第126回 ネットイヤーグループ株式会社 代表取締役社長兼CEO 石黒不二代

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第126回
ネットイヤーグループ株式会社代表取締役社長兼CEO
石黒不二代 Fujiyo Ishiguro

1958年、愛知県生まれ。1980年、名古屋大学経済学部卒業後、9カ月のアルバイトを経て、翌年1月にブラザー工業株式会社に入社。主に海外向けマーケティング業務を担当。1987年、キャリアアップのため転職を決意。外資系企業の面接を受けるが、面接担当者に「当社はMBA所持者しか採用しない」と言われたことに衝撃を受ける。1988年1月に株式会社スワロフスキー・ジャパンに入社するが、出産後、日本では育児と仕事の両立は不可能と考え、MBA取得留学を決意。仕事の傍ら、毎朝5時起きで受験勉強に奮起し、1992年、スタンフォード大学に2歳の長男を連れて留学。大学院終了後の1994年9月にシリコンバレーで、ハイテク系コンサルティング会社を起業。1999年1月よりネットイヤーグループに参画し、2000年5月より現職。2002年、名古屋大学工学部の客員教授。2008年3月、東証マザーズ上場。同年、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」リーダー部門第1位。シリコンバレーの起業家やベンチャーキャピタリストに広い人脈を持つ。著書に『言われた仕事はやるな!』(朝日新書)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物


かなりの肉食系なので、自重して、偏りをなくそうとしています(笑)。そのため、日本食を食べるように心がけています。日本食の中で何が?と問われれば、「どぜう」(笑)。お酒は、ワインと焼酎を好んで飲みます。

趣味

恋愛です(笑)。
恋愛のドキドキ感がとても好きなことと、人を好きになると優しい人になれるという思いこみから、一応、趣味は公証「恋愛」ということにしています(笑)。あとは、ゲームセンターで対戦ゲーム。以前、広報のスタッフに現場を押さえられてからは、サングラスをしてゲーセンに通うようになりました。週1回の加圧式トレーニングも、趣味といえば趣味なのかなあ。昔から運動は大好きですが、自分に勝つより、他人に勝つスポーツを好みます(笑)。

行ってみたい場所

シリコンバレーです。
もう100回近くは行っていると思いますし、今も毎年数回はプライベートで訪れています。というより、故郷に帰る感じですね。母校・スタンフォードのキャンパスにあるタイレストランでカレーを食べたり、息子と友人たちと食事をしたり。サイドディッシュもテイクアウトできるお気に入りのワイナリーがあって、カリフォルニアの青空の下、敷地の芝生に寝転んで、ワインを楽しむ。最高に気持ちいいんです。

お勧めの本

『砂の上のあなた』(光文社文庫)
著者 白石一文

男の人が書く恋愛小説ってあまりないのですが、直木賞作家の白石一文さんはその一人。それも単なる恋愛ではなく、その根底には「生きる」という壮大なテーマがあります。内容はネタばれになりますから隠しますが、新しい死生観を得た一冊です。生まれてから決まっている運命は死ぬことだけ?寝ていると、死んでいるは同じ状態?生まれ変わっても自我が残ってないと意味がない?昨日の私と今日の私は同じ? いずれにせよ、一瞬一瞬の私が常に存在しているということは、私がたくさん生まれて、たくさんの私が刹那的に消えていくということ?曲解しているかもしれませんが(笑)、「生きる」と「生かされている」のはざまで、より前向きに生きようという力をくれたストーリーでした。

アンカー

仕事と育児の両立を求めて米国MBA留学へ。
どんなハードルも自らの力で乗り越える!

 女性だから? 子育てがあるから?……。仕事も子育ても絶対にあきらめたくなかった。日本を代表するアントレプレナー、石黒不二代氏は、人生に立ちはだかるハードルを、常に自分の意思と力で乗り越えてきた。30歳を超えてアメリカに子連れ留学し、スタンフォード大学でMBAを取得。その後、シリコンバレーでコンサルティング会社を起業。1999年、ネットイヤーグループのMBOに参加し、現在は同社の社長兼CEOを務めるリーダーだ。「今後、大手広告代理店なども交えた、競争と切磋琢磨が激化していくでしょう。そこで当社はもまれながらも、常にナンバーワンを維持し、顧客のビジネスの成功に貢献していく。このデジタルマーケティング市場自体を大きく育てることにも、大きなやりがいを感じています」。今回はそんな石黒氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<石黒不二代をつくったルーツ1>
小学生時代に考えた自分の将来像は、
世界を飛び回るビジネスウーマン

 父は愛知県の一宮市で、繊維の海外への運搬に使用される木製の箱を製造する製函メーカーの二代目経営者でした。一宮は繊維で発展したエリアですし、私が幼かった頃は、高度経済成長の波に乗って、業績も拡大していました。しかし、国内の繊維メーカーの国際競争力が弱まり、市場のパイが縮小し始めたにもかかわらず、市場や顧客や製品を変えずにいたために、市場の衰退と同期して会社の規模も小さくなっていきました。私が大学生になった頃には、残念ながら、ほぼ会社は休眠状態になっていましたね。きょうだいは弟がひとり。でも、8つも年下なので、私にとってはきょうだいというよりはオモチャのようなものでした(笑)。家業の業績がどんどん悪化していきましたから、弟と私とでは子どもの頃の暮らしぶりがずいぶん違っていたと思います。ちなみに母は、とてもおとなしい人で、外出することもなく、仕事関係の電話にも出ないような人でした。「今の電話は会社へ注文なのでは?」などと、幼心で心配していたことを覚えています。

 幼稚園までは家の中で本を読みふけるような静かな女の子でした。近所の子ともあまり遊んだことのない、社会性に乏しかった子だったと思います。ゲームやパズルが好きで毎日のようにやっていたせいか、小学校に上がってすぐに受けた知能テストの数値が抜群に高く、そのため、先生から学級委員に任命されてしまいました。社会性もないのに、そんな責任ある役割を押しつけられ、元来の自分の性格とのギャップに苦しみ、かえって内向的になっていきました。。学校に行きたくなくなり、通学しようと家を出ても途中で泣いて帰ってくる。そんな状態が1カ月も続いて、母も先生もすごく心配したようです。そんなある日、頑張って何とか学校に行って、教室の窓を見ていたら、母が心配でたまらない様子で校門のあたりにたたずんでいる姿が……。その瞬間にこんなことをしていてはいけないと子ども心に悟り、翌日からは元気に登校できるようになりました。私たちきょうだいにとっては、1年中家にいて、いつも微笑んでいるだけのマリア様のような存在だったから、余計に心配する姿は見たくなかったですね。ただ、経営者の父からしてみれば、そうとう物足りない妻だったのではと推測します(笑)。

 単純なもので、その後は、一貫してリーダー的な存在で、「異常なまでに責任感が強いのでつぶれないように気をつけてやってください」と先生から注意を受けたこともあったと、父は言っていました。家と仕事場が隣接している家庭環境なので、学校から帰ると夫婦共に教師をしている親戚の家に行って勉強の毎日。習い事は、ピアノにお琴、絵画に習字。かなり忙しい小学生でしたね。小学校の頃は本当に一生懸命勉強しましたから、成績はトップクラスでした。私の場合、小学生時代にやったこの勉強の貯金で、結構長い間、もちました(笑)。私は、誰でも、人生のどこかで勉強を必死でしてみるといいと思うんですよ。小学校でも中学でも高校でもいい。集中してやればできるという思いが自信になり、また、いったんやり方を覚えると応用が効くようになります。若いうちに、頭の基礎体力をつけるというものです。あと、小1の時の作文で「将来はハーバード大学に行って、世界を飛び回るビジネスリーダーになりたい」、そんなことを書きました。また、お金をもらってそれをどう使うか考える勤め人の娘ではなく、これだけほしいから、そのためにどう儲けるかを考える経営者の娘。そんな家庭環境は、起業のスタートラインを人より早めてくれたのではないかと思います。いずれにせよ、小さな頃から将来は家庭も持ちたいけど、ビジネスでも成功したいと考える子どもでした。

<石黒不二代をつくったルーツ2>
中学から始めた軟式テニスに熱中し、
勝負勘とメンバーマネジメント力を養う

  父も母も、基本的には放任主義でした。進学する際に公立に行くか、私立を受験するかなど、これは親に聞かねばってこと、ありますよね。何度聞いても、「不二代の人生なのだから、そんなことは自分で決めなさい」の一点張りです。それでもと、しつこく聞いたら今度は無視(笑)。小さな頃からそんな感じでしたから、どんなことでも自分で考え、決断する癖が身についたのだと思います。通知表も両親に見せたこと、ないです。そういえば、こんなことがありました。高校時代はボーイフレンドとテニスに熱中していて、成績がいったん100番くらいまで下がっていたのです。それなのに、進路相談の時に父と一緒に担任と面談したら、先生が一言。「石黒さんはどこの大学でも受かりますよ」と。今となっては、先生が適当にそう言ったのか、私のことを信頼してそう言ったのかわかりません。でも、そのおかげで、普段成績表を見ていない父は、やっぱり良かったのだと安心しきってしまい、その期待に答えないとまずいと思い、挽回しました(笑)。普通の家庭のように、勉強しろ勉強しろ、というより、よほど効果があったと思います。エクスペクテーションマネジメントですね(笑)。

 中学も高校も、軟式テニス部に所属して、どちらもキャプテンを務めています。勉強と違ってものすごく一生懸命取り組みましたよ。軟式テニスはダブルスが基本で、前衛と後衛でペアを組んで戦います。体育会ですから個人戦よりも、団体戦に重きを置いています。負けず嫌いの性格も手伝って、私は後衛でありながら攻めのテニス。ペアを組む前衛のパートナーとの相性がいつも悩みの種でした。うまいへたよりも、プレースタイルの違いが好き嫌いになってしまうのです。相性がよくないパートナーと組むと、味方も敵になって1対3の戦いになる。パートナーを育てなきゃと思うのですが、合わないものは合わない(笑)。私は、多少の失敗をしたとしても、常に攻め続ける私と同じようなタイプの選手が好きでした。反対に、うまくても思い切りが悪く判断を迷わせるような動きをする選手は好きではないんですね。だから、私のペアはいつも思い切りがいい前衛でした。高校最後の大事な試合で、パートナーがミスを連発し、結局、その試合には負けてしまったのですが、納得の負け。彼女は最後まで攻め続けていました。まったく後悔はしていません。

  考えてみれば、会社というものも、同じように育っていくものだと思います。創業当時は、私が採用の最終ジャッジをしますから、自然と自分に似たタイプのスタッフが増えていきます。ネットイヤーグループの職種は、コンサルタントからクリエーター、技術者までさまざまですが、そのもっと根っこのところ、生き方とか信念とかいう部分がやはり自分に近い人を求めてしまうのだと思います。そうやって採用したスタッフが次の書類選考や、面接をしますから、基本的にはまた同じようなタイプの人材が、最終面接に残るようになります。例えば、利益の追求にもとことんこだわりますが、一緒に働いて気持ちの良い仲間とか、オーダー以上の成果物をクライアントに提供したいという思いが強い人とか。失敗を恐れることなく、常にチャレンジできる人とか。今振り返ってみると、自分の性格が企業文化になっていったんだなと感じています。

<名古屋大学経済学部へ>
楽しいキャンパスライフを過ごすが、
卒業後、四大卒の女性への求人はゼロ

 父は私の人生にレールを敷くことはしなかったのですが、子ども心に名古屋大学に進学してほしいのだろうと思っていました。その頃は、家の経済状態も芳しくなかったので、東京の大学より地元の国立大学で金銭的な負担をかけないほうがいいかなという思いもありました。。理系か文系かの選択では、私は極端にどちらかに偏る成績ではなかったのですが、好みという意味では理系のほうが好きでした。しかし、理系で大学以降のイメージがどうしてもわきません。医者もいいかもと考えましたが、毎日朝から晩まで患者さんと話すという自分も想像できないし、研究者で顕微鏡とにらめっこしているというのもちょっと……。それよりも、人と関わって、それもたくさんの人と関わりの中で社会に貢献できるというほうがしっくりきたのです。ですから、ビジネス。大学を出たらまず企業で働いてみたいと考えていました。そして、好きな数字の世界も関係する経済学部が面白そうだと思い、名古屋大学の経済学部を受験し、無事、現役で合格。でも入学後は、授業にほとんど出なかったですねえ(笑)。

 ボーイフレンドとのお付き合いと、体育会の軟式テニス部の練習に明け暮れていました。私は高校ではかなりテニスで上位にランキングされていたし、国立大学の体育会なんて大したことはない、1年とはいえテニス部では私の実力が一番だろうと、そんな傲慢なことを思い入部しました。ところが、私よりうまい選手が二人もいた。それでまた闘争心が芽生えてしまい、部活に燃えちゃったんですね(笑)。結局、2年上の先輩には勝てずじまいでした。今から思えば、井の中の蛙もいいところでしたね。授業はほとんど出ず、と言いましたが、私は当時からマクロ経済が好きだったので、理論経済学の権威であられた、飯田経夫先生の授業だけは欠かさず出席しました。経済というのは人が政策によりどう動くのかを含めて合理的に理論を展開するので面白いものです。そんなこんなで、楽しいキャンパスライフを過ごせたのですが、私が大学を卒業した当時は、四大卒の女性への求人はほぼゼロ。「三菱商事が初の四大卒の女性をSEで採用!」という記事が新聞の一面になるような時代です。名古屋大学経済学部には女性が10人しかいなかったこともあり、女性というのを認識されていなかったかもしれません(笑)。求人票には押し並べて「男性のみ」のただし書き、就職課に足を運んでも無駄だと思い、一度も行きませんでした。コネのお話はありましたがお断りし、また、実は、テニスの特待生の話があったのですが、さすがに、仕事しに行くんだしな……と思い、これもお断りしました。リクルートの名古屋支社でアルバイトを始めることから、私の社会人キャリアは始まります。

 リクルートがちょうど、名古屋版の就職情報誌を立ち上げるタイミングで、編集や企画を担当し、1年目の新人としては、楽しく仕事ができました。その後ようやく愛知県でも四大卒女性を採用する企業が出始め、翌年にブラザー工業に入社することになります。プリンタやファクスなどの情報機器の販売を海外に展開していくための、プロダクトマーケティングが主な業務でした。欧州での販路を構築したり、OEMの提携先を開拓したりといったインターナショナルな仕事。ブラザーは、海外での売り上げが90%を占める企業で、上司もほとんど海外経験者ばかり、思いのほか開けた企業で、思いついたアイデアや提案をどんどん口に出していくと、ちゃんと評価してくれる会社でした。女性で初めての1カ月の欧州出張に一人で出かけるなど、得難い経験をさせてもらいました。上司にも恵まれ仕事に面白みを感じてはいたのですが、入社6年目、29歳の結婚を機にキャリアをチェンジしようと退職を決意。夫の住む東京で、新たな生活を始めることになります。

<外資系企業への転職>
子育てと仕事の両立を考えた結果、
MBAを取得するためスタンフォードへ

 生意気にも、その頃、M&Aの仕事がしたいと考えていたのです。退職時に相談に乗ってくれたブラザー工業の常務が、外資系投資銀行を紹介してくれまして、20人くらいのパートナーから面接されました。その際に言われたのが、「うちの社員は全員MBAホルダー」という話。面接での評価が高かったらしく、例外的に採用となったのですが、MBAの肩書きがない私は、NYに転勤となるパートナーの仕事を引き継ぐという重責にも関わらず、ポジションはワンランク下。資格がないままに今後の評価を受けることに懸念を持ったまま、結果、3カ月後に、スワロフスキー・ジャパンへ初の女性マネジャーとして転職することにしました。ここではコンシューマー向けの新規事業立ち上げを担当し、5年間毎年、売り上げを倍々ゲームで増やすことに成功。忙しくも楽しく働いていたのですが、32歳で男児を出産後、子育てと仕事の両立に困難を感じるようになっていきます。

 実家の母にサポートを依頼すると、快く引き受けてくれました。でも、その直後に母のガンが判明し、数カ月後に亡くなってしまった……。保育園も18時までしか子どもを預かってくれず、役所に相談してみましたが、「勤務地近くの保育園を利用すれば」と。満員の電車に生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて通勤するなんて不可能ですよね。でも、仕事も子育てもあきらめる気なんてありません。そんな頃、投資銀行のパートナーから言われた「MBA」の話を思い出したのです。働く女性にとって子育て環境が未整備の日本を捨て、仕事よりも家庭の時間を優先するアメリカでMBAを取得しよう。周りの人の援助を受けながら、準備期間を2年間と定め、朝5時に起きて勉強、通勤時の電車でも、歩きながらも勉強。その努力の甲斐あって、エントリー10校中、9校からの合格通知が届きました。スタンフォードに入学したことは、今でも最高の選択だったと思っています。

 スタンフォードの校内には保育園があって、迎えに行く時間は18時でしたが、日本と違ったのはそれを可能にする環境。アメリカ人は、家庭をとても大切に考えますから、育児をしながら働く親は、18時に間に合うように仕事を終えるのが当然です。大学院を出て働くようになっても、大事な会議の最中に男性がイライラしていて、時計を見ると18時前。それで自分のお迎えの時間に気づいたことも(笑)。その根底にあるのは、完全な成果主義です。成果までのプロセスは個人に任せられ、個人は目標を最大化するためにプロセスを組み立てていく。スタンフォードの校風は、仲間意識が非常に強いバディスクールで、競争して他者を蹴落とすなんてもってのほか。高い成績を収めることが目的ではなく、自分が何をしたいかを決め、仲間と切磋琢磨しながら大学院が揃えている最高のインフラをどんどん使えばいいというものでした。グループの同僚がピンチに陥ると、教授も含め、全員が寄ってたかって助けてくれる。もちろん大学院での日々はハードでしたけど、スタンフォードで学べたことは、その後の自分にとって、本当に得難い経験となりました。

●次週、「ITを軸として、日本企業のマーケティング力の最大化を目指す!」の後編へ続く→

過去の成功体験を捨て去り、新たな挑戦を提案。
ITマーケティングで日本企業の底力を世界へ!

<依存こそリスク!>
アメリカに残りコンサル会社を起業。
仕事を通じてネットイヤーのMBOに参加

  MBAは1年と2年の間の夏休みにサマージョブをします。私は、スタンフォード在学中に、アドビシステムズという大きなソフトウエア開発会社でそのサマージョブをさせてもらいました。仕事はプロダクトマーケティングで、私が携わったソフトウエアが実際に製品化されたことがすごく嬉しかったですね。大学院へのエントリー論文は、日本の流通機構を改革したいというものだったのですが、実はスタンフォードに来た理由は、この学校がシリコンバレーをつくっている学校だから。ハイテク好きの私にはたまらない魅力です。学校でも、ハイテククラブに所属して活動し、授業もハイテク企業とのプロジェクトがたくさんあります。また、私が大学院を修了した1994年は、実質的にインターネットの商用化がスタートした年でもあります。留学生活を送ったシリコンバレーの仲間たちも、起業への挑戦者でいっぱいでした。アメリカに残って働くことは決めていましたが、就職か、起業か……。実際にアドビシステムからは、「ぜひうちへ」という内定をいただきましたが、私はいつも、依存=リスクと考える質なのです。最大のリスクは、自分で自分の人生をコントロールできないこと……。

 日本で働いていた時に立ちふさがった、子育てと仕事の両立の困難もそうでした。日本という国に依存せず、30歳過ぎでアメリカでのMBA留学という挑戦をしたから、今がある。確かにアドビシステムズは、やりたい仕事も高い報酬も約束してくれました。一方、起業すれば仕事をつくるところから始めなければなりませんし、顧客開拓もマーケティングもすべて自己責任。仕事を獲得できなければ潰れますが、自分がつくった戦略が正しかった場合、より大きな成果を味わうことができます。また、個人的に高い成果を挙げていたとしても、大企業に入ってしまうと自分の努力だけではどうしようもできないことが起こることもわかっていました。結果、私はシリコンバレーでハイテク系コンサルティング会社を設立し、起業への挑戦をスタートさせます。いずれにせよ、私にとっては、もっともリスクの少ない合理的な選択だったのです。今でもこの時の決断は、間違ってなかったと思っています。

  創業当時は、社員は自分と事務系スタッフだけでした。日本のハイテク企業とアメリカのベンチャー企業の技術移転コンサルティングが主な業務内容。顧客はネットスケープ・コミュニケーションズやヤフーなど米国のIT系ベンチャー企業と、ソニー、パナソニックなど日本の大手電機メーカーです。幸い、このコンサルティング事業は順調に業績を伸ばしましたが、その仕事を通じて、痛感したことがあります。確かに日本の大手企業は素晴らしい技術をたくさん有しています。でも、残念ながら商品化の力が弱いんですね。最近の例でいえば、アップル社の「iPod」は「iTunes」というサービスとの組み合わせで利用者に音楽は買いに行かなくても自由に持ち歩けるという新しい体験を提供した。ソニーもパナソニックも、デバイスを開発するという意味では同等以上の技術力はあったはずですが、ここ数年でふくれあがった、ポータブル・デジタルミュージック・プレーヤーの市場では、アップル社の後塵を拝するはめに……。このコンサルティング業務では、このようなケースが山積みでした。技術力だけでなく、全体をプロデュースする能力、マーケティング能力に欠ける日本を何とかしたいと考えていた矢先に、お話をいただいたのが、ネットイヤーグループのMBO(経営陣による自社買収)だったのです。自社とのシナジーもあると考え、経営陣としてこのMBOへの参加を決断。そうして私は、1999年、ネットイヤーグループの創業メンバーに加わることになりました。

<SIPSで国力アップ!>
営業の負担を極力減らしものを売る!
ITマーケティングコンサルで勝負する

  その後、日本支社を立ち上げるに当たり、出張ベースで日本に行くようになったものが、本社移転を機に日本での滞在期間が長くなっていきました。当初は日本のほうがサブでしたから、短期間の仕事と考え、当時、小学5年だった息子は、孟母三遷の教えで最高の環境の学校に編入できたこともあり、アメリカ在住のまま。でも、2年間、毎月、日本とアメリカを往復して、体を壊してしまって……。さすがにこのままでは息子と一緒の時間が取れなくなると、中学からは日本に戻しました。でも、彼は私が願ったとおりの道を歩み、今ではスタンフォード大学でコンピュータサイエンスを学ぶ学生です。本当に、理想的なGEEK(ハイテクおたく)として育ってくれていますよ(笑)。さて、日本でのネットイヤーグループでは当初、ハンズオンのインキュベーション事業と、マーケティングを軸としたSIPS(Strategic Internet Professional Service)、すなわち、ネット戦略の策定から経営コンサルティング、Webデザイン、システムの構築・運用など、ネット事業に関するすべてを請け負う事業のマネジメントを行っていました。2000年に代表取締役社長兼CEOとなり、2002年頃から、私はデジタルマーケティング事業へシフトしていくことになります。

 日本は、とにかく売ろうという営業力が強い会社の評価が高かったりしますよね。でも、アメリカではまったくの真逆で、物を単に売るのは誰にでもできる仕事、売れる製品や、売れるために仕組みを考えるビジネスデベロップメントという職種が高く評価されています。むやみにドアをノックするという営業力がなくてもインターネットを活用したマーケティングをしっかり行えば、不要な営業コストをかける必要はない。企業はより効率的な販売活動ができ、ムダを省けたことで、さらなる商品開発に注力できる。そして、その商品開発でもマーケティングを使えばよりニーズに合った商品の開発ができる。企業活動全般にマーケティングの概念を定着させれば日本企業は強くなる。そこにこそ自分たちネットイヤーグループの存在価値があると考え、自分もマーケティングのコンサルティングに集中するようにしたのです。先ほどもお話ししましたが、日本企業が不動産バブル崩壊後から失われた20年を過ごしてきた最大の問題点は、技術開発力ではなく、技術のプロデュース力の不足だと思うのです。私自身、日本企業の潜在能力を信じていますから、得意なマーケティング支援を提供することで、日本経済の成長に貢献していきたいのです。

 言ってみれば、やるべきことをしっかりやっているという感じ。市況が悪かったので、思った以上に時間がかかってしまいましたが、おかげさまで、2008年に東証マザーズに上場を果たすことができました。振り返ってみれば、日本は本当に失いっぱなしの20年でしたね。ちなみに、当社が手がけているのは、大企業向けのデジタルマーケティングが中心で、自社メディアであるサイトひとつとってみても、何千ページ、何万ページという巨大なものばかり。単に美しいデザインのサイトをつくるのではなく、消費者などのユーザーがネット上でどのように行動するかを分析し、サイトの構造を論理的に設計することから始めます。各社によって内容は異なってくるのですが、顧客企業が望んだ消費者にしっかり情報を届け、誘導したいページに確実にたどり着いてもらい、できるだけ高い確率でサービスを購入してもらう。繰り返しになりますが、日本の技術は素晴らしいのですが、商品化の力が弱い。だからこそ、当社が提供するコンサルティングが求められる市場は、今後も確実に広がっていくと思います。

<未来へ~ネットイヤーグループが目指すもの>
常にナンバーワンのポジションを堅持しながら、
日本企業が輝くための道しるべを提供し続ける

  もちろん、企業規模も追及していきます。今でもすでに国内デジタルマーケティングの領域では、リーディングポジションをつくってきたので、このポジションを堅持しながら、どんどん市場シェアを拡大させていきます。ネットイヤーグループをエージェンシーと位置付けるなら、ユニークな特徴を持っていると思います。それは、エージェンシーとして、メディア側には付いていないということです。当社の顧客と一緒にメディアの開発はしていますが、一般的なレップ業務にはいっさい手を出していません。これまでのエージェンシーはメディアのスペース売りの立場もとり、また、顧客側に立つ広告クリエイティブもつくっていますが、当社の場合は意識して、広告スペースを売らず、顧客サイドの支援だけしています。代理店として、要は誰の代理業務をするのかを明確にしたエージェンシでありたいと思っています。デジタルの世界が発展していけばいくほど、スペースブローカーの必要性は薄まっていくと思っていて、私たちは、あくまでも顧客の業務に立脚、その成功を代理するために、何をコミュニケートしていくか、その深堀を進めていきたいのです。

 今、さまざまな新しいメディアがどんどん生まれています。それは当社にとっても、当社の顧客にとっても、ターゲットユーザーが集まる適切なメディアが増えるわけですから、非常にいいことですね。ただ、顧客側につく我々の仕事はどんどん煩雑になります。結果をしっかり出すための提案をするためには、増えゆくメディアに対応するシステムをつくり、大切なデータをどう管理し、解析し、どう使っていくか。それを日々しっかりPDCAのサイクルで回しながら、管理していく。当社の力を必要とする顧客と一緒に我々も育っていきたいと思います。アメリカでは前からそのサイクルが当たり前になっていますから、日本企業も競争力で後れを取らないためには絶対に必要なことだと思います。アメリカはマーケティング先進国です。1990年代後半、私がアメリカで起業していた頃すでに、今成長しているようなインターネットサービスのアイデアは、事業プランとして論議されていました。ビジネスモデルも、マーケティング寄りものもが多かったです。市場がまだまったく見えてない時にもかかわらず、よくそんなアイデアを思いつくものだと、インキュベーションの仕事をしながら、感心していたものです。

 ネットイヤーグループの事業内容自体が、日本企業が再び成功するための道しるべになると思っています。消費者の嗜好をスピーディに把握できるマーケティング、商品企画、ソーシャルメディアを活用してユーザーの声をいかに企業活動の中に反映させるか。メディア広告に依存してきたマーケティング業務自体が激変していますが、それは、本来あるべきマーケティングが日本企業に定着するチャンスだととらえています。業界や業種問わずに、すべての企業に必要なマーケティングが、この経済低迷期から再生の道へのドライビングフォースになればいいと思います。それが、当社の提供すべき価値であり、存在意義でもあるのです。そして、当社の顧客のほとんどは、グローバル企業ですから、もちろん、海外展開も顧客と一緒に展開していくことになります。私たちが持っている市場シェアはまだまだ小さなものなのです。今後は、大手広告代理店さんなども交えた競争が、業界の発展を推進していくと思います。そこでもまれながらも、常にリーディングのポジションを堅持し、顧客のビジネス成功に貢献していく。このマーケティング自体を大きく育てることにも、大きなやりがいを感じています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
失敗は未来の成功のポートフォリオの一部です。
好きなことに挑戦し、大いに失敗をしてください

  起業は、日本を変えるひとつの原動力になると思います。日本企業は製品の改良や品質を高めることで発展を遂げてきました。しかし、その成功モデルは以前より力をなくしています。長い時間をかけて品質を高めていく方法は、商品ライフサイクルが長く、また、消費者のニーズが一定のものあるという前提条件がある場合です。これだけ消費者のニーズが多様化し、利用者が企業活動に参加し始めると、商品ライフサイクルは短くなりますから、以前より規模の経済は効きにくくなっています。大きな生産装置を持つこと、時間をかけてモノをつくり上げていくスピード感、それらは、現在の市場環境には合わなくなってきているのです。

 これまで、日本経済は大企業依存の体質でしたが、今、求められているのはスケールではなく、スピード。所帯が大きな分、スピードが遅い大企業は以前より不利な状況に置かれています。もちろん、さまざまな工夫でスピードを取り戻すことはできるけれど、今の日本の成長の足を引っ張っているのは、日本の高度経済成長期の成功体験だと思います。今の若い人たちがそのような既成概念に囚われず、小さなスピーディなベンチャー企業の長所を生かし、どんどん新しい技術やサービスの開発にとりくんでいく。まさにシリコンバレーのように、新しい企業が経済を成長させる原動力となることを願っています。ですから、できるだけ多くの人々に起業してほしいと願っているのです。

 とにかく、好きなことに挑戦してほしい。自分にとって大切なものはそんなに多くないことに気づき、大切でないものを捨てる勇気を持つことです。成功体験にすがることが一番怖いことだから、、今のうちにどんどん挑戦して失敗をしておくこと。シリコンバレーでは、失敗は学習という考えが常識です。成功体験をどんどん捨てる。どんどん挑戦する。そして、失敗する。その連続的な経験こそが、永続的な成功への道をつくるのだと私は信じています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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