きだったおばあちゃんと死別し、今の妻と結婚するなど、人生としても大きな環境変化がありました。また、世界に目を転じると、アメリカのアフガニスタン攻撃が収まったかわりに、今度はイラク戦争が勃発。またしても中東で血が流される……。ガザ地区で出会った少年の記憶がフラッシュバックしました。自分は傍観者としてテレビを見ながら、うまいものを食っていていいのか? 当時、もしも10億円持っていたら、何をするだろうと考えたら、すぐにアフガニスタンに行って被災者支援をするという答えが出ました。でも、何の専門技術持っていない自分が行ってもあまり役立てない。ガザ地区で医療ボランティアをしていた彼女のように、被災地での支援活動を行っている団体はいくつもあるじゃないか! それらのNGOやNPOにお金が流れる仕組みをつくることが、自分の命の使い道なのではないかと。僕の心にパチンとスイッチが入った瞬間です。

<イーココロ!>
最初の半年間の寄付額は、わずか2万円。
しゃがんだ期間は長かったが大きくジャンプ!

  自分の得意分野はやはりインターネット。コンセプトはすぐに決まりました。最終的には戦争をなくしたい。何よりも命を救いたい。世界中で活動しているさまざまなNGO、NPOを、たくさんの人が参加しながら支援できるWebサイトです。キーワードは「クリックから世界を変える」。ユーザーはいつもどおりショッピングや資料請求、旅行をするだけでポイントが貯まる。そして溜まったポイントを支援したいNGOなどに寄付できる。当社への収入は、提携サイトからの広告料の半分です。サイトの名前は「イーココロ!」。仕事場は自宅マンション一室。起きたら隣の部屋へと出勤です(笑)。2003年の5月に産声を上げた「イーココロ!」は、その瞬間から世界を変える存在になるはず、でした。が、それほど世の中は甘くなかった。最初の半年間の寄付額は、わずか2万円でしたから……。コンサル仕事で何とか維持はできていましたが、その後も苦戦が続いていくことになります。

 理想は高いけど、現実はかなり低い状態。それでも、不思議とあきらめようと思ったことはなかったです。自然災害は別として、人間が起こした問題は、必ず人間が解決できる。じっくり焦らずやっていこう。種蒔いて、水やって、それを乾かさないように、継続していこう、という強い思いがありました。ただし、スポンサーの数も利用会員数もなかなか伸びずにいたので、さすがの僕も落ち込むこともありました。そんな時に励ましてくれたのが、僕の師匠でもあるシナジーマーケティングの谷井等社長です。「関根君、悩んでる?」。谷井さんに、今の窮状をすべてお話しました。すると谷井さんは、「人間は高くジャンプする時には、低くしゃがむ必要があるんだよ。今はそのタイミング」と言われて霧が晴れた思いでした。どんな現実も悲観しない。必ず理由がある。ならば、自分はもっともっと、低くしゃがんでやろうと(笑)、超前向きになれました。それからです、ユーザーの声を徹底的に分析しながら、改善できる点をひとつずつ改良し始めました。

 1000ポイントからの寄付を、1ポイントからOKとしたり、スポンサーサイトにアクセスするだけで、1日当たり1円の寄付ができる「クリック募金」をスタートしたり。そして、潮目が大きく変わり始めたのは、2006年頃からです。アル・ゴアの映画「不都合な真実」が大ヒットし、グラミン銀行のムハマド・ユヌス氏がノーベル平和賞を受賞したことで、世界中の人々が社会問題に注目し、社会起業という言葉が聞こえ始めました。当初は怪しい募金詐欺のように見られていたスポンサーへの営業も(笑)、逆に先方から「話が聞きたい」と声がかかるようになりました。2007年には、ソーシャル・ビジネス・アワード「マイクロソフト奨励賞」を受賞、さらに2008年、Yahoo!ボランティアのクリック募金コーナーを運営させていただけることになりました。すべてはあきらめずに継続してきたからこその成果です。提携いただいているスポンサー企業はすでに約300社に増え、寄付額も今期2500万~3000万円を予想。そして今、日本国内を含め、世界中で活動を続ける約130のNGOへ寄付を贈ることができています。

<未来へ~ユナイテッドピープルが目指すもの>
これからも型破りで、会社らしくない
会社として、世界平和に貢献し続けていく

  寄付に加え、2008年に、一人ひとりの声を届けるオンライン署名サイト「署名TV」を立ち上げるなど、みんなで世の中を変えるための仕組みづくりを続けてきました。でも、仕組みを使おうと思ってもらえないと意味がない。ユナイテッドピープルの活動を続ける中で、行動のための「きっかけ」をつくる仕掛けが欠けていることに気付き始めます。そのためにはまず、現実を知ることです。今の大量生産、大量消費で各国がGDPの過多を争う経済システムが、人口を急激に増やし、そのために地球の資源が枯渇し、環境が悪化していることはもはや周知の事実。そして、世界どこかで今もなお戦争や紛争が起きています。すべての国家が持つ成長のジレンマをそのまま放っておけば、僕たちの子孫に禍根を残すことになるのは明らかです。それを阻止するため、僕はできることをやり続ける。できるだけ多くの人が行動を起こしてもらえるような、たとえば、きっかけづくりを。

 バングラディシュの貧困を伝える映画「アリ地獄のような街」や新しい社会のあり方を問う「幸せの経済学」の配給もそう、独自で講演会や勉強会を開催しているのもそう。すべての行動は、まず「知る」ことから始まるのです。これまでお話してきたとおり、僕は旅をしたことで、自分の人生ががらりと変わりました。そこで、若い学生に僕と同じような経験をしてもらうため、8カ月かけて世界を一周する「BADO!」という奨学金制度も始めています。テーマは「ボーダレス・アクション&ドキュメンタリー」。まだ奨学生3人ですが、すでに1人が旅を終え帰国。彼は自分で立てた旅程で、北欧では大学生が自己啓発のためにいつ休学してもいい制度があることを知り、ルワンダでは大虐殺を生き延びた若者のギラギラした目に「本当の生」を感じたそうです。そして彼が旅の中で撮影した映像は、インターネットで配信されます。旅によって彼自身の人生が変わり、その映像を見た若者たちも世界のリアルを「知る」ことができる。もはや世界中がキャンパスといえます。出会った人がすべて先生です。ゆくゆくはBADO!の活動を法人化して、21世紀型の大学へと進化させていきたいですね。

 個人的な変化をお話しますと、この3月から、妻と子供と一緒に、横浜市から千葉の「いすみ市」に転居しました。この外房の田舎町で、使用エネルギーを最小限に抑え、畑をつくるなどして、持続可能な生活の実践を始めました。GDP神話を終焉させ、一人ひとりが暮らし方や働き方を変えていかない限り、世界平和や持続可能な社会の実現は無理。こういう暮らしを選択する決意をさせてくれたのが、ほかでもない当社で配給する映画「幸せの経済学」でした。一人ひとりの心を変える、世の中のために立ち上がってもらうため、ユナイテッドピープルは、今後も寄付、旅、イベント、映画など、さまざまな仕組みと、活動へのきっかけを提供していきます。そうやって世界中の若者が、「世界を変える」をキーワードにどんどんつながっていけば、きっと国籍や宗教なんて関係なくなるはず。国益ではなく、あなたと私でもなく、私たち=We。全人類がそんなアイデンティティを持つことで、核も戦争もなくなっていく。売り上げや利益ではなく、社会の豊かさや関わる仲間との真なる幸せを追求、実践する。これからも型破りで、会社らしくない会社として、世界平和に貢献し続けていきます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
挑戦する事業が、周りを楽しくする、
幸せにするものであることを願っています

 自分で何かやりたい人にとって、選択肢が多いということは、大変ありがたいことであり、豊かなことです。それゆえに、どのドアを叩こうかということで、悩んでしまい、行動に至ってない方が多いのではないかと思います。でも、まずはすでに開いているドアのうち一番のぞいてみたいドアの中に一歩を踏み入れれば、またその先に新しいドアが待ち受けていますので、どんどんドアを開けていきましょう。もうひとつ言うと、これから皆さんも起業されて仲間を増やしていくことになるのだと思います。働くという言葉を日本古来の大和言葉で読み解いていくと、「はた(傍)を楽にする」、周りを楽にするという意味があるそうです。何を選ばれるにせよ、皆さんの手がける事業が、周りを楽しくする、幸せにするものであることを願っています。

 戒めみたいなもの? ……ないです(笑)。すみません、でも、過信じゃないですかね、陥っちゃいけないのは。言い代えると、簡単にあきらめてはいけないということ。今、社会がこうだからしょうがない、とか。これからは「しょうがない」を死語にしないといけないですね。今、こういう社会をつくりたいから、今、こういう事業をやりたいから、今の社会を変えてでも絶対にやるっ! やり続けるっていう気概が必要だと思います。社会情勢とか、国が置かれた状況とか、景気・不景気とか、全く関係ないですよ! 先日、アントニオ猪木さんと一緒に東北の被災地を支援する活動に出かけてきましたが、まさに「元気があれば何でもできる!!」(笑)。あれは真実ですね。

 少し脱線しますが、原発の問題も、すでにあるんだから「しょうがない」。経済成長のため、電力維持、雇用維持のために必要なんだから「しょうがない」。この「しょうがない」の結果が、今の日本が置かれた危機的な現実です。今は、あってはならない日本の未来が、誰にでも簡単に思い描けるはずです。仮にそうなった場合、自分たちの子どもや孫たち子孫が苦しむことは目に見えています。私たち大人が、これからを生きる命、これから生まれてくる命のためにできること、今やるべきことはたくさんある。これまでの当たり前を、捨てる、逆回転させる。本当に適正な規制が必要だと思います。成長ベースが前提の自由化・法規制が今をつくってしまったのですから。競い合いや競合ではなくて、協力、強調、共に働き、共に高め合って、共に豊かになる。その礎をこれからの起業家がつくっていくのだと思います。大丈夫! 目に見えるもの、イメージできるものは、必ず変えることができますから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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