第119回 株式会社エムアウト 田口 弘

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

- 目次 -

第119回
株式会社エムアウト 代表取締役社長
田口 弘 Hiroshi Taguchi

1937年、岐阜県生まれ。1959年、愛知学院大学商学部卒業後、ゼミの教授の紹介で、大竹農機(現・大竹製作所)入社。地方の農機具店や農業協同組合を回って、全自動の脱穀機を売り歩く。この頃、泥臭い営業が苦手な自分を認識。1963年、三住商事(現・ミスミグループ本社)設立に参画。販売代理店ではなく、「購買代理店」という独自の発想で仕事を進める。営業しない一風変わった金型部品商社、ミスミの礎を築いた。1969年、32歳で同社社長に就任。1994年、東証2部上場、1998年、東証1部上場を果たす。「購買代理店」のほか、「マーケットアウト」など、斬新なコンセプトを提唱し、同社を年商550億円の商社に育て上げた。2002年、社長を元・経営コンサルタントの三枝匡氏に譲り、起業ファクトリー・株式会社エムアウトを起業。代表取締役社長に就任。
著書に『隠すな!オープン経営で人は育つ』(日本経済新聞社)、『起業革命』(東洋経済新報社)などがある。現代アートの蒐集家としても有名。

ライフスタイル

好きな食べ物

田舎料理が好みです。
お酒は飲めない体質ですが、食べ物の好き嫌いはほとんどないです。今でも週に2回は水泳で最低1キロは泳いでいます。お腹が空きますから、けっこう食べますよ。好きな料理といえば、やはり田舎料理でしょうか。イモの煮っころがしとか。そうそう、私の田舎はきれいな川が流れていて、そこで取れた鮎の塩焼きも大好きですね。

趣味

現代アート作品の蒐集です。
しいて言えば、20年前くらいに始めた現代アートの蒐集ですかね。現代アート作品は6メートルとか8メートルの作品もあって、保管が大変なんですけど(笑)。最近、キース・ヘリングなど、手持ちの作品をまとめた画集『グローバル・ニュー・アート タグチ・コレクション』を発刊しました。2年後をめどに、また展示会を開催したいと思っています。

行ってみたい場所

カリブ海のセント・ジョンズ島。
国内でいえば、四国にまだ行ったことがないんですよ。いつか行きたいなあと思っています。海外だと、よく行ったのは、仕事がらみですが、シンガポール。リゾートだと、アメリカに行ったついでに訪れた、セント・ジョンズ島。カリブ海の真珠といわれているリゾートですが、時間ができれば、また遊びに行きたいと思いますね。

最近感動したこと

娘の結婚が決まったこと。
うちは子どもが3人いましてね。一番上の娘が、最近、若い年下の相手との結婚が決まったんですね。結婚式はこれからなんですが、今から楽しみにしています。本当によかった。


産業をつくり出す起業ファクトリーの、
根本にある発想は"マーケットアウト"

 時価総額1000億円、東証一部上場の企業――そんな、社会のインフラ、一大産業となる可能性を秘めたベンチャー企業を生みだす起業ファクトリーを目指しているのが、「エムアウト」。営業をしない一風変わった商社・ミスミを年商550億円企業に育て上げた田口弘氏が、2002年にスタートさせた新たな挑戦である。それから8年が経った今も、マーケットアウトの発想を源流とした数々の新規事業をマネジメントしながら、ベンチャー成功の確率を1%でも高めるための研究・開発を続けている。「ここまでエムアウトを続けてきてわかったことは、やはり最初が肝心ということ。始める前に、いかに筋のいいビジネスをつくるか。これをやろうと決めたタイミングで、すでに当該事業が産業として発展できるかどうかが決まっているといっても過言ではないでしょう」。今回はそんな田口氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<田口 弘をつくったルーツ1>
「本当に人が住んでるの?」と驚かれるほど、
素晴らしき自然環境の中ですごした少年時代

 生まれたのは岐阜県の山奥にある田舎町です。自然がとても豊富なところでした。私が通っていた中学に、京都から先生が転任してきたのですが、「こんなところに本当に人が住んでいるのか?と思った」と言っていましたっけ(笑)。そんな山と川に囲まれた環境で育ちましたから、遊び場にはこと欠きませんでした。実家は、昔でいう「万屋(よろずや)」で、タバコに酒、食料品に駄菓子といろいろ売っているお店を経営する個人事業主です。ほかにもガソリンスタンドもやっていたし、田舎ですから農業もやっていましたね。

 小学4年までは、自宅からわりかし近くにある分教場に行っていたんです。でもその後、自宅から1里半(6㎞)ほど離れた本校に通うことになりましてね。今みたいな整備された道ではなくて、まさに山の中の道を歩いて行くわけです。秋になったら、山に生えている柿を取ったり、アケビを取ったり。通学途中の道に棚をつくって、取った果実を保管して。「そろそろ甘くなったかな?」なんて言いながら、友だちと一緒に食べていました。野生のサルの群れを何度も見たし、イノシシもいた。そんなことを覚えています。

 私はといえば、別段目立った感じではなく、ガキ大将でもなく、いたって普通の生徒でしたよ。勉強は理数系よりも文系が好き。あまり得意ではなかったけれど(笑)。ただ、図画工作の授業や、絵を描くことは好きでしたね。運動ですか? 中学からは器械体操部に入部しています。背が小さかったんですよ。確か高校に入学した時の身長は1m42㎝。成長が奥手だったんですね(笑)。それが高校に入って伸び、大学生、社会人になっても少しずつ伸びて、1m70㎝に届きました。ちなみに、うちの体操部はそれほど強くありませんでしたが、県大会にはだいたい出場していましたね。

<田口 弘をつくったルーツ2>
流通革命論とドラッカーの経営理論に
触発され、ビジネスの道を志した大学時代

 漠然とですが、大人になったら学校の先生になりたいと考えていました。まあ、田舎育ちでしたし、自分の親以外に接する社会人といえば先生でしたから。また、その頃の先生は今と違ってみんな威厳があって、校長先生が地元の名士として尊敬されていました。そんな単純な理由だったんだと思います。ただ、先生になりたいという思いはけっこう長く持ち続けていましたね。先生というのは勉強を教えるだけではなく、基本的には人づくりが仕事でしょう。当時は生意気にも、「ものづくりよりも、人づくりのほうが尊く価値のある仕事だ。これほどやりがいのある職業はない」なんて言っていた記憶があります(笑)。

 実は、高校3年までは大学に行くつもりはなかったんです。そこまでして学ぶものがあるのかと。ただ、寸前になって気が変わり、ぎりぎりのタイミングで愛知学院大学の商学部を受験し、合格。進学することになります。その頃は、もう先生になる気はあまりなくて、何となく仕事といえば商学部だろうと考えたのだと思います。それからの4年間は、親戚の家に下宿して、名古屋にある校舎まで通っていました。私が大学に在籍した1950年代は、我が国の「流通革命」勃興期でした。大阪ではダイエーが、東京ではイトーヨーカドーが、三重では今のイオングループが、この流通革命の大変な勢いに乗って、急拡大への舵を切り始めていた頃です。

 大学では、流通問題研究会に所属して、喧々諤々、仲間たちと流通革命の勉強をしました。当時、ベストセラーになっていた東京大学の林周二先生が書かれた『流通革命』や、フォードの管理システムに次ぐ新しい経営理論として脚光を浴び、ネオ・フォーディズムと呼ばれたP・F・ドラッカーの著書は本当にむさぼるように読みました。今まさに、日本のビジネス環境がガラリと変わろうとしている。そんな現実を目の前にして、心からワクワクしました。これほど自らが興味を持ったものは、生まれて初めてだったと思います。

<営業ができない……>
泥臭い営業が苦手ゆえの苦肉の策として、
販売代理ではなく購買代理の仕組みにシフト

 大学卒業後は、ゼミの教授から紹介を受けて、農機具会社・大竹農機(現・大竹製作所)に就職しました。最初は何もわからないまま、地方の農機具店や農業協同組合を回って、全自動の脱穀機を売り歩いていたんです。初めて訪れる地方を巡る仕事は楽しかったのですが、自分は営業が苦手だということを痛感しました。私はもともと、お酒が飲めない体質なんです。当時はお酒を介した接待をしないと契約してくれない人が多くて、無理して飲んでひどい目に遭ったこともありました。そういった、いわゆる人間関係や泥臭い接待的な営業が、自分には全く合っていないことがわかってきました。そして、この会社に入社して4年がたった頃、東京で働いていた友人から声がかかったんです。

 高校時代の同級生が、会社を立ち上げるので一緒にやらないかと。自分も東京で新しいことに挑戦したいと考えていましたからね。それで、仲間3人で始めたのが、三住商事(現・ミスミグループ本社)という会社です。最初は高周波を活用した自動洗浄機を販売していました。「衛生上、非常に良い」と、保健所からもお墨付きをもらって、明治記念館をはじめ、さまざまな施設に導入していただけました。ところが、自動で水が止まらない、時には水が全く出なくなる……そんなトラブルが続出しました。結果、この自動洗浄機からは撤退せざるを得なくなり、売るものがなくなったわけです。そんな時、かつてベアリング商社にいた創立メンバーのひとりが、「ベアリング」を仕入れて売ってみようと。その後のミスミを支えるビジネスの始まりは、食うための仕事でしたね。

 ベアリングの販売も、人間関係を構築する営業力が必要だったので、苦戦を強いられました。ただ、営業を続ける中で、たまに「ベアリングの中にある、ニードルローラーという部品だけを売ってくれ」という妙な注文が入っていたんですね。くわしく話を聞くと、「金型を固定するノックピンとして使用する」と言います。しかもそれは日本にはない製品で、わざわざアメリカから取り寄せていたそうです。「お客様が必要とされるなら、つくって売ればいい」と、製造販売を試みたところ、これが予想を超える売れ筋商品になった。私には営業力がなかったから、それに応えるしかなかったんですよ(笑)。その後も顧客の要望を次々に製品化。するとしだいに、「ミスミなら必要なものをつくってくれる」という評判が広がり、自然とオーダーが増えていきました。

<東証一部上場へ>
「BtoB」の生産財を扱ったことも奏功し、
顧客から支持されたマーケットアウトという思考

 そんな流れで始まったのが、ミスミのベースとなっている金型用の標準部品なのです。その後、商品価格も掲載したカタログを作成して通信販売をスタートさせました。これも私が対面で価格交渉するのが苦手だったから(笑)。全国に1万数千社ほどあるといわれている機械工具商が扱っている商品はどこも同じ。基本的に工場からオーダーを受けた製品をメーカーから取り寄せ持ってくるだけ。「プロダクトアウト」の発想に基づく、いわゆる「販売代理店」ですよね。それに対して僕たちは、お客様が必要としているものをしっかり聞き出し、それのニーズに合致する製品を生み出す「マーケットアウト」の発想でいこうと。販売代理店とは真逆の側にいる「購買代理店」になるということです。

 そもそも今ある日本の産業構造は、物不足の時代にでき上がったシステムが基礎です。だから、常に物をつくる側の理屈が優先されてきた。そして高度経済成長期という時代を経て、供給側の論理であらゆる商売が急成長を遂げました。僕が始めた購買代理店の仕組みは、それを消費者側の論理に変えていこうというものです。これが、マーケットアウトの基本となる考え方。大量生産時代から多品種少量生産に移りつつあった、時代のニーズにも合致していたんだと思います。また、私たちが扱ったのが「BtoC」の消費財ではなく、「BtoB」の生産財だったことも良かった。生産財は需要や数字がはっきり見てくるもので、基本的に理論どおりの結果が見えますから、購買代理店の仕組みがスムーズに受け入れられたのでしょうね。

 マーケットアウトの仕組みがうまくはまれば、営業力がなくても、当然ですが競合他社との競争に巻き込まれることはありません。競争に巻き込まれない商品・サービスがあれば、売り込む営業力がなくても、顧客は選んでくれるというわけです。もしも私に高い営業力があったなら、マーケットアウトという発想と出合っていなかったかもしれません。どこにでもあるものを売るのではなく、お客様のニーズをじっくりと聞き出しながら、新しい価値・コンテンツをつくって売ることで、競争から抜け出ることができたのです。そして私は、社長としてミスミを東証1部上場まで導いた後、社長の座を現在の三枝匡さんに譲り、2002年にエムアウトを起業。新たなチャレンジをスタートさせました。

●次週、「成功事業を確率高く生みだす、起業ファクトリーの実現を目指す!」の後編へ続く→

起業の成功確率を高める新たな仕組みをつくる!
インキュベーターではなく、あくまでもファクトリー

<まるで自動車工場のように>
起業のプロセスを4つの工程ベースに分け、
必要な専門家がよってたかってアドバイス

 ミスミにいた時から、新しいビジネスをつくる活動は続けていました。ただし、やはり大きな会社の中でやることは難しい。すでにたくさんのステークホルダーがついていますし、たとえば、いくら素晴らしい新規事業だとしても、自社のマーケットを食ってしまうようなビジネスは、そもそも本気でできないじゃないですか。マーケットアウトはマーケットの意見に基づいてビジネスを行うものです。ここを間違えずにやり切ることができれば、間違いのない方向に進んでいきます。しかし、大手企業の中では難しいし、一方のベンチャー企業の成功はもっと確率が低い。そこに起業ファクトリーという新しい仕組みをつくることで、起業の成功確率を上げていこうと考え、自らエムアウトを起業したわけです。

 ただ単に、目先の利益を求めるベンチャー企業をつくればいいというわけではありません。あくまでも、起業の成功確率を高める起業ファクトリー自体を、産業として育てていくということです。よく例に挙げるのが、結婚式。昔はみんな自宅で結婚式をしていましたが、一生に一度のことだから専門家に任せたほうがいい。そんなマーケットアウトの発想からブライダル産業が生まれ、今のように発展・拡大していったのです。人にとっては、起業も一生に一度あるかどうか、ということでは同じです。インキュベーターではなく、ファクトリーとして起業のプロセスを工程ベースに分け、それぞれの工程に必要な専門家がよってたかって当該事業を成功に導いていくという、そういう仕組みを目指しています。

 まず、第一フェーズは、マーケットアウトの発想から生まれた事業アイデアを集め、過去に収集し、研究してきた成功・失敗事例に照らし合わせながら、成功の原理原則に近付ける作業です。第二フェーズは、プロジェクトチームを組成し、さらにその事業アイデアを調査、分析、事業計画書に落とし、フィジビリティスタディを行います。そして第三フェーズに進めば、会社を立ち上げて実際に事業をスタート。そして第四フェーズが、成長路線に乗せ、IPOやMBO、M&Aなどのイグジットを検討するという段階。あたかも、工場のラインで自動車がつくられるように、エムアウトの工程に乗っかれば、成功する新規事業ができ上がる。これが私の理想とする起業ファクトリーの将来像です。

<新たな産業を>
安く投入したインプットを、早く大きくアウトプット。
開発効率を拡大させるためのノウハウづくりにも注力

 起業を支援するベンチャーキャピタルという産業が、リーマンショック以降、行き詰っていますね。それに変わる起業を支援するための新しい産業をつくらなければならないという想いが強いのです。エムアウトが目指しているのは、簡単に言ってしまえば大企業が有する有利な条件を備えたプラットフォームをつくること。資金や情報はもちろん、優秀な人材もしっかりそろえる。ここに筋のいい新規事業のアイデアを乗せれば、新しいビジネスが確実に成功する仕組みができるだろうと。できるだけ安く投入したインプットを、できるだけ早く大きくアウトプットさせる。この開発効率を拡大させるノウハウづくりを、一所懸命やっているということです。

 2002年にエムアウトを立ち上げて、8年目。ひとつの結果がわかるまで、5年と見ていたのですが、まだまだ2回転目に入った実感はないです。これまで、「現代アートの販売ポータル事業」「ジュエリーの"Re"サービス事業」「訪問歯科診療サポート事業」「体系維持・改善の意識が高い女性をターゲットとしたお弁当販売事業」「オーダーメイド生産のパンツ販売事業」「リラクゼーション施設・治療院で働く人の情報コミュニティ・専門求人情報サイト運営事業」などを事業化してきましたが、途中でストップしたり、MBOさせた事業もあります。現在は4つの法人を事業参入させていて、「ジュエリーの"Re"サービス事業」、株式会社アイデクトは、中でも順調な成長を続けています。

 宝飾業界は一度販売したジュエリーの"Re"ビジネスを、やりません。当然ですが、新しい商品が売れなくなるからです。どんどん新商品を発表して、販売した商品を早く陳腐化させて、どんどん買ってもらうという、プロダクトアウトの論理がある。古くなったジュエリーが、我が国の女性のジュエリーケースの中にたくさん眠っていて、それがおそらく30兆円以上あるのではないかと言われています。そこに着目すると、最初から新品を売る必要はないので、宝石のリフォーム専門店を始めたということです。ここにも、マーケットアウトの発想があります。アイデクトはジュエリーの換金、リフォーム、リユースを行うことで、今では11カ所に店舗を展開。さらに眠っているジュエリーの買い取りルートを拡充するための戦略を講じているところです。

<未来へ~エムアウトが目指すもの>
これまでのベンチャービジネスを反面教師に、
時価総額1000億円級の企業を育てていきたい

 ここまでエムアウトを続けてきてわかったことは、やはり最初が肝心ということ。始める前に、いかに筋のいいビジネスをつくるか。これをやろうと決めたタイミングで、すでに当該事業が産業として発展できるかどうかが決まっているといっても過言ではないでしょう。あとは、スタートアップ期から軌道に乗せるまでのマネジメントが得意な、強いリーダーシップを持った経営人材が必要です。筋のいい事業アイデアとこの人材がいれば、十分、当該事業を成長路線に導くことができると思っています。起業・スタートアップ段階と、事業が大きく成長する段階では、マネジメント内容が違います。それらの経験も含め、必要なものをどんどん仕組み化していきます。新たな挑戦には試行錯誤が付きものですが、実際に、エムアウトが手がける新規事業は、後になればなるほど、良くなっています。

 エムアウトがつくりたいのは、時価総額1000億円以上、東証一部上場できるようなビジネスです。ゆえに今までのようなベンチャーは完全に反面教師だということ。ベンチャー企業がやっていることと同じことをやっていては、1000分の1以下の成功確率になってしまうわけですから。それでは、起業ファクトリーの産業化など夢のまた夢。従来のベンチャー企業を反面教師として、徹底してやっていかなくてはいけません。ベンチャー成功のプラットフォームではありますが、エムアウトはあくまでもファクトリー。だから、自分の事業を運命共同体と考えるような、いわゆるベンチャー志向の強い人は向かないと思います。逆に、大手企業で組織的なマネジメントをじっくり経験してきた人のほうが、うちの新規事業の経営人材に適していると思っています。

 これまでは、規制に守られた古い産業、たとえば、金融、不動産、建築などのリアルビジネスを主に研究してきましたが、今後はITやWebを使ったビジネスにシフトしていく計画です。BtoCのビジネスは、ITを活用して、プロダクトアウトをマーケットアウトに変えてくための親和性が非常に高い。ファッションやライフスタイルを主軸としたプロジェクトがこの11月にカットオーバーします。これからも、毎年2、3社は新規事業会社をつくっていきたい。もちろん、今後も成長し続けるマーケットというのが最低条件です。また、大手企業からの依頼を受けて、新規事業を年商10億円くらいの規模に育ててお返しするという、新規事業の受注生産にも取り組んでみたい。エムアウトの起業ファクトリーを産業化するために、やりたいことはまだいくらでもあります。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
今後、ますます複雑化するマネジメントの中、
「俺が俺が」のワンマン経営者の成功は難しい

 現在、エムアウトの事業会社4社の社長は、社内で育てた人材ですが、将来、多くの新規事業が生まれた時に、社長の役割を担える人材を何人確保できるか。これが重要だと思っています。いずれにせよ、そんな人材が有利に動けるようなプラットフォームを作っています。それが完成すれば、例えば10年かけないと成功できなかったビジネスを2年で成功までもっていける、というようなスピード感になると考えています。日本はどちらかというと、まだまだ個人主義が発達してなくて、集団になると強い民族です。しかし、これまで成功してきた日本のベンチャーはワンマン経営で個人向き。あまり日本人に向いていないタイプなのではないかと思っています。そういった意味でも、エムアウトが目指している起業ファクトリーのほうが日本的な起業の仕組みだと思いますよ。

 今や企業マネジメントは、IT、コンプライアンス、ファイナンス、新しい経営手法としてのM&AやMBOなど、非常に高度で複雑になっています。一人でやれる範囲には限界がある。ですから、エムアウトのような集団で、各分野のプロフェッショナルが集まって、ひとつの事業をつくるという形にしていかないと、新たな産業は確立できないのだと思います。たまたま当たることはあるでしょうが、確率論からいえば、べらぼうに低いわけです。産業として成立させるためには、ある程度安定性がないとダメですからね。最初の見極めが大事だと述べましたが、たくさんの経験を積み重ねながら得たものを、最初の段階にフィードバックしていく。その繰り返しを行っているのです。

 もちろん、現状のベンチャーのやり方もひとつの方法です。ただし、エムアウトの起業ファクトリーという考え方を参考にしてみるのも、ひとつの手だと思います。今、将来のエムアウトが生み出す新規事業の社長を担えるリーダー候補を募集しています。必要な要件は、徹底的にやり抜く人ということ。一人で何でもやりたい人で、俺が俺がという人は、今後、ますます複雑化するマネジメントの中で、事業をやり抜くことは難しいのではないでしょうか。エムアウトとしては社会のインフラとなるようなビジネスを1社でも多くつくっていきたい。企業は継続が大事といいますが、存続する以上成長をしないといけません。企業がスケールメリットを得れば得るほど、マーケットに利益を還元でき、その企業は大きくなっていく。そこにやりがいを感じられる方は、ぜひ、エムアウトの門を叩いてみてください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

起業、経営ノウハウが詰まったツールのすべてが、
ここにあります。

無料で始める