第54回 株式会社はてな 近藤淳也

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

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第54回
株式会社はてな 代表取締役
近藤淳也 Junya Kondo

1975年、愛知県生まれ。4歳で、三重県へ移転する。小学校時代から、自転車の魅力にはまる。いつか、ツール・ド・フランスに出場するような自転車レー サーになりたいと思っていた。三重県立四日市南高校卒業後、京都大学理学部に入学。大学ではサイクリング部に所属し、20歳の時、ひとり自転車でアメリカ 大陸を横断している。大学卒業後は、同大学大学院理学研究科へ。1年間と決めて自転車レース活動に専念。その後、2年次に大学院を自主退学し、プロカメラ マンとしての活動を始める。その頃、父がインターネットの検索で苦労している姿を見て、人力検索サイトの着想を得る。2001年7月15日、「人力検索サ イトはてな」を公開し、有限会社はてなを設立。その後も、数々の苦労を乗り越えながら、はてなは次々に新サービスをリリース。着実に、はてなファンを増や していった。現在、同社の正式サービスは10個。登録ユーザー数71万人、ユニークユーザー数967万人の日本有数のコミュニティサイトとして今も成長を 続けている。著書に『「へんな会社」のつくり方』(翔泳社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

カレーライス。
凝ったものではなくて、あくまでも家庭でつくるような普通のカレーライスが好きなんです。会社で食事をつくってみんなで食べるんですけど、今日もカレーラ イスですよ(笑)。お酒も飲むほうです。一番好きなのはビールですかね。オフィスの冷蔵庫にも入っています(笑)。一回に飲む量ですか?体調にもよります が、ジョッキ3杯くらい飲むこともあります。

趣味

自転車とカメラです。 
やはり自転車ですかね。今、愛車をシリコンバレーから送っている最中なので、乗れていないんですが。いつもはちょこちょこ街乗りしたり、通勤でも使ってい ます。写真を撮るのも好きです。はてなを設立してから、デジカメでいろんなものを撮影してきました。全部残していますから、見直せば、はてなの歴史が一目 瞭然なんです。

休日

できれば半日くらいは仕事か、仕事に関する勉強をするようにしています。 毎日、睡眠時間は8時間とっています。30分くらいの昼寝をすることも多いです。週末は、結婚式などのイベントに出席したり、ちょこっと自転車乗りに出か けたり。それ以外の日は半日くらいは仕事をしていることも多いです。少し長い休みが取れたら、ヨーロッパを旅行して回ってみたいですね。これまで、アメリ カばかりだったので。

最近感動したこと

先輩の結婚式。
大学のサイクリング部の先輩が結婚したんです。その先輩が新婦なのですが、結婚式はしないと。だったら、僕らでサプライズパーティを計画して、招待しよう と。新郎新婦には秘密にして、大学時代よく通った京都の飲み屋さんを借りきって。当日、ふたりはびっくりしたみたいですが、かなり喜んでもらえました。僕 らも久しぶりに仲間に会うことができて、楽しかったですね。

“へんな会社”はてなは、インターネットを使った、
新しく、楽しく、便利なライフスタイルを提案し続けます

 立ったままの会議、開発ミーティングをポッドキャスティングで配信、サービスを50%の完成度でリリース、座席はフリーアドレス化、開発合宿や合宿用の出 張オフィスを取り入れる、お昼にオフィスで手づくりカレーが提供される、冷蔵庫にはビール、社員の大半が自転車通勤などなど……、普通の会社ではありえな いような経営スタイルを貫いている「へんな会社」。それが、近藤淳也氏が代表を務める、株式会社はてなだ。京都大学大学院時代1年間自転車レーサーとして 活動、大学院を自主退学しプロカメラマンに、その後、誰もが「それは成り立たない」と口をそろえた、「有料人力検索サイトはてな」の仕組みをもって起業家 へ転身。そもそも、近藤氏自身がたどってきた経歴も普通の人から見ればちょっと変である。しかし、幾多の試練を乗り越えながら、はてなのサービスは堅調に 増殖を続け、それに呼応する形で「はてなファン」もどんどん増え続けている。今回は、そんな「へんな会社」を率いる近藤氏に、青春時代からこれまでに至る 経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<近藤淳也をつくったルーツ1>
新しい景色の先にある世界を見せてくれる自転車の魅力を知る

  生まれたのは名古屋ですが、僕が4歳の時に父方の祖父が亡くなりまして。家業の洋品店を引き継ぐ必要もあり、三重県の菰野町に引っ越しました。それ から、祖母と両親、2歳下の妹と家族5人の生活が始まります。ちなみに、父は市役所の職員で、母は洋品店の手伝いをしていました。菰野町は、とてものどか な田舎町で、広い田んぼ、川や森など、たくさんの自然に恵まれた場所です。小学校は1学年60人で2クラスと小規模でしたから、みんなとても仲良し。学校 が終わったら勉強そっちのけで、サッカーや野球をして遊んでいましたね。町に塾なんてありませんでしたし。習い事といえば、ソロバンくらい。

  この頃から、自転車が大好きだったんですよ。よく、父にサイクリングに連れて行ってもらっていました。で、本当は禁止されているんですが、自分で隣町まで 自転車を走らせたら、当たり前ですがこれまで知らなかった景色と出合うわけです。そしたらその先も見てみたくなる。すごくワクワクしてましたね。小学校最 後の春休みには、仲間を誘って四日市まで自転車で卒業旅行に出かけたことを覚えています。

  中学は全校生徒1000人。小規模の小学校から来た僕は、最初、うまく馴染めなかった。でも、地元では名門といわれていた陸上部に入部するんです。例えば テニス部に入って、1年間ボール拾いというのはちょっと苦手でしたから。走るってスポーツの基本動作でしょう。誰もが同じ条件下で戦えるという点も僕に 合っていたと思います。種目は長距離です。800mが得意でしたね。3年の時には、県駅伝の選手として出場し、僕らの中学が優勝したんです。個人としても 区間2位の記録でしたね。自転車ですか? 趣味として続けてましたよ。この頃は、日帰りで100kmくらいの遠出をするようになっていました。

 勉強はガリガリにはしないんですが、成績はいいほうだったと思います。高校受験ですが、当時の三重県は群制をとっていました。僕は公立では一番難 しかった第1群を受験して無事合格しました。すると、伝統校といわれる四日市高校か、自由な校風の四日市南高校のどちらかにガラガラポンで振り分けられる んですよ。で、僕は自由な四日市南高校へ。結果論ですが、僕には合っていたと思っています。

<近藤淳也をつくったルーツ2>
アメリカ横断で人生の自由さと、生き方選択の価値基準を確認

  高校ではワンダーフォーゲル部に入ります。遠くもいいけど、高い場所にも行ってみようと(笑)。北アルプスを縦走して、日本海側の親不知に抜けると いうルートにトライした時の事です。下山したら公園があったのでそこにテントを張って野宿しました。この時に、別に山だけではなく、寝袋さえあればどこま でも行けるってことに気づいちゃった(笑)。高校2年の夏休み、東海道を走破しようと、千葉まで自転車で出かけたんですよ。宿題がものすごく多かったの で、バッグに資料を詰め込んで。朝4時間ほど走って、図書館で宿題やって、また夕方少し走って、夜は野宿(笑)。そんな生活を20日くらい続けて、三重県 に戻ってきました。

  高校入学時の成績は、450人中、150番くらい。山と自転車にはまっていましたから、そこから成績はなかなか上がらず。でも、3年の6月にワンダー フォーゲル部の東海大会に出場した後、大学受験を目指し勉強に集中することに。夏休みは名古屋にある母方の実家にこもって猛勉強。自分でもびっくりしたん ですが、夏休み明けの試験で一気に成績が上がりました。そのまま受験勉強を続け、京都大学の理学部に現役で合格することができたのです。当時は物理が好き でしたから、物理をやるなら京大がいいだろうと。そういえば、父がこんなことを言っていました。「小学校では遊んでてもいい。だが、中高は勉強しておけ。 大学に入ったらまた遊べるから」って。僕はそれを真に受けて、だんだん大学に行かなくなるんですよね(笑)。

  大学3年の8月から9月にかけて、シアトルからニューヨークまで、アメリカ大陸を自転車で横断する旅に出かけたんですよ。英語も通じるから安心だろうと。 この旅からは、2つの大きな気づきを得ることができました。日本と違って、京都大学の学生なんてタイトルはまったく通用しなくて、僕はただの近藤淳也とい う個人でしかない。自分は何でもない存在であるということ。もうひとつは、道端でアイスクリームを売っているおじさんと出会った時。自分もアイスクリーム 屋さんになろうと本気で思えばなれるんだと。まだ何もない自分だけど、自分は何にでもなれる。どうせなら、みんなから「あいつはすごい」といわれるような 生き方をしてみたい。自分の人生の自由さと、生き方を選択する際の価値基準が確認できた、貴重な旅となりました。

<大学院生、レーサー、カメラマンへの変遷>
大学院2年次に休学届けを提出し、本格的に自転車レース活動を開始

  昔、山をひとり歩いていた時、どうしても音楽が聴きたくなったんです。音楽が持ち運べたらなぁって。ああ、そういえば「ウォークマン」があるじゃな いか。ソニーという会社は、人々の生活を豊かにしてくれた。そんなものづくりをしているソニーは素晴らしい。というようなことを思ったんですよね。アメリ カから帰国して、就職活動を始めた僕は、これからライフスタイルの変化に応じて、家電もどんどん進化する、それでソニーを受けたのですが、結果はフラれて しまった。冷静になって考えました。そもそもなぜ、春までに内定を取っていないと、失敗者になってしまうみたいな強迫観念に苛まれるんだろう? それに乗 せられてまで、就職することもないなと。そういえば、父も大学院を卒業後、1年間海外放浪の旅をしたそうですし。それから、方向を一転。勉強して、大学院 に進むことにしたんです。せっかく大学に入ったんだし、学問をやろうじゃないかと(笑)。

  勉強の甲斐あって測地学の研究室へ入れました。で、最初の1年はしっかり研究に精を出し、国際学会にも帯同させてもらったんです。国際学会って、研究者が 目指すべき頂点ですよね。実際に参加してみて、「俺は本当にこれを目指したいのか?」という疑問が生まれてしまった。また、悩むわけです。そういえば、子 どもの頃の夢は、ツール・ド・フランスの選手だったよなと。年齢的にも最後のチャンス。本気で自転車競技に挑戦してみようと、自転車競技部に入部。1年間 だけと決めて、レース活動に打ち込むんです。

  公道レースのツール・ド・北海道に参戦したり、国体の代表選手に選ばれたり、インカレ大会では5位に入賞したり。結果はそこそこ残せたと思っています。で も、ある意味、あきらめもつきました。やはり、上には上がいるんですよね。シーズンの最後にレース中にケガをした頃、自転車レースの撮影をしてほしいとい う依頼が。カメラも昔から大好きだったんです。その撮影活動が高じて、カメラマンの仕事を始めました。個人として活動しながら、カメラマン事務所にも所属 して。それから約1年半、カメラマンとしての活動を続けることになります。翌年、研究室の教授からは、「もう1年休学しても、君はもう大学に戻ってこない だろう。やる以上、退路を断ってやったほうがいい」とアドバイスされた。その助言に従って、僕は大学院を自主退学しました。

<カメラマンから一転、起業家の道へ>
起業半年後に、口座残高20万円の危機。倒産寸前状態から、息を吹き返すまで      

 実家に帰ったある日、父がインターネットで何かを検索していました。でも、なかなか知りたい情報にたどりつけなくて困っている。もしも、インター ネットに詳しい人がいたら、簡単にその方法を教えてもらえるのに。みんなが得意な知識を生かして、助け合う仕組みがつくれないだろうか。そんなアイデアが 浮かんできたんですよ。一方、カメラマンの活動は続けていましたが、技術的なことも少しずつマスターしてきて、その先が何となく見えてきた。それとイン ターネットの仕事を比べて、インターネットビジネスを手がけるなら今しかないんじゃないかと思いました。その思いがどんどん大きくなって、2001年に有 限会社はてなを立ち上げたんです。

  スタッフは結婚したばかりの妻、知り合いのエンジニアと私の3人だけです。起業資金は父から400万円を借りて、300万円が有限会社の資本金。残りの 100万円を生活費に充てました。2001年はネットバブルが崩壊した頃で、マスコミなどもネットビジネスへのバッシングを繰り返していました。これから インターネットが生活にどんどん溶け込んでいくのは間違いない。まだまだ始まったばかりなのに、なぜと。僕は逆に、参入するなら絶好のチャンスだと確信し ていました。

 当社が最初にリリースしたサービスは、有料人力検索サイト「はてな」です。多くのネットユーザーから絶対に必要とされるサービスであるとは思って いましたが、なかなかアクセスは伸びません。有料というハードルが高かったんでしょうね。当然のことながら、資本金はどんどん減っていきます。創業当初か ら、資本金がなくなったらこのビジネスをあきらめようと決めていました。当初は創業メンバーは無給状態。生活費を切り詰めた生活をしていました。設立から 半年くらいたった頃、会社口座の残金が20万円ほどになってしまった。でも、はてなの可能性を信じて疑わなかったので、ここで辞めるわけにはいきません。 苦肉の策ですが、知り合いの会社に営業して回って、受託開発の仕事を始めることにしたのです。最初は簡単なアンケートフォームの作成やホームページの制作 から始め、しっかりつくって納品。すると信頼が生まれて、より大きな仕事を依頼されるようになりました。僕を含めてエンジニアは2人しかいませんでした が、4人分くらいの仕事をしていたと思います。そうやって必死で食いつなぎながら、自社サービスの開発・運営を維持し続けていくのです。

さらにユニークなネットサービスの自社開発を継続。
2011年、1000万人の登録ユーザー獲得が目標です。

<サービス多産時代へ>
数千万円単位の受託開発を蹴り、はてならしい開発継続に専念

 2002年にリリースした、お気に入りのホームページの更新状況を知らせてくれる「はてなアンテナ」のユーザーがどんどん増えていきます。僕たちは 受託開発の仕事をどんどん引き受けて、急増するアクセスに対応するためにサーバーを買い続けました。その後も、受託開発で稼いだ資金のほとんどを、 2003年にリリースした「はてなダイアリー」などの新たなサービスの開発・運営に投下。その繰り返しで会社を維持していた2004年、グーグルがアドセ ンス広告を市場にリリースするんですよ。これがひとつの転機ですね。当然、僕たちも広告収入を得る道を模索していましたが、有料人力検索サイト「はてな」 に書き込まれるユーザーからの質問や回答を予測することは不可能。でも、アドセンスの仕組みはテキスト内容に合致した広告を自動に表示してくれるというも のです。こうして予期せぬ広告収入を得られるようになったのも、あきらめることなくしつこく続けてきたからだと思っています。

 そもそも、はてなという会社をなぜつくったのか。先程お話したソニーの「ウォークマン」のように、まだ世の中にない、人々の生活を豊かにすること ができるインターネットサービスを自分たちの力でつくり続けたかったからです。少しずつ広告収入が入り始め喜んでいた頃、数千万円単位の受託開発の仕事を やってくれないかと打診されたんです。さて、どうしようと。それまでは志を同じくする3人だけで、どこまでやれるか必死で踏ん張ってきました。それがはて なの姿だと。でも、この依頼を受けてしまうと、はてなの存在意義が揺らいでしまうんじゃないかと考えました。結局、はてなの提供したいサービスだけをつく り続けるというスタンスを選択し、その依頼はお断りしました。普通の会社経営者なら、ありえない判断なんでしょうけど……。

 本来の目的に集中するために、退路を断ったということです。そして、そのスタンスを守りつつ、はてなは京都から東京に事業所を移転しました。そし て、はてならしいものづくりを拡大させていくため、エンジニアの拡充をスタート。約2年をかけて、一気に20人までスタッフを増やしていくんです。それか ら、はてなのサービス多産時代に突入していきます。

<面白いサービスのつくり方>
少人数で隔離して、集中開発。最終意思決定を1人にゆだねる

 東京に移転してから、ブログやホームページに設置してアクセス数をカウントできる「はてなカウンター」、ブログを組み合わせたグループウェア「はて なグループ」、撮影した写真を公開できるアルバムサービス「はてなフォトライフ」など、どんどん新サービスをリリースしていきました。いったいどうやって ユーザーに愛されるサービスを開発していくのか。もちろん、明確な答えなどありません。ただ、いろんなやり方を試してきた結果、今のところ少人数で隔離す るという方法がいいなと思っています。

 例えば、2005年にリリースした「はてなブックマーク」は、伊豆での合宿から生まれたサービスです。5人のエンジニアとデザイナーでチームを編 成し、行きの車での会話から草案が生まれ、3日間かけて伊豆で開発し、東京に帰ってきた次の日にベータ版サービスを公開したんですよ。オフィスにこもって 「さあ、商品開発会議をしよう」ってやっても、なかなかうまくいきません。おそらくですが、非連続的なきっかけが脳を刺激してくれたのでしょうね。

 今ではもっと少人数でものづくりを進めるようにしています。単位は2人ですね。そして、そのうちの1人に意思決定をゆだねるんです。多人数の合議 制をやっちゃうと、「あの機能をつけたほうがいい」「なぜこの機能はないのか」などいろんな提案から機能がくっついて、どんどん最初にあった「こういう サービスどうですか?」というクリアなメッセージが薄まってしまう。そうなると、ユーザーにもメリットが伝わりづらくなる。だから意思決定は1人なんで す。

 現在、はてなの正式サービスは約10個。登録ユーザー数71万人、ユニークユーザー数967万人です。これまで、はてなはサービスを多産してきま したが、期待したほどユーザーが集まらず、寿命を迎えつつあるサービスも出てきました。生み続けるだけではなく、スクラップビルドの時期に入ったというこ とです。もちろん、新たなサービスの開発はどんどん進めていきますよ。これらの状況を鑑みて、「はてラボ」という、まだはてなの正式サービスになりきれな い実験的サービスを置くためのサイトをつくっています。もちろん、今ある小さな可能性を大きく育てていくことが目標です。

<未来へ~はてなが目指すもの>
ものづくりの拠点を京都に移し、インターネット業界の任天堂を目指す

 2006年、シリコンバレー、パロアルト市にHatena Inc.を設立し、私を含め3人で渡米しました。一番の目的は、英語圏など多言語に対応したグローバルサービスの開発です。はてなはこれまで、言ってみれ ばピュアで小粒なサービス開発で勝負してきたと思っています。しかし、そろそろより多くの人々に使っていただけるサービスを手がけていくべきだと考えた 際、はてなのサービスを気に入ってくれるユーザーをグローバルに横展開で増やせればと考えました。

 1年半やってみて、現地スタッフを採用し、英語版のサービスを立ち上げるためにはさらに3年くらいは必要だろうと考えていたんです。そうこうして いるうちに、日本のはてなの元気がなくなってきた。これまで誰一人辞めるスタッフがいなかったんですが、ぽろぽろと退職者が出始めたんですよ。インター ネットの世界に身を置く会社として、テレビ会議など、ネットの力を活用しまくれば、円滑なコミュニケーションが図れると考えていましたが、甘かった……。 もともと、はてなには顔を合わせて話し合うことをよしとする文化があったんですよね。考えてみれば、僕も何かにつけスタッフとよく会話していましたし。シ リコンバレーである程度地盤はつくれた感もありましたから、日本に帰ってくることにしたんです。

 そして、今年の4月、はてなは創業の地、京都に本社を移転します。京都をものづくりの拠点とし、サービス開発のための人員を結集。インターネット 業界の任天堂を目指そうと。世界で通用する日本発のインターネットサービスはいまだ生まれていないと思っています。世界から認めてもらうためには、ほかと は違う、ユニークさ、いってみれば“変さ”が必要だと思います。そんなものづくり力を醸成するためには、京都はぴったりだと思っています。素晴らしい世界 的メーカーも多いですし。しっかり見習っていきたいと。

 また、日本型経営のよさも突き詰めていきたいと思っています。会社というハコにじっくり腰を落ち着けて、根気よくブラッシュアップを続けていける のは日本企業の強さだと思います。そうやって、みんなの生活になくてはならない、使って楽しいサービスを京都から発信し、2011年に1000万人の登録 ユーザーを獲得することを目標としています。そのためにも、優秀なエンジニアをどんどん採用していかなければなりませんね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
宇宙人から注目されるような、面白い生き方をしてください

 手近な成功や、お金など、単純な価値観で物事を判断しないほうがいい。例えばですが、もしも宇宙人が地球を観察していたとしましょう。彼らが、「こ の人間は何だか面白いことをやっているから、注目しておこう」って選ばれるような存在を目指すべき(笑)。そんな生き方にこそ価値があると思いませんか。 たとえば受託開発をしていた自分と、世の中にない便利なサービスを開発しようとしている自分。さて、宇宙人はどっちに注目するだろうか。僕は判断に迷った ら、こんな風に考えるようにしています。だから、かつて開発仕事をお断りして、はてならしさを追求する道へ進むことができたんです。言い方を変えるとすれ ば、常に自分を俯瞰して見て、普遍的な価値を感じるほうへ進んでいくこと。そういう生き方を続けていれば、後悔しない人生にできるのではないかと思いま す。

 そうはいっても、ビジネスを立ち上げる以上、収益化していかなければなりません。まず、必ずこれを生業とする強い覚悟を持つ必要があると思いま す。出資やつなぎ融資を受けながら、ビジネスモデルが見えずに食いつないでいる会社もありますが、問題の先送りをせず、いかにして収益を上げるかについて 考え続けないといけないと思います。

 ちなみに、僕がはてなをつくる前も、世の中は何ら問題なく普通に回っていました。別に、はてなはなくても問題ない存在だったというわけです。で も、僕たちのサービスは絶対に世の中を便利にする、必ずみんなから必要とされるサービスになると信じてここまできました。そもそも市場に投下した瞬間に ヒットするような商品・サービスなんてほとんどありませんよ。ただ、可能性を信じてずっとやり続けられるかどうか。起業すれば当然、自分が思い描く成功イ メージと、なかなかうまくいかない現実とのギャップに悩まされます。でも、絶対にやり続ける、起業には、そんなしつこさが必要だと思っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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