第122回 スター・マイカ株式会社 水永政志

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第122回
スター・マイカ株式会社 代表取締役社長
水永政志 Masashi Mizunaga

1964年、神奈川県生まれ、広島県福山育ち。広島大学附属福山高校から東京大学に進学する。大学在学中に、仲間とコンピューターソフトウェア会社を設立。そこそこの規模に育てるも、大手企業勤務をしておくべきと、会社を売却。1989年、東京大学農学部卒業後、三井物産に就職し、本社財務経理本部に配属される。1995年、米国カリフォルニア大学ロスアンゼルス校(UCLA)経営大学院にて、経営学修士(MBA)修得。その後、ボストン・コンサルティング・グループで経営コンサルティングを、ゴールドマン・サックス証券でプライベートバンク業務を担当。先端金融商品の開発や資産運用に携わる。ゴールドマン・サックス証券退社後の2000年に、ピーアイテクノロジー(現・いちごグループホールディングス。旧社名・アセット・マネジャーズ)を設立。2002年、中古マンション流通を主要業務とするスター・マイカを創業。順調に成長を遂げ、2006年10月ヘラクレス市場に上場を果たす。著書に『入門ベンチャーファイナンス』(ダイヤモンド社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

蕎麦と日本酒。
好き嫌いはほとんどないです。特別に好きな食べ物も思い浮かばないのですが、強いてあげるとすれば日本蕎麦ですかね。お酒も何でも飲みますが、蕎麦に合うから日本酒としておきましょうか(笑)。基本的には夜は外食ばかり。自宅で家族と夕食ができるのは週に1日くらいです。

趣味

読書とスキー。
仕事くらいしかないんですよね。ゴルフもしないですし、銀座や六本木でのクラブ活動も皆無です。そういえば、昔やっていたスキーを再開して、面白いなってくらいです。あとは読書ですか。理系っぽい本も読みますし、哲学書、経営書、流行小説から片っ端に読みます。読了した本は会社の図書館に寄付しているので、けっこう本棚がいっぱいになってきました。

行ってみたい場所

オーロラを見てみたい。
死ぬまでに一度はオーロラを見てみたいですね。北欧の国か、アラスカか。遠いですし、まだ行った事がないです。でも、現地に行ったとしても、見られないことがあるようです。仲間の経営者は、自家用ジェットで必ずオーロラが見える高度を飛ぶそうです。図々しく連れて行ってくれとも言えなくて……。

お勧めの本

『スノーボール~ウォーレン・バフェット伝』(日本経済新聞出版社)
著者 アリス シュローダー/翻訳 伏見威蕃

世界でもっとも有名な投資会社バークシャー・ハザウェイの会長兼CEOにして、世界でもっとも尊敬される大投資家が、どうやって自分をつくってきたか。自伝を書かないと公言してきたバフェットがただ一人信頼した著者に執筆を許可して書かせた伝記仕立ての傑作です。上下巻でボリューム満点。最高に面白くて、読み終わりたくない(笑)。いつまでも読み続けたい気持ちにさせてくれる名作だと思います。

REITビジネスへの挑戦で、地獄を見た男の再挑戦。
地味で泥臭い不動産ビジネスは、地道な成長を継続中!

 賃貸中のファミリータイプマンションは、空き室物件に比べると約3割安い。この「価格のゆがみ」を利用して儲ける手法は、金融商品の現物・先物の価格差に着目した「裁定取引」と同じロジックである。そして、スター・マイカは、賃貸中の中古マンションの一室を買い取り、借り主がいる間は賃貸収入で稼ぎ、退去後はリフォームして販売し、キャピタルゲインを稼ぐ。2002年にゴールドマン・サックス証券を後にした、伝説のプライベート・バンカー、水永政志氏が立ち上げた、地味で泥臭い不動産ベンチャーである。「不動産業界で派手に見えたベンチャー企業は、リーマンショックの後、けっこうな数がマーケットから消えてしまいました。しかし、一見、泥臭く見えるスター・マイカは、ほとんど無傷であの荒波を乗り切りました。そして今も、少しずつですが、堅実な成長を続けています。」今回はそんな水永氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<水永政志をつくったルーツ1>
クラス中が同じ会社に勤める親の子ども。
中学までは同じ状態の公立校で過ごす

  父は日本鋼管(現・JFEスチール)の製鉄工場に勤務するサラリーマン。母は看護師。私が生まれたのは、日本鋼管の工場がある川崎市でしたが、4歳の時に、広島県の福山市に当時では世界一の規模といわれた製鉄所が完成して、それに伴った父の転勤に伴い、家族で引っ越しました。それから高校を卒業するまでは、ずっと福山で暮らしています。小学校に上がって驚いたことがあります。1クラス50人の生徒のうち、なんと49人の親が日本鋼管勤務のサラリーマン。1人だけが、パン屋さんの家の子だったと記憶しています。ある意味、異様ですよね。製鉄所完成と同時に大型の工業団地ができて、そこに住んでいたのはほぼすべて、日本鋼管のサラリーマン家庭でしたから。なので、クラスはみんなそろって中流家庭の子どもばかり。格差がないから、いじめなど全くなく、なんだか工場版のディズニーランドのような街でした。

 都会と違って、福山はとにかく田舎です。海には面していましたから、自然は豊富。だから、遊びといえば、海や川で泳いだり、虫を取りに山に入ったり。勉強は普通にしていましたね。学校とアウトドアと勉強、それとスポーツはサッカー。リーダータイプでもなく、学級委員に推されたのも数回くらい。いたって普通の田舎の少年だったと思います。この頃の夢は、パイロットか、医者になること。父を見ていて大変そうだったので、サラリーマンにはなりたくないなあと漠然に思っていたくらいです。母が看護師だったので、医療はとても大切でやりがいのある仕事ということを聞かされていました。なので、医者になりたいと思ったんでしょうね。ちなみに4つ下の弟は、私の意志を継いだわけではないですが、医学部に進学し、医者になっています。

 中学の部活動は軟式テニス部に所属しましたが、それほど強くはなかったですね。その頃、ある本で、大阪に入江伸という人がいて、「学習塾伸学社」、通称・入江塾という寺子屋のようなスパルタ塾を開いていることを知り、感銘を受けたんです。灘高校や鹿児島のラ・サールに大勢の生徒を合格させている凄い塾で、ものすごい実績がある一方、あまりに厳しい指導内容に賛否両論あったようですが、この人に会ってみたいと、入江塾を訪問し、実際に入江先生とお話して自分も入塾しました。中2から、毎週末泊まり込みで、大阪まで通い続けました。当然、授業も厳しかったですが、私にとっては精神鍛錬の場所でしたね。夏の合宿では、入江塾を卒業した東大生たちがやって来て、いろんな話をしてくれる。「自分も一流の道を歩みたい」。そんな思いがどんどんふくらんでいきました。

<水永政志をつくったルーツ2>
視力が足らず、パイロットの道を断念。
東京大学に進学し、自営業の実態を知る

  高校は、広島大学附属福山高校へ。入江塾で東大生の先輩たちの話を聞いてからは、盲目的に東大へいかないと話にならないと思っていて、部活も入らず勉強していました。理数系が得意でしたね。ただ、相変わらず将来は医者かパイロットになりたくて、でもこの頃、少しだけビジネスで成功するという道もあるかなと思い始めていました。高校2年の時、笹川財団が2週間にわたって開催される高校生パイロット訓練講習の参加者を募る論文選考を行っていて、応募しました。私を含め、約20人が選考を通過し、夏休みに熊本や羽田を転々としながら、パイロット講習を受ける機会を得ましたが、あれは楽しかったです。最後には教官と同乗したセスナの操縦桿を握って、自分で操縦できましたから。もう、「お~!」という声をあげてしまうほどの感動です。それもあって、航空大学校への進学も真剣に考えたのですが、視力が裸眼で0.7以上ないと受験資格がない……。私は視力が悪いので、断念せざるを得ませんでした。もしも私の目が良かったら、スター・マイカは生まれていなかったかもしれません。

 というわけで、現役で東大を受験し、理科2類に合格します。受験勉強をしている間に、数学と物理が大好きになって、医者も数学者も目指せる2類を選んだのです。ただ、あれは忘れもしない一番最初の数学の授業でのことでした。90分間ずっと、先生が話している内容が1分たりともわからない。その授業の終わりに、先生が言いました。「わからないのが普通だ。本気で数学者になどなろうと思うな。それが許される人間は、300年の間に地球上に一人だけ現れる程度の確率なのだから」と。その先生も国内ではかなり有名な数学者なのです。あの時は、数学者になりたいと甘く考えていた自分が、真っ暗な洞窟に迷い込んだように思えました。上には上がいる。本気で頂点を目指すためには、そこそこではダメということを、いきなり痛感させてくれた授業でした。

 学生時代のアルバイトで、ある不動産屋家さんの娘さんの家庭教師をしていました。その娘さんが、今の妻なんですけれど(笑)。彼女の父は自宅で不動産業を営んでいましたから、いつも家にいるわけです。そんなに忙しそうでもなく、悠々自適でお金に不自由してるようでもなく、「水永君、一杯飲みに行こう。」とよく誘ってくれる。私の父はサラリーマンでしたから、自営業者というものがよくわかっていなかったのです。このとき「自分でビジネスをやる」という道もあるんだなあと気づきました。その後、コンピュータが得意な同級生と酒を飲みながら、家庭教師よりも効率のよく稼げる仕事をしようと相談しました。そして、なるべく給料の高いプログラマーを募集している会社を新聞の求人欄で探して応募。私も高校時代に簡単なプログラミングをかじっていたのでなんとかなるだろうと。

<学生起業>
仲間とシステム開発会社を立ち上げ学生社長に。
そこそこの規模まで育てるも、売却し、就職

  そうしたら、「ほう、東大生じゃないか。採用決定。明日から背広を着て銀行に行ってくれ」と。要は、その会社が受託している銀行のシステム開発の現場で働けということです。3カ月の契約で、月の給料が一人30万円。しかも、さぼれない授業や契約している家庭教師がある時間は休んでOKという好条件です。さらに、無理を承知で聞いてみました。「3カ月で、一人100万円にしてください」。「う~ん、わかった」。即決されたことにびっくりしました。それで、銀行の開発現場でSEのアシスタント的な立場で働き始めたのですが、先輩SEの方に聞いてさらにびっくりしました。「このくらいの規模の仕事は1億円以上の受注額。お前たちに払う月30万円なんて小さい小さい」。3カ月10万円の増額で喜んでいた私たちはまだまだ青かった……。そこで、一緒に働いていた東大同級生の友人と、ある計画を立て、実行することに。

 3カ月後、契約を満了し、その会社に話しを持ちかけました。「私たちもシステム開発会社を設立しましたので、今後は会社同士の取引をさせてほしい」と。これもほぼ即決で「いいですよ」と即答でした。当時はバブル景気がまだ上向いていて、システム開発の仕事は山ほどありましたから。ちなみに、社長は仲間でじゃんけんして私に決まりました(笑)。その後、東大の掲示板に求人のチラシを張って、20~30人のバイトを確保。代々木にマンションを借りて、そこを事務所としました。本当にサークルのようなノリの会社です。仕事はどんどん増えるのに、学生バイトたちは、夏休みは帰省するし、冬はスキーに出かけてしまう……。そんなこともあり、社員の採用も始めて、私たちより10歳以上年上の技術者も確保しました。結局、この会社の経営が面白すぎてのめり込み、大学の専門課程は文転して農業経済学科へ。その後も経営を続け、4年生を2回やるはめになった頃、「この先はどうしていくんだ?」と自分に問いかけてみました。

当時はベンチャーなんて言葉も浸透していなくて、私たちの会社は周囲から見ればただの零細企業。私はいわば、零細企業の親父です。財務も人事も組織マネジメント知らない、学生の会社ごっこ。このままでは、絶対に上場企業にはなれません。もったいないなあと。どうせやるなら、やっぱりもっと上を目指したいじゃないですか。そこで、上場している大手企業で働く経験をしておこうと、この会社を売却することにしました。今考えればいろんなやり方があったのですが、私は簿価でこの会社を売却しているんです。今の自分ならもっと高値で売れたのに、これも会社経営の知識不足ゆえ……。勉強が足りませんでしたね。そして縁あって三井物産に入社できることになり、世界をまたにかけて飛び回る自分を思い描いていたのですが、配属されたのは経理部。「これは、教育配属。3年頑張れば異動希望がかなう」。私はその言葉を信じ、実直に経理の仕事に取り組みました。

<留学時代の方向転換>
海外のエリートたちは三井物産を知らない。
自分のものさしが壊れ、新たな道を模索する

  私は根がまじめなんです。3年目に上司から、「水永は経理の仕事に向いている。残っていいぞ」と(苦笑)。このままではまずい! 会社の制度を調べると、留学制度を使ってMBAを取得すれば、キャリアがまた白紙状態から選べる。それから勉強をスタートし、UCLA経営大学院に社費留学することになります。世界各国から集まったエリートに囲まれての授業は、非常に刺激的でした。ですが、自費留学しているアメリカ人たちは三井物産のことなんて、全く知らないんですね。「そもそも商社ってなんなんだ。アメリカにはそんな業種はない」と。世界的な企業だと思っていた私にとって、自分のものさしが壊れた瞬間でした。で、彼らに「じゃあ、どんな会社で働きたいのか?」と聞くと、多くの学生が、「コンサルティング会社か投資銀行だ」と言います。自分で調べてみると、確かにプロフェッショナルな仕事であり、非常に面白そうです。私は影響を受けやすい性質なんですね(笑)。

  自分のアイデンティティというか価値観が崩れたことで、UCLAに留学して1月後には、三井物産に退職願を出していました。それまでにかかった留学資金は退職金で相殺してもらい、残りは自腹で払うことに。それからは、どこにも所属していないただの大学院生なわけで、かなり不安でしたね。ただ、MBA取得後はコンサルティング会社か投資銀行に進もうと決め、大学院のキャンパスにやってくる各社のリクルーターと頻繁に会うようになりました。それで、ボストン・コンサルティング・グループとゴールドマン・サックス証券のインターンを受けてみました。どちらもとても面白い仕事をさせてもらいました。しかし、ゴールドマンで働くならプライベートバンキングの仕事をしたかったのですが、当時の日本ではその部署がなかった。結局、最初に内定をもらったボスコンに入社し、1年半勤務することになりました。

 クライアント以上に、その業界や仕事を理解するため、死ぬほど勉強しました。もちろん、現場に入り込んでのコンサルティングは非常にエキサイティングです。でも、残念ながら少しずつ飽きてくる。平均勤続年数が2年というのも納得です。ちょうどそんな頃、ゴールドマンが日本でプライベートバンキングを開始すると聞き、その時に声をかけてもらったので転職しました。金融業界の経験ゼロ、営業経験もゼロでしたが、どうしてもやってみたかった。ゴールドマン入社後には、1年間もの研修が待ち受けていました。アメリカ人が主ですが、世界中から100人くらいの研修生が集まり、NY、ロンドン、スイス、シンガポール、香港と、各商品部門のプロから厳しい指導を受けました。まず、この研修で1割がクビになるんです。そんな厳しい研修をなんとかクリアし、1年後には世界中に素晴らしい先輩と同僚という人的ネットワークを手にしていました。そして実際に営業活動をスタートするのですが、数カ月間は全く契約がとれず、焦燥感に包まれる毎日を過ごすことになるのです。

●次週、「月収数千万円の立場を捨て、起業。念願だった上場企業を育て上げる」の後編へ続く→

市場のゆがみを利用した中古住宅の「時差」で稼ぐ。
地味だけれど再現性のあるビジネスが最後に勝つ!

<月収数千万円の立場を捨て挑戦>
完ぺきに思えたビジネスプランで起業するも、
ITバブル崩壊による計画とん挫で地獄を見る

  1年間の研修期間中、私は一流の先輩たちの言葉を、すべてメモに取っていました。富裕層マーケティングにおいて大切なのは、上客をつかみ、顧客の資産を減らさず守り、堅実に増やすこと。まず、10億円以下の顧客の取り扱いはしないことが鉄則で、この教えを信じ、愚直に行動しました。ちなみに、1年間で50億円の取り扱いができないとクビ、100億円でまあ一人前という世界です。そんな中、数カ月は泣かず飛ばずの状態が続きました。ただ、最初の顧客との契約をきっかけに、紹介が紹介を呼んで、初年度で約1300億円の取り扱い高を記録。幸運にも世界ナンバーワンの営業成績を挙げたのです。当時、ゴールドマンの給与明細は1枚999万9999円までしか印字できず、毎月その給与明細の枚数で月給額を把握していました。「ああ、今月は6枚だから、5千万円台の月給か」と。ただし、成功者はほんの一握りという厳しい環境の中で、月収数千万円という異常な状態がいつまで続けられるのか、不安もありました。

 ゴールドマンに入社して4年目、2001年から日本でもREITビジネスが始まりそうだという情報をつかんでいました。また、多くの上場企業の社長たちとお付き合いさせていただく中で、自分も起業に挑戦してみたい気持ちがしだいに強くなっていました。それで、2000年にゴールドマンとは顧問というかたちで第一線から退き、日本で最初のREIT事業会社を設立しました。自分でいうのもなんですが、ビジネスプランは完璧だったと思います。幹事証券会社、メインバンク、監査法人からも太鼓判を押され、半年後には、REIT会社と運用会社のダブル上場が計画されていたほど完ぺきなシナリオが出来ていました。しかし、会社設立の10日後、ITバブルが崩壊……。予定した資金が全く集まらず、会社の赤字がどんどん増えていく体制でスタート。設立したからには逃げるに逃げられず、眠れない夜が続き、ノイローゼ状態です。煮えたぎる火山の外輪山の淵を歩くような恐怖の日々。今考えても、よく自殺しなかったなと思います。

 幸いにもその会社は買い手が見つかり、再びゴールドマンに戻ることになりました。そんな経験をしたので、二度とベンチャーなどするまいと決めていたのですが……。売却した会社がその後に上場したんですよ。もしかしてあの時、もう少し踏ん張っていれば、自分で上場させることができたかもしれない……。ベンチャーは麻薬のようなものだと思います。大きなリスクが伴うけれど、スリリングでエキサイティング。ゴールドマンに戻り、再び雇われの身となりつつも、だんだんと「いつかまた挑戦してやる!」そんな思いがふくらんでいきました。ただし、次の挑戦は絶対に失敗をしたくなかった。大儲けできなくてもいい、コツコツ、細くてもいいから絶対に損することなく、再現性があって継続性の高いビジネスモデルを考えようと決意していました。実は、個人的な投資事業として、約50戸の中古マンションを所有していました。この個人投資の経験で、賃貸中のファミリータイプマンションは空き物件に比べ、市況に関係なく、常に3割は安いという価格差が存在することを知りました。

<二度目の起業>
市場のゆがみを利用した「裁定取引」。
中古マンション市場で再挑戦!

  この中古マンションの取引量を増やせば、確実に利益を増やせるモデルになる。個人で保有している50戸を1000戸に増やせば、上場もできると思いました。具体的には、賃借人がまだ住んでいる中古マンションを物件所有オーナーから買い取り、賃借人がいる期間は家賃収入を得て、退去後は中古市場で売ってキャピタルゲインを得る。賃借人がいれば、家賃収入で儲かり、出ていっても売却益で儲かる。重要なのは、わざわざ賃借人がいる物件を購入する点です。自分の経験で、賃貸中の物件が空き物件よりも3割は安く、それをリフォームして売れば家賃収入とキャピタルゲインで十数%の利益が得られることを知っていたからです。市場のゆがみを利用した「裁定取引」を中古マンション市場に置き換え、賃貸中の物件と空室物件の価格ギャップを活用して、安定的な収益機会を確保しようというわけです。

 本気でやれば、3年で上場できるという算段もつきました。そして、想定した事業計画に思わぬ変更が余儀なくされ、上場できなかったとしても、赤字にはならないだろうという計算もみえました。起業家はどうしても派手なことをやりたがりますが、実際は、地味で安いものを扱う方が、取引量が多く、再現性のあるビジネスモデルとなります。ユニクロも同じ。ユニクロは安いアパレル商品を何度もつくり、何度も売って利益を出すことを、何百万回繰り返しているでしょう。これが再現性のあるビジネスモデルです。ある経営者にこう言われました。「水永君、銀座のビルを安く購入して、リフォームして高く売れば、1回で10億円の利益だよ。なぜ、そんな面倒な商売をするの?」と。でも、何十億ものビルを安く買って高く売ることが、何度も繰り返せるでしょうか。ビジネスモデルとは、再現性が高い機会と成果を約束してくれるものだと思っています。この考え方を不動産の分野で実践するために設立したのが、スター・マイカなのです。

 そして、高価な新築マンションではなく、ボリュームゾーンである2000万円前後の中古マンションの売買に特化して、堅実かつ安定的なビジネスモデルを目指しました。その価格帯が、マンション価格のいわゆる「コモディティ」。不動産が流通する一番のボリュームゾーンなんですね。確かに三つ星レストランはかっこいいですが、儲けるのは難しい。では実際に儲かっているのが何かというと、マクドナルドのハンバーガーであり、すき屋の牛丼でしょう。要はコモディティが、一番堅実に儲かるマーケットですよ。それは、不動産マーケットでも同じ。2000万円前後のマンションは年収500万円ほどの人々が買うわけですけど、ここが一番世の中の人口が多いわけですね。ですから、商売をするなら新築マンションではく、一番多く取引される中古マンションがいいと考えたわけです。

<未来へ~スター・マイカが目指すもの>
いくら儲かるといわれても派手な挑戦はしない。
中古マンション業界のマーケットメーカーを目指す

  2002年2月、スター・マイカはそうして船出を切りました。ちなみに、新築マンションの供給戸数は多い年でも全国で約20万戸。その市場には、上場している大手デベロッパーが100社以上存在しています。それに対して、中古マンション市場は約530万戸もある。なのに、中古マンション売買を専業で手がけている上場企業はわずか2社しかないのです。設立3年後の目標には1年ほど遅れましたが、2006年10月にヘラクレス市場に上場を果たすことができました。不動産業界で派手に見えたベンチャー企業は、リーマンショックの後、けっこうな数がマーケットから消えてしまいました。しかし、一見、泥臭く見えるスター・マイカは、ほとんど無傷であの荒波を乗り切りました。そして今も、少しずつですが、堅実な成長を続けています。

 現在、スター・マイカは約1000戸のマンションを保有しています。2000万円前後の中古マンションを、年間500戸の物件を購入し、1~2年かけて400~500戸を売却するという感じです。それで、今のところ1000戸を維持しており、前期の売り上げ規模で年商130億円といったところです。死ぬような苦しい思いをした経験があるので、いくら儲かるといわれても、派手な挑戦は絶対にしません。ただし、気が付いてみると、中古マンションはすごく優良なインダストリーになっています。最近父と話をしたのですが、70代の彼らには、男なら新築一戸建て、百歩譲って新築マンションという「新築神話」がありました。でも、私たち40代は、新築にこだわらず価格が安くて広い中古マンションを選ぶ感覚が生まれてきています。また、30代、20代になると、そもそも新築なんて高くて買えないと思っている。スマートコンシューマーと呼びますが、エコに貢献し、価格も安く、リフォームで自己主張もできる。未来に向かって、中古マンションを選ぶ人たちがどんどん増えているんです。

 中古マンション流通ビジネスのリーディングカンパニーの立場を守り、市場の拡大に応じながら、スター・マイカも成長を続けていきます。今のところの主戦場は85%が首都圏ですが、面の拡大、知名度の浸透に注力していきたいです。あとは、中古マンションの価格をもっとオープンにしていきたい。中古マンションを買いたくない理由は大きくふたつ。ひとつは品質ですが、近年は内装技術が格段にアップしていますし、保証もしっかりつければ問題ない。あとは、本当にこれが妥当な価格なのかどうかという不安。当社は過去に4000戸近い中古マンションを購入してきました。ここで蓄積したデータをもとに、どこそこのマンションであれば、いくらなら買う、いくらなら売るという適正価格を2時間以内に提供することができます。金融業界で必ず儲かる唯一の仕事が、為替などを取り引きするマーケットメーカーです。当社も中古マンション業界のマーケットメーカーになりたい。これからも、派手ではなく、地道にスター・マイカを継続していきます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
始める前にしっかり勉強しておくこと。始めたら絶対にあきらめないこと

  私も失敗したり、苦しんだりした経験がたくさんありますからね。そんな大それたことは言えないのですが。一番大切なことは、起業したら、あきらめずにやるということでしょうか。あきらめたらその時点でおしまいなわけですから。私は大学時代にも起業していますが、あの当時の起業と、社会人になったあとでの2社の起業とを比べると、まったく違います。大学生の頃にやっていた時は、財務、資本市場、組織、経理など、面倒くさい勉強をいっさいしていなかったので、まさに会社ごっこでした。それが、商社で経理部に配属され、MBAを取得し、コンサルティング会社、証券会社で働いた後の私が立ち上げた会社は、ビジネスの仕組みがまるで違います。3年でビジネスを上場させようと思ってじっくり組み立てをしていますからね。つまり、成功したいなら、しっかり勉強しなくてはいけないということです。

 いろんな人が、勉強よりも気合いと根性だと言いますが、それはうそ。ラッキーはあるかもしれませんが、勉強しておかないと、しっかりしたベンチャー企業はつくれないんです。繰り返しになりますが、成功確率を高めたいなら、ちゃんと勉強しておきなさいと言いたいですね。当たり前の話になってしまうのですが、あきらめないということと、始める前にしっかり勉強しておくということです。成功の確率が高まるということは、継続できるビジネスということでもありますからね。私の場合は偶然なのですが、先ほどもお話ししたさまざまな会社勤務や、起業の失敗経験が勉強になったともいえますけれど。確かに頭でっかちすぎて一歩が踏み出せないという場合もあるでしょうが、でも、やっぱりベンチャーはやったら面白いですよ。自分で自分の人生がコントロールできる、ある意味、麻薬のようなものかもしれません。ゴールドマンの時のように、いくら高い給料がもらえても、やはり自分の運命は他者が握っていますからね。

 今でも、常に新規事業はやってみたいと思っています。子会社でも、別会社でも、もう一回会社をつくって上場させるのもいいですね。もちろん、中古マンション市場のリーディングカンパニーを目指すという主軸をぶらさず、その周辺でという意味です。これから目指すべき有望マーケットですか? それがわかっていれば自分でやっていますよ(笑)。つまり、知らないということなんですが、自分でやったという意味では、非効率性があるマーケットということでしょうか。不動産もそうですし、ライフネット生命が切り込んでいった保険分野もそう。非効率性があると思えるところを突き詰めていくと、何かが隠れているということはいえるでしょうね。そして、非効率性を見つけるためには、お客視点で業界に対峙してみることです。最後にもう一回。ベンチャーといえども、勉強は大事です。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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