第125回 コーエーテクモホールディングス株式会社 代表取締役社長 襟川陽一

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

目次

第125回
コーエーテクモホールディングス株式会社 代表取締役社長
襟川陽一 Yoichi Erikawa

1950年、栃木県生まれ。県立足利高等学校から、慶應義塾大学商学部に進学。大学時代は、「K.B.R. society the KALUA」(カルア)というジャズボーカルバンドサークルに所属し、ベーシストとして音楽活動に明け暮れた。大学卒業後、染料の卸販売会社を経営する父の会社の取引先に就職。約4年半の勤務後、父から呼び戻され、家業に入社する。しかし、その3カ月後、父の会社が倒産。残務整理を続ける中で、染料卸販売事業の再起を決断。1978年、光栄を設立し、代表取締役に就任する。1981年、趣味としてつくった歴史シミュレーションゲーム「川中島の合戦」が、予想を超える大ヒットとなり、光栄はゲームソフト制作会社の歴史を紡ぎ始める。その後も、「信長の野望」「蒼き狼と白き牝鹿」「三國志」「決戦」「真・三國無双」など、数々のヒット作品を世に送り出し、日本を代表するゲームソフト制作会社に成長した。1991年、店頭市場に株式公開(現在は東証一部)。1999年、コーエーの取締役会長就任。2005年、コーエーのファウンダー取締役最高顧問に就任。2008年、コーエーはテクモとの経営統合を行い、コーエーテクモホールディングスが誕生。2010年11月、同社の代表取締役社長に就任。ゲームプロデューサー名は「シブサワ・コウ」。

ライフスタイル

好きな食べ物

基本的に和食が好きです。……。
和食が好きです。特に好きなのはお寿司。中でも好んで食べるのは赤身のマグロ。鉄火巻きとかよくオーダーしますね。お酒は飲むほうで、ワインが好きです。毎日1本は夕食時に妻と話をしながら空けてしまいます。どうしても会社や仕事の話になっちゃいますね(笑)。

趣味

バンド活動です。……。
大学時代に所属していた「カルア」というジャズボーカルバンドサークルの同級生たちと、月に何回かセッションをしています。夜の会食を入れないのは、この日くらいです(笑)。年に数回は、ライブハウスで演奏会もします。この時間が一番楽しいですね。大好きなことをやっていると、元気が出ます。

行ってみたい場所

ゴルフ場です。……。
今、一番行きたい場所として思い浮かんだのは、ゴルフ場です。緑の中を歩く、自然の中で遊べるスポーツでしょう。忙しい毎日のストレスがリフレッシュできますね。よく行くコースは、会員になっている戸塚カントリー倶楽部です。

お勧めの本

『マネジメント – 基本と原則』(ダイヤモンド社)
著者 ピーター・F・ドラッカー

私が28歳で設立した会社の経営がうまくいっていなかった頃、事業経営のヒントを探してもがき苦しむ中で出合ったのが、ご存じドラッカーの『マネジメント』でした。経営とはお金儲けをすることではなく、他者のために役立つことをすること。経営の意義や真髄が貫かれている素晴らしい良書ですね。自分の仕事や事業経営に迷ってしまった時、ぜひ手に取って読んでほしいと思います。私もことあるごとに読み返しています。

アンカー

栃木県足利市で産声を上げた染料卸販売会社が、
ゲームソフト制作会社に鞍替えし大成功!

 「川中島の合戦」「信長の野望」「蒼き狼と白き牡鹿」「三國志」「決戦」「真・三國無双」など、数々のヒット作品を世に送り出し、日本を代表するゲームソフト制作会社に成長したコーエー。そのスタートは、1978年に栃木県足利市で産声を上げた、染料卸販売会社だった。現在はテクモと経営統合をし、コーエーテクモホールディングスとなった同社だが、創業者である襟川陽一氏は、いかにしてこの事業を始めることになったのか……。「事業計画などまったくなく、まさに、ひょうたんから駒のような成功でしたが、これからコンピュータがどんどん世の中に浸透していくことは容易に予想できました。そんな時代背景もあって、コーエーは染料販売事業から撤退し、完全にゲームソフト制作事業に移行したのです」。今回はそんな襟川氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<襟川陽一をつくったルーツ1>
歴史のゆかり深き街・足利市で
すくすく育った健康優良児

 生まれは、栃木県の足利市です。両毛地区は、染色や縫製といった、繊維分野の川中産業で栄えた地域。私の実家の家業も、ご多分にもれず、染料の販売会社でした。祖父が立ち上げた会社で、父が二代目として経営にあたっていたのです。当時、足利市の人口は16万人くらいでしたでしょうか。ベビーブーム世代でしたから、1クラス50人で、8組までありましたね。小学校、中学校の同級生たちのほとんどが、繊維産業に従事する親の子ども。私のきょうだいですか? 姉がふたりいる、長男です。姉たちとも一緒に遊びましたし、友だちとも外で元気に遊んでいましたよ。市中を大きな渡良瀬川が流れていましたから、釣りをしたり、泳いだり、石で水切りをしたり。今、私の身長は185センチですが、小さな頃から並び順は一番後ろ。今はもうないかもしれないですが、健康優良児大会なるものがあって、足利市の大会で優勝したこともあるんです。

 また、足利市は歴史に関係する建造物がとても多い街なんですね。近くに、日本最古の学校「足利学校」があったり、足利一族の居宅跡が広大な敷地を有する鑁阿寺(ばんなじ)があったり。鑁阿寺の敷地内には大きな公園もあって、みんなと野球をして遊んだこともいい思い出です。のちに私は無類の歴史小説好きになるのですが、生まれ故郷である足利の環境から、とてもたくさんの影響を受けていると思っています。当時はテレビゲームなんてなかったですから、家での遊びといえば、トランプやカルタ。武将や忍者の戦国武将カードを自分たちでつくって、対戦させるゲームを楽しんだりしていましたね。

 中学では背が高かったこともあって、バスケットボール部に入部しました。それほど強い部ではなかったのですが、気の合う仲間も多く、楽しかったですね。この頃になると、だんだん女性に興味がわいてくるでしょう。女子バスケ部がなかったので、女子部をつくって部員を集め、指導したりしていました。バスケ部の練習よりも、女子部の手伝いのほうがルンルンで楽しかったです(笑)。染料の販売会社を立ち上げた祖父の長男が父、その父が家業を継いでいるわけですから、その長男である自分もいつかこの仕事を継ぐことになるんだろうなと。家族や親せきなど、周りの人たちが発してくる雰囲気から、自然とそんなふうに考えるようになっていきました。

<襟川陽一をつくったルーツ2>
家業を引き継ぐことは将来の決定事項。
大学は自然の流れで商学部を受験

 会社の経営者になるなら、やはり進学校に進んで、大学に行きたいと考えるのは自然の流れですよね。そのとおり高校は、地元の進学校である、栃木県立足利高校へ進むことになります。最初はバスケ部に入りましたが、1年で退部。もうバスケはお腹いっぱいという感じで。2年からは父がやっていたこともあって、剣道部へ鞍替えです。日本の武道を知ることも大事だと思いまして。でも、この剣道部も1年でやめて、次に入ったのが英語部です。なぜかといいますと、隣の女子高と一緒に英語ドラマの練習ができると聞いたから(笑)。その話を知って、すぐさま入部しましたよ。剣道部をやめた理由を父から聞かれ、「英語の成績が上がる」と答えたら、あっさり認めてくれましたね。

 商売人になるわけですから、大学は商学部か経済学部を受けようと思っていました。地元の大学も検討しましたが、やはりマーケティングやビジネスを学ぶなら東京の大学ほうがいいだろうと、早稲田大学と慶応義塾大学の商学部を受験しました。結果は、早稲田が不合格で、慶應が桜咲く。親元から離れるのは初めてで不安ではありましたが、高校卒業後は東京での一人暮らしを始めることになります。ちなみに、下宿先は大学がある日吉で、大家さんのお嬢さんとよくパチンコ屋や雀荘でお会いしていましてね。彼女は当時まだ18歳でしたが、とても活発な女性だったのです(笑)。その数年後、24歳で私は彼女と結婚し、現在は当社の取締役名誉会長を務めています。

  大学に入学した当時は、激しい学生運動が展開されていて、ロックアウトで授業が受けられない日もけっこうありました。私は学生運動にはいっさいかかわらず、音楽活動に明け暮れることになります。本当に音楽と出合ってよかったと思います。運動に参加していたら、今の私はなかったでしょうね。入学してまだ日が浅い頃、キャンパスを歩いていたら、心地よいボサノバが聴こえてきました。その音に引き寄せられるように、ある教室をのぞいたら、すごく素敵な女性がボサノバを歌っていたんですね。「これはかっこいい!」と感動。高校時代からギターにはまっていたこともあって、「K.B.R. society the KALUA」(以下・カルア)というサークルに入部することを決めました。

<音楽活動にのめり込む>
伝説サークルのベーシストとして、
メジャーデビューも経験した本格派

 カルアは、今から6年前に50周年記念を迎えた、慶應義塾の伝統あるジャズボーカルバンドサークルなのです。現在も部員は100人以上いて、私が入部した時も、50人くらいの1年生がオーディションを受けました。最初はギターを志望していたのですが、やはりギターをやりたい人は多いんですね。しかも、みんなアドリブなんか効かせて、ものすごくうまいテクニシャンぞろい。それでも、先輩が務める審査員たちの前で、「もういいよ」とか言われてどんどん落選していく。私の順番は最後のほうだったのですが、名前を呼ばれた瞬間、とっさに「ベースを希望します」と方向転換(笑)。結局、それで何とか、カルアに潜り込むことができたんですね。それからは授業そっちのけで、カルアの活動に明け暮れる日々が始まりました。

 最初はボーヤと呼ばれる、先輩レギュラーバンドのお手伝いからスタート。「タバコ!」と言われたら、すぐさま買いに走ったり。でも、2年からは私もレギュラーバンドのベーシストに抜擢されて、音楽にどんどんのめり込んでいくんです。ダンスパーティやコンサートでの演奏は、本当に楽しかったですよ。東芝からEPとLPを1枚ずつリリースした頃はかなりいい気分でしたね。音楽でけっこう稼がせてもらったし、追っかけの女の子もたくさんいました。でも、自分の才能はね……。上にいけばいくほど、凄い人がたくさんいるわけです。自分はプロとしては長続きしないだろうなと、限界を感じるようになっていきました。そもそも、家業を継がないといけない身ですし。結局、4年になって、カルアの活動からは身を引いています。ただ、音楽は趣味としてずっと続けていますよ。

 そんな大学生でしたからね、成績はひどいものですよ。卒業もぎりぎりだったと思います。大学側も、こんな学生をこれ以上置いておきたくないと、放っぽり出したかったんですよ、きっと(笑)。卒業後は、「まずは他人の家の飯を食って来い」という父の方針に従い、家業の取引先だった化学品専門商社に就職することになります。大阪と東京で、営業職として働きました。この仕事も楽しかったですよ。景気もいい頃でしたから、取引先の方々と、銀座のバーやクラブで夜な夜な接待したりされたり(笑)。銀座が一番華やいでいた時代だったんじゃないでしょうか。10年くらいは、このままこの会社で働くんだろうなと思っていました。家業に入るのは、30歳すぎだろうと。が、入社して4年半がたった頃、突然、父から電話がかかってきたんですよ。「戻ってこい」と。

<家業の倒産>
父の事業を再起させるため自ら起業。
利益確保にもがく中、金脈に出合う

 足利に戻り、家業で働き始めて3カ月がたった頃だったでしょうか、父の会社が倒産しました。国内の繊維産業は、東南アジアの輸入品に押されて、仕事のパイが減少し、収益率もかなり下がっていたんですね。みるみる間に、資金繰りが厳しくなっていくのがわかりました。きっと父は、祖父から受け継いだ大切な会社の最後を、私に見せたかったのだと思います。それから半年くらいは残務整理にいそしむ毎日です。ただ、その作業を続ける中で、失敗の原因が何となくわかってきました。前勤務先の上司からは、「再入社してはどうか」と言ってもらったのですが、せっかく戻ってきたのに経営をやらないのはどうかと。父への対抗心もあったのでしょう、会社経営に挑戦したいという気持ちがむくむくとふくらんでいったのです。そして、28歳の時、「光栄」(のちのコーエー)を設立。業態は、父の時代とまったく同じ、染料の卸販売でした。

 ところが、うまくいかないんです。長年継続してきた父でも、ダメになった事業です。当然ですが、簡単にいくわけがなかった。2年間は赤字続きの逆風状態で、自分の給料も出せないくらいでした。でも、やめようと思ったことは一度もなかったですね。妻の実家が裕福だったので、彼女の貯蓄を取り崩しながらの日々でしたけど(笑)。何とか利益を出す会社にするために、ビジネス書を読みあさったり、経営セミナーに参加したり、どんなに小さなヒントでもいいからつかみたいと、もがき続けていました。そんな頃、行きつけの書店で、ふと目に留まったのが、『月刊マイコン』という雑誌です。当時はパソコンとはいわなかったですからね。プログラミングを覚えれば、財務管理や販売管理を効率化するソフトができる。その雑誌を読んでいるうちに、マイコンが魔法の小箱に思えてきました。どうしてもマイコンがほしくなって、妻に何度も何度も相談していたんですよ。

 サラリーマンの月給が6、7万円の時代に、ほしかったシャープの「MZ-80C」は27万8000円。そのマイコンを、1980年、30歳の誕生日に、妻がプレゼントしてくれたのです。いや、本当に嬉しかったですよ。すぐに、必死になってプログラミングを覚え始めました。最初は、BASICとか機械語(マシン語)でしたね。昼間は財務管理や在庫管理などの業務用システムをつくって社業の効率化を図り、夜は夜で趣味のゲームづくりに没頭していました。最初は簡単な数当てゲームをつくったりする程度でしたが、プログラミングを覚えれば覚えるほど、面白くなっていきましてね。30歳の自分が楽しめる、シミュレーションゲームをつくったらどうだろうと。それで完成させたのが、上杉謙信と武田信玄を闘わせるシミュレーションゲーム「川中島の合戦」。もうひとつが、株式投資が趣味の妻のためにつくった株式投資ゲームです。ふたつとも、自分としてはすごく面白いと感じましたが、その当時はまだ、自分がゲーム制作会社の経営者になるなんて、想像すらしていませんでした。

●次週、「日本を代表するゲームソフト制作メーカーへ!」の後編へ続く→

歴史シミュレーションゲームという新価値を世界へ!
日本を代表するゲームソフト会社の挑戦は続く

<ひょうたんから駒?>
自作ゲームの通販広告に、
届いた現金書留数百通!

 会社を設立したものの、経営状態は悪いままでした。染料の商社ではありましたが、自作の業務用ソフトを知り合いの会社に提供しているうちに、だんだん評判が良くなってきまして。ソフト制作会社に鞍替えしようかと、考えていた頃です。少しでも売り上げの足しになればと思いついて、シミュレーションゲーム「川中島の合戦」の半ページ広告を『月刊マイコン』に掲載して、販売してみることにしました。定価は3800円で、10本くらい売れれば恩の字くらいに考えていました。広告が出てから数日後、郵便局の配達員さんが、段ボール箱を届けにきたんですよ。「なんだろうと」と、最初は何かわからなかったのですが、箱を開けてみてびっくり。何と、数百通もの、現金書留封筒が詰まっていたのです。あの瞬間の感動は、今でもはっきりと思い出すことができます。配達員さんも、かなり驚いていましたから(笑)。

 自宅の応接間のデスクにマイコンを置いた事務所で、ゲームのプログラミング、ダビング、ラッピング、梱包、発送、ユーザーサポートまで、すべて一人でやっていました。もちろん、ものすごく忙しかったですが、楽しさのほうが断然大きかった。何よりも、お客様から直接、手紙が来ることが嬉しかったですね。自分の趣味から生まれたゲームが、商品として全国に広がって、批評も当然ありまたけれど、「とても面白かったよ」と評価もされる。これまで感じたことがない、やりがいが生まれたんですね。事業計画などまったくなく、まさに、ひょうたんから駒のような成功でしたが、これからコンピュータがどんどん世の中に浸透していくことは容易に予想できました。そんな時代背景もあって、染料販売事業から撤退し、完全にゲームソフト制作事業に移行したのです。

 「川中島の合戦」の販売をスタートした2年後の1983年、任天堂さんがファミコン(ファミリーコンピュータ)を発売しました。子どもたちも自宅で簡単にゲームを楽しむ文化が生まれ、ゲームファンのすそ野が広がったことも、当社の追い風となりました。また、私の読みどおり、マイコンが小型化されたパソコンが会社にも家庭へもどんどん普及し始め、さらに好影響が生まれることになります。そして同じく、1983年にリリースしたのが、徹夜続きで完成させた「信長の野望」です。ちなみに、私のペンネームは「シブサワ・コウ」ですが、その名前がクレジットされています。この「信長の野望」が記録的な大ヒット作品となりまして、今でも内容を新しくしながらシリーズ化が続いているロングセラー商品になっています。そうやって、日本のゲーム市場において、「歴史シミュレーション」というゲームジャンルが確立されたわけです。

<ヒット作品を連発!>
新しい面白さを世の中にクリエイトしていく。
これこそが我々の変えてはならない存在意義

 その後、多くのゲームソフトメーカーが誕生しましたが、生き残っているのは数社のみです。当社は設立から長い間、右肩上がりの成長を続けてきましたが、振り返ってみると、ゲーム業界は変化に対応し続けなければいけない、まさに戦国時代のようでした。1991年に株式公開し、それまで開発主体であった自分の仕事も、経営のかじ取りに主軸を移さざるを得ないようになりました。開発3、経営7といった感じだったでしょうか。開発から少し離れるのはさびしかったですが、まあ、経営者としてやるべきことですから仕方ありません(笑)。その後も、「蒼き狼と白き牡鹿」「三國志」「真・三國無双」など、コーエーから大ヒット作品がどんどん生まれますが、常に意識してきたのは、それまでどこにもなかった楽しみを提供できるゲームしかつくらないということ。当社の経営理念は「創造と貢献」ですが、新しい面白さを世の中にクリエイトしていくことが、我々の変えてはならない存在意義だと思っています。

 そして1999年、私は社長をいったん退任し、会長の後、最高顧問の立場となり、経営の第一線から退いています。まあ、言ってみれば好きなゲームづくりしかしない、楽隠居をしたかったのですね(笑)。その間は、シブザワ・コウとして、「信長の野望Online」や「決戦シリーズ」の制作に黙々と取り組んでいました。創業当時と同じように、大好きなゲームづくりに没頭できましたから、納得の充実感を覚える毎日でした。これまでピンチらしいピンチはあまり感じたことはなかったのですが、売り上げ・利益とも低迷している今が最大のピンチでしょうね。2009年にテクモと経営統合し、コーエーテクモホールディングスとなって2年。ゲーム業界を取り巻く様々な変化にしっかり対応し、当社の存在意義をより堅固にするために、再び私が社長として経営のかじ取りをすることになりました。

 競合会社の売り上げベスト10に入ったゲームは、国内外問わず、実際に自分でプレイしてみます。もちろん、エンディングまで頑張ってやるものもありますよ(笑)。今、私は60歳の還暦を迎えていますが、世の中の流行に敏感でいたいので、様々なジャンルの小説や雑誌を読んだり、人気タレントを調べたりと、情報のキャッチアップも怠りません。今大人気のソーシャルゲームも、携帯からグリーやモバゲーにアクセスしてやっています。当社の「100万人の信長の野望」、「100万人の三國志」が中心ですが、それ以外にも6つほどのゲームを、朝30分、昼休みに15分、夜も30分から1時間くらいはやっています。アバターに着せる衣装を買ったり、1秒でも早くゲームで勝つためにいろんな道具を買ったりで、けっこう課金されています(笑)。

<未来へ~コーエーテクモホールディングスが目指すもの>
自分たちの力で世の中に変化を巻き起こす。
そんなゲーム会社に育てていきたい

 マイコンから始まって、パソコン、インターネット、携帯電話、そしてスマートフォンと、ゲームをプレイするためのプラットフォームは目まぐるしく進化してきました。また、1980年代のゲームソフト市場は日本が世界の50%ほどを占めていましたが、今では欧米のシェアに逆転されています。我々の業界を取り巻く様々な変化に、これからも大胆に、柔軟に対応していかなければなりません。現在、当社の海外での売り上げシェアは20%程度ですが、これを早く50%まで持っていきたいと考えています。そのために、テクモが開発した海外で人気の「NINJA GAIDEN」「DEAD OR ALIVE」をさらに後押ししていきます。また、シブザワ・コウとテクモのTeam NINJA初コラボ作品、「仁王」も鋭意制作中です。当社は早くから海外に開発・販売拠点を置いてきましたが、本社のグローバルマーケティング部を拡充させ、世界各国でのファンサイトやSNS構築など、広報・宣伝活動を本格化させているところです。

 今いちばん気になっているのは、2010年12月16日にリリースされる「ガンダム無双3」の販売動向です。50万本は超えてくれるだろうと、その結果を楽しみにしています。また、先ほどもお話しした、ソーシャルゲームへの対応も急務です。「100万人の信長の野望」はリリースしてまだ3カ月ですが、ありがたいことにユーザー数100万人を超えました。その後に出した「100万人の三國志」も同様にものすごい勢いでユーザーが増えています。このソーシャルゲームのユーザー数をできるだけ早く1000万人に持っていきたいのです。そのために、10本くらい新しいソーシャルゲームを投入する計画を立てていますので、こちらもお楽しみに。ユーザー数1000万人が集まるゲームは、それ自体が一つのプラットフォームとして、いろんなことが展開できると思います。ゲーム単独ではなく、テレビなど、他メディアとのコラボも可能になりますからね。

 そうやって時代の変化に一生懸命対応しながらも、自分たち自身が面白いと思える新しい価値を生みだし続けていきたいと思っています。そして、自分たちの力で世の中に変化を起こせるような会社に育てていきたい。今、エンターテインメントを求めている、30代、40代がどんどん増えています。また、スマートフォンが大きな市場に成長していきそうです。30年間、ゲーム開発の仕事を継続してきた、基礎体力と高度な開発力を存分に発揮して、これからも変わらず、ひとりでも多くの方々に楽しんでもらえる素晴らしいゲームをつくっていきます。まあ、目の前にある変化なんて、もう変化じゃないんですよね。来年には、きっとまた予想できない変化が見えてくるでしょう。ただし、変化が大きければ大きいほど、我々のチャンスの幅も広がっていきます。いつだって未来への挑戦が、楽しくて仕方ないのです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業したいと思っている業界や分野の
成長過程や可能性をしっかりと見極めてほしい

 起業は応援したいと思っていますよ。大いに起業への挑戦をエンジョイしてほしいですね。今のところ当社が起業支援、いわゆるインキュベーションに積極的に取り組んではいるわけではないのですけれど。先にもお話ししましたように、現在、コーエーテクモ自体が危機感を強く持っていますので、まずそこを克服して、成長性や収益性がとても高かった体質に早く持っていきたいのです。その当時は、やはり環境の変化に対する対応がとても素早かったですし、また新しいチャレンジをどんどん繰り返すことで、新しい時代を生み出していたという自負がありました。そんな好循環を当たり前にできる組織にしていくことが、今の私に与えられた最優先事項のミッションであると思っています。なので、すみません、まだインキュベーションまでは手が回っていないのです。

 私の場合、起業の経緯が少し特殊ですから、参考になるかどうかわからないですが、マイコンを手に入れてゲームをつくり始めた時、ビジネスとしての成功は別として、コンピュータが世の中にどんどん広がっていくだろう確信が持てていました。皆さんも、起業したいと思っている業界や分野が、今後本当に成長過程にあるのかどうか、しっかりと見極めてほしいです。どうせ勝負するなら、勝ち目が大きいほうがやりがいはありますしね。そうでないと、継続ができませんよね。私が最初に取り組んだ染料の卸販売会社のように、いくら一生懸命やっても空回りしてなかなか成果が上がらないことだってあるのです。やったことに対する成果が小さいと、なかなか頑張ろうとは思えないでしょう。そういった意味でも、できることならこれから伸びゆく業界で勝負をしてくださいとお伝えしたいのです。私の場合は、結果的に偶然うまくいったんですけれど(笑)。

 伸びゆく業界を間違えないためにも、今の時代、パソコンでも携帯電話でも、いくらでも情報にアクセスできますから、情報収集を怠らないことが大切だと思います。ただし、本当に自分が挑戦すべき道なのかどうかの見極めは、勘といいますか、情報をどう読みとるかにかかってくる。私が尊敬する経営者、CSKの創業者・大川功さんは、「将来花開く産業には、かならずその予兆がある。その予兆を逃さずにとらえ、これを命がけで事業化しようとする人に対して、天は時流と使命を与える」とおっしゃっていました。予兆を見つけるのは簡単なことではないですが、シミュレーションゲームの仕事をしていると、その能力が研ぎ澄まされていく感があります。先を予測しながらストーリーをつくり、その結果を持って、何ども反復しながら全体を考える。その未来と過ぎ去った昔の反復作業が、予兆を見つける能力を高めてくれると思うのです。たとえば、年初に発表された業界展望などを、半年後にもう一度解析してみる。そんな作業の継続が、大きなビジネスヒントをつかむ練習になるのではないでしょうか。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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